俺の新しい役職を知った瞬間、部長の顔が血の気を引いて蒼白になった。まさか、という顔で俺の席のネームプレートを凝視している。
そこにはこう書いてあった。「本部長・鈴木浩司」
つまり、これから俺が部長の上司になる。無能な部下だと罵って俺を首にした男を、今度は俺が取りまとめる立場になったのだ。
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2年前、俺は鮫島広告で働いていた。大学在学中に自分で小さな広告業を手がけていたことが評価されての入社だった。ただ、本当の採用理由は別にある。5歳上の兄・優一の存在だ。
優一は同じ鮫島広告で働いていて、新人1年目で車内MVPを取るほどの超エリートだった。「あの優一の弟なら優秀に違いない」という期待のもと、俺は採用された。周りの期待の重圧を感じながらも、働きやすい環境に恵まれて、今の仕事に満足していた。
そんなある日、突然大きな案件が舞い込んできた。近年急成長した海外企業の日本進出第1歩となるプロジェクトだ。予算も大きいが、注目度も大きい。成功すれば得るものも大きいが、失敗すれば地獄を見ることは明らかだった。
話を聞くと、その企業の社長がたまたま俺の担当した広告を見て気に入り、指名してきたのだという。地味な広告だったが、自分でも気に入っていた作品だったので、素直に嬉しかった。俺はそのプロジェクトを引き受けることにした。
それから1ヶ月以上、寝る暇もないほど働いた。チームメンバーも心配するほどだったが、彼らは結束を固めて最後まで一緒に走りきってくれた。体は疲弊していたはずなのに、情熱の方が上回っていて、不思議と疲れは感じなかった。
ついに広告が世間に発表された。反響はすさまじく、即日ネットニュースに取り上げられ、関連動画の再生回数は人気アイドルのPVに匹敵するほどだった。
「これからは自分の努力と実績で自信を持って仕事ができる」
そう思って、俺は久しぶりにゆっくりと眠った。
幸福な気持ちに浸るのも長くは続かなかった。
ある日、突然上司の部長に呼び出された。
「お前は無能だし、明日から来なくていいわ」
急な発言に、俺は状況を飲み込めなかった。俺が無能? つい先日、大きなプロジェクトを成功させたばかりなのに。
「お前には失望したよ。プロジェクトを成功させて調子にでも乗っているのか。お得意様の水島企画との相談をすっぽかすなんて」
水島企画とは確かに鮫島広告と長い付き合いのある会社だ。しかし、部長の言っている件については全く覚えがない。俺は普段から先方との約束は必ず手帳に書き留めるようにしている。約束をしていたなら、絶対に書き忘れるわけがない。
実際に手帳を確認したが、今日は午後からの会議以外は空になっていた。何かの手違いではないかと抗議したが、部長は全く聞き入れなかった。
「とにかくお前はもう首なんだよ。それでしか先方も納得しない」
嘘のような話だが、その日のうちに俺は正式に首になってしまった。
挨拶もないまま首になった俺に、チームメンバーが連絡をくれた。事情を話すと、「浩司さんがそんなことをするはずがない」と庇ってくれ、何かあれば全面協力すると約束してくれた。
さらに、驚くべき事実も教えてもらった。部長の横塚は嫉妬深く、自分よりも若手で活躍する社員がいると嫌がらせをして首にしてきた過去があるという。訴えようとする者もいたが、横塚は他の社員に根回しをしてそれを許さなかったらしい。
どのみち、これほど理不尽な退職のさせ方をする鮫島広告には愛想が尽きていた。俺は今までの経歴を生かして、もっとまともな会社に再就職することに決めた。
狙いを定めたのは日勝通信。規模的にも得意分野的にも鮫島広告のライバルにあたる企業だ。以前から日勝通信の作る広告にはセンスがあると感じていたので、迷わず応募した。そしてすぐに採用通知が届いた。
俺は鮫島広告での理不尽な仕打ちを忘れて、一心不乱に働いた。中途採用だったが、業務内容は以前とあまり変わらず、すぐに職場に馴染めた。日勝通信の社員は皆人当たりが良く、広告への愛情も深い。気づけば、仕事帰りに行きつけの店で他者の広告についての意見を交換し合うことが習慣になっていた。
そんな環境の中で素晴らしい作品が生まれるのは自然なことだった。翌年の広告業界の賞を決める祭典で、俺の所属するチームの作品は激励賞を取ったのだ。激励賞とは審査員によって作品の素晴らしさが認められ、今後の期待も込めて送られる賞だ。普段はあまり注目されない賞だが、今年は違った。
審査員の中の1人、有田なつきが俺たちの作品を絶賛したのである。彼女は今や日本で一番人気のある若手女優で、自ら絵を描く芸術家としても知られている。彼女が「他の作品にはない抜群のアート性を感じた」と述べたことで、一夜にして俺たちの広告作品は有名になった。日勝通信への広告オファーも一気に増え、会社の業績も上がっていった。
そんな時、今でも鮫島広告で働いている兄の優一から連絡が入った。
「日勝通信でのお前の活躍が目立ち始めてから、横塚部長がお前の悪口を言いふらしてるんだよ」
なんでも、数年前に退職した社員のことまで巻き込んで、ありもしない話を流しているらしい。全くの事実無根で、笑いが出てしまうほどだった。
「全部部長の嘘だから心配いらないよ」
そう言って電話を切った。
その数ヶ月後、鮫島広告と日勝通信の九州合併が明らかになった。新しい会社として発足するにあたり、入社後の実績が評価された俺は、ある役職につくことになった。社長から直々に任命され、俺はそれまで以上に仕事に向き合った。
そして新オフィスでの役職者顔合わせの日、もちろん横塚部長もその場に来ていた。
俺を見つけるとすぐにやってきて、あの言葉を吐いた。
「無能な部下の出所か。自分の取引先との約束も忘れちまう奴が、なんでここにいるんだ」
周りの役職者たちがざわつく。部長はニヤニヤと意地悪な顔でこちらを見ている。その表情には2年前と変わらぬ低俗な人間性がありありと現れていた。
「それは事実無根のことです」
「事実無根? よくそんな無責任なことが言えるな」
その忌々しい態度に、俺はつい感情的になった。
「あなたは今まで他の社員にもひどい扱いをしてきたそうじゃないですか? 」
ここまでされるなら黙っていられない。どうせなら重役の面前で今までの悪事を暴いてやろうかと思ったが、部長は「そんな証拠がどこにあるんだ」と白を切る。
そこへ俺たちの険悪なムードに気づいた重役が「君たち、もう席につきたまえ」と促した。俺ははっと我に帰った。確かにこの場で部長とやり合うのは賢明ではない。素直に着席することにした。
部長もブツブツ言いながら自分の席に座る。そして俺の席にある肩書きに気づいた瞬間、顔面蒼白になった。
まさか、と呟くのが聞こえた。
俺の新しい役職は本部長。つまり部長を取りまとめるポストだった。これからは俺が部長の上司になるのだ。少し離れた席からも、部長が大量の汗をかいているのがわかる。その後、よほど堪えたのか、トイレに駆け込む始末だった。
無能な部下はどっちだ。俺は心の中でそう問いかけた。
顔合わせが終了すると、部長は態度を一変させ、すり寄るように俺に話しかけてきた。
「以前から優秀だと思ってましたが、やはり昇進されましたか?

」
俺は文字通り開いた口が塞がらなかった。
「これからは俺がお前の上司だ。今までのことは絶対に忘れないからな。肝に命じておけ」
今までは部下として最低限の礼節を保っていた俺だが、これからは違う。調子に乗っている奴は、上司としてしっかりと管理しないといけない。
俺の表情から凄みを感じ取ったのか、部長は逃げるようにしてその場を去っていった。あんなに慌てて、事故にでも会わないといいが、と思っていると、案の定、左右確認も碌にせずに道路に飛び出した部長は、大型トラックにクラクションを鳴らされて飛び上がっていた。そして誰かに見られていないかキョロキョロと周りを見渡し、俺の視線に気づくとぎょっとして走っていってしまった。
どこまで行っても愚かな人間だ。
それから数日後、俺は本部長として新プロジェクトの最高責任者を任されることになった。この夏にオープンする新規大型レジャーランドの広告だ。そして、何を隠そう、起用タレントはあの有田なつきだった。
絶対に成功させたいという思いで、俺はがむしゃらに働いた。兄の優一とも初めて同じチームで仕事をすることになり、鈴木兄弟のコラボに社内からの期待も高まっていた。
そんな時、意外な出来事が起きた。広告が発表される前日、打ち合わせが終わった後、兄が真剣な表情で頭を下げてきたのだ。
「今までごめん」
一瞬、何のことか分からなかった。
「どうしたんだよ」
「横塚部長に嫌がらせを受けて首になった時、守ってやれなくて申し訳なかった」
話を聞くと、兄は同じ会社にいながら嫌がらせを受ける俺を守れなかったことがずっと心残りだったらしい。自分だけが鮫島広告に残り、周りから心ない兄だと言われたこともあったという。
「そんなこと気にしていないから、大丈夫だよ」
そう答えると、兄は続けた。
「だけど、こうしてまたお前と兄弟で大きな仕事ができたことを本当に嬉しく思っているんだ。これは何かの縁だと思う。これからも兄弟で仲良くやっていこう」
この数年、辛かったのは自分だけではなかったようだ。兄も人知れず思い悩んでいたのだろう。
「もちろん、これからもよろしくな」
俺たちは硬い握手を交わした。
翌日、広告発表の場には多くのマスコミ報道人が押しかけていた。そこへ豪華な着物姿の有田なつきが登場すると、会場が沸いた。
「この夏は、世界で一番忘れられない夏」
彼女のその一声で会場全体にプロジェクションマッピングが施されると、その場にいた誰もが魅了された。会場が様々な色に染まるたび、報道陣からも思わず感嘆の声が漏れる。
俺はその様子を見ながら、鮫島広告を首になってからの今までの努力が全て報われていくのを感じた。ここまで諦めないできてよかった。俺は天を仰ぎ、今日の素晴らしい出来事に心から感謝した。
翌日出社すると、デスクには大きな花束やギフトが山盛りになっていた。今までの俺の努力を見てくれた周りの社員からの祝福だった。中には、鮫島広告時代に一緒に働いたチームメンバーからの花束もあった。
メッセージカードにはこう書いてある。
「浩司さん。いや、本部長、おかえりなさい。僕たちはずっと浩司さんのことを待っていました。これからも信じてついていきます」
俺はそれを読むと、オフィスの隅で肩身を狭くしている横塚部長の元まで向かった。急に近づいてきた俺に恐れを感じて委縮している部長が、取ってつけたような言葉を述べて無理やり笑顔を作ろうとしている。
「あの、この度はプロジェクトが成功して、誠におめでとうございます」
俺は、以前からはっきりさせたいと思っていたことに決着をつけることにした。
「確認したいことがあるんだけど、2年前、俺が先方との約束をすっぽかした件、今でも俺が悪かったと思っているか? 」
部長はそれを聞くと縮み上がり、「滅相もございません」と頭を下げた。
「でも俺はそのせいで首になったんだよな。無能だと罵倒されて。その時の上司は誰だったかな? 」
ギロリと部長を睨みつけると、「すみません、ちょっとトイレに」と姿を消してしまった。
全く、本当に弱いやつだ。
それでも、やっと部長に俺の無実を認めさせることができてよかった。最近では周りの社員も部長の性格にほとほと呆れ始め、すぐに俺の無実はみんなに知られることとなった。さらに部長は何かしでかすたびに、社員たちの冷たい視線を向けられるようになった。部長も薄々それに気づき始め、今更になって部下にすらごまをするというありさまだった。
噂だが、俺の無実を証明するために、兄の優一もかなり裏で努力してくれていたようだ。「命をかけてでも弟を守りたい」と語っていたと聞いて、さすがに照れ臭い。
いずれにしても、悪事はいずれ暴かれるということだ。日頃の行いが自らの首を絞めるという事実に、部長も苦しんでいるだろう。
それから数ヶ月後、合併してから初めての人事移動が行われた。部長はそのずさんな仕事ぶりや卑怯な性格がバレて、平社員に降格になった。プライドを守りたい部長は社長に土下座して人事移動の取り下げを懇願したそうだが、その努力も虚しく終わったのだという。諦めの悪い部長は社長や重役の自宅に高価な贈り物を届けたりもしたそうだが、非常識な行いで余計に火に油を注ぐ状況になってしまった。
何をしても無駄だとようやく理解した部長は無気力状態になり、出勤もままならない状態になってしまったそうだ。そしてついに、先日、見かねた家族らの勧めで退職をしたようだ。家庭は火の車になり、家族関係も最悪の状況になっていると風の噂で聞いた。
一方、俺は本部長としての力量が認められ、担当する広告は毎回ヒットするようになっていた。会社の業績も上昇し、社長からの評価も上場だ。なんと最近では、俺宛に雑誌の取材やドキュメンタリー番組からのオファーも入るようになった。
「未来の広告業界を目指す若者に一言」と問いかけられ、俺は迷わずこう答えた。
「辛いことがあっても諦めないでください。必ず見ていてくれる人がいます。嫌な奴がいても決して負けないでください。必ず正義は勝ちます」
仕事の方も順風満帆だが、私生活でもいいことが続いている。実は来週、結婚することが決まったのだ。
そして結婚相手は、あの有田なつきだ。
俺の広告への情熱や仕事ぶりを見て、彼女の方からアプローチがあり、交際に発展した。まさか自分が国民的女優と結婚をするとは思わなかったが、兄を含めた家族も大いに喜んでくれている。
これからも、もっと充実した日々が続きそうな予感に、俺は胸を躍らせている。


