「あの時、執刀を申し出たのは私でした。神宮寺先生の父親を、自分の手で救うと決めたんです。でも、彼女はまだ知らない。私が誰なのか、そして、10年前に父親の命を救った医者が、この病院にいることを。彼女はいつも私を『覇気のない医師』と軽蔑していた。今はもう、後には引けない。手術室の扉を開けた瞬間、すべてが変わりました。娘の目の前で、父親の胸を開くことになるなんて、想像もしていませんでした。私はただ…

「あの時、執刀を申し出たのは私でした。神宮寺先生の父親を、自分の手で救うと決めたんです。でも、彼女はまだ知らない。私が誰なのか、そして、10年前に父親の命を救った医者が、この病院にいることを。彼女はいつも私を『覇気のない医師』と軽蔑していた。今はもう、後には引けない。手術室の扉を開けた瞬間、すべてが変わりました。娘の目の前で、父親の胸を開くことになるなんて、想像もしていませんでした。私はただ...

カンファレンスルームの空気は、朝から張り詰めていた。前に立つのは神宮寺さえ、38歳。心臓血管外科のエースだ。白い襟元まで隙がなく、髪をきっちり一つにまとめている。彼女が口を開くたびに、室内の空気がさらに締まるのが分かる。

「次、火山先生の担当症例についてお願いします」

名前を呼ばれて、俺は紙コップを置いた。画面に映し出されたのは、先週俺が担当した患者のデータだ。

「術式の選択ですが、なぜこの方法を取らなかったんですか? 文献的にも成功率が高く、術後の合併症リスクも低いはずです」

穏やかな言い方だったが、言葉の端々に棘がある。若手の健太がちらりとこちらを振り返った。

「患者さんの年齢と既往歴を考慮しました。標準術式ではなく、負担の少ない方を選んだだけです」

「結果論ですよね。リスクを取らずに済むなら、それが最善とは限りません」

「ええ、そうかもしれません」

俺はそれだけ言って口を閉じた。反論する材料はあった。だが、口にしなかった。

俺の名前は火山竜平。45歳。この中央合同病院に来て、もう2年になる。院内での評判は、決していいものではない。「覇気がない」「消極的だ」「難しい症例から逃げる」――そんな噂が耳に入ってこないわけではない。だが俺は何も弁解しなかった。

「火山先生、あなたの判断にはいつも真剣味がない。患者さんはあなたを信じて命を預けているんです」

「肝に銘じます」

さえはわずかに眉をひそめ、次の症例へと話を進めた。カンファレンスが終わると、健太が小走りに寄ってきた。

「火山先生、神宮寺先生、今日はまた厳しかったですね」

「いつものことだ。気にするな」

「でも、火山先生の判断、僕は間違ってないと思いますよ」

俺は曖昧に笑って、彼の肩を軽く叩いた。廊下に出ると、看護師長の高坂とすれ違った。

「火山先生、お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

高坂は何か言いたげな顔をしたが、口を開かずに通り過ぎていった。

医局に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。英語の差出人名、海外医療団体のロゴ。俺は封書を手に取り、しばらく見つめた。開けるつもりはなかった。中身はおそらく検討がついている。協力要請、あるいは現地復帰の打診。俺はその封書をロッカーの奥に押し込んだ。奥には同じような封書が何通も眠っている。全て未開封のままだ。

ロッカーの扉を閉めようとした時、背後に気配がした。振り返ると、高坂が立っていた。

「随分たくさん溜まっているんですね」

「ああ、これは古いものです」

「そうですか」

彼女はそれ以上何も聞かなかった。高坂がいつから気づいていたのか分からない。ただ、この看護師長は人を見抜く目を持っている。

午後、医局に新しい風が吹いていた。心臓血管外科に新しく招かれた医師、立花義春。40歳。論文も多数、海外での受賞歴もある。手技が高く、笑顔は爽やかで、白衣の着こなしまで様になっている。

「初めまして、立花義春です。今日から皆さんと一緒に働かせていただきます」

医局に響く声はよく通る。若手の医師たちが目を輝かせて彼を取り囲んだ。健太も例外ではない。さえは立花に挨拶をしながら、わずかに表情を緩めた。彼女がそんな顔をするのを、俺は初めて見たかもしれない。

「神宮寺先生のお噂は以前から伺っていました。お会いできて光栄です」

「こちらこそ。立花先生のご活躍は、学会でも有名ですから」

二人は自然と並んで歩き出した。廊下の窓から差し込む光が、彼らを照らしている。「お似合いだ」と、若手の誰かが小声で呟いた。俺はその声を聞きながら、自分のデスクに戻った。外科部長の久保が満足そうに頷いているのが見えた。

「立花先生が来てくれて、うちの外科もますます強くなる。火山先生、君も立花先生から学ぶことは多いと思うよ」

「ええ、そう思います」

久保は俺の肩を叩き、立花の方へと歩いていった。

その週の終わりに、神宮寺順一が入院した。元名誉院長、さえの父親。75歳になった今も、背筋を伸ばして歩く人だ。定期検査での入院だと、久保が朝の申し送りで告げた。病室は特別室。窓からは中庭の桜の木が見える。

俺は担当ではなかったが、廊下を通りかかった時に、開いたドアの隙間から中の様子が見えた。ベッドに座った順一が、さえに何かを話している。

「お父さん、検査の前は安静にしててって言ったでしょ」

「さえ、お前は医者の前に娘だろ。父親の見舞い顔をするな」

「私は今、担当医として話してるの」

「そうか」

順一は穏やかに笑った。さえの声には、いつものような硬さがなかった。順一の名前は俺もよく知っている。だが、彼と俺の繋がりをさえは知らない。知らせるつもりも、今のところはない。

俺はナースステーションにより、順一のカルテを少しだけ確認した。血液データ、心電図、画像所見。一通り目を通して、俺は息を吐いた。数値は悪くないが、心臓の影に引っかかるものがある。高坂が横から覗き込んだ。

「気になりますか? 火山先生」

「いえ、担当の先生がついておられますから」

「そうですか」

彼女は何かを言いかけて、やめた。

夕方、俺は屋上に上がった。夕日が病院の白い壁を赤く染めている。胸ポケットから古い手帳を取り出した。革の表紙はくたびれて、角がすり切れている。数年前のページに走り書きが残っている。日付と現地の村の名前。そして、一人の男性の名前が記されている。

――順一。

あの時の約束を、俺はまだ覚えている。語ることはない。俺は手帳を閉じ、ポケットにしまった。風が冷たい。桜のつぼみがまだ固く閉じている。順一のカルテの数値だけが、俺の頭の片隅に残っていた。あの影がただの影で終わればいい。願いながら、俺は屋上の扉に手をかけた。

それは月曜日の朝のことだった。緊急コール。特別病棟、神宮寺順一の名前が館内放送で短く流れる。俺は白衣の襟を直し、足早にナースステーションへ向かった。人だかりの中心に、さえの白衣が見えた。彼女は父親のモニターを睨みつけ、手早く指示を出している。

「血圧、もう一度測って。心電図の波形を出して。久保先生を呼んでください」

看護師たちが動き出した。俺は廊下の隅に立ち、ただその光景を見ていた。外科部長の久保がやってきたのは、それから10分後のことだ。

「状態はどうなっている? 」

「不整脈と血圧低下。画像で大動脈に拡張が見られます。先週から疑っていたものが現実になりました」

「これは手術しかないな」

「ええ、早急に」

久保は腕を組み、しばらく天井を見上げた。彼の頭の中ではすでに計算が始まっているのだろう。誰が執刀するか、成功率はどれくらいか、病院の信用、家族への説明、リスク管理。

「立花先生に頼もう」

「私もその方がいいと思います。父の状態を考えれば、立花先生が最適です」

立花義春は、その日の午後には症例に加わった。彼は画像を一通り眺め、自信に満ちた表情で頷いた。

「難易度は高いですが、私の専門領域です。お引き受けしましょう」

久保が満足そうに笑った。

「神宮寺先生、ご安心ください」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

さえの声には、すがるような響きがあった。俺は検討室の片隅で、画像をじっと見ていた。大動脈起始部の拡張。それに加えて、解離の影。角度が悪い。血管の走行も、教科書通りではない。健太が小声で話しかけてきた。

「火山先生、立花先生なら大丈夫ですよね」

「ああ、立花先生は実力のある医師だ。任せておけばいい」

「ですよね。神宮寺先生も少し安心したみたいでしたし」

俺は曖昧に頷いただけだった。画像の中の影が、俺の頭から離れない。あれはただの解離ではないかもしれない。だが、俺は何も口にしなかった。傍観者でいることが、俺の役目だ。

夕方、俺は廊下でさえとすれ違った。彼女は俺に気づくと、立ち止まって軽く頭を下げた。

「火山先生、父のこと、お騒がせしています」

「お父様のご回復をお祈りしています。立花先生がついておられるなら、心配はいらないでしょう」

「ええ、そう信じています」

彼女は小さく微笑んだ。

手術前日の夕方。追加の造影検査の結果が揃ったと、放射線科から連絡が入った。立花が画像を開いた瞬間、彼の表情がわずかに固まったのが分かった。

「これは……どうしたんだ、立花先生?

Thumbnail

「冠状動脈に想定外の狭窄があります。それも複数。大動脈の手術と同時にこちらも処理しないと、術中に心筋虚血を起こす可能性が高い」

医局の空気が、すっと冷えた。さえは画面に駆け寄り、画像を食い入るように見つめた。彼女の指先がわずかに震えているのが見える。俺は離れた席から、その後ろ姿を見ていた。

立花はしばらく無言だった。画像を何度も拡大し、角度を変え、計測を繰り返した。やがて彼は深く息を吐いた。

「久保先生、申し訳ありません。私にはこの症例の執刀はお引き受けできません」

「立花先生、それは……」

「冷静に判断させてください。私の技術と経験で、これだけの合併症リスクを抱えた症例を引き受けることは、患者さんのためになりません。無理をして失敗すれば、取り返しがつかない」

合理的な判断だった。医師として、責任ある態度だ。だが、さえの顔から血の気が引いていくのがはっきりと見えた。さえは立花に詰め寄った。

「立花先生、待ってください。父はもう時間がないんです。他に誰がやれるんですか? 」

「神宮寺先生、お気持ちは分かります。ですが、私は無責任なことはできません」

「無責任なのは、引き受けた後で投げ出すことじゃないんですか? 」

立花は静かに首を振った。

「今引くことが、私にできる最も誠実な判断です」

さえは何かを言いかけたが、言葉が出てこなかった。久保が間に入った。

「神宮寺先生、落ち着きなさい。他の病院に転院を打診する手もある」

「転院している時間なんてありません。父の状態をご存知でしょう」

「だが、ここで執刀できる者がいない以上、仕方がないだろう」

沈黙が落ちた。医局の壁時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。俺は窓の外を見ていた。夕日が医局の床に長い影を落としている。

その時、さえが口を開いた。

「それなら、私がやります」

全員が彼女を見た。

「父の執刀は、私が引き受けます」

久保が声を潜めた。

「神宮寺先生、君は家族だ。執刀は避けるべきだろう」

「他に誰がいるんですか? 私がやらなければ、父は助かりません」

「冷静になりなさい」

「冷静ですよ。これ以上、冷静な判断はありません」

彼女の声は震えていなかった。

その夜、俺は屋上にいた。冬の終わりの風が、頬を切るように冷たい。桜のつぼみはまだ硬いまま。俺は手帳をポケットから取り出し、開いた。数年前のページ。あの村の名前。神宮寺順一の名前。俺は指でその文字をなぞった。

背後で、扉の開く音がした。振り返ると、高坂が立っていた。彼女は黙ったまま俺の隣に来て、夜空を見上げた。

「神宮寺先生、執刀すると言い張っていますね」

「ええ、聞きました」

「お父様の手術を、娘が執刀する。普通は止めるんです。でも、止められる人がいない」

俺は何も答えなかった。

「火山先生、あなたなら、あの症例、どう執刀しますか?

俺は彼女の方を見た。全てを見抜いている目だった。

「高坂さん、あなたは……」

「私はね、火山先生。あなたがこの病院に来た日から、何かが違うと思っていました。手の動き、患者を見る目、判断の速さ。覇気がないんじゃない。あなたは何かを抑えている」

「買いかぶりですよ」

「そうでしょうか」

彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ夜空を見上げたまま、静かに立っていた。

「あの娘さんを見ていられますか? 父親の体を、自分の手で開く娘を」

俺は答えなかった。扉が閉まった。俺は一人、屋上に残された。

俺は目を閉じた。あの村の景色が、瞼の裏に蘇る。土埃の舞う野戦のような医療現場。血と消毒液の匂い。そして、ベッドの上で俺の手を握り、こう言った男の顔。

「先生。私の娘も、いつか医者になります。もしあの子が困っていたら、その時はどうか助けてやってください」

俺はあの時、ただ頷いた。口に出した約束ではなかった。だが、約束は約束だ。俺は手帳を閉じ、ポケットに戻した。胸の奥で、長く眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ましていく。

冷たい風の中で、俺は深く息を吸い込んだ。医局の前を通り、ロッカーを開けた。奥に押し込んでいた封書を、一通取り出した。英語の差出人。俺はそれを机の上に置いた。開封はしない。だが、もう奥に隠す必要もない。そんな気がした。

さえが一人、カンファレンスルームで画像を見ているのが、ガラス越しに見えた。俺はそのドアの前に立ち、ノブに手をかけた。そして、ゆっくりと扉を開けた。

蛍光灯が、さえの白衣を青白く照らしていた。彼女はモニターの前に座り、父親の画像を食い入るように見つめている。俺が扉を開けても、振り返らなかった。俺はゆっくりと彼女の隣の席まで歩き、画像を覗き込んだ。

「神宮寺先生」

さえはようやく顔を上げた。

「火山先生、何か? 」

「執刀は、私がやります」

彼女の目が、ゆっくりと見開かれた。

「何をおっしゃってるんですか? 」

「言葉の通りです。私が、お父様の手術を執刀します」

さえはしばらく声を出せなかった。

「火山先生、これは遊びではないんです。父の命がかかっているんですよ」

「分かっています。だからこそ、私がやります」

俺は画像の一点を指した。

「ここの解離の見え方が独特です。アプローチを変えれば、冠状動脈の処理も同時にできる。立花先生が引いたのは正しい判断です。だが、引かなくていい方法もある」

さえは俺の指の先を見つめた。そして、俺の顔を見た。

「あなたは、一体……」

「説明は後でします。今は時間がない」

俺はそう言って立ち上がった。扉の外には、いつの間にか久保と高坂が立っていた。

「火山先生、本気か?

「本気です。久保先生、執刀の許可をお願いします」

「君にできるのか? 」

「できます」

久保はしばらく俺の顔を見つめていた。やがて深く息を吐き、頷いた。

「分かった。責任は私も取る」

高坂が静かに俺の前に進み出た。

「手術室、整えます。第一助手は誰に? 」

「神宮寺先生にお願いします」

さえがはっと顔を上げた。

「あなたに見ていて欲しい。お父様の体を、自分の目で」

さえは唇を結び、強く頷いた。

「お願いします。火山先生」

手術室の中は、いつもと同じ匂いがした。消毒液と、張り詰めた空気。俺はメスを受け取り、順一の胸の上に視線を落とした。俺の手は迷わなかった。全てが、指先に伝わってくる。あの村で、限られた機材と限られた時間の中で、何百と繰り返した感覚だ。

立花も手術室に入ってきた。彼は無言で、俺の手元を見ていた。途中、立花が小さく唸るのが聞こえた。

「こんな取り方、あるのか? 」

さえは第一助手として、俺の隣に立っていた。俺が出す指示に、一つ一つ正確に答えていく。全てが、流れるように進んでいた。

最後の縫合を終えた。俺はマスクを下ろし、順一の顔を見た。穏やかな顔だった。あの村で見た顔と、同じだった。

順一が一般病室に戻ったのは、術後5日目のことだった。病室から、さえの声が聞こえて、足を止めた。ドアはわずかに開いていた。

「ねえ、ちょっとこっちに座りなさい」

「お父さん、まだ無理しないで」

「無理じゃない。話しておかなきゃいけないことがある」

さえがベッドの脇の椅子に腰を下ろす気配がした。

「執刀してくれたのは、火山先生だそうだな」

「ええ、そう。お父さん、私、本当に驚いたの。あの方が、あんな技術を持っていたなんて」

「驚いただろうな。お前は何も知らなかったんだから」

「どういうこと?

順一はゆっくりと話し始めた。

「お前は覚えているか? 私が10年ほど前、海外の医療支援団体の支援に行って、現地で倒れたことを」

「ええ、覚えてる。命を落としかけたって」

「あの時、私を助けてくれた医師がいる。その人は、限られた機材で、不可能と言われた手術をやってのけた。私の命をつないでくれた」

「お父さん、それって……」

「火山竜平先生だ」

廊下に立ち尽くした俺の耳に、さえが息を飲む音が届いた。

「どうして教えてくれなかったの? 」

「あの人に頼まれたんだ。娘には言わないでくれと。自分は普通の医師として、この病院で働きたいと」

「でも、なぜ……なぜ隠す必要が」

「あの人なりの覚悟だろう。海外で名を馳せた医師という肩書きが、現場では邪魔になることもある。それに、お前と接する時に、その肩書きが間に入るのを嫌ったのかもしれん」

順一は小さく笑った。

「この病院に火山先生が来たのも、私が紹介したからだ。あの人に、もう一度医師として歩いて欲しくてな。それも、お前には言わずにおいた」

「お父さん……」

「すまんかったな。だが、お前があの人をどう見るか、それはお前自身に決めて欲しかった」

俺はそれ以上聞いていられず、廊下を静かに歩き出した。背後で、さえの小さな啜り泣きが聞こえた気がした。

ナースステーションの前で、高坂が立っていた。彼女は俺を見て、ただ静かに微笑んだ。

「いいご家族ですね。神宮寺先生のご家族は」

「ええ、本当に」

「先生、ロッカーの封書、開けてみる気になりましたか? 」

「ええ、そろそろ開けてみようと思っています」

窓の外の桜のつぼみを見上げた。一輪、もう開きかけているものがある。

その日の夕方、俺が屋上に上がると、さえが立っていた。俺が近づくと、彼女はゆっくりと振り返った。

「火山先生、すみません。父から、全部聞きました」

「お父様、お元気そうで何よりです」

「私、ずっとあなたに失礼な態度を取っていました。覇気がないとか、真剣味がないとか、あんなこと。あなたは医師として正しいことを言っていただけです」

「気にしていません」

さえは首を振った。

「いえ、私はあなたの何も見えていなかった。父の命を救ってくれた人なのに、私はずっと……」

彼女の声が途切れた。一筋の涙が伝った。俺は何も言わずに、彼女の隣に立った。夕日が、二人の影を屋上の床に長く伸ばしている。

「教えてください。なぜ、あの時引き受けてくれたんですか?

「あなたが執刀すると言った時の顔を見たからです」

「私の顔」

「あれは医師の顔じゃなかった。娘の顔でした。父親を自分の手で失うかもしれない、娘の顔。あれを見ていられなかった」

さえの頬に、また涙が伝った。

「それに、あなたのお父様と昔、約束をしたんです。あなたが困っていたら、助けてやってくれと」

「父が、そんなこと」

「ええ。口に出した約束ではありませんが、約束は約束です」

数ヶ月後、桜はとっくに散り、青葉の季節になっていた。俺は医局のロッカーから、あの封書を取り出した。机の前に座ったさえが、こちらを見て微笑んだ。氷の女と呼ばれていた頃の硬さは、もうどこにもなかった。

「開けてみましょう。二人で」

「ええ」

封を切ると、英文の手紙が滑り出した。あの村からの、再びの協力要請だった。俺はさえの顔を見た。さえは迷いのない目で頷いた。

「行きましょう。二人で」

「いいんですか? 」

「父も、きっとそれを望んでいます。それに、私もあなたの隣で見たいんです。あなたが本当にいた場所」

俺は彼女の手を、そっと握った。窓の外で、若い葉が風に揺れていた。廊下を歩いてきた高坂が、小さく頷いた。彼女は誰にともなく、独り言のように呟いた。

「やっと笑いましたね。神宮寺先生」

俺の手の中で、さえの指が温かかった。窓の外を、白い雲がゆっくりと流れていく。