「我が社の社員で、高卒はお前だけ。余計なんだよ」――三十四年間、会社の基盤システムを一手に支えてきた俺に、部長は早期退職を迫った。報告書など読んだこともない、と笑いながら。俺は黙って合意書に判を押した。退職金に上乗せがあるという条件つきの、あの紙に。だが、約束の日を過ぎても、上乗せ分は一銭も振り込まれない。経理は言った、「支払い依頼書が、こちらには回ってきていません」と。そして一週間後、後任…

「我が社の社員で、高卒はお前だけ。余計なんだよ」――三十四年間、会社の基盤システムを一手に支えてきた俺に、部長は早期退職を迫った。報告書など読んだこともない、と笑いながら。俺は黙って合意書に判を押した。退職金に上乗せがあるという条件つきの、あの紙に。だが、約束の日を過ぎても、上乗せ分は一銭も振り込まれない。経理は言った、「支払い依頼書が、こちらには回ってきていません」と。そして一週間後、後任...

藤巻部長は、滑るように一枚の書類をテーブルに置いた。「早期退職対象者一覧」と書かれた紙には、社員番号だけが並んでいる。上から三番目に、俺の番号があった。

西島、五十二歳。高校を出てすぐこの食品問屋に就職し、三十四年になる。俺の仕事は、注文から在庫、請求書のやり取りまでを一手に担う基盤システムの管理だ。入社した頃から倉庫の隅で動いていたこのシステムは、取引の実態に合わせて何度も改造を重ねてきた。だから、固有の癖がある。決められた順番を守らなければ、データを取りこぼしてしまうのだ。

それを教えてくれたのは、先輩の香川だった。「これは実際に手を動かして覚えるしかない」と、夜中の機械室に何度も俺を立たせた。俺は体で覚えた。その香川が、リストラで会社を去って四年になる。

香川が辞めることになった夜、電話をもらった。希望退職の募集が出て、名指しで退職を進められたという。同業のライバル会社で働かない見返りとして、退職金に上乗せを払うという内容の書面にサインをしていたそうだ。業界ではよくあるルールだ。最後の日、香川は黙って席を片付け、さり際に俺の肩を一度だけ叩いていった。「任せたぞ」と言われた気がした。

問題が起きたのは、その後すぐだ。知り合いに頼まれ、香川は月に何度かよその倉庫の在庫の付け方に手を貸すようになった。それを聞きつけた会社から、約束を破ったのではないかという書面が届く。相談を受けた俺は、労働相談の窓口まで一緒に行った。職員に問われたのは、こういうことだった。「上乗せ分は、実際に払われていましたか?」

香川に書面を見せてもらうと、そこには通常の退職金だけが記されていた。上乗せは一円も入っていない。先に約束を破ったのは、会社の方だったのだ。香川は金を請求しなかった。受け取れば、約束は生き返り、倉庫へ通えなくなる。香川が選んだのは、金ではなく自由だった。その事実だけを書き添えて書面を送り返すと、会社からの圧力はそれきり途えた。

「会社が差し出す紙を、字面だけで信じてはいけない」

俺はこの一連の経緯を、全て手帳に書き留めた。その手帳は、今も机の引き出しに入っている。

香川が去って以来、担当者は補充されず、このシステムを見ているのは俺だけになった。だが、俺がいない時に誰も対応できなくては困る。だから俺は、システムの癖や対応について気づいたことを、逐一書面にしてきた。報告書は二部出す。原本は会社の資料へ。決裁の判を押した控えは提出者へ戻る。それがこの会社の昔ながらの決まりだった。戻ってきた控えには、折り目も指の跡もついていない。見ていないことは分かっていたが、それでも出し続けた。

担当が俺一人のまま四年が過ぎた春。新しい社長が就任する。新社長は、就任早々、人件費の見直しを打ち出した。株主に対し、決算の数字をよく見せたいのだろう。給料の高い古株から手をつけるという噂は、社内にすでに広がっていた。そして、そのリストの一人に俺は選ばれてしまった。

呼び出されたのは、システム部長の藤巻が待つ小さな会議室だった。藤巻は三年前に本社から来た男だ。企画畑を歩き、現場に立ったことはほとんどないと聞いている。この三年、俺が現場からあげた報告について、藤巻から何か言われたことは一度もない。おそらく、読んでもいないのだろう。

俺が会議室に入って腰を下ろすと、藤巻は何の前置きもなく言った。

「社長は生産性に見合わない人件費を削れと指示を出しています。年齢で給料だけ高い人間から手をつけるのは、経営として当然です」

藤巻はそこで言葉を切り、舐めるように俺を見た。

「我が社の社員で、高卒はお前だけ。意味わかるよね。余計なんだよ。大体、システムの管理なんて、マニュアルさえ整っていれば誰にでもできる仕事でしょ。ああ、あんたが出し続けていた報告書ね。あんなもの、読んでいませんよ。正規の説明書があるのに、現場が勝手に書いた紙を読む理由がない。今時は若い人の方が飲み込みも早いしね」

拳を握った手のひらに、爪が食い込んだ。三十四年書き続けてきた言葉は、この男の中では初めから存在していなかったのだ。

続けて、二枚目が置かれた。退職に同意するための合意書だった。藤巻はその紙面に目を落としもしない。

「うちが作った雛形ですから、どこの会社も同じ文ですよ。下の方に名前を書いて、判を押してくれれば結構です」

差し出す紙の中身すら、藤巻は確かめようとしない。俺の報告書も、同じ扱いを受けてきたに違いなかった。

俺は黙って文面に目を通した。同業の会社で働くことを制限する一文があり、その代わりに退職金へ上乗せが加算されると記されている。上乗せ分は俺の基本給のおよそ一年分だ。支払いは退職の日から五日以内、猶予日までに、と記載されていた。用紙の下端にはもう一つ欄がある。『本人に内容を説明し、同意を得たことを確かめた者が判を捺す』というものだ。そこには、藤巻の名前が記されていた。香川の時に見せてもらった書類と同じ作りだ。会社が名指しで人を切る時にだけ出てくる合意書。

その欄の下に、さらに細かい字で一文が添えてある。『この欄に判を押した所属長が、上乗せ分の支払い依頼を経理へ回す』と。基本分の退職金は総務の手続きで自動的に払われる。だが、上乗せ分は、この合意書で初めて生まれる金だ。判を押した所属長が依頼を回さない限り、経理はその存在すら知らない。香川の時に、窓口の職員から聞いた話が蘇る。『上乗せ分が払われなければ、約束は成り立たないことがあります』。

俺が黙って判を押せば、三年間俺の報告を読まなかったこの男は、きっと支払い依頼を回さず、問題を起こすだろう。だが、読む機会はこの男にも与えるべきだ。この先を知っているのに知らせず判を押すのは、筋が違う。

俺は顔を上げ、藤巻に問うた。

「本当に、いいんですね?」

藤巻には、未練がましい抵抗としか映っていないようだった。

「今更何を言ってるんですか? さっさとサインしてくださいよ」

立てた声で催促する藤巻を前に、俺はそれ以上何も言わなかった。言うべきことは、何年も前から書面で伝えてある。それを読まなかったのは、この男だ。ペンを取り、名前を書き、判を押した。書類を受け取った藤巻は、これで面倒が片付いたとばかりに満足げな表情を浮かべている。俺は合意書の控えを鞄にしまい、その日のうちに私物をまとめ、会社を後にした。

退職から三日目の朝、郵便受けに一通の封筒が届いていた。差出人は、辞めた会社の経理部だ。中の振り込み明細をテーブルに広げ、指先で一行ずつ欄をなぞっていく。務めた年数に見合う退職金は確かにある。だが、上乗せ分の項目が見当たらない。合意書の控えと突き合わせる。支払いは退職の日から五日以内のはずだが、猶予日を待つまでもなく、金額の欄そのものが存在しない。

俺は経理に電話を入れた。上乗せ分について尋ねると、相手は書類を探す音の後で、こう答えた。

「支払い依頼書が、こちらには回ってきていません」

依頼書がなければ、経理は動けない。回す役目は藤巻にある。あの男は、読まないまま『説明した』という欄に判を押したのだ。

数日後、携帯が鳴った。システムが不調を起こすたびに夜中でも駆けつけてくれた保守業者の番号だ。俺が会社を辞めたことを聞きつけ、「これからも続ける気があるなら、うちで力を貸して欲しい」という。俺の腕を買っての話だと分かった。惜しい話だが、その仕事の中身は同業と見なされかねないものだった。上乗せ分が振り込まれていない以上、あの約束は成り立たないかもしれない。だが、それは会社に正式に請求し、答えを見てから決めることだ。確かめもせずに自分に都合よく解釈して動く。それでは、読まずに判を押すのと同じになる。幸い、基本分の退職金は手元にある。慌てて動く理由はどこにもなかった。俺はしばらく考えた後、その話を断った。

電話を切る間際、相手は一つだけ気になることを口にした。

「あの会社との保守契約は、先日打ち切られていますよ」

切られた日付は、俺が判を押したその日だった。通知はシステム部長の名前で届き、経費の見直しが理由だと書かれていたという。俺を切ると決めたその日に、藤巻は業者との縁も一緒に切ったのだ。夜中に機械が止まっても、もう駆けつける者はいなくなったということだ。

退職から一週間が経った夜、俺の携帯が鳴る。画面に出ていたのは、後任としてシステムを任されたはずの園田の名前だった。

「西島さん、すみません。こんな時間に」

園田の声は上ずっていた。

「システムがデータを受け付けなくなっていて、夜間の集計が全く動いていないんです」

その一言で、頭の中に一本の道筋が浮かんだ。締めを回す部分は、あのシステムでも特に古い部分だ。在庫の締めを先に流すと、機械の中で商品ごとの数が確定する。伝票は、その確定した数と突き合わせて初めて意味を持つ。だから順番は、在庫が先、伝票が後。逆に流せば、伝票は照らし合わせる相手を失い、中に浮く。厄介なのは、そこでエラーの一つも出ないことだ。画面の上では何事もなかったように処理が進んでいく。だが、機械の腹の中では、行き場を失った伝票が音もなく積み上がっていく。説明書のどのページにも書かれていない。夜中の機械室で香川と二人、伝票を一枚ずつ流しながら突き止めた癖だ。今起きているのは、まさにそれだった。

俺は締めの順番をその場で伝えた。

「その順でやっていたか?」

返事が帰ってくるまでに、間があった。

「知りませんでした。伝票の方から先に流しています。画面には何も出なかったので、それで正しいものだと」

引き継ぎは一日もなかった。園田を攻める筋合いはない。取りこぼした伝票は消えるわけじゃない。機械の中の、行き場のない列に溜まっていく。溜まった分を一件ずつ拾い直して、正しい順で入れ直さない限り、締めの処理は先へ進まない。

「一週間分ですか?」

園田は、絶望的な声を出した。食品問屋の伝票は、一日で数百件が動く。一週間なら、その数倍がそのまま溜まっている。拾い直しは単純な作業じゃない。どの伝票がどの順で入るはずだったか、一件ずつ確かめながら戻していく。何日も機械の前に座ることになる。

「その手順を、教えてもらえませんか?」

今この場で口で言ってできるものじゃない。だが、手がかりならある。俺が在職中にあげていた報告書だ。システム部の資料棚に、年度ごとに閉じてある。締めの順番も、取りこぼした時の戻し方も、気づいたそばから書いて出してきた。あれを頼りにすれば、時間はかかっても糸口はつかめるはずだ。

園田は一旦電話を置いた。戻ってきた声は、硬かった。

「どこにも見当たりません。先輩に聞いたら、西島さんが辞めた直後に藤巻部長の指示で処分したと」

『処分』という言葉が、夜の静けさにはっきりと耳に残る。最も、あの報告書があったところで、伝票を一件ずつ見分ける感覚までは、書面にかける類いのことではなかった。

「西島さん、会社に来てもらえませんか?」

俺はもう社員じゃない。機械に触る権限もない。辞めた人間が勝手に入れる部屋でもないだろう。だが、会社が正式に頼めばいい。それを決められるのは、さっきから後ろで怒鳴っている男だ。電話の向こうでは、さっきから「自分でなんとかしろ」と殿様のように吠える藤巻の声がしていた。

「その人だ。君にできるのは、ここまでだ」

言い終えてから、口の中に苦いものが残った。

「落ち着いたらで構いません。このシステムの仕組みのことを、教えてもらえませんか?」

その声は切実だった。

「機会があればな」

そう答えるしかなかった。

それから間もなく、会社の代表番号から着信が入った。藤巻だろう。俺はその日は鳴るに任せて出なかった。翌日、もう何度目かも分からない着信で、俺は通話ボタンを押した。

「西島さん、あんた何のつもりですか?」

聞こえてきたのは、藤巻の怒声だった。

「システムが止まってるんです。今すぐ会社に来て対応してください」

「お断りします。ただし、私に話があるなら、こちらから指定する場所でお願いします」

荒い息の後、「分かった」と低い声が返ってきた。

場所は、自宅の裏の小さな公園を指定する。翌日の夕方、俺は約束の時刻より早くベンチに着いた。持参したのは写しだけだ。手元の控えは家に置いてきた。

やがて、藤巻が近づいてくる。苛立ちを隠そうともしない歩き方だった。藤巻は、挨拶もなく切り出した。

「辞めた途端にこれだ。引き継ぎを握りつぶして出ていったんだろう。どっかの同業に話をつけてあったんじゃないのか。誓約を破った上に、会社の仕事を止めた。訴えることも考えていますよ」

「いえ、業者からの誘いならお断りしました」

藤巻の足が止まる。

「辞めて何日も経たないうちに、力を貸して欲しいと言われたのは事実です。ですが、断ったのは私です」

「断った? なぜだ?」

「合意書にある上乗せ分が、猶予日を過ぎても一銭も振り込まれていないからです」

「何の話をしている?」

藤巻の顔に、本物の戸惑いが浮かんでいた。

「四年前、この会社は同じ揉め事を起こしています。過去の事例を参照すれば、私は同業へ移ってもとがめられない立場でしょう。ですが、それは会社に請求し、答えを聞いてから決めるべきことです。確かめもせず自分に都合よく動くのは、読まずに判を押すのと同じですから」

「上乗せなど、あの合意書のどこにも書いていない」

その声に迷いはなかった。この男は、本当に読んでいなかったのだ。俺は封筒から合意書の写しを抜き、ベンチに置いた。

「この行です。金額も、支払い期日も書いてある。その下には、『内容を説明した』と確認したあなたの判。そして判の真下に、『判を押した所属長が上乗せ分の支払い依頼を経理へ回す』と書いてある。私は経理に確かめました。依頼書は一度も上がっていないそうです」

「じ、事務の手違いでしょう」

「違う。あなたです」

藤巻の口が、半端に開いたまま止まった。

「読まなかったから知らない。知らないから回らない。それを手違いとは言いません」

「そ、そんなことより、あのシステムのせいで出荷が止まってるんだ。夜中の集計が上がらないから、翌日の受注も出荷も請求も動かない。得意先の社長が取引を切ると言ってきている。これは君の責任だ」

藤巻の声が急に大きくなる。

「いえ、締めの順番も、取りこぼした伝票の拾い方も、私は在職中、報告書で何度も上げています。システム部の資料棚に、年度ごとに閉じてあるはずです」

「処分されたことは、その部下から聞いて知っている。だが、それはこの男の口から言わせるべきことだ」

「そんなものは会社にはない」

藤巻の声が、勢いを取り戻した。

「古い報告書は、私の指示でまとめて処分させた。出したと言うなら、証拠はどこにあるんですか?」

俺は封筒から次の写しを抜き、合意書の上に重ねた。

「ここに、決裁の判で私に返された本人控えの写しです。決裁欄を見てください」

藤巻の視線が、紙の右上で止まった。藤巻の判がある。

「よ、よせ」

藤巻の手が、書類に伸びる。

「どうぞ。それは写しですから。控えの原本は別の場所にあります。写しなら、何枚でも作れる」

伸びた手が、紙の上で止まった。

「これは持ち出しだろ。社内の文章を勝手に」

「決裁の判で、本人に返された控えです。会社の決まりに沿って、私の手元に戻された紙だ。会社の原本は資料棚にあった。規則も確かめずに捨てたのは、どちらですか?」

藤巻の顔から、色が引いた。復旧の手段も、自分の判が押された文書も、自分の手で消していたのだと、ようやく思い当たったのだ。

俺は続けた。

「保守契約を切ったのも、あなたです。読まずに切り、読まずに捨て、読まずに『誰にでもできる仕事だ』と言った。今の停止は、その積み重ねです。それでも訴えると言うなら構いません。業界の談合もまとめて、争わせてもらいます」

藤巻は答えなかった。誰もいない公園を見回し、それからベンチに腰を落として、うなだれた。

「西島さん、頼む。戻ってきてくれるだけでいい。それだけ言ってくれれば、もう……」

打つ手がないという声だった。

「戻る気はありません。ただし、道はあります。同業で働くなという制限を解いてください。そうすれば、私はあの保守業者に入れる。その上で、会社が正式に依頼を出せばいい。仕事として、外から受けます」

藤巻は何か言いかけて、口を閉じた。俺は立ち上がり、振り返ることなく、公園を後にした。

数日後、俺は未払いの上乗せ分を内容証明郵便で正式に請求する。返答は早かった。不足分は振り込まれ、同業で働くことの制限は解除するという通知が添えられていた。

俺は保守業者に電話を入れ、先日の話を受けたいと伝える。それから間もなく、その部下の園田から連絡が入った。藤巻は部長の座を外され、倉庫担当に回されたらしい。合わせて、園田からは、溜まった伝票の拾い直しと旧式の機械の扱いを教えてほしいと依頼された。会社からの正式な依頼だという。無駄だとして切った保守契約より高い額で、俺への依頼の見積もりが通ったと聞いた。

机の引き出しから、あの手帳を取り出す。

『会社が差し出す紙を、字面だけで信じてはいけない』

四年前に書き出した一行の下に、俺はもう一行書き加えた。

『読まれなくても、伝えるべきことは書いて残せ』

その姿勢こそが、これからの俺を守っていくだろう。

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