朝の6時、夜勤明けの病院のロッカールームで、私は右手の指が動かないことに気づいた。71歳の清掃員の私が、45歳の無職の息子と2人で暮らすために、毎晩トイレを磨いている。昨夜も「インターネット代が払えない」と言われ、給料日前の最後の1万円札を渡した。今日は大家の息子が「先月分の家賃が未払いだ」と冷たい声で言ってきた。息子は私の年金を借金の担保に差し出し、見知らぬ男が部屋に現れた。「来月の15日…

朝の6時、夜勤明けの病院のロッカールームで、私は右手の指が動かないことに気づいた。71歳の清掃員の私が、45歳の無職の息子と2人で暮らすために、毎晩トイレを磨いている。昨夜も「インターネット代が払えない」と言われ、給料日前の最後の1万円札を渡した。今日は大家の息子が「先月分の家賃が未払いだ」と冷たい声で言ってきた。息子は私の年金を借金の担保に差し出し、見知らぬ男が部屋に現れた。「来月の15日...

朝の6時、長谷川富江は病院の通用口を出た瞬間、腰から膝にかけて重い疲労が広がるのを感じた。71歳の身体は正直だった。東京郊外の公立総合病院で清掃員として働く富江の仕事は、主にトイレ清掃だった。1階から5階まで、男女合わせて14箇所のトイレを6時間かけて磨いて回る。作業は単純だが、夜勤明けの身体にはこたえた。ロッカールームで作業着を脱ぐ時、右手の指がうまく動かなかった。関節が固まっていて、ボタンを外すのに時間がかかった。富江は焦らなかった。焦っても指は早くならないと、身体がもう知っていた。

アパートに着くと、鍵を回す時ドアノブがいつものように引っかかった。力を入れて押し込むようにひねると、ようやくロックが外れる。ドアを開けた瞬間、生ゴミの匂いが鼻をついた。部屋の明かりはついたままで、テレビが音量を絞った状態でバラエティ番組を流していた。畳の上には弁当の空き容器が3つ、重ねずにそのまま転がっていた。空き缶も2本、一本は倒れた状態で畳に丸いシミを作っていた。

長谷川竜平は、部屋の奥で押し入れを背にして体育座りをしていた。45歳の息子だ。10年前にリストラされて以来、ほとんど外に出なくなった。今は日中も起き上がらず、スマートフォンで動画を見るか、近所のコンビニに行くかという生活が続いていた。

帰ったのか、と竜平が言った。声に特に感情はなかった。
そう、と富江は短く返しながら上着を脱いだ。
金は、と竜平が続けた。
今月の給料日はまだ先だよ。10日だから、あと3日ある。富江の声は穏やかで、攻める色はなかった。ただ事実を述べるような言い方だった。

竜平は眉を寄せた。インターネットが切れそうだ。今月の末で料金が滞納になる。

富江はキッチンに向かいながら、わかった、と言った。何かを保証したわけではなかった。ただ聞いたという意味で言った言葉だったが、竜平にはそう伝わらなかったらしい。

分かったじゃ困るんだよ。竜平は声を上げた。今月中に払わないとダメなんだ。俺の生活がどうなってもいいのか。

富江は財布を開けた。中には1万円札が1枚あった。給料日前の最後の1枚だった。竜平がキッチンの入口まで来て、腕を組んで立った。富江は振り返り、1万円札を差し出した。竜平はそれを見てすぐに受け取った。礼は言わなかった。当たり前のこととして受け取る。そういう動作だった。

これで足りるか、と富江は聞いた。
足りない。竜平はすぐに言った。5000円足りない。

富江は何も言わなかった。3日後に給料が振り込まれるまで手元に何もなくなる。米も買えない。薬も買えない。でも、竜平がインターネットの使えない環境に3日間耐えられるかどうかも、富江は知っていた。それ以上の言葉は出なかった。

竜平は財布をポケットに入れながら、来週には仕事を探す、と言った。どこかぼんやりした言い方だった。富江は小さく頷いた。その頷きが何を意味するのか、自分でもよくわからなかった。

竜平は部屋に戻り、また床に座り込んだ。富江は冷蔵庫を開けた。中には豆腐が1丁と納豆が2パック、使いかけの味噌があった。もやしも持っていたが、竜平が先に食べてしまったらしく、袋が空になって流しの脇に置いてあった。それを見た時、富江の中で何かがゆっくりと動いた。怒りというには小さく、悲しみというには静かな、どこにも収まらない感情だった。でも富江はすぐにそれをやり過ごした。こういう感情はやり過ごすことになれていた。

その夜、病院での仕事中、胸の痛みがまた来た。電気の内側に手を入れてブラシを動かす時、腰を折って床の隅を拭く時、その度に肋骨の裏当たりがキュッと閉まる感じがした。針で刺されるほど鋭くはない。じわりと内側から押されるような圧迫感だった。富江はその感覚に名前をつけていなかった。病院で働いていながら、自分が受診するという発想はこの数年でほとんど消えていた。受診すれば費用がかかる。費用がかかれば竜平に渡す分が減る。減れば竜平が荒れる。そういう計算だった。

翌朝、同じシフトの田辺という50代の女性に、顔色悪いですよ、と言われた。ちゃんと食べてますか、と続けられた。
食べてますよ、と富江は答えた。嘘ではなかった。ただ、何をどれだけ食べているかは言わなかった。

アパートに戻ると、1階の郵便受けのところに大家の息子が立っていた。
長谷川さん、先月分の家賃なんですが、まだ入金を確認できていなくて。

富江は息を吸った。先月分は払ったはずだった。しかし、竜平に頼んで振り込ませたのか、自分で振り込んだのか記憶が曖昧だった。確認してみます、と富江は言った。

部屋に戻ると、竜平はまだ眠っていた。富江は台所に行き、通帳を引き出しから出した。確認してみると、先月の家賃に相当する金額の引き出しが、振り込み予定日の数日後に記録されていた。引き出しであって、振り込みではなかった。富江はその下りを指でなぞった。思い当たることがあった。あの日、竜平が珍しく先に起きていて、財布を探していた。問い詰めなかった。問い詰めるという習慣は、もうほとんど残っていなかった。

竜平が起き出したのは昼前だった。飯は、と竜平が言った。おはようでも何でもなく、それが最初の言葉だった。
ご飯は今天か明日で切れると思う、と富江は言った。

コンビニ行くわ。竜平は言った。
お金どこかにあるの、と富江は聞いた。
ちょっとある、と竜平は言った。

富江は続けた。家賃のことなんだけど。先月分が振り込まれてないみたいで、大家さんに言われた。

竜平の表情が固まった。感情が消えたような顔になった。それは富江が何十回も見てきた顔だった。
知らない。竜平は言った。
でも通帳を見たら、引き出した記録があって、と言おうとした時、竜平が先に言葉を重ねた。俺に何か聞きたいの? そんな顔してるけど、俺は知らないよ。俺は何もやってない。

富江は言葉を止めた。通帳を出してきて、日付と金額を見せることもできた。でも、それをした時に何が起きるかを知っていた。竜平は攻められると部屋の中で激しくなる。物にあたる。声が大きくなる。そして最後には「じゃあ俺が出ていけばいいんだろう」という言葉になる。富江には、その数時間の空気に耐えられなかった。

来週中に払えるかどうか確認したかっただけ、と富江は言った。
なんとかする、と竜平は言った。なんとかするの意味を、富江は聞かなかった。聞いても具体的な答えは帰ってこないことを知っていたから。

給料日の朝、富江はATMで通帳を機械に差し込んだ。7万2300円。想定より少し少なかった。先月、1日だけ体調を崩して休んだ分が引かれていた。ここから家賃の先月分を払えば、残りは3万1300円。今月分の家賃はまだ払っていない。高熱費の引き落としもある。食費を最低限に抑えても、月末には1000円単位しか残らない計算だった。

その日の午後、竜平が起きてきて、ご飯を食べながら言った。投資の話なんだけど。友達から聞いたんだ。オンラインで知り合った人で、投資で月に10万以上稼いでる人がいて、最初に少し元手を入れれば増やせるって。最初は30万でいいって言われた。30万入れると3ヶ月で倍になるらしい。60万になって戻ってくる。そしたら返すから、とりあえず貸してくれないか。

ないよ、と富江は言った。声は平坦だった。怒っていなかった。ただ事実を言った。
そのくらいあるだろう。竜平は眉を寄せた。年金もあるし、給料も入ったばかりだし。
今月の家賃と高熱費を払ったら、手元には1万いくらしか残らない。それも食費と薬代に使う分で余裕はない。

竜平は舌打ちをした。だから俺が稼いでくるって言ってるんだよ。本当にチャンスなんだよ。こういうのを逃すから貧乏なんだよ。

その言葉を富江は正面から受け取った。貧乏という言葉がどこかに刺さった。刺さったが、抜かなかった。抜いて見せると、その傷が証拠になって竜平の攻撃が次の段階に進む。
うちにはそのお金はない、ともう1度言った。竜平は分かった、と言って自分の部屋に戻った。

数日後、竜平が部屋の入り口に立った。顔の表情が普段と少し違った。
ちょっとまずいことになった、と竜平は言った。投資の話、覚えてるだろう。あれ、ちょっとだけ自分で動いてた。10万、知り合いから借りた。3ヶ月で返せると思ってたんだけど、相手と連絡が取れなくなって。

借りた相手は誰、と富江は聞いた。
消費者金融じゃなくて、個人の業者。利息は月に2割。

月に2割という数字がそこに落ちた。10万の借金が1ヶ月後には12万になる。2ヶ月後には14万4000円。3ヶ月後には17万円を超える。
どうするかって話だよ。返さないと向こうが来る。竜平の声が小さくなっていた。いつもの強さが今日は薄かった。そのことが富江に、事態の深刻さをいつもより正確に伝えていた。

その男が初めて部屋に現れたのは木曜日の昼過ぎだった。40代に見える男で、首に刺青が入っていた。話は息子さんから聞いてますか、と男は言った。竜平さんが借りた分は、今月末で12万になります。来月になれば利息がまた乗る。年金はいつ入りますか、と男は言った。
来月の15日です、と富江は答えた。答えてから、答えたことを少し後悔した。
6万5000円ですよね、と男は言った。富江は黙っていた。竜平が自分の母親の年金額を借金の担保として差し出した。その事実が静かに目の前に置かれた。来月の15日に年金から払ってもらえれば、元金の10万は一旦待ちます。6万5000円で、残りはその次の月に。それで話はつきます。

富江は計算した。6万5000円を渡せば、手元には何も残らない。家賃がある。高熱費がある。食費がある。それは、年金が入るたびに消えるということを意味していた。

返事をする前に、竜平が口を開いた。母さん、頼む。声が低かった。懇願という言葉に近い響きがあった。富江は竜平を見た。竜平は壁から背中を離して少し前に出た。その目が珍しく富江の顔を見ていた。恐怖があった。竜平が本当に怖がっているということは伝わってきた。しかし、恐怖の奥に何があるかは読めなかった。
わかりました、と富江は言った。

男が帰った後、竜平はありがとう、と言った。富江は返事をしなかった。台所に戻り、椅子に座った。夫が死んだ後、10年間ずっとそうやってきた。足りないものを別の何かで埋める。埋めても埋めてもまた穴が開く。でも今回は穴の深さが違った。

その夜、病院で上司の木下に呼び止められた。来月のシフトの件なんですが、やはり夜勤の人数を1名減らすことになりそうで。富江さんには日中勤務の方に移っていただけますか? 時給は少し下がりますが。
いくら下がりますか、と富江は聞いた。
300円です。

週3回で月に計算すれば、1万円以上の差になる。1万円という数字は、今の生活では食費1ヶ月分に相当した。
わかりました、と富江は言った。

15日目の朝、給料が振り込まれた。富江はATMで確認して、その場で家賃の振り込み手続きをした。家に帰ると、竜平が台所にいた。珍しかった。書類、揃えた、と竜平は言った。テーブルの上にクリアファイルが置いてあった。離職票、住民票、通帳のコピーがきちんと揃っていた。
ハローワークに行ってきた。相談員に話を聞いてもらった。10年のブランクがあるからすぐには難しいって言われた。でも職業訓練の制度があって、それを受ければ手当てが出るって。3ヶ月のコースで、その間は月に10万くらいの手当てが出るらしい。

富江は竜平の顔を見た。いつもより少し真剣な表情をしていた。今日この瞬間は本当のことを言っているのだということは伝わってきた。

そして、来月の15日が来た。富江はATMで年金を引き出し、封筒に入れた。部屋に戻ると、竜平が起きていた。
昼に来るって言ってた、と竜平は言った。
封筒をテーブルの上に置いた。竜平は封筒を見た。取り上げなかった。しばらくそこに置いたまま見ていた。
母さん、と竜平は言った。何か言いかけて止まった。職業訓練、ちゃんと行く、と竜平は言った。
うん、と富江は言った。

昼前に男が来た。封筒を受け取った男は中を確認した。数えた。頷いた。残りは来月、という確認をして、また出ていった。5分もいなかった。

富江は台所に入り、昼ご飯の支度を始めた。もやしをフライパンに入れると、じわりと音がした。後ろで竜平の気配がした。
鉄板焼きか、と竜平が言った。
いいえ、大したものじゃないから、と富江は言った。

もやし炒めを2人分、向かい合わせに置いた。竜平は台所の椅子に座った。2人の間に言葉はなかった。ただ食べる音だけがあった。それがいつもと同じ沈黙かどうか、富江には判断できなかった。同じかもしれなかった。少し違うかもしれなかった。

食べながら、富江は来月の計算を頭の中で始めた。年金はまた消えた。竜平の職業訓練が始まれば手当てが出る。始まるまでの間をどう過ごすかが、また問題になる。問題は続いていた。1つが片付いても次が来る。それがこの10年間の形だった。でも、今日竜平は自分で書類を揃えた。自分でハローワークに行った。その事実は、昨日までなかった事実だった。それが何かを変えるかどうか、富江には分からなかった。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。希望と呼ぶには小さすぎたが、何もないと言いきるにはまだ早い気がした。

火曜日まであと5日あった。その5日間をどう過ごすか、答えはまだなかった。ただ、5日後に竜平と一緒にハローワークへ行くという予定だけがそこにあった。予定があるということは、その日まで生きているということだった。富江にとって、今はそれで十分だった。

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