ページをめくる手を止め、俺は右手をそっと膝の上に下ろした。指先がわずかに揺れている。誰にも見えない、ほんの数ミリの動き。
俺の名前は太田悟。45歳の外科医だ。今は東北の県にある、ベッド数180のこの病院に務めている。カンファレンスの議題は、昨夜搬送された外傷の患者だった。若い研修医が画像をモニターに映しながら初見を読み上げている。俺は黙って聞いていた。意見を求められれば答える。それ以外は口を開かない。この3年、ずっとそうしてきた。
「太田先生、この症例、どう思われますか?」
正面に座る牧野修平がこちらを見た。30歳の外科医で、この病院では中堅に当たる。真面目で、若い医者にしては手がいい。
俺は画像をしばらく眺めてから答えた。
「損傷のグレードは3だろう。ただ、心膜の血腫がこれだけ広がっているなら、まず造影で動脈損傷の有無を確認した方がいい」
「やはりそうですか」
牧野は手元のメモにペンを走らせた。俺の意見を否定する者はいない。かと言って、誰もそれ以上踏み込んでこない。俺は地方病院に流れてきた、訳ありの外科医だった。噂は何通りもある。医療ミスを起こした。薬物に手を出した。上司と揉めた。真実を知っている者は、この建物の中には一人もいない。
カンファレンスが終わり、俺は手術に着替えるためロッカー室へ向かった。廊下を歩いていると、後ろから足音が追いついてきた。
「太田先生、少しよろしいですか?」
「どうした?」
「いえ、先ほどの初見、私には全く見えていませんでした。先生はどこでそういう判断を身につけられたんですか?」
俺は立ち止まり、薄く笑った。
「経験だ。それ以上でも、それ以下でもない」
牧野は何か言いたげな顔をしたが、結局は会釈だけして去っていった。俺は廊下の窓から、灰色の空を見上げた。
その日の午前中、俺は鼠径ヘルニアの手術を一件こなした。40分で終わる、なんでもない手術だ。昼を過ぎて、緊急の患者が運ばれてきた。執刀の外科医は牧野だったが、彼は俺の名前を最初に呼んだ。
「太田先生、第一助手、お願いできますか?」
「いや、できれば君が執刀しろ。俺は横についている」
「分かりました」
患者は60代の男性。血圧はすでに80を切っていた。時間がない。俺は手術室の前で手洗いを始めた。水温がいつもより大きく耳に響く。ブラシを動かしながら、俺は右手を見つめた。震えが来ている。かすかに、しかし確実に。極度の集中に入る前、交感神経が暴走する時、こうなる。かつて任務についていた頃、毎回起きていた現象だった。体が戦闘体制に入ろうとしている合図。ただ、周りはそうは見ない。メスを握るのを怖がっている。終わった医者。そう映る。だから俺は、できるだけ大きな手術には立ち合わないようにしてきた。
背後で気配がした。振り返ると、看護師の森山彩が立っていた。配属されて2年目だが、その鋭さは病院内でも知られている。
「太田先生、手袋、持ちました」
「ああ、ありがとう」
彼女は俺の右手を一瞬だけ見た。一瞬だ。俺は手を引っ込めなかった。隠したところで、彼女には見えている気がしたからだ。森山は何も言わずに手袋を差し出した。ただ、さり際に小さな声でこう言った。
「先生の震え、怖がっているのとは違いますよね」
俺は答えなかった。森山も、それ以上は聞かなかった。
手術は3時間に及んだ。牧野が執刀し、俺は隣で指示を出した。ある瞬間、牧野の手が止まった。
「ここから先は俺がやる。お前は視野を保持していろ」
「お願いします」
メスを受け取った瞬間、右手の震えは消えていた。体の芯に、忘れていたはずの感覚が戻ってきた。血管を縫う糸の手触り、組織の弾力、出血点の位置、全てが手のひらに吸いつくように分かる。俺は20分で吻合を終えた。手術室を出ると、廊下の壁にもたれて天井を見た。久しぶりに汗をかいていた。
その日の夕方、院内放送で俺は呼び出された。
「太田先生、院長室までお越しください」
廊下を歩きながら、俺は何を言われるのか、およそ見当をつけていた。牧野の執刀を途中で代わったことだろう。院長の佐藤正雄は、経営優先の現実主義者だ。若手の経験を奪ったと説教されるかもしれない。
院長室のドアを叩くと、低い声が返ってきた。
「入ってくれ」
部屋に入ると、佐藤は立ったままだった。机の上には、午後の手術記録が置かれていた。
「座ってくれ。今日の手術報告は読んだ」
「申し訳ありません。途中で執刀を代わったのは、私の判断です」
「謝るな。患者は助かった」
俺は椅子に腰を下ろした。
「太田先生、一つ聞いてもいいか?」
「何でしょうか?」
「先生がうちに来て3年になる。私はね、先生が来た時、上から渡された経歴書を読んだんだ。空白が多すぎる経歴書だった」
俺は黙っていた。
「だが、私は昔、ある論文を読んだことがあってね。血管吻合のテクニックについて書かれた英文の論文だ。著者名はイニシャルだけあった。Sとだけ書かれていた」
俺は表情を変えなかった。
「あの論文を書いた人間がどこにいるのか、ずっと気になっていた。今日、先生の手術を見た若い看護師から話を聞いて、思い出したよ」
「院長、私は地方病院のただの外科医です」
「そうか。なら、いい」
佐藤は追及しなかった。ただ、机に置かれた一通の封筒をこちらに滑らせた。
「内閣府から先生当てに郵便が届いている。普通郵便じゃない。手渡しで、私が預かった」
封筒には、見覚えのある朱色の印が押されていた。内閣医療安全保障室。俺は3年前まで、その組織にいた。
「いつ届いたんですか?」
「昨日だ。あと、先生を訪ねたいという男から電話もあった。名前は神崎と名乗っていた」
神崎竜二。俺をこの地方病院に配置転換した、当の人物の名前だった。
俺は封筒を受け取り、ゆっくりと立ち上がった。
「太田先生。私はね、先生がどんな経歴を持っていようが、関係ないと思っている。ただ一言だけ言わせてくれ」
「何でしょうか?」
「うちの病院は、先生のような医者を必要としている。それだけだ」
俺は会釈をして、院長室を出た。右手の指先が、またかすかに震え始めていた。
翌朝、雪が降り始めていた。病院の駐車場には、見慣れない黒いセダンが1台、エンジンを止めずに止まっていた。
俺は外来の回診を済ませてから、会議室へ向かった。昨夜、佐藤院長から渡された封筒の中には、たった1枚の紙しか入っていなかった。面会日時、本日午前10時。差出人名なし。それだけだった。
会議室のドアを開けると、男が1人、ソファに座っていた。50歳ほど。紺のスーツ、ネクタイは結び目まで真っ直ぐだ。神崎竜二。3年前、俺に「一度表部隊から降りてくれ」と告げた男だった。
「久しぶりだな、太田君」
「お久しぶりです、神崎さん。雪の中、わざわざこんなところまで」
神崎は薄く笑い、こちらに書類を差し出した。
「単刀直入に言う。守秘義務契約の一部が解除されることになった」
「一部ですか?」
「ああ、完全な解除じゃない。プロジェクトそのものの存在は、これからも口にできない。だが、君が血管吻合の専門家であった事実、論文を発表していた事実。これらは表に出しても構わない」
俺は黙って窓の外を見た。
「上は、君の名前をもう一度表に出したがっている」
「理由を聞いてもいいですか?」
「海外で似たような技術を持つ人間が、表立って活動し始めた。日本側も、有事に備えて手を打っておく必要が出てきた。簡単に言えば、君を埋もれさせておくのは惜しいということだ」
俺は右手を膝の上で握った。震えは来ていなかった。ただ、胸の奥に何か硬いものが残っている。
「私は、ここの患者を見ています。一人の医者として、それで十分です」
「太田君、君の選択は尊重する。だが、これだけは伝えておく」
神崎はテーブルの上に一通の書類を置いた。
「来月、東京で国際心血管シンポジウムが開かれる。そこで君の名前で講演をして欲しいという要請だ。受けるかどうかは、君が決めていい」
俺は書類に目を落とした。発表テーマの欄に、かつて俺が書いた論文のタイトルがそのまま記されていた。
「あのイニシャルではなく、太田悟の名前で」
「返事は1週間以内に」
「それから、もう1つ」
「何でしょう?」
「ここに木崎綾乃という医師が、来月から赴任してくる循環器内科医だ。彼女の父親は、君も知っている通りだ」
「木崎教授の娘さんですか?」
「ああ。彼女は君のことを断片的に知っている。それを了解した上で、彼女自身が希望してここに来る」
俺は何も答えなかった。神崎は立ち上がり、コートを羽織った。
「太田君。3年前、私は君に頭を下げた。今日も同じことをしてもいい。だが、今は頼みじゃない。選択肢を届けに来ただけだ」
「分かりました。考えさせてください」
神崎が去った後、俺は会議室に一人で残った。窓の外で、雪が音もなく降り積もっていく。
2週間後、木崎綾乃が病院に着任した。循環器内科の医師として、外来と病棟を半々で受け持つことになっていた。
俺は着任の挨拶を、廊下ですれ違いに受けた。
「太田先生、木崎綾乃と申します。父が先生に大変お世話になったと聞いております」
「こちらこそ、どうぞよろしく」
背筋を伸ばして立っている。目に迷いのない光があった。父親の木崎教授は、かつて国家プロジェクトの倫理審査を務めていた。俺の手術記録を誰よりも厳しい目で見ていた人物の一人だ。
その日の夕方、俺は医局で一人、カルテを書いていた。ドアが開き、綾乃が入ってきた。
「太田先生、少しお時間よろしいですか?」
「ああ、座れ」
「父から先生のお名前を初めて聞いたのは、私が研修1年目の時でした。父は普段、患者のことも仕事のことも家ではほとんど話さない人でした。でも、あの夜だけはお酒を少し飲んで、こう言ったんです」
「何と言ったんだ?」
「『日本に本当の意味で血管を縫える医者が一人だけいる。天才医師だと。あの男のことは忘れられない』と言っていました」
俺は手を止めた。ペン先がカルテの上で小さな点を作った。
「私はその時、なぜ父がそんな言い方をするのか分かりませんでした。何年も経って、断片的に話を聞くうちに、想像はつくようになりました。先生が表に出られない理由も」
「君は何を知っている?」
「全ては知りません。ただ、先生が終わった医者ではないということだけは知っています」
俺は深く息を吐いた。窓の外はもう真っ暗だった。
「木崎先生、君はなぜ、ここに来た?」
「父が亡くなる前、最後に言ったんです。『あの男が一人で抱えているものを、誰かが分けてやらなければならない』と。私は、その誰かになりたいと思っただけです」
俺は答えなかった。膝の上で、右手がまた震え始めていた。
「お返事はいりません。私はただ、ここで医師として働きます。先生のお邪魔はしません」
彼女はそう言って立ち上がった。
「ただ、もし先生がもう一度、メスを本気で握りたいと思った時、私は医師として全力で支えます。それだけ覚えておいてください」
ドアが閉まった。俺は一人で、医局の椅子に座っていた。
その晩、外は吹雪になった。俺は自宅のアパートで、眠れずにいた。神崎の書類と、木崎の言葉が頭の中で交互に響いていた。
午後10時過ぎ、携帯が鳴った。牧野からだった。
「太田先生、すみません。来ていただけますか? 多発外傷の若い男性です。肺挫傷と大動脈の損傷を疑っています。CTが今出ました」
「すぐ行く」
「血液準備は進めています。ただ、輸血が間に合うかどうか」
俺はコートを掴み、外に飛び出した。雪が顔に叩きつけてくる。病院まで20分の道を、俺は走った。
救急外来に着くと、ストレッチャーの上で若い男が浅い呼吸をしていた。青ざめた顔をしている。牧野がすでに準備に入っていた。傍らに、木崎綾乃も立っていた。彼女は循環器の立場から、心電図をすでに当て終えていた。
「太田先生、下行大動脈の損傷です。仮性瘤があります。破裂すれば、間に合いません」
俺は患者の顔を見た。若い。俺の息子と言ってもいいくらいの年齢だ。牧野が俺を見ていた。
「太田先生、お願いします。私には無理です」
「執刀は俺がやる。牧野、お前は第一助手だ。木崎先生、循環動態の管理を頼む。森山さん、器械出し」
全員が一斉に動き出した。手術室に入る前、俺は手洗いをしながら右手を見た。震えていた。かすかに、しかし確実に。体が戦闘体制に入ろうとしていた。俺はそれを隠さなかった。
手術室の扉が音もなく開いた。無影灯の白い光が、患者の腹部を照らしている。俺は手術台の右側に立った。牧野が向かい側、第一助手の位置に着く。綾野は患者の頭側でモニターと点滴ラインを睨んでいた。森山は器械台の前に立ち、鉗子を一本ずつ整えている。
「導入完了。入っていいです」
「では、始める」
メスを受け取った右手は、震えていなかった。正確には、震えがあるのに気にならなかった。体の芯に、忘れていたはずの感覚がまた戻ってきている。
「上下を遮断する。大動脈のクランプ、持て」
牧野の声はわずかに上ずっていた。無理もない。彼にとって、これほどの症例は初めてのはずだ。俺は左手で組織を分け、瘤の中心へ指を入れた。指先に脈動が伝わる。
「クランプ、上、行くぞ。3、2、1」
「カチッ」と音がして、上のクランプが下りた。続いて下も。血流が一瞬で遮断され、視野が静かになる。
「人工血管の準備を指示して」
「人工血管、8ミリ、用意しています」
「ありがとう。糸はプロリン4-0で」
「はい、分かりました」
俺はメスを置き、針を持った。牧野は息を飲むようにして俺の手元を見ていた。彼の視界には、ただの縫合ではなく、教科書に載っていない動きが映っていたはずだ。針の角度、糸の引き加減、組織への力のかけ方。牧野は心の中で、ようやく一つの答えにたどり着いていた。あの論文の著者は、目の前にいる。
血圧計のアラームが鳴った。
「太田先生、収縮期60まで落ちました」
「輸血、追加します」
「頼む。あと12分で吻合を得る」
「了解です」
木崎教授の言葉を、彼女は今この瞬間に確かめているのだろう。『日本に本当の意味で血管を縫える医者が一人だけいる』。その男が、目の前で縫っている。俺は無心で針を進めた。一針。また一針。
「クランプ解除。下からゆっくり」
「血圧、上がってきます。80、90、120」
「上解除」
「カチッ」と音がして、血流が再開した。吻合部からの出血は、一滴もなかった。牧野が小さな声で漏らした。
「止まってる」
「閉腹に入る。牧野、ここから先は君が執刀しろ」
「いえ、太田先生、私には。君がやるんだ。最後まで」
「分かった」
俺は一歩、台から離れた。無影灯の光が右手の甲を白く照らした。震えは、もう来ていなかった。
手術が終わったのは、午前4時を回った頃だった。俺は手術着のまま、廊下の長椅子に腰を下ろしていた。窓の外はまだ暗い。雪は止んでいた。しばらくして、綾乃がコーヒーを二つ持って、隣に座った。
「お疲れ様でした。コーヒー、ブラックで合っていますか?」
「ああ、助かる。ありがとう」
「ご家族の方、待合室で泣いておられました。お母さんが、何度も先生にお礼をと」
「あれは牧野が執刀した手術だ。彼に言ってやってくれ」
「先生らしいですね」
彼女は小さく笑った。俺も、釣られて口元を緩めた。廊下の向こうから、足音が二つ近づいてきた。牧野と森山だった。牧野は手術着のまま、気持ちを落ち着けるように立ち止まった。
「太田先生、一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「あの英文の論文。Sという著者の論文を、先生はご存知ですか?」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「読んだことはある。書いた人間は、もう昔のことは忘れたいんじゃないかと思うがな」
牧野は目に薄く涙を浮かべていた。
「私は、あの論文を読んで外科を志しました。今夜、そのことを言えただけで十分です」
「君が今夜やったことは、あの論文よりよほど価値がある」
牧野は深く、長く頭を下げた。朝の光が廊下の窓から、少しずつ差し込んできた。
その日の午後、俺は院長室を尋ねた。机の上には、神崎から預かったままの書類が置いてあった。東京のシンポジウムへの講演要請。俺はそれを、佐藤院長の前で二つに折った。
「いいのか?」
「ええ。私の場所は、ここです」
「そうか」
院長は一度だけ頷き、それ以上何も言わなかった。
俺は院長室を出て、廊下を歩いた。すれ違う看護師が会釈をする。窓の外で、雪が溶け始めていた。


