母の旧友だった男に、「家を担保に投資しないか」と持ちかけられた時、夫は何の迷いもなく書類にサインをしていました。六十八歳で駐車場の誘導の仕事を始めた夫のプライドは、その男の言葉で完全に揺らいだのです。「大変ですね」と、同期の男に言われた帰り道。夫は家族に何も言わず、私の知らないところで、私たちの家を賭けていた。四か月後、振り込みは止まりました。私は電卓で数字を叩きながら、すべてを理解しました…

母の旧友だった男に、「家を担保に投資しないか」と持ちかけられた時、夫は何の迷いもなく書類にサインをしていました。六十八歳で駐車場の誘導の仕事を始めた夫のプライドは、その男の言葉で完全に揺らいだのです。「大変ですね」と、同期の男に言われた帰り道。夫は家族に何も言わず、私の知らないところで、私たちの家を賭けていた。四か月後、振り込みは止まりました。私は電卓で数字を叩きながら、すべてを理解しました...

その夜、長谷川総一は台所のテーブルに一枚の書類を置いた。銀行の封筒から取り出したそれは、白い用紙に印刷されていた。三十五年前から毎月欠かさず支払い続けた住宅ローンの、最後の一行。そこには「完済」という文字があった。指先で書類の折り目をそっと平らにしながら、総一はしみじみと、これで終わったのだと思った。

妻の千子が鍋の火を止めて振り返った。彼女はすぐに書類の意味を理解して、ふっと息を吐いた。
「終わったのね。」
「ああ。」
それだけの会話だった。貯金は繰り上げ返済を繰り返したせいで、百二十万円を切っていた。それでも、ローンのない生活は何より重い鎖が外れた感覚だった。その夜、二人は久しぶりに贅沢をした。近所のスーパーで買った刺身と、普段は開けない日本酒の小瓶。乾杯の言葉はなかったが、それで十分だった。

だが、平和な時間は長く続かなかった。完済から三週間後、ポストに届いた管理組合からの通知は、来月から管理費と修繕積立金が現在の三倍近くに引き上げられるという告げだった。二枚目には、固定資産税の増額の通知も入っていた。老朽化への対応と、国の政策変更に伴う課税評価の見直し。数字を頭の中で計算した。妻のパート代はもうない。年金だけで食費、光熱費を引けば、毎月残るのは三万円ほど。そこに、これだけの固定費の増額が重なる。そして、手元の貯金は百二十万円を切っている。このまま何もしなければ、計算上、一年半から二年で底をつく。

総一は、その夜、妻には何も言わなかった。まだ言える状況ではなかった。それに、長年物流の現場を仕切ってきた男が、この程度の家計の穴を埋められないはずがない。そう、自分に言い聞かせた。妻がヨガ教室に出かけた後、総一はクローゼットから何年も着ていなかったスーツのジャケットを取り出した。

翌週、総一はハローワークに足を運んだ。六十八歳、元管理職、希望は事務職か管理職。窓口の女性は、表情を変えずに言った。
「六十八歳でのフルタイムの事務職は、現在登録されている求人の中では非常に限られています。」
提示されたのは、施設の清掃補助、公園の見回り、時給九百円からの短時間労働だった。それでも総一は応募した。食品工場の夜間パートでは「若い方を優先しておりまして」と言われ、小さな倉庫会社では年齢を聞かれた瞬間に雰囲気が変わった。採用の連絡は、どこからも来なかった。

二か月が過ぎた頃、ようやく一つだけ面接まで進んだ仕事があった。埼玉県内のゴルフ場の駐車場誘導スタッフ。週五日、朝七時から午後三時までの立ち仕事、時給は九百八十円。応募資格に年齢制限はなかった。初日、支給された反射テープ付きの黄緑の作業着に袖を通した時、総一は鏡を見なかった。

仕事は体力的には全く問題なかった。毎朝一万歩を歩く習慣が、役に立った。問題は、精神的なところにあった。駐車場には、平日でも次々と車が入ってくる。国産の高級車、外車、運転席から降りてくる客の大半は、総一と同世代か少し下の男たちだった。ゴルフウェアに身を包み、日焼けした顔で、のんびりとクラブハウスへ歩いていく。総一が白い手袋で車を誘導すると、客は軽く頷くか、あるいは何の反応もせずに通り過ぎた。

ある朝、一台の黒いセダンが入ってきた。総一が誘導棒で方向を示すと、車はゆっくりと指定のスペースに収まった。降りてきた男を見て、総一の手が一瞬止まった。同期の美吉だった。同じ会社の別部署にいた男で、退職後は会っていなかった。美吉は車を降りながら周囲を見渡し、総一に気づいた。
「長谷川さんじゃないですか。」
「ああ。」
それ以外、何も出てこなかった。美吉はグレーのポロシャツにストレッチ素材のスラックス。手首には時計。キャディバッグをカートに乗せ、いかにも休日のゴルファーという出で立ちだった。美吉は少し間を置いて、言った。
「大変ですね。」
その言葉の意味が、はっきりと分かった。総一は何も言わず、誘導棒を持つ右手に力を込めた。美吉はそれ以上何も言わず、カートを押してクラブハウスへ歩いていった。

その翌週、美吉がまた現れた。今度は総一に声をかけてきた。
「長谷川さん、少しお時間ありますか。後でコーヒーでも。」

休憩時間、クラブハウスの横にある休憩スペースで、美吉は缶コーヒーを二本買って待っていた。
「長谷川さん、私も退職後は色々やりました。家にじっとしていられなくて。コンサルのような仕事を請け負ったり、不動産の勉強もしました。」
美吉は言った。
「今は、シェア型観光不動産っていうのをやってるんです。複数の投資家が共同で宿泊施設を持って、その賃料収入を分配する仕組みです。元手が大きくなくても始められるし、管理は業者が全部やってくれる。私は三百万入れて、今は月に十五万前後が入ってきています。」

総一は缶コーヒーを一口飲んだ。甘い、安い味がした。
「紹介しましょうか。一緒に話を聞くだけ聞いてみませんか。押し売りとかじゃないです。」
総一は「考えておきます」とだけ答えた。

その夜、千子が台所で家計簿をつけていた。総一が風呂から出てくると、彼女は言った。
「今月は少し電気代が上がったわ。」
「そうかもな。」
少し間を置いて、総一は言った。
「来月から、固定の出費が増えるかもしれない。」
千子は鉛筆を止めた。
「管理費のこと? 先月、同じ通知が届いてたわ。あなたが持って出かけた封筒と、同じ日に。」
総一は何も言えなかった。
「私も計算してみたの。今の年金と貯金の残高だと、修繕積立金の一括拠出が重なったら、一年ちょっとで厳しくなると思う。」
「分かってる。」
「じゃあ、何か考えてるの?」
総一は答えなかった。千子は鉛筆を置いて言った。
「私も働けるわ。スーパーのパートなら、すぐに雇ってもらえる。」
「それはいい。」
千子は少し間を置いて、問いかけた。
「それは、私が働くことがいいってこと? それとも、あなたの方に何か案があるってこと?」
「どちらでもない。今は…何も言えない。」

翌日、総一はゴルフ場で美吉に声をかけた。
「紹介してもらえますか。」
美吉は目を少し見開いて、すぐに頷いた。

水曜の昼前、総一は池袋のオフィスビルを訪れた。黒木銀事と名乗る男は七十歳前後で、背が高く、グレーのスーツが体に合っていた。声に厚みがあり、部屋に入ってきただけで空気が変わるような存在感だった。黒木は薄いクリアファイルから資料を取り出し、丁寧に説明を始めた。複数の投資家から出資を受け、関東近郊の宿泊施設を購入し、その収益を分配する仕組み。管理運営は全てこちらで行う。実績として、年間利回り七パーセントから十二パーセントという数字が並んでいた。
「担保として不動産をお持ちの方には、金融機関との橋渡しも私どもで行います。ご自宅を担保に融資を受け、そこから出資していただく形です。毎月の収益で返済を賄えますので、実質的にご自身の持ち出しはほとんどございません。」
「融資額はどの程度になりますか。」
「担保評価にもよりますが、長谷川さんのご状況でしたら、三千万から三千五百万の間が現実的かと思います。」
総一は資料の数字を見た。三十年間、物流の数字を扱ってきた。この資料は、それなりに整合性があった。黒木の話し方にも、怪しさは感じられなかった。
「少し、時間をください。」
「もちろんです。急ぐ話ではありません。ただ、今期の募集は来月末までで、それを過ぎると次の募集は半年後になります。」

帰りの電車の中で、総一は考えた。家を担保に入れる。それは、三十五年間守ってきたものを賭けるということだった。だが、それ以外に今の自分に何があるのか。年金だけでは足りない。貯金は減る一方だ。ゴルフ場の稼ぎは月に十万にも届かない。このまま何もしなければ、家を失う。それならば、一か八か、賭けてみるべきではないのか。

その夜、総一は千子に天ぷら屋に連れて行った。普段は絶対に行かない店だった。二人で並んでカウンターに座り、車エビと穴子を食べた。千子は最初は遠慮がちだったが、穴子を口に入れた後、小さく「美味しい」と言った。その声を聞いて、総一は日本酒を一口飲んだ。

それから数日後、総一はゴルフ場に電話を入れた。
「今月いっぱいで、仕事を辞めさせてください。」

その週の水曜日、総一は再び池袋のビルを訪れた。黒木と二人きりで、同じ会議室に座った。黒木は表情を変えず、書類を一式テーブルに並べた。ローン申込書、投資契約書、担保設定に関する書類。黒木は一枚一枚、丁寧に説明した。声に焦りはない。総一はペンを持った。手はしっかりとしていた。一ページ目に名前を書き、次のページ、また次のページと、ペンを動かした。最後のページに署名を終えてペンを置いた時、黒木は深々と一礼した。
「ありがとうございます。」

最初の振り込みは、契約から四十日後だった。朝の口座残高に、見慣れない入金が記録されていた。二十一万八千円。黒木の説明通りの金額だった。総一はその数字を三回確認した。あの感覚をどう言葉にすればいいのか分からなかった。歓喜でもなく、達成感でもなく、何か大きな緊張が解けていくような、体の内側が緩む感触だった。翌月も二十二万三千円が入金された。その月の末、総一は千子に真珠のネックレスを買った。百貨店のジュエリーコーナーで、店員に「妻の誕生日ではないが、プレゼントしたい」と伝えて、リボンを掛けてもらった。千子は驚いた顔をしたが、その日の夕方には、エプロンを付けて鍋をかき回しながら、そのネックレスを首に掛けていた。少し場違いな組み合わせだったが、総一はそれを見て、胸の内側が温かくなるのを感じた。この判断は正しかったのだ。動いたからこそ、この景色がある。

そして、四か月目が来た。月末になっても、振り込みがなかった。数日待った。納金が数日遅れることはあり得る。そう、自分に言い聞かせた。だが、月が変わって最初の週が過ぎても、残高に変化はなかった。黒木に電話をかけた。呼び出し音が続いて、出ない。翌日も、その翌日もかけたが、同じだった。

美吉に電話をかけた。三回目で繋がった。
「美吉さん、黒木さんに連絡が取れないんですが。」
しばらく沈黙があった。
「私も、今月から入金がないんですよ。」
声から、余裕が消えていた。
「管理会社の番号も、先週から応答がないです。」

二日後、総一と美吉は電車で千葉県の外れに向かった。黒木の資料に記載された物件の一つがあった場所だ。バス停で降りると、塩の匂いがした。地図を見ながら五分ほど歩き、角を曲がると、そこは空地だった。フェンスで囲まれた一角に、基礎らしきコンクリートブロックが並び、雑草が伸びていた。錆びた工事看板が斜めに立っていたが、文字も読めないほど色が落ちていた。宿泊施設らしきものは、何一つなかった。工事が進んでいる形跡さえなかった。
「ここですね。」
美吉の声は小さかった。二人はしばらく、フェンスの前に立ったまま動けなかった。

帰りの電車の中で、美吉はスマートフォンをいじっていたが、やがて言った。
「管理会社のサイトが、消えてる。」
警察に行った方がいいかもしれない、と美吉は言った。「そうですね」と、総一は答えた。

翌日、総一は一人で警察署に行った。若い警察官は丁寧に話を聞いた後、言った。
「詐欺として立件できるかどうかは、捜査してみないと分かりません。ただ、ご本人が契約書に署名されているとのことですので、現時点では民事の問題として扱われる可能性があります。」

次に、法律事務所を訪ねた。五十代の弁護士は、書類を見て言った。
「仕組み投資の詐欺は、立証が難しいケースが多いです。お金を返してもらうのは、相手が資産を持っていなければ、現実的には困難です。」
費用についての話も出たが、総一は「少し考えさせてください」と言って、事務所を出た。

数日後の朝、玄関のポストに銀行からの封筒が届いた。返済が期日通りに行われない場合の対応について。担保物件の取り扱いについて。記載は、形式的な言葉で埋められていた。総一が封筒を持ったまま玄関に立ち尽くしていると、奥から千子が出てきた。彼女はそれを見て、歩みを止めた。
「何、それ。」
総一は答えなかった。千子は近づいて、封筒を開けた。中の書類を広げ、読み終えるまで、彼女は声を上げなかった。表情も変わらなかった。それが、総一には気味が悪かった。
「これ、なに。」
「投資に…使ったローンの通知だ。家を担保に。」
千子はしばらく黙っていた。
「四か月ほど前…家を担保にローンを組んで、投資に回したの?」
「…ああ。」
沈黙が続いた。台所の換気扇がかすかに唸っていた。
「騙されたのね。」
「…そうだ。」
千子は電卓を持ってきて、テーブルに座り、書類の数字を打ち込み始めた。タンタンタン、という音が静かな部屋に響いた。総一は立ったまま、それを見ていた。計算を終え、電卓を置いて、千子は言った。
「何のために。」
声が低かった。
「これだけのリスクを取って、何のためにやったの。」
「年金だけじゃ足りないと思った。管理費も上がった。何もしなければ、沈むだけだと思った。」
「なぜ、私に言わなかったの。」
「言えば、反対した。」
「そうね。反対したわ。こんなことには、反対した。」
総一は答えなかった。
「反対されるのが分かってて、黙ってやったんでしょ。決断が必要だった。時間がなかった。あなたが、時間がないと思っただけでしょう。」
「…すまない。」
千子は椅子から立ち上がり、総一と向き合った。その目は冷たくも、怒りでもなかった。ただ、まっすぐに総一を見ていた。
「家族のためにやったのだというつもりでしょう。」
総一は何も言えなかった。
「でも、違う。あなたは家族のためにやったんじゃない。あなた自身のためにやったのよ。駐車場で誘導棒を振っていることが、耐えられなかった。私に貧しい暮らしをさせていることが、恥ずかしかった。でも、その根っこにあるのは、あなたのプライドの問題よ。美吉さんと会って、惨めな思いをして、それが許せなかったんでしょう。」
部屋が静かだった。総一は否定しなかった。否定できなかった。
「私に相談してくれれば、一緒に考えられた。でも、あなたはそれをしなかった。自分一人で解決できると思ってた。認めなさい。」
「…違う。」
「違わない。」
顔を伏せた千子は、やがて静かに言った。
「私は、妹のところに行く。しばらく、あなたと離れて考える。」

千子はスーツケースを一つとショルダーバッグだけを持って、出ていった。鍵は管理組合のポストに入れておく、と言った。総一が「待ってくれ」と呼びかけても、彼女は振り返らなかった。扉が静かに閉まり、キャスターの音が廊下を遠ざかっていった。

それからの日々は、呆然と過ぎていった。電気代の支払いを忘れて、部屋の明かりが消えたこともあった。深夜のコンビニで買った値引きの弁当を、スマートフォンのライトを頼りに食べた。黒木に何度電話しても繋がらない。美吉に電話しても「もう諦めた方がいい」と言われた。黒木の事務所に足を運ぶと、そこはもぬけの殻だった。机の上には何もなく、棚にも書類はなく、電話機のコードは抜かれていた。部屋の隅に、紙くずと丸められた写真が捨ててあった。池袋の会議室の壁に飾られていたものと同じ、海辺の建物の写真だった。インターネットで検索すると、同様の手口の被害報告がいくつも出てきた。黒木という名前が使われていたかどうかは分からないが、手口は酷似していた。

そして、銀行から正式な通知が届いた。三十日以内に退去するよう求める、担保不動産に関する通知だった。日付を確認すると、残りは二十二日だった。

退去までの間、総一は淡々と動いた。三十五年前に引っ越してきた日に撮った、玄関先での家族写真をフォトフレームから抜き出して、折り曲げないように丁寧に上着の内ポケットに入れた。家具も家電も、ほとんど置いていくことになった。査定業者が来て、一通り部屋を見回して「まとめて二万円になります」と言った。総一は「分かりました」とだけ答えた。千子の荷物は、すでにほとんど運び出されていた。彼女が出ていった後、総一が外出している間に、まとめて運び出されたようだった。

退去の前日の夜、総一は空になっていく部屋を歩いた。家具が消えると、部屋が広くなった。壁の染みやフローリングの傷が、前より目立って見えた。ここに子供用の勉強机があった。ここで千子が裁縫をしていた。ここで正月に、家族全員が集まった。何もない部屋の中を歩きながら、それらの場所を踏んだ。だが、踏んでも何も起きない。記憶は総一の中にあるだけで、部屋には何も残っていなかった。台所に行って水道をひねると、水が出た。特に意味もなく、しばらくそのまま流し続けて、蛇口を閉めた。

当日、銀行の担当者が来て、書類に署名し、鍵を手渡した。玄関の鍵、郵便ポストの鍵、自転車置き場の鍵。合計三本。担当者はそれを受け取り、一礼して部屋の中に入っていった。総一はダンボール二箱とスーツケース一つを引いて、共有廊下を歩いた。三十五年前から点滅し続けている蛍光灯は、まだ誰にも取り替えられないまま、そこにあった。総一はそれを見て一瞬足を止めたが、歩き続けた。エレベーターに乗り、エントランスを出た。外の空気は冷たかった。誰とも顔を合わせなかった。マンションの敷地を出て坂道を下りながら、総一は振り返らなかった。

新しい部屋は、電車で四十分ほどの、住宅と小さな工場が混在した地区の、古い木造四階建ての一室だった。エレベーターはなく、六畳の和室には窓が一枚、押入れが一つ。台所と呼べるスペースは、入口のすぐ右側に二口コンロと小さなシンクがあるだけだった。床は古い緑色の樹脂製の畳で、壁紙は日焼けして黄ばんでいた。総一はスーツケースを部屋の中に入れ、ドアを閉め、鍵をかけた。それだけでもう、することがなかった。

部屋の真ん中に立って四方を見回した後、窓に近づいて外を見た。向かいの建物の外壁がすぐそこにあった。窓から空はほとんど見えず、外壁の上の方に、細い空の帯が見えるだけだった。スーツケースを隅に立てかけ、上着を着たまま、その場に座った。古い樹脂製の畳の感触が、手のひらに伝わった。弾力のない、硬い感触だった。しばらくそのまま何もせずにいると、隣の部屋からテレビの音と笑い声のようなものが聞こえてきて、やがて止んだ。

上着のポケットを探ると、右のポケットに写真の入った封筒。左のポケットにスマートフォン。それから、胸ポケットに指が何かに触れた。小さくて硬い、楕円形のもの。取り出すと、それはどんぐりだった。二センチほどの、小ぶりなどんぐり。帽子の部分が半分取れていて、乾燥して表面がつるつるになっていた。記憶が蘇った。ローンを完済してから三日後、息子の家族が祝いに来た。その時、孫が公園で拾ってきたどんぐりを、総一の上着のポケットに押し込んだのだ。「おじいちゃんにあげる」と言って。あの日の台所は子供たちの声で賑やかで、千子が笑っていた。それが、ほんの数か月前のことだとは思えなかった。

総一はどんぐりを手のひらの上で転がした。くるりと回って、止まった。また転がした。止まった。子供の頃、どんぐりを集めたことがあった。何に使うわけでもなく、ただ集めた。ポケットがいっぱいになると、家に持ち帰って引き出しの中に入れた。次の日には、興味がなくなっていた。大人になっても、人間は同じことをするのかもしれない。一生かけて集めたものを家に、貯金に、地位に、安定にして。そして、溜め込んだものが、ある日全部なくなる。

総一は立ち上がり、窓を少し開けた。外の冷たい空気が流れ込んできた。どんぐりを窓の外に放り出そうとして、できなかった。手を引っ込め、窓を閉め、どんぐりを胸ポケットに戻した。スーツケースを引き寄せて開けると、衣類の間から写真の入った封筒が出てきた。三十五年前の、玄関先での家族写真。総一はそれをしばらく見て、折り目がつかないように、スーツケースの内側のポケットにしまった。

外が暗くなり始めていた。部屋の電灯のスイッチを入れると、裸電球が一つ、黄色い弱い光を落とした。財布の中を確認すると、千円札が数枚と小銭があった。今月の生活費として手元に残してある現金だった。年金の振り込みは来週だ。コートを着て鍵を持ち、外に出た。路地を歩いて大通りに出ると、百メートルほど先にコンビニがあった。入って、弁当とペットボトルの水を買った。合計で六百円ほどだった。部屋に戻り、電球の下で食べた。冷たい弁当だった。電子レンジなんて、買う余裕はなかった。

それからのことを考えた。来週、年金が入ったら、まず家賃を払う。電気代、水道代、ガスの開通費用。食費は一日千五百円以内に収める。それで、なんとか生活は回る。ローンの返済は差し引かれた後だから、年金の手取りは大きく減る。それでも毎月の収支が赤字にならなければ、ギリギリで続けることはできる。仕事を探す必要があった。またハローワークに行く。また求人票をもらう。今度は選んでいる余裕はない。時給がいくらであっても、体が動ける仕事なら、何でもやる。それが、今の自分の現実だった。

スマートフォンを手に取り、息子の番号を表示した。名古屋にいる息子は、今頃、家族で食卓を囲んでいるかもしれない。総一はしばらく画面を見ていたが、発信しなかった。言えることが、今はなかった。事実を並べることはできる。だが、電話で何を言えばいいのか、どこから話せばいいのか。それを考えると、言葉が出なかった。千子がすでに話しているかもしれない。そうなら、息子からかかってくるはずだ。かかってこないということは、まだ知らないか、知っていて様子を見ているかのどちらかだ。どちらにしても、今夜は無理だと思った。

電球の光が部屋を照らし続けていた。黄ばんだ壁に、細かい染みがいくつかある。前に住んでいた人間が残したものだろう。どんな人間がここで何を考えて過ごしたのかは知らない。総一も、いつかここを出ていく。その時、自分もこういう痕跡を壁に残すのだろうか。隣の部屋からテレビの音がまた聞こえてきた。今度は音楽のような音で、しばらくして止んだ。

総一は上着の胸ポケットに手を当てた。どんぐりの硬い感触があった。あの子は、今頃風呂に入っているかもしれない。あるいは、もう眠っているかもしれない。五歳というのは、そういう時間に寝る。まだ何も知らない年齢だ。祖父がどんな状況にいるかなんて、知らない。知る必要もない。総一はポケットから手を離した。立ち上がり、電球のスイッチを消した。部屋が暗くなった。窓から外の光がわずかに差し込んでいた。布団はまだ届いていない。スーツケースから取り出したコートを体に掛けて、硬い畳の上に横になるしかなかった。

天井を見つめながら、総一は思った。怒りはまだある。だが、今夜は怒る力が出なかった。怒りの前に、疲れがあった。何日も動き続けた体の疲れではなく、もっと深いところの疲れだった。明日からどうするかは、明日考えればいい。それが逃げだと分かっていても、今夜だけはそうするしかなかった。目を閉じると、胸ポケットのどんぐりが、布地の上でわずかに動く感触があった。暗い部屋で、コートを掛けて、硬い畳の上で、六十八歳の男が横になっていた。体は健康だった。明日も歩ける。明日も動ける。それだけは確かだった。だが、その健康な体が、これからどれだけ長くここで横になることになるのか。そのことが、怒りよりも悲しみよりも、ただ静かに重かった。

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