「貧乏暇なしって、あんたのことじゃん。げっそり疲れた顔してるもんね」
出張の帰り、新幹線のグリーン車で弁当を開けようとした瞬間、隣の席に座ってきた元カノが、私を見て笑った。
高校時代、貧乏だという理由で私を振ったマヤ。二十年の歳月を経ても、彼女はまるで変わっていなかった。大手IT企業で働き、すでに結婚しているらしい。それを自慢げに語りながら、私を見下してくる。
仕事帰りで疲れているというのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。そう思ってうんざりしていると、車内に乗務員の切迫した声が響き渡った。
その後のまさかの展開で、マヤは赤っ恥をかくことになったのだ。
私の名前は新山。高校卒業後、家庭の事情で地元の中小企業に入社した。高校入学のタイミングで両親が離婚し、母に引き取られた。元々贅沢できる家庭ではなかったから、生活は世間的に言う「貧乏」な部類だった。
私自身は特別困っていたわけではない。ただ、クラスメイトと放課後にカフェへ行くのには積極的についていけなかった。それでも自分でアルバイトをして稼いでいたから、使いたいところにお金を使えていたのは、よく頑張っていたと思う。
高校卒業後は奨学金を借りて大学に進学しようと、授業後に必死で勉強していた。ある日、一人親の母が通勤中に事故に遭った。手術は成功したが、長期間のリハビリが必要だという診断だった。
母が生活を支えてくれていた分、今度は自分が支える番だ。そう思った私は、進学を諦めて就職することにした。普段から勉強に励んでいたおかげで、学校から推薦状をもらい、地元の中小企業への就職が叶った。
就職先は私の家庭の事情をよく理解してくれていた。母の通院の時は通院を優先させてくれた。さらに、その分を埋めるようにフレックスタイム制度を導入してくれるなど、働き方にも柔軟に対応してもらえた。
「前々から変えたいとは思っていたんだよ。でもなかなか踏み出せなくてね。ハルト君のおかげでその一歩が踏み出せた。感謝してるよ」
「感謝してるのはこちらの方です。お気遣いいただき、本当にありがとうございます」
よくしてもらっている分、何としても早く一人前になろうと、必死に頑張っていたのを今でも覚えている。
あれから二十年の月日が経った。私は今、新幹線の中にいる。仕事で任せてもらえることがかなり増え、出張がとにかく多くなった。移動は大体新幹線で、週に一回は乗っているだろう。
普段は支給されている金額のまま乗れる普通車で移動しているのだが、たまには少し贅沢をしたくなる時もある。今日はいつも以上に仕事を頑張ったとか、とにかくゆったりしたいと思う時は、追加料金を払ってグリーン車に乗ることにしている。
今日は全車だったから、私は堂々とグリーン車に乗り込んだ。足が伸ばせて広々とした空間に、テンションが上がった。グリーン車で移動しているなんて、高校卒業の頃の私が想像できただろうか。過去の記憶に思いをはせてしまった。
グリーン車に乗る時は、とことん贅沢すると決めていた。今日は少し良い幕の内弁当とビールを用意していた。さあ、これから静かに宴でも始めますかと、弁当を開けようとした時、横の席にやってきた人に声をかけられた。
声の方向を見て、私は思わず目を見開いた。高校の頃の同級生で、当時付き合っていたマヤだった。彼女は風貌こそ変わっていたものの、雰囲気は当時のままだったから、すぐに分かった。
「久しぶり。元気そうで何よりだよ」
それぐらいしか話すこともないだろうと思い、私は当たり障りのないことを言って、幕の内弁当に集中しようとした。しかし、マヤはそう思っていなかったようだ。
「なんであんたみたいな貧乏人がグリーン車に乗ってるの?」
ああ、そういえばそうだったな。私は思い出した。当時、そこまで贅沢はできなかったが、使いたいところにはお金を使えていた。高校生ではあるものの、デートの時には彼女を楽しませたいという気持ちが人一倍強く、彼女の要望に全て応えていた。
「今度ここ行きたい」「あれ欲しい」。彼女の無邪気さに、私も笑顔になれたし、負担にも思わなかった。家庭の事情で高卒で就職することになった時、家族も支えて、将来は彼女に堂々とプロポーズできるように仕事を頑張ろうと意気込んでいた。
でも、現実は想像とはかなり異なる展開を迎えた。
「やっぱり、貧乏な家の人は貧乏なままなんだよね。もう別れよ」
「え?」
「ずっと我慢してたけど、やっぱ無理。住む世界が違う人とはやっていけないわ。私は貧乏になりたくないから。じゃあね」
卒業式の日に、好きな人からまさかこんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。その時のマヤと今のマヤは、同じ表情をしていた。
「いや、高バスで十分すぎるくらいでしょ。グリーン車って笑えるわ」
「まや、どうしたの?」
マヤの後ろで、男性が不思議そうな表情でこちらを見つめている。
「ああ、高校の時の元彼。前に話してた貧乏の」
「ああ、あの人か。どうも」
「どんな話してんだよ」と思わず突っ込みそうになったが、ここで荒げてしまっては彼女たちの思う壺だ。私は軽く会釈で済ませた。
「あんた、まだ地元に住んでんの?」
「地元で暮らしてるよ」
「え、最悪。新幹線ずっと一緒じゃん」
最悪なのはこっちのセリフだ。せっかく贅沢に幕の内弁当を食べながら優雅な時間を過ごそうとしていたのに、まるで台無しだ。私の思い描いていた一時は、完全に打ち砕かれた。
マヤは聞いてもいないのに、今に至るまでの近況をひたすら語り出す。その声はとても大きく、周囲の人のことも考えていないんだなと思うと、呆れてしまう。夫も注意しないのかと疑問に思ったが、隣を見てみると、ほほえましそうな笑顔でその話を聞いている。
「自分とは住む世界が違って良かった」と心の底から思った。
マヤは有名私立を卒業後、大手IT企業に就職してキャリア組の一員として仕事に励み、社内恋愛を経て今の旦那と結婚生活を送っているそうだ。夫は年が近いが、すでに課長として働いていて給料もかなり良いという。聞いてもいないのに、よくそこまで自分のことをぺらぺらと話せるなと思ったが、とにかく、私よりいい旦那と一緒に慣れたことを自慢したいようだった。
「あんたみたいな、さえない地元の企業で働いてるのと違って、うちの旦那は桁違いで優秀なの。将来の役員候補なんだからね。恥ずかしいよ」
今すぐこの席から離れたい。もう普通席でいいから、静かな時間を過ごしたいと思う。周囲の人もあからさまに席を離れたり、お手洗いに移動する際にこちらを見てきたりと、困り切った表情を見せていた。私でさえうるさいと思うのだから、第三者からしたら迷惑以外の何者でもない。マヤたちは、そんな周囲の様子を全く気にする様子もなく話を続けていた。
「ねえ、さっきから話し相手になってあげてるってのに、なんでそんな態度なわけ?」
これは耐えられないと思った。
「疲れてるんだ。ほっといてくれ。あと、静かにしてくれ。周りの人にも迷惑だろう」
要点だけをまとめて話した。私は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「疲れてるって笑っちゃう。貧乏暇なしって、あんたのことじゃん。げっそり疲れた顔してるもんね」
疲労の大半は、このグリーン車に乗り込んでからの疲労だというのに。そんなことも知らずに、またしてもマヤは話し続ける。日本語が通じないようだ。
「うちら休暇で、高級ホテルに泊まってきたの。すごいリフレッシュしたし、夜景の見えるレストランは最高だったわ。本当に最高だったわ」
「本当に綺麗だったね。まやにぴったりだったよ」
「だよね。あんたには一生できない旅行だわ。ああ、そうだ。写真見せてあげようか。貧乏人がこんな機会見ることないでしょう。優しいね」
「本当に、こんな貧乏人と別れてよかったな」
夫までマヤにエスカレートして、暴言を吐いてきている。この状況は地獄でしかない。
うんざりして頭痛がしてきた。その時だった。
「どなたか、この中に医者の方はいらっしゃいませんか?」
ドラマでしか聞いたことのないような言葉が、前方の座席から聞こえてきた。体がとっさに反応する。
「医者です。どうなさいましたか?」
私は思わず立ち上がって、ほぼ反射的に駆けつけた。
「え、待って。なんで駆けつけてるの? ドラマの見過ぎじゃない?」
マヤたちの笑う声が追いかけてきたが、そんなものを気にしている暇はない。
「こちらの男性が、車内販売で回ってきたところ、急に倒れ込まれたんです」
机を見ると、私が買っていたのと同じ幕の内弁当が置かれていて、食べかけの状態だった。箸が置かれている先を見ると、煮物を食べていたようだ。
「誤嚥の可能性が高いです。処置するので、スペースを開けてもらってもいいですか?」
乗務員も協力して、移動販売のカートをすぐ別の場所に避けてくれた。私はこのお客さんの荷物を手際よく避けた。
誤嚥は、適切な処置が行われないと一気に救急搬送になる。
「ゆっくり、席をしてください」
私は意識が朦朧としたお客さんにそう声をかけながら、背中をさすった。何度か吐き出していると、お客さんの呼吸が深くなったように感じた。
よかった。これで大丈夫そうだ。喉に詰まっていたのだろう。物がころりと転がってきていた。
気づけば、周りの人たちは一斉にこちらを見ていて、マヤたちも例外ではなかった。ことが落ち着いたことを知ると、安心して席についていく人々がほとんどだった。だが、マヤたちは逆に近づいてきた。
「何? あんた、医者ごっこして楽しいわ」
「うけて、これどういうこと?」
マヤの後をついてきた夫も、こちらを見て顔面蒼白になっている。処置をしたことをまだ馬鹿にされるのかと思っていたが、2人が見つめていたのは私ではなく、私が介抱していたお客さんの方だった。
お客さんもマヤたちに顔を向けて、目を細める。
「さっきから、永遠と人を馬鹿にする言葉が聞こえてきて腹が立っていたんだが、まさか君たちだったとはな」
2人は言葉を失ったまま、何も言えない様子だった。
「助けてくれて、ありがとうございます。私は、この2人の会社で役員をしているものです。君が、さっきからこの人たちに心ない言葉を浴びせられていたのだろう? 私からもお詫びさせてほしい。本当に申し訳ない」
話を聞けば、役員だけでなく、2人が所属している部署の直属の上司でもあるそうだ。
「困っている人を助けてくれる命の恩人に対して、君たちはなんて言葉をかけるんだ。それに、公共の場所であることもわきまえずに。うちの会社の恥だ。処分は確実に下すから、覚悟しておくように」
「そんな、いらっしゃるなんて思っていなかったから」
「いなかったら、何をしてもいいのか? 違うだろう。ふざけるのもいい加減にしろ」
マヤの子供じみた言い訳に、役員は低く静かな声で諭した。
「なんで? なんであんたに医療の知識があるわけ?」
苦しげにマヤが言う。マヤが驚くのも無理はない。彼女は私のことを、高卒で地元の中小企業に入社した、しがない社会人だと思っているからだろう。実際、途中まではそうだった。だが、状況は変わった。
昔から医者になるのが夢だった。入社して働き出してからも、長年の夢を諦めきれなかった。当時の社長にこのことを相談したら、フレックスタイム制度を存分に活用したらいいと、学校に通いながら働くことを承諾してくれた。私は働きながら猛勉強して、医学部に合格した。その努力に当時の社長も感服してくれたらしく、仕事の量は減らしながらも、アルバイトとして雇い続けてくれたのだ。
「ハルト君が医者になってくれたら、わしが体調を壊した時にいつでも見てもらえるからな。安心が増えるわ」
社長はこう言いながら、私に気を使わせないように夢を追いかけさせてくれていた。おかげでアルバイトを掛け持ちしていたが、なんとか生活しながら大学に通って、無事に医師免許を取得するに至った。
免許取得後は正式に会社を退職し、今では地元で一番大きい大学病院に勤務しながら、地方の病院で応援要請があるとすぐに駆けつける医者として働いている。
「後日、一度診察に来てください。念のため、検査しておきましょう」
私はそう言って、名刺を役員に差し出した。その名刺を見たマヤたちは、「大学病院」と書かれた表記に衝撃を受け、私を見ては何も言えずに目を見開いていた。
「夢である人の命を救える仕事ができているんだから、貧乏人って言われたって何とも思わないよ」
ちょっと言い過ぎたと反省したが、この言葉が周りにも聞こえていたらしく、グリーン車中から拍手が湧き上がった。一方で、マヤとその旦那には、皆冷たい視線を向けている。2人は周りを見渡しながら気まずそうな様子で、足早に席に戻っていった。
それからは、さっきまでの騒がしさが嘘のような静寂に包まれた車内で、私は冷めてしまった弁当を食べた。
「先日は本当にありがとうございました。年配者だったので、あのまま助けてもらえなかったら危なかったです」
後日、検査で病院に足を運んでくれた役員と話をしていて、改めて感謝された。
「誤嚥と言っても、かなり危険ですからね。早めに処置できてよかったです」
「あの煮物、美味しかったんですけど、大きすぎますね」
「本当に大きすぎました。美味しいからつい一口で食べてしまったのが、良くなかったです」
私も同じものを食べていたから、その原因になった幕の内弁当を話題にして、笑い合うことができた。
「あの2人は、減給処分で平社員になり、地方の出張所に移動になりました」
「かなり厳重な処分をされたんですね」
私が想像していたよりも重い処分に、思わず驚いてしまう。
「あなたが罵声を浴びせられているところが、誰かに撮られていたらしくてね。あの後で拡散されまして。ネットであっという間に会社も特定されまして、モラル的にも厳重に処分を下そうという結論に至りました」
今の社会は怖いんだなと、私は思わずため息が出た。
「ネットはあまり見られないんですか?」
「ああ、はい。医学的な内容のものは見るようにしてるんですけど、SNS系は全く。その間にも勉強できますからね」
「まあ、あなたという方は本当に珍しい。その勉強熱心なところを、うちの社員たちも見習って欲しいくらいですよ」
役員が笑いながらそう言うが、私は一つ訂正したかった。
「モラルのなかった2人には持ち合わせていないかもしれませんが、あなたの会社にも必ず勉強熱心な社員がいるはずです。私でなく、その人を見つけて評価して欲しいです」
「確かに、あなたの言う通りだ。決めつけは良くないね。とにかく、ありがとう。本当に助かった。では、私はこの後会社に戻らないといけないから、失礼するよ」
そう言って役員は診察室を後にした。患者さんから感謝してもらえるのは、この上なく嬉しい。でも、奢ってはいけないと思っている。気を引き締めて、次の患者さんを迎え入れる。
入ってきたのは、かつてお世話になった会社の社長だった。
「術後の調子はいかがですか?」
「先生に社長って言われると、やっぱり変な感じだな。先生がしっかり手術してくれたおかげで、ばっちり回復しとる」
「それは良かったです。でも油断は禁物ですからね。じゃあ、検査結果を確認していきましょうか」
今目の前にいるこの社長が、後押ししてくれていなかったら、今の自分はいない。この人からもらった恩を、少しでも多くの人に治療として返していけるように、私は今日も診察に励むのだった。



