庭の真ん中に引き据えられた娘が顔を上げたまま動かなかった。庭を埋め尽くす人々の視線を一身に受けながら、その声は震えなかった。
「奥様、三つだけ申し上げます」
消えたはずの銀の簪と店の印形。証として突きつけられたのは、なくなったはずの品々と、身に覚えのない借用証文。だが、その娘はただ静かに真実を語り始めた。
「まず手前の部屋の戸は昨日の昼から鍵がかかっておりました。鍵は張り込み所にございました。次に、あの子が手前の部屋に入るなり、長持ちを押しのけ、その下を探りました。なぜあれほど正確に場所を知っていたのか、お尋ねくださいませ。最後に、手前が印形を盗んで何に使いましょうか。文字を習うてまだ一年余りの身にございます」
庭が静まり返った。張り込み所の子供の顔から血の気が引いた。それは誰の目にも明らかな動揺だった。
しかし奥方が言葉を断ち切った。
「下女の口から出た言葉で、この店の者を改めよと申すか」
――これは、その夜よりはるか前、一人の娘がまだ山を降りたばかりの頃の物語である。
江戸の本郷に五兵という男がいた。山形から集めた蚕を機に織らせ、江戸市中に下ろす大きな蚕問屋を営む地主であった。蔵には二つの蚕蔵が並び、働き人だけでも十人を超えていた。門から母屋までは二十五歩。その道のりを毎朝掃き清める数だけでも、この店の格式が立った。
蔵の奥には、五兵の息子が采配を振るう一角があった。腰に鍵束を下げて歩く男が、佐之助である。十八の年にこの店の養子に入り、早や三十年。蔵のどの棚に何がいくつあるか、目を閉じても分かる男になっていた。品の勘定を数えるのは必ず自分の手で行うという、誰にも譲らぬ習わしがあった。
しかし、誰も目に留めぬ場所があった。年に一度、山形からの繭の納めが決まって同じだけ減っていた。長帳には、数字を消して書き直した跡が所々にあった。その離れの縁側に座り、山形の集荷場からの報告を受け取っていたのが佐之助であった。まだ蚕問屋の一切を任されず、書物を手放さぬ控えめな人物であった。
佐之助が指で数字を辿っていく。豊作の年も不作の年も、まるで物差しを当てて線を引いたように、毎年決まった分だけ減っていた。三年分を並べてみて、どうしてこうも数字が揃うのか、佐之助には解けなかった。なぜ不作の年でさえ減りは変わらぬのか。誰かがこの数字に手を加えているとすれば、それは誰なのか。
その年の四月、佐之助は自ら山方の集荷場へ赴いた。五兵が同行を申し出て、二人で山を登った。集荷場について三日目、繭を受け取る日であった。庭の真ん中に大きな計りが吊され、山里から降りてきた女たちが列をなしていた。
欅沢村の番になった時、前に進み出たのはお雪という娘であった。二十歳。両親を早くになくし、病いがちな祖母と二人暮らしであった。祖母の分まで背負い籠に乗せ、峠を二つ超えてきたばかりであった。籠が計りに乗せられ、目盛りが揺れて止まった。普通に歩いてきた者の重みに比べ、計りが示した数字は随分軽かった。
お雪は秤を持ち上げた。そこに、灰色の錘が買った跡が指二本分ほど盛られていた。
「これは偽りにございます。薄い革で秤の底に貼り付けてございます。買入れの時だけこの重い秤をお使いになり、代金をお払いになる段になれば、革ごと剥がして軽い秤にすり替えるだけの仕掛けにございます。指の腹で押せばすぐに剥がれまする」
庭が静まり返った。縁側から声が上がった。
「その秤をこちらへ持て」
佐之助であった。五兵が先に進み出た。
「若様が自らお改めになるまでもございません。手前が確かめてまいりましょう」
五兵は秤を持って蔵に入りしめた。しばらくして戻ってきた時、秤の底は滑らかで、錘の跡はどこにもなかった。
「山里の娘が何かを見誤ったのでございましょう」
佐之助は何も言わなかった。だが、その時、視線がある一点にとまった。五兵が品書きに筆を立て、顔を押していた。縦に引き下ろし、まつびを左に跳ね上げる筆使いであった。わけもなく背筋が冷え、鼻先には行灯の油が燃える匂いがかすめた。どこで見た形か思い出せなかった。
周りの女たちが安堵の息をもらす中、お雪一人だけがその場を離れがたい思いで立ち尽くしていた。縁側に残った佐之助も、長く庭を見下ろしていた。計量を命じた時、真っ先に動いたのは役人ではなく五兵であり、彼は閉ざされた蔵の内側で確かめられてから出てきたのだった。
佐之助はその夜、宿で一人、帳面を広げ、納品の記録と江戸の定帳を並べて見比べた。数字はやはり揃いすぎていた。
――お雪の父は住吉という者であった。十俵を担いで行ったのに、繭は八俵分にしかならず、その度に空の背負い籠を担いで帰ってきた。母は父の背から籠を下ろしながら、いつも同じことを呟いた。
「今年もまた山が痩せたのでございますね」
父はそれに答えず、ただ黙って囲炉裏の前に座り込むのが常であった。お雪が五つの年中のこと、人々が炭を先に受け取るといい、担保を求めてきた。当時まだ若かった五兵が、仙台旦那様から山方の集荷を一任されていた立場を頼みに、一枚の借用証文を仕立てた。住吉三十俵を先渡し、代金は日本橋の東屋にて風点という名で支払うと記され、そこには五兵自らの顔が押されていた。それは仙台の顔ではなく、集荷を任された者としての証として、五兵自らが用いていた顔であった。
しかし父が東屋の戸を叩いた時、帰ってきたのは門前払いであった。借用証文を出せと伸びてきた手を振り払い、父はそれを懐に抱いたまま涙を飲んだ。その冬、見知らぬ二人組が家を訪ねた。長持ちを暴き、壁紙を剥がし、かどの隅まで書き回したが、何も見つからなかった。父はすでにその証文を隣人の茂兵に預けていたのである。
郷庄屋にそれを見せると、「これは大店の名を背負った顔だ。住の分際で相手の顔を疑えば、この顔が誰のものか、あなたに分かろうはずがございます。まず偽造だと言われましょう。あなたの首が先に飛びます」と諭された。そうして父は引き下がるほかなかった。
お雪が八つの年、父は借金だけを残して流行病で亡くなり、母もその冬を越せなかった。残されたのは母の使っていた木の糸巻き一つであった。お雪は母方の祖母に引き取られた。
収穫場での一件の後、佐之助と五兵は宿場で一晩の宿を取った。戸の向こうから、人足たちが話す声が流れ込んできた。
「この度の風天の品は、いつ大金を払うと言うておったか」
「長帳に記されておるのだから、そのうち払われるだろうよ」
佐之助はその名を心に留めた。五兵の店に風点という他行の取引先は聞いたことがなかった。まずは自分の目で帳面の中を探してみようと思った。
その年の五月、例年より遅い長雨が降り続いた。欅沢村の前を流れる川が増水した。品代がまだ届かぬため、お雪は蓑を羽織って山を下った。橋に着いた時、水はすでに橋板を舐めていた。流されてきた木の枝が橋脚に引っかかってきしんでいた。対岸から馬の音が聞こえた。佐之助であった。
「お止まりください」
その声を水音が飲み込み、馬の前足が板を踏んだ。お雪は身を投げた。手綱を掴むと、馬が驚いて前足を持ち上げた。まさにその瞬間、橋の片側が水流に引きちぎられた。ついさっきまで馬の蹄があった場所が、目をくらませるように崩れ落ち、泥水の中に消えた。お雪の手から手綱が抜けた。足首をひねり、土手へ転がり落ちた。懐から木の糸巻きが飛び出して、泥の上を転がった。
佐之助が馬から飛び降りた。お雪の右の足首が大きく腫れ、擦り傷から血が滲んでいた。佐之助が泥の中から木の糸巻きを拾い上げて手に握らせると、お雪はそれを胸に抱いてようやく息をついた。佐之助は答える代わりに膝を折り、お雪を背に乗せた。
「娘の足から血が流れておるのに、今さら対面など何になろうか」
祖母はその年の六月、息を引き取った。孫娘が泥まみれで運び込まれたその夜から床に伏し、夏を超えられなかったのである。今際の際、祖母はお雪の手を探り当てて握った。
「わしの父も、わしの母を越えられずに死んだ。お前は越えていけ」
葬儀にかかる金は村人たちが出し合ってくれたが、それでも足りず、結局家の中のものを手放すことになった。祖母の使っていた糸車と母の残した木の糸巻きだけは、どうしても手放せなかった。
葬儀を終えて四日目、佐之助が訪ねてきた。お雪は喪服のまま縁側の橋に座り、頭を垂れていた。
「娘後に頼みたいことがある。江戸の店に蚕蔵が二つあるが、近頃品物がよく痛む。娘が来てみてくれれば助かる」
「不躾に思われてのお言葉でございましたら、お断りもございます。道場で受ける飯は喉に詰まるものと、父がいつも申しておりました」
お雪は膝の上で拳を握りしめながら答えた。ふるいの底を見抜く目を、贈り物に思って呼ぶものはおらぬ。給金はいくらほどいただけますか?
「役人と同じだけ払おう」
「その給金から毎月いくらか差し引いて、葬儀の借金の返済に当ててくださいませ」
「そういたそう」
出立の朝、お雪の足首が痛み、思うように歩けなかった。祖母を見取った疲れと癒えきらぬ足の傷、慣れぬ長旅が重なり、お雪の体には知らぬ間に熱がこもっていた。荷運びの仕事で江戸に下りてきていた茂兵が近寄ってきた。
「お前の父が死ぬ前の晩に、しに預けていった紙が一枚ある。何かはわしも知らぬ。ただ、死んでも汚すなと言われた。いつの日か、その紙の分かる者に出会うたら、取りに来い」
お雪は頷いたが、その時はその言葉が心に長く留まることはなかった。
本郷の街を登る道すがら、佐之助はお雪を両腕に抱いたまま門をくぐった。庭の働き人たちが手を止め、その場に凍りついた。三十年この店に使える者たちも、若様の腕に抱かれてこの門をくぐる女を見るのは初めてであった。奥の縁側に奥方が立っていた。何も言わず、ゆっくりと奥を閉じた。奥の閉じる音が庭の隅々まで響いた。
翌朝、奥方は息子を呼びつけた。
「昨日は、お前がこの店の格式をどうまたいだか、そなたは知っているのか?」
「奉公人が十二人もいる店です。大儀を連れてくる者がいなくてどうしますか?」
「母上が見たものが人ではなく娘であったなら、それは母上の目にございましょう」
その日から屋敷の中で噂が立ち始めた。あの娘、若様をたぶらかしたのではないか、と。お雪は何ひとつ弁解せず、熱が引くとすぐさま起き上がって働いた。噂に言い返すより、まず自分の手で示すのが父の教えであった。
日本橋の外にある東屋への使いを言いつけられた。東屋の女将はおた子と言い、年は八十を超えていたが、指先一つで織物の質を見抜く女であった。縁側に並べられていた絹物の切れ端を見て、お雪はしゃがみ込み、三つの山に分けた。
「この山は糸が太く、洗いが足りぬので夏物によろしございます。この見切れは途中で糸が巻かれ、質を等しくお払いになればお損をなさいます」
おた子が身を起こし、絹物を一枚ずつひっくり返して確かめた。粗悪な部分は言われねば分からぬところに巧妙に隠されていた。
「これをどこで習うたのか」
「習うたのではございませぬ。幼き頃より山で糸を紡いでおりました故え」
おた子は風呂敷包みを一つ持って出てきた。色が焦げて古びた絹が入っていた。
「これは根がつかず、三年も積んでおいたものだ。お前に生き返らせられるか?」
「いただけますでしょうか?」
「生き返らせれば、根の半分をやろう。生き返らせられなければ、この一つ包みの根を弁償してもらう」
十日後、裏庭の物干しに、生き返った絹が干された。おた子の店では次から次へと難しい品が持ち込まれるようになり、この娘の目は本物だと確信を深めていった。
数日後、おた子は佐之助にこう言い残した。
「この間、日本橋の外の松兵のところであの子の目にかかった品と同じ結びの端物を見かけました。あそこの定帳、少し洗ってみる値打ちがございます。松兵の店は、以前から出所の怪しい品を安く扱うと評判の悪いところでございます」
佐之助はその名を書き留めた。松兵。この店の取引先ではなかったはずである。何の縁もない店になぜ欅沢の結び目のついた品が流れ込んでいるのか。おた子はその手代の報告を聞くと、すぐには動かず、数日に渡り手代を松兵の店の近くに置き、出入りする荷車と人の顔を控えさせた。ある夕方、着いた先で五兵らしき人影が松兵と何やら金銭を受け渡しているのを、手代が物陰から見届けた。おた子はそれを聞いても顔色一つ変えなかった。
「証がまだ足りぬ。もう少し様子を見よう」
長年市場で生きてきた女の勘が、ことを急いでは証を潰すと告げていたのである。
その年は空梅雨であった。六月に入っても雨らしい雨が降らず、七月まで晴れが続いていた。しかし、お雪はその朝から胸騒ぎが収まらなかった。山で育った者だけが分かる。肌にまとわりつくような湿り気をお雪は確かに感じ取っていた。手のひらを蔵の壁に当ててしばらくじっとしていたかと思うと、床の隅の土を一切り、指で揉みほぐしてみた。
「若様、この蚕蔵を全て高い棚の上にお上げくださいませ。壁がすでに水を含んでおります。表は乾いて見えても、手のひらを当てれば冷やりといたします。山の住焼き小屋が、この気配を見せてから三日以内に大雨が来ました」
夜番に板が笑い声を立てた。
「この蔵は三十年間そこにありました。山里の住焼き小屋と店の蔵を同じに語られましょうか。蚕三百を運ぶとなれば、労人が一日がかりとなりまする。その間に物が痛めば、その根は誰が弁償いたしましょうか」
佐之助は答える代わりにお雪を見た。
「構わぬ。わしが運べと命じた」
人足たちが蚕三百を高い棚の上に運び上げた。ところがその日が過ぎても、雨は降らなかった。夜になっても空は曇るばかりで、皮肉と嘲りが投げつけられた。
その夜、雨粒がぽつりぽつりと落ち始めた。明け方、裏手の排水路が破れ、泥水が一尺を超えて流れ込んできた。蔵の床は、またたく間に膝の高さまで水に浸かった。日が明けて蔵の戸を開けた時、高い棚に乗せられた蚕三百は、一枚も濡れずにそのままであった。本郷の他の店では品物の半分を捨てる事態となった。無事な絹を持つ店は五兵のところ一つ切りであったから、根はいい値段で倍になり、大きな利を得た。
決算を終えた後、五兵が膝を打った。
「今年は我が店が儲けたな」
「誰の手柄」とおた子が腰を折った。
「手前が前もって手を打っておきましてございます」
その日の夕方、佐之助は皆の前で言い直した。
「これは五兵の手柄ではなく、お雪の手から生まれたことにございます。壁を触って雨を言い当てたのは、あの娘の指先にございます」
庭の橋に立っていたお雪が顔を上げた。お雪は二十年生きてきて、自分の手で成したことを自分の名で呼んでくれる者を見たことがなかった。
長屋の橋の上、五兵の部屋では夜ふけまで灯りが消えなかった。五兵は帳面を広げもせず、ただ壁を見つめて座っていた。三十年、この店の庭で品物の質を左右する言葉はただ一つであった。ところが今、若様が別の名を呼ぶようになっていた。この娘はいずれ厄介な存在になるやもしれぬ。
五兵は明け方、下僕の喜助を呼びつけた。
「あの娘の身の上を洗いざらい調べて参れ。どこの生まれか、親は何をしていたか、細かく知りたい」
喜助はその夜、命じられるまま欅沢へ向けて立った。村の老女たちに声をかけ、あの娘の親のことを尋ねて回った。住焼きの吉蔵とその妻の話。二人が早くに亡くなったこと。娘が一人残されて祖母に育てられたこと。江戸へ戻る道すがら、その話を何度も頭の中で繰り返した。旦那様がこれほど気にかける理由が、どうしても掴めなかった。
喜助が報告した。
「あの娘の父親は、住吉というものにございました。十五年前ほど前、山形の中から蚕を納めて代金を受け取れなかったとかで、村の者が今も語り草にしております」
五兵の手が止まった。
「よし」
その名を聞いた瞬間、顔から血の気が引いた。あの証文はまだこの世のどこかに残っているやもしれぬ。
秋が深まると夜が長くなった。佐之助がお雪を離れの人間に呼び、文字を教え始めた。蔵の仕事を任せるには品書きを読み、帳をつけられねばならぬというのがその理由であった。初日の夕べ、お雪は筆を握って手を震わせた。糸だけを握ってきた手が、筆の重さに堪えられなかったのである。佐之助はせかさず、一つの数字を十、二十とかき消して見せた。紙に炭が飛び散り、お雪の指先はすぐに真っ黒になった。それでもお雪は手を止めなかった。
五日ほど経つと、お雪の紙に変化が現れ始めた。数字の横に、小さな記号がつき始めたのである。
「これは何だ?」
「欅沢の品にはこの結び目を、秩父の品にはこの結び目をつけまする。村ごとに糸の癖が違います。ゆえに結び目を見るだけで、どこから来たか分かりまする。この丸印は日付にございます。一の日に当たる日は丸一つ、十五の日に当たる日は丸二つと記しておりました。この長帳は、若様がお使いになるものとしてお渡しいたします」
佐之助はその紙をしばらく見つめた。長帳というものは、こうも書けるものであったか。この紙はわしが預かっておこう。以後、お雪の手習いの紙は、佐之助の手で蔵の隅に一束にまとめられてしまわれるようになった。
その夜、お雪は自分の名前を初めて書いた。墨が乾くのを待ってから、燭台の火に近づけて見つめ、小さな声で言った。
「手前の父は、死ぬ日まで自分の名前も書けませんでした。市場で紙に何か記せと言われると、指に墨をつけておりました」
佐之助が筆を置いた。
「ならば、この宵に娘が書いたのは、娘の名だけではないな」
お雪は何も言わなかったが、紙の上に墨ではないものが一滴落ちて滲んだ。
数日後の夜には、品書きの紙を前に読み方を習った。
「ここの印が見えるか。これは品倉から出たという証の顔だ。この印は、文書における署名と同じ重みを持つ。人足を遣わせば、金のやり取りの証となる。この印がなければ、いくら数字が書かれていても、それはただの紙ではない」
お雪の筆がその場で止まった。縦に引き下ろし、まつびを左に跳ね上げる形。どこかで見た形なのに、それがいつ、どこであったか、どうしても思い出せなかった。ただ背筋が冷え、鼻先に油の燃える匂いが触れた。
「どうかしたか」
「いいえ。何でもございませぬ」
その夜、お雪は夢を見た。父の膝の上に座っており、行灯の前に黄ばんだ紙が広げられ、自分の指先がその紙の上を動いている夢であった。父が何か言っているのだが、その声だけがどうしても聞こえなかった。目が覚めても、その声の余韻だけが耳の奥に残っていた。
同じ頃、五兵の部屋では、喜助がお雪の手習いの紙を几帳の影から盗み見るようになった。もしあの娘が顔の形を覚え、その意味に気づいたなら、三十年かけて積み上げてきたものが、一枚の紙切れで崩れ去るやもしれぬ。五兵の腰の鍵束が、少しずつ重みを増していくように感じられた。
翌年の春、蚕が死に始めた。山形の養蚕所から知らせが届いた。よく食べていた蚕が三日で身が黄ばみ、桑の葉を口にしても飲み込めず、そのまま固まっていく。五日と経つと、養蚕所の一つが丸ごと空になった。一年の稼ぎを蚕に賭けていた家であったから、蚕室が空になるということは、その冬が空になるということであった。
欅沢からも早馬が立ち、養蚕所の事情を告げてきた。お雪はその知らせを聞いた瞬間、山の女たちの顔が一人一人目に浮かんだ。
屋敷が騒然となった席で、五兵が先に口を開いた。
「昨年まで達者であった蚕が、どうして急に死にましょうか。変わったことといえば、人が一人増えたことだけにございます。あの娘が染めをすると言って、ありとあらゆるものを煮しめておりました。ゆえ、その匂いが桑の畑を越えて養蚕所の方へ流れたに相違ございませ」
お雪が先に膝をついた。
「十日だけお時間をくださいませ。十日以内に明らかにできなければ、好みこの店を出ます」
四日目の朝、蚕を裏返してみると、繭の糸の脇に泡粒ほどの黒い点が見つかった。
「この蚕はどこから入ったものにございますか?」
長帳を辿ると、先月新たに取り引きを始めた商人の名が出てきた。他より安く良い品であったと言っていた、あの名であった。佐之助がその商人を調べさせると、日本橋の外の松兵の店に出入りする者だとは分かった。松兵の名がまた出た。これで二度目であった。
病んだ蚕から取れた繭は、見た目だけでは無事なものと見分けがつかなかった。
「これでも糸は取れまする。根を少し下げて渡せば、損はまぬかれましょう」
暗役人の言葉に人々が頷きかけた時、お雪が進み出た。
「取れることは取れましょう。しかしその糸は半年でダメになりまする。今の損を逃れられましても、三年後には『店の品』という言葉そのものが、根を下げる言葉になりましょう」
蔵が静まり返った。すでに代金を払って品を待つ注文がいくつもあり、それを断れば銀数百両がそのまま消えることになる。五兵が息子を見た。どうすれば良いのだ。
「お断りするべきかと存じます。その数百両で、店の名を買い戻すものと心えます」
注文を断るのに四日かかった。病んだ繭は庭に積み上げられ、人々の見ている前で焼き払われた。品物を売らずに焼いた店という噂が市場に広まった。蔵の前で五兵が高笑いをする間、五兵は庭の影に立ってお雪の後ろ姿を見つめていた。この娘はこれ以上、放っておくわけにはいかぬ。
その年の秋、今度は染め部屋で起きた。収繭を控えた絹の絹が、次々と橋から落ち始めたのである。ちょうど日本橋の得意先に納める約束の品であった。お雪は慌てて蚕室を改めた。桑の葉の匂いがいつもと違っていた。誰かが桑を別のものと入れ替えたに違いなかった。染めを一から作り直す間、約束の日限は過ぎ、得意先には詫び金を払わねばならなくなった。蔵役人が調べに入り、桑を運んだ人足を問い詰めた。人足は震えながら白状した。
「手前は旦那様から直接と言われたのではございませぬ。見知らぬ男に銭を渡され、桑の蚕室に一晩だけ手を加えるよう頼まれましてございます。誰の差し金かまでは分かりませぬ」
五兵はすぐさま先手を打った。
「手前も驚いておりまする。大方、喜助が蚕室の場所を間違えたのでございましょう。年でございます故え」
喜助は身に覚えのないことだと訴えたが、聞き入れられなかった。三十年この店に使えた老いた下僕は、荷物一つを背負って門を出された。その日の夕方、日本橋の外の店先に、行く当てのない喜助の姿があった。それを見留めたのがおた子であった。
「何があったか細かくは聞かぬ。ただ、うちで力を貸してくれる者がいる」
おた子はそれだけ言って、喜助を奥へ通した。喜助は深く頭を下げるばかりで、しばらく言葉にならなかった。
その冬から佐之助は一つの習わしを始めた。荷倉庫から出る品の数量と、日本橋から戻ってくる代金の額を密かに突き合わせるようになったのである。表向きは店の跡取りとしての勉強と語っていたが、実のところは五兵の帳面に潜む隙を探すためであった。数字は毎回わずかに合わなかった。品の量にして、戻ってくる代金がいつも少なかったのである。しかしその差はあまりに僅かで、これだけでは誰にも訴えられぬと佐之助は思い知らされた。もっと確かな証がいる。
お雪は絹の束に印をつける工夫を思いついた。
「品になくとも、作ったものは残りまする。化そうとしても消えませぬ」
絹の橋の内側に糸を通して結び目を作るのだが、手があまりに早く、一端あたり数を数える間もかからなかった。
「この結び目は欅沢でも手前だけが結ぶものにございます。解いてみれば、内側に二度かけてございますが、真似には年期をかけて学ばねばなりませぬ」
その夜、二人は蔵にこもり、絹を一端ずつめくりながら結び目を作っていった。一つを間に挟んで向かい合い、明方まで手を動かし続けた。百端を過ぎた頃、お雪の指先が避けて血が滲んだ。お雪が手を隠そうとするのを、佐之助が先に見つけた。佐之助は自分の着物を裂き、その手に巻いた。
「若様、その羽織りをどうなさるおつもりで?」
「この羽織りは百端のうちの一端に過ぎぬ。娘の手は一つしかない」
しかしその蔵の外には、五兵が十年前に自ら雇った番人が立っていた。結び目を一つ見つけると、そのまま五兵の部屋へ向かった。番人たちが来た。五兵は結び目のついた端物だけを選んで手代に外させ、その部分だけ切り取って燃やし、残った布は結び目を消した上で積み出させた。ただ一人の手代が、折り目の奥深くに隠れた結び目を一つ見落とし、それが混じったまま運び出された。
四日後、佐之助は父を伴って松兵の店へ向かった。
「品を少し改めたい」
松兵がへつらいながら蔵の戸を開けた。二十、三十と過ぎたが、結び目は見当たらなかった。
「旦那様、これらは手前が別に買い入れた品にございます」
佐之助は裏手へ回ってみた。かどの前に紙の灰が山と積もっており、手を入れてみるとまだぬくもりが残っていた。灰の中に、くすぶって焼け残った紙切れがあった。「風点」と読める文字が、かすかに残っていた。灰にまみれたその指先を見つめながら、佐之助は確信を深めていった。誰かが慌てて何かを消そうとした痕が、ここに残っている。それだけでは何の証にもならなかった。
屋敷に戻った佐之助は、これまでの控えを全て長持ちに収めて離れへ運び、錠を下ろした。鍵は佐之助が自らの腰に下げた。その日から、五兵はその長持ちに手を出せなくなった。
同じ日の夕方、五兵は離れの縁側の下に膝をついた。
「旦那様、手前をお払いくださいませ」
「何を申すか?」
「それは十八の年にこの店の式を務め、早矢にございます。この間、手前はこの店の蔵を我が命の次に重しと持って生きてまいりました。それが今、若様が帳面に錠を下ろしになったからには、手前がどんな顔をしてこの店の庭に立ちましょうか」
五兵が肩を掴んで立たせた。
「三年に仕えたものを、わしが何をしたというのか。証もなく、三年のものを追い詰めるのが商人の道か」
五兵はその夜、眠らなかった。長持ちに錠が下りたということは、筆を奪われたということであった。欅沢から来た娘の父の名が吉蔵であったと知った日から、十五年前に最後まで見つからなかったあの一枚の証文が、心の底に沈んでは浮かび上がるようになっていた。あの娘が字を学び始めている。顔の形すら覚え始めている。もしあの娘の手にあの証文が渡ったなら、三十年かけて積み上げてきたものが一枚の紙切れで崩れ去るやもしれぬ。
五兵は明け方、店印を真似て彫らせた偽の印を取り出した。以前、店の外での小さなやり取りに使うために、こっそり作らせたものであった。この印さえあれば、あの娘を盗人の罪で縛ることができる。この印を使い、二重の借用証文を一枚仕立てた。お雪の名を借り、去年の冬に染めの品をだめにした弁償として二十両を借りているという内容であった。
五兵はその足で、張り込み所の子供の元へ向かった。
「奥様の紙を、行きの部屋の長持ちの下に隠しておくよう。見つけたら大声で知らせるように」
子供は何も知らぬまま、旦那様の言いつけだからと素直に頷いた。五兵はその小さな肩を軽く叩き、「これで良い」と呟いた。
翌朝、蔵が騒然となった。奥方の銀の簪がなくなったというのである。合わせて、店の印形まで見当たらないという。印形は文書に押すものであったから、それがなくなったという知らせに、庭の者たちの顔から血の気が引いた。
張り込み所の子供の一人が庭に駆け出してきた。
「奥様、手前、見ましてございます。あの娘の部屋へ何かを持って入るのを見ましてございます」
奥方が戸を閉めた。
「調べよう」
人々がお雪の部屋へなだれ込んだ。長持ちを押しのけてその下を探ると、銀の簪と印形が一緒に包まれていた。お雪はその場に呼ばれるまで、何が起きているのかも知らなかった。蔵から呼び出され、手を洗う間もなく引き出されたのである。
庭に引き据えられたお雪の前で、五兵が偽の証文を広げた。
「この者は、二重の弁償をすべき身にございます。盗む理由には相成りませぬな」
お雪が顔を上げた。庭を埋め尽くす人々の視線を一心に受けながらも、その声は震えなかった。
「奥様、三つだけ申し上げます。まず手前の部屋の戸は昨日の昼から鍵がかかっておりました。鍵は張り込み所にございました。次に、あの子が手前の部屋に入るなり、長持ちを押しのけ、その下を探りました。なぜあれほど正確にその場所を知っていたのか、お尋ねくださいませ。最後に、手前が印形を盗んで何に使いましょうか。文字を習うてまだ一年余りの身にございます」
庭が静まり返った。張り込み所の子供の顔から血の気が引いた。それは誰の目にも明らかな動揺であった。しかし奥方が言葉を断ち切った。
「下女の口から出た言葉で、この店の者を改めてよと申すか」
奉公人たちがお雪の部屋へ再びなだれ込んだ。長持ちを開け、布団を裂き、壁紙を剥がした。庭に立ってそれを見守る五兵の目は、庭先に投げ出される品一つ一つに吸い寄せられていた。蔵役人の足元で、木の糸巻きが踏まれ、片側が欠けた。しかし五兵が探していたのは簪でも印形でもなかった。あの証文はついに出てこなかった。五兵の顔が暗く沈んだ。それは安堵ではなく、まだどこかにあるという恐れの色であった。
奥方が庭の隅を指した。
「役所へ引き渡せ。店の印形を盗んだ罪だ」
「母上」
佐之助が前に立ちはだかった。
「この店から出すという形にしてくださいませ。それ以上はなりませぬ」
役所に引き渡されれば、生きて戻れぬことを佐之助は知っていた。お雪は立ち上がった。欠けた糸巻き一つだけを拾って、懐に入れた。佐之助が庭を横切ろうとした。その時、奥方が息子の袖を掴んだ。庭の者たちには聞こえず、息子にだけ聞こえる声であった。
「あと一歩でも踏み出してみなさい。その足で人を遣って役所に引き渡す。あの娘は今日、この門を生きて出られぬぞ」
佐之助の足が、地面に打ち込まれたように止まった。お雪にはその言葉は聞こえていなかった。ただ、自分の方へ歩みかけて止まった一つの足だけが見えていた。お雪はその場を長く見つめていた。この人は違うと思った。名を呼んでくれた人だと思った。手が避けた時、自分の着物を裂いて巻いてくれた人だと思った。その全てが、庭の真ん中で止まった一つの足にかかっていた。
若様。佐之助が口を開いたが、声が出なかった。
「若様が手前をお信じになることと、手前の側に立ってくださることは、別のことでございましたようです」
お雪は頭を下げた。
「手前がこの店で得たものは、文字をいくつか覚えたことだけにございます。それで十分にございます」
積み上げてきた給金は、あの偽りの証文によって全て弁償に当てられ、手元には一銭も残らなかった。門を出る時、手にしていたのは欠けた糸巻き一つだけであった。
お雪が去った後、佐之助は毎朝、無紋の着物に着替え、表の門ではなく裏木戸から外へ出るようになった。荷物を運ぶ人足たちに混じって一日を過ごし、日本橋の外の東屋の路地を、まるで奉公人のように歩いた。羽織りを脱げば、誰も呉服屋の若様とは見ない。人々が交わす話が、そのまま耳に入ってきた。
一方のお雪は、門を出たその足でおた子の店を訪ねた。何も語らずともおた子はお雪の様子から大方を察し、しばらく奥の納戸を使わせることにした。染の技を見込んで声をかけてくれる店もあったが、お雪はどこにも深く関わろうとはしなかった。あの店で起きたことの真相を突き止めぬ限り、どこにも心を落ち着けることはできなかったのである。
佐之助は帳の木箱を開けた。お雪の書いた手習いの紙の束が、そのままあった。五兵は裏長や札取りの控えは焼いたが、娘の手習いには目もくれていなかった。丸一つは一日の一、丸二つは十五日の一を示していた。帳が動いた夜が、物差しで測ったように並び、この一年、一日も狂ったことがなかった。この紙一枚一枚に、お雪が積み重ねてきた日々が刻まれている。それを思うと、佐之助の手は震えた。一日と十五日ならば、次の一日の夜を見張れば良い。
同じ頃、お雪は街道を歩き続け、茂兵の家の前に立った。長い道のりであったが、お雪の足は不思議と重くなかった。
「おじ様、父が預けていったという紙を取りに参りました」
茂兵が長持ちの底を長く探り、黄ばんだ紙を一枚取り出した。十五年経って、糸が擦り切れ、折り目が避けていた。お雪はそれを灯りの下に持っていき、字の読める目で読んだ。まず目に留まったのは、紙の右端にある印の顔であった。縦に引き下ろし、まつびを左に跳ね上げる形。お雪はその場から動けなくなった。五つの年、父の膝の上で指先でなぞっていたあの形。集荷場の庭で品書きの筆を取っていた五兵の筆先。離れの間に、これが顔だと若様が差し示していたあの跡。三つが、重なって浮かび上がった。
それからお雪は、ようやく紙の文言そのものを読んだ。証文ではなかった。借用証文であった。住吉三十俵を先渡し、その代金は日本橋の外の東屋にて風点という名で支払うと記されていた。一言一言を目で追ううち、幼い頃には分からなかった意味が、次々と胸に落ちていった。最後の一文に、お雪の目が留まった。「当代旦那様の大店の名を頼みに」と記されていた。
父を欺いたのは、見知らぬ大店の主ではなく、その名を勝手に借りた、たった一人の手代であったのだ。吉蔵から繭を受け取り、代金を払わなかった者と、五兵の蔵から夜な夜な運び出された品を受け取り、積み上げてきた者が、同じ人物であった。
お雪が紙を両手で握った。指先が震えて、紙が灯りの火に揺れた。
「父上、これが何であったのか、今ようやく分かりました」
翌朝、近所の女が息を切らして駆け上がってきた。
「お雪、麓の村がすっかり騒ぎ立っておるぞ。お前が店を出されたという噂が山を越えて伝わってきてな。お前のおかげで根を叩かれずに住んでいた村が、黙っておらぬのだ」
お雪はそれを聞いて立ち上がった。次の一日までは、まだ遠かった。
「おば様、日本橋の外の東屋へ、一つだけことづてを頼まれてくださいませんか? おた子様に、次の一日の夜に人手がいりますとお伝えください」
同じ頃、佐之助もまた、帳簿の日付と手習いの紙の丸印を突き合わせ、次の一日の夜こそがその日だと確信していた。誰にも知らせず動けば、証を潰しかねない。五兵の行方は分からぬままであったが、迷う糸口はなかった。佐之助は使いを走らせ、おた子にも見張りの手を頼んだ。「次の一日の夜、日本橋の外れで蔵が動くやも知れぬ」と認めた文であ。
おた子はその二通のことづてを受け取ると、すぐさま動いた。一通はお雪から、一通は佐之助から。互いに知らせ合ったわけでもないのに、同じ夜を指していた。これは間違いなかろう。おた子はそう確信した。日本橋界隈の問屋仲間に声をかけ、店に水桶を備えさせた。証を焼かれては元も子もない。そう見越してのことであった。喜助にも声がかかった。その夜、目にしたものがあれば申し出よう。さらにおた子は、欅沢や秩父から品を納めていた女たちにも使いを出し、橋で待つようを伝えた。
一日の夜であった。風が路地を抜けるたびに、木戸の隣の揺れた。日本橋の外れ、五兵用の蔵が一つあった。正面には札が掛かっておらず、門には屋号も掲げられていなかった。実は、おかしい。実のところは、五兵が風点の名で使ってきた蔵であった。
五兵がその前に立っていた。長持ちに錠が下りた日から、手を出す場所がなくなっていた。若様が帳簿を密かに突き合わせているという話が聞こえ、無紋姿の若様を見たという話も伝わってきていた。残された道は一つ切りであった。
裏の蔵の中には、この一年で抜き取った品が袋のまま積み上げられていた。それが灰になれば、この世に残るのは五兵の長帳と五兵の顔だけになるはずであった。五兵は油を掛けた。行灯の火を投げつけた。炎が奥の柱を這い上がるのを見届けてから、身を翻した。
まさにその時、路地の角から足音がなだれ込んできた。佐之助が先頭に立ち、その後ろにおた子が問屋仲間を引き連れて続いた。夜の闇を切り裂くように、いくつもの提灯の火が路地に近づいてきた。
「まず水を組め」
佐之助が指図し、人夫たちが桶を手に走った。おた子は近隣の店に声をかけ、水桶の列を作らせた。喜助が裏手の勝手口の場所を差し示した。
「あちらに小さな戸がございます。荷を運ばれた時、手前は何度もあの戸から出されましてございます」
そこへ、橋で待っていた女たちが駆けつけた。欅沢から、秩父から、品を納めに来ていた者たちであった。その先頭に、お雪がいた。なぜここへ。娘が来てくれると思うておった。
お雪は炎の勢いの弱い戸口の近くまで進み、腕を伸ばして、結び目の見える袋を一つだけ引き寄せた。焦げた折り目がめくれ、隠れていたはずの結び目が表に浮き出ていた。柱の一本が音を立てて傾いた。佐之助が飛び込んでお雪の腰を抱き、そのまま戸口の外へ連れ出した。二人の後ろで、燃え落ちた柱が地面を叩いた。あと一歩遅ければ、その下敷きになっていたところであった。
灰を被った二人が、庭の隅で向き合った。何の言葉も交わさなかったが、互いの息遣いだけが、そこに確かな安堵を伝えていた。
騒ぎに紛れ、五兵は路地の奥へ向けて走り出した。しかしその先には、おた子が前もって手配していた者たちが待ち構えていた。腕を掴まれ、引きずられるようにして戻された。
日が明ける頃、火は消し止められた。品物の一部が庭に運び出され、役人たちが路地に入ってきた。五兵が人々の間をかき分けて入ってきた。捕らえられた五兵は、それでも名前を言い張った。
「旦那様、これは全て松兵の品にございます。手前は火事と聞いて駆けつけただけにございます」
奉公人の一人が進み出た。
「日本橋の問屋仲間から、この蔵について前もって届け出があった。おた子殿からの届けである。松兵殿の名義であるが、実の主が別におるとの申し出であった」
お雪が救い出した袋の一つを人々の前に広げた。
「この結び目は、上から二度巻き、下から一度かけて、橋を内に押し込んでございます。欅沢の女たちだけが結ぶ形にございます」
橋から駆けつけた女たちが、それぞれ自分の袋を差し示して、結び目を解いて見せた。一人一人が自分の手で結んだ証を掲げるたび、役人たちの間に驚きが広がった。
「これだけではまだ五兵の仕業とは決まりませぬ。松兵の店の品と言い張れば、それまでにございます」
喜助が人垣の中から進み出た。その足取りは年にためおぼつかなかったが、声だけは震えることなくはっきりとしていた。
「旦那様、夜な夜な荷を運ばされていたのは手前にございます。染の蚕室の一件で店を追われましたが、あれは手前の仕業ではございませぬ。あの夜、五兵様が張り込み所の子供を呼び出し、何やら耳打ちしておられるのを、手前はこの目で見ましてございます。幾十年、この店の飯を食うた身に恥じて、これまで口を閉ざしておりましたが、お雪様が命がけで品を運び出されたのを見て、耐えられませなんだ」
そこへ佐之助が帳簿を開いた。
「これまで数年分の長帳のどこにも、風点という名はございませぬ。品はこの店から出ていったのに、その代金はこの店の長帳の外で動いていたのでございます。夜な夜な日付は、丸印のされた手習いの紙と、全て一致します。夜に糸を張っていたのも、その紙にございました」
泥と煙にまみれたその姿には、かつて蔵から追い出された時の弱々しさは、もはやどこにもなかった。
「手前が五兵殿の筆使いを初めて見たのは、山形の集荷場の庭で、品書きの筆を取られる手を見た時にございます。あの時、わけもなく背筋が冷えましたが、その訳が分かりませなんだ。今、ようやく分かりました」
お雪は懐から黄ばんだ紙を取り出した。
「これは十五年前、手前の父が、住吉三十俵を先渡しして受け取った証にございます。当代旦那様の大店の名を頼みに、風点という名で支払うと記されてございます」
紙を広げ、両手で捧げた。灯りに照らされたその紙は、十五年という歳月を経てなお、確かな重みを持っていた。二枚の紙が灯りの下に並んで置かれた。十五年前の証文の隅にある主の顔と、この店の品書きに日度となく押されてきた顔。縦に引き下ろし、まつびを左に跳ね上げるその形が、二枚の紙で同じ人の手から出たものであることを、誰の目にも明らかにした。
結び目、喜助の言葉、帳簿、風点の証文、顔。そのどれか一つだけでは崩せなかったものが、揃って初めて、動かぬ証となった。役人たちが五兵の腕を掴んで背にひねり上げた。腰の鍵束が地面に落ち、音を立てた。長年、その鍵束を誰よりも重く感じてきたのは、五兵自身であったろう。その音を最後に、五兵は何も言わなかった。
役人たちが五兵の懐を改めた。長持ちの奥から、店印を真似て彫らせた偽の印が一つ見つかった。役人がその場で、その印を紙に押し試しをさせると、二十両の借用証文に押された印と、寸分たがわず重なった。掘りの細かな傷までが同じであった。
張り込み所の子供が震えながら進み出た。
「手前は嘘を申しました。五兵様に言われるまま、証文と印形を、お雪様の部屋に隠しましてございます。長持ちの場所も、前もって教えられておりました。お許しくださいませ」
子供の声は涙に詰まり、最後は聞き取れぬほどであった。
五兵はしばらく、何も言えずに立ち尽くしていた。やがて低く告げた。
「お雪は盗人ではない。罪を着せられたものである。この店の皆にはっきりと申し上げる」
庭に集まった奉公人たちが深く頭を下げた。あの日、行きの部屋を暴いた者たちも、その場に膝をついた。
「わしは三十年、長帳を自らの手で開いたことがなかった。人を信じておったと言うたが、実は、手前が面倒であっただけだ。わしの怠りの代償を、山形の女たちが代わりに払っていたのだ。佐之助よ、この店の鍵はこれからそなたが握れ」
五兵は罪を全て没収された上、江戸へ再び戻ることを固く禁じられた。松兵は蔵の名義を貸した罪で過料を科され、日本橋の外での蚕問屋を一年の間とどめられた。五兵の店の看板だけが下ろされた。
荷をまとめた日、五兵は五兵の店の門前を通り過ぎた。ちょうど庭で働いていた者たちが、その足音を聞いて門の外に出てきた。かつて彼が通れば、人々が手を止めて腰を折った。あの場所であった。誰も道を譲らなかった。水を運ぶ者も、荷を積んでいた者たちも、その場に立ったままであった。五兵は肩を落としてその間を通り過ぎ、足音だけが路地に響いた。振り返る者は誰もいなかった。
その日の夕方、佐之助が五兵の後を見回した時、お雪はすでにいなかった。誰にも挨拶をせず、手にしていたのは風呂敷包み一つであったという。佐之助はその足で離れに入り、父の前に膝をついた。
「三日だけ、店を空けます」
五兵は何も言わず、ただ頷いただけであった。
佐之助は馬をどこかに残していった。無紋の袴に刀を差し、荷物一つを背負って山を越えた。凍った峠道で、幾度も息を切らしながら、三日目の夕方にようやく欅沢の欅の大木が目に入った。この街道を歩くのは、あの雨の日以来のことであった。
戸が開いており、中から糸車の回る音がしていた。佐之助は庭に立ち、しばらくその音だけを聞いていた。お雪が勝手口に木枯らしの影を見た。糸車は止まらず、顔も上げなかった。その規則正しい音だけが、二人の間を埋めていた。
「手前の元へいらっしゃるお心であれば、あの日、あの庭で、お踏み出しになるべきでございました」
お雪の声には、これまで一人で耐えてきた重みが滲んでいた。佐之助は刀を下ろし、縁側の橋に腰を下ろした。言い訳はしなかった。ただ、あの日、母がどのように袖を掴み、何を言ったかを、一言も取り繕わず、そのまま伝えた。
糸車が止まった。
「娘を門の外へ生かして送ることと、庭で娘の手を取ることと、私は前者を選んだ。それが正しかったとは言えぬ。ただ、あの日から今日まで、私は一日たりともあの庭をお離れになったことはない」
「なぜあの日、おっしゃらなかったのでございますか?」
「言えば、娘がわしのために残ろうとするであろう。残れば、命を落とす場であった」
お雪はその言葉を、長く忘れられなかった。あの日、庭で止まった一つの足は、若様の足ではなく、母の手であったのだと、この冬をすっかり過ぎてようやく知ったのである。それを知って、憎しみが消えたわけではなかった。ただ、憎しみだけでは説明のつかない何かが、ずっと胸の奥に残っていたことにお雪は気づいた。
しばらくして、お雪が立ち上がり、奥の間から欠けた木の糸巻きを持って出てきた。それを佐之助の手に握らせた。
「これを直していただけますでしょうか?」
「直しても、割れ目は消えぬであろう」
「消えずとも良い。割れ目のあるまま、そばに置いておこう」
お雪は数日伏せった。起き上がって最初にしたことは、一族の祠の塀を下ろさせることであった。五兵の遺品として立てた祠であり、その金の出所は、五兵の証言によって知らされていたのである。それだけでは足りぬと思い直し、お雪は自らの簪や帯留めをいくつも売り払った。その金は、かつて錘の仕込まれた秤で目減りさせられていた村を一つ一つ調べ直し、年度に応じてそれぞれの村に届けさせた。
数日後、お雪は街道に登り、お雪の家の庭に立った。
「あの日、私が見ておらんだものがあったようです」
それだけを告げ、お雪の手を取って立たせた。
江戸へ戻った後、婚礼が決まった。飾り物もなく、祝いの品もさして多くなかったが、庭には足の踏み場もないほど人が集まった。欅沢から、秩父から、女たちが自分の手で織った端物を一巻ずつ持ち寄り、庭の片隅に山と積まれた。それぞれの端物には、あの夜と同じ結び目が控えめに残されていた。花嫁の衣装もまた、その女たちの手による品であった。
佐之助が、長い間かけて直した木の糸巻きを、お雪に返した。割れた跡には、胡粉の跡がそのまま残っていた。翌朝、お雪は自らの足で正門をまたいだ。かつて熱に浮かされ、抱かれて入った店であり、次には泥のついた着物で追い出された店であった。今度は、誰にも支えられず、自分の両足でまたいだ。
佐之助が蔵の鍵束を持ってきて、お雪の前に差し出した。長年、五兵の腰に下がっていたあの鍵であった。
「片側は、娘が持ちなさい。上面は、二人で改める」
二人がその束を共に握った。
その春、店の庭の真ん中に、計りが一つ吊された。店中の秤と物差しを全て集めて照らし合わせ、目盛りを合わせた。合わせた秤を庭の計りにかけておき、誰でも自分の品を測れるようにした。
「これでようやく、娘があの日、答えてくれたことになるな」
お雪は答える代わりに、秤を手のひらでそっと撫でた。その庭に立つ人々の姿は、あの日、錘の仕込まれた秤を前に立ち尽くしていた父の姿とは、もう重なることはなかった。
数年後、欅沢には新しい橋がかけられた。石の橋脚を立て、太い柱を渡し、雨が通っても緩まぬ橋であった。かつては、崩れた橋の前で、佐之助が怪我をしたお雪を抱いて水を渡った。今は二人が並んで歩いては渡った。橋の下を流れる水は、あの時と変わらず流れていた。
歳月が流れた後も、その里ではこう語り継がれた。貧しい娘が呉服屋の店に入って見直しになったと思うたら、実は店の若様が、その娘を見抜いた時よりも、より大きな徳を得たのだと。
作ったものの手の跡は、帳面からは消せても、その手からは消せぬ。



