結婚式の会場に足を踏み入れた瞬間、私は嫌な予感に襲われた。新郎側の親族席に歩み寄ると、私の名前が書かれるはずの席に「貧乏の無能母」と書かれた札が置かれていた。一瞬、何が起こっているのか理解できず、思考が停止した。
息を呑む私の背後から、義母の彩子とその娘のリサ子が現れた。
「どう?その名前、気に入ってくれた?」
彩子は私が動揺する様子を楽しむように笑っている。
「みんなに『恩を感じている態度』を忘れないように、ママが特別に考えてあげたのよ」
リサ子もニヤニヤと笑いながら、私を馬鹿にした視線を向けてくる。結婚式という晴れの場で、ここまで失礼な態度を取る二人に、腹の底から怒りが湧き上がった。しかし、娘の晴れ姿に水を差したくはない。私は何も言い返さず、その席に静かに座った。
私は岩田早苗、五十歳。小さな町で定食屋を営むシングルマザーだ。娘の水希がまだ幼稚園の頃、夫の浮気が原因で離婚した。あの頃は毎日泣いてばかりで、自分が嫌になった。それでも、水希がいてくれたから、何とか踏ん張ってこれた。店の経営が苦しい時期も、私が病気で倒れた時も、水希はいつも私を支えてくれた。中学生になる頃には、店と家事に追われる私を見かねて、水希は「私ができることくらいやるわ」と進んで手伝ってくれた。
水希は栄養学を学びたいと大学へ進学し、卒業後は食品メーカーに就職した。そんなある日、水希から「結婚したい人ができた」と報告を受けた。相手はハルトという青年で、数時間話しただけで、私は彼を信頼できると感じた。物腰が柔らかく、水希を大切に思っていることが伝わってきたからだ。
ハルトの話によると、彼の両親はお互いに連れ子のある再婚だったらしい。実の父親が亡くなってからは、実家が他人の家のように感じられ、大学進学を機に一人暮らしを始めたのだという。今回の結婚を機に、形式的な挨拶だけはと思い、実家に連絡を取ったのだそうだ。
その翌月、両家の顔合わせの場が設けられた。ハルトの母・彩子は派手なワンピースに真っ赤な口紅をつけて現れた。その娘のリサ子は、私と水希を値踏みするように見つめている。
「こちらが水希さんのお母さん。定食屋さんを経営されているんだ」
ハルトが紹介すると、彩子とリサ子の顔が途端に緩んだ。
「定食屋ですって?母子家庭だって言うだけで格が落ちるのに、まさか仕事まで底辺だったなんてびっくりだわ」
「ママの言う通りね。定食屋なんて、カビ臭い匂いしかしないわ」
彩子とリサ子はハルトの結婚には同意していると言うが、どう見ても私や水希のことを見下している。腹立たしさを感じながらも、結婚するのはハルトと水希なのだと自分に言い聞かせ、その場は何も言わなかった。しかし、私が言い返さないことをいいことに、二人は言いたい放題だった。
「春斗も物好きね。こんな貧乏人と結婚しようだなんて、どうかしてるわ」
「本当そうね。お願いだから、結婚したからって私たちに近づかないでちょうだいね」
二人は私と水希のことを「貧乏人」「無能」と扱い、結婚式の費用すらも「こっちが持ってやっている」という態度だった。私は呆れながらも、娘の幸せを願う気持ちでその場をやり過ごした。
帰り道、ハルトは私に二人の非礼を詫びてくれたが、私の心配は結婚後のことだった。何度も水希と話をしたが、彼女の気持ちは硬く、ハルトへの信頼も厚かった。二人がきちんと今後を見据えて考えている以上、私が口を出すことはできない。私は「何があっても水希を守る」と心に誓い、二人の結婚を見守ることにした。
そして、結婚式当日。純白のドレスに身を包んだ水希は、満面の笑みを見せてくれた。
「おめでとう。本当に綺麗よ」
「ありがとう、ママのおかげよ。これまで育ててくれて、本当にありがとう」
その言葉に、私は涙が止まらなくなった。二人三脚で歩んできた時間が走馬灯のように駆け巡る。そのどれもが、私にとって掛け替えのない宝物だ。私は水希の控室を出て、会場へと向かった。しかし、この直後、私は信じられない光景を目にすることになる。
会場へ足を踏み入れると、多くの祝福客が私の娘とハルトの登場を待っていた。私は高まる感情を抑えながら新郎側の親族席へ行くと、私の座るはずの席に「貧乏の無能母」と書かれた札が置かれていた。一瞬、何が起こっているのか理解できず、思考が停止した。
その直後、私の背後から彩子とリサ子が現れた。
「どう?その名前、気に入ってくれた?」
「これはどういう…」
「あなたにぴったりでしょ?みんなに『恩を感じている態度』を忘れないように、ママが特別に考えてあげたのよ」
リサ子もニヤニタと笑いながら私のことを馬鹿にしている。結婚式という場で、どこまでも失礼な態度の二人に、腹の底から怒りが湧き上がった。しかし、娘の晴れ姿に水を差したくはない。私はそのまま何も言わずに席に着いた。
しばらくして式が始まった。ハルトの横で幸せそうに笑っている水希を見ていると、小さなことにこだわっている自分が馬鹿らしくもなる。私はいつの間にか、彩子とリサ子の嫌がらせのことを忘れていた。
披露宴も中盤に差し掛かり、新郎新婦それぞれの代表スピーチの時間となった。新郎側の代表としてスピーチに立ったのは、ハルトの亡き父の兄であり、大手企業の重役を務める健三だった。懐かしい顔に、私も思わず頬が緩む。健三とは遠い昔からの付き合いだ。彼がまだ駆け出しの頃から、私の店に来てくれていた。
懐かしい思い出を頭に浮かべながら健三に注目していると、ふと健三と目があった。健三は私の顔を見て、ひどく驚いているようだ。新郎の母親が私だということに、初めて気づいたのだろう。
健三はそれまで読み進めていたスピーチを置いた。
「皆さん、今日この場に、私の恩人がいらっしゃいます」
健三は突然話を変え、私の店に初めて訪れた時のエピソードを語り始めた。かつて健三は仕事に失敗し、経済的に追い詰められていた。絶望に苛まれ、藁にもすがる思いで店の扉を開いたのだろう。
「すみません。手持ちが200円しかないんです。これで食べられるものはありますか?」
何日も食べていないのか、その頬は痩せて、声にも生気が感じられなかった。きっと事情があるのだろうと、私は何も聞かずに健三をテーブルに案内し、定食を出してあげた。健三は涙を流しながらその定食を平らげ、自身の置かれている状況を話し始めた。友人と始めた仕事がうまくいかず借金ばかりが増え、それでも頑張ろうと思っていた矢先に友人が行方不明になってしまったのだという。
「事件に巻き込まれたくないのか、誰も僕のことなど気にもかけてくれず、もう人生を諦めようかと思っていました」
「何を言ってるの?それくらいのこと。これからの長い人生で、いくらでも起こるわよ。今いい勉強をしていると思って、歯を食いしばって頑張りなさい」
「ありがとうございます。こんな温かい食事も久しぶりで。このご恩は、いつか必ずお返しします」
「その日を楽しみにしてるわ」
その日、健三の顔に生気が戻ったことが、私には嬉しかった。私の作る料理で若者が元気を取り戻し、明日に期待を持ってくれることが、何より私の励みとなっている。
「あの頃、私は何度もお金を持たずにあの店を訪れました。でも彼女は一度も私を責めず、いつも温かい食事と励ましの言葉をくれた。この恩を、一生忘れることはない」
健三の話を、その場にいた全員が真剣に耳を傾けている。
「私が人生で最も感謝している人物は、ここにいる新郎の母、水希さんの母、早苗さんです」
その言葉に大きな拍手が湧き起こり、会場は感動と歓声に包まれた。健三はそのまま私の席へと歩み寄ってきた。しかし、その直後、私の席の文字に気づいたようだ。
「ちょっと待て。なんだこれは?一体どういうことだ?」
突然声を荒げ、怒りを露わにした健三に、みんなが驚きの表情を浮かべた。健三の様子に、彩子とリサ子も戸惑いの表情を浮かべている。
ハルトはその場で立ち上がった。
「お母さん、健三さん、本当に申し訳ございません。これは全て、ママと義姉のやったことです」
ハルトは、結婚式の準備をする中で彩子とリサ子の不自然な行動が気になり、調査したと明かした。二人が私や水希のことをよく思っていないことを知っていたハルトは、あえて二人の行動に気づかないふりをして、その様子を見守っていたのだという。
「これを見てください」
ハルトの合図に合わせて、正面のスクリーンに印刷業者とのやり取りが映し出された。そこには、席の文言を変更するように依頼した内容と、差出人にリサ子の名前が記されていた。リサ子は「結婚式でドッキリを仕掛ける」と言い訳をし、印刷業者に依頼したようだ。その修正後のPDFには「内容を確認済み、彩子様」と記された署名入りの最終確認データが添付されていた。
「ママと義姉は、水希とお母さんのことを見下し、家族として受け入れないと断言していました。結婚式が終われば、僕は二人と絶縁するつもりですが、このまま二人の悪業を許しておけない」
ハルトがそう言うと、会場にいた全員が私を見て息を飲み、ざわめきが広がった。一斉に、彩子とリサ子に白い目が向けられる。
「こんなの、私たちは何も知らないわよ」
「そうよ。こんなの、私たちをはめようとした誰かのでっち上げよ」
彩子とリサ子は必死に言い訳を繰り返すが、明らかな証拠がある以上、言い訳は無駄だった。
「ふざけるな!新婦の母親に向かって、失礼にも程があるだろう!」
健三は顔を真っ赤にして怒った。新郎側の親戚や会社関係者も、彩子とリサ子に距離を置き始めたようだ。
「新婦の母親にこんなことをする人とは、今後の付き合いはできない」
「何様のつもりだ?」
「定食屋をやっているというだけで差別するなんて」
会場内が異様な雰囲気に包まれる中、健三が改めて私に向き直った。
「彼女たちは最低な人間だ。ここにいる早苗さんこそ、真に尊敬に値する人間です」
健三が改めて私の手を取り、敬意を表した。すると、会場のあちらこちらから拍手が湧き起こり、私に温かい眼差しが送られた。
「私は大した人間じゃありません。ただ、娘が幸せなら、それで十分です」
私は静かに微笑みながら、みんなに向かって静かに頭を下げた。完全に孤立した彩子とリサ子は、その場に居た堪れなくなったのだろう。静かに会場を出て行ったようだ。
その後、披露宴は和やかな雰囲気の中で終了し、ハルトと水希はたくさんの祝福を受けた。それから数日後、リサ子が内定を取り付けていた企業から内定取り消しの通知が来た。取り消し理由は「トラブルを起こし、会社の信用を損ないかねない」というものだった。結婚式での騒動がSNSや業界内で話題になっていたようだ。
ハルトは結婚式での宣言通り、二人との関係を断ち切るため、実家に戻って亡き父の遺品整理を始めた。すると、父の遺品の中から一通の封筒を見つけた。中には亡き父の直筆の遺言書が入っていた。
「私の遺産は全て息子であるハルトに譲る」
その内容に、ハルトはひどく驚いた。ハルトは父が亡くなった後、遺言書の存在を知らされていなかった。そのため、法定相続通り彩子とリサ子にも遺産が渡っていたのだ。彩子は自分たちに不利になる遺言書を、長年に渡って隠していたことになる。ハルトはすぐに法的手続きを開始し、彩子とリサ子を相手に遺産の返還請求を出した。
裁判の結果、亡き父の遺言書の有効性が認められ、彩子が遺産を横領していたことまで判明した。彩子とリサ子には遺産の返還と損害賠償が命じられ、二人は莫大な返済義務を負うことになり、全ての資産を失うこととなった。しかし、それでも二人は生活水準を落とすことができず、借金まみれの生活に転落していった。再就職を試みたが、結婚式の騒動が地元でも知られており、どこも雇ってくれなかったのだ。
ようやく雇ってくれる場所を見つけた時には、自宅の電気は止められ、食事もままならない状態だったらしい。二人を雇ってくれたのは、地元で人気の飲食チェーン店だった。
出勤初日、店長が深呼吸をして従業員たちの前に立った。
「皆さん、おはようございます」
社員の前に立つ私の顔を見た彩子とリサ子は、ひどく驚いた様子で目を見開いている。
「なんであんたが?」
「どういうことよ。貧乏人がなんでここにいるのよ」
二人は唇を震わせ、信じられないといった顔をしている。
「自己紹介が遅れたわね。この会社で社長をしている、早苗です」
私は二人に名刺を差し出した。二人はその名刺を食い入るように見つめ、動揺を隠せないようだ。私は地道に定食屋を営み続け、コツコツと信頼を積み重ねたことで、現在では10店舗以上を展開する小規模外食企業の経営者になっていた。
「今日から働くあなたたちには、先輩に習って調理や接客の基本から学んでもらいます」
私は穏やかな表情で二人に業務の説明をした。
「うちでは名前にキャッチフレーズをつけているの。あなたたちの分も用意しておいたわ」
私は二人にネームプレートを差し出した。そこには「決して恩は忘れません」と記されていた。彩子とリサ子は顔を見合わせ、戸惑いを隠せない。かつて無能だとか貧乏だと見下した相手に、立場が逆転されたのだ。二人は何も言い返せず、静かに頭を下げた。
しかし、これは意地悪ではない。二人にとって、他人への感謝の気持ちが何よりも大切だと思ったからだ。少なくとも私の店で働く以上、お客様に感謝し、一緒に働く従業員に感謝し、どこまでも謙虚に振る舞う必要がある。それができないようでは、接客業などできない。私がこれまで築き上げてきた信頼を決して損ねることのないように、二人への戒めのつもりだった。
しかし、二人のプライドが許さなかったのだろう。翌日、二人の姿はなかった。生活に困窮しているというのに、プライドを優先させてしまうことに私は胸を痛めたが、二人の決断をどうすることもできない。その後、彩子とリサ子は借金取りに追われながら、それまで住んでいた自宅から姿を消した。風の噂で隣町の公園で暮らしていると聞いたが、真偽は分からない。
私と水希、ハルトの三人は、結婚式の後から家族として新しい暮らしをスタートさせていた。ハルトは亡き父の遺産を元に会社を辞め、新たに海外の食材を扱う事業を始めた。その誠実な仕事ぶりが評判を呼び、わずか半年で食品業界で話題となっていた。
水希は私の味を受け継ぎたいと日々料理の腕を磨き、私が引退した後も店の経営は安泰だと安心させてくれる。
ある日、健三が店を訪れた。
「久しぶりに早苗さんの料理が食べたくなりました」
健三が注文したのは、初めて私の店を訪れたあの日、私が提供した唐揚げ定食だった。
「いやあ、この味です。僕はこの味に救われたんだ」
健三はあの日と同じように、目に涙を浮かべながら食べ進めている。
「あなたと同じように、私の料理を食べて元気になってくれる人を増やしたいわ」
「それはいい考えですね。具体的にはどうされるんですか?」
「そうね。お金に困っている人でも、誰でも気兼ねなく食べに来られる場所が作れたらいいんだけど」
「それなら、子供食堂はどうですか?」
健三に勧められ、私は子供食堂のことを調べ始めた。すると、子供だけでなく地域で困っている人たちの助けになれる場所だということが分かった。私は早速準備を進め、食事を無償提供するための地域食堂を開設した。使用する食材は地域のスーパーや食材店から賞味期限の近いものを安く提供してもらい、調理や接客にはボランティアを採用した。手探りだったが、数ヶ月もすると店で食事をした人たちが自主的に手伝いを申し出るようになり、今では地域の人たちが一つになれる場所となっている。店内には子供たちの感謝の手紙が貼られ、笑顔が溢れる空間が作り上げられていく。
ある日、私が地域食堂を訪れると、一番隅のテーブルに見覚えのある顔が座っていた。彩子とリサ子だ。二人は疲れ果てた顔をして、頬は痩せ、年齢を想像できないほど老け込んでいる。よほど辛い生活をしているのだろう。かつての威圧的な空気は消えうせ、よく見ないと彩子とリサ子だと気づかないほどだ。結婚式での一件が、彼女たちの生き方を根本から変えてしまったようだ。
私はあえて二人に声をかけなかった。ただ、来客として温かい笑顔で迎えた。
「ありがとうございました。とても美味しかったです」
か細い声でお礼を言って、二人は店を出ようとした。
「また来てください。ここはいつでもあなたたちを歓迎しますよ」
彩子とリサ子は何も答えなかったのだが、二人の目には涙が浮かんでいた。今の彼女たちであれば、また立ち上がることができる。そう信じて、これからも静かに見守っていこうと思う。



