私は61歳で会社を追い出され、その夜、履歴書の「趣味」の欄で指が止まった。何も書けなかった。36年間、数字と締め切りだけを追いかけてきた自分に、それ以外の何が残っていたというの?…

私は61歳で会社を追い出され、その夜、履歴書の「趣味」の欄で指が止まった。何も書けなかった。36年間、数字と締め切りだけを追いかけてきた自分に、それ以外の何が残っていたというの?...

彼女は10年前の会議室で上司から浴びせられた一言を、声の高さも机を叩いた指の角度も、窓の外を走るトラックの音までも、今でも正確に思い出せる。それなのに、去年の春、娘が大学の卒業式で見せた笑顔の形だけは、どうしても思い出せない。仕事の記憶だけが鮮明で、家族の記憶だけが白く霞んでいる。そのことに気づいた夜、彼女は暗い台所に立ち尽くし、自分がこれまで一体何を積み上げてきたのか分からなくなっていた。

東京郊外のベッドタウンで、松野千子は61年間暮らしてきた。物流会社の配送統括部長として、36年間働いてきた。灰色のスーツはいつもアイロンが効いていて、黒く染めた髪は同じ位置で固く結び上げられている。彼女は黒表紙の手帳を肌身離さず持ち歩く女だった。会議でも、食事中でも、家族との夕食の席でさえ、手帳を脇に置いては落ち着かなかった。話し方は早口で無駄がなく、職場の言葉遣いがそのまま家庭にも漏れ出していた。「日程を詰めましょう」「このコストは最適化されていない」といった言葉が、味噌汁をよそう手の合間から自然とこぼれ出た。

大きな病気をしたことは一度もない。ただ、慢性的な不眠だけは長年治らず、深夜2時に一人でブラックコーヒーを飲む習慣が身体に染みついていた。夫の勇気は62歳。かつては印刷資材の卸会社で地域担当のマネージャーを務めていたが、数年前に会社都合で解雇され、今はフランチャイズのコンビニを一人で切り盛りしていた。深夜のシフトに入ることも多く、家に帰るのは遅くなることが増えていた。

千子は自分の36年間を誇りに思っていた。女性が総合職として長く働くこと自体が珍しかった時代に、彼女は歯を食いしばって昇進してきた。自分はこの会社の歯車の一つではなく、なくてはならない部品なのだと心のどこかで信じ切っていた。

月初めの月曜日。朝礼が終わってすぐ、千子は人事部に呼び出された。会議室のドアを開けると、そこにいたのは見慣れた人事部長ではなく、白石共平という38歳の男だった。本社から派遣された事業再構築担当のディレクターだった。白石は机の上に置かれた資料を滑らせながら、前置きもなく要件を切り出した。

「今回、早期退職の優遇プログラムを提示させていただきます」

千子は最初、その言葉の意味が飲み込めなかった。数秒の沈黙の後、彼女は手帳を取り出し、乱暴に開いた。ここ数年で自分が立て直してきた配送ルートの実績を、ページをめくりながら次々と示した。「これのおかげで年間どれだけのコストを削減できたか、ご存知ですか」と声を震わせながら訴えた。

白石は資料から目を上げ、千子の手帳を一瞥し、薄く笑った。その表情は穏やかだったが、目の奥には一切の揺らぎがなかった。

「松野さんの26年の経験というのは、正直に申し上げると、うちにとっては重たいコストです」

「同じ仕事を3分の1の給料でやってくれる若い人材は、今いくらでもいるんです」

その言葉に千子は言葉を失った。反論しようとした瞬間、喉の奥が固まって声が出なくなった。白石の口調には怒りも哀れみもなく、ただ淡々とした事務処理の響きしかなかった。それが却って、彼女の中の何かを深く傷つけた。

その日の午後、千子は自分のデスクの荷物をまとめた。ダンボール箱一つに、36年分の私物はあっさりと収まってしまった。マグカップ、老眼鏡、小さな観葉植物、そして何年も使い続けたペン。それだけだった。部下たちは誰も彼女のデスクに近づこうとしなかった。若手の社員たちはパソコンの画面越しにチラッと視線をよこすだけで、誰一人立ち上がって声をかける者はいなかった。かつて自分が育て、目をかけてきたはずの後輩たちの誰もが、まるで彼女がすでにこの場所に存在しないかのように振る舞っていた。

エレベーターの前で、一人の若い女性社員とすれ違った。数年前に自分が採用面接をした社員だった。目があった瞬間、その社員は軽く会釈をしたが、それ以上言葉を交わすことなく足早にその場を離れていった。千子はその背中を見送りながら、自分の胸のうちに空洞ができていくのを感じた。

家に帰り着いたのは、まだ日の高い夕方だった。こんな時間に家にいることが、この10年でほとんどなかったことに、千子はふと気づいた。その夜、彼女はリビングのソファに座り、ノートパソコンを開いた。次の仕事を探すためには、履歴書を新しく作り直さなければならない。それが今の自分にできる唯一の前向きな行動だと思えた。

経歴の欄はスラスラと埋まっていった。入社、部署の移動、担当した主な業務、達成した実績。36年分の記憶が、まるで水が流れるように指先からキーボードへと流れ出ていく。文字を迷うこともなく、彼女はその欄をあっという間に埋め尽くした。

ところが、「趣味。仕事以外で関心のあること」という欄に差しかかったところで、彼女の指はぴたりと止まった。カーソルだけが画面の上で規則正しく点滅を続けていた。休日の過ごし方、好きな食べ物、好きな映画。何かを書こうとして頭の中を探ったが、何も出てこなかった。3時間近く、彼女はその空白の前に座り続けた。「読書」と打っては消し、「旅行」と打っては消した。どちらも自分が本当にそうしていたという確信が持てなかった。

その空白を見つめているうちに、千子の中で一つの考えがゆっくりと形をなしていった。自分はこの61年間、ずっと一つの履歴書だけを育て続けてきたのではないか。その一方で、人としての自分自身のことはずっと放置して枯らせてきたのではないか。その考えに行き着いた瞬間、彼女は自分の指先が微かに震えていることに気づいた。

解雇されてから最初の朝、千子はいつも通り6時に目を覚ました。長年の習慣というのは恐ろしいもので、身体は今日も出社があるものと思い込んでいる。天井を見つめたまま、今日の会議の議題は何だったかと考え、それから、もう自分にはその予定表そのものが存在しないという事実に思い至った。布団の中で動けなくなるのを恐れて、千子は無理やり体を起こし、洗面所に向かった。

朝食を終えても、何をすればいいのか分からない。手帳を開いても、そこに書き込むべき予定は何もない。じっとしていることの方が、動くことよりもずっと恐ろしいと感じ始めた。そこで千子は掃除機のスイッチを入れた。棚という棚を開け放ち、賞味期限の切れた調味料の瓶を片っ端から取り出してはシンクの脇に並べていく。作業そのものには何の意味もないと分かっていた。それでも手を止めると、また何か恐ろしいことを考えてしまいそうで、彼女は止まることができなかった。

3日目の午後、千子は押入れの一番奥に手を伸ばした。指先に触れたのは、湿気で少し固くなったダンボール箱の感触だった。引っ張り出してみると、箱の表面には薄く埃が積もっていた。中には、家族のアルバムが何冊も無造作に詰め込まれていた。千子はその場に座り込み、一番上にあった一冊を膝の上に広げた。

最初のページは北海道旅行の写真で埋まっていた。雪景色を背景に、幼い頃の娘が両手を広げて笑っている。隣では勇気が娘を抱きかかえていて、その頬は寒さで真っ赤に染まっていた。千子は写真の中の自分を探したが、フレームの端にコートの袖だけが映り込んでいるカットが一枚あるだけだった。

次のページをめくると、入学式の写真が出てきた。桜の木の下、まだ大きすぎるランドセルを背負った娘が、はにかんだ笑顔を浮かべている。その隣に立つ千子は、カメラではなく自分の腕時計の方に視線を落としている瞬間を切り取られていた。あの日、何時にどこへ向かう予定だったのか、もう思い出すことすらできなかった。

さらにページを送っていくと、運動会の写真に行き着いた。娘は琉球のエイサーの衣装を着せられていて、額に赤い鉢巻を巻き、両手に持った小さな太鼓のバチを振り上げた姿で映っていた。千子はその一枚をじっと見つめ、あの日の空気を思い出そうとした。しかし、何も出てこなかった。アナウンスも、あの日の天気も、彼女の記憶には全く残っていなかった。写真という物的な証拠だけがそこに存在していて、それにまつわる感情や空気の記憶は、最初から欠落しているかのようだった。

その代わりに、千子の頭の中には全く別の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。20年ほど前、取引先の担当者と電話で激しい言い争いをしたことがあった。相手が電話口で吐き捨てた言葉の一つ一つを、彼女は今でも一言一句正確に再現できる。あの時握りしめていた携帯電話が手のひらで微かに震えていた感触までも、はっきりと蘇ってきた。娘の運動会の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、取引先とのつまらない口論の記憶だけが、これほどまでに鮮明に残っている。その事実に気づいた瞬間、千子はアルバムを持つ手に無意識のうちに力を込めていた。

その夜、彼女は運動会の写真のページだけをアルバムから外し、リビングのテーブルの上にそっと置いた。勇気が帰ってきたら、この写真を見せてあの日のことを尋ねてみようと決めていた。

勇気が帰宅したのは午後11時を過ぎた頃だった。作業着のまま、疲れきった足取りで玄関に入ってきた。千子はテーブルの上の写真を手に取り、彼が靴を脱ぎ終えるのも待たずに声をかけた。

「これ、覚えている?」

勇気は一瞬だけ写真に目をやり、それから片方の靴だけを脱いだ状態で立ち止まり、深いため息をついた。

「覚えているも何も、あなたはあの場にいなかったでしょう。写真を一枚だけ撮りに来て、それからすぐにグラウンドの端に移動してノートパソコンを開いて仕事をしていた」

千子は言葉に詰まった。勇気はもう片方の靴を脱ぎながら続けた。

「雪の鉢巻が解けて、本人が泣きながらあなたを探し回っていたのに、あなたは電話で注文の締め処理をしていたんですよ。俺が雪をなだめて鉢巻を結び直してやった。あなたはその様子にすら気づいていなかった」

その言葉は、千子の中にあった小さな誇りを一撃で打ち砕いた。彼女はずっと、自分は家族のために働いてきたのだと信じていた。仕事で家を開けることも、電話に出続けることも、全て家族を支えるための行動だと思い込んでいた。その信念そのものが、今、目の前で音を立てて崩れていくのを感じた。

勇気はダイニングの椅子にゆっくりと腰を下ろし、両手で顔を覆った。何かがおかしいと千子は直感的に感じ取った。夫の疲労は、いつもの仕事の疲れとは明らかに質が違って見えた。しばらくの沈黙の後、勇気は絞り出すような声で切り出した。

「コンビニの経営が、この8ヶ月ずっと赤字だったんだ」

千子は最初、その言葉の意味をうまく飲み込めなかった。勇気はぽつりぽつりと事情を話し始めた。近くに大手チェーンの新店舗ができてから客足が落ちたこと、本部へのロイヤルティは経営状況に関係なく毎月変わらず引き落とされること、深夜のアルバイトが立て続けに辞めていき、その穴を自分一人で埋めるために夜勤に入り続けていたこと。それでも人件費すら賄えない月が続いていた。それでも店を閉めるわけにはいかなかった。契約上の違約金を払う余裕もないし、この年で他に雇ってくれる会社があるとも思えない。だから、まずは消費者金融からの借り入れを繰り返し、それでも足りなくなると、審査の緩い名の知られていない貸金業者にまで手を伸ばしていた。

勇気は最後に、震える声で借入れの総額を口にした。それは千子が会社から受け取ったばかりの退職金をはるかに上回る金額だった。千子は自分の膝から力が抜けていくのを感じた。さっきまで自分という人間の中身の無さに打ちのめされていた。だが今度は、それとは全く別の、もっと具体的で逃げ場のない現実が目の前に突きつけられていた。

その夜、2人はそれ以上多くを語らなかった。千子は運動会の写真をもう一度見つめた。写真の中の娘だけが、何も知らずに無邪気に笑い続けていた。千子はその笑顔を、どうしても記憶の中から呼び起こすことができなかった。それなのに、たった今聞いたばかりの借金の金額は、頭の中に一瞬で刻み込まれていた。数字だけはいつでも自分の身体に染みつく。そのことに気づいて、千子はゆっくりと目を閉じた。

借金の総額を聞いた夜から、家の中の空気は目に見えて変わっていった。今では昼夜を問わず、家のどこかで電話が鳴っていた。最初は勇気の携帯だけだったが、数日も経たないうちに固定電話にも着信が入るようになった。出てみると、機械的な口調の男が名前を確認した後、返済期日について淡々と告げてくる。勇気の携帯は朝から晩まで震え続けた。彼は着信音を完全に切り、マナーモードの振動だけにしていたが、それでもテーブルの上で震える端末の音は、静まり返った部屋の中では十分すぎるほど大きく響いた。

2人が同じ部屋にいても、会話らしい会話はほとんど交わされなくなった。食卓に並ぶ料理の品数も減っていった。千子は買い物の度にレシートを何度も見比べるようになっていたが、それでも足りない金額の桁数の前では、そうした努力そのものが虚しく思えた。

そんな暮らしが2週間ほど続いたある日、千子は久しぶりにスーツをクローゼットから取り出した。自分の中にあった誇りをかなぐり捨てる覚悟を、その朝静かに固めていた。もう一度あの会社に戻り、契約社員でもパートタイムでもいい。安い時給でもいいから雇ってもらえないか。白石に頭を下げてみようと決めていた。

地下鉄の車内で、千子は窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。会社の入っているビルの前に立った時、千子の足は一瞬止まった。エレベーターでかつて働いていたフロアに上がると、ガラス張りの壁越しにオフィスの様子をそっと伺った。そして、かつて自分が座っていた席の上で視線が止まった。そこには25歳ほどの若い女性社員が座っていた。電話を片手に楽しそうに笑いながら、もう片方の手でキーボードを打っている。机の配置もモニターの角度も、千子がいた頃と全く同じだった。トラックの出発を知らせる無線の音が聞こえてくる。若手の社員たちが忙しそうに行き交い、電話が鳴り、誰かが声を張り上げて配送先の変更を伝えている。全てが、千子がいなくなる前と全く同じ速度で、何の滞りもなく回り続けていた。

自分がいなくなったことで、業務のどこかに小さな綻びくらいは出ているはずだと期待していた。しかし現実には、そんな綻びなどどこにも見当たらなかった。会社は松野千子という人間を必要としていたのではなかった。必要とされていたのは、あくまで「部長」という肩書きと、その席に座って業務を回す誰か、それだけだった。千子はその場を動けずにいた。だが、ついに受付に声をかけることなく、そのままエレベーターホールへと引き返した。

ビルを出ると、いつの間にか空は灰色の雲に覆われ、霧のような雨が降り始めていた。千子は傘を持っていなかったが、それを買う気力も湧かず、そのまま駅とは反対の方向へ当てもなく歩き出した。1時間ほど歩いただろうか。自宅の近くまで戻ってきた時、玄関先に見慣れない人影が立っているのに気づいた。黒っぽいスーツを着た体格のいい男が2人、傘も差さずに家の前で待っていた。

「松野勇気さんのご家族の方ですか」

声そのものは丁寧だったが、その丁寧さの裏には言いようのない圧力が滲んでいた。千子が言葉に詰まりながら「はい」と答えると、男はそれ以上多くを語らず、こちらでお待ちしておりますので、とだけ言って立ち続けた。門の脇の暗がりに、勇気が座り込んでいることに気づいた。夜勤のはずの夫が、なぜこんな時間にここにいるのか。雨が彼の肩を濡らしていたが、勇気は膝の上に広げた書類の束に、震える手でペンを走らせていた。

「これは、何?」

勇気は書類の一枚を静かに彼女の方へ向けた。それは、2人が30年近くかけてローンを払い続けてきたこの家の、担保に関する書類だった。勇気は今日、現場から急に呼び出され、ここで待っていた業者に押し切られる形で、その場で署名することを決めたのだと、抑揚のない声で説明した。勇気はペンを持つ手を落とし、滝のような雨を浴びたまま、事のついでにように呟いた。

「俺たちは一体、何のためにこれほど働いてきたんだろうな」

その声には、妻を責める響きも、自分を哀れむ響きもなかった。ただ、答えの出ない問いをそのまま雨の中に投げ出しただけだった。千子はその問いに対して、何も答えることができなかった。

家を手放す手続きは、思っていたよりもずっと事務的に、そしてあっけなく進んでいった。引っ越しの日、千子はダンボール箱の数を数えながら、自分たちの30年間の暮らしが、思いの外少ない箱の数に収まってしまうことに静かな驚きを覚えていた。新しい住まいは、駅からバスで20分ほどかかる場所にある、古い賃貸アパートの一室だった。玄関を開けるとすぐに台所があり、その奥に6畳ほどの部屋が一つあるだけの、狭く湿気のこもった空間だった。

勇気は荷物の整理が一段落するのを待たずに、遠方にある建設現場の夜勤警備の仕事を決めてきた。宿舎付きの仕事で、食費と住居費がかからない分、少しでも借金の返済に回せる金額が増えるという理由だったが、その口調には家にいたくないという別の感情もうっすらと滲んでいるように千子には感じられた。勇気が荷物をまとめて出発する朝、千子は玄関先まで見送りに出た。「身体に気をつけて」という、ありふれた言葉しか出てこなかった。勇気は小さく頷いただけで、振り返ることなく歩いていった。

それからの日々、千子は一人でこの狭い部屋に取り残されることになった。窓の外には隣の建物の壁しか見えず、日中でも薄暗かった。36年間、常に何かの締め切りに追われる生活を送ってきた身体には、この何もすることのない時間の流れ方が、恐ろしいほど不慣れなものに感じられた。

そんなある晩、千子は古い携帯電話の連絡先を上から順にゆっくりと眺めていた。ほとんどがかつての職場の関係者の番号だった。個人的な友人と呼べる相手は、思いの外少なかった。指を止めたのは、娘の名前の上だった。娘は18歳で家を出てから、実家に戻ってくることはほとんどなかった。連絡そのものも、年に数回、それも要件のある事務的なメッセージのやり取りに限られていた。しかし、他に頼れる相手はどこにもいなかった。千子は震える指で発信ボタンを押した。

数コールの後、冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「もしもし」という短い一言だけで、その声の温度が以前よりもずっと冷たくなっていることが分かった。千子が「少しあって話せないか」と切り出すと、娘は数秒の沈黙の後、仕事の合間なら30分だけなら、と条件をつけて答えた。その言い方には、見知らぬ取引先への対応のような硬さがあった。

数日後、2人は娘の職場近くにあるチェーンのカフェで待ち合わせた。約束の時間ぴったりに、娘が店に入ってきた。ジャケットを羽織り、化粧もきっちりと整えている。32歳になった娘の姿は、千子の記憶にある姿とは随分違って見えた。娘は千子の向かいの席に腰を下ろすと、すぐには何も注文せず、腕を組んだまま母親の顔をじっと見つめた。その視線には、懐かしさや親愛の情ではなく、値踏みするような、あるいは何かを警戒するような色が浮かんでいた。

千子は言葉を探した。何度も練習してきたはずの言い訳や説明が、いざ娘を目の前にすると、どれもうまく口から出てこなかった。結局、彼女は遠回しな前置きを全て放棄し、単刀直入に切り出した。

「今月を乗り切るための、少しばかりのお金を貸してもらえないか」

そう言いながら、千子は震える手を伸ばし、娘の手にそっと触れようとした。しかし、娘はその手が触れる直前に、自分の手を素早く引っ込めた。まるで見知らぬ他人の手を避けるかのような、迷いのない動きだった。千子は宙に浮いたままの自分の手を、そのままゆっくりと膝の上に戻した。娘は椅子の背もたれに体を預け、しばらく黙って母親を見つめていた。それから、抑えた、しかし刃物のように鋭い声で口を開いた。

「お母さんは今、『お金がないこと』を謝っているの? それとも『そばにいてくれる人がいないこと』を謝っているの?」

千子は答えることができなかった。娘はその沈黙を待たずに言葉を続けた。

「中学の時、クラスでいじめられていたことがあった。あの晩、電話でそのことを話そうとしたら、お母さんは『コンスケジュールを組んでいるから邪魔しないで』と言った。あの時の声を、私は今でもはっきり覚えている」

娘の声は次第に感情の抑えが効かなくなっていった。

「腎盂炎で入院した時のことも覚えている。お母さんは病室に一度も来なかった。代わりにお手伝いさんを雇って、私の世話をさせた。お母さんは一度も『母親』だったことがない。ただ、この家に同居している、お金を稼ぐための機械だっただけだ」

その言葉の一つ一つが、千子の胸に深く突き刺さっていった。反論しようとする気力すら、彼女の中には残っていなかった。夫が語る記憶も、娘が語る記憶も、どれも千子自身の記憶の中には存在していなかった。自分が犯した過ちの記憶すら、自分の中には残されていないという事実が、罪の重さを一層際立たせていた。

娘はバッグから白い封筒を一つ取り出し、テーブルの上に静かに置いた。

「中には5万円が入っている。これは私の平穏を買い戻すためのお金だと思ってほしい」

「もう、電話をしてこないで欲しい」

千子は封筒に手を伸ばすことも、言葉を返すこともできず、ただ椅子に座ったまま固まっていた。娘は席を立ち、伝票も持たずにそのまま店の出口へと歩いていった。振り返ることは一度もなかった。

その夜、狭い部屋に戻った千子は、電気もつけずにしばらく玄関先に座り込んでいた。娘から差し出された5万円には、指一本触れることができなかった。それは、娘から差し出された金というよりも、母と娘の関係そのものに終止符を打つ最後の通告のように思えたからだった。

しかし現実は、いつまでも彼女の感傷を待ってはくれなかった。勇気の借金の返済期限は容赦なく迫り、貯金はすでに底をついていた。千子は、自分の身体が動く限り何らかの形で収入を得なければならないという、単純で逃げ場のない事実にようやく向き合わざるを得なくなった。

求人情報を検索していた千子の指が止まったのは、ある物流倉庫の仕分け作業員募集のページだった。夜間勤務、未経験者歓迎、年齢不問。その会社の名前を見た瞬間、彼女は小さく息を飲んだ。かつて自分が部長として指揮していた会社と提携する、同じグループに属する倉庫だった。かつて自分がオフィスの中から数字だけを見て采配を振っていた現場に、今度は自分自身がただの作業員として立つことになる。その皮肉を頭のどこかで理解しながらも、千子は他に選べる道がないことも同じくらいはっきりと分かっていた。彼女は応募のボタンを押した。

面接は驚くほどあっさりと終わった。担当者は千子の経歴書にほとんど目を通すこともなく、「体力に問題はないか」とだけ確認した。千子は、いつも健康診断の数値が良好だったことを思い出しながら、「はい、大丈夫です」と答えた。採用の連絡はその2日後に届いた。

初出勤の夜、千子は倉庫の裏口にある更衣室で、支給された作業着に着替えた。灰色のつなぎの制服は、かつて彼女が着ていたどのスーツよりも硬く、身体に馴染まない感触がした。彼女に割り当てられた仕事は、コンベアから流れてくる荷物のバーコードを読み取り、行き先ごとの台車に仕分けていくという単純な作業だった。しかし実際にやってみると、次から次へと流れてくる荷物のスピードに、彼女の手は全く追いつかなかった。その日の夜、千子の作業を見かねた若い監督者が、苛立った声で声をかけてきた。

「遅い。そこの台車がすぐいっぱいになる」

20歳そこそこに見えるその青年は、明らかな苛立ちを浮かべながら早口で指摘してきた。千子は「はい、すみません」と頭を下げた。36年間、こうした言葉を部下たちに投げかけていた自分が、今は同じ言葉を、自分よりも40歳近く年の離れた青年から浴びせられている。その事実は、身体的な疲労よりもずっと深く、彼女の胸の奥を締めつけた。

肉体労働そのものは、思っていたよりも彼女の身体に堪えなかった。しかし「屈辱」という感情だけは、夜が更けるごとに、じわじわと彼女の中で折り重なるように募っていった。

そんな夜勤の日々が2週間ほど続いたある朝のことだった。長い夜勤を終え、始発のバスに乗るには少し早すぎる時間。千子はいつものように倉庫からバス停に向かう公園を横切って歩いていた。ふと足の裏に、いつもとは違う柔らかい感触があった。見下ろすと、舗装が途切れた土の部分に、彼女の足がわずかに踏み込んでいた。その土の上を、一列の蟻の群れが忙しなく行き来しているのが目に入った。一匹一匹が、自分の体よりも大きな食べ物のかけらを必死に運びながら、地面の奥にある巣へと向かっていく。千子はその場に立ち止まり、しばらくその様子を見つめた。

もし36年前の自分がここにいたなら、こんな光景に足を止めることなど決してなかっただろう。時間の無駄だと切り捨て、そのまま足早に通り過ぎていたはずだった。しかし今、千子の足はその場から動かなくなっていた。蟻の列を見つめながら、どれほどの時間が経ったのか。気がつくと、彼女の頬を涙が伝っていた。それは悲しみというよりも、もっと長い年月の果てに、ようやく滲み出てきたような静かな涙だった。

千子は自分が泣いている理由を、少しずつ整理しようとした。お金を失ったからではなかった。仕事を失ったからでもなかった。彼女が泣いていたのは、もっと根本的な、取り返しのつかない何かに気づいてしまったからだった。定年というものは人生の終着点ではなかった。それは、それまでの生き方の答え合わせを、否応なく突きつけてくる瞬間に過ぎなかった。自分がこれまで何を大切にし、何を後回しにしてきたのか。その清算を、身体一つで一人で受け止めなければならない瞬間だった。自分の「人間としての部分」をきちんと育ててきた人は、この年になっても寄り添ってくれる家族や友人がいて、心の中に自由な余白を持ち続けている。千子はそのことを今になってようやく理解した。自分は違った。会社という肩書きだけを必死に育て続け、それ以外の全てを枯らせてきた結果、その肩書きを失った瞬間、自分という人間そのものが、限りなく空虚な数字になり下がってしまった。

蟻たちはそんな千子の感傷など全く気にする様子もなく、黙々と自分たちの仕事を続けていた。一匹が荷物を落としても、すぐに別の一匹がそれを拾い上げ、列を乱すことなく巣へと運んでいく。その営みの淡々とした強さに、千子はどこか救われるような、それでいて突き離されるような複雑な感情を覚えた。

狭いアパートに戻ると、千子はこれから自分が返さなければならない借金の総額と、そのためにあと何年こうした夜勤を続けなければならないのかをぼんやりと計算しようとした。しかし、いくら数字を並べても明確な答えは出てこなかった。

勇気とは、相変わらず数週間に一度、短い電話でやり取りするだけの関係が続いていた。互いの声には以前のような苛立ちも攻め合う響きもなく、ただ疲れた者同士が事務的に近況を報告し合うだけの乾いた会話だった。娘からは、あの日以来一度も連絡がなかった。千子の方からも電話をかけることはしなかった。

61歳になって、千子はようやく「生きる」ということを一から学び直さなければならない場所に立たされていた。それは遅すぎる出発点だったかもしれない。それでも、蟻の列を見つめながら流した涙の感触だけは、彼女の中に確かに残り続けていた。これから先、借金を完済するまでにどれほどの月日がかかるのか、夫や娘との関係がいつか修復される日が来るのか、それとも二度と来ないのか。千子にはまだ何も分からなかった。分かっているのは、明日もまた同じ倉庫の同じベルトコンベアの前に立たなければならないという、ただそれだけの事実だった。

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