「お荷物みたいな親なんてもういらないんだよ。金だけ出してくれればいいんだから」…

「お荷物みたいな親なんてもういらないんだよ。金だけ出してくれればいいんだから」...

病院の廊下に、息子の冷たい声が響いた。
「なんだよ、その顔。まだ家に来るつもりでいたの?言っただろう。もう二度と来るなって。」
初孫が生まれたばかりの、この世で一番幸せであるべき瞬間に、私は息子からそう言われた。心臓が止まるかと思った。立ち尽くす私に、息子は振り返りもせず、まるで汚いものでも見るような目を向けた。
「うちの両親が本当の祖父母だから。お前らなんてもういらないんだよ。」
隣で夫の一郎が私の肩を支えてくれた。足元がふらついて、今にも崩れ落ちそうだった。三十八年間、郵便局で真面目に働きながら、大切に育ててきた一人息子から、まさかこんな言葉を聞かされるなんて。
「お望み通り、完全に消えてあげるわ。」
震える声でそう言った。その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ去り、そして新たな決意が芽生えた。

あの日から三日が経ち、私は台所で夫と向かい合って座っていた。テーブルの上には、これまでの人生を物語る古い通帳が並んでいる。
「みち子、本当にいいのか?」
一郎が心配そうに私を見つめた。
「ええ、もう決めたのよ。」
私は一冊の通帳を開いた。
「見て。これは直樹が大学に入った時の記録よ。入学金授業料で八百万円。郵便局の給料から必死に貯めたお金よ。朝五時に起きて弁当を作り、フルタイムで働いた後も内職をして、少しずつ積み上げたの。」
結婚の時は援助金三百万円、マイホームの頭金は五百万円。私は淡々と数字を読み上げた。
「老後の資金を削ってでも、息子の幸せのためならと思っていたのに。」
「千尋さんのご両親と比べられ始めたのは、いつからだったかな。」
一郎がため息をついた。
「三年前からよ。医者と会社経営者の娘と結婚してから、急に私たちが恥ずかしい存在になったみたい。制服姿で汗を流して働く私の姿が、千尋にはみっともなく映っていたんでしょうね。でも、この仕事に誇りを持って三十八年間やってきたのよ。」
「お前が間違っているとは思わない。」
一郎が私の手を握った。
「俺たちの老後は、俺たちで守ろう。」
その言葉に、私は初めて心から救われた気がした。

一週間後、私たちは直樹の家を訪れていた。最後の話し合いをするためだ。玄関のチャイムを鳴らすと、千尋が面倒臭そうに扉を開けた。
「あら、お母さん。まだ来るんですか?」
その言葉に込められた侮辱に、私は小さく息を飲んだ。でも、今日は負けるわけにはいかない。
「少しだけ話をさせてもらえる?」
「はあ。仕方ないですね。でも、長くはしないでくださいよ。」
リビングに通されると、直樹がソファーで新聞を読んでいた。私たちが入ってきても、顔をあげようともしない。
「直樹、話があるの。」
「なんだよ。忙しいんだけど。」
ようやく顔をあげた息子の目は、まるで他人を見るように冷たいものだった。
「お母さん、仕事は休みの日でしょ?なのになんで家事の手伝いに来てくれないんですか?」
千尋が急に話を変えた。
「普通、姑なら嫁の手伝いをするものじゃないですか?」
「私にも仕事があるから。」
「郵便局員でしょ。底辺職じゃないですか?恥ずかしいから、親戚には合わせられません。」
その言葉に一郎が立ち上がりかけましたが、私は彼の腕を掴んで制した。
「そうそう。生活費の話なんだけど。」
直樹が急に口を開いた。
「月十万は入れてもらわないと困るんだよね。年金もらってるんでしょ。」
「月十万?それは無理よ。年金は二人で月に十万円しかないのよ。」
「はっ、それだけ?」
千尋が鼻で笑った。
「私の両親なんて、月五十万は援助してくれてますよ。」
「千尋の両親は品があって素晴らしい人たちだ。」
直樹が付け加えた。
「それに比べて、うちの親は……」
言葉を濁したが、その先は明らかだった。私たちは、恥ずかしい存在なのだ。
「あ、そうそう。」
千尋が思い出したように言った。
「来月の孫の誕生会なんですけど、やっぱり来ないでください。」
「え?でも、初孫の一歳の誕生日でしょ。」
「だから何ですか?私の両親だけで十分です。正直、お母さんたちがいると雰囲気が悪くなるんですよね。」
「おい、母さん。」
直樹が追い打ちをかけるように言った。
「俺たちの生活に口出ししないでくれよ。金だけ出してくれればいいんだから。」
私は震える手を膝の上で握りしめた。これまでどれだけ尽くしてきたことか。朝五時に起きて弁当を作り、仕事から帰れば孫の世話をし、頼まれれば何でも引き受けてきた。
「そういえば。」
千尋が急に立ち上がり、スマートフォンを取り出した。
「見てくださいよ。これ。」
画面には、豪華な海外旅行の写真が映っていた。
「来月ハワイに行くんです。もちろん、私の両親が全額出してくれるんですけどね。」
「いいだろ。」
直樹が得意げに言った。
「向こうの両親は理解があるから、孫の教育のためにもいい経験をさせてくれるんだ。でも、お母さんたちには無理でしょうね。年金暮らしじゃ、孫に何もしてあげられないですものね。」
その瞬間、私の中で何かがプツンと切れる音がした。
「あのね、千尋さん。」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「私たちがこれまでどれだけ援助してきたか、知っているの?」
「援助?」
千尋がバカにしたように笑った。
「まさか、あの程度のことを恩着せがましく言うんですか?」
「あの程度?」
一郎がついに口を開いた。
「結婚式に三百万、家の頭金に五百万。これまでの生活費を合わせたら、二千万は超えているぞ。」
「だから何?」
直樹が急に声を荒げた。
「親なら当然だろ。それが嫌なら、最初から生むなよ。」
その言葉に、私は完全に打ちのめされた。三十五年間必死に働いて育ててきた息子から、こんな言葉を聞くことになるとは。
「お荷物みたいな親なんてもういらないんだよ。だからもう来るな。」
「そうそう。」
千尋が付け加えた。
「私たちには私の両親という立派な家族がいるので、お母さんたちはもう家族じゃありません。」
私は立ち上がった。もう、ここにいる必要はない。
「分かったわ。お望み通りにしましょう。」
「やっと分かってくれたんですね。」
千尋がアゴを出すような表情を浮かべた。
「これで私たちも楽になります。」
玄関に向かいながら、私は最後に振り返った。
「一つだけ言っておくわ。後悔しても、もう遅いからね。」
「は?何それ?脅し?年寄りの冷や水だよ。」
私は何も答えず、一郎と共に家を後にした。外に出ると、秋の冷たい風が頬を撫でていった。
「みち子、本当にいいんだな。」
「ええ。」
私は空を見上げた。
「これで決心がついたわ。全て計画通りに進めましょう。」
三十五年来の献身が「お荷物」と表されたこの日、私の中で新たな人生が始まったのだ。

それから二週間後、私の携帯電話が鳴った。画面を見ると、病院からの着信だった。
「原田みち子様でしょうか?こちら総合病院です。ご主人の原田一郎様が救急搬送されまして……」
私は血の気が引くのを感じた。慌てて病院へ駆けつけると、一郎は集中治療室に入っていた。医師の説明によると、脳梗塞だという。命に別状はなかったが、しばらく入院が必要だった。
私は震える手で直樹に電話をかけた。
「父さんが倒れたの。脳梗塞で入院したわ。」
「ふん。それで?」
息子の反応に、私は耳を疑った。
「だから、お父さんが入院したのよ。」
「だから何?俺には関係ないでしょ。」
「直樹さんよ、あなたのお父さんが倒れたのよ。」
「もう家族じゃないって言ったよね。なんで連絡してくるわけ?」
電話の向こうで、千尋の声が聞こえてきた。
「誰?まさかお母さん?何の用事?」
「親父が倒れたらしい。」
「あら、そう。でも私たちには関係ないわよね。縁を切ったんだから。」
私は言葉を失った。まさか、ここまで冷たいとは。
「お見舞いくらいは……」
「お母さん、はっきり言いますけど、私たちは忙しいんです。他人の見舞いなんて行く暇ありません。」
「他人?」
「そうでしょ。自分たちで縁を切ったんだから。それに、入院費用とか請求してるんじゃないでしょうね。期待なんてしてませんから。まあ、お金ならお母さんの年金と貯金でなんとかなるでしょう。あ、でも相続の時は連絡してくださいね。それだけは権利がありますから。」
私は電話を切った。手が震えて、携帯を落としそうになった。

翌日、一郎の病室で私は項垂れていた。入院費用、治療費、これからの生活費。年金だけでは、到底足りない。
「みち子さん?」
振り返ると、千尋の両親が立っていた。病院で偶然あったのだ。
「まあ、大変ですね。」
千尋の母親が同情するような顔をした。
「でも、息子さんがいるから安心でしょ?」
「いえ、実は……」
私は事情を話した。すると、千尋の両親は驚いた顔をした。
「まさか直樹君が……でも、うちの千尋からは……」
「ええ、千尋から聞いた話では、あなた方が一方的に縁を切って、援助も拒否したと……」
私は愕然とした。話が完全に逆になっている。
「それに……」
千尋の父親が続けた。
「私たちが月五十万援助しているとか、ハワイ旅行の費用を出したとか、そんな事実はありませんよ。むしろ、私たちの方がお母さんから毎月お金をもらっていると聞いていました。だから、会いに来ないでくれと千尋に言われて……」
真実が明らかになっていった。息子夫婦は、両方の親に嘘をついていたのだ。

その時、私の携帯が鳴った。銀行からだった。
「原田様、確認したいことがございまして。本日、直樹様名義の口座から原田様の口座への五百万円の振り込み依頼がありましたが……」
「え?息子から?いいえ、逆よ。私の口座から直樹への振り込み依頼です。ご本人様確認のため、お電話しました。」
私は慌てて否定した。
「そんな依頼はしていません。」
「分かりました。では、この取引は中止させていただきます。」
電話を切ると、今度は別の番号から着信があった。
「お母さん!」
千尋の怒った声が聞こえてきた。
「なんで振り込みをキャンセルしたんですか?」
「私は振り込みなんてしていないわ。」
「とぼけないでください。お父さんの入院費用の足しにって、五百万円振り込む約束だったでしょ。そんな約束、忘れたんですか?昨日の電話で……まさか認知症?」
私は理解した。彼らは、私の口座から勝手に金を引き出そうとしたのだ。
「千尋さん、私は認知症ではありません。」
「じゃあ、なんでお金を振り込まないんですか?親の義務でしょ。」
「私たちはもう家族ではないと言われましたが?」
「相続権はあるんだから、生前贈与は当然でしょ。」
その言葉で、全てが繋がった。彼らは最初から、私たちの財産が目当てだったのだ。
「今すぐ家に来て、通帳と印鑑を渡してください。」
千尋は命令口調で言った。
「お父さんの治療費のためです。」
「お断りします。一郎の治療費は、私たちで何とかします。もう連絡しないでください。」
「ちょっと待て。」
今度は直樹の声だった。
「母さん、考え直せよ。俺たちは家族だろ。」
「家族?この間、私たちは家族じゃないと言われましたが。」
「あれはちょっとした言い過ぎで……」
「都合のいい時だけ家族なんですね。」
「そんなこと言うなよ。親父が倒れて、俺だって心配してるんだ。」
「では、お見舞いに来てください。」
「金を渡すなら、行ってやってもいい。」
私は静かに電話を切った。もう、何も言うことはなかった。

病室に戻ると、一郎が目を覚ましていた。
「みち子……」
「大丈夫よ。私がいるから。」
「直樹は……」
私は首を横に振った。一郎は悲しそうに目を閉じた。
「やっぱり、そうか。でも、私たちには私たちの人生があるわ。」
その時、ふと千尋の両親が言っていた言葉を思い出した。彼らの話を聞いて、私は決心した。もう、息子夫婦の嘘に振り回されるのは終わりにしよう。そして、本当の意味で縁を切る時が来たのだ。

一郎が退院して一週間後、我が家のリビングには思いがけない人物が座っていた。千尋の両親だ。
「本当に申し訳ございません。」
千尋の母親が深々と頭を下げた。
「まさか娘がこんな嘘をついていたなんて。私たちもずっと騙されていました。」
「月五十万の援助なんてとんでもない。むしろ、あの二人から無視されて困っていたんです。」
一郎と私は顔を見合わせた。
「実は、私たちも息子さんたちの本当の姿を知って、縁を切ることにしたんです。」
「娘には、本当に失望しました。」
その時、私の弁護士である正彦から電話があった。
「みち子さん、例の件ですが、重要な事実が分かりました。」
「どうしたの?」
「直樹さんの借金が、想像以上に深刻です。消費者金融に三百万、クレジットカードのリボ払いが二百万。合計で五百万以上あります。」
私は息を飲んだ。まさか、そんなに借金があったとは。
「それだけじゃありません。どうやら、みち子さんの実印を偽造して、借金の保証人役を結ぼうとした形跡があります。」
「偽造?」
「はい。幸い銀行側が本人確認を徹底していたので未遂に終わりましたが、これは立派な犯罪です。」
リビングにいる千尋の両親も、この話を聞いて青ざめていた。
「まさか、犯罪に手を染めていたなんて……」
私は正彦に尋ねた。
「これから、どうすればいいの?」
「まず、財産保全の手続きを進めましょう。そして、相続排除の申し立ても検討すべきです。」
「相続排除?」
「はい。著しい非行があった場合、相続人から除外することができます。今回のケースは、十分該当します。」
電話を切った後、私たちは今後の対策を話し合った。
「実は……」
千尋の母親が口を開いた。
「私たちも、娘の相続排除を考えています。あまりにも酷すぎます。」
「私たちも、三千万の土地を売って、そのお金を寄越せと言われました。断ると、認知症だから財産管理ができないと言い出して。あなた方と、全く同じ手口でした。」
「みち子さん。」
一郎が私の手を握った。
「俺たちの財産を、ちゃんと守ろう。」
私は頷き、手帳を取り出した。
「実は、これまでの援助を全て記録してあるの。」
手帳には、日付と金額、用途が細かく記されていた。大学の学費八百万、結婚援助金三百万、住宅購入、月々の生活費補助。合計すると、二千五百万を超えていた。
「二千五百万……」
千尋の両親が驚きの声をあげた。
「でも、これは贈与として処理されているから、返還請求は難しいですよね。」
一郎が言った。
「ええ。でも、これ以上渡さないことはできるわ。」
私は立ち上がり、金庫から重要書類を取り出した。実家の土地の権利書、私名義の定期預金通帳、一郎の退職金。全部で、資産は一億三千万ほどあった。
「一億三千万……」
「ええ。三十八年間、コツコツと貯めてきた財産よ。郵便局の給料は少なかったけど、無駄遣いせずに貯金してきた。実家の土地も、バブルの頃に比べれば下がったけど、まだ八千万の価値がある。」
「それを、狙われているんですね。」
「だからこそ、守らなければ。」

正彦からアドバイスを受けて、私たちはすぐに行動を開始した。まず、全ての預金口座の届出印を変更し、暗証番号も新しくした。次に、実印も作り直し、印鑑登録も更新した。
「念のため、遺言書も作成しましょう。」
私は提案した。
「相続排除が認められるまでの保険として。」
「そうだな。」
一郎も賛成した。
「お互いを相続人にし、その後は信頼できる親族か慈善団体に寄付する内容にしよう。」
千尋の両親も、同じような手続きを進めることにした。
「お恥ずかしい話ですが、娘に家の合鍵を渡していたので、今にでも鍵を変えます。」
「私たちも同じよ。」
私は苦笑した。
「息子にも、合鍵を渡していたから。」

こうして、私たちは着々と防衛策を固めていった。その夜、改めて一郎と二人で話し合った。
「みち子、本当にいいんだな。息子と完全に縁を切って。」
「ええ。もう、息子じゃないわ。私たちをお荷物と呼び、金だけを狙う。そんな人を、息子とは思いません。」
「そうだな。」
一郎は深いため息をついた。
「俺たちには、俺たちの老後がある。もう、振り回されるのは終わりにしよう。」
私は窓の外を見た。秋の夜空に、星が瞬いていた。
「でも、これで良かったのかもしれない。本当の姿が分かって。」
こうして、私たちの反撃の準備は整った。もう後戻りはできない。いえ、する気もない。これからは、私たち自身のために生きていくのだ。

準備を整えてから一ヶ月後の朝、私たちは最後の決断を実行に移した。
「みち子、本当にいいんだな。」
「ええ。もう、決めたことよ。」
私たちは自宅の鍵をテーブルに置き、最後に家の中を見回した。思い出の詰まった家だったが、もう未練はない。
「さあ、行きましょう。」
私たちが向かったのは、県外にある高級老人ホームだった。入居一時金三千万円、月額費用三十万円という高額な施設だったが、快適な環境と充実したサービスが約束されていた。
「原田様、お待ちしておりました。」
施設長が温かく迎えてくれた。個室は広々としていてバリアフリー設計。何より、ここでは誰にも煩わされることなく、平穏な日々を送れそうだった。

一方、私たちが残してきた家には、一通の手紙だけが置かれていた。
「直樹へ。お望み通り、完全に消えます。もう二度と会うことはありません。家は売却予定です。相続排除の手続きも進めています。さようなら。」

その頃、直樹たちは何も知らずに過ごしていた。
「今月も、親から金もらえなかったな。」
直樹が不満げに呟いた。
「大丈夫よ。」
千尋が言った。
「どうせ、あと数年したら全部もらえるんだから。」
しかし、三日後に異変に気づいたのは千尋だった。
「ねえ、お母さんに電話してるんだけど、全然出ないのよ。」
「ほっとけよ。どうせまた無視してるんだろう。」
「でも、もう一週間よ。」
直樹も不審に思い始め、実家に向かうことにした。
「鍵が開かない。」
合鍵を使っても、ドアは開かなかった。鍵が交換されていたのだ。
「なんだこれ?」
窓から中を覗くと、家具が全て撤去され、ガランとした空間が広がっていた。郵便受けには、不動産会社の売却看板が立てかけてあった。
「売却予定……」
慌てて不動産会社に電話をした。
「あ、原田様の物件ですね。すでに買い手も決まりまして、来月には引き渡し予定です。」
「ちょっと待て。俺は息子だ。」
「申し訳ございませんが、所有者の原田様からは、息子さんとは縁を切ったと伺っております。」
電話を切られてしまった。
「どういうことよ!」
千尋が叫んだ。
「家を勝手に売るなんて!」
二人は必死で両親の行方を探した。郵便局に聞いても「退職されました」、近所に聞いても「引っ越されました」という答えしか返ってこない。
「銀行だ。銀行に聞けば。」
しかし、銀行でも個人情報を理由に、何も教えてもらえなかった。

一週間後、一通の書類が直樹のもとに届いた。弁護士事務所からの内容証明郵便だった。
「相続排除の申し立てについて。貴殿の度重なる非行により、相続人から排除する手続きを開始しました。」
「相続排除?」
慌てて調べると、相続する権利を完全に失うということが分かった。
「ちょっと待てよ!」
直樹は弁護士事務所に電話をかけた。
「俺には、相続する権利があるだろう!」
「依頼者様からお預かりしている証拠によれば、貴殿は親御さんに対して『お荷物』『二度と来るな』などの暴言を吐き、縁を切ると宣言されています。また、預金を不正に引き出そうとした形跡もあります。これらは相続排除の正当な理由となります。意義がある場合は、裁判所で争うことになります。」
電話を切った直樹は、真っ青になっていた。
「土地も退職金も相続も、全部パーになる。」
「どうするのよ!」
千尋が叫んだ。
「あの土地や貯金を当てにして、ローン組んだんだから!」
その時、千尋の携帯が鳴った。
「もしもし。え?お父さん。何ですって?」
千尋の顔から血の気が引いていった。
「私の両親も……家を売って、老人ホームに入った。」
なんと、千尋の両親も同じ行動を取っていたのだ。
「相続排除……」
二人は呆然と立ち尽くした。両方の親から、完全に見放されたのだ。

それから数日後、直樹の会社での立場も悪くなった。
「原田君、君の勤務態度について話がある。」
上司に呼ばれた直樹は、嫌な予感がした。
「実は、君の親御さんから連絡があってね。『息子とは縁を切った。会社での行動にも責任を持てない』と。」
「それがどうしたって言うんですか?」
「落ち着きたまえ。ただ、君は最近同僚にも金の無心をしているそうじゃないか。それに、経費の不正使用の疑いも……」
実は、借金返済に追われた直樹は、会社でも問題を起こしていたのだ。親という後ろ盾を失った今、もう守ってくれる人は誰もいなかった。

一方、高級老人ホームで新生活を始めた私たちは、予想以上に快適な日々を送っていた。
「みち子さん、今日の陶芸教室、一緒に参加しない?」
隣の部屋の女性が声をかけてくれた。ここでは様々な趣味活動が用意されていて、新しい友人もできた。
「一郎さんも、囲碁クラブで人気者ですって。」
「ええ、毎日が充実していますよ。」
食事も美味しく、医療体制も万全。何より、金銭目的で近づいてくる人間がいないことが、これほど心地よいとは思わなかった。
ある日、施設の受付から連絡があった。
「原田様。息子さんと名乗る方が面会を求めていますが……」
「お断りしてください。私には息子はいません。」
「承知しました。規則により、入居者様の許可なく面会はさせません。」
その後も何度か直樹は尋ねてきたようだったが、全て門前払いされた。
「母さん、話だけでも聞いてくれ。」
遠くから聞こえる息子の声も、もう私の心には響かなかった。
「みち子。」
一郎が優しく肩を抱いてくれた。
「後悔は、してないか?」
「全然。」
私は微笑んだ。
「これが、私たちの選んだ道よ。」
夕日が差し込むラウンジで、私たちは静かにお茶を飲んでいた。三十八年間必死に働いて貯めた財産は、私たち自身の幸せのために使う。それの何が悪いのだろうか。「お荷物」と呼ばれた私たちは、今、誰よりも自由で幸せな日々を送っている。

老人ホームに入居してから半年が経った。春の温かな日差しがラウンジに差し込み、私は編み物をしながら窓の外を眺めていた。
「みち子さん、今日も良い天気ですね。」
親しくなった友人の奥田さんが、紅茶を運んできてくれた。彼女も息子夫婦と疎遠になり、ここで新しい人生を始めた人だった。
「本当に、ここは天国みたいに穏やかで幸せね。」
「そうですね。血の繋がりだけが家族じゃない。ここには、本当の意味で心を通わせられる人たちがいます。」
その言葉に、私は深く頷いた。一郎も、仲間と楽しそうに対局していた。病気の後遺症もなく、むしろ以前より健康的になったように見える。ストレスから解放されたからだろう。
「原田さん、また勝ったんですか?」
仲間が笑いながら言った。
「いやいや、今日は運が良かっただけですよ。」
一郎の笑顔を見て、私も自然と微笑んだ。この半年で、私たちは本当の意味で自由になれたのだ。

その頃、直樹と千尋の生活はどん底に落ちていた。
「また督促状……」
千尋が青ざめた顔で封筒を見つめていた。相続を当てにして組んだローンは支払えず、借金は雪だるま式に増えていった。直樹は会社での立場も悪化し、結局自主退職に追い込まれた。
「千尋の両親に、もう一度頼んでみようか。」
「無理よ。完全に縁を切られたんだから。」
二人の間にも、亀裂が入り始めていた。お金で繋がっていた関係は、お金がなくなれば崩れ去るものだ。
「あの時、なんであんなこと言ったんだろう。」
直樹が頭を抱えた。
「『お荷物』だなんて……母さんは、俺のために全てを捧げてくれたのに。」
「今更後悔しても、遅いでしょ。」
千尋が冷たく言い放った。
「あんたが全部悪いのよ。」
見苦しい責任の押し付け合いが始まり、ついに二人は離婚することになった。

一方、私たちの元に思いがけない手紙が届いた。
「父さん、母さんへ。この度は娘が大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。私たちも同じ道を選び、今は平穏な日々を送っています。もしよろしければ、一度お会いできませんでしょうか?」
千尋の両親からだった。私たちは相談の上、会うことにした。ホームのカフェテラスで、千尋の両親と再会した。
「本当に申し訳ございませんでした。」
「いいえ、お互い様です。」
私は優しく言った。
「私たちも、息子の教育に失敗しましたから。」
「でも、今は幸せそうで何よりです。」
千尋の母親が微笑んだ。
「ええ。人生の最後に、本当の自由を手に入れることができました。」
その後、私たちは時々会うようになった。皮肉なことに、子供たちに裏切られた親同士の方が、よほど心を通わせることができたのだ。

ある日、施設の図書室で本を読んでいると、職員が声をかけてきた。
「原田様。実は、地域の小学校から『人生経験を子供たちに話して欲しい』という依頼がありまして……」
「私が?」
「はい。元郵便局員として三十八年間働いた経験を、是非聞かせて欲しいそうです。」
私は驚いた。まさか、この年齢で新しい役割を見つけられるとは。
「喜んで、お受けします。」
こうして、私は月に一度、小学校で子供たちに話をするようになった。仕事の大切さ、真面目に生きることの価値、そして何より、人を大切にすることの重要性を。
「原田さんのお話、子供たちに大人気ですよ。」
先生が嬉しそうに言った。
「『優しいおばあちゃんみたいだ』って。」
本当の孫には会えなかったが、こうして多くの子供たちと触れ合える。血の繋がりだけが家族ではない。本当に大切にしてくれる人こそが、家族なのだ。
親を「お荷物」と呼び、金銭だけを求める子供に、私たちの老後を託す必要はない。親不孝には、必ず報いがある。それは私たちが下した審判ではなく、彼ら自身が選んだ道の結果なのだ。
今、私たちは心から幸せだ。誰にも縛られず、誰にも利用されず、自分たちの人生を謳歌している。これが、私たち夫婦が選んだ完全勝利の形なのだ。

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