「母さん、悪いけど部屋がないんだ。義母がいるからさ」
一か月の入院生活を終え、ようやく退院の日を迎えた。手術は成功し、私は息子の家に帰れることを心から楽しみにしていた。なのに、玄関先で告げられたのは信じがたい宣告だった。
「どういうことなの?」
私の震える声に、息子の剣一は申し訳なさそうな顔をしながらも、冷たく答えた。
「一時的なことだから、しばらく待ってよ」
まさか入院中に、私の居場所が完全に奪われているなんて。長年住み慣れた部屋に、息子の義母が当然のように入り込んでいたのだ。
私は田中啓子、68歳。夫の正雄を47歳で事故で亡くしてから、女手一つで剣一を育て上げてきた。朝は四時に起きて弁当を作り、夜は深夜まで働いて生活費を稼ぎながら、息子の教育費だけは絶対に削らなかった。
剣一が大学に進学する時、私は躊躇なく学費を全額負担した。
「母さん、ありがとう。絶対に立派になるから」
涙を流して感謝していた息子の姿を、今でもはっきりと覚えている。そして結婚が決まった時も、新居購入のために五百万円の頭金を援助した。私の老後の蓄えの大部分だったが、息子の幸せのためなら惜しくはなかった。さらに孫が生まれてからは、毎日のように息子の家に通い、育児のサポートをしてきた。おむつ替えから離乳食作り、保育園の送り迎えまで、すべて無償で引き受けてきたのだ。
二年前、剣一から同居を提案された時のこと。
「母さんも一人は寂しいでしょ」
私は心から嬉しく思った。息子夫婦の家事を担当し、月五万円の生活費も負担してきた。まさに奉公人のような生活だったが、家族のためならと喜んでそうしてきた。入院前も剣一は優しい言葉をかけてくれた。
「安心して治療に専念して。家のことは心配しないで」
早く退院して、家族との生活に戻ることだけを楽しみにしていた。それなのに、この仕打ち。
家の中に入ると、私の目に飛び込んできた光景は信じられないものだった。私の部屋だった場所には、見慣れない高級家具が並んでいる。新品のベッド、大型テレビ、エアコン、そして豪華なシンクまで。高級ホテルの一室のような有様だ。
「あら、啓子さん、お帰りなさい」
振り返ると、息子の義母である花子さんが私の部屋から出てきた。私より二歳年上だが、とても上品な雰囲気で、まるでこの家の主人のような堂々とした態度だ。
「花子さん、いらしてたんですね」
私が挨拶すると、花子さんは当然のように答えた。
「ええ、由美子ちゃんがどうしてもって言うから。この部屋、とても居心地がいいのよ」
私の長年住み慣れた部屋を、まるで自分のもののように話す花子さん。そこへ息子の嫁・由美子が現れた。
「お母さん、お疲れ様でした。大変だったでしょ」
それだけ言うと、由美子は私には目もくれず、花子さんに向かって丁寧に言った。
「お母さん、お茶をお持ちしますね。今日は特別にお取り寄せのお菓子もご用意しました」
「ありがとう、由美子ちゃん。あなたって本当に気が利くのね」
花子さんが嬉しそうに答える。この会話を聞いていて呆然とした。私に対する冷たい態度との違い。あまりにも露骨な差別だ。
「お母さん、とりあえずこちらの部屋を使ってもらえる?」
由美子が案内したのは、家の奥にある物置のような小さな部屋だった。六畳ほどの狭さで、押し入れのような窮屈さだ。
「一時的だから我慢してね、母さん」
剣一がそう言ったが、その部屋には布団すらなかった。
「布団はどこに?」
私が尋ねると、由美子が面倒そうに答えた。
「お母さんなら毛布一枚でも大丈夫でしょ。丈夫だから」
一方で、花子さんの部屋には高級な布団セットが用意されている。
夕食の時間になった。リビングでは剣一、由美子、そして花子さんと義父の武夫さんが楽しそうに食事をしている。
「お母さんは台所でどうぞ」
由美子がさらりと言った。家族団らんの中から、私だけが排除されている。
「母さんは別にいいでしょ。慣れてるし」
剣一までそんなことを言う。慣れてるって、一体何に慣れているというのだろうか。台所で一人、冷たいおにぎりを食べながら、隣の部屋から聞こえてくる楽しそうな笑い声に、私の心は凍りついた。
「お父さんはお酒が好きでしたよね。今度、特別な日本酒を取り寄せしますね」
由美子が武夫さんに言う。
「由美子ちゃんは本当に気が利くね」
「いえいえ、私たち家族ですから。これくらい当然です」
家族。彼らの口から出るその言葉に、私は含まれていない。
翌朝、私が朝食の準備をしようと台所に向かうと、由美子が先に立っていた。
「お母さん、朝食の準備は要りません。私がみんなの分を作りますから」
私の分の朝食は用意されていなかった。まるで私がこの家にいないかのような扱いだ。
「啓子さんはパンでも食べてて。簡単でいいでしょ」
義母の花子さんが上から目線で言った。
昼間、私が洗濯物を干していると、花子さんが近づいてきた。
「啓子さん、私の洗濯物は別に洗ってちょうだい。デリケートなものが多いから」
私の洗濯物と一緒に洗うのは嫌だということだ。
「それと、掃除の時は私の部屋はそっとしておいて。物の配置が変わると困るから」
花子さんが続けた。私が長年住んでいた部屋なのに、まるで立ち入り禁止であるかのような言い方だ。
夕方、孫の翔太が学校から帰ってきた。
「おばあちゃん、元気になったの?」
翔太が私に駆け寄ろうとすると、由美子が慌てて止めた。
「翔太、お母さんはまだ病気が治ったばかりなの。花子おばあちゃんと遊びなさい」
「でも、蛍光灯おばあちゃん…」
翔太がまだ言い終わらないうちに、由美子がきっぱりと言った。
「だめよ。花子おばあちゃんの方が翔太のことを可愛がってくださるのよ」
孫との触れ合いまで制限されている。花子さんは得意的に翔太を膝に乗せて言った。
「翔太君、おばあちゃんがお小遣いをあげるわ。今度おもちゃも買ってあげましょうね」
私がこれまで翔太にしてきたことを、花子さんが取って変わっている。
その夜、剣一と由美子の会話が聞こえてきた。
「うちのお母さんがいると、本当に気を使わなくていいから楽よね」
由美子が言う。
「そうだな。母さんはなんだかんだ言って気を使うからな」
剣一が答える。
「お母さんは本当の家族だもの。血の繋がりが違うわよ」
由美子が続けた。この会話を聞いて、私の心は完全に冷え切った。血の繋がり、本当の家族。そんな言葉で、私の存在価値が否定されている。二十五年間、女手一つで育てあげた息子。教育費、結婚資金、無償の育児支援。そのすべてが、まるでなかったかのように扱われている。
三日目の朝、私はついに限界を感じていた。物置のような部屋で布団一枚だけで過ごした夜は、心身ともにこたえた。朝食の時間、私がリビングに向かうと、家族四人が楽しそうに食事をしていた。
「お母さん、おはようございます」
由美子が形だけの挨拶をした。テーブルに私の席はなかった。
「母さん、実は相談があるんだ」
剣一が突然切り出した。
「何かしら?」
私が尋ねると、剣一は少し困ったような顔をしながら言った。
「義父母がもう少し長くいることになったから、母さんには別のところを探してもらいたいんだ」
「別のところって、どこに?」
私の震える声に、剣一は冷たく答えた。
「安いアパートでも借りて。お金は少し援助するから」
「でも剣一、ここは私も住んでいた場所よ。私の荷物も思い出も…」
私が必死に訴えると、由美子が口を挟んだ。
「正直、お母さんがいると気を遣うんです」
私は言葉を失った。
「母さんには感謝してるけど、俺の家庭を最優先したいんだ」
剣一が続けた。
「家庭って…私も家族だったんじゃないの?」
私が震え声で訪ねると、由美子がはっきりと言った。
「家族は家族でも、やっぱり優先順位があるでしょ。両親の方が大切なんです」
「そういうこと。私たちは遠慮なく過ごしたいのよ。啓子さんがいると、どうしても気を遣っちゃうの。嫁でも姑でも、やっぱり他人は他人よ」
花子さんが追い打ちをかけた。他人。その言葉が、私の胸に鋭く刺さった。
「でも、私はこれまで…」
私が言いかけると、剣一が遮った。
「母さん、過去のことはありがたく思ってる。でも、今は今だから」
「過去のことって…」
私の声が震えた。
「母さんのおかげで大学も出られたし、結婚もできた。それは感謝してるよ。でも、もう俺は独立した大人だから、自分の家族を一番に考えたいんだ」
剣一の言葉に、由美子が満足そうに頷いた。
「そうなんです。剣一さんはもう私たちの家族なんです。お母さんにはもう頼らないで、自立していきたいんです」
頼らないでと言いながら、私が毎月五万円の生活費を払い、家事をすべて担当していることは完全に無視されている。
「じゃあ、私がいなくなったら誰が家事をするの?」
私が尋ねると、由美子があっさりと答えた。
「お母さんがしてくださいます」
「お母さんは私の本当のお母さんですから、当然でしょ」
花子さんが嬉しそうに言った。
「もちろんよ。由美子ちゃんのためなら何でもするわ。家事なんて簡単よ。啓子さんができるくらいだもの。私にできないはずがないわ」
まるで私の二十五年間の家事労働など、取るに足らないものであるかのように言う。
「いつまでに出ていけばいいの?」
私がやっとの思いで尋ねると、剣一が冷たく答えた。
「来週末までに。アパートの件は俺が探してやるから」
探してやるという上から目線の言い方に、私は怒りが込み上げてきた。
「お母さん、長い間ありがとうございました」
由美子が形だけの感謝の言葉を述べた。しかし、その表情にはあからさまな安堵の色が浮かんでいる。
「本当、お疲れ様でした。でも、これからは私たち本当の家族だけでのんびり過ごせるわね」
花子さんが勝ち誇ったように言った。
その時、翔太が学校に行く準備をしてリビングにやってきた。
「蛍光灯おばあちゃん、どこか行っちゃうの?」
翔太が不安そうに私に近づこうとすると、由美子が素早く翔太の手を引いた。
「翔太、お母さんはお引っ越しするのよ。これからは花子おばあちゃんと武夫おじいちゃんがいるから大丈夫」
「でも、蛍光灯おばあちゃんがいい」
翔太がそう言うと、花子さんが厳しい顔で言った。
「翔太君、わがまま言っちゃだめよ。私たちが本当のおじいちゃんとおばあちゃんなんだから」
私は静かに立ち上がった。もう、この家に私の居場所はない。
「わかりました。出ていきます」
私がそう言うと、家族全員がほっとしたような表情を浮かべた。
「母さん、決断してくれてありがとう。きっと母さんにとっても、その方がいいよ」
剣一がまるで私のことを思っているかのような言い方をした。私は震える足で自分の部屋、いや、物置部屋に向かった。その時、私の心の中で何かが完全に切れる音がした。
その夜、私は物置部屋で一人、静かに決意を固めていた。もう十分です。これ以上、屈辱を受ける必要はありません。私は心の中でそう呟きながら、古い手帳を取り出した。そこには、夫の正雄が残してくれた大切な連絡先が記されている。田村弁護士の電話番号だった。
正雄が生前、私に何度も言っていた言葉を思い出した。
「啓子、もしもの時は田村先生に相談するんだよ。お前には知らせていない財産がある。剣一には内緒にしておいてくれ」
当時の私は、夫が何を言っているのかよくわからなかった。
翌朝、家族が朝食を取っている間に、私は外出しようとした。
「お母さん、どちらに?」
由美子が形だけ尋ねた。
「少し用事があります」
私は短く答えて家を出た。歩いて十分の場所にある田村法律事務所。私は緊張しながらドアを開けた。
「夫の正雄の件で、昨夜お電話しました。田中啓子です」
「ああ、奥様。お待ちしておりました」
田村弁護士は六十代の落ち着いた男性で、正雄とは大学時代からの親友だった。
「正雄さんから預かっている書類があります。ついにこの時が来ましたね」
田村弁護士が金庫から取り出したのは、分厚い封筒だった。
「実は、正雄さんは奥様のためにかなりの資産を残していらっしゃいます」
封筒を開くと、そこには信じられない書類が入っていた。都心一等地の土地権利書、三つのビルの所有権書類、そして世田谷にある豪邸の登記簿。
「これは…」
私は言葉を失った。
「正雄さんは大学卒業後、不動産投資を始められました。表向きは普通のサラリーマンでしたが、実は相当な資産家だったのです。総資産額は約十五億円になります」
十五億円。私の声が震えた。
「正雄さんは、息子さんには知らせないで欲しいとおっしゃっていました。息子が自立するまでは、啓子さんだけの秘密にしてくれと」
「どうして夫は私に黙っていたの?」
私が尋ねると、田村弁護士は優しく微笑んだ。
「正雄さんは言っていました。啓子は優しすぎる。もし財産のことを知ったら、息子に全部渡してしまうかもしれない。でも、いつか息子が啓子を軽んじるような日が来たら、その時は啓子自身のために使って欲しいと」
夫はすべてを見通していたのだ。
「世田谷の豪邸は、すぐにでも住める状態にしてあります。家具も揃っていますし、管理人もおります。敷地三百坪の二階建ての邸宅です。庭園もございます」
私は夢を見ているような気分だった。
「奥様、もしお望みでしたら、今すぐにでもお引っ越しの手配をいたします」
田村弁護士が提案した。
「でも、息子には何も言わずに」
「正雄さんの遺言通り、息子さんが奥様を大切にしている間は秘密にしておく。しかし、もし息子さんが奥様を軽んじるようなことがあれば、その時は奥様の判断で行動して良いということでした」
私は静かに頷いた。
「お願いします。引っ越しの手配をしてください」
「承知いたしました。明日の午前中に引っ越し業者を手配いたします」
事務所を出た私は、久しぶりに背筋を伸ばして歩いていた。家に戻ると、由美子が待っていた。
「お母さん、用事ってアパート探しだったんですよね」
「そうですね。決まったので、明日出ていきます」
私は平静を装って答えた。
「よかった。すぐに決まったんですね」
由美子がほっとしたように言った。
その日の夜、私は静かに荷物をまとめ始めた。リビングからは、相変わらず楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「明日から、もっとゆっくりできるわね」
花子さんの声が聞こえた。
「そうですね。やっと本当の家族だけになれます」
由美子が答えた。
「母さんも、きっと一人の方が気楽だよ」
剣一までそんなことを言っている。私は静かに微笑んだ。そうですね、私も一人の方がずっと気楽になりそうです。心の中で、私はそう呟いた。明日からは、誰に遠慮することもない、本当に自由な生活が始まる。十五億円の資産と、豪邸で過ごす新しい人生。正雄さん、ありがとう。あなたは、最後まで私を守ってくれていたのですね。私は天国の夫に向かって、心の中で感謝を込めて語りかけた。
翌朝、私は六時に起床した。いつものように朝食の準備はせず、静かに荷物の最終確認をしていた。八時頃、大きなエンジン音が響いた。窓から外を見ると、引っ越し業者の大型トラックが家の前に止まっている。
「母さん、こんなに大きなトラックで…荷物、そんなにあったっけ?」
剣一が困惑している。
「長年住んでいましたから、それなりに」
私は平静に答えた。
その時、由美子と義両親も出てきた。
「お母さん、随分と立派な引っ越し業者ですね。安い業者じゃなかったんですね。お金、大丈夫なんですか?」
由美子が皮肉な口調で言った。
引っ越し業者たちは、まるで美術品を扱うかのように丁寧に私の荷物を運び出していく。私が密かに保管していた陶器や骨董品の数々。
「母さん、これらの荷物、見たことないものばかりだけど…」
剣一が声を潜めた。
「お母さん、こんな高価なものをどこで?」
由美子の声に動揺が混じっている。
「主人の遺品です」
私は簡潔に答えた。
引っ越し作業は二時間ほどで完了した。業者の責任者が私に向かって言った。
「奥様、新居の方でお待ちしております。お車の準備は、いかがいたしますか?」
「お車?」
剣一が聞き返した。
「はい。奥様専用の、運転手付きの車を手配しております」
その時、家の前に黒塗りの高級車が止まった。運転手が車から降りて、私に向かって丁寧にお辞儀をした。
「田中様、お迎えに参りました」
息子夫婦と義両親は、完全に言葉を失っていた。
「母さん、一体、どういうこと?」
剣一がやっと口を開いた。
「新しい住まいが決まりましたので、今までお世話になりました」
私は冷静に答え、運転手に案内されて車に乗り込んだ。車が走り出すと、剣一が慌てて追いかけてきたが、すぐに諦めたようだった。
三十分ほど走って、車は世田谷の高級住宅街に入った。そして、重厚な門構えの邸宅の前で止まった。
「奥様、お疲れ様でした。こちらがお住まいになる邸宅です」
運転手が扉を開けてくれた。目の前には、まるで映画に出てくるような豪邸が立っている。三階建ての美しい建物が、手入れの行き届いた庭園に囲まれている。
「田中様、お帰りなさいませ」
玄関から、品の良い中年女性が出てきた。
「私は管理人の山田と申します。ご主人様の指示で、お屋敷を整えてまいりました」
「山田さん、よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。
邸宅の中は、息を飲むほど美しく整えられていた。シャンデリアが輝く大広間、暖炉のある書斎、見事な庭園を望むバルコニー。宮殿のようだ。
「奥様のお部屋は、二階にご用意しております」
山田さんに案内された寝室は、私が今まで住んでいた息子の家の部屋の倍以上の広さだった。
午後一時頃、私の携帯電話がなった。剣一からだった。
「母さん、どこにいるの?」
剣一の声は動揺していた。
「新しい住まいです」
「新しい住まいって、どこ?」
「世田谷です」
「一体、どこからそんなお金が…。あんな立派な引っ越し業者に、運転手付きの高級車まで…」
剣一が混乱した様子で続けた。
「亡くなったお父さんからの相続です。知らせる必要がないと思っていましたので」
電話の向こうで、剣一が息をのむ音が聞こえた。
「なんで黙ってたんだよ」
剣一が声を荒げた。
「家族じゃないと言ったんだから、もう関係ないのでは?」
私は冷静に答えた。
「そんな…そういう意味じゃ…」
「では、どういう意味だったのでしょうか?」
私の冷たい口調に、剣一は言葉に詰まった。
「詳しくは、あとでお話ししましょう」
一時間後、剣一と由美子が慌てて邸宅を尋ねてきた。門の前で立ち尽くしている二人を、監視カメラで確認した。
「奥様、お客様がいらしていますが…」
山田さんが訪ねた。
「通してください」
二人が恐る恐る玄関に入ってきた。豪華な内装を見回して、完全に圧倒されている。
「お母さん、誤解があったんです」
由美子が慌てて言った。
「誤解とは、何のことですか?」
私が冷たく訪ねると、由美子が言葉に詰まった。
「母さん、俺たちが間違ってた。戻ってきてよ」
剣一が必死に言った。
「戻る? どちらに戻るのでしょう?」
「家だよ。俺たちの家に」
「あそこは、私の家ではないとおっしゃったでしょう」
私は静かに言った。
「そんなこと言ってない」
「お母さん、お願いします。私たちが悪かったんです」
由美子が土下座をする勢いで頭を下げた。
「悪かったって、何がですか? 私を家族じゃないと軽く見たこと? 血の繋がりが違うと、はっきりおっしゃいましたよね」
私が一つ一つ言葉を復唱すると、二人は顔を真っ青にした。
「でも母さん、俺たちは本当に反省してる…」
剣一が必死に言った。
「反省? 私の財産を知ってからの反省ですか?」
その言葉に、二人は完全に沈黙した。
「山田さん、お客様をお見送りください」
「承知いたしました」
二人は何も言えずに、邸宅を後にした。
その夜、私は豪華なダイニングで一人、優雅な夕食を取った。最高級の食材で作られた料理を、美しい食器でいただく。
「正雄さん、あなたが用意してくれたこの生活、大切にします」
私は天井を見上げて、夫に再び感謝の気持ちを伝えた。
それから三か月が経った。私は世田谷の豪邸で、これまでの人生で最も充実した日々を送っている。朝は八時にゆっくりと起床し、美しい庭園を眺めながら優雅な朝食を取る。山田さんが用意してくださる季節の食材を使った料理は、どれも絶品だ。午前中は読書や音楽鑑賞、午後は友人とのお茶会や文化的な活動。夜は静かに庭園を散歩しながら、心の平穏を感じている。
一方、息子夫婦の生活は一変していた。私からの月五万円の生活費援助がなくなったことで、家計は一気に厳しくなった。さらに、花子さんと武夫さんを優遇するための出費が予想以上に重なっている。
「剣一、お父さんがまた高い日本酒を買って欲しいって言ってるわ」
由美子の疲れた声が聞こえる。
「俺だって、給料は限られてるんだよ」
そして、私がいた時には気づかなかった家事の重さが、由美子の方にのしかかっている。
「由美子ちゃん、この料理、味が薄いわよ。啓子さんの方が上手だったかも」
花子さんの何気ない一言が、由美子の心を深く傷つけている。
さらに、近所の人たちからの視線も冷たくなっていた。
「剣一さんち、入院してたお母さんを追い出したって、本当?」
こうした噂が息子夫婦の耳にも入ってきて、精神的に追い詰められていた。
そんな中、剣一から電話がかかってきた。
「母さん、お願いがあるんだ」
剣一の声は疲れきっていた。
「何でしょうか?」
「少しでいいから、経済的な援助をしてもらえないか? 生活が苦しくて」
「それは大変ですね。でも、本当の家族だけで頑張ってください」
「母さん、俺たちが間違ってた。本当にごめん」
「間違いって、何がですか?」
「母さんを家族じゃないなんて言ったこと。許して…戻ってきてくれ」
「戻る理由が見つかりません。こちらの生活は、とても快適ですから」
私は静かに電話を切った。
翌週、剣一夫婦が再び尋ねてきた。今度は翔太も一緒だ。
「おばあちゃん!」
翔太が私に駆け寄ってきた。
「翔太君、元気だった?」
「おばあちゃん、帰ってこないの? お母さんとお父さん、毎日大変そうだよ」
翔太の無邪気な言葉に、剣一と由美子の顔が曇った。
「翔太が会いたい時は、いつでもここに来ていいのよ。おばあちゃんは翔太が大好きだから」
私は孫には何の罪もないことを、心から理解していた。
「お母さん、お願いします。私たちが間違っていました」
「どこが間違っていたのでしょう?」
「お母さんを家族として大切にしなかったこと。血の繋がりなんて関係ないのに、差別したこと」
由美子が悔しそうに答えた。
「そして、母さんがしてくれていたことを当然だと思っていたこと」
剣一が続けた。
私は静かに微笑んだ。
「分かっていただけて、良かったです。でも、私はこの生活を続けます」
私の決意は、変わりませんでした。
その夜、私は豪華なリビングで静かにお茶を飲んだ。二十五年間、家族のために尽くした。そして今、私は自分のために生きている。窓の外では、美しくライトアップされた庭園が輝いている。息子夫婦が味わっている困難は、すべて彼らが選んだ道の結果だ。私を家族じゃないと言った報い、血の繋がりを軽んじた代償、私を軽く見た報いというものを、しっかりと学んでいただきましょう。今、私は誰にも遠慮することなく、本当に自由で豊かな生活を送っている。これは、理不尽と戦えた者だけが手にできる、真の勝利なのだ。



