兄の借金を背負って44年間、私は休むことなく働いてきた。68歳の今、夜間清掃のシフトを半分に減らされ、家を追われ、貯金を使い果たし、ネットカフェにも泊まれず、公園のベンチに座っていた。そんな夜、15年会っていない姪から突然電話がかかってきた。「おばさん、今どこにいますか? 大丈夫ですか?」…

兄の借金を背負って44年間、私は休むことなく働いてきた。68歳の今、夜間清掃のシフトを半分に減らされ、家を追われ、貯金を使い果たし、ネットカフェにも泊まれず、公園のベンチに座っていた。そんな夜、15年会っていない姪から突然電話がかかってきた。「おばさん、今どこにいますか? 大丈夫ですか?」...

午前2時を過ぎたホテルの廊下で、松崎千鶴は自分の胃が鳴る音を聞いた。コンビニの割引シールが貼り替えられる時刻はとっくに過ぎている。今夜の食事はまだ口にしていなかった。

68歳。身長は150センチそこそこ。細い体だが、背筋は真っすぐで、歩くときは小走りのように俊敏だった。白髪混じりの髪をプラスチックのクリップで後ろに束ね、右手にはいつものステンレスのボトルを持っていた。中身は朝に沸かした湯だ。喉が渇いた時、胃が鳴りそうな時、彼女はそれを口に運んだ。ペットボトルの水を買う120円は、別のことに使う必要があった。

ステイイン南浦。乗り継ぎ客や夜勤明けの労働者が仮眠を取るための安宿に近いビジネスホテルだった。廊下には安い芳香剤の匂いがこびりつき、どのドアも閉まりきらないような古さだった。千鶴はここで夜間清掃員として働き始めて5年になる。一晩に担当する客室は12室から多い時で16室。1部屋に使える時間は20分が限度だった。午前1時半から始まる仕事は朝の5時まで続く。時給は1050円。交通費は支給されなかった。

彼女は黙々と廊下を歩き、扉を開けるたびに室内の空気を読んだ。403号室は枕にタバコの焦げ跡があった。407号室はシャワーブースの床に土砂のような跡があった。412号室は客がチェックアウトせずに延泊を申し込んでいた。千鶴は表情を変えなかった。手袋の中に薬品のシミが染み込んでくるのを感じながら、それでも吹き取りの手を緩めなかった。苦情を言うという発想そのものが、もう随分昔に消えていた。

千鶴に年金がほとんどないのは、彼女自身の怠慢ではなかった。20代前半から、兄の借金の後始末のために働いてきた。兄の名は松崎高尾。パチンコと競馬と消費者金融の連鎖に飲み込まれた男で、千鶴が24歳の時、彼は300万円を超える債務を残して姿をくらました。母親はすでに亡く、父親も病気がちで働けなかった。残されたのは千鶴だけだった。

彼女はファミリーレストランの厨房で働き、清掃業のパートを掛け持ちした。結婚を考えたこともあったが、その都度、相手に事情を打ち明けると連絡が途えた。30代半ばに、千鶴はこのまま1人で生きていくと決めた。国民年金を払い続けられなかった時期が何度もあった。申請はしたが、追納する余裕はなかった。気づけば40代になり、50代になり、年金の受給見込み額は最低限度を大きく下回っていた。65歳になった時、届いた通知書を見て、千鶴はしばらくの間、それを食卓に置いたまま放置した。封を開けるのに3日かかった。

兄は3年前に亡くなった。孤独死だった。千鶴が骨を拾った。それだけだった。兄が死んでも残債は消えなかった。セリアに入ってもらって圧縮した残りを、千鶴は今も毎月少しずつ返していた。

その夜、午前3時を少し回った頃、千鶴は409号室の清掃を終えてカートを廊下に引き出した。次の部屋は410号室だった。ノックをし、返事がないことを確認してからマスターキーを差し込んだ。手早く動いた。枕カバーを外し、シーツを引き剥がし、タオルを回収した。ゴミ箱は空だった。

仕事の手が止まったのは、ゴミ箱の脇に落ちていた紙を見つけた時だった。拾い上げると、コンビニのレシートだった。合計は3280円。鶏の唐揚げ、缶ビール2本、アイスクリーム、週刊誌。彼女はそれをゴミ袋に入れながら、ふと自分の今夜の食事のことを考えた。今日買ったのは、30円引きになっていたカップ麺1つとキャベツの芯の部分だった。キャベツの芯は捨てられる部分だが、薄く削って汁に入れた。

比べることに意味はなかった。比べたところで、どちらかが変わるわけではなかった。

その夜の仕事が終わったのは午前5時を少し過ぎた頃だった。更衣室は地下1階の薄暗い一角にあった。木製のロッカーが6つ並び、うち2つは鍵が壊れていた。千鶴は作業着を脱いで私服に着替えながらノートを取り出した。今月の支出を確認する。

家賃3万8000円、電気代4200円、水道代1800円、携帯電話の基本料金1600円。兄の残債の分割払いが8000円。それに食費。今月の食費は大体6000円前後に収まる予定だった。今月の収入は、夜間清掃で月22日勤務。計算すると8万990円。ギリギリだった。貯金はなし。医療費はなし。それでもギリギリだった。数字を確認してノートを閉じた。バランスは取れている。崩れてはいない。それだけで今は十分だった。

翌週の月曜日の夕方、ホテルのオーナーが変わった。千鶴は知らなかった。パートの清掃員には事前に何の通知もなかった。ただ、いつもシフト表が貼り出される掲示板に、その日は貼られていなかった。代わりに、自分のロッカーの扉に小さなメモが挟まれていた。

「明日の昼12時に事務所にお越しください。新しい運営責任者が話があります」

差出人の名前はなかった。

翌日の昼、千鶴は事務所を訪れた。中に入ると、30代半ばほどの男が座っていた。名前は吉村啓吾と言った。黒いYシャツにダークグレーのジャケット。髪はワックスで固めてあった。

「松崎千鶴と申します。清掃のパートで働かせていただいております」

吉村は千鶴の顔を見た。それから書類に視線を落とした。挨拶は返さなかった。少しの間沈黙があった。

「松崎さん、今月から夜間清掃のシフトを半分に減らします。週4日から週2日になります。よろしいですか?」

千鶴はすぐには言葉が出なかった。

「半分ですか」

「コスト削減です。夜間は学生アルバイトを入れます。安くつくので」

「週2日ですと、家賃の支払いが難しくなります。せめて週3日、いえ、今まで通りの週4日がどうか続けていただけないでしょうか」

吉村は少しの間、千鶴を見ていた。それから椅子を引いて立ち上がり、デスクの上にあった1枚の紙を手に取った。

「これが新しいシフト表です。来週から適用です。質問はそれだけですか?」

千鶴は一歩前に出た。気づいた時には、吉村のジャケットの袖に指先が触れていた。握ったというより、すがりついたという言葉の方が近かった。

「お願いします。私にはここの仕事しかないんです。週4日だけでも続けさせてください。どんな仕事でもします。思い荷物だって運びます。廊下の磨き直しでも、排水溝の清掃でも、何でもします」

吉村は目を細めた。彼は千鶴の手を掴んで軽く払いのけた。強引ではなく、何かの虫を払うような、そういう動作だった。それから、デスクの上のシフト表を取って、千鶴の足元に落とした。紙が滑って、スニーカーのつま先に当たった。

「拾ってください。これが今月からのルールです」

千鶴はかがんでシフト表を拾い上げた。吉村はすでに椅子に戻っていた。千鶴のことをもう見ていなかった。

千鶴は事務所を出た。更衣室のロッカーの前でノートを取り出し、シフト表を見ながら来月の収入を書き込んだ。3万6750円。それから支出の欄を見た。家賃、光熱費、残債。赤字だった。ノートのページを送って貯金の欄を確認した。14万3000円。それで乗り切ることはできる。しかし、何ヶ月も持たない。3ヶ月か4ヶ月か。何かが変わらなければ、その先はなかった。

長い時間をかけて維持してきたあのギリギリの均衡が、今夜初めて崩れた。

翌朝、千鶴はノートの余白に「日中の仕事を探す」と書いた。その日から、千鶴の生活に昼間のルーティンが加わった。夜間の仕事が終わり、朝5時に帰宅し、3時間ほど仮眠を取る。8時半に起き上がり、着替えて外に出る。以前は仕事のない昼間を休息のためにアパートで過ごしていたが、今は歩き回る時間に変わった。

最初の週はハローワークに通った。シニア歓迎の求人を探して電話をかけた。携帯電話の通話料を節約するため、公衆電話を使った。10円玉を握って電話ボックスに入るたびに、手が少し緊張した。

一軒目は駅から2駅先のスーパーだった。品出しのパートで週5日、時給は980円。電話口の担当者は最初、愛想よく話を聞いてくれた。「何歳ですか」と聞かれて千鶴が68歳と答えると、少しの間があった。「では履歴書を送っていただいて、こちらから連絡します」。連絡は来なかった。

二件目は弁当の仕分け工場だった。担当者は年齢を聞いてすぐに、「申し訳ありませんが、今回は別の方に決まりました」と言った。募集開始から2日しか経っていなかった。

三件目はマンションの管理員補助だった。履歴書を郵送した。1週間後、「今回は採用を見送らせていただきます」という返信が来た。千鶴は断られるたびに表情を変えなかった。少なくとも人前では。

二周目に入ると、千鶴は歩く範囲を広げた。電車賃がかかるなら歩く。片道4kmなら歩ける。片道6kmも慣れれば歩けた。スニーカーの底が薄くなってきていることに気づいたが、まだ履き続けた。そこに穴が開いたら買い換える。それまでは大丈夫だ。

三周目に入った時、ホテルの夜間勤務の帰りに、千鶴はめまいを感じた。廊下を歩いていて、一瞬足元が揺れるような感覚があった。しかしすぐに立ち直り、更衣室に向かった。疲れているだけだと思った。仮眠が足りていない。それだけだ。

アパートに帰って横になろうとした時、大家の北沢から封筒が郵便受けに入っていることに気づいた。開けると、「家賃改定のお知らせ」と書いてあった。来月から家賃が4万3000円に値上がりするという内容だった。

千鶴は封筒をテーブルに置いた。立ったまま、しばらくそこを見ていた。4万3000円。今の収入では、家賃だけで消えていく。大家のところに行って話し合いをしようとしたが、北沢は「書面の通りです。交渉はできません」とだけ言って扉を閉めた。

それから1週間後の夜明け前、千鶴は自分がこのアパートに住み続けることはできないと分かった。計算は何度しても同じだった。値上がりした家賃と現在の収入では、3ヶ月以内に貯金が尽きる。

千鶴はアパートに戻ってから、ノートを開いた。新しいページを使って、荷物の一覧を書き出した。必要なもの、不要なもの、捨てていいもの。衣類は季節を除いて最小限に絞った。食器は1枚、茶碗1つ、鍋1つ。元々物が少ない暮らしだった。スーツケース1つとトートバッグ1つに収まるだけの物を持って出る。引っ越しはかけられない。業者は使えない。

アパートを出たのは、梅雨入り前の蒸し暑い火曜日の朝だった。千鶴はキャスター付きの小さなスーツケースを引いて階段を降りた。スーツケースは20年以上前に買ったもので、ファスナーの一部がもう動かなかった。ガムテープで補強して持ってきた。

駅前のロッカーに荷物を預けて、千鶴はその日の昼間を過ごす場所を探した。図書館に行った。涼しく座れてお金がかからない。求人情報のコーナーに座って、新しいチラシを手に取った。読みながら必要な部分を小さなメモ帳に書き移した。コピーを取ると10円かかる。書き移せば0円だった。

夜はネットカフェに泊まった。ナイトパックで1300円。千鶴は財布から1300円を出して、1番小さなブースを選んだ。ブースの中は、大人1人がやっと座れる程度の広さだった。千鶴はスーツケースをチェアの脇に立てて、コートを体にかけて目を閉じた。こうした夜が1日、2日と続いた。

ネットカフェで夜を過ごし、朝に出てコインロッカーで荷物を持ち出し、図書館で時間を潰し、求人に電話をかけ、断られ、また夜になる。食費は1日300円を上限にした。コンビニの割引のおにぎりと、スーパーの閉店間際の値引き品。それで1日をつないだ。

10日が経った頃、千鶴はネットカフェのパソコンで求人サイトを開いた。検索窓に「清掃パート 65歳以上 即日」と入力した。その中の一件が目を引いた。

「物流施設の軽作業スタッフ募集 65歳以上歓迎 体力に自信のある方 日払いのみ 即採用あり」

掲載されていた連絡先は「丸エージェンシー」という会社名と電話番号だけだった。65歳以上歓迎。即採用。今まで見た求人にはなかった条件だった。

翌朝、千鶴は記載されていた電話番号に電話をかけた。女性の声が出た。

「はい、丸エージェンシーです。お電話ありがとうございます」

明るく訓練された声だった。千鶴は事情を話した。68歳で体力には自信がある。清掃業務の経験が5年ある。できれば日中の仕事を探している。女性は丁寧に話を聞いてから、「是非一度弊社にお越しいただけますか? 詳細は直接ご説明できればと思います」と言った。住所を告げられた。最寄り駅から徒歩3分という場所だった。千鶴は翌日の午前10時に訪問することになった。

約束の日の朝、千鶴は早めにネットカフェを出た。スーツケースはロッカーに預けて、身一つで電車に乗った。ICカードの残高が少なかったので、窓口で100円だけ追加チャージした。

事務所のある建物は商業ビルの3階だった。エレベーターで上がると、廊下の突き当たりに「丸エージェンシー」と書かれたプレートが貼られた扉があった。ノックをするとすぐに扉が開いた。出てきたのは30代前半ほどの女性だった。紺色のジャケットを着ていて、笑顔が柔らかかった。

「松崎様ですね。お待ちしておりました」

事務所の中は清潔感があった。デスクが2つ、棚に整理されたファイル。壁には求人情報と書かれたラミネートされた紙が数枚貼ってあった。

「弊社では物流倉庫の軽作業スタッフを紹介しております。体力のある方なら60代、70代の方にも長くご活躍いただいている仕事です。時給は1200円から始まり、慣れれば1400円以上になる方もいらっしゃいます」

「体力には自信があります。清掃の仕事を5年続けてきました。思い荷物も運べます」

「それは素晴らしいですね。松崎様のようなご経験のある方は、すぐに現場でも活躍できると思います」

千鶴の胸の中で、何か緊張していたものが少し緩んだ。こんなにまっすぐに評価されたのは、随分久しぶりだった。

「ただ」と女性は言った。表情は変わらなかったが、声の調子がわずかに変わった。「弊社では、就業前に登録手数料と研修費、それから現場用の制服代をご用意いただいております」

「登録手数料ですか?」

「はい。登録手数料が1万5000円。研修費が2万円、制服代が1万5000円で、合計5万円になります。採用は最初のお給料から少しずつ差し引く方式もありますが、多くの方は最初にまとめてお支払いいただいています」

千鶴は頭の中で計算した。5万円。今の手元の現金は、コインロッカーの中の封筒に入っている。貯金の残りは全部で6万2000円ほどだった。5万円払えば、残りは1万円そこそこになる。

「すぐに採用していただけますか?」

「はい。手続きが完了すれば、来週から現場に入れます。今のご状況を考えると、できるだけ早く働き始めた方がいいですよね。弊社も松崎様のような誠実な方に来ていただきたいと思っています」

「誠実な人。来て欲しい人」。長い間、誰かにそう言われたことがなかった。

「わかりました。お支払いします」

その日の午後、千鶴はコインロッカーから封筒を取り出した。中から5万円を数えて、再び電車に乗った。事務所に戻ると、女性は「ありがとうございます」と言って領収書を渡してくれた。領収書には会社名のゴム印が押してあった。

「来週の月曜日に電話しますので、その時に現場の詳細をお知らせします」

千鶴は領収書を大切にノートの間に挟んだ。その夜のネットカフェで、千鶴は初めて少し深く眠れた気がした。まだ何も解決していない。でも、光が見えた。そう思った。

月曜日になった。千鶴は朝から電話を待った。10時になっても、11時になっても、電話は来なかった。12時を過ぎた頃、千鶴の方から電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けた。誰も出なかった。午後になっても状況は変わらなかった。もう1度かけると、今度は「おかけになった番号は現在使われておりません」という音声が流れた。

翌日、千鶴は事務所のあった建物に行った。エレベーターを降りて廊下を進んだ。扉は閉まっていた。すりガラスの扉の向こうに明かりはなかった。ノックをしたが返事はなかった。ドアノブを引いたが、鍵がかかっていた。扉のプレートがあった場所を見た。それはなくなっていた。壁に剥がした跡だけが残っていた。

建物の1階に降りると、管理会社の案内板があった。千鶴はそこに書いてある電話番号に電話をかけた。出た男性に3階の部屋について尋ねた。男性はしばらく調べてから言った。

「先週末に退去されました。解約は1ヶ月前から申告されていたようです」

千鶴は電話を切った。建物の外に出ると、人通りのある通りに面していた。昼間の買い物客が行き交い、自転車が通り過ぎ、向かいのドラッグストアから明るいジングルが流れてきた。千鶴はその中に立っていた。スーツケースのハンドルを握っていた。指先が白くなるほど強く握っていた。

5万円。貯金の残り1万3000円。手の中の領収書は、もはや何の価値もなかった。千鶴はそれをポケットにしまった。捨てなかった。捨てることすら、今は考えられなかった。

その夜、千鶴は午後10時から公園のベンチに座っていた。ネットカフェに泊まる現金がもう足りなかった。財布の中には1200円と小銭が少し。ナイトパックの料金は1300円だった。100円足りない。

6月の夜だった。昼間は蒸し暑かったが、日が落ちてからは風が出てきて、じっとしていると薄ら寒かった。千鶴はコートをトートバッグから取り出して肩にかけた。腹が鳴った。今日食べたものは、朝に図書館の近くのコンビニで買った30円引きのおにぎり1個だけだった。

向かいのコンビニに明かりが見えた。午後10時を過ぎた頃、店員が店先のワゴンに商品を並べ直すのが見えた。千鶴は立ち上がった。スーツケースを引いてコンビニに向かった。値引きシールの貼られた弁当が並んでいた。1番安いもので230円。手に取りかけて、財布の残高を頭の中で確認した。1200円。これを使うと、明日の食費が減る。

千鶴は弁当を棚に戻した。コンビニを出た。公園のベンチに戻る途中、コンビニの脇の路地にゴミ置き場があった。透明な袋の中に、賞味期限切れの菓子パンと痛んだ野菜が入っているのが見えた。千鶴は足を止めた。袋の口はまだ縛られていなかった。手が袋の方に伸びかけた。

その時、ポケットの中でスマートフォンが振動した。千鶴は手を引っ込めた。着信だった。画面を見ると、登録されていない番号だった。こんな時間に知らない番号からかかってくることなど、今まで一度もなかった。少し迷ってから、電話に出た。

「もしもし」

少しの間があった。それから女の声が聞こえた。

「もしかして、千鶴おばさん?」

千鶴は聞き覚えのある声だと思った。しかし、誰の声かすぐにはわからなかった。

「はい、松崎ですが」

「ほなみです。柴田ほなみ。お父さんの、高尾さんの娘です」

千鶴は息を飲んだ。柴田ほなみ。兄の高尾が若い頃に別れた女性との間にできた子供だ。千鶴が最後にあったのは、ほなみがまだ10代の頃だった。もう15年以上になる。

「ほなみちゃん……どうしてこの番号?」

「お父さんの古いスマホを整理していたら、おばさんの番号が出てきて。ずっと連絡しようと思っていたんだけど、なんかできなくて。おばさん、今どこにいますか? 大丈夫ですか?」

千鶴はすぐに答えられなかった。「大丈夫か」という問いの答えを、彼女はここ数年考えたことがなかった。大丈夫かどうかを問う相手がいなかったからだ。

「大丈夫です」

反射的に出た言葉だった。しかし、ほなみには通じなかった。

「本当に? おばさん、今夜の外にいますよね。声の感じでなんかわかります」

千鶴は返事ができなかった。

「今から迎えに行きます。場所を教えてください」

「いいよ。そんな、夜中に悪いよ」

「悪くないです。場所を教えてください」

千鶴はしばらく黙っていた。それから公園の名前を言った。

30分ほどして、軽自動車が公園の前に止まった。運転席から出てきたのは30代前半ほどの女性だった。ショートヘアで紺のパーカーを着ていた。目の形が兄の高尾に似ていた。

ほなみは千鶴の姿を見た瞬間、立ち止まった。スーツケースとトートバッグとコートを肩にかけた姿を、上から下まで見た。

「おばさん……何でこんなことに」

千鶴は何も言えなかった。ほなみが数歩近づいてきて、千鶴の肩に手を置いた。それだけで、千鶴の胸の中で何かが解けそうになった。ここで崩れてはいけないと思った。

「乗ってください。うちに来てください」

「迷惑をかけるよ」

「迷惑じゃないです」

ほなみはスーツケースのハンドルに手をかけた。千鶴はほなみの顔を見た。泣いていた。涙をこらえながら唇をきつく結んで、それでもまっすぐ千鶴を見ていた。千鶴は頷いた。

車に乗り込むと、全身の力が抜けるような感覚があった。ほなみは運転しながら少し話した。自分は今、川口の賃貸マンションに1人で住んでいること、ジムの仕事をしていること、父が亡くなってから整理しなければならないものが多かったこと。千鶴の話は聞かなかった。聞かなかったのではなく、今は聞かないでいてくれているのだと千鶴は思った。

マンションは5階建ての新しいビルだった。エントランスにオートロックがあり、エレベーターがあり、廊下は清潔だった。千鶴が今まで住んでいたアパートとは全く別の世界に見えた。

ほなみの部屋は3階だった。1LDKで、リビングには小さなソファとテレビ、きれいに片付いたキッチンがあった。まずお風呂に入ってほしいと言われた。浴槽にお湯が張ってあった。湯舟に入ったのがいつ以来か、千鶴は思い出せなかった。ネットカフェにはシャワーはあったが、浴槽はなかった。お湯の温かさが肩から足先まで染み込んでくるような感覚があった。千鶴は浴槽の中で両手を膝の上に置いて、静かに目を閉じた。泣かなかった。泣く気力も今はなかった。ただ暖かかった。それだけで十分すぎるほどだった。

お風呂から出ると、テーブルの上に夕食が並んでいた。白米、味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし。コンビニで買ってきたものもあったが、いくつかは台所で作ったらしかった。

「大したものじゃないけど」

千鶴は椅子に座って、両手を膝の上に揃えてテーブルの上を見た。いつ以来か分からない、まともな食事だった。焼き魚の匂いが鼻に届いた。

「いただきます」

声が少し震えた。食べながら、ほなみは千鶴にゆっくり話させた。ホテルのシフトが減ったこと、仕事が見つからなかったこと、家賃が上がってアパートを出たこと。ほなみは口を挟まずに聞いていた。時々「うん」と言うだけだった。

千鶴は詐欺のことも話した。5万円を取られたこと。領収書だけが残ったこと。ほなみはそこで初めて眉を潜めた。

「警察には行きましたか?」

「行っていない。言ってもお金は戻ってこないと思って」

ほなみはしばらく黙っていた。

「それはそうかもしれないけど……」

食事が終わると、ほなみはリビングのソファを指して言った。

「今夜はここで寝てください。布団持ってきます」

「ソファでいいよ」

「布団で寝てください。おばさんは私の家族です。ソファで寝かせるわけにはいかないです」

千鶴はその言葉を聞いて、視線をテーブルに落とした。「家族」という言葉を誰かに言ってもらったのがいつ以来か、もう分からなかった。

「ありがとう」

それだけしか言えなかった。

翌朝、ほなみは仕事に出た。千鶴は一人で部屋に残された。まず台所を片付けた。昨夜の食器を洗い、拭いて棚に戻した。シンクを磨いた。コンロを拭いた。清掃の仕事をしてきた手が自然に動いた。次にリビングを掃除した。掃除機をかけ、テーブルを拭いた。窓を開けて換気をした。泊めてもらう代わりに、自分にできることをする。それが千鶴の考え方だった。

昼になると、冷蔵庫の中を確認して残っていた食材で昼食を作った。キャベツと卵と残り物の豆腐で味噌汁を作り、冷凍ご飯を温めた。自分の分だけ食べて、ほなみの分はラップをかけて置いておいた。

その夜、ほなみが帰ってきてテーブルの上を見た。

「おばさんが作ってくれたんですか?」

「食べていいですか?」

ほなみは「もちろん」と言って椅子に座って食べ始めた。食べながら「美味しい」と言った。千鶴にとって、それは何ヶ月分もの言葉のように聞こえた。

そういう日々が続いた。千鶴は毎朝部屋を掃除し、昼食を作り、ほなみが帰る前に夕食の下ごしらえをした。ホテルの夜勤が入っている日は、夕方から仕事に出て明け方に戻った。ほなみは「無理しなくていいですよ」と言ったが、千鶴にとって体を動かしていることが一番心が落ち着いた。

ノートの数字も少し変わった。家賃の支出が0になった分、赤字の幅が小さくなった。ホテルのシフトの収入だけでも、食費と残債の返済は賄えるようになった。完全ではないが、崩れてはいない。千鶴はそれを確認するたびに、少し息が楽になった。

2週間ほど経ったある夜、ほなみが帰宅してから少し経った頃だった。

「おばさん、少しいいですか」

ほなみはリビングのテーブルを挟んで向かいに座った。鞄の中から書類の束を取り出して、テーブルの上に置いた。

「この建物に正式に住民登録してもらうための書類なんですけど。おばさんが今正式な住所を持っていないと、色々不便じゃないですか? ここに住民票を移してもらえると、おばさんも色々手続きがしやすくなると思って」

千鶴は書類を見た。いくつかのページがあって、名前を書く欄と印を押す欄があった。

「住民登録の届け出ですか?」

「そうです。あと、マンションの管理組合に出す居住者登録も兼ねているので、少し枚数が多いけど」

ほなみは書類の1ページを開いて、千鶴の前に向けた。

「ここにおばさんの名前と生年月日を書いてもらって、ここに印を押してもらえれば大丈夫です」

千鶴は老眼鏡を取り出してかけた。書類を見た。文字が小さかった。「住居確認」「管理組合」「連帯保証人」という言葉が見えた。

「連帯保証人という欄がありますね」

「それはマンションの契約関係の書類で、居住者が増えた場合の書式なんです。おばさんが居住者として登録されることで、一応書式上そういう欄があるだけで、実際には私が払っている家賃とは別の話です。気にしなくていいです」

千鶴は書類をもう一度見た。文字が小さくて、読み続けるのが難しかった。老眼鏡をかけていても、細かい文字は滲んだ。

「難しそうなら、私が説明しながら一緒に確認しますよ」

声は穏やかだった。千鶴は迷った。ほなみの顔を見た。まっすぐこちらを見ていた。いつものほなみの顔だった。ここに2週間ずっと世話になっている、あの顔だった。

千鶴は書類の束を引き寄せた。ボールペンを受け取って、名前を書く欄に「松崎千鶴」と書いた。生年月日を書いた。印は持ち歩いていた。スーツケースの中の小さなポーチから出して押した。ページをめくってまた書いた。また押した。数ページにわたって、同じ作業を繰り返した。

「ありがとうございます。これで手続きができます」

千鶴は老眼鏡を外した。

「住所ができると、仕事の応募もしやすくなりますよ。また探してみてください。おばさんならきっと見つかります」

千鶴は頷いた。ほなみの言葉は温かかった。温かいはずだった。しかしその夜、布団の中で目を閉じながら、千鶴はあの書類のことを考えていた。「連帯保証人」という文字が頭の中に残っていた。あの書類は本当に居住者登録の書類だったのか。千鶴はそれを最後まで読んでいなかった。読めなかった。字が小さすぎた。

まあいい。千鶴は思った。ほなみを疑うことに意味はない。こんなに世話になっているのに、そんなことを考えるのは罰当たりだ。そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。

数日後の昼間、ほなみは出かけていた。千鶴は部屋の掃除をしていた。ベッドの周りの床を拭こうとして、モップをマットレスの下に差し込んだ時、何かが引っかかった。紙だった。マットレスの下に、紙の束が挟まれていた。

千鶴は取り出した。A4サイズの紙が数枚、バインダークリップで束ねてあった。表紙に文字があった。「金銭消費貸借契約書」と書いてあった。

千鶴は老眼鏡をかけて、ゆっくり読んだ。

貸主の名前は株式会社桜キャピタル。借主の名前は柴田ほなみ。貸付金額は500万円。返済期間、利率、約定返済額の情報が続いていた。利率の欄を見た。

年利18%。

千鶴は次のページをめくった。連帯保証人の欄があった。

「松崎千鶴」と書いてあった。自分の筆跡だった。印も押してあった。自分の印鑑だった。「連帯保証人は借主と同等の義務を負う」という情報が太字で印刷されていた。

千鶴は書類を持ったまま、しばらく動けなかった。ベッドの脇に座り込んだ。紙を膝の上に置いて、もう一度最初から読んだ。ゆっくり、一つずつ、間違いがないかどうか確かめたかった。間違いであって欲しかった。しかし何度読んでも、書いてあることは変わらなかった。

借入金額500万円。連帯保証人、松崎千鶴。あの夜、ほなみが差し出した書類。住民登録と管理組合の書類だと言っていた書類。千鶴が名前を書いて印を押した書類。あれは違った。

千鶴は書類を畳んで、元の場所に戻した。マットレスの下に、元通りに挟み込んだ。掃除道具を片付けて、リビングに戻った。ソファに座って、ホームボトルを取り出した。飲もうとしたが、手が少し震えていた。ボトルを両手で包んで抑えた。

頭の中で、ここ数週間のことを順番に思い返した。公園でかかってきた電話。車で迎えに来てくれたほなみ。お風呂と夕食と「家族です」という言葉。部屋を掃除して食事を作った日々。そして書類。

あの書類に署名した時、千鶴は読んでいなかった。読もうとしたが、字が小さかった。ほなみが「気にしなくていい」と言ったから、信じた。500万円の連帯保証人に、今自分はなっていた。

ほなみが帰ってきたのは、夜の8時過ぎだった。「ただいまです」という明るい声がした。千鶴はソファから立ち上がらなかった。ほなみがリビングに入ってきて、千鶴の顔を見た。

「おばさん、どうかしました?」

千鶴はほなみを見た。ほなみは鞄を持ったまま立っていた。疲れた顔の中に、少しの警戒が混じり込んできたような表情だった。

「あの書類のことを聞いてもいいですか?」

ほなみは動かなかった。

「部屋の掃除をしていたら見つけました。金銭消費貸借契約書です。連帯保証人の欄に、私の名前がありました」

ほなみは少しの間、千鶴を見ていた。それから鞄をソファに置いた。椅子に座った。何かが変わった。部屋の空気の中の何かが、静かに、しかしはっきりと変わった。

「見たんですね」

「見ました」

また沈黙があった。外から車の音が聞こえた。

「説明してもらえますか?」

責めている声ではなかった。ただ確かめたかった。自分が読んだものが、自分の思った通りのことを意味しているのかどうか。

ほなみは少しの間、千鶴の顔を見ていた。それから視線をテーブルに落とした。指でテーブルの端をなぞった。

「借金があります。前から色々あって、消費者金融に手を出して、それを返すために別のところから借りて、気づいたら雪だるまになっていた。桜キャピタルは最後に借りたところです。500万。それで全部まとめて返して、月々の返済を1本にするつもりだった」

ほなみの指がテーブルの端で止まった。

「でも、利率が高すぎて、毎月の返済額が私の給料じゃ払えない額になってしまって。それで……」

「それで、おばさんに保証人になってもらえば、もう少し条件が良くなると思った」

ほなみはそこで一度言葉を切った。

「嘘をついてすみませんでした」

謝罪の言葉は、思ったよりあっさりと出てきた。千鶴はその「すみませんでした」という言葉を耳で聞いて、胸の中で何度か繰り返した。謝ってはいる。しかし、その言葉の重さが、千鶴の受けた現実と釣り合っているかどうか、千鶴には分からなかった。

「私の名前で、500万円の借金の保証人になっているということですね」

確認のために言った。

「はい」

「ほなみちゃんが返済できなくなった場合、私に返済が発生する」

「はい」

千鶴は一度目を閉じた。ボトルが手の中にあった。冷えていた。

「私には、500万円を返す力がありません」

感情を込めていなかった。事実として言った。仕事は夜間清掃の週2日しかない。貯金もほぼない。500万など、一生かけても返せない額です。

ほなみは何も言わなかった。

「それを分かった上で、私の名前を使ったんですか?」

しばらく間があった。ほなみは顔を上げなかった。

「使いました」

千鶴はほなみを見た。俯いたままの後頭部を見た。この娘のことを、千鶴はほとんど知らなかった。兄の高尾が若い頃に作った子供で、千鶴が最後にあったのはほなみがまだ10代の頃だった。それから15年以上、連絡もなかった。

「どうして私に電話をかけてきたんですか? あの夜、公園に迎えに来てくれたのは、最初から計画していたことですか?」

ほなみはすぐに答えなかった。指がテーブルの端を離れた。膝の上で両手を組んだ。

「父のスマホは本当に整理していました。おばさんの番号も本当に出てきました。でも、電話をかけたのは、おばさんが困っているなら『使える』と思ったのも確かです」

「使える」。その言葉が静かに千鶴の胸に落ちてきた。音もなく落ちて、沈んでいった。千鶴は何も言わなかった。

「でも、連れてきてから、本当に申し訳ないとも思っていました。おばさんが一生懸命掃除してくれて、ご飯作ってくれて、それを見ていたら」

ほなみの声が少し変わった。

「両方、本当のことです」

千鶴はその言葉を聞いて、しばらく考えた。両方本当のこと。「使える」と思った気持ちと「申し訳ない」と思った気持ちが同時に存在していた。それはあり得ることだ。人間の中には、そういうものが同居することがある。だから許せるかどうかは、千鶴にはまだ分からなかった。

「書類をなかったことにする方法はありますか?」

ほなみは首を横に振った。

「桜キャピタルはそういう会社じゃないです。正式な契約書で、おばさんの署名と印鑑がある。私が返せなくなったら、おばさんに請求が来ます。今の返済状況は、今月は払えていません。来月も、多分払えません」

翌朝、千鶴が目を覚ました時、ほなみはもういなかった。リビングに行くと、テーブルの上に置き手紙のメモがあった。「仕事に行ってきます」とだけ書いてあった。

その日は夜間の仕事があった。千鶴は夕方に部屋を出てホテルに向かった。仕事をしながら、千鶴はずっと昨夜のことを考えていた。廊下を歩きながら、客室を清掃しながら、シーツを交換しながら。手は動いていたが、頭の中は別のところにあった。

500万円の連帯保証人。ほなみが払えなければ、自分に請求が来る。自分には払う手段がない。払えなければどうなるのか。差し押さえ。しかし、差し押さえるものも自分にはほとんどない。

仕事が終わって更衣室に戻った時、千鶴はロッカーの前に立って少し考えた。ほなみのマンションに戻るべきかどうか。あそこが今の住所になっている。荷物もある。しかし、昨夜のことがあって、あの部屋に戻ることが自分にとって正しいことなのかどうか、分からなかった。ただ、今夜は戻るしかなかった。他に行く場所がなかった。

マンションに戻ると、ほなみはもう帰っていた。リビングのソファに座って、スマートフォンを見ていた。千鶴が入ってくると顔を上げた。昨夜と同じ顔ではなかった。何かが整理された顔だった。

千鶴はコートを脱いで、向かいの椅子に座った。

「一つ聞かせてください。私がここを出て行ったら、その後どうするつもりですか?」

ほなみは少し黙ってから言った。

「別の保証人を探します」

「見つかりそうですか?」

「分かりません」

千鶴は頷いた。しばらく二人とも黙っていた。

「私は、ここにいる間、これ以上書類にはサインしません。それだけ約束してもらえますか?」

「わかりました」

その夜はそのまま終わった。

それから3日が経った。ほなみは毎朝出かけ、夜に帰ってきた。千鶴との会話は最小限になった。食事は千鶴が作ったが、ほなみは「ありがとうございます」というだけで、以前のように話さなかった。千鶴も話しかけなかった。ほなみの部屋を掃除するのは、もうやめた。

3日目の夜、千鶴がホテルの仕事から帰ってきたのは明け方の5時半だった。エレベーターで3階に上がり、廊下を歩いた。部屋の前に来た時、扉の隙間から明かりが漏れていることに気づいた。鍵を開けて中に入った。リビングの電気がついていた。しかし、ソファにほなみはいなかった。台所も無人だった。ほなみの部屋の扉は閉まっていた。

千鶴はコートを脱いで、台所で水を飲んだ。それから布団をしまうため、リビングの押入れを開けた。

押入れの中が、ガランとしていた。千鶴が使っている布団と自分のスーツケースはあった。しかし、冗談にあったはずのほなみの荷物が、半分ほど消えていた。

千鶴はほなみの部屋の扉の前に立った。ノックした。返事がなかった。もう一度ノックした。やはり返事がなかった。扉を開けた。

部屋はガランとしていた。クローゼットが開いていて、中のハンガーはほとんど空だった。化粧品の並んでいた棚が、きれいに空になっていた。ベッドの上には何も残っていなかった。マットレスの下に手を差し込んだ。書類はなかった。

千鶴はしばらくその部屋に立っていた。台所に戻って冷蔵庫を開けた。食材がいくつか残っていた。しかし、ほなみが使っていたコーヒーメーカーがなくなっていた。テーブルの上を見た。何もなかった。昨日の朝は、ほなみのスマートフォンの充電器がテーブルの端に置いてあったが、それもなかった。

千鶴は椅子に座った。両手をテーブルの上に置いた。

ほなみは出ていった。荷物をまとめて、黙って出ていった。いつ出ていったのか。昨夜か、今朝か。千鶴がホテルで働いている間に、出ていったのだ。

部屋は残っている。鍵もまだ手元にある。しかし、この部屋の契約者はほなみだ。ほなみがいなくなったこの部屋に、千鶴が住み続ける権利はない。そして、500万円の連帯保証人という立場は、消えていない。

朝の7時を過ぎた頃、千鶴は立ち上がった。スーツケースを押入れから出した。中身を確認した。衣類、ノート、ホームボトル、印鑑のポーチ。全部ある。トートバッグも確認した。それだけ確認してから、千鶴は荷物をまとめてマンションを出た。

外は曇っていた。朝の空気は冷たく、通勤の人たちが駅に向かって歩いていた。千鶴はスーツケースを引いて、その流れとは逆の方向に歩いた。どこへ行くかはまだ決まっていなかった。

千鶴はホテルに戻った。正確には、ホテルの裏口から入って地下の更衣室に向かった。夜勤明けの清掃員は、次のシフトまで更衣室を使っていいことになっていた。千鶴はそのルールを使って、スーツケースをロッカーに押し込んで着替えた。床に座った。目を閉じた。眠れなかった。眠ろうとしていなかった。ただ座っていた。

どれくらい時間が経ったのか分からなかった。廊下から足音が聞こえた。誰かが近づいてくる音だった。千鶴は体を起こした。足音は更衣室の前を通り過ぎた。聞き覚えのある足音だった。革靴の、少し引きずるような歩き方。吉村の足音だった。

10分ほどして、足音が戻ってきた。今度は更衣室の前で止まった。扉が開いた。吉村啓吾が立っていた。

「松崎さん、あなた今日はシフト入っていないですよね」

「はい。少し休ませていただいていました。すぐに出ます」

「この時間まで何をしていたんですか?」

千鶴は答えなかった。吉村は更衣室の中を見渡した。ロッカーから少しはみ出したスーツケースが目に入った。

「まさか、ここで寝ていたんですか」

「少しだけ休んでいました」

「休んでいた? 更衣室に無断で残って寝ていた。そういうことですか?」

吉村は更衣室の外に出た。

「ちょっと来てください」

吉村は廊下を歩いて、フロントのある1階のロビーに向かった。ロビーにはチェックアウトの手続きをしている客が数組いた。吉村は千鶴をロビーの中央まで連れてきて、そこで立ち止まった。

「皆さん、少しよろしいですか」

吉村は周りに向かって言った。フロントのスタッフも、チェックアウト中の客も、反射的に吉村の方を向いた。

「この方は当ホテルの清掃スタッフですが、シフトの合間の深夜に無断でホテルに侵入し、更衣室で寝泊まりしていたことが判明しました。電気も水道も無断で使用しています。これは不法侵入に当たる可能性があります。スタッフの皆さんも、このような行為を容認しないよう、改めてお願いします」

吉村は手元のスマートフォンを操作した。

「警察に連絡を入れますので、松崎さんはその場で待機してください」

視線が集まっていた。フロントの若いスタッフが千鶴を見ていた。チェックアウトの客が千鶴を見ていた。誰も何も言わなかった。

千鶴はゆっくりと膝を折った。タイルの床は冷たかった。膝から冷気が上がってくるような感覚があった。手を床についた。正座ではなく、膝と手が床についた格好になった。頭が自然に下がった。

「申し訳ありませんでした」

ロビーが静かになった。吉村は千鶴を見下ろした。スマートフォンを持ったままだった。しばらく動かなかった。

「出て行ってください。次のシフト以外で敷地内に入った場合は、本当に警察を呼びます」

千鶴はゆっくりと立ち上がった。スーツケースのハンドルを握った。頭を一度下げてから、出口に向かって歩いた。自動ドアが開いた。外の空気が体に当たった。千鶴は歩いた。どこへ向かうか考えなかった。ただ歩いた。背後でホテルの自動ドアが閉まる音がした。千鶴は振り返らなかった。

警察の取り調べは、思ったより静かな場所だった。プラスチックの椅子と古びたテーブルと壁に貼られた注意書き。千鶴はそこに2時間ほどいた。担当の若い警察官は礼儀正しかった。事情を聞き、メモを取り、最後に「不法侵入の事実は確認できませんでした」と言って千鶴を帰した。吉村が通報した内容は、正式な違法事実にはならなかった。シフトのある清掃員が更衣室を使うことは、ホテル側が容認してきた慣行だったからだ。

千鶴は「ありがとうございます」と言って警察署の外に出た。夜だった。12月に入ったばかりの、風の冷たい夜だった。千鶴はコートのボタンを上まで止めて、スーツケースのハンドルを握った。どこへ行くかは決まっていなかった。ネットカフェに泊まる現金は、今の財布にはなかった。コインロッカーを使う100円もなかった。正確には財布の中に820円あった。しかし、それを崩したら明日の食事がなくなる。

駅に向かう途中で、公園の前を通った。先月、ほなみの電話を受けた公園だった。ブランコと砂場と糸杉が1本。あのベンチに座っていた自分のことを、千鶴は思い出した。あの時、ゴミ袋に手を伸ばしかけたこと。そこに電話がかかってきたこと。あのまま電話に出なければよかったのか。いや、そういうことではない。ほなみがいなくても、千鶴の状況は同じだった。いや、もっと悪かった。ただ、500万円の保証人にはなっていなかった。

千鶴はその計算を途中でやめた。意味がなかった。起きたことは起きた。

公園のベンチに座った。あの時と同じ、糸杉から一番遠いベンチだった。ホームボトルを取り出した。今日の朝に入れた湯は、もうすっかり冷めていた。それでも飲んだ。胃に何かが入るだけで、少し違った。

空を見上げた。雲が多くて、星はほとんど見えなかった。遠くに飛行機の赤い点滅が見えた。ゆっくり動いて、雲の中に消えた。

千鶴はノートを取り出した。ページを開いて、今の状況を書き出そうとした。財布の残高820円。ホテルの仕事は今後どうなるかわからない。住所はない。500万円の連帯保証人。

書き出しながら、千鶴はペンを止めた。数字を書いても、今夜の意味がなかった。明日の計算をしても、明日にたどり着けるかどうかが今夜は問題だった。820円で冬の夜をどうやってやり過ごすか。それだけが今夜の問いだった。

千鶴はノートを閉じた。風がまた吹いた。木の枝が揺れる音がした。砂場の砂が少し舞い上がって、千鶴のコートの裾にかかった。

公園の向こうに川が見えた。柵で囲われた川で、夜は水が黒く光っていた。欄間の低い橋がかかっていて、橋の上には街灯が等間隔に並んでいた。千鶴はその橋を見ていた。長い時間見ていた。

立ち上がった。スーツケースのハンドルを離した。トートバッグだけを肩にかけた。ボトルを手の中に持ったまま、歩き出した。

橋に向かう道は短かった。30歩ほどで橋の手前に着いた。街灯の光の中に入ると、足元の歩道のタイルが濡れていた。昼間に雨が降っていたのかもしれない。千鶴は気づいていなかった。

橋の欄干に手をかけた。川の水が下を流れていた。夜の水は色がなく、街灯の光だけが細く揺れていた。水音はほとんどしなかった。静かな川だった。

千鶴は欄干を握ったまま川を見ていた。頭の中は不思議なほど静かだった。何かを考えているわけでも、何かを決意しているわけでもなかった。ただ川を見ていた。川がそこにあった。

その時、誰かが千鶴のコートの裾を掴んだ。千鶴は振り返った。

小柄な女が立っていた。20代前半ほどで、ショートコートを着ていた。顔は寒さで赤くなっていて、息が白く出ていた。千鶴の顔を見て、その女は「よかった」と言った。声が震えていた。

千鶴はその女の顔を見た。見覚えがあった。しかし、すぐには名前が出てこなかった。

「長谷川です。ルミ。日勤の清掃スタッフの」

千鶴は思い出した。ホテルの日勤の清掃員だった。22歳か23歳か。いつも黙々と仕事をしていた女の子だった。数ヶ月前、ルミが財布をなくして昼食を買えなかった日があった。千鶴はその時、自分の割引の弁当をルミに渡した。理由は特になかった。渡せる状況だったから渡した。ルミは最初断ったが、千鶴が「いいから」というと受け取って「ありがとうございます」と言った。それだけのことだった。

「何でここに」

「ロビーで見ていました。吉村さんに言われていたこと、全部聞こえていました。警察署に連れて行かれるのも見ていて、外で待っていました」

「待っていた?」

「1時間以上いました。出てきたから後を追ったら、公園に入って、それで……橋の方に歩いていくから、追いかけました」

千鶴はルミの顔を見た。泣いていた。声を殺して泣いていた。コートの袖で目元を抑えながら、それでも千鶴から目を離さなかった。

「大丈夫ですか? 大丈夫じゃないですよね。大丈夫なわけないですよね」

千鶴は何も言えなかった。ルミはポケットに手を入れた。取り出したのは、アルミホイルに包まれた何かだった。千鶴に差し出した。

「これ、さっき買いました。駅前のスーパーで。温かいうちに食べてください」

千鶴はそれを受け取った。アルミホイルの上から、熱が掌に伝わってきた。包みを少し開くと、さつまいもが出てきた。焼き芋だった。甘い匂いがした。

「お金がなくて、もっといいものが買えなくてすみません。でも、温かいから」

千鶴はルミを見た。ルミは千鶴を見ていた。寒さと泣いたことで顔が赤く、鼻の頭が光っていた。

「ありがとう」

声が出たことに、千鶴は少し驚いた。誰かにまともな言葉を言ったのは、これが初めてだった。

ルミは「あの」と言って、また話し始めた。声を整えながら、少し早口で言った。

「私、知っている場所があります。NPOがやっている、女性のための施設です。住むところのない女性を受け入れてくれるところです。ご飯も出ます。無料で。ここから電車で3駅です。今日連絡を入れれば、今夜から入れるかもしれない。私、その施設のことを前に調べたことがあって、番号を持っています」

ルミはポケットからスマートフォンを取り出した。

「一緒に行きますか?」

千鶴は焼き芋を持ったまま、ルミを見た。なぜこの子が自分のためにここまでするのか、千鶴には分からなかった。弁当を一度渡しただけだ。それだけのことで、1時間以上警察署の外で待って、橋まで走ってきた人。善意の理由を、千鶴はうまく理解できないことがあった。長い間、誰かに何かをしてもらった経験があまりにも少なかったから。

「迷惑をかけますよ」

「かけてください。私が行きたいから行くんです。迷惑じゃないです」

千鶴はもう一度、手の中の焼き芋を見た。アルミホイルの端が少し開いていて、焦げた皮が見えていた。湯気は出なくなっていたが、まだ暖かかった。

「わかりました」

ルミはすぐにスマートフォンで電話をかけ始めた。千鶴は橋から離れて、公園の方向に戻った。ベンチの脇に置いてきたスーツケースが、まだそこにあった。ハンドルを握った。

公園の糸杉の下で、千鶴は焼き芋を一口食べた。甘かった。久しぶりに甘いものを食べた気がした。

ルミが電話を終えて戻ってきた。

「今夜、入れます。部屋があるそうです」

千鶴は頷いた。二人で歩いた。ルミは千鶴のスーツケースを引こうとしたが、千鶴は「自分で持ちます」と言った。ルミは「そうですか」と言って、隣を歩いた。駅までの道は十分ほどかかった。二人はほとんど話さなかった。ルミが時々「寒いですね」とか「もう少しです」と言い、千鶴が「ええ」と答えた。それだけだった。

電車に乗った。夜遅い時間で、車内に人は少なかった。3駅で降りた。改札を出て、ルミがスマートフォンの地図を確認しながら歩いた。住宅街の中の細い道を入ったところに、建物があった。外観は普通の民家に近かった。2階建てで、玄関の脇に小さな表札があった。明かりがついていた。

インターホンを押すと、女性の声が出た。ルミが名前を言うと、すぐに扉が開いた。中に入ると、40代ほどの女性が出迎えてくれた。野口さんという名前だと後から教えてもらった。眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「よく来てくださいました」

責めるような言葉も、同情するような過剰な言葉もなかった。ただそれだけ言って、千鶴を中に案内した。

廊下を通って、小さな部屋に通された。4畳ほどの広さで、窓があり、布団が一組置いてあった。壁には何もなかった。清潔な部屋だった。

「今夜はここで休んでください。明日、色々お話を聞かせていただきます。お腹は空いていますか?」

千鶴はルミからもらった焼き芋のことを思った。

「少しいただきました」

「では、温かいお茶だけでも」

野口さんはそう言って廊下に出ていった。ルミが部屋の入り口に立っていた。

「私、ここにまた来てもいいですか?」

「来てください」

ルミは頷いた。それから「よかった」とだけ言って、廊下に引っ込んだ。足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

千鶴は部屋の中に入って、スーツケースを壁際に立てた。コートを脱いで、窓の近くに置かれた折りたたみ椅子に座った。野口さんが戻ってきて、お茶の入ったカップを渡してくれた。白い陶器のカップで、番茶だった。両手で包むと温かかった。

「ゆっくり休んでください」

野口さんは言って、部屋を出た。扉を静かに閉めた。

千鶴は一人になった。カップを両手で持ったまま、窓の外を見た。窓は東向きで、向かいにはアパートが立っていた。深夜で、ほとんどの窓は暗かった。一つだけ、薄明かりのついた窓があった。

千鶴はお茶を飲んだ。温かかった。湯ではなく、番茶の味がした。苦みと甘みが混じったような、落ち着いた味だった。

しばらくして、千鶴はホームボトルを取り出した。中のかつての湯を捨てて、今もらった番茶のティーバッグをもう一度使えないかと思ったが、ティーバッグはすでに野口さんが引き取っていた。代わりに、廊下にある急須からお湯だけをもらって、ボトルに入れた。

翌朝のことを考えた。野口さんが言っていた「色々お話」というのは、今後の生活についての相談だろう。住所のこと、仕事のこと、500万円の保証人になってしまっていること。話さなければならないことは多かった。

千鶴はノートを出した。今夜初めて、数字ではないことを書こうと思った。ページを開いてペンを持った。しかし、何を書けばいいか、やはりわからなかった。言葉が出てこなかった。結局、何も書かなかった。ノートを閉じた。

窓の外の空が、少しずつ白んでいくのを千鶴はそこから眺めた。東の空の縁が藍色から淡い灰色に変わっていった。アパートの屋根の向こうに、光の気配がにじみ始めた。ホームボトルのお湯を一口飲んだ。

昨夜、橋の欄干に手をかけていたことを千鶴は思い出した。川の水が黒く光っていた。頭の中がひどく静かだった。何も考えていなかった。ただ川がそこにあった。コートの裾を掴んだ小さな手のことを思い出した。震えていた。

橋を離れてから、千鶴は一度も泣かなかった。泣く気力があるかどうかも、今はよくわからなかった。ただこのお湯は暖かくて、窓の外は少しずつ明るくなっていた。それだけが今夜確かなことだった。

東の空がさらに白くなった。雲の隙間から、まだ色のない光が広がっていた。夜明けというには早く、朝というには暗い。その境目の時間だった。

千鶴はホームボトルを両手で包んで、窓の外を見続けた。この部屋は4畳しかなく、布団1枚しかなく、何も壁には貼られていなかった。お金はなく、仕事は不安定で、500万円の問題はまだ消えていなかった。家族もなく、帰れる場所もなかった。何一つ解決していなかった。

それでも今夜は、温かい部屋の中にいた。お湯がある。明日、話を聞いてくれる人がいる。

千鶴は目を閉じた。空が白んでいく気配を閉じたままの瞼に感じながら、松崎千鶴はゆっくり息を吐いた。長い息だった。どこかで詰まっていたものが、少しだけほぐれるような息だった。

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