病室はお祝いの雰囲気に包まれていた。姉のまなみが無事に女の子を出産し、私と夫の秀高、そして両親がお見舞いに来ていた。夫は嬉しそうに赤ちゃんをあやし、その光景はまるで理想の家族写真のようだった。
「うちも早く子供欲しいね」
私の夫のその言葉に、病室の空気が一瞬で凍りついた。
「それ、本気で言ってるの?理解できない」
「え、なんでだよ。本気に決まってるだろう。俺たち夫婦なんだから」
私は切りたての短い髪に手を当て、氷のような冷たい目で夫を見つめた。両親は驚いた様子で私を見ている。何も知らなければ、両親の反応が正しいのだろう。でも、私だけは知っている。この男の本音を知っている。
「もう夫婦はやめるので、後でこれを出してくるわね」
私はバッグから緑の離婚届を取り出し、夫に突きつけた。記入済みの離婚届。それにより、全員が混乱した。ただ一人、私だけを除いて。
「どうしたんだよ。離婚届けなんていきなり出してきて、ますます意味が分からないよ」
夫が口を開くが、意味が分からないのは私の方だ。事実と本性を隠し、堂々と子供が欲しいと言ってくる。何を考えているのだろうか。ただ、夫が演技をすることは想定済みだった。これまでもそうやって私たちを騙してきたのだから。
「とみ、俺たちも理解できないぞ。子供はいらないとか離婚だとか。おめでたい席だというのに」
困惑した両親が私の答えを待っていたが、その前に私にも尋ねたいことがあった。
「先に確認しておきたいんだけど、姉さんが出産したのに、颯斗さんはなぜここにいないの?旦那さんなのに来ていないっておかしいわよね。それに颯斗さんの両親も来ていないわ。姉さんが出産したんだから、駆けつけるはずでしょ」
姉の旦那である颯斗さんは大手家電メーカーに務めている。役職にもついているので、忙しい日々を過ごしているのは知っていた。だけど、大きな会社なら家族のイベントごとは優先してもらえるはずなのだ。ただ、私の質問に両親は何も言わず顔を見合わせるだけだった。その理由を知っている姉が口を開いた。
「颯斗は忙しいのよ。新しい工場の立ち上げで海外へ行ったから。1年の約束だったけど、作業が難航しているから帰国するには時間がかかるらしいわ。お父さんとお母さんに秀高さん、それにとみにも事前に伝えていたでしょ」
姉は長くて綺麗な黒髪を触りながら説明した。夫と両親は静かに頷いている。颯斗さんが出産に立ち会えないのは仕事が忙しいからだ。皆の認識はそんなところだ。だったら、彼がここにいなくても不思議ではない。しかし、私は見逃さなかった。姉が一瞬目を泳がせたところを。
「姉さんは嘘をついている。確かに颯斗さんの海外赴任は1年を過ぎたけど、今は帰国しているの。じゃあ、なぜ颯斗さんと颯斗さんの両親がここに来ていないのか?それはすでに姉さんが離婚しているからよ」
直後、病室内が静まり返った。全員が困惑した表情を浮かべていた。
「離婚している?颯斗さんとまなみは順調だったじゃないか。連絡も密に取り合ってるって思ってたけど」
「とみ、お前さっきから何なんだよ。今日はまなみさんを祝いに来たのに。もしかして先に出産されたから嫉妬してるのか?ここに来てからつまんなさそうにしているし。とにかく勝手に離婚なんてダメだ。ほら、離婚届も返すから」
「私が颯斗と離婚しているなんて勝手なこと言わないで。みんなが混乱するでしょ」
当然、簡単には信じられないだろう。それは私も分かっている。だから私は構わず核心に迫った。
「ねえ、秀高。さっきあなたはこう言ったわよね。『うちも早く子供欲しいね』って。次は男の子が欲しいって言いたいの?それならまた姉さんの子宮を使えば?」
再度、病室内がしんと静まり返った。「え?」という声も聞こえてきたが、皆の疑問を代弁するように父が口を開く。
「また姉さんの子宮を使えばって、何を言い出すんだよ」
「お父さんが考えている通りよ。この赤ちゃんは颯斗さんじゃなくて、秀高と姉さんの子供なの。秀高が嬉々としているのは、自分の子供だから。2人は浮気しているの」
私が嫌味たっぷりに言うと、さらに困惑が広がった。こんな話、すぐに信じられるわけがないので、仕方ないだろう。しかし、夫と姉の雰囲気が一気に変わった。『なんでとみが浮気のこと知っている?』そう言いたげな表情だ。でも、2人は簡単に認める気はないらしい。まるで打ち合わせをしてきたかのように、スラスラと冷静に言葉を並べ始めた。
「ちょっと待てよ、とみ。俺がまなみさんと浮気してる?目の前にいる赤ちゃんは俺の子供?そんなバカな話。お前、どうかしてるよ」
「秀高さんの言う通りよ。浮気なんてしてるわけがない。大体、秀高さんは浮気するような人じゃないでしょ。お父さんとお母さんもそう思うよね」
夫はだらしない一面もあるが、学業や仕事の面ではかなりの努力家。そして妻に優しい夫。これが両親が持っている印象だ。でも、その印象自体が間違っている。今日、私は夫が隠している本性を暴くつもりだ。その一手として、私は写真を数枚、姉のベッドに置いた。その1枚1枚を見ながら、両親たちは目を徐々に丸くした。一方で、夫と姉は顔面蒼白で震え出した。私が何もできないと高をくっていたのだろう。
「これを見てもまだ信じられない?何よこれ?どういうことなの?まなみ」
「これは本物か?2人でこんなところに行くなんて、どう見ても普通じゃないぞ」
写真は夫と姉が密会している決定的瞬間を収めたものだ。2人が言い逃れできないように、事前に準備をしておいた。
「颯斗さんの海外赴任が決まったことで、姉さんは自由な時間を手に入れた。それで秀高と浮気を繰り返していたというわけよ」
「お、お前、いつの間にこんなものを?これは何かの間違いだ。きっととみが捏造でもしたんだ」
こんな状況になっても必死で白を切ろうとする夫。姉は私をきっと睨んでいたが、深呼吸をして言葉を続けた。
「この写真は私が秀高を尾行して撮影したものよ。颯斗さんが海外に行ったと同時に、秀高にも急な残業や出張が入るようになった。しまいには1週間続けて家に帰ってこなくなったわ。残業や出張について聞いても、夫は何も教えてくれなかった。それどころか、家事や家計の管理まで丸投げしてくるようになった。私にだって仕事はある。最近も出張に行ってきたし、1人で全てをこなすのは無理だ。だけど夫は威圧的な態度で『家のことは女がするもんだろう』と言い放った。彼は私に愛情も興味もない。だから私が出張に行くと伝えても聞き流すし、髪をばっさり短くしても横目で見るだけで何も言わなかった」
「秀高は私の話を聞いてくれなかった。だから会社に問い合わせてみたの。そしたら『定時で帰った』と答えが返ってきた。その瞬間、私は浮気を疑った。だから秀高を尾行したのよ。その結果がこれか。信じられない。まなみが秀高君と浮気しているなんて」
写真を両手に持ちながら、父は声を震わせている。その隣で母は言葉を失っていた。私がここまで入念に調べていたことに驚きつつも、ようやく両親は私のことを信じてくれたようだ。
「まなみ、なんてことをしたんだ。自分が何をしたか分かってるのか?秀高さんもよ。実の嫁であるとみを裏切って。しかも浮気相手が姉のまなみなんて、ありえないわ。なんでこんなことになったの?今ここで納得できる説明をしてよ」
両親は静かに話しているが、鬼の形相だ。詰め寄られた夫は下唇を噛んでうつむいた。数秒間の沈黙が訪れるが、突然床に手をついて土下座をした。
「とみ、ごめん。最低なことをしてしまったのは分かってる。でも悪気はなかったんだ。その日は大事な取引先と飲み会があって、ベロベロに酔っ払っていたんだ。記憶が吹っ飛ぶくらいに飲まされたし、夜も遅くなってやっと帰れたと思ったら、寝室にまなみさんがいて。酔った勢いで、まさか、ということに」
「秀高君、ありえない」
「違うんです。酔っていた上に、部屋の電気がついていなかったから、僕はとみが待ってくれていると勘違いしたんです。とみとまなみさんは双子じゃないけど、顔がそっくりだ。だから気づけなくて。それでそのまま夜を共にしてしまったんです。翌朝、とみではなくまなみさんだと気づきました。自分はなんてことをしてしまったんだって、後悔しました。だからとみに合わせる顔がなかったんです。まなみさんに妊娠が発覚して、もう後には引けなくなってしまいました」
涙ながらに訴えつつ、夫は床に伏せている。それを見ている両親は複雑そうな表情だった。確かに私と姉は双子のように顔が似ている。幼い頃もよく間違えられた。酔ってる上に暗がりだったとするなら、見分けがつかないかもしれない。両親は考えているのだろう。
「僕だって悩んでいました。だけど颯斗さんは海外にいるから、まなみさんの体が心配だった。こっそり会っていたのは、そういう理由だったんです。でも、こんな大事なこと黙っておくべきじゃなかった。本当に本当に申し訳ございませんでした」
「事情は分かった。だが、秀高君を擁護できない。君は事実を隠した上で、今日ここに来た。最初からとみも俺たちのことも騙すつもりだったんじゃないのか。まなみの体が心配だったと言ったけど、とみの気持ちは考えなかったの?まなみもよ。何ごともなかったかのように嘘をついて、何を考えているの?理由は何であれ、夫と姉のしたことはとんでもない裏切りだ。許すわけにはいかない」
それに対し、夫は土下座したまま答えた。
「騙すつもりはなかったんです。それに僕も分かっています。取り返しのつかないことをしてしまったと。とみには責任を取ります。ですが、これだけは分かってください。悪気があったわけではなかったんです」
両親がため息をつき、言葉を失った。許したわけでも、怒りを収めたわけでもないが、もう怒ってしまったことは取り消せない。これからどうするべきか、それを両親は考えているのだろう。その場に重い沈黙が降りるが、数秒後、みんながぎょっとした顔で一斉に私を見た。私がこらえ切れずに笑い出してしまったからだ。
「何を言ってるの、秀高。まあ、その演技力は褒めてあげるわ。仕事やめて役者にでもなった方が稼げるかもよ」
「なんだよそれ。確かに俺が悪かった。でも全部認めて謝罪しているじゃないか。それなのに笑うなんて」
「全部認めて謝罪?嘘つかないで。あなたは私とお姉さんを見間違えたと言った。でも、そんなはずないのよ。だって私は髪を短く切っていたから。対して姉さんは長くて綺麗な黒髪。そうでしょ」
夫だけでなく両親も呆けた表情を浮かべ、「あ、確かに」と思わずつぶやく。夫が姉と子供を作ってしまった。その衝撃的な事実のせいで、髪の長さを見落としていたようだ。
「一緒にベッドに入るなら、髪の毛の長さが違うってことぐらい分かるわよね。それに、私は出張中だった。出張のことはあなたにも伝えていたでしょう。私が家にいないと知っているあなたが、姉さんと私を見間違えるなんてありえない。まあ、あなたは『家のことは女がするもんだろう』と言って適当に流していたようだけど。もう一度言うが、夫は私に愛情も興味もない。だから私が出張に行くと伝えても聞き流すし、髪をばっさり切っても横目で見るだけで何も言わなかった。今目の前に短い髪の私と長い髪の姉がいても、彼には些細なこと。いや、どうでもいいことで眼中になかったのだろう」
「つまり、秀高さんはまなみだと分かった上で一夜を共にしたってことなのね。秀高さん、どうなの?」
「い、いや、本当に気づかなかったんです。さっきも言ったけど、僕は記憶がなくなるくらい酔っ払っていた。部屋の電気もついていなくて暗かったし」
「はあ。すぐに認めればいいもの。秀高。そんな言い訳しても無駄よ。これを見て、同じことが言えるかしら?」
そう言って私はタブレットを取り出し、皆に見えるように再生した。直後、会話が聞こえてきたことで全員が驚愕した。
「今日は会社の取引先との親睦会で遅くなる。とみは出張で帰らないから、これを使って家で待っててくれ」
「分かったわ。なるべく早く帰ってきてね」
そこには夫が姉に鍵を渡しているシーンが映っていた。間髪入れずに私は別の動画も再生する。
「もう遅いじゃない。待ちくたびれたんだから。朝まで楽しませてあげるね。まなみ、愛してるよ。本当はあんな真面目でつまらない女よりお前と一緒の方がずっと幸せだ。あいつとは別れるから結婚しよう」
「私もあなたを世界一愛してるわ」
実に恥ずかしい声と会話が延々と流れた。両親は気持ち悪そうに体を震わせていた。
「実は出張に出かける直前、念のため監視カメラを設置したの。結果、秀高とお姉さんが浮気しているシーンを記録できたわ。どう見ても、私と姉さんを見間違ったなんて思えないよね。夫が言い訳しなければ、動画を見せる必要はなかったかもしれないけど。私は彼が言い訳すると確信していた。平然と私を裏切り、嘘の謝罪で両親を騙す。それが秀高という男だから」
「ち、違う、違うんです。この動画もとみが捏造したんだ。俺を落とし入れようとしているんだ」
「本当にどこまでも往生際が悪いわね。そんなあなたのために、ちゃんと用意しておいたわよ。ほら、これどうぞ」
そう言って私は探偵の報告書を皆の前に広げた。両親は怒りで顔を真っ赤にさせている。報告書はさすがに偽造はできないと分かっているからだ。
「秀高、あなたが言い訳することは分かっていた。私の集めた証拠だけではね。だから探偵にもお願いしておいたの。別に捏造でも何でも疑えばいいけど、事実は変えられないわ。あなたは私の姉と浮気し、子供を作った。その上で平然と嘘をついた。許されると思わないでね」
次の瞬間、父は姉に平手打ちした。母は赤ちゃんを抱き抱え、鬼の形相だ。
「まなみ、お前も何か言ったらどうだ?颯斗さんがいないのをいいことに好き放題しやがって。生まれた子供に、なんて説明するつもりなんだ。どこまでバカなの?嘘に嘘を重ねて。そんなに自分が可愛いの?自分が良ければ他はどうでもいいの?どうなの?まなみ、答えなさい」
夫と姉は項垂れている。それが正解だ。言い返せるわけがない。誰が見ても悪いのは夫と姉だから。2人ができることは本気の謝罪と責任を取ることだけ。私は絶対に許さないが、それが人として最低限の行動だろう。しかし、この後とんでもないことが起こってしまう。
「何とでも言いなさいよ。だって仕方ないじゃない。颯斗は仕事で連絡1つ寄越さないんだから。だけど秀高さんは私の気持ちを分かってくれるし、楽しい気持ちにさせてくれる。だから秀高さんが欲しくなったのよ。そもそも、とみより私の方が秀高さんにふさわしい。だから奪ってやった」
「はあ?こんな状況で開き直るなんて、さすがに開いた口が塞がらないわ」
私はじっと姉を見据えてから、思い出すように話し始めた。
「姉さんは何も変わってないね。私のものを何から何まで欲しがって。学生時代もそうだったわ。姉さんの片思いしている相手と話しただけで嫉妬された。私に恋愛感情はなかったのに、姉さんは信じてくれなかった。次第に姉さんは私から大切なものを奪うようになったわ」
姉の表情は見る見るうちに怒りに染まっていった。私の話したことが全て本当だという証拠だ。
「周りはとみばっかりいい子だと褒めるし、私の好きな人とも仲いいし、腹が立ったのよ。どう見ても私の方が可愛くて魅力的なのに。どうしてあんたみたいな陰キャに負けないといけないの?」
そう言いながら姉はその場でわあっと泣いてしまった。いい歳した大人。しかも母親になったというのに。結局、姉も夫と同じだと思わざるを得なかった。『私が、私が、私が』常にあるのは自分のことだけだ。
「姉さんが秀高に手を出すだろうなとは思ってた。だから髪を切ったのはあえてのことだったの。ちゃんと秀高が私のことを見ていたら、気づけるはずだったのにね」
「お前、全部計算づくか。俺より稼いでないポンコツのくせに、生意気な真似しやがって」
「稼ぎがあるから何?そんなことで人を貶める権利があるっていうの。でも、私がポンコツなのは秀高の言う通りかもね。あなたのような最低な人間の本性に気づかず結婚してしまった。しかも幸せを感じてしまっていたのだから。私の人生において1番の失敗だったわ」
私が皮肉を込めて言い放つと、夫は顔を真っ赤にした。もう本性も隠す気がないようで、胸の内をぶちまけてきた。
「それは俺のセリフだ。俺はな、元々お前と結婚するつもりなんてなかったんだ。とみみたいにきっちりしたつまらない女より、まなみたいに甘え上手で可愛い人が良かったんだよ。だけどまなみには颯斗さんがいた。だから仕方なく、顔がそっくりなお前と結婚したんだ。お前はまなみの代用品なんだよ。勘違いすんな」
プロポーズしてくれた時は「しっかり者で真面目なところが好きだ」と言ってくれた。それも全部、私を騙して姉の代わりにするための嘘だった。姉の代用品にするために私と結婚したなんて、狂っているとしか言いようがない。両親も同じ気持ちだったようで、大きなため息をついて落胆している。そんな中、父が涙を浮かべながら夫を諭した。
「俺は残念でたまらない。まなみと秀高君が人の道を外れた行動をしてしまったことが。何より、生まれてきたこの子が不憫だ。どうやって責任を取っていくのか、2人でよく考えろ。俺も母さんも、お前たちの顔はもう見たくない」
「私もよ。まなみのことも秀高さんのことも、家族だと思えない。それだけのことを2人はしてしまったわ」
これはただ憎くて怒っているのではない。夫と姉に本当の意味での謝罪をしてほしい。赤ちゃんと私の気持ちを酌んでの言葉だ。胸が熱くなる。こっちまで涙が出そうになったその時、夫は最低最悪の言葉を言い放った。
「ああ、うるせえな。お前らが何と言おうと、俺はまなみと子供と幸せに暮らすから。俺の新しい嫁を批判する奴はみんな敵だ。颯斗さんみたいな片働きの仕事人間なんかより、俺の方がまなみにはふさわしいんだよ」
「もういいわ。ちなみに、あなたたちが浮気したことは颯斗さんも知っているからね。姉さんもそれが原因で離婚されたんだし。あと、最後にこれだけは言わせて。絶対に後悔しないでね」
「はっ、後悔なんてしねえよ。それにまなみが離婚済みならナイスタイミングじゃないか。お前みたいに真面目だけが取り柄の地味女は、平凡な人生を歩むんだな。それに引き換え俺は、可愛い嫁に娘。誰もが羨む最高の人生を送るんだぜ。お前こそ後で泣きついてくるなよな」
すっかり自分に酔いしれる夫に、私はもう何も言わなかった。いや、正確には何も言う必要がなくなった。私は全て知っている。2人が勝手に地獄に落ちることを。激しい怒りと一緒に、私は心の中で笑う。そして静かに病室を後にするのだった。
それからしばらく経ち、その時は案外早くやってきた。元夫の秀高と正式に離婚して数ヶ月後、仕事から帰ってスマホを見ると、山のような着信が入っていた。履歴を見ると、全て秀高の名前だ。『やれやれ、始まったか』と思ったその時、ちょうど着信音が鳴った。
「もしもし。どうしたの?何か用?愛する姉さんとバラ色の結婚生活を送っているんじゃないの?」
私が出ると、秀高は電話の向こうで情けないほどに泣いていた。
「あっ、とみ、やっと出てくれたか。いつまで待たせるんだよ。頼みがあるんだ。金を貸してくれないか?このままだと俺、生きていけないんだ」
最後の言葉は耳が痛くなるぐらい大きな声だったが、私はそれを鼻で笑う。この瞬間を待っていたのだ。
「お金がないって?働いていて貯金もあるはずなのに、おかしいわね」
「それも全部なくなったんだ。この数ヶ月で、まなみに全部使い込まれた。俺に内緒で使うなんてありえない」
「今頃気づいたの?まあ、それも予想の範囲内だけどね。しかし秀高も相変わらずね。私にしていたように、家事や家計のことを姉さんに全部任せていたのよね。もしかして、通帳だけじゃなくてカードも渡していたんじゃない?まなみは専業主婦だから、そういうの得意かなと思ったら、全然だった。家賃も光熱費も滞納してて、それ以外にも多額の借金までしているんだ」
私は大きなため息をついた。秀高は細かいことが苦手な性格だ。でも、ここまで来たら才能だと思う。そんなんだから、姉が勝手にお金を使ったことにも気づけなかったのだ。
「それだけじゃないんだ。あいつ、バックれた。子供と一緒に消えてしまって、あいつの借金だけが手元に残っているんだ」
「やっぱりそうだったのね。姉さんの浪費癖は全然変わっていない。私から大切なものを奪うようになってからね。姉さんは自分を慰めるために、高級ブランド品を買い漁ったり、エステにも通っているわ。だから借金するなんて当たり前なのよ。ちなみに返済は全部他の男にやらせていた。つまり、秀高も姉のATMに過ぎなかった。あなたも誰かの代用品だったってわけね。『あなたを世界一愛している』っていうのも、姉のついた大嘘よ」
「そんなまな…俺を騙したのか。あいつ、絶対許せねえ」
「秀高だって私を騙していたじゃない。自業自得よ。全部あなたが蒔いた種。人を騙すなら、騙される覚悟もしておくことね。秀高は姉をどうこう言える立場ではない。私や両親を騙した挙句、謝罪もせずに開き直った。そんな彼に、どうして姉が責められるだろうか。1つだけ納得できるものがあるとすれば、『まなみは自分にふさわしい』という秀高の言葉だ。自分のことだけを考えて生きている2人は、お似合いのカップルだと言えるかもしれない」
そんなことを考えている間、電話の向こうは静寂だった。そして数分後、秀高が思い出したように口を開いた。
「とみ、ごめん。今までのことは全部謝る。まなみがあんなやつだって知ってたら、俺、お前と離婚しなかった。1度は夫婦だったんだし、助けてくれるだろう。いや、そうじゃないと困るんだ。両親だけでなく親族にも見放されて、頼るところがないんだ。今まで以上に仕事も頑張る。お前のことを大切にするから、もう1回やり直してくれ」
「秀高。今更そんなことを言っても響かない。結局は全部自分を守るためでしょ。お金がないから私と復縁したいんでしょ。どこまで行っても自分。もうやり直すなんて不可能よ。それに私は言ったはずだから。『絶対に後悔しないでね』って。それを無視して勝手に暴走した。その時点で、あなたの地獄行きは確定したの」
「違うんだ。俺は本気で反省してやり直したいんだ。なあ、とみ、マジで考え直してくれよ。もう俺にはお前しかいないんだって。お前に見放されたら終わりだ」
「世の中には取り返しのつかないことがあるわ。私は秀高を絶対に許さない。あなたのように人を騙しても平然としている最低男は、ボロボロの人生を歩むことね」
そう言ってさっと電話を切り、着信拒否をした。「お前に見放されたら終わりだ」と秀高は言ったが、それは違う。自分自身と向き合わない限り、今の状況を乗り切ったとしても、彼の人生は終わりだ。秀高と姉は取り返しのつかないことをしたが、今考えなければいけないのは、生まれてきた子供のことだ。大人の勝手な都合で子供を傷つけてはいけない。そう私は思うのだった。
秀高は、それから借金まみれになってしまった。姉が秀高を保証人にしていたから、会社にもバレて首に。姉に関しては、秀高でも颯斗でもない別の男のところに行ったが、その男にもすぐに捨てられてしまった。秀高と姉を調査する過程で、姉に他にも男がいることは知っていたが、その男も姉を騙しているということも知っていた。だけど、出産祝いの日、あえて私は何も言わなかった。自分のことだけを考えて人を騙す。それがどんな結果を生むのか。秀高だけでなく、姉に分からせる必要があったからだ。働こうともせず、男に養わせていた姉は、きっと今頃後悔しているだろう。そんな姉は、子供と2人だけでは生きていけないので、秀高のところに帰ったが拒否されてしまう。しかし、姉は諦めきれず、秀高をつけ回しているそうだ。私が言った通り、夫と姉は2人で地獄に落ちていった。
一方、私と両親はと言うと、子育てに奮闘中。結局、子供は両親が預かることになったからだ。そっと手を差し伸べると、小さな手が私の指を握った。こんなに小さいのに、それはとても力強かった。今まで大変なことはたくさんあったし、これからも様々な問題が待ち受けているだろう。でも、今はこの子が無事に成長することを願い、そっと微笑みかけるのだった。



