6月の朝、私は年金の通知書を前に、自分の目を疑った。家族加給年金の欄が、今年から完全に消えていたのだ。夫と二人で年金事務所に駆け込み、理由を尋ねると、担当者はこう言った。「ご長男の方が、1月に扶養関係の変更手続きをされています」。私は委任状を出した覚えも、頼んだ覚えもない。息子は、私の名前を使って手続きをしていた。そして数ヶ月後、彼が私に差し出した書類には、連帯保証人の欄があった。「父さんの…

6月の朝、私は年金の通知書を前に、自分の目を疑った。家族加給年金の欄が、今年から完全に消えていたのだ。夫と二人で年金事務所に駆け込み、理由を尋ねると、担当者はこう言った。「ご長男の方が、1月に扶養関係の変更手続きをされています」。私は委任状を出した覚えも、頼んだ覚えもない。息子は、私の名前を使って手続きをしていた。そして数ヶ月後、彼が私に差し出した書類には、連帯保証人の欄があった。「父さんの...

6月の朝、黒川惣一の左手が震えていた。左手だけが、そういう時に震えるのだ。激しい感情にぶつかった時、体が疲れ果てた時、あるいは何か重大なことが迫っている気配を感じた時、意思とは関係なく指先から手のひらにかけて細かく振動し始める。医者には「神経の問題だ。治療法はない。ストレスを避けなさい」と言われたきり、それ以来病院には行っていない。

その朝、惣一は夜勤明けで帰宅したばかりだった。物流倉庫の警備員として夜の10時から朝の6時まで働き、家までの電車では釣り革に捕まったまま半分眠っていた。玄関のドアを開けると、台所から妻の気配はした。しかし何かがおかしかった。いつもなら妻の美和子は、夫が帰ってきた音を聞けばすぐに「お帰り」とか「ご飯は?」と声をかけるのに、今朝はそれがなかった。

そうは靴を脱ぎながら廊下の先を見た。台所の引き戸が少し開いていて、中の光が細く漏れていた。台所に向かうと、美和子は椅子に座っていた。テーブルの上に2枚の紙が広げられていて、彼女はその一点を見つめたまま動かなかった。怒りでも悲しみでもなく、何か別のもの。言葉が全部抜け落ちてしまったような、ただそこに座っているだけの顔だった。

惣一は妻の横に立ってその紙を見た。1枚は年金額改定通知書、もう1枚は年金振り込み通知書だった。年に一度、6月に届く書類だ。惣一は椅子を引いて座り、髪を手に取った。数字を追うのに少し時間がかかった。老眼が進んでいて小さい文字が滲む。それでもなんとか読んでいくと、「今回の振り込み額」と書かれた数字が前回より明らかに少なかった。いや、少ないという表現が正確かどうか。激減していた。

所得税の欄、住民税の欄、介護保険料の欄。差し引かれる項目が並んでいる。その中の所得税と住民税の金額が、去年の通知書に記憶していたものとかなり違う。今年の春、政府が所得税の減税措置を発表した時、美和子は「これで少し楽になるかも」と喜んでいた。年金も今年は1.9%引き上げられると報じられていた。しかし今目の前にある数字は、そういう方向を向いていなかった。

「これ、去年よりも少ないよな」
惣一の声は、自分でも思っていたより低かった。美和子は少し間を置いて答えた。
「うん。所得税が去年の倍近くになってる」
「なんでだ?」
「それをさっきからずっと考えてた」

2人はしばらく黙って髪を見た。美和子がスマートフォンを手に取り、残高を確認した。
「振り込まれてるのは、これだけ」
画面を胸位置に向けた。惣一は数字を見て、何かが頭の中で止まるような感覚があった。この金額では、2人分の国民健康保険料と家賃を払えば食費がほとんど残らない。惣一の夜勤の給与を足しても、今月はかつかつになる。

惣一は通知書をもう一度、より細かく見た。一番下の方に小さな文字で「控除と加算の内訳」という欄があった。その中に、去年の通知書にはなかった項目があった。「家族加給金」という欄が、今年の通知書から完全に消えていた。去年までその欄に毎年40数万円という金額が記載されていた。配偶者や扶養家族がいる場合に加算される手当てだ。それが今年、消えていた。

惣一は自分の左手が振動し始めるのを感じた。テーブルの上に置いた左手が細かく震え始めていた。止めようとすると余計に意識してしまうから、惣一はいつも見ないふりをする。

「加給年金がない」
惣一が声を出すと、美和子がメガネを手に取って通知書を取り上げた。
「本当だ。去年は確かにあった。削られたの? なんで急に」
「分からない。自然に消えることはないだろう」
惣一はため息をつく代わりに、通知書を丁寧に4つに折ってテーブルの上に置いた。
「年金事務所に行こう」

その日の午後、2人は最寄りの年金事務所へ向かった。梅雨の晴れ間で空は青かった。しかしそういう日に限って、空の青さが少しも慰めにならないことがある。待合室は平日の昼間というのに混んでいた。プラスチックの椅子が並び、番号を引いて待つ形式だった。惣一は74番の札を受け取った。今呼ばれているのは52番。2人は並んで座って待った。周りには似たような年齢の人間が多く、誰も楽しそうにしていなかった。

40分ほど待って74番が呼ばれた。窓口の担当は40代くらいの男性だった。惣一は通知書2枚を窓口に並べた。
「家族加給年金が、今年から亡くなっています。理由を教えてください」
職員は通知書を手に取り、キーボードを叩いてパソコンの画面を見た。数秒後、また画面を見た。
「確認いたします」
職員は席を外して奥の部屋に消えた。3分ほどして戻ってきた。
「黒川様のほうで、ご長男の大木さんとおっしゃる方が今年の1月に届け出を行われまして、扶養関係の変更手続きをされています」
惣一は一瞬、意味が取れなかった。
「扶養者の変更届けが提出されまして、黒川惣一様の被扶養者リストから、奥様のお名前が削除されています」
美和子が惣一の隣で少し身体を固くした。

「それは誰が手続きをできるんですか」
「こちらの手続きは、被保険者本人、あるいは委任状をお持ちの代理人の方が行えます」
「私は頼んでいない」
「どうおっしゃいましても、手続きはされていますので。何かご不明な点があれば、ということになります」

惣一は窓口の台に両手を置いた。左手の震えが職員に見えているかもしれないと思った。
「もう1つ聞く。うちの所得税がなぜ上がっているのか」
職員は再びキーボードを叩いた。
「税務署からの通知に基づいて天引きをしておりますので、詳しくは税務署の方にお問い合わせいただく必要がありますが…」
彼は少し声を落とした。
「記録を見る限り、前年の課税所得が前々年と比べてかなり増えております」
「増えるはずがない。私の収入は変わっていない」
「お名前でご申告されている所得が増えている、という記録です」

惣一は黙った。税務署での話と年金事務所での話が、頭の中でゆっくりと繋がり始めた。大木が1月に手続きをした。扶養から外した。同時に課税所得が増えている。惣一は窓口の台から手を離し、通知書を丁寧に2つに折った。「ありがとうございました」と言って席を立った。

外に出ると、梅雨の晴れ間の空はまだ青かった。バス停まで歩く間、美和子はずっと吸入機を握っていた。バス停のベンチに2人で腰かけると、美和子が言った。
「大木に聞かなきゃいけない」
惣一は上着のポケットから携帯電話を取り出し、番号を探して発信した。呼び出し音がなった。1回、2回、3回。誰も出なかった。4回目がなり始めた辺りで惣一は電話を切った。

帰宅して、惣一は台所の椅子に座った。水をいっぱい飲んでシンクの前に立ったまま、少しの間動かなかった。今朝の通知書をテーブルの上に置き、その横に去年の通知書を引き出しから出して並べた。数字の差が並べてみるとより明確になった。家族加給年金の欄が今年の通知書には完全にない。課税所得の欄から逆算すると、誰かが惣一の名義で何らかの所得申告をしている。そういうことになる。

大息子の名前が頭の中に浮かんだ。大木は40歳になる。数年前から事業を始めたと言っていた。最初は飲食関係で、次に何か別のことをやると言った。詳しくは話さなかった。景気はどうかと聞くと「まあまあだ」と言った。金を求めてきたのは1年半前だった。会社の運転資金が一時的に不足しているから、1ヶ月だけ貸して欲しいと。惣一は断った。年金と警備員の給与で2人分の生活をやりくりしている状態で、まとまった額を出す余裕はなかった。それを告げると、大木は「分かった」と言って電話を切った。それ以来、連絡はほとんどなかった。年賀状も来なかった。そして今年の1月、大木は惣一の知らないところで手続きをした。

そうは左手が急に強く震え出したのを感じた。止めようとしても止まらない。惣一はテーブルに左手をついて、息を一度ゆっくり吐いた。美和子がそれを見ていた。彼女は何も言わなかった。ただ惣一の左手を見て、それから視線をそらした。
「もう一度かけてみる」
惣一が言うと、美和子は頷いた。今度も電話は繋がらなかった。発信音が7回なって留守番電話に切り替わった。大木の声で「ただいま席を外しております」というメッセージが流れた。惣一はメッセージを残さなかった。

7月に入ると、惣一の夜勤のシフトが増えた。倉庫の同僚の1人が腰を痛めて休業に入り、署長から「週に4回だったシフトを、5回にできないか」と言われ、その場で頷いた。断る理由を見つけられなかった。帰宅した夜に美和子に告げると、彼女は夕食の片付けをしながら少し間を置いて「そう」と言った。それだけだった。2人とも、今月の数字が頭に入っていた。

美和子の方は、7月から作業場所が変わっていた。区の行政センターに隣接した地下の文書保管庫だった。新しい人員が入ってくるまでの間だけ頼まれたと彼女は言った。しかし惣一には、妻が自分から頼んだのだという気がした。地下の保管庫は湿気が多く、古い紙の誇りが常に漂っている場所だ。通常の清掃よりも体への負担が大きい。美和子はそれを知りながら引き受けた。
「地下はきつくないか」
惣一が一度だけ聞くと、美和子は「慣れれば平気」と答えた。それ以上は聞かなかった。

7月の後半になると、美和子の咳が変わり始めた。夜中に咳で目が覚めることが増えた。惣一は夜勤に出る前の時間帯に仮眠を取っていたが、隣の部屋から妻の咳が聞こえてくると目が覚めてしまう。美和子は惣一が目を覚ましたと知ると、咳を抑えようとした。布団の中に顔を埋めて音を出さないようにする。それが逆に辛そうに見えた。
「薬を変えた方がいいんじゃないか」
「今の薬で足りてる」
「病院に行けば、もう少し強いのを出してくれるかもしれない」
「今度行く」

「今度」という言葉がそのままになっていくことを、惣一は知っていた。薬局の棚に並んでいる市販の吸入薬は処方薬よりも弱い。それを美和子は使っていた。処方薬をもらうには診察が必要で、診察代と薬代がかかる。それを美和子は計算していた。

8月の初め、玄関のチャイムが鳴った。夕方の5時頃だった。惣一はその日夜勤に備えて部屋で横になっていた。美和子が玄関に出る音がして、しばらく沈黙があった。それから男のくぐもった声が聞こえてきた。惣一は廊下に出た。玄関の引き戸が半分開いていて、外に男が立っていた。大木だった。40歳の息子。最後に顔を見たのは確か1年半前の秋だった。その頃より痩せていた。頬がこけていて、目の周りに影がある。来ているシャツは白かったが、洗いすぎて少し黄ばんでいた。大木は惣一を見ると、少し身体を縮こまらせた。
「親父」
惣一は何も言わなかった。
「急に来てごめん。電話に出られなくて。7月も鳴らした」
「分かってる。出られなかった。事情があって」
惣一が引き戸を広く開けると、美和子が廊下の奥から「上がりなさい」と言ったので、大木は靴を脱いだ。

台所のテーブルを挟んで3人が座った。美和子が麦茶を出した。大木はそれを両手で受け取り、一口飲んでからテーブルの上に視線を落とした。
「6月の年金の件から、電話があったの」
「分かってた。それで出なかったのか?」
「違う。そうじゃなくて。その頃は本当にバタバタしてて。1月に俺の扶養の変更手続きをしたんだ」
大木はテーブルを見たまま少しの間黙った。
「それは会計士のミスなんだ。本当に申し訳ない。こっちも知らなかった。会社の決算処理を頼んだ会計士が、手続きをいくつかまとめてやる中で、間違って父さんの名前を使ってしまったみたいで」
「名前を使った?」
「父さんの委任状に、前に一度もらったやつ。そのコピーが残ってて」

惣一は思い出した。3年前、大木が会社を立ち上げる際に、銀行口座の連帯保証人になるための書類に署名したことがあった。あの時以来、何か書類を頼んだことはなかった。
「あの委任状は期限が切れている」
「そうなんだけど。会計士がそれを確認せずに使ってしまって。本当に父さんや母さんには迷惑をかけた。今年末には税務申告の修正をして、過剰に惹かれた税金を返してもらえるようにする。絶対にそうする」

大木の声は低く落ち着いていた。惣一にはそれが不自然に感じられた。罪にしても、どこかうまく整いすぎていた。言葉の端々に、何かを先回りして抑えたような形があった。
「今、会社はどうなの?」
美和子が聞いた。大木は少し間を置いた。
「正直に言うと、厳しい状態が続いてる。でもちょうど今、新しい事業の話があって。それがうまくいけば立て直せる」
「どんな事業?」
「法人向けの清掃サービス。会社を立ち上げようと思ってる。小規模から始めて、受注を増やしていく形で」
美和子はコップを置いた。
「清掃…事務所清掃とか、小さいビルのメンテナンスとか。ちゃんと需要はある。俺も色々調べた。ただ問題は物件なんだよな。事務所の場所を1箇所確保しないと法人登記ができなくて、仕事の受注もできない」
大木はそこで少し前傾姿勢になった。
「それでお願いがある」
惣一は大木を見た。
「事務所を借りるのに連帯保証人が必要で。父さんの年金振り込み通知書を証明として使わせて欲しい。それで保証人になってもらえれば、物件を借りられる」

惣一は何も言わなかった。
「母さんにも、もしよかったら事務所の管理をお願いしたいと思ってる。受付とか書類整理とか、体に負担のかからない仕事。清掃の現場には出なくていい。今みたいに誇りのある場所で働かなくて良くなる」
その言葉が出た瞬間、惣一は大木を見る目を変えた。息子は美和子の体のことを知っていた。知っていて、それを言葉に使った。そういう計算が見えた。
「帰れ」
惣一は短く言った。大木が顔をあげた。
「親父、話を聞いてくれ」
「話は聞いた。帰れ」
「俺は本当に立て直したいと思ってる。母さんのことも」
「立て直したいなら、自分の力でやれ。6月の損害をどうするかも決まっていないのに、今度は何をしに来た。出ていけ」
声はあげなかった。ただ言葉を切り詰めた。大木は美和子を見た。美和子は視線を外した。大木は静かに立ち上がり、玄関で靴を履いた。ドアを開ける前に一度振り返って「ごめん」と言ったが、誰に向けて言ったのかは分からなかった。ドアが閉まった。

台所に沈黙が戻った。美和子はコップに残った麦茶をゆっくり飲んだ。惣一は椅子の背にもたれて天井を少し見た。
「言いすぎたか」
「いいえ」
美和子はすぐに答えた。
「正しかった」
しかし彼女の声には、何かが混じっていた。

その夜、惣一が夜勤に出た後、美和子は一人になった。台所の椅子に座ったまま、大木の顔を頭の中で反芻した。痩せていた。目の下に影があった。シャツが黄ばんでいた。息子がうまくいっていないことは分かっていた。それは前から分かっていた。しかし今日直接顔を見て、その痩せた顔を見て、胸の中に母親としての何かが揺れた。それを惣一に言うつもりはなかった。言っても仕方がないことだとは思っていた。

美和子は薬局で買ってきた吸入薬を手に取った。使用回数の目安を超えていたが、もう少し使えると思っていた。1回だけ吸い込んで、少し待った。咳は収まった。寝る前に、彼女は一度だけ大木の携帯番号に電話をかけた。繋がった。2回目のコールで出た。
「お母さん? 体は大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
しばらく沈黙があった。
「父さんにまた連絡してみなさい。誠実に話せば聞く人だから」
大木は返事をするまでに少し時間がかかった。
「わかった」
美和子は電話を切った。それから、自分が何のために電話をかけたのか少し考えた。よくわからなかった。ただかけたかったからかけた。そういうことだった。

その後、10日ほど何も起きなかった。惣一は夜勤を続けた。美和子は地下の文書保管庫の清掃を続けた。2人の会話は必要最低限のことに絞られていた。お金の話、食事の話。ある日、惣一が夜勤から帰ってきた時、美和子がキッチンのシンクに両手をついていた。背中が小さく何度も上下していた。
「大丈夫か?」
少し待って、美和子が顔を洗ってタオルで拭いた。それから振り返って惣一を見た。
「地下は暑くて。今日はひどかっただけ」
「やめろ」
惣一は言った。
「何よ?」
「地下の清掃、別の人に変わってもらえ」
「変わるって人、いないから私が」
「なんでお前が。気管支をやられながら続けないといけない」
「やめたら収入が減る。それ以上やったらもっと悪くなる」
美和子はタオルを畳みながら少し考えるような顔をした。
「来週、署長に話してみる」
「来週じゃなくて、明日にしろ」
「明日は署長が休みで」
「じゃあ明後日」
美和子は頷いた。

その夜遅く、惣一はなかなか眠れなかった。夜勤明けで身体は疲れているのに、頭が止まらない。今月の収支が頭の中をぐるぐる回る。美和子の咳の音が耳の中に残っている。大木の顔が浮かんだ。あいつは本当に会計士のミスだと思っているのか。それとも知っていてそう言ったのか。惣一には確かめる方法がなかった。年金事務所の職員は「正規の委任状が出ている」と言った。3年前の古い委任状が使えるはずはない。それなのに手続きが通ったということは、委任状が本物に見える形で出されたということだ。大木がそれを知らないはずがないと惣一は思った。しかし確証はなかった。確証がないまま息子を責めることを、惣一はできなかった。

次の日の夕方、大木がまた来た。今度はチャイムを押さずにドアをノックした。惣一が出ると、大木は1枚の書類を持っていた。
「昨日のことを、もう少し説明させて欲しい。書類も持ってきた」
「昨日のことは終わった」
「分かってる。でも、少しだけ話を聞いて欲しい。追い返すなら、聞いてからでも遅くないと思うから」
惣一は大木の顔を見た。昨日よりも疲れた顔だった。睡眠が足りていない顔だった。しばらく間があって、惣一はドアを開けた。

台所で大木は書類を広げた。物件の賃貸借契約書の草案だった。連帯保証人の欄に名前を書く形式になっていた。
「この物件を借りれば、清掃会社を立ち上げられる。最初の受注先はもう確保してある。3ヶ月以内に最初の売上が立つ。その後は、毎月の売上から保証人に負担をかけることは絶対にない」
「『絶対』という言葉を使うな」
惣一は言った。
「親父、事業に絶対はない。それくらい分かるだろう」
「もちろん分かってる。でも今回は本当に見通しがある状態で動こうとしてる。今までと違う」
惣一は書類を見た。物件の賃料と保証金の金額が書かれていた。連帯保証人として署名した場合、もし大木が支払えなくなれば、その額が惣一に請求されることになる。
「年金振り込み通知書が必要だと言ったな」
「それを収入証明として提出すれば、審査が通りやすくなる」
「私の年金が担保になる」
「形式的なものだから。父さんが実際に払うことになるような状況は想定していない」

惣一は大木を見た。大木は惣一の目を見て視線を外さなかった。その時、台所の奥から咳が聞こえてきた。長い咳だった。美和子の咳だ。惣一は書類に視線を戻した。
「今日は帰れ。置いて行くな。持って帰れ」
大木は書類を静かに畳んで鞄にしまった。
「考えてくれるか?」
「帰れ」
大木は立ち上がった。廊下に出て靴を履いた。ドアを開ける前に振り返り、今度は惣一の目を見た。
「母さんの体のこと、ずっと気になってた」
惣一は何も言わなかった。ドアが閉まった。

その夜遅く、惣一は眠れなかった。台所に来て椅子に座った。棚の上の鉄の小箱が目に入った。家の収支を頭の中で確認した。夜勤を5回に増やしても、家族加給年金が消えた分と税金の増額分は埋まらない。美和子が地下の清掃をやめれば、さらに収入が減る。美和子の吸入薬は市販のものだった。処方薬をもらえれば症状は改善するかもしれないが、そのためには病院に行く必要がある。お金がなければ薬が買えない。薬がなければ体が悪くなる。体が悪くなれば働けなくなる。働けなくなればお金がなくなる。全部が繋がっていた。

惣一は棚の小箱を取り出した。蓋を開けると、6月の年金振り込み通知書が一番上にあった。大木が昨日置いて行きそうになった書類。連帯保証人の欄。この通知書を収入証明として使えば、審査が通ると言っていた。惣一は通知書を畳んで元に戻した。小箱の蓋を閉めた。そのまま動かなかった。15分ほど経って、また小箱を開けた。通知書を取り出し、もう一度数字を見た。寝室からくぐもった咳が聞こえてきた。一度、また一度。それからゆっくりと収まった。

惣一は立ち上がって、携帯電話を手に取った。大木に電話をかけた。深夜だったが、大木はすぐに出た。
「書類、明日持ってこい。それだけだ」
電話を切った。惣一は台所の椅子に座ったまま、しばらくそこにいた。自分がいつ決めたのか分からなかった。眠れない夜の中で、何かがゆっくりと傾いていただけだった。

翌日の夕方、大木は書類を持ってきた。惣一は6月の年金振り込み通知書と書類を並べてテーブルの上に置いた。美和子は台所にいたが出てこなかった。惣一はペンを持った。左手が震えていた。右手でそれを抑えながら、連帯保証人の欄に名前を書いた。捺印を押した。通知書のコピーを取るというので、惣一は原本を渡した。全部で十分もかからなかった。大木は書類を受け取りながら「ありがとう」と言った。感謝の言葉は短かった。惣一は頷かなかった。

大木が帰った後、惣一は台所に戻った。美和子が振り向いた。
「書類を書いた」
惣一が言うと、美和子は惣一の顔を見た。
「そう」
それだけだった。美和子はガスコンロの方を向いた。鍋の中のものをかき混ぜながら、何も言わなかった。惣一は椅子に座った。左手を右の手のひらで包んだ。震えはすでに収まっていた。それが正しかったのかどうか、惣一はまだ分からなかった。分かろうとしなかった。今夜は夜勤があった。夜の10時には家を出ないといけない。それだけが確かなことだった。

10月の声を聞くと、空気が変わる。惣一は薄い作業着の下に長袖を1枚足したが、それでも夜明け前の4時頃は肩に寒さが染みてきた。10月は特別な月だった。年金の本徴収が始まる月だ。日本の年金制度では、1年分の所得税や住民税を後から精算する仕組みになっている。前年の確定所得を基に算出した税額が、10月の年金から本格的に差し引かれ始める。大木が惣一の名義に付け替えた顧問業収入という名目の所得がどれだけ計上されているか。惣一には確かめる術がなかった。

10月に入って5日目、郵便受けから封筒を取り出したのは美和子だった。惣一は前日の夜勤明けでまだ眠っていた。美和子は封筒を持ったまましばらく台所のテーブルの前に立っていて、惣一が目を覚ました気配がすると静かに声をかけた。
「起きてる?」
「ああ」
「年金の通知。来てる」
惣一は起き上がった。台所に行くと、美和子は封を開けずにテーブルの上に置いていた。惣一は封筒を手に取り、封を切った。通知書を広げた。数字を目で追いながら、何も言わなかった。所得税の欄、住民税の欄、介護保険料の欄。6月の通知書より、さらに大きな数字が並んでいた。本徴収が始まったことで、大木が付け替えた所得分が完全に反映された。差し引後の実際の振り込み額は、6月よりもさらに少なかった。家賃を払えば食費がほぼ残らない金額だった。

美和子は惣一の顔を見ていた。惣一は通知書を一度置いて、また拾った。同じ数字を2度確認した。2度見ても変わらなかった。
「いくら?」
美和子が聞いた。惣一は金額を口に出した。美和子は手元の老眼鏡を取り上げたが、かけることはなかった。
「米と醤油だけ」
と彼女は小さく言った。冗談ではなかった。悲壮でもなかった。ほぼそういう計算になるという意味だった。惣一は通知書を4つ折りにして鉄の小箱に入れた。2人の間に言葉はなかった。

10月の第2週に入った頃、美和子の職場で事故が起きた。地下の文書保管庫での清掃作業中だった。狭い通路で書庫と書庫の間をモップがけしていた時、発作が来た。後から本人が言うには、前兆は少しあったが今日は大丈夫だと思って続けていたという。発作が出た瞬間、美和子は息ができなくなって壁を掻こうとした。持っていたモップのバケツを蹴ってしまった。バケツが横に倒れ、水が廊下に広がった。その水が廊下を伝って隣の書庫の底部に流れ込み、下段に置かれていた保管書類の束が水を吸った。区の保管文書の一部が濡れて損傷した。

その日の午後、美和子は事務所に呼ばれた。施設管理の担当者が「安全衛生管理上の問題があった。持病を抱えた状態での作業は、本人にとっても職場にとってもリスクになる」と説明した。美和子は黙って聞いていた。
「今月一杯で雇用を終了させていただくことになります」
美和子はすぐに「分かりました」と答えた。抵抗しなかった。言い訳もしなかった。帰宅したのは夕方の4時頃だった。惣一はその日、珍しく昼間から起きていた。美和子が帰ってきた時、惣一は台所で茶を飲んでいた。帰る時間が早いことに気づいて顔を上げた。美和子は靴を脱ぎながら言った。
「仕事、終わりになった」
「どういうことだ?」
「今月末まで」
美和子は廊下に立ったまま、今日の経緯を話した。発作のこと、バケツが倒れたこと、書類が濡れたこと。感情を込めずに順番に話した。惣一は途中から口を挟まなかった。話を終えると、美和子は台所に来て椅子に座った。
「署長に言えばよかったな。地下はやめるって」
「言ってたら、もっと早く終わっていただけ」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
美和子は言った。
「でも結果は同じだった」

それから数日後の夕方、惣一の携帯電話に知らない番号から着信があった。出ると男の声が聞こえてきた。
「こちら株式会社ファーストクレジットサービスと申しますが、黒川惣一様でいらっしゃいますか?」
惣一はそうだと答えた。
「黒川大木様に関連した保証契約について、ご確認させていただきたく」
「保証契約?」
「8月にご署名いただきました、物件賃貸借に付随する保証契約です。ご記憶はございますでしょうか?」
「ある」
「大木様とのご連絡が取れない状況が続いておりまして、契約の履行について確認が必要になっております」

惣一は立ったまま、左手が揺れ始めるのを感じた。
「連絡が取れないというのは、どういうことか」
「物件の賃料が2ヶ月分滞納の状態です。加えて、契約締結時に購入された機材のリース費用についても、業務機材のリース契約が同時に組まれておりまして、そちらも滞納状態となっております。保証人様にはまず状況をお伝えしようと思いまして」
「大木はどこにいる?」
「現在、連絡が取れない状態で。ご自宅も退去されている様子でして」

電話を切った後、惣一はすぐに大木に電話をかけた。繋がらなかった。コール音もならずに、「現在使われていない番号です」という機械音声が流れた。惣一はその音声を最後まで聞いた。それからまた同じ番号にかけた。同じ音声が流れた。美和子を呼ぼうかと思った。やめた。まだ確認できていないことがあると自分に言い聞かせた。

翌朝、夜勤明けで帰宅した後、惣一は2時間だけ仮眠を取った。それから着替えて、大木が暮らしていたマンションに向かった。電車を乗り継いで40分ほどかかる場所だった。エントランスのインターフォンを押し、大木の部屋番号を入力した。しばらく待った。出てきたのは女の声だった。
「はい」
「黒川大木の父です。大木に用がある」
少し間があって、エントランスの電子錠が解除された。エレベーターで上がり、廊下を歩いた。部屋の前に立つと、ドアが少し開いていた。隙間から覗くように、若い女が立っていた。30代前半くらいだった。細い顔で化粧をしていないが整った顔立ちだった。髪を後ろで無造作にまとめていて、部屋着のような格好をしていた。大木の妻だった。そうは一度だけ大木の結婚式で会ったことがある。それ以来だった。
「大木はいるか」
「いません」
「どこにいる?」
「知りません」
短い言葉だった。感情が乗っていなかった。
「連絡は取れるか?」
「取れません。先月の末から帰ってきていません。私にも何も言わずに」
惣一はユカの顔を見た。怒りがあるのか悲しみがあるのか読み取れなかった。ただ疲れた顔をしていた。
「金融会社から連絡が来た。大木が借りた事務所の賃料と機材のリースが未払いになっている。私は保証人になっている」
ユカはそれを聞いて少し目を細めた。
「そうですか」
それだけだった。
「私も同じですよ。私名義のカードで大量に買い物をして、消えました。義父さんに言えることは何もありません。あなたも被害者でしょうけど、私も被害者ですから」
声は平坦だった。感情を使い果たしたような声だった。
「どこに行ったか、本当に分からないのか」
「友人の話だと、九州の方に行ったかもしれないとは聞きました。でも確かめていません。確かめても意味がないと思って」
「意味がない?」
「帰ってきて欲しいとは思っていませんから」
それが本当なのか、そう言うしかないから言っているのか、惣一には判断できなかった。ユカはドアを閉めようとした。
「待ってくれ」
惣一は言ったが、続く言葉が出てこなかった。言っても仕方がないとは思っていた。ドアが閉まった。廊下に惣一一人が残った。エレベーターで降りる間、惣一は壁を見ていた。エントランスを出て外に出ると、10月の昼間の光が眩しかった。電車に乗って帰る途中、惣一はずっと窓の外を見ていた。景色が流れていくのを見ながら、頭の中で数字を並べていた。賃料の未払い分、リースの残額、それを保証人として請求された場合の総額。答えは出なかった。出るはずがなかった。

帰宅すると、美和子がいた。
「どこ行ってたの?」
「大木のところ」
美和子の顔が変わった。惣一はコートを脱ぎながら、今日のことを話した。クレジット会社からの電話のこと。大木の番号が使われていないこと。ユカにあったこと。大木が先月末から姿を消していること。美和子は話を聞きながら、首から下げたメガネの鎖を指でなぞっていた。聞き終わっても、すぐには何も言わなかった。
「九州」
しばらくして彼女は言った。
「ユカさんが聞いたという話だ。確かじゃない」
「そう」
また沈黙があった。
「連絡、来ると思う」
美和子は言った。
「なぜ?」
「来ないままでいられる子じゃない。あの子は逃げても、戻ってくる」
惣一はそれに答えなかった。母親の目から見た息子と、惣一が見ている息子が、今は違うものを指しているような気がした。しかしそれを言葉にする気にもなれなかった。

その夜、惣一は夜勤に出た。倉庫のパトロールカーを運転しながら、惣一は大木のことを考えないようにした。考えても何も変わらないから。変わらないことを考え続けることが、今の自分には一番消耗することだとは思っていた。でも考えてしまった。8月に署名した書類。あの時、惣一は大木の言葉を信じようとした。信じたかったのではなく、信じる方を選んだ。それは自分の決断だった。誰かに強制されたわけではなかった。その事実が、今になって重くのしかかってきた。パトロールカーのエンジン音だけが、夜の倉庫に響いていた。

10月の終わり近く、金融会社から書面が届いた。内容証明郵便だった。連帯保証人としての債務履行を求める通知書だった。賃料の未払い分とリース費用の残額を合わせた金額が記載されていた。惣一はその書面を鉄の小箱には入れなかった。テーブルの上に置いたまま、椅子に座って眺めた。美和子が横から覗いた。
「払える額じゃない」
と彼女は言った。
「分かってる」
「どうする?」
「弁護士に相談しなければいけないかもしれない」
「弁護士」という言葉を口に出したのは初めてだった。そこまで来てしまったという感覚があった。美和子は何も言わなかった。惣一は書面を折りたんだ。しかし小箱には入れず、引き出しの中に入れた。小箱には入れたくなかった。

その翌週、倉庫の前に男が来た。夜勤の途中午前2時頃だった。惣一が外周をパトロールカーで回っていると、正門の前に人影が見えた。車を止めて降りると、作業着を着た中年の男が2人立っていた。
「夜分に失礼します」
と一人が言った。声は丁寧だったが、目が笑っていなかった。
「黒川惣一さんとお会いしたくて」
「何の用だ」
「大木さんに貸した金の件で、ご連絡させていただいております。お父様の方にも、少しご確認いただけることがありまして」
貸金業者だった。惣一には分かった。しかし金融会社の内容証明に記載されていた名称とは違う業者名を名乗った。
「大木とは別の件か?」
「はい。大木さんが個人で借りていらしたもので、お父様が保証人になっているということで伺いました」
「私は保証人になった覚えはない」
「書類はそうなっておりまして」
惣一は男たちを見た。
「ここは警備会社の敷地内だ。ここは私の職場だ。帰れ」
「少しだけお話を」
「帰れ。来るなら昼間に来い」
男たちは顔を見合わせた。それからお辞儀をして歩いて去っていった。惣一はその後ろ姿を正門の前で見送った。自分の名前で、自分の知らない借金の保証人になっている。そういうことが起きているかもしれない。そのことが倉庫に戻ってからも、ずっと頭から離れなかった。

翌日の夜、男たちはまた来た。今度は3人だった。正門ではなく倉庫の裏手の搬入口の辺りに立っていた。一人が倉庫の外壁にコピー用紙を張り始めた。惣一は近づいて確認した。年金振り込み通知書のコピーだった。惣一が大木に渡したものだった。その上に赤いマジックで「債務者」という文字が書かれていて、その下に金額が記載されていた。惣一は髪を剥がした。男が別の場所に貼ろうとした。惣一はそれも取り上げた。男は笑いながら「もっとたくさんある」と言った。

その夜、倉庫の署長が深夜に呼ばれてきた。翌朝早く、署長は惣一を事務所に呼んだ。
「黒川さん、正直に聞きますが、これは個人的な問題ですか?」
「そうです」
惣一は言った。
「このままここで続けてもらうのが、難しい状況になってきていますが」
「分かっています」
「何かこちらでできることがあれば」
「ありません」
署長は机の上で指を組んだ。
「あの業者が今後も来るようであれば、うちの業務に支障が出てしまいます。お分かりですね」
「分かっています」
「であれば」
惣一は署長の言葉の続きを待たなかった。
「退職届を書きます」
「そこまでとは」
「書きます」

惣一は立ち上がった。事務所を出て、用紙を借りてボールペンで書いた。左手が震えていた。右手で抑えながら書いた。「一身上の都合により」という定型文を書きながら、「一身上の都合」という言葉が自分の口の中で転がるような気がした。拇印を得て、署長の机の上に置いた。ロッカーから荷物を取り出して、倉庫を出た。外はまだ暗かった。夜明け前の4時頃だった。バス停のベンチに座って、惣一は空を見た。雲がなく、星がまだ出ていた。手が震えていた。今度は止まろうとしなかった。

帰宅すると、美和子はまだ眠っていた。惣一は台所に来て、電気もつけずに椅子に座った。暗い部屋の中で、外が少しずつ明るくなってくるのを待った。夜が明けて、美和子が起きてきた。台所の電気をつけて、惣一がそこにいることに気づいた。
「帰ってたの? 気づかなかった」
惣一は美和子を見た。
「仕事、やめた」
美和子は電気のスイッチの近くに立ったまま、惣一の顔を見た。
「なぜ?」
「業者が職場に来た。向こうに迷惑がかかる」
美和子はゆっくりと台所に入ってきた。椅子を引いて、惣一の向いに座った。
「借金って、どこの?」
「大木が個人で借りていたらしいところ。私が保証人になっていると言っていた」
「本当に保証人になってるの?」
「分からない。大木が私の名前を使ったかもしれない」
美和子は老眼鏡を外したまま、テーブルの上を見た。惣一は続けた。
「仕事を失った。お前の仕事も今月末まで。年金は削られている。借金の請求が来ている。大木は連絡が取れない」
一つ一つ整理するように言った。感情を込めずに言った。美和子はそれを聞いていた。しばらく沈黙があった。外から近所のゴミ収集車の音が聞こえてきた。
「ご飯」
美和子は言った。それだけだった。立ち上がって、米を研ぎ始めた。惣一はその後ろ姿を見ていた。水を注ぐ音。研ぐ音。炊飯器のスイッチを入れる音。美和子は作業しながら咳を一度した。短い咳だった。それからまた何かを台所で始めた。惣一は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。台所に朝の光が入ってきていた。何も言えることがなかった。言葉を使うことが、今は何もできなかった。ただそこに座っていた。それだけが今、自分にできる唯一のことのような気がした。

11月になった。空が低くなった。集合住宅の1階は特に冷える。惣一は電気ストーブの設定を最低にして使っていた。電気代のことがあった。美和子は台所で作業をする時、薄手のカーディガンの上にもう1枚羽織るようになっていた。それ以上のことは2人とも言わなかった。

仕事を失って最初の1週間、惣一は朝から近くの公共施設のロビーに行っていた。ハローワークで求人票を探したが、68歳という年齢が最初の壁になった。警備員の求人は複数あったが、多くが65歳までという条件だった。65歳以上と書かれたものは、経験者有遇か勤務地が遠い案件が多かった。電車賃を考えると遠い職場は現実的ではなかった。惣一は求人票の束を持ったままロビーのプラスチック椅子に座っていた。隣には同じように求人票を抱えた高齢の男性が座っていた。2人は何も話さなかった。その日の夜、美和子にまだ見つかっていないと告げると、彼女は頷いてそれ以上聞かなかった。

翌週から、惣一は近くの公園に行くようになった。公園の金属製のゴミ箱の周りにアルミ缶が落ちていることがある。土曜と日曜の朝は特に多い。惣一はビニール袋を持ってそれを拾って回った。最初の日は23本だった。スーパーの裏手にある資源回収所に持っていくと、1kgあたりの単価で引き取ってもらえる。金額は少なかった。しかし何もしないよりはという計算だった。缶を拾っている間、惣一は誰とも目を合わせなかった。公園で犬を散歩させている人間がいると、惣一は少し遠回りをした。誰かと目が合うと、何かを言われそうな気がした。何も言われなくても、何かが伝わりそうな気がした。それが嫌だった。

美和子の仕事は10月末で終わっていた。11月に入ってから、彼女は午前中に近くのスーパーに行き、夕方の値引き時間帯に合わせてもう一度行くという習慣をつけた。夕方に3割引きや半額になる食材や野菜を買うことで、同じ金額でより多くのものが手に入る。吸入薬の残量が少なくなっていた。美和子は惣一に言わなかった。薬局で処方薬より安い市販の吸入薬を探して、一番小さいサイズを買ってきた。それを惣一に見せないように引き出しの奥にしまっていた。惣一は気づいていた。気づいていて、先に言い出せなかった。言い出すと病院に行けという話になる。病院に行くと診察代と薬がかかる。今月その余裕があるかどうか、惣一にはまだ計算しきれていなかった。

11月の中旬、倉庫の業者とは別の封筒が届いた。弁護士事務所の名称が記載された封筒で、中には催告通知書が入っていた。倉庫のリース会社が弁護士に依頼して、連帯保証人である惣一への請求手続きを開始したという内容だった。請求額が明記されていた。惣一はその金額を見て、封筒をテーブルの上に置いた。美和子が隣から覗いた。金額の欄を見て、一度だけ小さく息を吐いた。
「これは払えない」
惣一は言った。
「うん」
「弁護士に相談するしかない。ただ、相談が無料でできるっていうのがある」
「知っているのか?」
「テレビで見た。収入が少ない人でも弁護士に相談できる、国の制度らしい」
惣一は美和子を見た。彼女はテーブルの上の封筒を見たまま続けた。
「電話番号を調べておいた。かけてみてもいいと思う」
「いつ調べた?」
「先週」
惣一はそれ以上何も言わなかった。惣一が缶を拾って歩いていた時、美和子は家で次の手を調べていた。

その夜、惣一は夜中に目が覚めた。眠れなかった。台所に来て水を飲んだ。今月の支払いの内訳を頭の中で並べた。家賃、電気代、水道代、ガス代、国民健康保険料、美和子の吸入薬、食費。それぞれの金額を足していくと、今月分の年金振り込み額を超えた。惣一の夜勤収入はもうない。美和子のパート収入もない。残っているのは2人分の年金だけだった。その年金も、課税所得の問題で大幅に削られている。差額を埋めるか、答えは今のところなかった。

11月の下旬に入って、電力会社から支払い督促のはがきが届いた。先月分の電気代が未払いになっていた。惣一は覚えていた。先月、振り込もうとして金額が足りなかった。今月払えばいいと思っていたが、今月も足りなかった。はがきには「期日までにお支払いがない場合、供給を停止する場合がございます」という一文があった。惣一はそのはがきを美和子に見せなかった。翌日、近くのコンビニで一部だけ払った。全額ではなかった。残りは来月に回すしかなかった。

コンビニを出て少し歩いたところで、惣一は立ち止まった。寒かった。コートの中まで風が入ってくるような気がした。家に帰ると、美和子が台所で大根を煮ていた。
「電気代、一部払ってきた」
美和子は鍋をかき混ぜながら「ありがとう」と言った。「ありがとう」という言葉が、今は少し違う響きを持っていた。感謝ではなく、確認のような言葉だった。状況を共有したことへの応答のような。その夜、2人は大根の煮物と白飯を食べた。具はそれだけだった。
「これ、美味しい」
美和子が言った。惣一は頷いた。
「出汁の取り方を変えた。煮干しを丁寧に取ったから」
「そうか」
「煮干し、安いから」
それが会話の全てだった。

11月の終わり、美和子がスマートフォンの画面を惣一に見せた。
「これ見て」
画面には政府の周報ページが表示されていた。12月の年金振り込みについての案内だった。美和子が指で面を拡大して、特定の箇所を示した。
「2026年分の所得税については、年末の年金振り込み時に精算が行われる。過剰に仮徴収された分については、12月の振り込みにおいて還付される場合がある、という趣旨の文章」
「還付」
惣一は声に出した。
「今年、税金が多く引かれてたでしょう。それが戻ってくるかもしれない。12月に」
惣一は画面をもう一度見た。大木が付け替えた所得の分も、いずれ修正が入れば、過剰に引かれた分が戻ってくる計算になる。
「確かか? 確かじゃない?」
「でも、制度の説明を読む限り、そういう仕組みになってる。去年も12月の振り込みは少し多かった。覚えてる?」
惣一は去年の12月のことを思い出そうとした。鉄の小箱に入っている通知書を見れば分かる。立ち上がって小箱を開けた。去年の12月分の通知書を探して広げた。確かに12月の振り込み額は、その月より少し多かった。
「所得税の還付がされている」
惣一は言った。
「今年は引かれた額が大きかったわけ。戻ってくる額も大きいかもしれない」
惣一は通知書を持ったまま椅子に戻った。
「12月は15日に振り込まれる」
美和子は言った。
「あと3週間ほどか。電気代と食費と薬、それだけでいい。それだけ賄えれば、弁護士の相談の費用も出る」
美和子の声は静かだった。興奮していなかった。ただ計算を口に出しているだけだった。しかし惣一には、その計算の声が今まで聞いた中で最も現実的な声に聞こえた。
「12月15日まで持てるか?」
惣一が言うと、美和子はしばらく考えた。
「やってみる」
その言葉に何かが含まれていた。惣一には分かった。約束ではなく、試みの宣言だった。

翌日から、惣一は公園に加えて駅の周辺のアルミ缶を探して歩くようになった。駅前のロータリーや商業施設の裏手の路地。朝の8時から11時くらいまで歩いて、集めたものを資源回収所に持っていく。それだけで1日が半分終わる。疲れたとは思わなかった。疲れているかどうかを考える余裕がなかった。歩いている間は、12月15日のことだけを考えていた。あと何日か。残りの食費はいくらか。薬があと何回分あるか。

ある日の午前中、惣一は駅のロータリーでアルミ缶を拾っていた。白い軽自動車が路肩に止まり、窓が開いた。中から女が声をかけてきた。40代くらいだった。
「すみません。缶を集めてらっしゃるんですか?」
惣一は振り向いた。
「うちの子が学校のリサイクル活動で缶を集めてて、もしよかったらお渡しできるかと思って。今トランクに2袋あるんですが」
惣一は少し間を置いた。
「いただけますか?」
「もちろんです」
女はトランクを開けて、大きなビニール袋を2つ取り出した。かなりの量が入っていた。
「重いですね。持ちますか?」
「大丈夫です」
惣一は2袋を受け取った。「ありがとうございます」と女は言った。「こちらこそ」と惣一は言った。車が走り去った後、惣一は袋を両手に下げて立っていた。何かを言うべきだったかもしれないとは思わなかった。ただ袋が重かった。それは良いことだった。

11月の終わりに、美和子は冬のコートを質屋に持っていった。惣一には言わなかった。午前中に外出して、昼頃に帰ってきた。台所で惣一が茶を飲んでいた時、美和子は鞄から封筒を出してテーブルに置いた。
「こう預けてきた」
惣一は封筒を見た。
「いつ?」
「今日。駅の近くに質屋がある」
「私のを持っていけばよかった」
「あなたのは仕事に必要でしょう。今は仕事がないけど、面接に来ていくものがいる」
惣一は封筒に手をつけなかった。美和子が封筒を引き出しの中にしまった。
「春になれば戻せる」
と美和子は言った。「春」という言葉が、今の季節には少し遠かった。

12月が近づくにつれて、2人の話す内容が少なくなった。言葉が減ったのではなく、言うべきことが削り落とされていった。余分なことを言う体力がお互いになかった。必要なことだけを言った。今日の食費がいくらだったか。薬の残りがあと何日分か。水道の請求がいつ来るか。それ以外のことは言わなかった。しかし、惣一が眠れない時に台所に来ると、美和子がすでに起きていることがあった。スマートフォンの画面を見ていた。銀行アプリか、年金の情報ページか、どちらかだった。惣一が来ると、美和子は画面を伏せた。

12月1日、電力会社から最終督促のはがきが届いた。「期日までにお支払いがない場合、12月10日を持って電力の供給を停止いたします」と書かれていた。12月15日より前に、電気が止まる可能性があった。惣一はそのはがきを持ったまま、しばらく台所に立っていた。美和子が郵便受けから戻ってきて、惣一の顔を見て、はがきを受け取った。
「10日までか。いつか足りない」
「少しだけ払って、止められないようにできないか」
「先月も一部払った。今月また一部だと。電力会社に電話して、事情を話せないか?」
惣一はそれを考えていなかった。美和子は電力会社の番号を調べた。惣一が電話をかけた。オペレーターに事情を説明した。年金生活者で今月の収入が不足していること。12月15日に年金が振り込まれる予定で、そこから全額支払えること。それまでの間、供給を続けてもらえないか。オペレーターは少し待たせてから戻ってきた。
「12月15日までのご猶予ということで確認ですが、その日に確実にお振り込みいただけますでしょうか?」
「できます」
「承知いたしました。特別猶予の形で対応いたします。12月15日に未払い分を含めた全額のお支払いをお願いいたします」
電話を切った後、惣一は受話器を持ったまま、少しの間動かなかった。
「どうだった?」
「15日まで待ってもらえる」
美和子は小さく息を吐いた。安堵ではなく、期限が伸びたことの確認だった。
「15日まで持てばいい」
と彼女は言った。
「ああ。米はまだある。大根も玉ねぎも。あとは缶を拾えばいくらかになる。吸入薬はもう一本だけある。病院は15日以降にする」
2人は台所の椅子に座って、残りの日数を指折り数えるように確認しあった。ガスの請求は15日以降だった。水道は先月分を払っていたから、今月はまだ大丈夫だった。食費は1日500円以内に納める計算になった。
「500円? 2人分で?」
美和子はその数字を聞いて何も言わなかった。ただ立ち上がって冷蔵庫を開けた。中を確認して閉めた。
「大丈夫」
と彼女は言った。それが本当かどうか、惣一には分からなかった。しかし美和子がそう言ったから、惣一は「そうか」と答えた。

12月の最初の2週間は静かだった。静かというのは何も起きなかったということではない。毎日ギリギリのところで何かを調整しながら過ごしたという意味だ。惣一は缶や瓶を集めた。美和子は値引き品を探してスーパーを2度往復した。食卓に並ぶものは日ごとに単純になっていったが、美和子は工夫した。同じ大根でも、今日は塩を揉み、明日は味噌汁の具、明後日は細く切って炒める。それだけで別の料理になった。惣一はそれをいつも残さず食べた。美味しいかどうかを考えたことはなかった。食べられることが、今は十分なことだった。

ある夜、美和子が咳で目を覚ました。惣一もその音で目が覚めた。隣の部屋から続けざまに咳が聞こえてきた。吸入機を使う音がした。少し待った。また咳が来た。惣一は起き上がって、隣の部屋のドアを開けた。美和子が布団の上に起き上がって、壁に寄りかかっていた。両手を胸の前で組んで、息をゆっくり整えようとしていた。
「大丈夫か?」
「少し待って」
惣一は部屋の入り口に立ったまま待った。美和子の呼吸が少しずつ戻ってきた。
「寒いから、出てくるなよ」
と彼女は言った。
「いい。廊下の灯りが漏れてるから」
惣一はそこに立ったまま、美和子の呼吸が安定するまで動かなかった。部屋の電気はつけなかった。廊下の薄明かりだけが入っていた。
「もう一本、吸入薬がある」
と美和子は言った。
「分かってる。15日になれば病院に行ける」
「分かってる」
「分かってる」
返事を繰り返しながら、惣一は廊下の壁に肩を預けた。この呼吸の音だけが、暗い部屋に続いていた。

12月14日の夜、惣一は眠れなかった。明日、年金が振り込まれる。振り込み通知書はまだ来ていなかった。しかし毎年12月15日に振り込まれることは、過去の記録から分かっていた。惣一は台所に来て鉄の小箱を開けた。去年の12月の通知書を取り出し、振り込み額の欄と所得税の欄を見た。今年はどうなるか。大木が付け替えた所得分が税務署でどう処理されているか。それが還付の計算にどう影響するか。惣一には分からなかった。しかし美和子が言っていた制度の説明を読む限り、過剰に引かれた分は還付される。信じるしかなかった。今はそれを信じることが、2人が15日まで持てた理由の一つだった。

12月15日の朝は雪だった。前日の夜から降り始めていたらしく、惣一が目を覚ました時には、すでに窓の外が白くなっていた。今日、年金が振り込まれる。その一点だけが、目が覚めた瞬間から頭の中にあった。美和子はまだ眠っていた。昨夜の咳が続いていたから、惣一は起こさないようにした。台所に行って湯を沸かした。茶を一杯だけ飲んだ。冷蔵庫の中には白菜の残りと豆腐が半丁あった。今日の昼には、電気代の未払い分を含めた全額を払いに行ける。美和子の吸入薬を処方薬で買い直せる。そのためにまず病院に行く必要があるが、診察代も出せる。大根と玉ねぎ以外のものを今夜は食卓に並べられる。惣一はそれらを頭の中で並べながら茶を飲んだ。窓の外では雪がまだ降り続いていた。

美和子が起きてきたのは8時頃だった。台所に入ってきて、窓の外を見た。
「雪。昨夜から降ったみたいだ」
美和子は咳をした。短い咳ですぐ止まった。吸入機を一度使って、テーブルの前に立った。
「今日だね」
と彼女は言った。
「ああ。振り込みの確認。銀行が開く前でも、ATMで確認できる」
「そうか」
美和子が湯を注いで、2人分の茶を入れた。2人でテーブルに向かい合って座った。
「薬、今日のうちに病院に行けるといいね」
と美和子は言った。
「昼過ぎに行こう。私が付き合う」
「一人で行ける」
「付き合う」
美和子は惣一の顔を見た。それから小さく頷いた。茶を飲みながら、2人はしばらく窓の外を見ていた。雪が落ちてくる速度は均一で、風がないせいでまっすぐに降っていた。特別なことは何も言わなかった。それでよかった。

9時を過ぎた頃、美和子がスマートフォンで銀行アプリを開いた。
「まだ入ってないかな?」
「入金は早いと9時頃には反映される」
美和子は画面を見た。しばらく待って「更新」ボタンを押した。
「入ってる」
その一言だけで、惣一の肩から何かが降りるような感覚があった。
「いくら?」
美和子が金額を読み上げた。惣一は計算した。通常の振り込み額より多かった。所得税の還付分が含まれているようだった。美和子が言っていた通りだった。
「還付が入ってる」
惣一は言った。
「うん。これだけあれば、電気代と薬と食費と、ホウテラスへの相談費用も出る」
2人は顔を見合わせた。笑うような場面ではなかった。しかし美和子の目の端に、何か柔らかいものが一瞬だけ浮かんだ。惣一にはそれが見えた。
「ATMで引き出してから、電気代を払いに行こう」
惣一が言うと、美和子は言った。
「コートがない。質屋に預けていた」
「私のを着ていけ」
「あなたが着ないと」
「重ね着すれば平気だ」
美和子は少し考えてから「そうする」と言った。外に出る準備をした。美和子は惣一のコートを着た。サイズが合わなくて袖が余った。しかし文句を言わなかった。惣一はセーターの上にジャケットを重ねて、その上にもう一枚薄い上着を着た。2人で玄関に立った。
「行こう」
惣一は言った。ドアを開けると、冷気が入ってきた。雪はまだ降っていた。最寄りのコンビニエンスストアの前にATMがあった。徒歩で5分ほどの距離だった。雪道を2人で並んで歩いた。美和子の足取りが、ここ数週間で少し遅くなっていた。惣一には分かっていた。体力が落ちているせいもあるが、足元が滑るのを気にしながら歩いているせいでもあった。惣一は少し歩幅を縮めた。

コンビニの前に着いた。ATMの前に並んでいる人は一人だった。少し待って順番が来た。惣一がカードを入れた。暗証番号を押した。左手が細かく震えていた。右手の親指で左手の甲を軽く押さえながら、ゆっくりとボタンを押した。引き出し金額を入力した。確認画面が出た。惣一が「確定」ボタンを押そうとした瞬間、画面の表示が切り替わった。エラーメッセージではなかった。「お取り扱いできません」という文字の代わりに、別の画面が出た。残高照会の画面だった。惣一は一瞬、操作を間違えたかと思った。もう一度、引き出しの操作をしようとした。そこで気づいた。残高の欄に表示されている数字が、0だった。

惣一はその数字を見た。もう一度見た。手順を間違えたのかと思ってカードを抜いた。もう一度入れた。暗証番号を押した。残高を確認した。ゼロ。さっき美和子がスマートフォンで確認した金額は、確かに入っていた。それは間違いなかった。
「どうしたの?」
美和子が隣で言った。惣一は画面を隠した。美和子がスマートフォンを出した。銀行アプリを開いた。更新した。画面を見た美和子の顔が止まった。
「入出金履歴」
彼女は画面を惣一に向けた。今朝振り込まれた年金の入金記録の直後に、同じ金額の出金記録があった。適用欄に「差し押さえ」という文字が表示されていた。
惣一はその文字を見た。
「差し押さえ」
声に出して読んだ。ATMの脇に立ったまま、惣一はその文字の意味を頭の中で追った。差し押さえ。裁判所の命令による口座の差し押さえ。大木が残した保証契約をもとに、金融業者が訴訟を起こして、即決判決を得て、口座を差し押さえしていた。8月に署名した書類の、あの金融会社だった。美和子が先に入金を確認した時点では、まだ差し押さえの処理が反映されていなかった。数分の間に、自動的に引き落とされた年金の振り込みと、差し押さえの執行がほぼ同時に行われた。

惣一はカードを財布にしまった。ATMの前から離れた。コンビニの入口のガラス扉の前に立った。美和子が横に来た。2人とも、何も言わなかった。雪はまだ降っていた。美和子がスマートフォンの画面をもう一度確認した。残高の数字を見た。それからアプリを閉じた。
「全部」
と彼女は言った。
「全部だ。電気代も、薬も、食費も。全部引かれた」
声に感情がなかった。惣一も同じだった。感情を動かす余力が、今はなかった。コンビニの前にプラスチックの椅子が一脚置いてあった。店員が休憩に使うものだろうか。それとも誰かが置き忘れたものだろうか。椅子の座面に薄く雪が積もっていた。美和子がその椅子の前に立った。
「少し座りたい。ここ。少しだけ」
惣一は雪を払った。しかし完全には払えなかった。美和子は構わずそこに腰を下ろした。惣一は美和子の隣に立った。コンビニから客が出てきて、2人の横を通りすぎていった。傘を開きながら、雪の中を歩いていった。美和子が急に吸入機を取り出した。一度吸い込んだ。少し待った。また一度吸い込んだ。
「これで最後」
と彼女は言った。
「吸入薬が、もうない。うん。もうない」
惣一は前を向いたままそれを聞いた。道路の向こうに小さな公園があった。ブランコが一基と砂場があるだけの小さな公園だった。砂場が雪で白くなっていた。ブランコの鎖が、風もないのにわずかに揺れていた。
「弁護士に相談すれば、差し押さえを解除できないのか」
惣一は言った。
「できるかもしれない。でも相談費用が」
「ホウテラスは費用を立て替えてくれると言っていた。電話で予約しないといけない。今日、できる」
「うん」
と美和子は言った。しかし2人とも、すぐには動かなかった。それがすぐに解決できる問題でないことは分かっていた。弁護士に相談して、差し押さえが解除されるまでに時間がかかる。その間、電気代をどうするか、食費をどうするか、薬をどうするか。一つを解決すれば、別の問題が出てくる。それはずっとそうだった。6月にこの話が始まった時から、ずっとそうだった。

美和子が首を傾けて、惣一の肩に頭を持たせかけた。ゆっくりとした動作だった。惣一はそのまま動かなかった。美和子の呼吸が肩越しに伝わってきた。少しだけ詰まるような呼吸だった。薬が切れかけているせいだった。惣一は左手を見た。震えていた。今日は特に強く震えていた。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか、惣一には分からなかった。美和子が惣一の左手を自分の両手で包んだ。冷たい手だった。惣一のより小さく、薄い手だった。それでも、包んでくれた。震えは止まらなかった。しかし、包まれていた。雪が降り続けていた。道路に積もった雪の上に、誰かの足跡があった。コンビニに入る人の足跡と、出ていく人の足跡が交差していた。惣一はそれをぼんやり見ていた。さっきこの道を歩いてきた時の足跡が、どこかに残っているはずだった。しかし雪が積もって、もう見えなかった。
「家に帰ろう」
惣一は言った。
「うん」
美和子はゆっくりと立ち上がった。惣一が腕を差し出すと、美和子は腕に手をかけた。2人で雪道を歩き始めた。来た道を戻った。足元の雪を踏みながら、惣一は歩いた。美和子の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。今日の昼に何を食べるか考えた。冷蔵庫に白菜と豆腐の残りがあった。それで何かを作れる。食べられる。電気は、今日のところはまだ使える。今夜一杯は大丈夫なはずだ。明日のことは、明日考えるしかなかった。それは逃げているのかもしれない。しかし今の惣一には、それしかできなかった。

集合住宅が見えてきた。外壁が雪で少し白くなっていた。一階の窓が、いつもより暗く見えた。美和子が立ち止まった。
「ねえ」
と彼女は言った。
「何だ?」
「春になったら、コートを質屋から出そう」
惣一は美和子を見た。
「出せるようになったらな」
「出せるようになる」
「そうか」
「あなたのではなくて、私のコートの方が色がいいから」
惣一は返事をしなかった。美和子は前を向いて歩き始めた。惣一も歩いた。玄関のドアを開けた。中に入った。靴を脱いで、廊下に上がった。2人の足音が廊下に響いた。台所に入ると、窓の外に雪が見えた。鉄の小箱が棚の上にあった。惣一はそれを見た。今年一年分の通知書が、あの中に入っている。6月のものから始まって、10月のもの。そして、今日届くはずだった12月のものも、いずれ届く。全部、丁寧に4つ折りにして、重ねて入れることになる。

美和子がコートを脱いで椅子にかけた。それから台所に立って、冷蔵庫を開けた。
「白菜と豆腐でお味噌汁にする。それでいい。かつお節、少し残ってるから、ちゃんと出汁を取る」
「分かった」
美和子は白菜を取り出して、まな板に置いた。包丁を持った。白菜を切り始めた。音がした。包丁とまな板の音が、台所に響いた。惣一は椅子に座った。その音を聞いていた。白菜を切る音、鍋に水を入れる音、ガスをつける音、かつお節を出す音。美和子が一度咳をした。短い咳だった。それから続けた。窓の外では雪がまだ降っていた。

今、この後、何をすべきかは分かっていた。ホウテラスに電話する。弁護士の相談を予約する。差し押さえの解除について確認する。電力会社にもう一度電話して、事情を説明する。全部、今日やれることではないかもしれない。しかし、一つずつやるしかなかった。惣一は左手をテーブルの上に置いた。震えていた。見ていた。震えている手を、ただ見ていた。右手で包んでやめた。今日は、包まなくていいと思った。震えているなら、震えたままでいい。台所の空気が少しずつ暖かくなっていった。鍋の中で湯が湧き始める音がした。
「もうすぐできるよ」
と美和子が言った。
「ああ」
と惣一は答えた。窓の外の雪は、やむ気配がなかった。積もった雪の上に、今朝2人で歩いた足跡があるはずだった。コンビニまで行って、戻ってきた足跡が。しかし今は、新しい雪がその上に積もって、もう分からなくなっていた。どこを歩いたか、どこまで行ったか、もう痕跡が残っていなかった。ただ、今、ここにいる。それだけが、今確かなことだった。

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