10年前の運動会。娘の鉢巻がほどけて、泣きながら私を探していたのに、私は電話で仕事の締め処理をしていた。夫がそう教えてくれた時、私は娘の笑顔をどうしても思い出せなかった。それなのに、20年前の取引先との喧嘩の言葉は一言一句覚えている。その夜、夫は私の退職金を遥かに超える借金の総額を打ち明けた。倉庫の夜勤で腰を曲げる日々の末、娘に「お母さんは一度も母親だったことがない」と言われた私は、ある朝、…

10年前の運動会。娘の鉢巻がほどけて、泣きながら私を探していたのに、私は電話で仕事の締め処理をしていた。夫がそう教えてくれた時、私は娘の笑顔をどうしても思い出せなかった。それなのに、20年前の取引先との喧嘩の言葉は一言一句覚えている。その夜、夫は私の退職金を遥かに超える借金の総額を打ち明けた。倉庫の夜勤で腰を曲げる日々の末、娘に「お母さんは一度も母親だったことがない」と言われた私は、ある朝、...

彼女は10年前、会議室で上司に浴びせられた言葉を今でも一言一句覚えている。声の高さも、机を叩いた指の角度も、窓の外を走っていたトラックのエンジン音までも。それなのに、去年の春、娘が大学の卒業式で見せた笑顔がどんな形をしていたのか、どうしても思い出せない。仕事の記憶だけが鮮明で、家族の記憶だけが白く霞んでいる。そのことに気づいた夜、彼女は暗い台所に立ち尽くしたまま、自分がこれまで一体何を積み上げてきたのか分からなくなっていた。

松野千子は61歳。東京郊外のベッドタウンで、物流会社の配送統括部長を務めていた。灰色のスーツはいつもアイロンがピンと効いていて、黒く染めた髪は同じ位置でしっかりと結び上げられている。彼女は黒革の手帳を肌身離さず持つ女だった。話し方は早口で無駄がなく、職場の言葉遣いがそのまま家庭にも漏れ出していた。彼女は自分の36年間を誇りに思っていた。入社した時はまだ女性が総合職として長く働くこと自体が珍しい時代で、彼女はその中で歯を食いしばりながら昇進してきた。

月初めの月曜日、朝礼が終わってすぐに千子は人事部に呼び出された。呼び出し自体は珍しいことではなかった。会議室のドアを開けると、そこにいたのは見慣れた人事部長ではなく、白石共平という38歳の男だった。本社から派遣されてきた事業再構築担当のディレクターで、この支店に来てからまだ2ヶ月ほどしか経っていない。机の上にはパフォーマンスを数値化した資料が1枚だけ置かれていて、彼はそれを滑らせながら前置きもなく要件を切り出した。

「今回、早期退職の優遇プログラムを提示させていただきます」

千子は最初その言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。数秒の沈黙の後、彼女は自分の手帳を取り出し、ここ数年で自分が立て直してきた配送ルートの実績をページをめくりながら次々と示した。すると白石は資料から目を上げ、千子の手帳を一瞥し、薄く笑った。

「松野さんの26年の経験というのは、正直に申し上げると、うちにとっては重いコストです。同じ仕事を3分の1の給料でやってくれる若い人材が、今はいくらでもいるんです」

その言葉に千子は言葉を失った。反論しようとした瞬間、喉の奥が固まって声が出なくなった。その日の午後、千子は自分のデスクの荷物をまとめた。ダンボール箱1つに36年分の私物はあっさりと収まってしまった。部下たちは誰も彼女のデスクに近づこうとしなかった。かつて自分が育て、目をかけてきたはずの後輩たちの誰もが、まるで彼女がすでにこの場所に存在しないかのように振る舞っていた。

家に帰り着いたのはまだ日の高い夕方だった。こんな時間に家にいることがこの10年でほとんどなかったことに千子はふと気づいた。その夜、彼女は履歴書を新しく作り直そうとノートパソコンを開いた。職歴の欄はスラスラと埋まっていった。36年分の記憶がまるで水が流れるように指先からキーボードへと流れ出ていく。ところが「趣味」という欄に差しかかったところで、彼女の指はぴたりと止まった。何を書こうとしても、何も出てこなかった。3時間近く彼女はその空白の前に座り続けた。何度か言葉を打ち込みかけては途中で消した。「読書」と打っては消し、「旅行」と打っては消した。どちらも自分が本当にそうしていたという確信が持てなかった。

その空白を見つめているうちに、千子の中で一つの考えがゆっくりと形をなしていった。自分はこの61年間、ずっと一つの履歴書だけを育て続けてきたのではないか。その一方で、人としての自分自身のことはずっと放っておいて枯らせてきたのではないか。

解雇されてから最初の朝、千子はいつも通り6時にはっきりと目を覚ました。長年の習慣というのは恐ろしいもので、身体は今日も出社があるものと思い込んでいる。その空白は想像していたよりもずっと重く胸に落ちてきた。彼女は無理やり体を起こし、何をすればいいのか分からず、しばらく台所の椅子に座ったまま固まっていた。じっとしていることの方が動くことよりもずっと恐ろしいと感じ始め、彼女は掃除機のスイッチを入れた。棚という棚を開け放ち、賞味期限の切れた調味料の瓶を片端から取り出しては並べていく。作業そのものには何の意味もないと分かっていた。それでも手を止めるとまた何か恐ろしいことを考えてしまいそうで、彼女は止まることができなかった。

3日目の午後、千子は押入れの一番奥に手を伸ばした。指先に触れたのは湿気で少し固くなったダンボール箱だった。中には家族のアルバムが何冊も無造作に詰め込まれていた。最初のページは北海道旅行の写真で埋まっていた。別荘を背景に幼い頃の娘・雪が両手を広げて笑っている。次のページをめくると入学式の写真が出てきた。桜の木の下、まだ大きすぎるランドセルを背負った雪がはにかんでいる。その隣に立つ千子は、なぜかレンズではなく自分の腕時計の方に視線を落としている瞬間を切り取られていた。さらにページを送っていくと運動会の写真に行きついた。雪は琉球のエイサーの衣装を着せられていて、額に赤い鉢巻を巻き、両手に持った小さな太鼓のバチを振り上げた姿で映っていた。千子はその1枚をしばらくじっと見つめ、あの日の空気を思い出そうとした。しかし何も出てこなかった。あの日の天気さえも彼女の記憶には全く残っていなかった。

その代わりに、千子の頭の中には全く別の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。20年ほど前のある日、取引先の担当者と電話越しに激しい言い争いをしたことがあった。相手が電話口で吐き捨てた言葉の一つ一つを彼女は今でも一言一句正確に再現できる。あの時握りしめていた携帯電話が手のひらでわずかに振動していた感触までもがはっきりと蘇ってきた。娘の運動会の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、取引先とのつまらない喧嘩の記憶だけがこれほどまでに鮮明に残っている。その事実に気づいた瞬間、千子はアルバムを持つ手に無意識のうちに力を込めていた。

その夜、彼女は運動会の写真のページだけをアルバムから外し、リビングのテーブルの上にそっと置いた。夫の勇気が帰ってきたら、この写真を見せてあの日のことを尋ねてみようと決めていた。自分の中に母親としての記憶が本当に一つも残っていないのか、それとも単に埋もれているだけなのか確かめたかった。

勇気は午後11時を過ぎて帰宅した。千子はテーブルの上の写真を手に取り、彼が靴を脱ぎ終えるのも待たずに声をかけた。

「これ、覚えている?」

勇気は一瞬だけ写真に目をやった。それから片方の靴だけを脱いだ状態で立ち止まり、深いため息をついた。

「覚えているも何も、あなたはあの場にいなかったでしょう。写真を1枚だけ撮りに来て、それからすぐにグラウンドの端に移動してノートパソコンを開いて仕事をしていた」

千子は言葉に詰まった。勇気はもう片方の靴を脱ぎながら続けた。

「雪の鉢巻が解けて、本人が泣きながらあなたを探し回っていたのに、あなたは電話で注文の締め処理をしていたんですよ。俺が雪をなだめて鉢巻を結び直してやった。あなたはその様子にすら気づいていなかった」

その言葉は千子の中にあった小さな誇りを一撃で打ち砕いた。彼女はずっと自分は家族のために働いてきたのだと信じていた。その信念そのものが、今目の前で音を立てて崩れていくのを感じた。勇気はリビングに入ってくると、ダイニングの椅子にゆっくりと腰を下ろし、両手で顔を覆った。何かがおかしいと彼女は直感的に感じ取った。夫の疲労はいつもの仕事の疲れとは明らかに質が違って見えた。

しばらくの沈黙の後、勇気は絞り出すような声で切り出した。

「コンビニの経営が、この8ヶ月ずっと赤字だったんだ」

千子は最初その言葉の意味をうまく飲み込めなかった。近くに大手チェーンの新店舗ができてから客足が目に見えて落ちたこと。本部へのロイヤリティは店の経営状況に関係なく毎月変わらず引き落とされること。深夜のアルバイトが立て続けにやめていき、その穴を自分1人で埋めるために夜勤に入り続けていたこと。それでも人件費すら賄えない月がここ数ヶ月続いていたこと。彼はまず消費者金融からの借入れを繰り返し、それでも足りなくなると、審査の緩い、あまり名の知られていない貸金業者にまで手を伸ばしていた。勇気は最後に震える声で借入れの総額を口にした。それは千子が会社から受け取ったばかりの退職金の総額をはるかに上回る金額だった。

リビングの照明の下で、千子は自分の膝から力が抜けていくのを感じた。彼女はさっきまで履歴書の空白を前にして自分という人間の中身のなさに打ちのめされていた。だが今度はそれとは全く別の、もっと具体的で逃げ場のない現実が目の前に突きつけられていた。その夜、2人はそれ以上多くを語らなかった。千子はソファに戻り、テーブルの上に置かれたままの運動会の写真をもう一度見つめた。写真の中の雪だけが何も知らずに屈託なく笑い続けていた。千子はその笑顔をどうしても記憶の中から呼び起こすことができなかった。それなのに、たった今聞いたばかりの借金の金額は頭の中に一瞬で刻み込まれていた。

借金の総額を聞いた夜から、家の中の空気は目に見えて変わっていった。最初のうちは勇気の携帯にだけかかってきていたが、数日も経たないうちに固定電話にまで着信が入るようになった。知らない番号からの着信で出てみると、機械的な口調の男が返済期日について淡々と告げてくる。勇気の携帯は朝から晩まで震え続けた。そんな暮らしが2週間ほど続いたある日の午後、千子は久しぶりに灰色のスーツをクローゼットから取り出した。もう1度あの会社に戻り、契約社員でもパートタイムでもいい。安い時給でもいいから雇ってもらえないか。白石に頭を下げてみようと決めていた。

会社の入っているビルの前に立った時、千子の足は一瞬止まった。かつて自分が座っていた席には、25歳ほどに見える若い女性社員が座っていた。電話を片手に楽しそうに笑いながら、もう片方の手でキーボードを打っている。全てが千子がいなくなる前と全く同じ速度で、何の滞りもなく回り続けていた。自分がいなくなったことで業務のどこかに小さな綻びくらいは出ているはずだと心のどこかで期待していた。しかし現実にはそんな綻びなどどこにも見当たらなかった。会社は松野千子という人間を必要としていたのではなかった。必要とされていたのはあくまで部長という肩書きと、その席に座って業務を回す誰か、それだけだった。

千子は受付にすら声をかけることなく、そのままエレベーターホールへと引き返した。ビルを出ると、朝は晴れていた空がいつの間にか灰色の雲に覆われ、7月にしては肌寒い細かい雨が降り始めていた。千子は傘を持ってきていなかったが、それを買う気力すら湧かず、そのまま駅とは反対の方向へ当てもなく歩き出した。

1時間ほど歩いただろうか。自宅の近くまで戻ってきた時、千子は玄関先に見慣れない人影が立っているのに気づいた。黒っぽいスーツを着た体格のいい男が2人、傘も差さずに家の前で待っていた。千子が近づいていくと、男たちのうちの1人が声をかけてきた。

「松野勇気さんのご家族の方ですか」

千子は言葉につまりながら「はい」と小さく答えた。男はそれ以上多くを語らず、ただ「こちらでお待ちしておりますので」とだけ言って家の前に立ち続けた。玄関の引き戸に手をかけようとしたその時、千子は門の脇の暗がりに勇気が座り込んでいることに気づいた。夜勤のはずの夫がなぜこんな時間にここにいるのか、彼女には一瞬理解できなかった。勇気は玄関先の低い階段に腰を下ろし、膝の上に広げた書類の束に震える手でペンを走らせていた。雨が彼の肩を濡らしていたが、彼はそれに気づいていないかのように俯いたまま署名を続けていた。

「これは何?」

千子が尋ねると、勇気は書類の1枚を静かに彼女の方へ向けた。それは2人が30年近くかけてローンを払い続けてきたこの家の担保に関する書類だった。勇気は今日、現場から急に呼び出され、ここで待っていた業者に押し切られる形でその場で署名することを決めたのだと、感情のない声で説明した。千子は雨の中に立ち尽くしたままその書類を見下ろした。勇気はペンを持つ手をだらりと垂らし、遠くを見るように呟いた。

「俺たちは一体、何のためにこれほど働いてきたんだろうな」

その声には妻を責める響きも自分を哀れむ響きもなかった。千子はその問いに対して何も答えることができなかった。黒いスーツの男たちは書類を回収すると、事務的な口調で今後の手続きについて簡単に説明し、立ち去っていった。

家を手放す手続きは思っていたよりもずっと事務的に進んでいった。引っ越しの日、千子はダンボール箱の数を数えながら、自分たちの30年間の暮らしが思いの外少ない箱の数に収まってしまうことに静かな驚きを覚えていた。新しい住まいは、駅からバスで20分ほどかかる場所にある古い賃貸アパートの一室だった。玄関を開けるとすぐに台所があり、その奥に6畳ほどの部屋が1つあるだけの狭く湿気のこもった空間だった。勇気は荷物の整理が一段落するのを待たずに、遠方の建設現場の夜勤警備の仕事を決めてきた。宿舎付きの仕事で、食費と住居費がかからない分、少しでも借金の返済に回せる金額が増えるという理由だった。勇気が荷物をまとめて出発する朝、千子は玄関先まで見送りに出た。

「身体に気をつけて」

勇気は小さく頷いただけで、振り返ることなくバス停の方向へと歩いていった。

それからの日々、千子は1人でこの狭い部屋に取り残されることになった。そんなある晩、千子は古い携帯電話の連絡先を上から順にゆっくりと眺めていた。指を止めたのは「雪」という文字の上だった。雪は18歳で家を出てから、実家に戻ってくることはほとんどなかった。連絡そのものも年に数回、それも要件のある事務的なメッセージのやり取りに限られていた。他に頼れる相手はどこにもいなかった。千子は震える指で発信ボタンを押した。数コール後、雪の低い声が電話の向こうから聞こえてきた。

「もしもし」

短い一言だけで、その声の温度が以前よりもずっと冷たくなっていることが分かった。千子は言葉を選びながら、少し会って話せないかと切り出した。雪は数秒の沈黙の後「仕事の合間なら、30分だけなら」と条件をつけて答えた。

数日後、2人は雪の職場近くにある安っぽいチェーンのカフェで待ち合わせた。約束の時間ぴったりに雪が店に入ってきた。32歳になった娘の姿は、千子の記憶の中にある雪の面影とは随分違って見えた。雪は千子の向かいの席に腰を下ろすと、すぐには何も注文しようとせず、腕を組んだまま母親の顔をじっと見つめた。その視線には懐かしさや親愛の情ではなく、値踏みするような、あるいは何かを警戒するような色が浮かんでいた。千子は何度も練習してきたはずの言い訳や説明が、いざ娘を目の前にするとどれもうまく口から出てこなかった。結局彼女は前置きを全て放棄し、単刀直入に切り出した。

「今月を乗り切るための少しばかりのお金を貸してもらえないか」

そう言いながら千子は震える手を伸ばし、雪の手にそっと触れようとした。しかし雪はその手が触れる直前に、自分の手を素早く引っ込めた。まるで見知らぬ他人の手を避けるかのような迷いのない動きだった。雪は椅子の背もたれに体を預け、しばらく黙って母親を見つめていた。それから、抑えたが刃物のように鋭い声で口を開いた。

「お母さんは今、お金がないことを謝っているの? それとも、そばにいてくれる人がいないことを謝っているの?」

千子は答えることができなかった。雪はその沈黙を待たずに言葉を続けた。

「中学の時、クラスでいじめられていたことがあった。あの晩、電話でそのことを話そうとしたら、お母さんは『コンサルティングのスケジュールを組んでいるから邪魔しないで』と言った。あの時の声を、私は今でもはっきり覚えている」

雪の声は次第に感情の抑えが効かなくなっていった。

「熱で入院した時のことも覚えている。お母さんは病室に1度も来なかった。代わりにお手伝いさんを雇って私の世話をさせた。お母さんは1度も母親だったことがない。ただこの家に同居している、お金を稼ぐための機械だっただけだ」

その言葉の一つ一つが千子の胸に深く突き刺さっていった。反論しようとする気力すら彼女の中には残っていなかった。勇気が語る記憶のどれもが、千子自身の記憶の中には存在していなかった。それが何よりも彼女を打ちのめした。自分が犯した過ちの記憶すら自分の中には残されていないという事実が、罪の重さを一層際立たせていた。雪はハンドバッグから白い封筒を1つ取り出し、テーブルの上に静かに置いた。

「中には5万円が入っている。これは私の平穏を買い戻すためのお金だと思ってほしい。もう電話をしてこないで欲しい」

千子は封筒に手を伸ばすことも言葉を返すこともできず、ただ椅子に座ったまま固まっていた。雪は席を立ち、伝票を持たずにそのまま店の出口に向かって歩いていった。振り返ることは1度もなかった。

雪と会ってから数日の間、千子はほとんど何も食べずに過ごした。封筒に入っていた5万円には指1本触れることができなかった。それは娘から差し出された金というよりも、母の関係そのものに引導を渡す最後の通告のように思えたからだった。しかし現実はいつまでも彼女の鑑賞を待ってはくれなかった。貯金はすでに底をついていた。求人情報を検索していた千子の指が止まったのは、ある物流倉庫の仕分け員募集のページだった。夜間勤務、未経験者歓迎、年齢不問。かつて自分が部長として指揮していた会社と提携する同じ網に属する倉庫だった。かつて自分がオフィスの中から数字だけを見て采配を振っていた現場に、今度は自分自身がただの作業員として立つことになる。その皮肉を頭のどこかで理解しながらも、千子は他に選べる道がないことも同じくらいはっきりと分かっていた。彼女は応募のボタンを押した。

面接は驚くほどあっさりと終わった。初出勤の夜、千子は倉庫の裏口にある更衣室で支給された作業着に着替えた。灰色のつなぎの制服は、かつて彼女が着ていたどのスーツよりも硬く身体に馴染まない感触がした。彼女に割り当てられた仕事は、コンベアから流れてくる荷物のバーコードを読み取り、行き先ごとの台車に仕分けていくという単純な作業だった。しかし実際にやってみると、次から次へと流れてくる荷物のスピードに彼女の手は全く追いつかなかった。その日の夜、千子の作業を見かねた若い監督者が苛立った声で声をかけてきた。

「遅い。そこの台車がすぐいっぱいになる」

20歳そこそこに見えるその青年は、まだ幼さの残る顔立ちに明らかな苛立ちを浮かべていた。千子は「はい、すみません」と頭を下げた。36年間こうした言葉を部下たちに投げかけていた自分が、今は同じ言葉を自分よりも40歳近く若い青年から浴びせられている。その事実は身体的な疲労よりもずっと深く、彼女の胸の奥を締めつけた。肉体労働そのものは思っていたよりも彼女の身体に堪えなかった。しかし屈辱という感情だけは、夜が更けるごとにじわじわと彼女の中に募っていった。

そんな夜勤の日々が2週間ほど続いたある朝のことだった。長い夜勤を終え、始発のバスに乗るには少し早すぎる時間。千子はいつものように倉庫から最寄りのバス停まで続く公園を横切って歩いていた。ふと足の裏にいつもとは違う柔らかい感触があった。見下ろすと、舗装が途切れた土の部分に彼女の足がわずかに踏み込んでいた。その土の上を、一列の蟻の群れが忙しなく行き来しているのが目に入った。1匹1匹が自分の体よりも大きな食べ物のかけらを必死に運びながら、地面の奥にある巣と向かって進んでいく。千子はその場に立ち止まり、しばらくその様子を見つめた。

もし36年前の自分がここにいたなら、こんな光景に足を止めることなど決してなかっただろう。「時間の無駄だ」と切り捨てて、そのまま足早に通りすぎていたはずだった。しかし今、千子の足はその場から動かなくなっていた。気がつくと、彼女の頬を涙が伝っていた。それは悲しみというよりも、もっと長く澱みきった年の果てにようやく滲み出てきたような静かな涙だった。千子は自分が泣いている理由を少しずつ整理しようとした。お金を失ったからではなかった。仕事を失ったからでもなかった。彼女が泣いていたのは、もっと根本的な、取り返しのつかない何かに気づいてしまったからだった。定年というものは人生の終着点ではなかった。それはそれまでの生き方の答え合わせを嫌というほど突きつけてくる瞬間に過ぎなかった。自分がこれまで何を大切にし、何を後回しにしてきたのか、その精算を身体1つで1人で受け止めなければならない瞬間だった。自分は違った。会社という肩書きだけを必死に育て続け、それ以外の全てを枯らせてきた結果、その肩書きを失った瞬間、自分という人間そのものが限りなく空虚な数字に成り下がってしまった。

蟻たちはそんな蟻の干渉などまるで気にする様子もなく、黙々と自分たちの仕事を続けていた。1匹が荷物を落としても、すぐに別の1匹がそれを拾い上げ、列を乱すことなく巣と運んでいく。しばらくして千子は指先で涙を拭い、ゆっくりと歩き出した。

勇気とは相変わらず、数週間に一度短い電話でやり取りをするだけの関係が続いていた。互いの声には以前のような苛立ちも攻め合う響きもなく、ただ疲れた者同士が事務的に近況を報告し合うだけの乾いた会話だった。雪からはあの日以来1度も連絡がなかった。千子の方からも電話をかけることはしなかった。娘の言葉通り、これ以上娘の平穏を乱す資格が自分にはないと彼女は静かに受け入れていた。61歳になって、千子はようやく生きるということを1から学び直さなければならない場所に立たされていた。それは遅すぎる出発点だったかもしれない。それでも、蟻の列を見つめながら流した涙の感触だけは、彼女の中に確かに残り続けていた。これから先、借金を返済し終えるまでにどれほどの年月がかかるのか、夫や娘との関係がいつか修復される日が来るのか、それとも2度と来ないのか。千子にはまだ何も分からなかった。分かっているのは、明日もまた同じ倉庫の同じベルトコンベアの前に立たなければならないという、ただそれだけの事実だった。

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