「10万円のランドセルくらいで恩を売るのはやめてください。」
息子の嫁・美雪から放たれたその言葉に、私の全身の血が引いていくのがわかった。
リビングのテーブルに置かれた薄紫色の美しいランドセル。孫の結愛ちゃんの入学祝いにと、3ヶ月も前から予約していた特別な品だった。
「結愛ちゃん、これおばあちゃんからのお祝いよ」
満面の笑顔で差し出した私に、美雪は冷たい視線を向けた。
追い打ちをかけるように、息子の和樹が吐き捨てる。
「そうだよ、母さん。10万ぽっちで親ヅラするなよ」
震える手で、私はランドセルから手を離した。
私は杉本清子、68歳。助産師として40年間、3000人以上の赤ちゃんをこの世に迎えてきた。夫を事故で失ったのは和樹がまだ2歳の時。女手一つで育てると決めた私は、必死に働いた。医学部の学費2000万円、結婚資金500万円、マイホームの頭金800万円。通帳の残高が減るたびに、息子の幸せを願った。
なのに今では、孫の顔さえ見せてもらえない。
「お母さん、病院が忙しいでしょうから、無理に来なくていいですよ」
美雪の拒絶の言葉。母の日も誕生日も、まるで私という存在が邪魔物であるかのような扱い。
寂しい夕食を一人で済ませながら、孫の写真を眺める日々。
ランドセルを突き返された翌日、私は気を取り直して息子の家を訪れた。せめて誤解を解きたい。そんな思いで。
「お母さん、何の用ですか?」
玄関先で美雪が腕を組んで立っていた。まるで汚いものでも見るような、その冷たい視線に胸が痛んだ。
「あのランドセル、結愛ちゃんのために一生懸命選んだの。気に入らなかったなら交換もできるわ」
「10万円のランドセル? そんな安物、恥ずかしくて使えません。うちの家庭なんですから。私の実家では最低でも30万円のランドセルが常識ですよ」
胸が締め付けられるような痛みを感じた。3ヶ月も前から予約して、百貨店へ何度も足を運び、店員さんと相談して結愛ちゃんの好きな薄紫色を選んだ。あの時間は何だったのか。
奥から和樹が出てきて、さらに追い打ちをかけた。
「母さんの貧乏臭い感覚、俺たちには迷惑なんだよ。医者の家庭にはそれなりの格ってものがあるんだ」
貧乏臭い——。
「そういえば、お母さん、医学部の学費を出したって恩着せがましく言いますけど、親なら当然でしょう? 見返りを期待するなんて品性が卑しいですよ」
「そうだよ。俺の実力で今があるんだ。母さんは関係ない。勘違いしないで欲しいね」
昼は病院で働き、夜は睡眠時間を3時間に削って貯めたお金。自分の老後の資金も全て息子に注ぎ込んだ。それが「当然」の一言で片付けられてしまった。
せめて孫の顔だけでも見たいと願いを込めて言うと、美雪が信じられない条件を突きつけてきた。
「会いたいなら、月30万円の養育費を払ってください」
私は耳を疑った。
「医者の娘にふさわしい教育にはそれくらいかかるんです。ピアノはピアニストの個人レッスン。バレエは元プリマの先生。英語はイギリス人のネイティブ家庭教師。全て一流でなければ意味がありません」
「じゃあ、合わせられませんね。貧乏な祖母なんて結愛にとって恥ずかしいだけですから」
和樹がさらに追い打ちをかけるように言った。
「正直に言うよ、母さん。俺の同僚は皆、親が会社経営者なんだ。母さんみたいな貧乏人が俺の母親だって恥ずかしいんだよ。この前の医局のパーティーにも、恥ずかしくて呼べなかった」
心臓を掴みにされたような痛みが走った。
「そうそう。お父さんが早く亡くなってよかったですね。貧乏が2人もいたら本当に最悪でしたから。トラック運転手でしたっけ? 恥ずかしい職業ですよね」
亡き夫まで侮辱された瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れた。
「わかりました。もう2度とお邪魔しません」
帰り際、私は静かに振り返って言った。その時、私の中で決意が固まっていた。
3日後の午後、私は忘れていた診察券を取りにもう一度息子の家を訪れた。車があるので在宅のはずなのに、インターホンを押しても応答がない。仕方なく、いつも使っていた合鍵で静かにドアを開けた。
すると、リビングから和樹と美雪の会話が聞こえてきた。
「あのババア、しつこくてうざいよな」
私は息を殺して廊下の影に身を潜めた。
「ランドセル10万円で恩着せがましくされて、本当に迷惑だったわ。あんな安物、速攻でメルカリに出品したら8万円で売れたわよ」
え——。
思わず息を飲んだ。結愛ちゃんのために選んだランドセルを、売ってしまったというのか。
「でも、まだ利用価値はあるだろう。あのババアの退職金、まだ手つかずのはずだ。いくらくらいある?」
「助産師で40年勤務なら、最低でも2000万はある。それを狙おう」
「どうやって?」
「簡単さ。結愛を使えばいい。結愛が会いたがってる、結愛が病気で入院したとか言えば、感情的になって金を出すよ。あのババア、孫には甘いからな」
私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。録音機能をオンにして、会話を記録し始めた。
「でもお母さん、そんなにお金持ってるかしら? 見るからに貧乏そうじゃない」
「表面上は貧乏に見せてるけど、絶対に隠し財産があるはずだ。あの性格ならコツコツ貯めてるよ。それに親父の生命保険金もあったはずだ」
「いくら?」
「確か3000万。あの時俺はまだ子供だったから手をつけられなかったけど、今なら理由をつけて引き出せる。医療費がかかるとか、結愛の教育費とか適当に言えばいい」
「賢いわね、あなた」
「じゃあ、もう少し優しく接して油断させましょうか」
「いや、それは無理だ。俺、あのババアの顔を見るだけで吐き気がするんだよ。貧乏臭くて、みすぼらしくて、いつも同じような地味な服着て化粧もしない。シャレッ気がないんだよ」
聞いていて苦しかった。自分の服は我慢して、息子にはいつも新しい服を買ってあげた。その息子が、私のみすぼらしい姿を嘲っているなんて。
「本当よね。生きてる価値なんてないのに、遺産も残せないくせに図々しく生きてる。さっさと死んでくれればいいのに」
「まあ、退職金を絞り取ったら完全に縁を切るさ。施設にぶち込んで2度と会わない。面会なんて絶対に行かない。死んだ連絡が来ても葬式には出ない」
「当然よ。10万で親ヅラされるのも今日で最後ね。あんな貧乏人、親戚だと思われたくないもの」
さらに衝撃的な内容が続いた。
「そういえば、この家の権利書、まだ母さんの名前になってるんだよな」
「え、この家、お母さんの?」
「ああ、頭金800万は母さんが出したから共同名義になってる。早く名義変更させないと、このままじゃ俺たちの財産にならない」
「どうやって? お母さん、そう簡単にサインしないでしょう」
「認知症だと診断書を偽造すればいい。医者の俺なら簡単にできる。判断能力がないってことにして成年後見人を俺にすれば、全財産を自由にできる」
私は全身の血が凍りつくような恐怖を感じた。息子が私を認知症扱いして、財産を奪おうとしているなんて。
「でもバレたらまずくない?」
「大丈夫だ。俺の大学の同期に精神科医がいる。金を握らせれば診断書ぐらい書いてくれる。それにあのババアに俺たちの計画を見破る頭なんてない」
「あなた、本当に頭がいいわ」
「医者の頭脳を、あんな低学歴のババアが理解できるわけがない。助産師なんて、医者の指示通りに動くだけの下働きだろ。そんな奴が俺に勝てるわけがない」
私の誇りである助産師の仕事まで侮辱された。3000人の命を取り上げ、産婦に寄り添ってきた40年間。新生児の命を守り続けた日々を「下働き」と言われたのだ。
「お母さんから全部奪ったら、ハワイに別荘買ってくれる?」
「ああ、約束するよ。あのババアの全財産を使って俺たちは優雅に暮らすんだ。結愛は全額の学校に入れて、完全に自由になろう」
「素敵。お母さんには悪いけど、自業自得よね。貧乏人のくせに医者の家族に近づくなんて、身の程知らずだったのよ」
まるで悪魔のような2人の高笑いが響いた。
私はゆっくりと立ち上がった。録音も完璧に取れた。静かに家を出ると、私の心には硬い決意が宿っていた。
——かずき、美雪。覚悟しなさい。あなたたちが知らない本当の私を、これから見せてあげるから。
自宅に戻った私は、寝室のクローゼットの奥から、亡き夫が残してくれた古い金庫を引き出した。
カチャリと金庫が開くと、そこには息子が知らない私の本当の姿があった。
最初に手に取ったのは、10冊以上の通帳。各大手銀行に分散して預けていた定期預金の総額は、8000万円を超えていた。
——かずき、あなたは私を貧乏だと決めつけていたけれど、助産師の給料を40年間ほとんど使わずに貯めていたのよ。朝5時に起きて弁当を作り、服は10年同じものを着続け、美容院にも行かず旅行も我慢した。全ては息子のため、そして自分の老後のために。でもその息子は私を「貧乏臭い」と嘲った。
次に取り出したのは、証券会社の運用報告書。20年前から少しずつ始めた投資信託と株式投資。リーマンショックも乗り越えて、今では評価額が5000万円になっていた。病院の先輩に教えてもらいながら、こっそりと勉強して増やしてきた資産だった。
そして最も価値があるのは、亡き両親から相続した土地の権利書だった。東京都心の一等地にある200坪の土地。現在の評価額は2億円を超えていた。
全ての書類を確認すると、私の総資産は3億円を優に超えていた。
私は録音データをUSBメモリーにコピーし、重要書類を鞄に詰めて、市内で最も信頼できる法律事務所へ向かった。
重厚な扉を開けると、初老の弁護士・高橋先生が迎えてくれた。以前病院の医療訴訟でお世話になった方だった。
「杉本さん、お久しぶりです。今日はどのようなご用件で?」
「遺言書を作成したいんです」
私は深呼吸をした。
「息子を相続から完全に排除したいんです」
高橋先生の表情が引き締まるのがわかった。
「それは重大な決断ですね。理由をお聞かせください」
私は録音データを再生した。息子夫婦の冷酷な会話が、静かな事務所に響いた。高橋先生の顔が次第に険しくなっていった。
「これは……ひどい。重大な侮辱に該当します。相続排除の申し立ては十分可能です」
「お願いします。そして全財産を、新生児医療の発展のために寄付したいんです」
高橋先生は私の目をじっと見つめた。
「本当によろしいんですか? 3億円という大金ですよ」
「はい。私は3000人以上の赤ちゃんを取り上げてきました。その経験を生かして、もっと多くの命を救いたいんです。息子に侮辱された助産師の仕事ですが、私にとっては世界で最も尊い仕事です」
高橋先生は深く頷いた。
「わかりました。遺言書を作成しましょう。これなら法的効力は完璧です。それと相続排除の申し立ても家庭裁判所に提出します。念のため、医療法人の設立も検討されてはいかがですか? 杉本記念新生児医療基金として、永続的に新生児医療を支援できます」
「素晴らしい提案です。是非お願いします」
2時間後、全ての書類が完成した。私の全財産3億2000万円は新生児医療の発展のため医療法人に寄付する。息子・和樹には重大な侮辱を理由として一切の財産を相続させない——。遺言書には明確に記されていた。
翌朝8時、息子夫婦の家にレターパックが届いた。差出人は高橋法律事務所。
その日の午後、私の携帯電話が鳴り響いた。
「母さん、これは何の冗談だ?」
和樹の怒鳴り声が響いた。
「冗談ではありませんよ。全て本気です」
「相続排除だと? 3億円? 母さんがそんな金を持ってるわけないだろ」
「あら、あなたは私を貧乏人だと言っていたじゃない。だったら関係ないでしょう」
電話の向こうで美雪の叫び声が聞こえた。
「3億2000万円? 嘘でしょ?」
「助産師を40年、質素に暮らせばそれくらい貯まるものよ。あなたたちが知らなかっただけ」
「待って、話し合おう」
「これは復讐じゃないわ。録音の一部を聴かせてあげる」
私は電話越しに録音を再生した。
「あのババア、さっさと死んでくれればいいのに」——和樹の声が響いた。
電話が切れた。
30分後、息子夫婦が私の家に押しかけてきた。インターホンが激しく鳴らされ、ドアを叩く音が響いた。
「母さん、開けてくれ。話がある」
私はドアチェーンをかけたまま、少しだけドアを開けた。そこには顔面蒼白の和樹と、目を泣きはらした美雪が立っていた。
「お母さん、お願いです。謝ります。本当に謝ります。10万円のランドセルを売ったのも謝ります」
「それはメルカリで8万円で売れたんでしょう。結愛ちゃんのために選んだランドセルを」
美雪の顔が凍りついた。
和樹が土下座を始めた。玄関先で医者としてのプライドを捨てて、額を地面に擦りつけていた。
「母さん、本当にすみませんでした。俺が間違っていました」
「何が間違っていたの?」
「全てです。母さんを侮辱したこと、恩を忘れたこと。全てです」
「そう。でももう遅いのよ」
美雪も隣で土下座した。高級ブランドの服が汚れることも気にせず、必死に頭を下げていた。
「お母さん、ランドセル。本当は嬉しかったんです。結愛も喜んでいました」
「嘘ね。売ったくせに」
「買い戻します。今すぐ買い戻します!」
「もういいわ。結愛ちゃんにはもっとちゃんとした両親が必要ね。あなたたちみたいな親に育てられるより、施設の方がましかもしれない」
和樹が顔を上げた。その目は充血し、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「母さん、お願いだ。考え直してくれ。俺たちには結愛の教育費が必要なんだ」
「教育費? ハワイの別荘の間違いでしょう」
2人の顔が真っ青になった。会話を全て聞かれていたことを、今理解したようだった。
「母さん、あの時は錯乱して」
「錯乱して私を認知症扱いして財産を奪う計画を立てたの?」
和樹は言葉を失った。
「錯乱して助産師を下働きと侮辱したの?」
「それは……取り違えで」
「錯乱して私に『さっさと死んでくれ』と言ったの?」
沈黙が流れた。
美雪が泣きながら訴えた。
「お母さん、私たち、本当は感謝してるんです」
「感謝? 『10万で親ヅラするな』と言った人が? あれが本音でしょう。相続排除の申し立て書は提出済みよ。来月には受理されると思うわ。そのうち審理があるけど、あなたたちが来ても来なくても結果は変わらないでしょうね」
和樹が絶望的な声をあげた。
「母さん、俺には医者としての地位があるんだ。母親から相続排除されたなんて知られたら——」
「自業自得ね。医者の頭脳があればわかるでしょう」
美雪が最後の手段に出た。
「お母さん、結愛が、結愛がおばあちゃんに会いたがってるんです」
「あら、月30万円払わないと合わせないんじゃなかった」
「それは取り消します。いつでも会いに来てください」
「もう結構。結愛ちゃんを金づるとして利用する親の元にいるより、ちゃんとした環境で育った方がいい」
「金づるなんて——」
「『結愛を使えば金を出す』って言ってたじゃない」
私は録音の別の部分を再生した。和樹と美雪の顔が絶望に染まった。
「母さん——」
「あなた自身が言ったのよ。『もう他人だ』って。だからその通りにしただけ」
「3億円全て、新生児医療の発展のために使われます。未来の命を救うために」
「私たちには1円も? 1円もくれないの?」
「あなたたちは10万円のランドセルを笑った。その代償は3億円の相続権の喪失」
「訴えてやる!」美雪が突然叫んだ。「詐欺だ! 息子に黙って財産を隠していたなんて!」
「どうぞ。でも侮辱の証拠は全て揃ってる。録音も暴言の証人もいる。医者が母親を侮辱していたなんてスキャンダルになるわね」
和樹の顔が土色になった。
「それに——」私は付け加えた。「あなたたちの計画、認知症診断書の偽造の件も警察に相談済みよ」
「なんだって?」
「医師免許、大丈夫かしら?」
完全に打ちのめされた2人は、よろよろと立ち上がった。
「出ていきなさい。そして二度と私の前に現れないで。赤の他人なんでしょう」
和樹が振り返った。その顔はもはや私の知る息子ではなかった。憎しみと後悔と絶望が入り混じった、見苦しい表情をしていた。
「覚えてろ」
「あら、脅迫? それも録音させてもらったわ。また証拠が増えたわね」
2人は何も言えず、とぼとぼと去っていった。
私は静かにドアを締め、深く息をついた。40年間の愛情を踏みにじった報いを、息子夫婦はこれから受けることになるでしょう。でも私の心に後悔は微塵もなかった。
3ヶ月後、私は都心の高級マンションの最上階で朝のコーヒーを楽しんでいた。大きな窓から見える東京の景色は、まるで新しい人生の始まりを祝福しているようだった。
テーブルの上には一通の感謝状が置かれていた。
「杉本清子様。あなたの3億円のご寄付により、新生児集中治療室が完成しました。これにより年間500人以上の新生児の命が救われます」
私は感謝状を手に取り、優しく微笑んだ。10万円のランドセルを笑った息子夫婦は知らないでしょう。その3億円がどれだけ多くの命を救うことになるかを。
インターホンが鳴った。モニターを見ると、懐かしい顔が映っていた。
「杉本先生、お久しぶりです」
訪ねてきたのは、20年前に取り上げた双子の母親、佐藤さんだった。
「あの時は早産で2人とも1500gしかありませんでしたね」
「おかげ様で、2人とも大学生になりました。医学部に進学したんです。先生みたいに命を救う人になりたいって」
リビングに通すと、佐藤さんは深々と頭を下げた。
「先生の寄付のことを新聞で知りました。本当に素晴らしいことをされましたね」
「いいえ、私にできることをしただけです」
佐藤さんは大きな花束と、分厚い封筒を差し出した。
「実は先生に取り上げていただいた子供たちで、感謝の会を開きたいんです。もう300人以上が参加表明してくれています。これは皆からのメッセージです」
封筒を開けると、たくさんの手紙が入っていた。どれも心のこもった感謝の言葉で溢れている。
「杉本先生は私の命の恩人です」「先生がいなければ今の私はいません」「第2の母としてずっと尊敬しています」
私の目に涙が浮かんだ。血のつながった息子には捨てられたけれど、心で繋がった家族がこんなにいたなんて。
「先生、私たちにとって先生は本当の家族です。これからもずっと慕わせてください」
その言葉に、私の心は温かさで満たされた。
一方、息子夫婦のその後は悲惨なものだった。相続排除の件が病院に知れ渡り、和樹は医局で完全に孤立。母親を侮辱したというレッテルを貼られ、患者からの信頼も失った。さらに認知症診断書偽造計画が医会でも問題となり、3ヶ月後、居づらくなった和樹は自主退職を余儀なくされた。
美雪との関係も破綻した。舅の遺産を当てにしていた美雪は、それが消えた途端に離婚届を突きつけた。離婚協議の末、親権は美雪が持つことになったが、養育費の支払いで和樹は経済的に追い詰められた。
ある日、高橋弁護士から連絡があった。
「杉本さん、息子さんから謝罪の手紙が届いています。どうしても読んで欲しいと」
「読む必要はありません。もう他人ですから」
「実は息子さん、今は地方の小さなクリニックで働いているそうです。月収は以前の3分の1だとか」
「自業自得ですね」
「あなたの決断は正しかったと思います。愛情を踏みにじるものに、財産を渡す必要はありません」
新生児ICUの落成式の日、私は主賓として出席した。新しい医療機器が並ぶ病室で、小さな命が懸命に生きようとしている姿を見て、私は確信した。これが私の本当の遺産なのだと。
保育器の中で500gで生まれた赤ちゃんが、小さな手を動かしていた。その姿を見守る若い母親に、私は声をかけた。
「大丈夫。この子は強い子です。きっと元気に育ちますよ」
母親は涙を流しながら頷いた。
式典で病院が私を壇上に招いてくれた。
「杉本清子さんは40年間で3000人以上の赤ちゃんを取り上げてこられました。そして今、その経験と愛情を未来の命のために捧げてくださいました」
会場から温かい拍手が起こった。その中に、かつて私が取り上げた子供たちとその家族の顔がたくさん見えた。
私はマイクを持って話し始めた。
「以前、10万円のランドセルをプレゼントした時、息子から『10万円で親ヅラするな』と言われました。でも私は親ヅラなんてしていません。ただ愛情を注いだだけです」
会場がしんと静まり返った。
「親の愛情に値段なんてつけられません。10万円のランドセルも3億円の遺産も、数字でしかありません。本当に大切なのは、その背後にある思いです」
私は深呼吸をして続けた。
「息子は私を見捨てました。でもそのおかげで私は気づいたのです。本当の家族とは血のつながりではなく、心の繋がりだということに。私の願いは、これからもこの病院で新しい尊い命を守り続けて欲しい。そしてそれが何年も続いていくこと。これが私の本当の幸せです」
私は深く一礼した。割れんばかりの拍手が響き、多くの人が立ち上がってスタンディングオベーションを送ってくれた。
夕方、マンションに戻ると窓から美しい夕焼けが見えた。一人でいることにもう寂しさは感じなかった。私には3000人の子供たちという大きな家族がいる。そしてこれからも新生児医療を通じて、多くの命と関わっていけることを誇りに思います。
——かずき、あなたは10万円のランドセルを笑った。でもそのおかげで、私は本当の幸せを見つけたの。ありがとう。
人生の最後の章を、私は誇りを持って生きていきます。助産師として、そして一人の人間として。理不尽な仕打ちに屈しない強さ。それが私の誇りです。



