父の定年退職の日、僕は父を喫茶店に呼び出して言った。「信じられないかもしれないけど、母さん浮気してるんだ」。母は家で優しい妻の顔をしていたのに、パチンコ屋の近くの店で、父ではない男にべったりと寄り添い、「60で退職させて退職金を全部もらってやる。あの家も売り払わせる」と笑っていた。自分の母親を盗聴するなんて異常だと思ったけど、父を馬鹿にされて黙っているわけにはいかなかった。録音と探偵の報告書…

父の定年退職の日、僕は父を喫茶店に呼び出して言った。「信じられないかもしれないけど、母さん浮気してるんだ」。母は家で優しい妻の顔をしていたのに、パチンコ屋の近くの店で、父ではない男にべったりと寄り添い、「60で退職させて退職金を全部もらってやる。あの家も売り払わせる」と笑っていた。自分の母親を盗聴するなんて異常だと思ったけど、父を馬鹿にされて黙っているわけにはいかなかった。録音と探偵の報告書...

最初の違和感は、まだ僕が小学生だった頃にさかのぼる。

友達の家の母ちゃんは、みんな我が子を可愛がるふつうの母親だった。でも、うちの母ちゃんは違った。今思えば、あの頃から女の匂いと金の匂いがしたんだと思う。

僕はショウタ、30歳の独身サラリーマン。54歳の母と59歳の父と三人暮らしだ。

父はもうすぐ定年。会社は65歳まで雇ってくれると言ってくれたらしいが、母が猛反対した。父がその話を持ち帰った時、母は「あなた、もう十分働いたじゃない。これからのんびり暮らしてほしいの」と、にこやかに60歳での退職を勧めたんだ。

仕事人間だった父は、家のことを全部母に任せきりにしていた負い目があった。だから少しでも早く家庭に尽くしたいと思ったらしい。でも僕には、母がそんなことを望んでいないようにしか見えなかった。

母は元から留守がちな人だった。父が出張の時の夕飯は決まってコンビニかスーパーの弁当。洗濯も掃除も嫌いで、僕は小学生の間、服を季節ごとに3着しか持っていなかった。選択が面倒だからと、服の数を減らしていたんだ。

祖母に叱られてからは服を買ってもらえるようになったが、僕が就職すると同時に「自分で自分の世話をしなさい」と、食事の支度も洗濯も一切打ち切られた。それでいて毎月、生活費として5万円を取られる。なんだかな、と思っていた。

そんな母が、なぜ父をこんなに急いで退職させようとしているのか。父がずっと家にいたら、一体どうするつもりなのか。その疑問がずっと引っかかっていた。

そんな時、久しぶりに悪友のエジから連絡が来た。

「お前の母ちゃん、パチンコ屋の近くの喫茶店で、父ちゃんじゃない男と何度も会ってるぞ」

嘘だろ、と思った。けれどエジはスマホで隠し撮りした画像を送ってきた。写っていたのは、知らない男にべったりと身を寄せて、熱に浮かされたような顔をした、僕の母だった。

エジの話では、その男と定年の話だの退職金の話だのを、ニヤニヤしながら話していたらしい。

「定年」「退職金」――それは明らかに、父のことだ。

ものすごく嫌な予感がした。この二人は、父のことで何を企んでいるんだ。

僕は二人のことを調べ始めた。しかし、自分で張り込むわけにもいかない。するとエジが言った。

「母ちゃんのバッグにボイスレコーダーを忍ばせればいいんだよ。半日はバッテリーが持つやつがある。二人が会う日にオンにしておけ」

さすが遊び人だ。こういうことには詳しいらしい。僕は超小型のボイスレコーダーを買い、母のカレンダーにハートマークと時間が書き込まれている日を確認した。次のハートマークは来週の金曜日。その日、母のバッグの奥底に、スイッチを入れたレコーダーを忍ばせた。

その時は自分でも異常なことをしていると分かっていた。自分の母親のバッグに盗聴器を入れるなんて。でも、そんなことをさせたのは母のほうだ、と怒りも湧いていた。

怒りは、録音を再生した時に頂点に達した。

『私、30年以上もよく耐えたわよ。ATMのくせに私に労いすぎだって言ったら、65歳まで働くなんて言うから、絶対ダメって言ったの。あと5年もあなたと一緒になれないなんて、待ちきれないもの。60で退職させて、退職金を全部もらってやるわ。あの家も売り払わせるから、私たちの新居を建てましょうよ』

男のほうも言う。

『君のような素敵な女性が、あの夫じゃもったいなさすぎる。新築の家で君と二人暮らせたら、どれほど幸せだろう』

父は確かに不器用な男だ。女性を喜ばせるような言葉なんて言えないし、誕生日に何を買えばいいか分からなくて、安いケーキを10個くらい買ってきたこともある。でも、父が父なりに母を大切に思っていることは、傍から見てもよく分かった。

それなのに母は、そんな父を嘲け、こんなチラついた男を選んだのか。

僕は母を強く軽蔑した。そして、父を馬鹿にして金だけ奪って逃げようなんて、絶対に許さないと心に誓った。

まずは探偵事務所に依頼して、相手の男を調べさせた。相手は母より5歳年下の独身で、そこそこ大手の会社に勤めているらしい。高級マンションに住んでいて、金回りも良さそうだった。ただし、調査中に母がそのマンションを訪れることは一度もなかったらしい。

調査結果が出る間、僕は離婚について必死に調べた。多分、父は離婚を選ぶだろう。その時、母が録音のように退職や家の売却を迫ってくるはずだ。それを阻止するために、少しでも知識を仕入れておきたかった。

2週間後、探偵から結果がスマホに届いた。すぐにでも父に知らせようと画面から顔を上げた時、カレンダーに目が止まった。

今週の金曜日。ハートマーク。母の字で「15時30分」と書いてある。

――その日は、偶然にも父の定年退職の日だった。

僕は父を呼び出した。そして、僕が半休を取って、その喫茶店で待ち合わせた。

「父さん、信じられないかもしれないけど、母さん浮気してるんだ」

父はポカンとしていた。しかし、探偵の調査書を全部見せると、呆然としながら何度も何度も読み返し、徐々に表情が怒りに変わっていった。

さらにボイスレコーダーの録音を聞かせると、父は悔しさのあまり拳でテーブルを叩き、下を向いて体を震わせた。

「……絶対に許さん」

絞り出すような声だった。

「分かったよ、父さん。僕は父さんの100%味方だから」

そう言い終わった瞬間、喫茶店のドアが開いた。想像通り、腕を絡め合いながら入ってくる母と男がいた。

母は僕と父に気づくと、真っ青になり、口をパクパクさせた。声も出ないようだった。

「今腕を組んでいる男が、お前の不倫相手だな」

父が冷たい声で言うと、母は我に返って男の腕をさっと放した。

今更遅いんだけどね。

僕は二人を席に座らせ、あのボイスレコーダーの録音を流した。母も男も、一言も発さずにそれを聞いていた。

すると父が、探偵の書類をテーブルに広げて言った。

「離婚だな」

報告書をまともに見た母は、言い訳も懇願もしなかった。

「ええ、そうしましょう。慰謝料と財産分与は、ちゃんともらうわよ」

開き直りだ。そこで僕が口を挟んだ。

「慰謝料って、不倫した側が払うんだよ。もらうのは父さん。不倫の原因はそっちでしょ」

「仕事で私に構わないくせに、無駄遣いするなとかうるさいこと言って……確かに父さんにもちょっと問題はあったかもしれない。でも、だからって他の男と浮気していいなんて法律はどこにもないんだよ。裁判しても、絶対に母さんが負けるからね」

僕が静かに説明すると、母は衝撃を受けた顔をした。しかし、それでも引き下がらない。

「じゃあ財産分与はもらうわ。あの家は私たちが結婚してから建てたんだから、権利の半分はあるんでしょ」

「確かにあの家は父さんと母さんが結婚してから建てたね。でも、そのお金はどこから出てきたか覚えてる?」

そう僕が聞くと、母は意味が分からないという顔をした。すると父が「お前は忘れてるだろうが、私の父の遺産で建てたんだぞ」と口を挟んだ。母は「あ、そう。だから何?」と平然としている。

そこで僕は、丁寧に解説してやった。

「親からの相続で得たものは、たとえ結婚している間にもらったものでも、財産分与の対象外なんだよ。つまり、あの家は父さんだけのもので、母さんには一切権利がないんだ」

そこまで言うと、母は呆然とし、目の焦点が合わなくなった。

父は、僕が母の言い分を全て潰したことに驚いて目を丸くしていたが、僕が「父さん、大丈夫だよ。ちゃんと弁護士会の相談センターで確認したから」と言うと、ほっとしたようだった。

「で、父さん、その不倫相手、どうする?」

僕が軽い口調で聞くと、心に少し余裕ができたらしい父も口元を緩めた。

「そうだな。慰謝料請求ってできるんだろう? いくらくらいかな?」

「そうだね。結構長いこと付き合ってたみたいだから、200から300万くらいかな」

僕が不倫相手の顔を見ながら答えると、その男の顔から血の気が引いていくのが見て取れた。

「いいんじゃないですか。たった300万で母さんと結婚できるんですよ」

そう言ってやると、男は無言のまま。すると母が横から口を出した。

「そ、そうよ。それくらい出せるわよね。払うって言って」

母にハッパをかけられた男は、突然立ち上がった。

「冗談じゃない。無一文のババアなんか興味ないんだよ」

そう言い放つと、そのまま席を立ち、店を出て行ってしまった。

実は、あの男が住んでいたという高級マンションは、彼の友人の持ち物だった。男は単なる居候だったらしい。だから探偵の調査員は、母がマンションを訪れるところを一度も見ることができなかったんだ。

また、大手企業に勤めていると言っても、時給制の契約社員らしい。給料はせいぜい20万といったところだろう。

それらを全て暴露してやると、母は完全に正気を失ったように凍りついていた。その母を残して、僕と父は喫茶店を出ていった。

「父さん、これからどうする?」

「そうだな。まずは役所に行って、離婚届をもらってくるか」

かなりショックだっただろうに、明るく振る舞う父は立派だった。こんな良い男を捨てるなんて、本当に母さんは男を見る目がなかったんだな。

あれから母は実家に帰ったようで、何度か父の携帯に謝罪と復縁を求める電話がかかってきたらしい。しかし父は突っぱね、弁護士を連れて母の実家まで行き、離婚届に署名させ、母の両親の前で慰謝料の支払いの約束もさせた。

母は今、両親に責められながら、必死に働いて慰謝料を払っているらしい。

我が母とはいえ、擁護の余地はない。母として妻として生きるよりも、女として欲望として生きることを選んだのだから。

僕ももう良い年だが、焦らずに時間をかけて、素敵な女性と出会いたいと思っている。

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