会議室のドアを開けた瞬間、空気が凍った。スーツ姿の役員たちが一斉にこちらを見る。その中で、一人だけが俺を指さして叫んだ。
「あ、さっきのおっさんだ!」
俺の名前は大垣正彦。アメリカでネイル会社を立ち上げ、今や約20カ国に顧客を持つ身だ。だが、今の俺の格好はTシャツにジーンズ、足元はサンダル。確かに、会議に出席するにはあまりにもふさわしくない姿だった。
「無能じじは会議に来るな」
その言葉に、俺の怒りは頂点に達した。川上という営業課長が、俺に向かってそう吐き捨てたのだ。そして、日本の社長である木村が立ち上がった。
「よさないか、川上君。この方こそがアメリカ本社の社長、大垣正彦様なんだぞ」
木村の顔色は青白く、汗ばんでいる。だが川上は臆することなく言い放った。
「だったら何だよ。さっき道端でこのじじいに捕まって、俺の時間を無駄にさせられたんだ。その付けは払ってもらう」
なんと川上は、社長の木村に対して敬語すら使っていない。こんな破天荒な営業がいてもいいものなのか。驚きと疑惑が入り混じる中、俺は決意した。
「今すぐこいつをつまみ出せ」
この日の朝、俺は東京に着いたばかりだった。ロサンゼルスから約12時間のフライトを経て、日本の地に足を踏み入れた。会社の近くで荷物を預け、散策がてらコーヒーを買って歩いていると、前方に我が社のロゴが入った鞄を肩にかけた若者が見えた。
彼は「プチ」というネイルサロンに入っていき、店員に何度も頭を下げて出てきた。礼儀正しい、いい営業態度だと思った。しかし、店から少し離れたところで、彼は突然悪態をつき始めた。
「あんな店、うちをバカにしやがって。早く潰れればいいんだ」
俺は彼に近づき、話しかけた。胸元の社員証に「川上」という名前があるのを確認できた。
「さっき、店の前で悪態をついていたけど、どうして?」
「うるせえな。商品を買ってくれないからに決まってんだろ。真心込めて頭下げてんのに、買ってくれない取引先なんて、腹が立つだけじゃねえか」
どうやら彼は本当に怒っているらしく、口調がどんどん喧嘩腰になっていく。これ以上何か言えば、手を上げられそうな気配だった。俺はその場を離れ、プチという店に足を運んだ。
店内で話を聞くと、店員はこう言った。
「あの会社のネイルはいいんですが、営業のあの人が怖くて。挨拶は素晴らしいんですが、商品説明がとにかく雑なんです。それに、売れないと店の外で叫んでいますよね。あれもマイナス評価の要因です」
つまり、商品自体は悪くない。問題は売って回る人間の方にある。そう確信した俺は、本社へと戻った。
そして、あの会議室での一幕が始まったのだ。
「無能じじは会議に来るな」
その言葉に、俺は心の中で冷静に判断した。プチの店員は、この川上の態度が原因で我が社の商品を買わないと言っていた。川上の営業担当範囲がどの程度かは知らないが、このまま放置すれば日本の売上の低下は止まらないだろう。
「今すぐこいつをつまみ出せ」
すると、先ほどから顔色の優れない女性、高野あずさ専務が立ち上がり、川上の横に立った。
「川上課長、ご退出ください」
「あ、何でだよ」
「本社社長のご命令です。退室して」
高野の言葉がきつくなると同時に、川上の怒りも増す。
「俺はさっき道端で、お前が会議は退屈だと言っているのを聞いたんだ」
「そんなこと一言も言ってないだろ!」
「いや、言った。俺は確かにこの耳で聞いた」
川上は開き直るばかりだ。せっかく退屈な時間から解放してやろうとしているのに、なぜ彼は出て行かないのだろう。
「川上課長、出て行きなさい。これ以上、会議の場を荒らすことは許さん」
川上はふんと鼻を鳴らすが、高野はますます青ざめ、木村も席を立つ。
「川上課長、君はこの会議にふさわしくない」
「俺の価値は俺が決める。他人が勝手にジャッジしてんじゃねえよ」
かっこいいことを言っているつもりかもしれないが、これはただの負け惜しみだ。ちっともかっこよくない。
「高野君」
「はい」
「総務の谷君を呼びなさい」
高野がインターホンで総務を呼びつけると、若い女性社員が入ってきた。さっき受付で荷物を預けた、谷ゆりという社員だ。
「お呼びですか? お茶のご準備なら今やっておりますので、少々お待ちください」
すると、今し方までつらかまえを見せていた川上が、目尻を下げたのだ。
「違うのよ、谷さん。川上課長に会議室から出るよう言ってくれないかしら」
「あ、はい。川上課長、この部屋から出ましょう」
すると、なんと川上が素直に立ち上がった。俺は今、何を見ているんだろうという気分になった。一人の女性社員の一言が、役員たちのそれより効くなんて、誰が想像するだろう。
俺があっけに取られていると、木村が言ってきた。
「谷さんは怒ると、ものすごく怖いらしいんです」
「え、そんなまさか」
「少なくとも、川上課長が素直に言うことを聞くには、怖いそうですよ」
俺はようやく会議室内に入り、自分の席に座って会議を始めようと提案した。そして、プチで見た川上の営業態度について話した。
「やはり、川上君はそういう態度でしたか」
どうやらみんな薄々感じていたようで、取引先から川上を出禁にしてほしいという依頼もあったそうだ。それでも川上を雇い続けているのは、彼が入社2ヶ月目で、まだ営業活動の実態が見えていないからだという。
「そもそも論なんだが、どうしてうちは川上を課長にしたんだ?」
「私のせいですね。川上課長はハローワーク経由で応募してきたんです。人材紹介会社を間に挟むと莫大な手数料がかかりますが、ハローワークなら無料ですから」
「ああ、そんな大事なところで経費を削らなくていいから」
俺は会議で決定した。川上を平社員に降格し、残りの試用期間は1ヶ月。それでも態度が改まらないようなら解雇だ。
会議が終わり、俺はトイレのために席を立った。会議室を出ると、高野は人事へ川上の降格処分の通達手続きを依頼し、木村はメール整理のために散っていく。俺は会議室でラップトップを開き、メール対応をしていた。
すると、そこに川上が入り込んできた。
「社長、降格だけは勘弁してください」
なんと今回はちゃんと敬語が使えている。やればできるじゃないかと思ったが、残念ながらもう遅い。
「俺はね、さっき君が営業してたネイルサロンでヒアリングしてきたんだ。君の営業態度は不愉快だから買わないって言ってたよ。あと、店のそばでの罵声も聞こえてた」
「そ、そんな」
俺は川上に言っておいた。平社員でも会社に残れるだけ感謝しろと。そして、試用期間の残り1ヶ月間、会社のイメージダウンにつがるようなことをしたら解雇だと。
俺はそれから3日ほど日本の会社に出社し、ロスへと戻ってきた。その間、降格になっていた川上は平社員として営業に出かけていた。しかし、彼の悪態は課長時代よりひどくなり、取引先からのクレームの電話が鳴りっぱなしだった。
同僚の営業社員が同行してみたところ、とにかく商品知識が欠けていたのだそうだ。入社2ヶ月で仕方ない部分もあるだろうが、そこを何とかするのも営業としての腕の見せどころだろう。プチでも商品説明が雑だと言っていたっけ。
結局、俺は日本で川上の解雇を決断し、やめさせた。最も、本人はどうして解雇になったのか分かっていなかった。退職届を書くのを拒否したので、谷に出て行ってくださいと言わせたという経緯がある。
あれからしばらくして、日本の高野から俺宛てにメールが入った。川上のその後について分かったことがあるのだそうだ。川上は退職してから退職手続きを徹底拒否。社会保険の脱退についても手続きに抵抗していたそうだ。そこで、谷が大活躍したのだという。なんと谷は川上の自宅まで行って、保険証を回収し、川上がどうしても書きたくないと言っていた退職届を書かせたのだそうだ。
一体、怒った谷とはどういう感じになるのだろう。知りたいような、知るのが怖いような複雑な気分だった。
それから、これも実話の一つだが、川上はコスメ業界で悪名高い人物だったようだ。同業他社は、なぜ川上がうちの会社にいるのか不思議に思っていたらしい。これからは採用する時、リファレンスという前職紹介をすることにしようと、全部署に徹底通達しておいた。
川上を退職させた効果と、会議で決めた経営戦略の実践の効果が出始めたのは、あの会議の3ヶ月後ぐらいからだろうか。新しく入った川上の後任は、同業他社からの転職者で、真面目で商品知識にたけているそうだ。日本の会社の財務諸表を見ても、売上は右肩上がりに転じた。
こういう結果につがるから、会議は退屈なものじゃないのにな。俺は以前、川上が退屈だと言っていたことを思い出した。まあ、やめてしまった人間のことを考えていても仕方ない。
俺は次なる出張地を目指して準備を進めると共に、日本のネイル売上の右肩上がりが維持できればいいなと思っている。新たな活力を与えてくれる営業課長、堅実な社長、やり手の専務がいれば、大いに期待できるだろう。



