「さきさん、今日から私も同居するわ。当然、あなたに拒否権なんてないわよ。嫌なら息子と離婚していいからね」
大荷物を抱えてやってきた義母は、いきなりそう宣言した。普通なら怒り出してもおかしくない場面だったが、私は満面の笑みを浮かべて言った。
「いいんですか? ありがとうございます。では、今すぐ出ていきますね」
義母の口が半開きになり、目が丸くなった。彼女は私が涙を流して抵抗するか、せいぜい口論になる程度だと思っていたのだろう。
「お母さん、拒否権がないのはあなたの方ですよ。私が分からせてあげますね」
「ち、ちょっと待ちなさい。そんなつもりで来たんじゃないの!」
彼女は慌てて両手を振り、取り繕おうとする。私は何も答えず、クローゼットを開けてスーツケースを取り出し、衣類を詰め始めた。
「冗談よ、冗談。そんなに真に受けないでよ」
部屋の中をうろつきながら必要なものを集める私を、義母は焦った様子で追いかける。私は手を止めず、淡々と荷造りを続けた。
「何勝手なことをしてるの? あなた、本気なの?」
ようやく自分の言葉が現実になろうとしていることに気づいたのか、義母の脸色が変わる。私はスーツケースのチャックを閉めると、ようやく義母に向き直った。
「出て行けと言ったのはあなたです。私はそれに従っているだけです。あと、元々優馬さんとは離婚するつもりでした。手続きも進めていますので」
義母の表情が凍りつく。期待していた反応とあまりにも違う現実に、彼女は言葉を失ったようだ。額には薄い汗が浮かび、息が荒くなっている。
「何を言ってるの? なぜ? 優馬は何かをしたの?」
「優馬さんは浮気をしています」
「そんなはずないわ! うちの息子がそんなことするわけない!」
想定内の反応だった。息子を盲目的に信じる彼女の姿は、ある意味で哀れにさえ思える。
「証拠はありますよ。私の話、聞いてもらえますか?」
義母は言葉を失い、ソファーに腰を下ろした。私もテーブルを挟んで座り、重い口を開いた。
全ては2ヶ月前、優馬が地方への長期出張を命じられた時から始まっていた。
「なんで俺が行かなきゃならないんだよ。他の人間がいるだろう」
出発前夜、優馬は不満を口にしながらスーツケースに荷物を詰めていた。彼の長期出張が決まったのは突然だったが、会社の命令には逆らえない。新規開拓の重要なプロジェクトだという。彼の顔には疲労の色が見えた。
優馬は私の父の会社で働いている。父は「会社の将来のために、優馬君に責任ある仕事を任せてみたい」と言っていた。きっと無事に成長してほしいという願いも込められていたのだろう。
「せっかくの機会だから、頑張ってきてね」
「ああ」
そっけない返事と共に、優馬は準備を終えた。翌朝、彼を駅まで見送り、いつものように「気をつけてね」と声をかけると、彼は少し戸惑ったように見えた。
それが、普通の夫婦としての最後の朝になるとは、その時は思いもしなかった。
出張から1週間が経った頃、優馬の様子がおかしいと感じ始めた。それまで毎日のように送っていたメッセージの頻度が激減し、私が電話をかけても出ないことが増えた。既読すらつかない時もある。たまに返事が来ても、「忙しい」「後で連絡する」といった短いものばかりだった。
「忙しいんだよ。いちいち連絡できないって」
たまにかかってきても、その態度は素っ気なく、常に言い訳が続いた。彼の声にはイライラした色が混じっていた。おそらく彼は、私が疑念を抱き始めていることにも気づいていたのだろう。
それでも私は最初は「仕事が忙しいのかもしれない」と思い込もうとした。出張先での業務が大変なのだろうと自分に言い聞かせた。
しかし、あまりにも不自然な言動が続いた。電話をかけても「会議中」と切られるようになり、「週末にちょっと帰れるかも」と言っていたのに、突然「やっぱり無理」と連絡が来た。何より、彼の声に以前のような温かみが感じられなくなっていた。
「優馬、もしかして浮気してない?」
電話で切り出した私の言葉に、優馬の反応は想像以上に激しかった。一瞬の沈黙の後、彼の声が爆発した。
「なんだよ、いきなり。根拠もなく疑うのはやめてくれよ。信じられないな」
逆切れした彼は、反対に私を攻め始めた。これまでの冷たい態度とは打って変わって、声は感情的になっていた。
「お前のそういうところが本当に嫌い。いちいちしつこいんだよ。仕事で疲れて帰ってきたのに『どこに行ってたの?』『誰と会ってきたの?』って。友達と飲みに行くだけでもいちいち詮索してスマホをチェックしようとするし、息が詰まるんだよ。男にだって自由な時間が必要なんだ。そもそも俺が浮気するわけないだろ。お前みたいな優秀な妻がいるのに、そんなリスクを犯すわけないじゃないか。本当に信頼ってものがないんだな」
こんな風に責められるとは思わなかった。それに、彼が言うようないちいち詮索なんてしていない。むしろ彼の帰りが遅くても「仕事大変だったね」と労ってきたはずだ。彼の言葉は事実と違っている。まるで私が悪者であるかのように話をすり替えている。そんな彼の反応に、逆に確信に近いものを感じた。
そして数日後、彼からの荷物が届いた。
「そんなに疑うなら、これでもくれてやる。好きにしろよ」
宅配便で送られてきた封筒を開けると、そこにはサイン済みの離婚届。さらに添えられた短いメモには「これで満足か」と書かれていた。私は何も言わずに離婚届を引き出しにしまった。
この時はまだ、これが武器になるとは思わなかった。
会社で信頼している社員、加藤さんが優馬と同じ出張先にいることを思い出したのは、離婚届を受け取った翌日のことだった。加藤さんは父が信頼している部下で、私も数年前から仕事で関わることが多かった。几帳面で誠実な彼なら、状況を客観的に見てくれるだろう。
「もしもし、加藤さん。少しお話があるのですが」
「どうされましたか、さきさん?」
「実は最近、優馬の態度が冷たくて。現地で何か知っていたら教えてほしいんです」
戸惑いながらも、私は正直に話した。プライベートな相談をするのは気が引けたが、他に頼れる人がいなかった。加藤さんは少し考え込んだ後、頷いた。
「分かりました。さりげなく様子を見ておきます。何か気になることがあれば、すぐにご連絡します」
加藤さんの言葉に、わずかな希望を感じた。情報が分かれば、どう対処すべきか判断できる。真実を知りたい。それだけだった。
そして数日後、加藤さんから電話がかかってきた。予感はしていたものの、その内容は私の心に突き刺さるものだった。
「さきさん、申し上げにくいのですが……優馬君が、取引先の女性社員と食事をした後、彼女のマンションに入っていくのを目撃しました」
息を飲む私。それでも冷静さを保った。心臓の鼓動が早くなるのを感じながらも、声が震えないように務めた。
「すみません。こんなことを報告するのは心苦しいのですが、知っておくべきだと思いまして」
「ありがとうございます。証拠はありますか?」
「証拠として写真を撮りました。よろしければお送りします」
「お願いします」
数分後、スマホに届いた画像を見て、私の中の何かが冷たく凍りついた。そこには、優馬が若い女性と腕を組み、笑顔でマンションに入っていく姿が映っていた。女性の顔ははっきりとは見えなかったが、間違いなく優馬だった。スーツ姿で、彼女の腰に手を回し、何かを話して笑っている。私には見せたことのない表情だった。
「この女性は、取引先のマーケティング部門の社員だそうです。現地スタッフから聞いたところ、最近よく一緒にいるとのことでした」
加藤さんの言葉で、状況がさらに明確になった。一度きりの浮気ではなく、継続的な関係だったのだ。もう言い逃れはできない。これが現実だ。
「分かりました。本当にありがとうございます」
電話を切った後、私は長いこと写真を見つめていた。気持ちの整理がつかないまま、しばらくぼんやりとしていた。
そして、ふと思い出した。私は優馬から受け取っていた離婚届を引き出しから取り出す。彼が脅しのつもりで渡したものが、皮肉にも私の武器になるとは。サイン済みの離婚届を手に、私は決意を固めた。もう迷いはなかった。
「それで、今に至るというわけです」
私の話を最後まで聞いた義母は、呆然とした表情でソファーに座り込んでいた。彼女の目は焦点が合っていない。両手を膝の上で握りしめ、時折頭を小さく振っている。
「うちの息子が……」
声を震わせる義母に、私は冷静に続けた。
「弁護士には連絡済みです。浮気の証拠も整理しました。父には全て報告し、父は優馬さんの即時解雇を決定しました。加藤さんの証言と証拠写真も提出済みです」
社長の娘という立場でこのような不祥事を起こしたことは、会社の信用と評判に関わる重大なことと見なされた。父は自分の娘より会社の信用を優先する人だ。家族経営の会社として、このようなスキャンダルは許されないと判断されたのだ。
私はスマホを取り出し、写真を見せた。優馬が女性と寄り添って笑う姿。暗めの写真だが、その内容は明確だ。
義母は写真を見て、ハンカチを口に押し当てた。震える指で画面を差し、何か言おうとするが言葉にならない。
「あとは優馬さんに浮気のことを突きつけ、離婚届を提出するだけです」
義母は呆然と写真を見つめ、言葉を失っていた。その顔には、これまで見せたことのない弱々しさが浮かんでいた。いつもの高圧的な態度はどこへやら。今はただの、ショックを受けた年配の女性だった。
私は立ち上がり、スーツケースを手に取った。もう言うべきことは全て言った。残る選択肢は一つしかない。
「お母さん、あなたが今日ここに来て私に出て行けと言ったことに感謝します。これで迷いなく前に進めます」
最後に振り返ると、義母はまだ動けないでいた。右手でハンカチを握りしめ、左手で胸元を抑えている。息子の将来と自分の立場が危なくなったことを実感し始めたのだろう。
私はドアを開け、一歩踏み出した。
新しい人生への一歩。
冷たい風が頬を撫でるが、心はすでに温かい解放感に包まれていた。もう誰にも縛られない。自分の人生を自分の手で取り戻す時が来たのだ。
背後では義母の弱々しい声が聞こえる。
「さきさん、待って。話し合いましょう」
しかし、私は足を止めずにエレベーターのボタンを押した。閉じるドアの向こうで、義母が呆然と立ち尽くす姿が見えた。私たち二人の間にあった力関係が、完全に逆転した瞬間だった。
父の所有するマンションへと向かう車の中で、私は考えていた。これまでの結婚生活を振り返り、どこで間違ったのかと。
結婚前の優馬は、こんな人ではなかった。謙虚で優しくて誠実だと思っていた。母子家庭で育った彼の真面目さに惹かれたのだ。私が優馬と出会ったのは、父の会社のパーティーだった。当時彼は父の会社に入社したばかりの新入社員。スーツ姿で丁寧な物腰の彼に、私は一目で惹かれた。
交際から結婚までは順調だった。父も彼の仕事ぶりを評価していたし、将来有望な人材だと考えていた。結婚後、優馬は婿として父の会社で働き続け、私は都内の別の企業で自分のキャリアを築いていった。
しかし、結婚後、少しずつ彼の態度は変わっていった。最初は小さな嘘から始まった。残業で遅くなると言いながら、酒の匂いをぷんぷんさせて帰宅する夜。会社の付き合いだからと強調するものの、なぜかシャツの襟に口紅がついていることもあった。
そして、義母との関係も徐々に悪化していった。結婚当初は「お嫁さんに来てくれてありがとう」と言っていた彼女が、いつしか高圧的な態度で私を見下すようになった。優馬は母親と私の間に立つこともなく、むしろ親の味方をすることが多くなっていった。
「母さんは俺のためを思ってるんだ。感謝しろよ」
そう言いながら、義母からの無理な要求やお金の無心も、彼は全て飲んでいた。私の給料や貯金にまで手を伸ばそうとする二人を見て、なんとなく違和感を感じていたものの、「家族だから」と思って目をつぶってきた部分があった。
父はそんな状況を見て、何度か忠告してくれていた。
「優馬を信用していいのか? 会社での様子もどうも」
そんな父の言葉も、当時は「仕事のストレスなのよ」と軽く流していた。今思えば、父は会社内での優馬の不審な動きにもうすでに気づいていたのかもしれない。
マンションに着き、スーツケースを置いた私は、窓から夜景を眺めた。東京の町の明かりが輝いている。まるで新しい人生の始まりを祝福しているかのようだった。スマホを取り出し、離婚届の写真を見つめる。明日、これを提出しよう。そして、新しい生活を自分の力で切り開いていこう。義母に振り回されることなく、自分らしく生きていくために。
それから1週間、私は父の所有するマンションで静かに暮らしていた。仕事に集中し、新しい生活のリズムを作る。時折、鏡の前で「これでいいんだ」と自分に言い聞かせることもあった。優馬には新居の場所を伝えていなかったが、それが何よりの平穏だった。
休日の午後、チャイムが鳴った。モニターに映ったのは、優馬と義母の姿。驚きと共に警戒心が高まる。新居の場所は伝えていないはずだ。心臓が高鳴るのを感じながら、緊張した手つきでインターホンを取った。
「どなたですか?」
「さき、俺だよ。話がしたいんだ」
慎重にドアを開けると、優馬が哀願するような目で私を見つめていた。以前の堂々とした態度はどこへやら。肩を落とし、目の下にはくまができていた。その横では義母が険しい表情で立っている。
「先に話を聞いてくれ」
「どうやって私の住所を知ったの?」
「探偵を雇ったんだ。お前のことが心配で、どこにいるのか、元気にしているのか知りたくて」
思わず笑ってしまいそうになる。「心配だなんて」。彼の言葉はいつも美しく聞こえるが、中身が伴わない。
「心配? 探偵を雇うほど? それってただのストーカー行為じゃない?」
「違う。そうじゃないんだ。ただ俺は、お前がいないとダメなんだ。仕事も失って、頼れるのはお前しかいない」
本音が見えた。心配ではなく、自分が困ったから私を頼りにしようとしているだけ。私は冷静を保ちながらも、ドアを全開にはしなかった。
「何の用か、手短に言って」
「頼む。中に入れてくれないか。ちゃんと説明したいんだ。話を聞いてくれるだけでいい」
「さきさん、息子の話を聞いてあげなさいよ。そのくらいの義理はあるでしょ」
義母の皮肉めいた言葉に胸が痛んだ。彼らの辞書には「誠実」や「信頼」という言葉はないのだろうか。迷いながらも、一度は話を聞くべきだと判断した。これが最後の対面になるかもしれない。全てをはっきりさせるチャンスでもある。
「15分だけよ。それ以上は無理」
ドアを開け、二人を中に案内する。優馬は落ち着かない様子で椅子に座り、義母は私の部屋を観察するように視線を巡らせていた。
「さき、全て話す。浮気したのは事実だ。でも、理由があるんだ」
私は言葉を返さず、彼の目を見つめた。そこに本当の後悔の色があるのか確かめるように。でも見えたのは、自分の立場を守ろうとする焦りだけだった。
「仕事のストレスが溜まってたんだ。あんな遠い場所に飛ばされて、毎日のプレッシャーで、お父さんからの期待も重すぎて、『社長の娘婿』って肩書きが重くて、みんなが俺の失敗を待ってるんじゃないかって思ってた」
聞き慣れた言い訳だ。
「たまたま気が緩んだだけなんだ。一度きりのことで、本気じゃなかった。あの子は新入社員で、俺に憧れてるみたいだったんだ。単なる気の迷いだよ」
写真では笑顔で腕を組んでいた彼の姿が思い浮かぶ。「一度きり」という言葉が嘘に聞こえた。加藤さんは「最近よく一緒にいる」と言っていたから。
「あの子が強く誘ってきて、断れなかったんだ。『先輩、今日は飲みに行きましょう』って言われて、断ると会社での関係が気まずくなるかもって。俺が悪いのは認めるけど、本当はさっきのことを考えていたんだよ。毎晩お前のことを思い出しては後悔してた」
次々と並べられる言い訳に、私は冷静に耳を傾けた。彼の話からは一貫して「自分は被害者だ」という主張が透けて見える。自分の責任から目をそらし、状況や他人のせいにする。
「それに、俺寂しかったんだよ。お前が冷たいから。最近のさきは仕事ばかりで、俺の話も聞いてくれなかった。帰ってきても『お疲れ様』くらいで、もっと俺を気にかけてくれたら、こんなことにはならなかったのに」
そして最後は私のせいにする、典型的なパターンだった。彼は自分の非を認めるように見せかけて、最後には「でも、本当は君が原因だよ」と責任転嫁する。
「浮気の言い訳をしに来ただけなら、帰ってほしいんだけど」
「さき、やり直せないか。もう二度としない。誓うよ。今度こそ、ちゃんとした夫になる。お前が望むなら、お前の父親の会社もやめて、一から出直す。だから……」
かつては心を動かされたかもしれない言葉。彼は昔からこうして甘い言葉で私の心を掴むのが上手だった。でも、今は違う。彼の言葉の裏に真実を見ることができた。彼は「一から出直す」なんて本気で思っていない。行き場を失った今、私を頼るしかないだけ。
「やり直す? あなたが離婚届を突きつけたんでしょ? 私はそれを受け入れただけ。あなたは『好きにしろよ』と言ったのよ」
「あれは冗談だった。お前が許してくれると思ってた。俺が怒りに任せて言ったことを、まさか本気にするとは思わなかった」
「今度は冗談なの? あなたはいつも自分の都合のいいように言葉を変える。調子がいい時は強気で、困った時は弱音を吐く。もうその繰り返しには付き合えないわ」
静かに、しかし断固とした口調で言い切った。
「それに、私たちは法的に他人よ。離婚届を提出したからね」
「あなたが署名した離婚届、それを使ったの? なんだって? 待ってくれ。それは……」
その時、横で黙って聞いていた義母が突然立ち上がった。彼女の顔は怒りで歪んでいた。
「何を言ってるの! 息子が謝ってるでしょ? あなたが許さないから、こんなことになってるのよ! そもそも男なんてみんなそうよ。浮気くらいで大げさに離婚だなんて。あなたこそ、妻としての自覚がなかったのよ!」
彼女の声が部屋に響き渡る。その言葉には、昔から抱いていた敵意と侮蔑が詰まっていた。
「お母さん、静かにしてください。ここは私の家です。私の人生をあなたが決めることはできません」
「生意気な! 息子を解雇させたのもあなたでしょ! 恨んでやるわ! 優馬の人生を台無しにして!」
義母の声が次第に大きくなり、彼女は手近にあった花瓶を床に投げつけた。ガラスの砕ける音と共に、状況は一変した。彼女の目は異様な光を帯び、正気を失ったかのようだった。
「さき、落ち着いてくれ。母さんは興奮しているだけだから」
「絶対に許さないわよ! 息子の人生を台無しにして! あなたなんか最初から気に入らなかったのよ! 社長の娘だからって、私を見下して!」
彼女の叫び声は止まらず、優馬は彼女を抑えようとするが、義母は私に向かって指を突きつけ、罵声を浴びせ続けた。
「あんたみたいな女が、息子の嫁になるなんて最初から反対すべきだった! この恩知らず! 私たちがどれだけ苦労してきたか知らないくせに!」
マンションの壁は薄い。隣人にも聞こえているだろう。壁を叩く音が聞こえ始める。
それから30分ほど経過すると、インターホンが鳴った。警察だった。
「通報があったのですが、少しよろしいでしょうか?」
警察官が中に入り、状況を確認している。床には砕けた花瓶、興奮する義母、そして取り乱した優馬。もう一人の警察官は、部屋の様子を注意深く観察していた。
「あの女が息子を騙したんです! 私たちは何も悪くない! 彼女が勝手に離婚届を出したんです!」
「母さん、落ち着いて。ここでそんなことを言っても……」
優馬は義母を黙らせようとするが、彼女は止まらない。
「あの子はうちの息子を利用してたんです! 会社でも息子を落とし入れて!」
私は冷静に警察官に向き直った。このような状況でも感情を抑えることができる自分に、少し驚いた。
「私が通報したのではありません。おそらく騒音で隣人が。この二人は私の元夫と元義母です。私の住所を探偵を使って突き止め、勝手に訪ねてきました」
「状況を詳しく説明していただけますか?」
私は簡潔に事実を説明した。離婚の経緯、今日の訪問、そして義母の暴言と花瓶を壊した行為について。証拠の写真も見せた。警察官はメモを取りながら、時折頷いていた。
「違います! さっきは誤解しているんです! 俺たちはただ話し合いに来ただけで、彼女は俺の知らないうちに離婚届を提出したんです! それはおかしいでしょ?」
「あなたは離婚届に署名されたのですか?」
「それは……でも、冗談で……」
警察官が優馬に身分証明書の提示を求めた。その間にもう一人の警官が義母を別の場所に連れていき、話を聞いている。部屋の中は一気に静まり返った。
「こちらの住所は、あなたの住所ではないようですが」
「ええ。最近まで一緒に住んでいたんですが……」
警察官は状況を整理し、義母と優馬に対して注意を与えた。特に義母の器物損壊については、被害届を出すかどうか私に確認してきた。
「届けは出しません。ただ、二度と近づかないでほしいだけです」
「分かりました。お二人には警告を出しておきます。再度近づけば、ストーカー行為として対処します」
二人は一時的に警察署に同行することになった。ドアの外には、騒ぎを聞きつけた近隣住民が数人集まっていた。彼らの呆れた目を受けながら、優馬と義母は警察官に連れていかれた。
私は静かに彼らを見送り、壊れた花瓶の破片を拾い始めた。これで終わりではないことは分かっていたが、少なくとも今日は平和を取り戻せそうだった。部屋に流れる静寂が、心地よく感じられた。
その週の終わり、父から電話がかかってきた。
「さき、会社の経理部から報告があったんだ。優馬と彼の母親についての件だ」
その声には珍しい緊張感があった。父はいつも冷静な人だったが、今日は違っていた。
「どうしたの、お父さん?」
「会社の経費から、優馬と彼の母親の名義で不正使用があったことが発覚した。相当な額だ。レシートの改ざん、架空の出張費の水増し……組織的にやっていたようだ」
新たな衝撃に、一瞬言葉を失う。浮気だけでも許せないのに、会社のお金まで。優馬の本性は想像以上に醜かった。
「優馬の口座への不審な入金も見つかった。詳しい調査の結果、彼の母親が経費を不正に流用していたことが判明した。優馬も加担していたようだ。最初は小さな額だったが、次第に大きくなっていった。さき、迷うことなく警察に通報した。彼女は横領の容疑で逮捕されるだろう。優馬も共犯として取り調べを受けることになる」
「お父さん……」
「申し訳ない。私の見る目がなかったんだ」
情報を整理しながら、私はソファーに腰を下ろした。父の声が続く。
「最初は小さな金額だったようだ。交通費の水増しや、存在しない接待の経費申請。しかし次第にエスカレートして、個人の口座に会社のお金を流すようになった。調べてみると、優馬が入社してすぐの頃から始まっていたらしい。彼は最初から私たちを騙すつもりだったのかもしれない」
父の声には、深い悔恨が混じっていた。
「会社の信用に関わる重大な問題だ。甘く見ていた私の責任でもある。さき、お前には本当に申し訳ない」
「お父さんは悪くないわ。優馬は私たち全員を欺いていたの」
「さき、もう申し訳ない。お前に彼を紹介したのは私なのに。あの時もっと慎重に見極めるべきだった」
父の声には珍しく後悔の色が滲んでいた。いつも泰然としている父が、こんな風に自分を攻めるのを聞くのは辛かった。
「自分で選んだことよ。責任は私にもあるわ。でも、過去は変えられない。これからどうするかが大事だと思う」
父は沈黙し、そして掠れた声が帰ってきた。
「そうだな。お前は強くなった。誇りに思うよ」
電話を切った後、私は呆然と窓の外を見つめた。優馬と義母の行動は想像以上に醜かった。それでも不思議と、怒りよりも疲労感の方が強かった。これで本当に終わりにしたい。新しい生活を始めるために。
それからの日々は、まるで嵐の後の静けさのようだった。時折、優馬の近況が耳に入ってきた。彼は横領の共犯として起訴され、執行猶予つきの判決を受けたという。しかし、仕事も家も失い、母親の借金返済まで背負わされ、どん底の生活を送っているとのこと。アルバイトを点々としながら、借金取りに追われる日々だと聞いた。彼の銀行口座は差し押さえられ、持っていたマンションも売却処分に。以前の華やかな生活とは正反対の世界に投げ込まれたようだ。
義母は健康を崩し、ほぼ寝たきりになったという話も。刑事裁判のストレスで脳梗塞を起こし、右半身が不自由になったらしい。二人は地域でも迷惑者として孤立しているという。かつての傲慢な態度が、周囲の人々の記憶に残っていたのだろう。
私は彼らのことを考える時間が徐々に減っていった。会社の仕事に集中し、父や社員たちに支えられながら新しい日常を作り上げていた。加藤さんも私の父の良き右腕として、会社の立て直しに尽力してくれていた。不正会計の穴を埋めるのは容易ではなかったが、少しずつ会社は元の軌道に戻りつつあった。
あれから半年が経った春の午後、私は買い物帰りに偶然彼らと再会した。路地の角で、ボロボロの服を着て自転車を押す優馬と、杖をついた義母の姿を見つけた瞬間、私は足を止めた。彼らも私に気づき、目を見開いた。
「さき……」
彼の声は震えていた。髪は伸び放題で、顔色も悪い。一気に老け込んだように見える。以前の自信に満ちた表情はどこにもなく、今は疲れきった中年男性がそこにいるだけだった。義母も明らかに痩せ衰えていた。かつての高圧的な態度は影も形もなく、今はただ疲れた老婆に見えた。杖をつきながら、懸命に前に進もうとしている姿が痛々しい。
「さき、助けてくれ。もう生きられないんだ。借金の返済も、母さんの薬代も払えなくて……」
優馬が涙ながらに近づいてきた。彼が私の腕にすがろうとしたが、私は一歩後ずさった。この男は浮気だけでなく、会社のお金まで横領していたのだ。いくら困っていても、もう関わりたくはなかった。
「優馬さん、もう私たちは他人です」
その言葉に、彼は崩れ落ちそうになった。顔から希望の色が消え、肩がさらに落ちる。
「さき……」
義母が弱々しい声で呼びかけてきた。私の名前を呼ぶ彼女の声には、かつての敵意が消え、代わりに諦めと後悔が混じっていた。
「本当にごめんなさい。私は、あなたに嫉妬していたの」
彼女は杖に体重を預けながら、か細い声で話し始めた。その姿は半年前の高圧的で強気な姑とは別人のようだった。
「シングルマザーとして一人で育てた息子を、あなたに奪われたと思ったの。優馬は私の唯一の生きがいだった。彼が結婚すると決めた時、私の心は張り裂けそうだった」
義母の目から涙がこぼれた。彼女の感情は計算でも演技でもなく、本物の後悔に見えた。
「あなたが裕福な家庭で育ち、両親に愛されていることにコンプレックスを感じていたわ。私の貧しい過去と比べて、料理がうまくて仕事もできて若くて美しいあなたに、嫉妬していたのよ」
彼女は肩を震わせながら続けた。
「嫁を貰うことにも屈辱を感じていた。本来なら息子が嫁を迎えるべきだと思っていた。だから、あなたに敵意を向け続けてきたの。私が間違っていた。あなたは正しかった。優馬も……自分たちで自分の首を締めてしまった。本当に申し訳なかった」
真摯な謝罪の言葉に、私は何も言えなかった。しかし、心の奥底では、これが本当の謝罪なのか、それとも単に追い詰められた状況からの打算なのか、見極めようとしていた。どちらにしても、私の中では彼らへの感情は薄れていた。
「お母さん、もう過去のことです。私はこれからは自分の人生を、自分のために生きていきます。あなたたちのことはもう恨んでいません。でも、これからは別々の道を歩みましょう。お互いのために、それがいいと思います」
義母は小さく頷き、優馬は言葉もなく俯いていた。
かつて愛した人。そして、一度も心を通わせることのできなかった義母。二人の姿は、もはや私の人生の主要な部分ではなくなっていた。
「さようなら」
そう言って、私はその場を去った。振り返らなかった。これで本当に終わりにするために。背後では優馬が何か叫んでいるようだったが、もう耳に入らなかった。新しい道へと進む私の心には、不思議と晴れやかさが広がっていた。
それから3ヶ月が過ぎた夏の日、父が私を呼び出した。
「さき、会社のことで話があるんだ」
父の顔は真剣だった。心配になる。
「私も年だ。そろそろ会社の将来を考えなければならない」
「お父さん、まだまだ元気じゃない?」
父は微笑を浮かべたが、それでも決意は揺がないようだった。
「いや、準備は早い方がいい。特に後継者の問題はな。優馬の件で会社は大きな傷を負った。信用を取り戻すには、強いリーダーシップが必要だ」
私は息を飲んだ。父が会社の後継ぎについて話すのは初めてではなかったが、今回は特に真剣な様子だった。
「さき、お前に会社を継いでほしい」
私の目に狂いはなかった。
「お前には経営者としての資質がある。冷静さ、決断力、そして何より誠実さだ」
私の中で、何かが動いた。子供の頃から「いつか父の会社を継ぐかもしれない」という意識はあった。しかし、それが現実として目の前に現れると、考え深いものがあった。
「加藤君も強く推薦してくれている。彼は『さきさんなら必ずや会社を成長させてくれる』と言っていた。社員たちも、お前の泰然とした態度と誠実さを尊敬している」
加藤さんの言葉に、胸が温かくなった。彼は父と共に会社を支えてきた人物。その彼が私を認めてくれているということは、大きな自信になった。
「考えさせてもらえる? すぐには答えられないわ」
「もちろんだ。急かすつもりはない。ただ、お前の強さを見て確信したんだ。あの一件で、お前は冷静に毅然と立ち向かった。会社を牽引するには、そういう強さが必要だ。目の眩むものを見抜き、正しい判断ができる人間でなければならない」
「ありがとう。お父さんの期待に答えられるよう、頑張るわ」
その夜、私は長い時間考えた。自分の人生、そして会社の未来について。優馬との離婚は辛い経験だったが、それが私を強くした。自分の価値を見失わず、正しいと思うことを貫く勇気を与えてくれた。
窓から見える都会の夜景を眺めながら、私は決意した。父の会社を更に発展させよう。失われた信用を取り戻し、従業員とその家族の生活を守るために。自分の力で、自分の道を切り開いていこう。
1年後の夏、私は社長室の椅子に座っていた。父はまだ会長として会社に関わっていたが、実質的な経営権は私に移行していた。加藤さんは専務として私を支え、会社は新たな成長期を迎えていた。
「社長、新規プロジェクトの提案書ができました」
部下が恭しく書類を持ってきた。「社長」と呼ばれるのはまだ慣れない。でも少しずつ、自分の存在が会社に定着していることを実感していた。
「ありがとう。よく頑張ったわね」
部下の顔が嬉しそうに輝くのを見て、私も微笑んだ。かつての父のように、厳しくも温かい社長になりたいと思っていた。優馬の時代の暗さを払拭し、社員が安心して働ける環境を作る。それが私の使命だった。
そんなある日、私はオフィスの窓から外を眺めていた。目に入ったのは、向かいのビルで工事をしている作業員たち。その中に、見覚えのある姿があった。優馬だった。ヘルメットをかぶり、作業着で足場を組み立てている。彼は気づいていないようだったが、明らかに彼だった。以前よりも痩せて日に焼けていたが、表情は意外にも穏やかだった。重い荷物を黙々と運び、指示に従って作業している。
かつての傲慢な態度は消え、素直に仕事をこなしている姿に、少し驚いた。
驚いたことに、私は何も感じなかった。怒りも悲しみも、哀れみさえも湧かなかった。ただ、彼が自分の道を歩んでいることを、静かに認識するだけ。人は変わるのかもしれない。苦労の中で本当の自分を見つけることもあるのかもしれない。でも、それはもう私には関係のないことだった。
加藤さんがノックして入ってきた。
「社長、新規プロジェクトの資料ができました。取引先との打ち合わせの準備は整いました」
「ありがとう、加藤さん。一緒に見ましょう」
私は優馬から視線を外し、加藤さんと資料を確認し始めた。過去ではなく、未来に集中することにした。私の人生は、もう十分に前に進んでいたのだから。



