彼の言葉が午後のリビングに響き渡った。賢介は離婚届けをテーブルに押し出し、私を見下ろしていた。
「もうお前を養いたくない。離婚届けにサインしてくれ。25年もお前を養ってきた。もううんざりなんだよ。俺には新しい人生がある」
得意げな口調だった。私は黙ってその顔を見つめ返した。心の中で、ようやくこの日が来たと呟いていた。
私は森下咲子。48歳。商店街の総菜屋でパートとして働いてきた。午前5時半には目覚まし時計の前に目が覚める。台所で味噌汁の支度をしながら、母の形見の万年筆で家計簿を記した。それは父・桜井信夫が遺した小さな箱の中にあった。誰にも見せたことのない、もう一冊の家計簿。父は亡くなる前にこう言い残していた。
「咲子、困った時はこの箱を開けなさい。そして霧谷先生を頼りなさい」
その言葉の意味を、私は結婚生活の中で少しずつ理解していくことになる。
賢介と出会ったのは25年前。父の店に出入りしていた営業マンだった。誠実で真面目な人に見えた。結婚の話を父に切り出した時、父は珍しく表情を曇らせたが、最後には私の意思を尊重してくれた。最初の数年は穏やかだった。娘のリオが生まれ、家族3人で過ごす日々。しかし、リオが小学校に上がる頃から賢介の様子が変わってきた。営業課に移動になり、帰宅時間が遅くなり、家にいても無言でテレビを眺めるだけになった。
朝食を並べても、おはようもいただきますもごちそうさまも、もう何年も聞いていない。リオが東京へ出てから、家の中の空気は完全に変わっていた。
ある日、夕食の席で賢介が言った。
「ったく、こんな安っぽいおかずか。俺にはもっとマシなもん食わせろよ」
魚なんて年寄りの食い物だと吐き捨てた。言い返したところで機嫌が悪くなるだけだと、私は黙って箸を進めた。飲み始めると、賢介は自慢話を始める。
「俺がいるからこの家が回ってんだ。お前とは住む世界が違うんだよ」
かつては公園でリオとキャッチボールをする優しい父だった。しかし営業先でトラブルを起こして会社を辞めてから、賢介は過去の栄光ばかりを語るようになった。酒に溺れる日々が増え、帰宅時間は深夜になっていく。
変化に気づいたのは、賢介のまとう匂いが変わった時だった。酒とタバコに混じって、見慣れない甘い香りが漂うようになった。ワイシャツに残る口紅の跡。寝室の床に落ちていた女物のヘアピン。私は無言でそれらを引き出しの奥にしまい込んだ。怒りも驚きも、不思議と湧かなかった。ただ、証拠を集めている自分がいた。
週末になると、賢介の振る舞いは一層露骨になった。クレジットカードの明細を無造作にめくりながら、俺が汗水垂らして稼いだ金だぞと怒鳴った。私は明細を受け取り、無言で引き出しにしまった。賢介は友人とゴルフに出かけると言い、新しいウェアに袖を通していった。私の作る弁当はまずいと吐き捨て、店で知り合った「セリナちゃん」の名前を酔った口調で呼んだ。
「セリナちゃんの弁当が食べたいなあ」
その言葉を聞いた翌朝、私は冷蔵庫の前で決心した。もう弁当は作らない。
「今日はありません」
「ああ?どういうことだよ」
「セリナさんの弁当が食べたいんでしょ。私の作る弁当はまずいそうですから」
賢介は真っ赤な顔で何も言い返せず、玄関を出ていった。
数日後、その報復が店まで飛んできた。昼時の商店街に、義母が怒鳴り込んできた。賢介が弁当を作ってもらえないと義母に泣きついたのだ。51歳の男が母親にだ。義母は店先で演々と私を責め立てた後、売り物の弁当を一つ掴み取って金も払わずに去っていった。田島さんの奥さんは私の肩に手を添えてくれた。
「さき子さん、気にしないで。あなたが謝ることじゃないわ」
その優しさが胸に染みた。そしてその夜、賢介は言った。
「母さんが弁当を持ってきてくれたぞ。あんなまずいもん作って金取ってるのか。お前の店は詐欺だな」
その言葉は、私の中で何かを断ち切った。田島さん夫婦の仕事を踏みにじられたことは、私自身が侮辱されるより何十倍も許せなかった。
その夜、私は眠れずにいた。台所で父の小箱を開け、万年筆を手に取った。手帳の奥に挟んでいた一枚の紙に、霧谷先生の連絡先があった。父の死後、一度だけ届いた手紙に記されていた。ずっと触れずにいた。だがもう限界だった。
8月のある日、駅前のカフェで賢介が若い女と楽しそうに笑っているのを見た。私はガードレールの影から写真に収めた。手元が震えなかったのが奇妙だった。
そして、あの日が来た。日曜の午後、賢介が珍しく改まった様子で私を呼んだ。リビングには義母と義姉のゆかりがいた。テーブルの上には一枚の書類が伏せて置かれている。
「咲子、話がある」
賢介がその書類を表に返した。離婚届だった。すでに賢介の署名が済んでいる。
「もうお前を養いたくない。サインしてくれ」
義母とゆかりの口元に笑みが広がった。賢介は言葉を続ける。
「25年も俺が養ってきたんだ。もう疲れた。俺には新しい人生がある」
私は俯いて、小さく答えた。
「……分かりました」
賢介は拍子抜けした顔をした。もっと取り乱すと思っていたのだろう。
「なんだ、つまらねえな。まあいい。賢明な判断だ」
私はペンを手に取り、署名欄に自分の名前を書いた。指先は震えなかった。25年分の重みが、一文字ずつ外れていくのが分かった。
「よし、これで決まりだ。明日にでも役所に出してくる。お前は荷物をまとめてさっさと出ていけ。猶予は1週間だ」
私は顔を上げ、初めて賢介の目を見据えた。
「ええ、出ていきます。喜んで」
思わぬ声の調子に、賢介と義母とゆかりが顔を見合わせた。しかし勝利の余韻に酔う彼らに、私の真意が伝わることはなかった。
その夜、私は父が残してくれた万年筆で、もう一冊の家計簿に今日の出来事を記した。そしてその翌日、私は霧谷総合法律事務所を訪れた。父が私のために用意していてくれた場所だった。霧谷先生は穏やかな笑顔で私を迎えてくれた。
「お嬢様、ようやくお目にかかる日が参りました」
霧谷先生は、25年前から桜井家の法律顧問を務めていた。父が遺してくれたものは、遺産だけではなかった。都内に複数の賃貸マンションと駐車場。家賃収入だけで月100万円を超える。商店街の「おかず所 桜」の経営権。田島さん夫婦は父が開店させた店の店主だったのだ。私はパートではなく、オーナーとしてそこにいた。そして、もう一つの事実。結婚以来、賢介が家計に入れてきた生活費は月2万円だけだった。住宅ローンも車のローンも光熱費も、全て私の貯蓄と給料で賄ってきた。賢介が退職した後は、健康保険の被扶養者としても私に養われていた。
離婚が成立して1週間後、賢介からの鬼電が始まった。内容証明郵便で、慰謝料500万円を請求したからだ。賢介は弁護士を立てて戦うと言い出した。しかし、彼の資産はゼロも同然。全ての引き落とし口座が私の名義だったからだ。私は霧谷先生の事務所で、賢介、義母、ゆかり、そして賢介の愛人だったさやという女性を呼んで話し合いの場を設けた。
霧谷先生は彼らの前で、賢介の不貞の証拠を並べた。ホテルの利用記録に、2人で写る写真。賢介の顔から血の気が引いていく。そして、さやが口を開いた。
「私、賢介さんから奥さんとは離婚してるって聞かされていました。それに……賢介さん、私と同じ派遣のコールセンターのバイトなんです。手取りで月10万円くらいだと思います」
義母とゆかりの顔色が一瞬間変わった。10万円。それが賢介の本当の収入だった。今まで私を養っていたのは、私だ。賢介ではない。
「お前は一体、どうやって家庭を回してきたんだ?」
義母が震える声で尋ねた。私は微笑んだまま、霧谷先生に視線を送った。先生は社会保険の被扶養者異動届の写しを取り出した。非被保険者の欄には、私の名前。被扶養者の欄に、賢介の名前。そして国民健康保険の納付記録には、義母とゆかりの名前も載っていた。彼女たちの保険料まで、私が払っていたのだ。全員が絶句した。私は静かに語った。
「2万円では住宅ローンの半分にも届きませんよ。教育費だけでも毎月数万円かかりました」
義母が開き直るように牙をむいた。
「ふん。総菜屋の女が何様のつもりよ。そんなパートがりの女が訴えられるか」
賢介も便乗した。
「そうだ。お前みたいなしょぼい店のオーナーが、これからどうやって生きていくつもりだ」
そこで私は、最後の真実を告げた。
「お言葉ですが、私の資産は総菜屋だけではないんですよ。都内に賃貸マンションを複数所持しています。家賃収入だけで月100万円を超えます。地方にも複数店舗を展開しています。おかず所 桜はその中の一店舗です。そして店方 桜屋の経営権も、私が引き継いでいます」
賢介の口がぽかんと開いた。義母とゆかりは、完全に言葉を失っていた。霧谷先生が補足した。
「財産分与をご希望なら、こちらにもご主張がございます。結婚以来のローンの返済は全て咲子様の口座から支出されております。賢介様が財産分与をご希望なら、咲子様も住宅購入費の半額、車両購入費の半額、そして婚姻期間中の家計負担の清算を求めることが可能です」
賢介の唇が震え始めた。義母は顔色を変え、突然すがりついてきた。
「ごめんなさい、咲子さん。全部賢介が悪いの。私はあなたを娘のように愛してるの。どうか助けてほしい」
「お断りします」
短い一言で、彼女の顔は憎悪に歪んだ。ゆかりと共に店内で大声を上げ始めた。
「皆さん、聞いてください!この女、お店のオーナーなのに、まずい総菜を高額で売ってるんですよ!」
その時、カウンター席にいた常連客が笑いながら声を上げた。
「そんなはずねえだろ。俺たち、桜の味が大好きだから」
「知らないの?この店も系列の店だよ。俺たちみんな、桜のファンだから」
店内の客たちが次々に頷いた。私の知らないところで、私の店を愛してくれている人がこんなにいた。霧谷先生が落ち着いた口調で言った。
「位置情報の無断取得は法に触れます。営業妨害の件も含めて、こちらから通知を送らせていただきますね」
義母とゆかりは顔を真っ赤にしながら、逃げるように店を出ていった。残された賢介は、私の足元にひざまずいた。
「咲子、ごめん。全部母さんと姉貴が悪いんだ。俺が本気で愛してるのは、お前だけだ。やり直そう」
すると、それを聞いていたさやが立ち上がった。彼女の顔には明確な怒りが浮かんでいる。さやは無言のまま賢介を一瞥し、そのまま店を出ていった。そして、今度はリオの声が響いた。
「ふざけないで。あなたにやり直すとか言う資格はない。お母さんがどれだけ傷ついてきたか、あなた想像したことある?お母さんは自分の足で歩き始めてるの。あなたが入る隙間なんて、もうどこにもない」
リオの頬には涙が一筋流れていた。私は彼女の肩を抱き寄せた。そして、賢介に最後の言葉を告げた。
「私のこれからの人生に、あなたは必要ありません」
その時、店の入り口から制服姿の警察官が入ってきた。店内の誰かが通報してくれたのだろう。賢介は営業妨害の容疑で連行されていく。私はその背中を見送らなかった。皆が温かい拍手を送ってくれた。霧谷先生も、目元を指で軽く拭っていた。
あれから1年。私は父の店、桜屋の奥座敷にいた。リオが「紹介したい人がいる」と言って連れてきたのは、清潔感のある若者だった。彼は私の顔を見るなり、深々と頭を下げた。リオは照れながら言った。
「お母さん、この人と結婚しようと思ってるの」
若者の目に、嘘はないように見えた。ただ、人は変わるかもしれない。けれど、最初は誰にも分からない。それでも私は思う。リオがどんな人生を歩むことになっても、私は絶対に守り抜く。父が私を守ってくれたように。
「リオ、幸せになりなさい」
「うん。お母さんもね」
座敷に差し込む夏の終わりの日差しが、私たちを金色に染めていた。



