「お名前が確認できません」
受付の若い女性の言葉に、私は一瞬言葉を失いました。今朝から楽しみにしていた息子の結婚式。夫が買ってくれた黒留袖を着て、朝5時に起きて準備してきたのに、まさかこんな言葉を聞くことになるなんて。
「私は新郎の母親です。川村和子です」
震える声でもう一度伝えました。スタッフが慌てて名簿をめくり直します。
「本当に申し訳ございません。どこにもお名前が……」
美しく花で飾られたエントランスには、続々と到着する招待客たちの笑い声が響いていました。その中で私だけが、まるで招かれざる客のように立ち尽くしていました。
35年前に夫を病気で亡くしてから、女手一つで必死に育ててきた息子。大学までの教育費を捻出し、就職活動では50社の面接練習に付き合いました。その息子の晴れ舞台なのに。
「母さん、何してるの?」
エレベーターから降りてきた俊助の声が聞こえました。タキシード姿の息子。しかしその顔は、まるで迷惑な訪問者を見るような冷たい表情だったのです。
「俊助、私の名前が名簿にないって」
息子は深いため息をつきました。その瞬間、私は何か恐ろしい真実が隠されていることを直感しました。
「母さん、ちょっとこっちへ」
俊助に腕を掴まれ、会場の隅に連れて行かれました。35年前、病院のベッドで初めて彼を抱いた日のことが脳裏をよぎります。夫はその3ヶ月前に癌で他界していました。「この子は私が守る」。そう誓った日から、全てを息子に捧げてきました。
市役所の仕事を終えると保育園へ駆け込む毎日。自分の服は10年同じものを着続けても、教育費だけは惜しみませんでした。中学受験の塾代300万、高校の学費400万、大学の学費400万。総額で1100万円にもなります。全て私の貯金を崩して捻出してきました。
「母さん、おかげで内定もらえたよ」
あの時の俊助の笑顔が今でも忘れられません。なのに、マ子との結婚が決まってから息子は変わりました。
「母さん、マ子の実家は上流階級なんだ。母さんの話し方、もう少し品よくできない?」
まるで私の存在が恥ずかしいかのような言動が増えていったのです。でも、まさか結婚式から除外されるなんて。
「母さん、悪いけど……」
俊助の次の言葉が、私の人生を完全に否定することになるとは、この時は知りませんでした。
「母さん、正直に言うよ。マ子の親族は全員大手企業の役員とか会社経営者なんだ。市役所の職員の母親がいるって知られたら、恥ずかしいんだよ」
私の胸に鋭い痛みが走りました。
「恥ずかしい? 私があなたを育てるためにどれだけ……」
「それとこれとは別だろ」
俊助は私の言葉を遮りました。
「マ子の父親の年収は現役時代5000万超えてたんだ。その中に、市役所の窓口で生活保護の申請受付してた母親がいたら、どう思われるか分かるだろ」
足元が崩れ落ちるような感覚でした。35年間、朝5時に起きて弁当を作り、学校行事には必ず参加していました。それが恥ずかしい存在だというのです。
「俊助、私は間違ったことは何もしていないわ」
「真面目とか関係ない。社会的地位の問題なんだ。母さんには分からないかもしれないけど、上流階級の世界では家柄や職業が全てなんだ」
「あら、お母さん」
マ子が近づいてきました。その表情は氷のように冷たいものでした。
「お母さん、申し訳ないんですけど……」
マ子は私の黒留袖を上から下まで眺めました。まるで値踏みするような視線でした。
「その着物、いつ買ったんですか? シェイノーブルみたいで。うちの親族が着てるドレスなんですよ、一着300万はくだらないものばかり。お母さんのその昭和っぽい格好を写真に映すと浮いちゃうんですよね」
「これは俊助のお父さんが買ってくれていた黒留袖です」
「死んだ人の話なんて、縁起悪いです」
マ子は手をひらひらと振りました。
「それより問題は見た目なんです。実はですね、式場のカメラマンにもお願いしてあるんです。もしお母さんが紛れ込んでも、写真には絶対映さないでって。だって、後で親族に配る写真集に、間違った人が映ってたら恥ずかしいじゃないですか」
信じられませんでした。まるで私が古びたもののような扱い。
「マ子さん、私は俊助の母親よ。たった1人の」
「ええ、分かってます。でも今日の主役は私たちなんです」
マ子は微笑みました。その笑顔に悪意はなく、むしろ当然のことを言っているような表情でした。
「お母さんっていつも同じ服着てますよね。うちの母はそんな庶民的な服を着ないと言っていましたし、食材は全部デパートの配達が届けてくれています」
俊助がマ子の方を大切そうに抱きしめました。
「母さん、分かってくれよ。マ子の親族の前で『息子さんのお母様はどちらに勤めてらっしゃるの?』って聞かれた時、『市役所の職員です』って言えないんだ。向こうは『私の夫は何々商事の』とか『息子は外務省に』とか言うんだぞ」
「でも、お母さん」
マ子が甘い声で言いました。
「今日だけ、いないことにしてくれませんか? いないことに。そう、親族紹介も集合写真も披露宴も全部。お母さんは最初から存在しなかったことにして欲しいんです。だって、私の親戚に説明するの面倒なんですもの。『新郎のお母様は?』って聞かれたら、『数年前に他界されました』って言っておきますから」
私は言葉を失いました。生きているのに、存在を消されるなんて。
俊助が財布を取り出しました。
「これ、交通費。まあ、迷惑料ってことで5万円。今日は帰ってくれ」
5万円を差し出す息子の手。それを見つめながら、私の中で何かが音を立てて崩れていきました。俊助は私の手に無理やり札を押し付けました。
「今日だけは頼む。消えてくれ。母さんの存在を消してくれ。消えてくれ」
実の息子が母親に向かって言う言葉でしょうか? 私は5万円を見つめました。35年間の母親としての人生が、たった5万円の札束に値踏みされた。これが息子の出した答えなのでしょうか?
私は震える手で5万円を受け取らずに、まっすぐ息子の目を見つめました。
「俊助、一つ聞かせて。この結婚式の費用、誰が出したか覚えてるわよね」
息子の顔が一瞬こわばりました。マ子も険しい表情を浮かべています。
実は式の費用、全額私が出していたのです。私は静かに告げました。
「800万円。私の貯金全て」
式場の喧騒が一瞬静まり返ったような気がしました。近くを通りかかったスタッフも足を止めます。
「数ヶ月前のことよ。俊助、あなたは私の部屋に来て、土下座までしたじゃない。『母さん、お願いだ。マ子との結婚式、どうしても豪華にしたいんだ。でも貯金が足りない』って」
「母さん、今その話は……」
俊助が慌てて私を遮ろうとしました。
「定期預金を解約したわ。利率3%の優遇金利だったけど、息子の幸せのためならと思って。個人年金保険も解約。10年かけて積み立てた300万円。退職金から取り分けていた老後資金も全部。合計800万円」
マ子の顔から血の気が引いていきます。
「俊助、どういうこと?」
「それだけじゃないわよ」
私は続けました。
「会場の予約金100万円を払いに行ったのも私。ドレスの追加料金を払ったのも私。『3着も着替えるなんて豪華ですね』って言われた時、俊助は隣で黙っていたわよね」
俊助の額に汗が浮かんでいました。周りの視線を気にしながら声を潜めて、俊助が言いました。
「母さん、それとこれとは別でしょ?」
「別? 私は思わず声が大きくなりました。800万円出したのに結婚式から締め出されるのが別?」
「お金を出したからって、出席できるわけじゃない。それは母さんが自らやったことでしょう」
俊助は開き直ったように言い放ちました。
「恩着せがましいんだよ」
恩着せがましい。息子の口から出た言葉に、全身の血が逆流するような怒りを感じました。
「土下座して頭を下げて、泣きながら頼んできたのは誰? 『母さんしか頼れる人がいない。一生恩に着る。老後は必ず面倒を見る』って言ったのは誰なの?」
「昔のことを掘り返すなよ」
俊助が声を荒げました。
「大体、金の話を式場でするなんて品がない。これだから庶民は」
実の母親を庶民呼ばわり。マ子が俊助の腕を掴んで言いました。
「ねえ、本当にお母さんが全額払ってるの? うちの両親には何て説明するの?」
「大丈夫だよ、マ子。後でなんとかする」
俊助は恋人をなだめるように言いました。そして私に向き直ると、その目は冷たく光っていました。
「母さん、はっきり言うよ。金を出したのは母さんの勝手だろう。それに何度も言うが、今日の式には出席して欲しくないんだ。理由はもう説明しただろう」
「私が35年間一生懸命働いて貯金していたお金なのに」
「お金の話ばっかり。もううんざりだ」
俊助は苛立たしげに髪をかき上げました。
「今日は俺とマ子の人生で一番大事な日なんだ。母さんの存在で台無しにされたくない。もう二度と会わないでくれ」
台無し。それに二度と会わないでくれ。なんて。
「お母さん」
マ子が甘い声で割って入りました。
「確かにお金を出していただいたのは感謝します。でもお金と出席は別問題です。私たちにも私たちの事情があるんです」
「事情って?」
「私が恥ずかしいから」
マ子はあっけらかんと認めました。
「私の親族の前にお母さんが出たら、私たち夫婦の格が下がるんです。それは困ります」
怒りで頭がクラクラします。でも、ここで取り乱してはいけません。
「分かったわ。一つだけ確認させて」
私は冷静を装って言いました。
「本当に二度と会わないのね」
「そうだよ」
俊助は即答しました。
「悪いけど、今後はマ子の両親が本当の家族だから」
10分後に式が始まる。俊助は腕時計を見て言いました。
「早く帰って。これ以上ここにいられると本当に困る」
「そうですよ」
マ子もせかすように言いました。
「もう親族が集まり始めてます。お母さんの姿を見られる前に」
「分かったわ」
私は静かに言いました。そして、5万円を差し出す俊助の手を見つめて伝えます。
「そのお金はいらないから」
マ子が最後通告のように言い放ちます。
「お母さんとは今日でお別れですね」
タキシード姿の息子と純白のドレスの嫁。幸せの絶頂にいる2人。そして、その幸せから完全に締め出される私。
「じゃあ、お幸せに」
私はゆっくりと踵を返しました。背中に刺さる視線を感じながら、式場の出口へと歩いていきます。途中、親族らしき着飾った人々とすれ違いますが、みんな幸せそうな笑顔でした。
出口に近づいた時、私の口元に微笑みが浮かびました。それは悲しみや怒りの微笑みではありません。俊助とマ子は気づいていません。これからどんなことが起こるのかを。私は2人の顔を最後にもう一度見つめ、そしてゆっくりと微笑みました。その微笑みを見て、俊助とマ子は一瞬顔を見合わせました。怒られるか泣き崩れるか、そんな反応を予想していたのでしょう。
「母さん?」
俊助が戸惑ったような声を出します。
式場のエントランスを出て、春の日差しを浴びながら、私は携帯電話を取り出しました。画面には「田中プランナー」という名前。この式場の責任者で、結婚式の打ち合わせを何度も重ねてきた人物です。
歩きながら、私は電話をかけました。3コール目で聞き覚えのある声が応答しました。
「お電話ありがとうございます。ブライダル田中です」
「田中さん、川村和子です。本日の川村俊介の結婚式の件で」
「ああ、川村様、本日はおめでとうございます。素晴らしい式になりますよ」
「ありがとうございます。実は、費用の件でお話が……」
私は立ち止まり、深呼吸をした。
「振り込みがまだなんです」
電話の向こうで、田中プランナーの息を飲む音が聞こえた。
「振り込みがまだ? でも、川村様、既に800万円の入金を確認していますが」
「ええ、それは私の個人口座から一時的にお支払いしただけなんです。正式な振り込みは息子から後日という約束だったのですが」
沈黙が流れました。式まであと7分。田中プランナーの焦りが電話越しに伝わってくる。
「川村様、式はもう始まってしまいます」
「今、私も困っているんです」
私は申し訳なさそうな声を作りました。
「実は息子には内緒で援助するつもりでした。サプライズのつもりだったんです。でも……今息子と話をしたら、私は式に出席できないと言われまして。親族として認めてもらえないそうです」
田中プランナーは息をのみました。
「まさか、お母様を……」
「ええ、800万円出した母親を、恥ずかしいからという理由で締め出されました。ですから、私も考え直したんです。家族でない人の結婚式に、なぜ私がお金を出さなければならないのかと」
「しかし、もう準備は全て……」
「田中さん」
私は冷静に続けました。
「契約書を確認していただけますか? 支払い義務者の欄を」
紙をめくる音が聞こえた。
「川村様……ああ、そうです。支払い義務は私にあります。息子の俊介ではありません」
「そして、私は今、支払いを保留したいと考えています」
「で、でも、料理も花も全て準備が……」
「分かっています。私も申し訳ありませんが、支払いはできません。未払いの結婚式をそのまま挙行することはできませんよね?」
田中プランナーの動揺が手に取るように分かりました。
「と、ということは……キャンセル料だけでも300万円以上に……」
「それは息子が払うべきでしょう。私は家族ではないと言われましたから」
式開始まであと5分。
「田中さん、1つ確認です。もし未払いの場合、式はどうなりますか?」
「規約により、中止せざるを得ません」
田中プランナーの声は震えていました。
「披露宴の料理も、引き出物も、全てですね。ちなみに……」
私は意を決して伝えました。
「息子は、私が800万円出したことを新婦側の両親には内緒にしているようです。新婦の両親が全額出したことになっているとかで。ですから、もし式が中止になった時、その理由を新婦側に説明するのは、息子にとって相当困ることになるでしょうね」
田中プランナーは完全に言葉を失っていました。
「あと3分で式が始まりますね」
私は時計を見ながら言いました。
「私は今、会場の外にいます。このまま帰ることもできますし、戻ることもできます。全ては息子次第ですかね」
「川村様、お願いします。なんとか……」
私は静かに遮りました。
「これは家族の問題です。お金の問題ではなく、35年間の母子の絆の問題なんです」
私は電話を切りました。
式場の入り口から、ワグナーの結婚行進曲が聞こえてきました。式が始まったのです。私は微笑みました。息子はまだ気づいていません。田中プランナーが今頃、表情を変えて新郎控室に向かっていることを。そして、間もなく人生最高の日が最悪の日に変わることを。
携帯が鳴りました。俊助からの電話です。私は出ず、ただ画面を見つめながら、静かに微笑み続けました。
結婚行進曲が鳴り響く中、私は式場の外のベンチに座って待っていました。時計の針が進むにつれ、携帯の着信音が激しさを増していきます。俊助、田中プランナー、知らない番号。全て無視しました。
そして、式が始まって約10分後、突然結婚行進曲が不自然に途切れた。式場の中からざわめきが聞こえてきます。そして、マイクを通した田中プランナーの震える声が響いた。
「誠に申し訳ございません。本日の川村俊介さんの結婚式でございますが、運営上の重大な問題が発生いたしました。費用の未払いが確認されたため、誠に恐れ入りますが、本日の式は中止とさせていただきます」
会場が一瞬静まりました。そして、次の瞬間、爆発的などよめきが起こった。
私は立ち上がり、式場の入口へ向かいました。ガラス越しに中の様子が見えます。純白のドレスを着たマ子が、信じられないという表情で立ち尽くしていました。俊助は顔色を変えて、田中プランナーに詰め寄っています。
「どういうことだ? 金は払ってあるはずだ」
俊助の怒鳴り声が外まで聞こえてきました。
「申し訳ございません。支払い義務者である川村和子様から、支払い保留の連絡が入りまして……」
「母が? まさか」
マ子が俊助の腕を掴んだ。
「そういうこと? お金は払ったんじゃないの? 800万は母が……」
俊助は慌てて口を塞いだ。しかし、もう遅かった。
マ子の父親が前に出てきました。元上場企業副社長という肩書きが似合う、威圧的な雰囲気を持っていました。
「君、説明したまえ。我々には、君が全額用意したと聞いていたが、1500万円を……」
「あの、それは……お母様が800万円を払われたそうですね」
田中プランナーが冷静に告げました。
「でも、お母様は出席者名簿にお名前がありません。出席されていない方に800万円もの婚礼金を払っていただく理由がないと」
会場がさらにざわつきました。非難の視線が新郎新婦に集中しています。マ子の母親が進み出ました。優雅な雰囲気の女性ですが、その顔は怒りで歪んでいました。
「俊助さん、お母様はどちらにいらっしゃるの?」
「それが……」
するとマ子が叫びました。
「お母さんを追い出したから、親族席から!」
避難する声が上がります。
「母親を追い出した? それで金だけ出させたのか」「なんて親不孝な」「信じられない」
マ子の親族の1人、元国会議員だという初老の男性が立ち上がりました。
「君、これは一体どういうことかね? 母親から金を騙し取ったということか?」
「違います! 誤解です!」
俊助は必死に弁明しようとしましたが、誰も聞く耳を持ちません。
俊助の携帯が鳴り、慌てて出ます。
「母さん、今すぐ戻ってきて!」
私は式場の外で、自分の携帯を耳に当てました。
「俊助、どうしたの? 式の最中じゃないの?」
「どうしたもこうしたも、なんで支払いを止めたんだ?」
「だって、私は家族じゃないんでしょう」
私は穏やかに答えました。
「家族じゃない人の結婚式に、どうして800万円も払わなきゃいけないの? それも老後資金を崩してまで」
「そんな! 頼むよ」
俊助の声は必死でした。
「皆の前で大恥をかいてるんだ。マ子の親族が100人見てるんだ」
「あら」
私は冷たく笑いました。
「市役所職員の母親は恥ずかしいって言ったのは誰? 写真にも映すなって言ったわよね」
「あれは違うんだ! 誤解だ!」
「5万円の迷惑料って言ったのは誤解なの? 『母さんの存在を消してくれ』って言ったのは? 死んだことにするって言ったのも?」
電話の向こうで、マ子の鳴き声が聞こえた。
「お母さん! お願いします! 私が悪かったです! 土下座でも何でもします!」
「あら、マ子さん。私の大切な黒留袖を『昭和っぽい』って言ったわよね」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 撤回します! 全部撤回します!」
マ子の父親の怒鳴り声も聞こえてきました。
「俊助君! これはどういうことだ? 詐欺じゃないか! 警察を呼ぶぞ!」
私は時計を見ました。
「あら、もう30分も経ったのね。キャンセル料、相当な額になるわよ。会場代、料理、装花代。全部合わせたら300万円は超えるかしら」
「母さん!」
俊助が叫びました。
「分かった! 式に出席する席を用意する! 今すぐ出席してくれ!」
「今更?」
私は鼻で笑いました。
「さっき『二度と会わないでくれ』って言ったのは誰? 『取り消す? 全部取り消す? 毎週会いにいく? いや、毎日でも!』」
「でも、私の席はないんでしょう? 名簿にも載ってないし。存在しないことになってるんでしょう?」
「用意する! すぐに用意するから! 主賓席! いや、上座の隣でも!」
私は立ち上がりました。式場のガラス越しに、パニック状態の会場が見えます。招待客たちが立ち上がり、ざわめいている会場で、マ子は泣き崩れ、マ子の両親は俊助を問い詰めています。何人かの招待客は、呆気にとられたような顔で会場を後にし始めていました。
「遅いわよ、俊助」
私は静かに言いました。
「火が回ったんでしょう。200人の招待客の前で。マ子さんの大切な親族の前で」
「まだ間に合う! 今からでも再開できる! 田中さんと交渉中だ!」
「できないわよ」
私は冷静に告げました。
「だって、私はもうお金を下ろしてしまったもの。銀行も空いていないし、800万円なんて持ち歩いていないわ」
「じゃあ、明日! 明日支払ってくれれば!」
「明日から私は旅行に出るの。35年ぶりの一人旅。そうそう、800万円で世界一周クルーズも予約したのよ。3ヶ月間の豪華客船の旅。ずっと夢だったの」
「嘘だろ?」
「本当よ。だって、息子の結婚式に使う予定だったお金だけど、家族じゃない人には使う必要ないものね。自分のために使うことにしたの」
電話の向こうが完全に大混乱になっていました。土下座する音、物が倒れる音、ガラスの割れる音まで聞こえてきました。
「お母さん!」
マ子が電話を奪ったようです。
「私の実家がお金を出します! だから許して! ああ、1000万でも2000万でも!」
「あら、お金の問題じゃないのよ」
私は優しく言いました。
「心の問題なの。35年間の母としての誇りを踏みにじられた、心の問題」
「お母さん!」
マ子が絶叫した。
「お母様って呼ばせて! 本当のお母様!」
「今更『お母様』?」
私は冷たく言いました。
「5万円で追い払おうとしたくせに。『迷惑料』って言ったわよね」
田中プランナーの声がマイクを通して聞こえてきました。
「誠に申し訳ございませんが、これ以上会場を使用することはできません。全員ご退場願います。なお、キャンセル料につきましては、後日請求させていただきます」
「待ってくれ!」
俊助の叫びが聞こえました。
「母さん! 母さん! お願いだ!」
「あら、私は家族じゃないんでしょう」
私は最後にそう言いました。
「お幸せにね、俊助さん、マ子さんと。ただし、私のお金なしで」
そう言って、私は電話を切りました。今後一切、電話に出るつもりもありません。
式場の前を通りかかったタクシーを止め、乗り込みました。バックミラー越しに、式場から続々と出てくる招待客の姿が見えました。皆、困惑した表情で、中には怒っている人もいるようです。スマートフォンで動画を撮っている人もいます。明日にはSNSで拡散されるでしょう。
白いウエディングドレスのまま式場の入り口で泣き崩れるマ子の姿が見えました。メイクは涙で台無しになり、せっかくのドレスも地面についてしまっています。俊助は土下座でもするような格好で、マ子の両親に必死に謝っていました。
「運転手さん、空港までお願いします」
私は窓の外を見ながら、静かに微笑みました。
35年間、全てを捧げてきた息子。でも、その息子は私を恥だと言いました。金だけ出して、邪魔者扱い。ならば、私も息子を消すことにしたのです。私の人生から、完全に。これが、私の静かで完璧な仕返しです。
あの結婚式騒動から3ヶ月。私は今、地中海を航行する豪華客船のデッキに立っています。
「和子さん、ディナーの時間よ」
同じクルーズで知り合った友人の声に振り返ります。彼女も私と同じように、人生の新しいステージを楽しんでいる女性です。
「ええ、すぐ行くわ」
800万円で予約した世界一周クルーズ。最初は贅沢かと思ったけれど、今では最高の選択だったと確信しています。35年間、自分のためにお金を使ったことなんて、ほとんどありませんでした。いつも俊助のためと思って節約してきました。でも、今は違います。このお金は、私が私のために使うお金だと。
部屋に戻ると、テーブルの上に一通の手紙が置いてありました。日本から転送されてきたもの。差出人は田中プランナー。手紙を開くと、意外な内容が書かれていました。
和子様。ご無沙汰しております。実はお知らせしたいことがありまして。あの件の後、色々なことがありました。
田中プランナーの手紙によると、息子夫婦の末路は悲惨なものだったという。まず、式場への違約金が300万円。料理、装花、引き出物のキャンセル料を合わせると、総額350万円にも。俊介一人では到底払えない金額でした。
さらに深刻だったのは、親族からの信用失墜でした。特にマ子の両親は激怒し、「母親を騙すような男に娘はやれない」と結婚自体に反対し始めたそうです。マ子の親族の間では、俊介は「詐欺師」「親殺し」というレッテルを貼られてしまったと言います。
そして、先月、マ子さんから「離婚したい」という話を聞きました。価値観の違いが埋められないと。まさか、あんなに愛し合っていたように見えた2人が。
いや、違う。あれは愛ではなかった。マ子は俊介の「エリート家庭」という幻想に惹かれ、俊介はマ子の家柄に憧れていただけでした。どちらも、相手の本質を見ていなかったのです。
手紙の最後にはこう書かれていた。
俊介さんは今でも、お母様に謝罪したいと言っています。でも、連絡先が分からないと。
私は手紙を置き、海に向かって深呼吸をした。謝罪? 今さら何を謝るというのでしょう。あの時、私を恥といった言葉は消えない。存在を消してくれといった事実は変わらない。でも、不思議と恨みはありません。むしろ、感謝しているくらいです。
あの出来事がなければ、私は一生、息子のための人生を送り続けていたでしょう。
「本当の家族とは何か、やっと分かったわ」
私は海に向かって呟きました。本当の家族とは、血の繋がりだけではありません。互いを尊重し、大切にし合う関係。それがなければ、例え親子でも、家族とは言えません。俊助は私を家族として扱わなかった。だから、私も俊助を家族から外した。それだけのことだ。
ディナー会場に向かいながら、私は35年間の人生を振り返りました。夫を亡くしてから必死に働きました。朝早く起きて弁当を作り、子育てと仕事に追われる日々。休日は俊助の塾のサポートをし、大学の学費も全額捻出しました。自分の服は10年同じものを着続け、美容院にも半年に1度しか行きませんでした。
全ては息子のために。息子が幸せになれば、私も幸せだと信じていました。でも、それは間違いだった。他人を大切にすることは素晴らしい。でも、自分を大切にできない人が、本当の意味で他人を大切にできるだろうか?
私は自分を犠牲にし続けた結果、俊助は感謝を忘れました。私の存在が当たり前になり、やがて邪魔になった。これは俊助だけの責任ではありません。私自身の責任でもあります。私が自分を大切にしなかったから、俊助も私を大切にしなくなったのです。
「和子さん、遅いわよ」
友人が手を振っています。彼女の隣には、同じテーブルの仲間たちが集まっていました。それぞれの人生を歩んできた人たち。でも、今はこの瞬間を楽しむことで結ばれている。これこそが、私の新しい家族かもしれません。血の繋がりはなくても、互いを尊重し合える関係。
実際、私は63歳にしてやっと自由になれました。遅すぎることはありません。これが私の勝利。35年分の、静かで完璧な勝利。そして、これからが本当の人生の始まりなのです。



