スマートフォンの向こうから聞こえてきたのは、息子の軽い声でした。
「あ、母さん、お金ありがとう。でも、お母さんは1人で留守番でお願いします。」
その言葉を聞いた瞬間、私の手が震えました。ついさっき銀行で300万円を振り込んだばかりです。通帳に印字された残高、3万147円。老後の貯金のほとんどが消えていました。
「え、だって家族旅行じゃないの?」私の声は震えていました。
「ああ、それは助かったよ。でもさ、ミキの両親も来るから、人数的にちょっと厳しくて。」
息子の高雪は何でもないことのように言います。背後から聞こえてきた嫁のミキの声も、あまりにも軽やかでした。
「お母さん、留守番お願いしますね。」
30年間、介護施設で休むことなく働いてきました。息子のために、これまでに2000万円以上を援助してきました。大学の学費、結婚式、新婚旅行、マイホームの頭金、孫の教育費。そして今回の沖縄旅行のために、老後の貯金から300万円を出したのです。
それなのに、私たちは留守番。
手に持っていた沖縄旅行のパンフレットが床に落ちました。隣で電話を聞いていた夫の克が、一瞬で表情を凍らせます。
その瞬間、私の心の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じました。
電話を切った後も、私はただ呆然と立ち尽くしていました。思い返せば、息子のために人生の全てを捧げてきたように思います。
「克、夕飯にしようか。」
夫がいつものように声をかけてくれます。テーブルに並んだのは納豆と味噌汁、そして漬け物だけでした。
「また納豆か。俺は肉が食べたいな…」
克が小さくつぶやきます。
「高雪たちへの援助があるから…ごめんなさい。」
私は謝ることしかできませんでした。
その夜、スマートフォンを開くと、ミキのSNSの画面に入りました。高級レストランでの食事写真、新しいブランドバッグ。「また買っちゃった」という幸せそうなコメント。
私たちは納豆で我慢しているのに。
画面を静かに閉じると、胸の奥が重く沈んでいくのを感じました。
ことの始まりは2ヶ月前でした。
「母さん、ちょっと相談があるんだけど…」
久しぶりに高雪から電話がかかってきたのです。
「どうしたの?」私は嬉しくなって明るい声で答えました。
「家族で旅行に行きたいんだ。沖縄。ミキの両親も一緒に。」
「あら、それは素敵ね。私たちも行けるの?」
「ああ、まあ…それで、母さん、費用の援助って…」
その瞬間、ミキの声が聞こえてきました。
「お母さんも来るんですか?」
声のトーンが明らかに冷たくなっていました。
「正直、気を使うんですよね…」
ミキの言葉に胸がちくりと痛みます。
「でも、お金の援助はお願いできるよね?」
高雪が続けます。私は返事に詰まりました。でも結局、いつものように「もちろん」と答えてしまったのです。
それから1ヶ月後、旅行のプランを決める会議があると呼ばれました。息子の家に向かうと、そこにはミキの両親もいました。初対面です。
「まあ、お母様っておいくつ?」
ミキの母親が、ねめつけるような目で私を見ます。
「68です。」
「まあ、結構なお年ね。」
その言葉に、トゲを感じました。
「そうなんです。だから心配で…」
ミキが同意するように言います。
「お母さん、階段って登れます?沖縄、結構歩くんですよ。海に入ったりしたら、体調崩されたら大変ですし。」
「確かに…母さん、無理しない方がいいかもな。」
高雪までもがそう言い出しました。
「大丈夫よ。私は元気だから。」
私は笑顔で答えましたが、その笑顔を作るのにどれだけの力が必要だったか。
2週間前、最終確認のために再び息子の家を訪れました。
「そういえば、ホテルの部屋なんだけど…」
ミキが言います。
「部屋を2つ予約したの。私たちと、私の両親で。」
「私は?」私が聞くと、ミキは驚いたような顔をしました。
「え、お母さん、本気で来るつもりだったんですか?」
その言葉に、心臓が凍りつくような感覚を覚えます。
「だって、私の両親も来るし、人数的に…」
「そうなんだよ、母さん。ミキの両親、すごく楽しみにしてるから。」
高雪が言います。
「お母さんは留守番の方が楽でしょう。年齢的にも。」
ミキの言葉が胸に突き刺さります。
「克、帰るぞ。」
隣にいた克が、怒りを抑えた声で言いました。私たちは何も言わずにその場を後にしたのです。
そして1週間前、高雪から電話がかかってきました。
「母さん、旅行代なんだけど…」
私は覚悟を決めて聞きます。
「いくら必要なの?」
「全部で300万くらい。出せる?」
300万円。私たち夫婦の老後の貯金の大半です。
「出せないなら、旅行自体キャンセルするけど。」
高雪の声には、脅しのような響きがありました。
「ちょっと待て。」
克が電話を取り上げます。
「お前、母さんは行かないのに、金だけ出せってことか。」
「だってミキの両親も来るし。母さんがいたら気まずいだろ。」
「お母さん、空気読んでください。」
ミキの声が聞こえてきました。
克の拳が震えています。
「わかった…」
私はそう答えるしかありませんでした。
電話を切った後、克が言いました。
「克子、俺たちは完全にバカにされてる。」
その言葉に、私は何も返せませんでした。ただ涙をこらえることしかできなかったのです。
68歳という年齢を理由に、ミキの両親を優先して、私たちは完全に排除されました。それでも300万円は要求される。私たちは息子夫婦にとって、ただの金づるでしかなかったのです。
約束の日が来ました。銀行の窓口で、私は振り込み用紙を手に立っていました。300万円。その数字を何度も見つめます。
「大金のお振り込みですが、本当によろしいですか?」
窓口の女性が、心配そうに確認してくれました。
「息子の家族旅行代なんです。」
そう答えると、女性は少し驚いたような表情を見せましたが、何も言わずに手続きを進めてくれました。
通帳に印字された数字を見て、息が止まりそうになります。
残高、3万147円。
30年間、毎日コツコツと貯めてきたお金が、ほとんど消えていました。
家に帰ると、克がリビングで待っていました。
「本当に振り込んだのか?」
「ええ、振り込んだわ。」
私は通帳を見せました。克の表情が歪みます。
「これで俺たちも一緒に沖縄か。楽しみだな。」
克が皮肉めいた声で言います。でもその目には、諦めの色が浮かんでいました。
「30年働いて、やっとまとまった休みが取れて…」
私の言葉が途切れた時、テーブルの上の携帯電話が鳴りました。高雪からです。
「もしもし、高雪?」
私は期待を込めて電話に出ました。もしかしたら、「やっぱり一緒に来て欲しい」と言ってくれるのではないか。そんな淡い希望を抱いていたのです。
「あ、母さん、旅行の件だけど。」
「え?さっき振り込んだわ。」
「そう。ありがとう。それで…」
一瞬の沈黙。その沈黙が、何か不吉なものを運んでくるように感じました。
「やっぱり、お母さんは1人で留守番ね。」
高雪の声は、驚くほど軽やかでした。
「え?」
言葉が出てきません。だって、300万円。家族旅行じゃないの?
「ああ、それは助かった。本当にありがとう。でも、ミキの両親も来るから、人数的にちょっと厳しくてさ。」
人数的に厳しい。私の頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返されます。
「それって…」
「母さん、分かってくれると思ってたんだけど。ミキの両親、すごく楽しみにしてるし。」
背後から、ミキの声が聞こえてきました。
「お母さん、留守番お願いします。家のこと、よろしくお願いしますね。」
その声は、まるで家政婦に指示を出すかのように響きました。
「でも、私たち楽しみにして…」
「母さん、年齢的にも沖縄は大変だと思うよ。ゆっくり家で休んでた方がいいって。」
「そうそう。お母さんの体調崩されたら、せっかくの旅行が台無しですから。」
ミキが付け加えます。
隣で電話の内容を聞いていた克が立ち上がりました。その顔は怒りで真っ赤になっています。
「高雪、お前…」
克が電話を取ろうとしましたが、私は首を振りました。
「分かった。留守番するわ。」
「さすが母さん。分かってくれたか?じゃあ行ってくるね。」
電話はあっさりと切れました。私の手から、携帯電話が滑り落ちます。
床に落ちた沖縄旅行のパンフレットが目に入りました。青い海、白い砂浜、幸せそうな家族の写真。
「克子…」
克が私の方に手を置きます。
「俺たち、息子にとって何なの?」
声が震えていました。
「金づるだよ。それ以外の何者でもない。」
克の言葉が胸に刺さります。でも、それが真実なのだと私も分かっていました。
その日の夜、ベッドに横になっても眠れませんでした。隣で克も寝返りばかり打っています。
「克子…」克が静かに呼びかけてきました。
「何?」
「お前は30年真面目に働いて、全部あいつらに捧げた。俺たちは納豆で我慢して、ボロい服を着て、旅行にも行かず、全部息子のためだった。」
克の声が震えています。
「でも、あいつらは…」
そこで言葉が途切れました。
暗闇の中、私の目から涙が溢れてきます。30年間ずっと我慢してきました。自分のことは後回しにして、息子の幸せだけを願ってきました。それなのに。
「克…私、もう我慢できない。」
初めてそう口にしました。
克が体を起こします。そして私の手を握りました。
「克子、俺たちは反撃する。」
「いいの?」
その言葉に、私は頷きました。
「30年、お前は息子のために生きてきた。でももういい。今度は俺たちの番だ。」
「そうね。もう我慢しない。」
その夜、私たち夫婦は初めて、息子に対して反撃することを決意したのです。
翌朝、息子たちは沖縄へと旅立っていきました。スマートフォンには、ミキのSNS投稿が次々と届きます。「沖縄行ってきます。」空港での記念撮影。ミキの両親との楽しそうな笑顔。高雪の満面の笑み。
その写真の中に、私たちの姿はありませんでした。300万円を支払った私たちは、完全に除外されていたのです。
「見ないで。」
克がスマートフォンを覗き込もうとするのを、私は止めました。
「ああ、見ても腹が立つだけだな。」
克が苦笑いします。そして静かに言いました。
「克子、始めよう。俺たちの反撃を。」
私は深く頷きました。もう後戻りはできません。息子たちが楽しく沖縄で過ごしている間に、私たちは動き出すのです。この留守番の時間が、全てを変える時間になるとは、息子たちは夢にも思っていないでしょう。悲しみが、怒りが、そして決意が混ざり合っていきます。
翌日、私たちは朝早くから動き始めました。
「克子、準備はいいか?」克が、いつになく真剣な表情で聞いてきます。
「ええ、行きましょう。」
向かった先は、駅前の法律事務所でした。
「本日はどのようなご相談でしょうか?」
弁護士の先生が、穏やかな笑顔で迎えてくれます。
私たちは、これまでの経緯を全て話しました。2000万円以上の援助。そして今回の300万円。留守番として排除されたこと。
「なるほど…お気持ちはよくわかります。」
弁護士は深く頷きました。
「それで、ご相談というのは…」
克が書類を取り出します。
「息子夫婦のマイホームです。頭金1000万円を渡した。ローンの連帯保証人も私です。」
「拝見させていただきます。」
弁護士が書類に目を通します。
「なるほど。ご主人名義の住宅ですが、連帯保証人として法的な権利をお持ちですね。」
「何かできることはありますか?」私が聞きます。
「連帯保証人を外れることは可能です。そうなれば、ご子息は新たな保証人を立てるか、一括返済を求められることになります。」
その言葉を聞いて、私の心臓が大きく跳ねました。
「それと…」克が続けます。「私たちの持ち家も処分したいのですが。」
「お2人名義のご自宅ですね。」
「はい。息子には何も残したくありません。」
弁護士は少し間を置いて言いました。
「お2人の財産ですから、自由に処分できます。ただし、ご家族との関係は、確実に壊れることになりますが。」
その言葉に、私と克は顔を見合わせました。そして、同時に答えたのです。
「構いません。」
弁護士は少し驚いたような表情を見せましたが、すぐに真剣な顔になりました。
「わかりました。では、手続きについてご説明しますね。」
法律事務所を出た時、空が不思議なほど晴れ渡っていました。
「次は不動産会社だな。」克が言います。
不動産会社では、担当の方が熱心に話を聞いてくれました。
「このエリアの一戸建てでしたら、3500万円は堅いですね。」
「本当ですか?」私は驚きました。思っていたよりも高い金額です。
「ええ、築年数は経っていますが、メンテナンスが行き届いていますし、立地も良好です。」
「どのくらいで売却できますか?」克が聞きます。
「早ければ、1週間以内に契約まで進められます。」
担当者の言葉に、私たちは頷き合いました。
「お願いします。できるだけ早く。」
「承知いたしました。」
その足で、私たちは銀行に向かいました。
「定期預金を解約したいのですが。」
窓口の方に伝えます。
「承知いたしました。少々お待ちください。」
残っていた老後資金500万円。それも全て、新しい口座に移すことにしました。
「息子夫婦への生活費援助の口座も解約します。」
私が言うと、窓口の方が少し驚いたような表情を見せます。
「毎月15万円振り込んでいた口座ですね。」
「はい。もう必要ありませんから。」
銀行を出ると、もう昼を過ぎていました。
「克子、昼飯にしよう。」
「そうね。」
私たちは久しぶりに外食をすることにしました。小さな定食屋でしたが、温かいご飯と焼き魚、味噌汁が並びます。
「うまいな。」克が満足そうに言います。
「本当ね。我慢の日々から解放されるのね。」
そう言いながら、私は不思議な感覚に包まれていました。罪悪感ではなく、むしろ清清しい気持ちでした。
翌日、私たちは住宅ローンの銀行に向かいました。
「連帯保証人を外れたいのですが。」
克が言うと、担当者の顔色が変わりました。
「それは…ご子息に確認を取らないと。」
「今、沖縄旅行中で連絡が取れないんです。でも、私の権利として外れることはできますよ。」
「そ、それは法的には可能ですが…」
担当者が慌てて上司を呼びます。結局、私たちの意思は固いと伝えると、手続きは進められることになりました。
「ただし、ご子息には新たな保証人を立てていただくか、一括返済していただくことになります。」
「構いません。」
克がきっぱりと答えます。
銀行から出ると、克が深く息をつきました。
「これで、あいつらのローン、どうなるかな?」
「新しい保証人なんて、簡単には見つからないでしょうね。」
私も分かっていました。ミキの両親には、そんな経済力はないはずです。
3日目、私たちは新しい住まいを探しに出かけました。海の見えるマンション。不動産屋さんで見せてもらった物件は、駅から近く、窓から海が見える素敵な場所でした。
「家賃12万円か…」克が少し躊躇します。
「いいのよ。もう息子への援助はないんだから。」
「そうだな。俺たちの金だ。好きに使おう。」
その日のうちに契約を済ませました。
最終日の夜、私たちは自宅のリビングで今後の計画を確認しました。テーブルの上には全ての書類が並んでいます。不動産売却の仮契約書、定期預金解約の証明、連帯保証人解除の通知書、新居の賃貸契約書。
「本当にこれでいいのかしら?」
ふと、そう口にしていました。
克が私の手を取ります。
「今更迷うな。あいつらは俺たちを人間扱いしなかった。」
「そうね。」
私は深く頷きました。
「明日、あいつらは沖縄から帰ってくる。」克が言います。
「そして、全てを知ることになるのね。」
「ああ。自分たちがしたことの報いを思い知るだろう。」
その夜、私は久しぶりにぐっすりと眠ることができました。罪悪感はありませんでした。むしろ、これが正しいことなのだと心の底から思えたのです。
息子たちが沖縄から帰ってくる日、私たちは新しいマンションへの引っ越しを済ませていました。海の見える明るいリビング。30年ぶりの、本当に自分たちだけの空間です。
「克子、そろそろ時間だな。」克が時計を見ながら言います。
息子たちの飛行機が到着する時間です。携帯電話を握りしめながら、私は待ちました。
そして、予想通り電話が鳴ったのです。
「母さん!」
高雪の声は、明らかに焦っていました。
「どうしたの?」私はできるだけ平静を装います。
「銀行から連絡が来たんだ。連帯保証人が外れたって。どういうことだよ。」
「ああ、それね。私たち、外れさせてもらったの。」
「え?何言ってるんだ?勝手なことするな!」
高雪の隣から、ミキの声も聞こえてきます。
「勝手に?連帯保証人は私たちの権利で外れることにしたの。あなたの許可は必要ないわ。」
「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。新しい保証人なんて…」
「それは、あなたの問題でしょう。」
私の声は、驚くほど冷静でした。
「母さん、何を…」
「それと、生活費の振り込みも止めたわ。もう必要ないでしょう。」
「ちょっと待てよ。毎月15万。あれがないと…」
「私たちを留守番にした人に、援助する義務はありませんから。」
そう言って、電話を切りました。
克が満足そうに頷きます。
「よく言った。」
「これから、もっと大変なことになるわね。」
私がそう言った矢先、また電話が鳴りました。今度はミキからです。
「お母さん!さっき銀行から…」
「ええ、知っています。」
「どうしてそんなことを!私たち、ローンが払えなくなったら…」
「それは、あなたたちの問題です。」
「お母さん、人としておかしいんじゃないですか?」
ミキの声がヒステリックになっていきます。
「人として?」
私はゆっくりと言葉を続けました。
「300万円払った私を留守番にした人が、言えることかしら。」
電話の向こうが静かになります。
「それは、ミキさんのご両親と楽しい旅行はできましたか?」
「…」
「私たちはもう、あなたたちの金づるではありません。さようなら。」
電話を切ると、克が笑いました。
「気分がいいな。」
「本当ね。」
その後も何度も電話がかかってきましたが、私たちは出ませんでした。
翌日、さらに衝撃的な知らせが息子たちを襲ったはずです。銀行から、ローンの一括返済を求める通知が届いたのです。新しい保証人が立てられない場合、3ヶ月以内に全額返済。それができなければ、家は競売にかけられます。
そしてその日の夜、携帯電話に高雪から必死のメッセージが届きました。
「母さん、頼む。話を聞いてくれ。家に行ってもいいか?」
私は克と顔を見合わせました。
「会ってやるか?」
「ええ。最後だから。」
翌日、私たちは古い自宅で高雪と会うことにしました。まだ売却手続き中で、家は空き家のままです。
玄関を開けると、高雪とミキが立っていました。2人とも、やつれた顔をしています。
「母さん…」
高雪の声が震えていました。
「話って、何かしら?」私は冷静に聞きます。
「頼む。連帯保証人、戻ってくれないか?このままじゃ、家が…」
「それは無理ね。」
私は即座に断りました。
「母さん、俺たち、本当に困ってるんだ。」
「私たちも困りましたよ。300万円も出して、留守番にされて。」
「それは悪かった。でも、今は緊急事態なんだ。」
高雪が土下座をしようとします。
「やめなさい。見苦しいわ。」
私の声が冷たく響きます。
「お母さん、お願いします!」
ミキも涙声になっていました。
「ミキさん。」私は彼女を見つめました。「あなた、私のこと、何て言いましたっけ?」
「…お母さん、悪…」
「留守番デシタ。でしたよね。」
ミキの顔が真っ赤になります。
「『空気読んでください』とも言いましたね。」
「それは、その…」
「今、誰が空気を読んでいないのかしら。」
私の言葉に、ミキは何も言い返せませんでした。
「それに、ミキさんのご両親に頼まれたらどうですか?楽しい沖縄旅行、一緒に行ったんでしょう。」
「私の両親には、そんな経済力が…」
「そうだから、私たちに頼るのね。」
克が冷たく言います。
「でも、俺たちは…外の人でしょう。」
高雪が言葉に詰まります。
「父さん、お前が言ったんだ。ミキの両親がいるから、母さんたちは気まずいってな。」
「それは…じゃあ、ミキの両親に頼め。俺たちは外の人間だ。」
克の言葉が、容赦なく刺さります。
「お願いだ。せめて、生活費の援助だけでも…」
高雪がすがるように言いました。
「生活費?お荷物には、お金はありませんよ。」
私は少し笑ってしまいました。
「…お荷物?」
高雪が顔をあげます。
「ええ、あなたが私に言った言葉です。『お荷物、留守番ね』って。」
高雪の顔から、血の気が引いていくのが分かりました。
「母さん、俺…そんなこと言いました?」
「電話で。『お荷物、留守番ね』って。」
「違う!俺は…」
「もういいわ。」
私は立ち上がりました。
「私たち、もう行くから。この家も、来週には新しい持ち主のものになるわ。」
「え?家を売るのか?」
高雪が信じられないという顔をします。
「ええ、私たちの家ですもの。勝手に処分して、何が悪いの?」
「でも、ここは俺の…実家…」
「あなたの実家?名義は私と克のものよ。最初から、あなたの家じゃなかったわ。」
克が付け加えます。
「俺たちの財産を、お前に残す義務はない。」
「父さん、母さん…」
高雪が崩れ落ちそうになります。
「お父さん、お母さん、本当にお願いします!」
ミキが必死に叫びました。
「私たち、本当に反省してます。もう二度と、あんなことはしません。」
「反省?」
私は彼女を見下ろしました。
「反省するのが、遅すぎたのよ。」
「お母さん、人を金づるに…」
「よく考えなさい。」
そう言って、私たちは家を出ました。背後から、高雪とミキの泣き声が聞こえてきます。でも、振り返りませんでした。
車の中で、克が言いました。
「これで良かったんだよな。」
「ええ。」
私は頷きました。
「俺たち、30年我慢してきた。もう十分だ。」
「そうね。これからは、私たちの人生よ。」
その夜、新しいマンションのリビングで、私たちは久しぶりにワインを開けました。
「克子、これからどうする?」
「旅行に行きましょう。2人で。北海道がいいな。」
「いいわね。温泉に入って、美味しいものを食べて。」
「ああ、今度は本当の家族旅行だ。」
克が笑います。窓の外には夜景が広がっていました。海から吹く風が心地よく感じられます。携帯電話にはまだ高雪からのメッセージが届き続けていましたが、もう見ることはありませんでした。
全ては終わったのです。そして、私たちの新しい人生が始まったのです。
あれから3ヶ月が経ちました。海の見えるマンションでの生活は、驚くほど穏やかで心地よいものでした。
「克子、朝ご飯できたぞ。」
克がキッチンから声をかけてくれます。テーブルには焼き魚、卵焼き、味噌汁、ご飯、そして果物まで並んでいました。30年間、納豆と漬け物だけの朝食に耐えてきました。全て、息子のためでした。でも、もうその必要はありません。
「いただきます。」
2人で手を合わせて、ゆっくりと朝食を楽しみます。窓の外には青い海が広がっていました。
「そういえば、北海道の予約、取れたか。」
「ええ、来月の15日から、3泊4日よ。」
「楽しみだな。」
克が本当に嬉しそうな顔をしています。
結婚して40年以上。2人だけで旅行に行くのは、これが初めてでした。全て、息子夫婦への援助に消えていたからです。でも、もう違います。家の売却で手に入れた3500万円、老後の貯金500万円。合わせて4000万円が、私たちの手元にあります。
「克、新しいスーツ似合ってるわよ。」
「そうか。30年ぶりに買ったからな。」
克が少し照れ臭そうにします。私も久しぶりに、自分のために洋服を買いました。
ふと携帯電話を見ると、知らない番号からの着信履歴が、何十件も残っていました。高雪とミキでしょう。番号を変えても、私たちは出ません。
「まだかかってくるのか。」
「ええ。でも、もう関係ないわ。」
風の噂で聞きました。ローンが払えなくなり、家は競売にかけられたそうです。今は狭い賃貸アパートで暮らしているとか。ミキの両親との関係も、決裂しているらしい。
でも、それは私たちの知ったことではありません。
「克子…」克が真剣な顔で言いました。「俺たち、間違ってなかったよな。」
「ええ、間違ってないわ。」
私ははっきりと答えました。
「私たちは、自分たちを守っただけ。68歳という年齢を理由に排除され、300万円だけ奪われた。そんな屈辱を黙って受け入れる必要はなかったのです。」
翌週、私たちは約束通り北海道へと旅立ちました。飛行機から見える景色に、心が躍ります。
「克子、見てみろ。雪山が見えるぞ。」
「本当ね。綺麗。」
温泉宿に着くと、部屋からは雄大な自然が広がっていました。
「これが、本当の家族旅行だな。」
克が温泉に浸かりながら言います。
「ええ、2人だけのね。」
夕食は豪華な会席料理でした。カニ、新鮮な魚介類。
「うまいな。」
「本当に。こんな贅沢、30年ぶりかしら。」
「これからは、普通のことだ。」
克の言葉に、私は頷きました。もう、我慢する必要はないのです。
旅行から帰ってきて、ある日のこと。郵便受けに、見慣れた字で書かれた手紙が入っていました。高雪からでした。
「開けるか。」
「ええ。」
手紙を開くと、そこには謝罪の言葉が並んでいました。
「母さん、父さん、本当に申し訳ありませんでした。僕たちは取り返しのつかないことをしてしまいました…」
でも、私はそれ以上読みませんでした。
「克、これ。」
手紙を克に渡します。克は少しだけ目を通して、そのままゴミ箱に捨てました。
「今更、遅いな。」
「ええ。謝罪するなら、あの時でした。300万円を受け取る前に。留守番にする前に。」
でも、息子たちは私たちを人間だとは思っていなかった。それが分かったから、もう戻ることはできません。
ある日、介護施設時代の同僚から電話がありました。
「松井さん、最近どう?」
「ええ、とても元気よ。」
「なんだか声が明るくなったわね。」
「そうかしら。」
「うん。自由になった感じ。」
その言葉が、とても嬉しく感じました。
「そうね。やっと、自分の人生を生きられるようになったの。」
「それは良かった。」
電話を切ると、窓の外には夕日が沈んでいくところでした。オレンジ色に染まる海。穏やかな波の音。
「克子、夕飯の準備するぞ。」
「ありがとう。」
2人、小さなキッチンで並んで料理をします。こんな何気ない日常が、こんなにも幸せだとは思いませんでした。
30年間、息子のために生きてきました。でも、これからは違います。私たち自身のために生きていくのです。
もし、この物語を聞いているあなたが、理不尽な扱いを受けているなら、我慢し続ける必要はありません。あなたには、自分を守る権利があります。幸せになる権利があります。
リビングのソファーで、克と並んで座ります。
「克子、幸せか?」
「ええ、とても。」
「そうか。それでいい。」
克が私の手を握ってくれました。
窓の外の海を眺めながら、私は思います。これが私たちの勝利なのだと。理不尽に屈せず、自分たちを守り抜いた。その結果が、この穏やかで幸せな日々なのです。
もう後悔はありません。これからも、2人で自由に生きていきます。



