東南アジアの仮設診療所で二十七年間、俺は自分から家族を捨てた男だった。息子が一歳の時に海外へ出て、戻った時には離婚届が待っていた。妻は一度も俺を悪く言わず、息子には「父さんは人を救いに行ったんだ」と言い続けたらしい。先月、九州の被災地に派遣された俺の手術助手に、同姓の若い医師がいた。彼は言った。「僕の父も医者だったそうです。僕が一歳の時、海外に行ったきり帰ってこなかった」。俺の手が止まった。…

東南アジアの仮設診療所で二十七年間、俺は自分から家族を捨てた男だった。息子が一歳の時に海外へ出て、戻った時には離婚届が待っていた。妻は一度も俺を悪く言わず、息子には「父さんは人を救いに行ったんだ」と言い続けたらしい。先月、九州の被災地に派遣された俺の手術助手に、同姓の若い医師がいた。彼は言った。「僕の父も医者だったそうです。僕が一歳の時、海外に行ったきり帰ってこなかった」。俺の手が止まった。...

土埃りの混じった風がテントの裾を揺らしていた。俺はゴム手袋を外し、汗で張り付いた前髪を書き上げた。朝から十二人の患者を見た。そのうち三人は子供だった。

俺の名前は河田洋司、五十五歳。国際医療支援団体に所属してもう二十年以上になる。今いるのは東南アジアの山あいの村。地震で家を失った人々のために仮設診療所を設けて、もう三週間が過ぎていた。

テントの外でジープのエンジン音がした。物資を運ぶトラックの音とは違う。俺は窓代わりのビニールの隙間から外を覗いた。泥にまみれた白いジープから一人の女性が降りてくる。看護師の藤崎裕子だった。

「河田先生、今日の物資、届きました。薬も三箱、ガーゼも追加で入っています」

「助かる。あと点滴のスタンドが足りないんだ。手作りでも構わないから、頼んでおいてくれ」

「わかりました」

彼女はカルテを受け取ると、ふと俺の胸元に目をやった。首から下げた小さなペンダントが、診察の最中に襟元から覗いていたらしい。俺は黙ってシャツの中に押し込んだ。

「先生、それ、いつもつけていますね」

「ああ、もう古いものだけどな」

それ以上は何も言わなかった。藤崎も無理に聞かなかった。この女は聞いていいことと悪いことの線をよく心得ている。現場を渡り歩いてきた看護師の勘というやつだろう。

俺は椅子に深く腰を下ろした。シャツの下のペンダントが肌に冷たく当たる。銀の小さな円盤に、妻の里子の字で「無事」と一文字だけ刻まれている。俺が紛争地に立つ前の夜、彼女が黙って俺の手のひらに握らせたものだった。

その夜のことは今もよく覚えている。二十七年前、息子の相馬はまだ一歳だった。里子は俺を玄関で送り出した。泣き顔は見せなかった。ただ一言「必ず帰ってきて」とだけ言った。

俺は帰らなかった。正確には帰れなかった。任期が伸び、また伸び、土地が変わり、別の紛争地が来た。家に戻る頃には、里子は離婚届を用意していた。俺は何も言わずに判を押した。そうすることが彼女と息子にとって一番いいと思った。

里子はそれから一人で相馬を育てた。再婚もせず、河田の姓のままで。数年前、彼女が病で亡くなったと聞いた。俺は葬式にも出なかった。出る資格がないと思った。

テントの中が急に静かになった。藤崎がコップ一杯の水を差し出してくる。俺は受け取り、ゆっくり飲んだ。

「先生、少し休んでください。次の患者は午後からで大丈夫です」

「いや、まだやれる。子供の予防接種が残ってるだろう」

「先生がそうやって倒れたら、私たちが困るんですよ」

俺は小さく笑って立ち上がった。

その夜は珍しく雨が降った。仮設テントの屋根を雨粒が叩いている。隣のテントから神谷が顔を出した。手にウイスキーの小瓶を持っている。

「洋司、いっぱいやらないか。雨の夜くらいいいだろう」

「お前、また隠し持ってたのか」

「医療チームの統括の権限だ。文句あるか?」

神谷は笑いながら紙コップに琥珀の酒を注いだ。神谷とは医学生の頃からの付き合いだ。俺が海外に出ると決めた時、最後まで反対したのもこの男だった。俺が離婚したことも、里子が亡くなったことも、全部知っている。

「藤崎が心配してたぞ。お前、最近ますます無理してるってな」

「あの人は何でもよく見てる」

「現場が長いからな。お前の不器用さもちゃんと見抜いてる」

俺は黙って酒を口に含んだ。

「なあ、洋司。日本に戻る気はないのか?」

「急になんだ?」

「いや、来月、日本の医療支援団体から合同チームの要請が来てる。九州の豪雨被害だ。仮設病院の応援だ」

「九州か」

「お前、もう何年帰ってない? 八年だ。学会で寄ったのが最後だ」

神谷はコップを置いて、俺の顔をじっと見た。

「行ってみないか? お前の腕が必要だと言ってる」

「それに?」

「それにお前、そろそろ日本の土を踏んでおいた方がいい。里子さんの墓にも、まだ行ってないんだろう」

俺は答えなかった。ランタンの明かりが紙コップの中で揺れている。里子の墓には行けるはずがなかった。行く資格がないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。

「相馬君の話、聞いたか?」

「何の話だ?」

「医者になったそうだ。研修を終えて、今は救急の現場にいるらしい。風の噂で聞いた」

俺は思わずコップを握る手に力が入った。息子が医者に。里子はそのことを俺に一度も伝えなかった。伝える義理もなかっただろう。俺はもう、父親ではなかったのだから。

「九州のチームに若い医師も派遣されてるそうだ。詳しい名前はまだ来てない」

「お前、まさか」

「偶然があるかどうかは、神様しか知らんよ。ただ、河田が行くなら、何かが動くかもしれん」

神谷はそれだけ言ってテントを出ていった。俺は胸元のペンダントをシャツの上からそっと押さえた。

翌朝、雨は上がっていた。俺はテントの外に立ってコーヒーをすっていた。

「先生、神谷先生から聞きました。日本に戻れるんですか?」

「まだ決めてない」

「迷うなら、行った方がいいと思います」

「お前までそういうのか」

藤崎は少し笑った。笑うと目尻に細かいしわができる。この人も、いろんな現場を見てきた顔だ。

「先生、人を見るのと自分を見るのは違いますよね。先生はいつも自分のことだけ後回しにしてる」

「医者なんてそんなもんだ」

「そうですね。でも、たまには自分の傷も誰かに見てもらった方がいいですよ」

俺は答えずにコーヒーを飲み干した。

昼過ぎ、俺は神谷のテントに行った。神谷は書類仕事をしていた手を止め、顔を上げた。俺は短く言った。

「九州、行くよ。手続きを進めてくれ」

「そうか」

「ただし、現場が終わればすぐにこっちに戻る」

「分かった。俺も同行する。現場の統括として申請を出す」

「お前まで来るのか」

「うるさい。お前一人で行かせるか」

神谷は静かに頷いた。余計なことは聞かなかった。それが長年の友人としての距離の取り方だった。

テントを出ると空が高く澄んでいた。俺は胸のペンダントをシャツの上から握りしめた。

九州行きの飛行機は三日後に出る。俺はその日から荷物の整理を始めた。机の引き出しの奥から古い写真が一枚出てきた。里子と、まだ一歳の相馬と、若かった頃の俺。俺はその写真をしばらく見つめ、それからそっと胸ポケットにしまった。

九州に着いた夜、俺は仮設病院のテントに荷物を運び込みながら、スタッフの名札を確認した。その中に「河田相馬」という名前があった。二十八歳、救急科。俺は一瞬だけ足が止まった。同じ苗字など珍しくもない。俺はそう思って、荷物を置いた。

九州に来て五日が過ぎていた。雨は止まなかった。仮設病院のテントには昼夜を問わず負傷者が運び込まれてくる。俺たちは眠る間もなく動き続けた。

相馬はよく動く医師だった。指示を待たない。患者の状態変化を、こちらが気づく前に報告してくる。判断が早く、しかも慎重だった。若い医師に多い根拠のない自信というやつが、彼にはない。

深夜、処置が一段落した時、俺はテントの隅でカルテを整理していた。相馬が近くに腰を下ろした。

「河田先生は、ずっとこういう現場にいるんですか?」

「二十年以上になる」

「家族は、いないんですか?」

「いない。ずっと一人だ」

「そうですか」

少し間があってから、独り言のような声で続けた。

「僕の父も医者だったそうです。僕が一歳の時、海外に行ったきり帰ってこなかった。母は一人で僕を育ててくれました」

「お母さんは、今も?」

「数年前に亡くなりました。病気で」

俺はペンを動かし続けた。

「子供の頃は、父のことが許せなかった。でも母がずっと悪く言わなかったんです。『あの人は人を救いに言ったんだ』って、そう言い続けてくれた。だからずっと、怒れないままで来て」

「それで君も医者になったのか」

「そうなんでしょうね。父に会ったこともないのに、同じ道を歩いていた。自分でもおかしいと思います」

相馬は小さく笑って立ち上がり、次の患者のテントへ向かった。その背中を、俺はただ見送った。里子が一人で育てた背中だった。

翌日も雨だった。ヘリが飛べない。重症患者の一人が搬送待ちのまま容態を悪化させ、俺と相馬は交互に処置を続けた。限られた薬剤をどこに使うか、神谷と三人で頭を付き合わせながら一つ一つ判断していく。そういう現場だった。

昼を過ぎてようやく落ち着いた。ふと、相馬が手を止めた。

「今日、母の命日なんです。十月二十三日で」

「そうか」

「誕生日と同じ日に行ったんですよ。悲しいというか、なんというか。笑えますよね」

俺の手が一瞬だけ止まった。十月二十三日は、里子の誕生日だった。俺がどれだけ遠い場所にいても、毎年その日だけはペンダントを手のひらに乗せて思い出す日だった。生まれた日に行くなんて、里子にしかできない最後だった。

「先生、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「ああ、問題ない」

「無理しないでください。先生が倒れたら、僕が困ります」

相馬は少し笑った。里子の笑い方に似ている。

神谷がテントに入ってきたのは、その時だった。俺と目があった瞬間、彼は何かを悟ったように小さく頷いた。何も言わなかった。ただ、その目が静かに問いかけていた。「分かったか」と。

二日後の夜、大型トラックが横転する事故が起きた。運転手と同乗者の二人が仮設病院に運ばれてきた。どちらも重症だった。俺は手術着を着ながら廊下を早足で進んだ。九州に入ってから、何日眠れていないのか自分でも把握できなかった。何日分の疲労が溜まっているのかも。ただ、手術台の前に立てば体が動く。

二つの手術を同時に回すことになった。神谷がもう一方を担当する。俺の手術室に入ったのは、より重症の運転手だった。相馬が第一助手として入った。

「回復する。出血量を見ながら輸血の指示を出す。ついてこい」

「はい、わかりました」

メスを入れた瞬間、腹腔内に血が溜まっていた。二箇所を同時に処置しなければならない。俺は止血を進めながら、相馬に指示を出し続けた。相馬の動きは早く確かだった。言葉が終わる前に手が動いている。

一時間が過ぎた。その時、俺の視界がふっと揺れた。一瞬だけ手術台の灯りがぼやけた。足元がわずかに頼りなくなった。眠れていない日が続いた末の、体からの警告だった。俺はすぐに奥歯を噛んだ。膝に力を入れた。

「先生、大丈夫ですか?」

「問題ない。続けろ」

「先生、少し、寄りかかってください」

相馬が静かに俺の隣に半歩近づいた。肩がそっと俺の腕に触れた。支えるとも、ぶつかるとも取れない距離だった。それだけで、体の芯に何かが通った気がした。俺は何も言わなかった。ただメスを握り直した。

「網膜に入る。ここを抑えてくれ」

「はい、わかりました」

二時間が過ぎた。患者の血圧が安定した。出血が止まった。俺はメスを置いた。手術室を出ると、廊下の壁に手をついた。膝が思ったより震えていた。相馬が隣に立った。何も言わずに、そこにいた。

「先生、今夜は休んでください。次の当直は僕が入ります」

「君ももう十日近く動いてるだろう」

「僕は若いんで」

軽い言い方だったが、目は笑っていなかった。心配している目だった。

「助かった。さっきは、何のことだ?」

「とぼけるな。先生こそ無理しすぎです。怒られますよ。誰かに」

「誰かに」という言葉が胸の奥に刺さった。里子のことを言っているわけではない。ただの言葉だ。それでも刺さった。

俺は壁から手を離した。背筋を伸ばした。まだ立てる。まだやれる。だが、それよりも。今夜、初めて俺はこう思った。この子に支えてもらった。それが情けないとは思わなかった。ただ、胸元のペンダントをシャツの上からそっと押さえた。里子と心の中で呼んだ。お前が育てた子は、こういう医者になったと。

一時間後、雨がようやく上がっていた。廊下のベンチに看護師の藤崎が座っていた。夜通しの当直だったのだろう。目の下に疲れが滲んでいた。

「お疲れ様でした。患者さん、安定しています」

「そうか。よかった」

「河田先生」

藤崎は少し迷ってから口を開いた。

「あの先生、よく似てますね」

「何がだ?」

「メスを持つ時の左手の角度です。先生とそっくりです」

俺は答えなかった。藤崎は微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。

その夜、俺は仮設病院の屋上に上がった。夜空は東南アジアの空より低く感じた。雲の切れ間から半月が覗いていた。手すりに肘をついて立っていると、足音がした。振り返ると相馬だった。缶コーヒーを二本持っていた。一本を差し出してくる。

「先生、お疲れ様でした。患者さん、ICUで落ち着いていました」

「そうか。よかった」

「先生のメスの入れ方、本当に勉強になります。今日のこと、一生忘れないと思います」

俺は缶を受け取った。相馬は手すりに寄りかかって、夜空を見上げた。

「先生、ずっと海外の現場にいて、寂しくないですか?」

「慣れた。それより、君はどうして被災地に志願したんだ?」

「救急をやってると、間に合わないことがあるんです。もっと早く、もっと近くにいたいと思うんです。だから、現場に来ました」

「そうか」

「先生もそういう気持ちで海外に出たんですか?」

「似たようなものだ」

しばらく二人とも黙っていた。雲が流れて、少し明るくなった。

「先生、変なこと聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「先生のそのペンダント、母が持っていました。父からの贈り物だって言ってました」

俺は思わず胸元に手をやった。シャツの中で銀の円盤が冷たく揺れていた。俺は迷った。このまま黙って何も言わずに去るのが、多分一番いい。里子がこの子を立派に育てた。俺が今更名乗り出て、何を返せるというのか。

「相馬君」

「はい」

「お母さんは、いい人だったんだな」

「はい。世界一の母でした」

俺はそれだけ言うと、缶コーヒーを飲み干した。夜風が吹いた。ペンダントがシャツの上から一度だけ揺れた。

九州の任務が終わる前日、俺は半日の休みを取った。神谷が手配してくれたレンタカーを借り、北九州の山あいにある里子の墓地に向かった。八年ぶりの日本の道を、俺は一人で運転した。

墓地は静かな丘の上にあった。誰もいなかった。俺は花を備えた。線香に火をつけた。墓石に刻まれた「河田里子」の文字を、長い間見つめていた。

「里子、遅くなった。本当に遅くなった」

声に出して言うと、自分の声が思ったより掠れていた。俺は墓石の前にしゃがみ込んだ。

「お前が相馬にどう話してくれていたか、聞いたよ。あの子は立派な医者になっていた。お前が一人で育ててくれたんだな」

風が吹いた。墓地のすぐ脇に植えられた銀杏の葉が、はらはらと舞った。俺は胸元のペンダントを外した。銀の円盤を手のひらに乗せて、しばらく眺めた。「無事」の二文字が、二十七年分の傷だらけになっていた。

俺はそのペンダントを墓石の前にそっと置こうとした。手が止まった。里子の声が聞こえた気がした。「それは持っていて」と。俺はペンダントをもう一度首にかけた。墓石に向かって深く頭を下げた。

「里子、相馬にはまだ何も言わない。いつかあの子が俺を必要としてくれる日が来たら、その時に名乗るよ。それまでは、医者としてあの子と同じ仕事を続ける」

墓地を降りる時、駐車場に一台の車が止まった。若い男が降りてきた。相馬だった。彼も花束を持っていた。俺たちは駐車場で偶然出会った同僚のように、軽く会釈をした。

「先生もお参りですか?」

「ああ、古い知り合いの墓だ」

「そうですか。僕は、母の墓参りです」

俺は頷いた。相馬は俺の顔を少しだけ長く見つめた。何かを言いかけて、やめた。俺も何も言わなかった。

「先生、また現場で会いますか?」

「ああ。君が呼んでくれたら、世界中どこへでも行く」

「約束ですよ」

「医者の約束だ。破らない」

相馬は笑って、墓地への坂を登っていった。俺は車に乗り込んだ。バックミラーに彼の背中が小さく映っていた。里子に似た、真っ直ぐな背中だった。

エンジンをかけた。胸元でペンダントが小さく音を立てた。

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