「絶対に警察には連絡するな。そんなことしたら許さないからな。」
普段は優しい夫が、鬼のような形相で怒鳴った。私は電話をかけようとした手を止め、夫を凝視した。
「電話をかけるなって…でも、私のお母さんがいなくなったんだよ。認知症も進んでいたし、もしも事故にあったりしてたら。」
「だから警察なんて大げさだって言ってんだろ。心配なら自分で探してくればいいだけだ。むしろ、そこまでしなくても時間が経てば帰ってくるさ。」
夫の言い分に、本当にそうだろうかと疑問を拭えずにいると、さらに夫はまくし立てた。
「大体、これまで言おうと思ってたけど、お前がそんなに神経質になるから認知症も進むんだよ。待ってれば帰ってくるんだから、下手に動くな。」
そう言って夫は、呆然とする私を置いて自室へ戻ってしまった。本当に探す気すらないのか。私は、大切な人から裏切られた気がしてショックを受けた。
とにかく探しに行かないと。悲しい気持ちを押し殺し、母がいそうな場所を探し始めた。
最初に母がいなくなったのは、数ヶ月前のことだった。
「え、お母さんが?わかりました。すぐに行きます。」
警察からの連絡は、まさに晴天の霹靂だった。母が交番で保護されたというのだ。スマホとお財布だけを掴んで、慌てて言われた場所へ向かった。
交番にたどり着くと、若い警察官が母のそばに寄り添っていた。警察官は私に気づくと軽く頭を下げる。隣の母はぼんやりとした表情を浮かべ、どこか穏やかな微笑みを浮かべている。しかし、その微笑みはなぜか私を不安にさせた。
「お母さん、ここでずっとうろちょろしてたから声をかけたんです。受け答えはしっかりしてるんですが、帰り道がどうしても思い出せないみたいで。」
「すみません。お手間おかけしました。お母さん、帰ろう。」
「あら?なお子、どうしたの?」
母はようやくそこで私の存在に気づいたようだった。母を迎えに行ったら実家に送り届けようと思っていたものの、これは本当にまずいかもしれない。そう思って、その足で病院に向かった。
幸い、すぐにお医者様にかかることができた。診断は認知症。覚悟はしていたつもりだったけれど、いざ言葉にされると、私は暗い闇の中に突き落とされたような気持ちになった。母に話すか迷ったものの、知らずにいても生活に支障が出ると思い、思い切って伝えた。母はどこか諦めたように「そう…」とだけ言った。症状は出始めているものの、すぐには悪化しないということで、とりあえず今日のところは実家に返すことにした。
久しぶりに訪れた我が家で、私はさらに驚くことになる。
「なんでこんなにお醤油があるの?」
「実は少し前から…物忘れが多くなって。」
母は重い口調で最近のことを語り始めた。調味料や文房具など、何度も買ってきてしまうことが増えた。それに加えて、玄関の鍵の締め忘れやトイレの流し忘れなど、些細な物忘れも多くなったのだという。しかし私に言ったら心配されると思って、言えなかったのだと。それを聞いて、私は涙が出そうになった。もっと早く教えてもらえていたら。私がもっと聞きやすい雰囲気を作ることができていれば。後悔がどっと押し寄せたものの、時間を巻き戻すことは当然できない。とにかく今できることをやるしかないのだ。
一旦自宅に帰り、夫の大輔に今日のことを報告した。
「だから、お母さんと同居したいの。」
語気を強めてそう言うと、大輔は「ふーん」とだけ言った。こちらを向くどころか、見ようともせず、テレビで流れているバラエティに夢中になっている。
「普通に無理でしょ。」
「そんな言い方しなくてもいいじゃない。」
私が声を荒げると、大輔は面倒くさそうにため息をついた。
「金もないボケの老人なんて世話できないって。お前にとっては親かもしれないけど、俺からしたら他人なわけ。やっとの思いで手に入れた我が家を、お仏壇みたいにされちゃたまらないよ。」
思わず言い返しそうになったものの、ぐっと飲み込む。今ここで大輔と喧嘩してしまったら、母のお世話をするのが本当に難しくなってしまう。でも、何もそこまで言わなくてもいいんじゃないだろうか。
大輔は私の気持ちを知ってか知らずか、言葉を畳みかけてきた。
「うちの親が病気だった時も、お前には迷惑をかけなかっただろう。それはそういうことだから。だからこの話、終わり。」
確かに、大輔の両親がそれぞれ病気になった時、世話をしろとは言われなかった。しかし、それは大輔の兄弟が懸命に介護をしていたからだ。大輔は悪びれもせず、義両親の葬儀の時も、まるで自分が頑張ったかのように振る舞っていた。
これ以上は大輔に頼れないと思い、私は実家に通って介護をすることに決めた。その日から、家事とパートと介護で忙しい生活が始まった。役所に相談して、なんとか母の年金の範囲内で利用できるサービスも見つけた。しかし、それにも限界があり、心身共に疲弊し始めてしまった。どんなに頑張っても母の認知症の進行は止まらない。ひどい時は私のことも気づかず、ただただ罵倒された日もあった。あんなに穏やかだった母が変わってしまうのが悲しくて、その日は泣きながら介護した。
そのうちに、体力の限界も迎え、私はパートをやめざるを得なかった。職場の人は「いつでも帰ってきていいよ」と言ってくれて、私はまた泣いてしまった。最近はシフトになかなか入ることができていなかったのに、私の家の事情も汲んでくれて、温かい言葉をかけてくれたのだ。
パートを辞めた夜、大輔に施設のことを相談してみたものの、一蹴されてしまった。「お前の親なんだから、お前が責任を持て。金もお前がなんとかしろ」と言われて。どうして私はこんな人と一緒にいるんだろうと思ったものの、大輔は少なくない額を家に入れており、そのお金がなければ私は暮らしていくのが難しい。最近はそのお金も減らされているが、文句は言えなかった。仕事を辞めた今、大輔のお金だけが頼りなのだ。貯金はあるけれど、先のことを考えるとすぐに切り崩すことはできない。どこにも逃げ場がないことを思うと、私は窒息してしまいそうだった。
そんなある日のことだった。
「お母さん。お母さんどこにいるの?」
ヘルパーさんが休みの日に、母がどこかに消えてしまった。1人で探していると、声を聞きつけた近所の人たちが手伝ってくれた。そのうちに、近所の人が呼んでくれたらしい警察の方も来てくれた。
「いましたか?」
「いや、見当たらないね。そろそろ暗くなるし、急がなくちゃね。」
「ありがとうございます。」
必死に探している間に、私はふと思いつく。そういえば、お父さんが大好きだった公園をまだ見ていない。生前、父は母と一緒によく散歩していた。そのお決まりの散歩コースに、町のはずれの公園があったのだ。私は一縷の望みをかけて、その公園へと向かった。
「お母さん。」
「あら、なお子。」
母は何でもないような顔で私を見た。私は泣きながら母を抱きしめる。抱きしめた母は、随分小さく感じられて、余計に泣けた。その後、捜索を手伝ってくれた方々にお礼を言って、母を実家へと返した。母は疲れたらしく、すぐに寝てしまった。
クタクタの状態で自宅に戻ると、大輔がソファーに寝転んでいた。苛立ちを隠そうともせず、私に向かって愚痴をこぼす。
「公園にいたんだって。たく、大騒ぎしやがって。よく探してから通報しろよ。うるせえから、俺のところまで聞こえてきたよ。」
「聞こえてたなら、手伝ってくれてもいいじゃない。」
「無理、無理。仕事で疲れてんの。毎日暇なお前とは違うんだよ。」
その言葉に、私は何かがプツンと切れた。電話のためにリビングから出ていった大輔の背中を見送り、もう離婚しようと思った。これ以上、あの人と一緒にはいられない。
しかし、その決意を揺るがす出来事が起こった。急に大輔が介護を手伝ってくれるようになったのだ。おむつや水など買いかえるものを買う時は率先して車を出してくれたり、「お母さんが危ないから」と実家の家具の配置を変えてくれたりした。いきなりのことに戸惑ったものの、大輔が手伝ってくれることでかなり負担が減ったのも事実だった。体が楽になっただけじゃなく、1人じゃないと思えたことで、かなりメンタルも回復してきた。それだけじゃなく、休日、介護のために丸1日家を開けても大輔は文句を言わなくなった。それどころか、「親が生きてるうちに親孝行すべきだよな」とまで言ったのだ。正直何がきっかけかわからなかったけれど、とにかくありがたかった。2人なら頑張れるかもしれない。一筋の希望が差したような気持ちだった。
そんな日々が続いて数日、母がまた家を出てしまった。私が慌てて探しに行こうとすると、大輔に呼び止められた。
「落ち着けよ。また帰ってくるって。」
「そうかもしれないけど、今度こそ何かあるかもしれないし、一旦通報して。」
そう言った瞬間、大輔の目の色が変わる。
「絶対に警察には連絡するな。そんなことしたら許さないからな。」
大輔が鬼のような形相で怒鳴り声をあげた。その顔を見て、電話をかけようとした手が完全に止まってしまった。大輔の恐怖で、小刻みに指先が震えるのが分かった。私の様子が変わったことに気づいたのか、大輔は慌てたように苦笑いを浮かべる。
「いやあ、大事にしたらお母さんも気を使うって話だよ。きっといつも通りその辺にいるさ。待ってれば帰ってくるだろうし、下手に動くよりいいだろう。」
そう言うと、大輔はそそくさと自室に入っていってしまった。大輔の怒鳴り声が耳元でリフレインして離れず、私はその場にへたり込んでしまう。大輔の言う通り、じっとしていた方がいいのだろうか。彼の言うことも一理ある。でも、彼の言いなりになってお母さんに何かあったら…
私はぐっと拳を握りしめ、いなくなってしまった母を探しに行くために家を出た。周りを見渡しながら歩いていると、実家の近くのコンビニから出てくる母を見つけた。慌てて駆け寄ると、袋を下げている。
「お母さん、どうしたの?」
「ああ、お菓子とお茶を買いに行ってたのよ。お客様が来た時に必要でしょ。」
その言葉に私は脱力した。まただ。また認知症の症状だ。お菓子もお茶も、家には食べきれないほどある。私は小言を言いたいのを飲み込み、必死で笑顔を作った。
「そうだね。ありがとう。じゃあ帰ろうか。」
「そうね。なお子も1つ食べる?」
「じゃあ、もらおうかな。」
もうこれ以上、母を1人にさせてはおけない。大輔には反対されるかもしれないけど、一緒に住もう。母と共に家に戻ると、庭に人影が見えた。
「はあ…家にいなかったのか。」
大輔の刺すような声に、慌てて息を潜める。母も嫌な雰囲気を察したらしく、私に習ってじっとしていてくれた。
「何やってんだよ。せっかくヘルパーが休みだったのに。今日やるって話だったろ。」
「何のことを言っているの?」
怪しいと思った私は、わざと音を立てて家に戻る。すると、大輔が慌てて電話を切ったのが見えた。大輔は卑しい作り笑顔を浮かべて、「何事もなくて良かったな」と言ってくる。大輔が母の手を引いて家の中に入っていくのを、私は不安が拭えない気持ちのまま見ていた。
その夜、私は母と大輔を起こさないようにこっそり起き上がる。大輔のスマホを指紋認証を使って開けて盗み見た。そこには「香織」という女とのメッセージのやり取りが大量に残っていた。文面から察するに、浮気相手だろう。2人で行ったカフェや旅行の写真が山ほどメッセージアプリにアップされている。
しかし、こんなお金、どこから?もしかして…慌てて通帳を見ると、残高が半分以上減っていた。最近は通帳を見る暇もないほど働いていたせいで、気づくことができなかった。自分の迂闊さを呪いながらも、大輔の通話やメッセージから彼らの思惑を推理する。大輔は香織と浮気しており、その浮気のためにお金を使い込んでいた。しかしそれでは足らず、私の母の生命保険を香織とせしめ合うつもりだった。多分、母の徘徊を利用して、事故にでも合わせる気なのだろう。もしかして、大輔が介護に協力し始めたのもお金のためだったってこと?私は急いで浮気の証拠を手元に保存しながら、今度こそ離婚してやると決意を固めた。
後日、私は友人に弁護士を紹介してもらった。それ以外にも、できるだけ日記をつけたり、ヘルパーさんに入ってもらう日を増やし、大輔の行動を監視したりして証拠を集めた。まさか自分がボイスレコーダーを買う日が来るなんて、思ってもみなかった。
そのうち、香織の正体が浮き彫りになってきた。なんと彼女は、大輔の同僚である町田さんという人の妻らしい。まさかのダブル不倫に、私は絶句してしまった。私はなんとか町田さんと接触し、話し合う機会を設けた。町田さんも香織の浮気を疑っていたそうで、それぞれの証拠を提供し合った。何でも香織は元介護職らしく、介護者やその家族の知識をしっかり持っていたそうだ。「きっと作戦も香織が立てたんだろう」と町田さんは言った。
「実は今、私の母が2人に狙われているんです。」
私は町田さんに全てを話した。母を事故に合わせ、生命保険をせしめようとしていること。それを何としても止めて、2人を現行犯逮捕したいこと。町田さんは快く協力してくれることになった。
数日後。
「じゃあ行ってくる。」
「行ってらっしゃい。お母さん、行きましょう。」
「はい。」
私は大輔を笑顔で送り出す。「お母さんを散歩に連れて行くよ」なんて言った大輔は、知る由もないだろう。母の服にボイスレコーダーとGPSがあることを。
2人の後をつけた。
「こっちの公園の紅葉が綺麗なんですよ。行きましょう。」
大輔は母の返事も待たず、引っ張るように公園に連れて行く。そして小道の真ん中に立たせて「ここにいてくださいね」と強い口調で言い、その場を離れようとした。
「何してるの、なお子。お母さん置いてどこに行くつもり?」
「違うよ。」
「これは何が違うのかな?」
「い、一体何の話…」
町田さんは無表情のまま香織の腕を掴み、大輔の前に立たせた。香織は黒いパーカーにサングラス。誰が見ても怪しい服装だ。町田さんが香織のものらしきバッグを地面に投げると、そこから上着の瓶がこぼれ出た。そこには睡眠薬のラベルが張ってある。
もうどうにもならないと悟ったのか、大輔はその場に膝をついた。
「べ、別に危害を加えるつもりはなかった。ちょっと眠らせて、遠くに置き去りにするだけで。」
「それが危害って言ってるのよ。何考えてるの?」
どうやら見知らぬ土地に置き去りにして、泡を食って事故にでも会えばいいと思っていたらしい。そうすれば保険金を受け取ることができ、その後は香織と仲良く逃避行してハッピーエンドだと本気で思っていたのだとか。私も町田さんも呆れ果てた。
その場で、2人に離婚を告げた。謀殺も傷害も未遂だから、刑罰にはならないだろうけど、こんな人たちと夫婦であることを一刻も早くやめたかったのだ。母は何も理解できていないような顔でぼんやり立っていた。きっとその方がいいのかもしれない。私は母の手を取り、その場を去った。
数年後。
「ありがとうございます。わざわざ来てくださって。」
「いえ、これくらいしかできませんから。」
町田さんは仏壇に手を合わせると、目を閉じた。仏壇に飾られた写真の中では、母は満開の笑顔を咲かせている。あの後、公園でのやり取りを録音したボイスレコーダーが証拠となり、あっさり離婚が成立した。同じ時期に町田さんは転職し、業界の中でも影響力のある大企業の社員となった。その結果、大輔の悪評は業界中に広まり、同じ職種には就くことができなくなった。無職になった途端、香織との仲も嫌になったらしい。最初から香織も大輔のお金が目当てだったということだ。慰謝料のために働かなければならないものの、かつてのプライドが邪魔をするのか、アルバイトも長く続かないそうだ。その上、若年性の認知症が始まってしまったらしい。道行く人に無差別に絡んでいたところ、親族からも見捨てられて、どこかの施設に放り込まれたのだという。
一方の私は、母の介護をとにかく懸命に行った。しかし認知症の進行は進み、介護を始めてから2年後、母は静かに息を引き取った。晩年はほとんど私のことも認識できなくなっていた。しかし最後は「なお子、ありがとう」と言って、眠るようになくなった。あんなに大変だったのに、いざいなくなると寂しくて、心にぽっかりと穴が開いたようだった。
町田さんにお茶を出し、ふと町田さんが私を見た。
「なお子さんは、これからどうするんです?」
「そうですね…これからのことは、正直言って私も分からない。両親に先立たれ、離婚して、1人になってしまった。でも、これは新しいスタートなのかもしれない。たくさんのものを失った代わりに、私は自由を手に入れたんです。まずは両親の思い出の地を旅行してみようかと思います。」
「それはいいですね。」
机の上に飾ってある両親の写真が、微笑んだ気がした。
父の葬儀の日、何時になっても現れない姉に電話をかけると、明るい声で彼女は笑っていた。
「はあ?葬儀なんて出るわけないじゃん。何?あんた、私が本当に出席すると思ってたの?あんな嘘に騙されるなんてバカね。」
「ちょっと、今日がどういう日か分かって言ってるの?」
「ああ、もううるさいな。分かってるわよ。親族みんなバカみたいに黒い服着て出席でしょ。だからこうして、誰もいない実家で権利書を探し出すことができたんだから。無事この家の買い取り手も見つかってるし、2000万で売れたのよ。マジ最高。だから今日という日に感謝はしてるわ。」
「ちょっと待って。家を売ったですって?」
「そうよ。あんたには1円もあげないから。あ、土下座して『お姉様、今まで生意気言ってごめんなさい』って言えたら、ちょっとは分けてあげようかしら。100円くらいね。」
言葉が出ない私。姉はそんな私を電話口で笑う。
「何よ。私に大金を取られちゃってショック?(笑)いい気味だわ。」
私は言葉を発せずに、込み上げる笑いを必死にこらえていた。私は全部知っていた。この後、姉がどうなってしまうのかを。
「いい気味。それはあなたよ。そっくりそのまま、あなたの言葉で返してあげる。あんな嘘に騙されるなんて、バカね。」
私は半田直。地元の大学に通う大学生だ。私には1歳違いの双子の姉、洋子がいる。両親は晩婚で、子どもに恵まれず悩んだこともあったらしい。悩んだ末に「この先も夫婦2人でゆっくり過ごす生活も悪くない」という気持ちになり始めた頃に、母の妊娠が分かったそうだ。両親とも40歳を当に過ぎていたが、高齢出産することに迷いはなく、しかも双子であることが分かって嬉しくて泣いて喜んだことを、私たち姉妹は子供の頃から聞いて育った。
私はその頃の話を穏やかに話す両親がとても好きだった。小さい頃には、私たち姉妹をいろんなところに連れて行ってくれ、楽しい思い出がたくさんある。小学校に入ると、参観日や行事ごとにも必ずどちらかが来てくれ、嬉しかったことを覚えている。ただ、嬉しかったのは私だけで、いつの頃からか姉の態度はそうではなくなっていた。
私と姉は双子と言っても二卵性のため容姿は似ていない。そして性格も全く違って、小学高学年くらいからは一緒に遊んだ記憶もあまりない。姉は小学高学年になった頃から「ババアが来てうざい」「学校に来るな」「外で話しかけるな」などと両親にぶつぶつと文句を言い、両親が年を取っているのが気に食わないようだった。家族との外出も嫌がり、食事以外の時間は自分の部屋で過ごすことが増え、明らかに両親を避けるようになっていった。
ある日、友達と遊んでいつもより少し遅くなって家に帰ると、リビングから姉の大きな声が聞こえてきた。
「外で話しかけないでって言ったでしょ。恥ずかしいからやめてよ。」
「ごめんね。でも親子なんだから。」
「関係ないから。」
私が「なんでそんな風に思うの?お姉ちゃん、おかしいよ」と不思議に感じ、聞いてみても「うるさい。あんたの方がおかしいの」とイライラした様子で当たり散らされるだけだった。小さい頃は私も「お姉ちゃん、おかしいな」くらいにしか思っていなかったけど、中学、高校と成長するにつれ、さすがに姉の言動に対して腹が立つことが多くなっていった。ただ、両親は文句を言う姉を叱ることも責めることもなかった。だから私も姉に文句を言うのを我慢していた。
今考えれば、両親は何の落ち度もないのに、自分たちが高齢であることへの引け目を感じていたのだと思う。「反抗期だろうから、いつかは落ち着いてくれるでしょう」と両親が話しているのを聞いたこともあった。
中学生になっても高校生になっても、姉の両親への態度が改まることはなかった。逆にどんどんエスカレートしているように感じていたが、両親は変わらず忠告もせず、聞き流している様子だった。
進路を決める時期になり、姉も私も大学へ進学することとなった。私は地元の大学に進学することにした。これまで愛情をかけて育ててくれ、今では高齢になった両親を支えていきたいし、家からも近く、時間に余裕もあるからアルバイトもできる。姉はと言うと、ああだこうだと文句を言いつつも一緒に暮らしていたが、大学進学を機に「ババアから離れたい」と、わざわざ遠方の大学を選び進学した。両親も反対はしなかった。姉は大学の寮は嫌だと言い、アパートも勝手に決めてきた。帰宅早々、一方的に書類を両親に書かせて言い放った。「自分のお小遣い分はバイトするから、家賃と生活費は親なんだからよろしくね」と。もちろん引っ越しもだ。両親が「大学までは行かせてあげたい」とそのつもりで契約をして、頑張ってきたことを知っているはずなのに、まるで自分のためならお金は湯水のように湧いてくるとでも思っているかのようだった。両親が契約書類や同意書類に目を通しながらあれやこれや聞いていたが、姉はいちいち面倒くさそうに答えていた。とどめに書き終わった書類を受け取ると、
「来週には出ていきます。ああ、それと、アパートには勝手に来ないでね。」
とまた言い放つ。私と両親が唖然としていることに気づかない様子で、姉は一人でウキウキしていた。
姉が出ていく日、まるで家族と縁を切るような言い方が引っかかっていたので、私はできるだけ冷静に腹立たしい気持ちを抑えながら、「何かあった時のために、連絡先が変わったら教えてね」と笑顔で送り出した。両親はとても寂しそうで、切なくなった。だって私は、これから姉の文句を聞かなくて済むと少しほっとしていたから。
その後は予想はしていたことだけど、3ヶ月も経たずに姉から両親へ、
「資格取るために勉強したいから、口座に振り込んで。」
「勉強が忙しくてバイトに行けなかったから、少しお願い。」
などと言い訳めいた金銭の無心が始まった。そして半年後には生活の一切を受け送りに甘えている状況になっていた。両親も「勉強もあるだろうし、どこかでお金を借りたりするよりは」と仕送りを続けていた。私に言わせれば、大学へもちゃんと通っているのかどうか怪しい限りなのだけれど。
私たち姉妹が大学2年の秋に、元々体があまり強くない高齢の母が体調を崩し、亡くなった。入院する時に先生からは「あと数日持つかどうか。合わせたい方へ連絡をしてください」と余命宣告も受けた。亡くなったのは入院してから2週間後のことだった。姉には医師から病状の説明を受ける時も、入院することになった時も連絡をしたけど、「今忙しいから」「今日も用事がある」とすぐに電話を切られた。なんだか怪しいなと思っていたら、ついには10回に1度くらいしか電話に出なくなった。しかもメッセージは既読スルーされるようになったので、しつこく電話をかけ続けるしかなかった。不安な時に頼れる姉ではなかった。
母は入院することになった時に、自分の病状を悟っていたようだ。一切取り乱したり、私たちを困らせるようなことを言ったりしなかった。だから余計に、亡くなる数日前から意識のある時「洋子に会いたい。来てくれるかしらね」と独り言のように言う母が不憫でならなかった。父も同じ気持ちのようで、母に気づかれないように泣いていた。父も姉に何度も電話をしたが、姉が電話に出ることはなく、父は母の心配と姉の不甲斐なさにかなり参っていた。私はそんな父も心配で、できる限り父と一緒に母に付き添うようにしていた。
振り返ると、この時期が一番辛い思い出だ。父と2人で母を見取ることができたが、母は最後まで「洋子は…」と、ぼんやりとする意識の中でも姉に会いたがっていた。
母が亡くなり、葬儀を知らせる電話にやっと出た姉は、
「え、お葬式?彼氏と旅行中だから、そんな暇ないって。」
と楽しげな様子だった。返す言葉も思いつかず、私はこれまでに感じたことのない怒りを覚えた。そして、お葬式当日、姉が姿を表すことはなかった。
葬儀から10日ほどして、今度は父が入院が必要となった。人狼が立ち、体調を崩したのだ。母の時は父がいたから不安も半分だったけど、今回は私1人で父を支えるしかない。不安は大きかったけど、もう姉を頼る気持ちは1ミリもなかった。幸い、父は姉の洋子のことは、母の葬儀の件で気持ちに整理をつけていたようだ。
「洋子に連絡をすることで、お前が嫌な思いをすることはない。」
父はそう言って気を遣った。いつも穏やかだった父が、その時だけ厳しい表情で言い切ったのには驚いた。姉はそれだけのことをしてしまっているのだ。
そんな中、母が亡くなったことや父が入院していることを知った友人数人が、心配して連絡をくれた。姉を頼ることもできず、父に心配をかけるわけにはいかない。私は1人になっても気持ちを張り詰めていたけど、電話越しの友人に弱音を吐くことができた。中には姉の洋子と共通の友人もいて、聞きたくはないが、姉の生活ぶりをちらほらと聞くこともあった。
姉には父が入院したことは伝えてある。顔を見せる気配は全くないけど。
そして、母の葬儀から一ヶ月後、母の後を追うように父も亡くなってしまった。
「姉さん、お父さんが亡くなったのよ。今度こそは絶対に帰ってきて、葬儀に出て。」
と強気で伝えた。珍しく強い口調の私に、「分かったわよ。帰ればいいんでしょ」と渋々だけど約束をした。父の遺言もあって、本当は無理に葬儀に帰らせなくてもいいと考えていた。だけど父が亡くなる数日前に、姉と共通の友人から気になる話を聞いてしまって、姉のことが心配になってしまった。
友人から聞いた話というのは、洋子が今付き合っている彼氏が詐欺師で、洋子が騙されている、という話だった。頼りない姉だけど、たった1人の姉妹。もしかしたらすごく困っているかもしれないと、さすがに心配になり、会って話をしたいと思っていた。ただ、そのままの理由を言ったら姉は逆上して、意地でも帰らないだろうから、父の葬儀をきっかけにちゃんと話をしようと思ったのだ。
私の剣幕に効果があったのか分からないけど、姉はお通夜の日に帰ってきてくれた。
「久しぶり。なお子、元気だった?」
「元気なわけないでしょ。続けて、両親が亡くなったのよ。」
「ああ、分かった、分かった。旅行中だったんだから仕方ないでしょ。今日は帰ってきたんだから、それでいいでしょ。説教はなしね。」
姉はそう言って腕を組み、馬の耳に念仏だ。ちっとも変わってない。でも体は健康そうなので、安心した。
この日は父のお通夜だ。姉はせっかく帰ってきたのに。「疲れたから、明日の葬儀だけ出るわ。今日は久しぶりの実家でゆっくりさせてよ」と家に残った。私は「疲れてるなら仕方ないか」と思い、葬儀場に向かった。
そして葬儀の日。朝のうちに一旦着替えるために家に戻り、仏間に入るとなんだかいつもと様子が違っているように感じた。でも、すぐに葬儀場に戻らなければならないことに気を取られて、あまり深く考えていなかった。家を出る前に、2階にいる姉に階段下から声をかけてみる。
「お姉ちゃん、葬儀11時からだからね。間に合うように来てね。」
「分かってる。もう心配しねえ。先に行って。」
機嫌の良い姉の返事が帰ってきた。私は久しぶりに姉と話をしたような気分になり、ほっとして家を出た。
葬儀場にて。10時30分、姉は現れない。10時45分、姉はまだ現れない。10時55分、姉現れず。11時、葬儀が始まった。
父の葬儀中、私は姉の身に何かあったんじゃないか。久しぶりの地元で道に迷ったんじゃないかと心配でたまらなかった。葬儀を抜けるわけにもいかず、少しの合間に姉に電話をしてみた。
「もしもし。」
「え、お姉ちゃん、何してるの?え、今どこ?」
私は状況が掴めず、混乱して聞いた。
「ごめんね。彼氏の用事ができて、戻らないといけなくなったのよ。」
「彼氏の用事って何?ねえ、親の葬儀より大事な用事って何?」
「彼氏の用事に決まってるでしょ?それくらい察しなさいよ。もう用事は済んだから、じゃあね。」
何が済んだって、何のこと?私がまだ話しているにも関わらず、一方的に電話は切られた。同時に、私の中でモヤモヤとした不吉な予感が込み上げてきた。朝に感じた仏間の違和感や、姉の機嫌の良さ。
落ち着け、なお子。冷静になって、なお子。私は自分に言い聞かせた。とにかく家に帰ったら、真っ先に仏間の確認をしてみよう。そうしたら、はっきりするはずだ。
葬儀を無事に終え、気合いを入れて、いよいよ家に戻った。遺影の父と位牌の母が「なお子、頑張れ」と言っているようで頼もしかった。やはり仏間は、特に誰かが触ったような形跡がたくさんあった。重要な書類や貴重品がしまってある引き出しを確認してみると、通帳や貴重品はあるが、実家の権利書がなくなっていた。
姉は、あろうことか、父親の葬儀中に実家の権利書を持ち逃げしたのだ。姉の仕業であることは間違いない。だが、1人で思いついたわけではないだろう。どうせ、詐欺師の彼氏に吹き込まれているに違いない。姉は昨日、お通夜にも出ないで、家中を物色していたのだ。姉が自分の実家をこそこそと物色している姿を想像すると、心配していた自分が馬鹿らしくなった。心のモヤモヤがすっと消えていった。
私は何度、姉に裏切られてきただろうか。ただ、これから先は裏切られ続けるのはごめんだ。両親なき後、2人きりの家族となるのだから、憎みきれずにいたけど、もうどうでもいいやと思えた。でも、このままではあまりにも両親が報われない。だから私は、姉の図に乗った根性を叩きのめしてやろうと決心した。とりあえずこの日は、両親に決意表明を報告し、眠りに着いた。
翌日、姉を追求すると、初めはしらばっくれていたが、権利書を持ち出したことを認めた。そして、その翌日には勝ち誇ったように家に来た。
「もうこの家は2000万円で売っちゃった。荷物をまとめて、さっさと出ていって。」
挨拶もなしに、突然である。
「それなら、貯金はいらないわよね?」
と試しに言ってみる。
「どうせ大した貯金じゃないでしょ。家以外はいらないから、残りは放棄します。いや、本当に、それって大丈夫?」
と笑ってしまった。
「大丈夫って何それ?自分の心配した方がいいわよ。じゃ、さっさと出ていってね。」
姉は言いたいことだけ言って、さっさと出ていってしまった。
後日、姉と共通の友人から、その後の姉の状況を聞くことができた。姉は彼氏に「君の実家、2000万円で売れるよ」と吹き込まれ、先に借金をして彼に貢いでいたのだそうだ。両親に無心していたお金も、彼に貢ぐためのものだったのだろう。彼氏からは「自分でもう家の相手は見つかっている」と聞かされていたが、もちろんそれは嘘。姉は彼からすぐに捨てられて、彼に貢いだ借金だけが残ってしまったそうだ。
そして、つい先日のこと。共通の友人から「なお子は洋子を心配して、詐欺師だと知らせようとしていた」と聞いた姉が、私を頼ってきた。泣きすがりながら「たった2人の姉妹でしょう」と。何を今更だ。それは私がずっと待っていた、姉を叩きのめす瞬間だった。泣きすがる姉を見下ろし、私は冷たく言い放ったのだ。
「好きにすれば。」
「ええ、そんなひどい。あんまりよ。」
「ひどい?あんたにそんなこと言う資格ない。母さんと父さんの思いを散々コケにしてきて、今まで散々自分勝手にしてきた報いを受けるといいわ。あんたはもう、私の姉なんかじゃない。あんたの家族は、もういないのよ。」
最後に1つ、姉には内緒にしていることがある。私は大学生になってから、アルバイトで稼いだお金を、少しでも足しになればと両親に渡していた。母が体調を崩して入院するまでの1年半ほどの期間だったが、両親はそのお金にはほとんど手をつけずに、株で資産運用をしてくれていた。私が稼いだお金だからと、両親は私名義の通帳を作って管理をしていた。このことは、母が亡くなり、父が入院する前に父から知らされた。父も体調が悪いのに、これからの私のことが心配で、通帳を渡されたのだ。だからこの通帳は仏間ではなく私の部屋にあったため、姉に見つかることなく無事だったのだ。結構まとまった金額なので、姉に見つかっていたら、このお金はもうなかったと思う。大学もやめずに通えることが嬉しかった。両親が亡くなる寸前にくれた、サプライズだ。私は今、このお金を大事に使いながら、1人暮らしを楽しんでいる。
姉の方は、大学も中退し、お金も恋人も失って、夜の街で必死に働いているらしい。



