運動会の昼休み、姉が私に近づいてきて、わざわざ聞こえるように言った。「どうせあの人に捨てられて、借金でもしてるんでしょ。借金生活で苦しそうね。」周りの保護者たちの視線が一気に私たちに集まる中、私は何も言い返せずにいた。すると、隣にいた小学生の息子が、突然こう宣言したんだ。「借金があるのはパパだよ。」姉は馬鹿にしたように笑ったけど、息子の次の言葉で、その顔が一瞬で歪んだ。私はその時、この日のた…

運動会の昼休み、姉が私に近づいてきて、わざわざ聞こえるように言った。「どうせあの人に捨てられて、借金でもしてるんでしょ。借金生活で苦しそうね。」周りの保護者たちの視線が一気に私たちに集まる中、私は何も言い返せずにいた。すると、隣にいた小学生の息子が、突然こう宣言したんだ。「借金があるのはパパだよ。」姉は馬鹿にしたように笑ったけど、息子の次の言葉で、その顔が一瞬で歪んだ。私はその時、この日のた...

「借金があるのはパパだよ。」

空のその言葉に、エリの顔が歪んだ。彼女は鬱陶しそうに、幼い空を見下ろす。

「ガキの嘘はいいから。」

「その言い方はないんじゃない?いくら子供相手だからって、失礼よ。」

「失礼はそっちでしょ。それに嘘をついてまで構ってほしいなんて。親子とも哀れね。」

クスクスと笑う彼女に、私もいい加減言い返そうとした。しかし、その直後、先に空が口を開いた。

「だってパパは無能なんだもん。借金ばっかりで仕事もまともにしないって。もう片方のおじいちゃんが嘆いてたよ。」

そして語られた真実に、エリの目が丸くなった。

私は湯川まみ。小学生の息子・空を育てている専業主婦だ。かつてはアパレル関係で働いていたが、今は在宅で仕事をしている。

田舎出身の私は人見知りがほとんどなく、同じ年の子供はもちろん、近所のおじいちゃんやおばあちゃんともすぐに友達になっていた。

「ゆきさん、来たよ。」

「あら、いらっしゃい。」

特に仲良くしていたのが、隣の家に住む松田ゆきだった。当時の彼女はよく家で絵を描いており、私はそれを見るのが好きだった。そのため、毎日のように押しかけていたが、毎回ゆきは温かく迎えてくれた。

「まみちゃんは、将来何になりたい?」

突然の脈絡のない質問に、すぐに答えられなかった。すると、ゆきは困ったような顔になる。

「ごめんね。困らせちゃったかな?」

「うん。急だったからびっくりしただけ。」

彼女の表情を見て、なんとかいつもの笑顔に戻ってほしいと思った私は、必死に考えた。正直、夢や目標などなく、大人になったらという妄想もしてこなかったので、話せる内容がない。

「ゆきさんみたいになりたい。」

私の返答に、彼女は一度目を丸くし、今度は柔らかく微笑んだ。

「ありがとう。まみちゃんがそう言ってくれるなら、もう一度頑張ろうかな。」

この時の出会いがきっかけで、私の進む道は決まった。ゆきから絵を習い始め、多くの絵画を見たり描いたりしているうちに、興味はデザイン関係へ。さらに、もっとたくさんの服を見て学びたいと考え、進路を服飾系にし、アパレルの世界に飛び込むことを決意した。

進学を機に地元を離れ、ある店に就職。色々なことで悩み、もみくちゃにされながらも、とにかく日々頑張っていた。

「君の評判は聞いてるよ。若いのに優秀なんだってね。」

そこに声をかけてきたのが、一つ年上の剛だった。彼は私が働いているお店の本社の社長で、将来会社を継ぐため、あちこちの店舗を見て回っていた。その際に私に目をつけたらしい。

「実際に会ってみたら、一目惚れしてしまった。よければ付き合ってほしい。」

やがて剛から告白され、交際を開始した。約2年の交際期間を経て彼からプロポーズされて私たちは結婚。さらに1年後に空を妊娠し、普通の家庭を築いていた。

「ねえ、今日お友達と遊んで行ってもいい?」

「いいけど、一度おうちに帰ってくるのよ。」

「はーい。」

小学校に通い始めた空は友達に恵まれ、毎日元気に駆け回っている。今でこそ安心して彼を外出させられるが、幼少期はとても大変だった。

剛と相談し、空を保育園に入れたのは3歳の時だ。そして私は店に戻り、妊娠前と同じように働き始めた。

「え、熱ですか?はい、分かりました。」

しかし、預けて1時間もすると、保育園から連絡が来るように。店長や同僚に頭を下げて早退するのが、週に何度も続いた。

次第に、周囲の人々に迷惑をかけることに罪悪感を覚えていく。

「ねえ、剛もたまにはお迎えに行ってくれない?」

「無理、無理。俺は社長で忙しいんだ。それに、そういうのは母親の仕事だろ。」

その頃には剛が社長を継いだ関係で、彼は仕事を言い訳に育児には参加しなかった。私の両親が住む田舎は新幹線を使って3時間の距離のため、頼るのは難しい。義両親に関しては、余生を楽しみたいと旅行に出ているので、私は誰にも頼れない状態だった。

「あなた、父親でしょ。」

「だから俺の役目は、お前らが食べるのに困らないように稼ぐことだ。」

剛は私の言葉を突っぱねるだけ。ただでさえ店に迷惑をかけ、一人で育児をしている状況なのに、彼の態度で私はさらにイライラしていた。

「というか、そんなに大変なら仕事やめたら?俺だけで十分養えるし。」

「それは……」

剛のセリフに、思わず口ごもる。本当は私も退職した方がいいと思っていた。おそらく剛は今後も育児には関わらないだろう。一番手っ取り早い方法は、私が専業主婦になることだ。しかし、せっかく憧れて飛び込んだアパレル業界なのに、という考えが頭をよぎる。

「分かったわ。」

それでも、空の方が大事だ。悩んだ末、私は家庭に入ることを選んだ。

専業主婦になってから空のそばにいる時間が増えた関係か、少しずつ熱を出す頻度が減っている。だが、油断はできない。外で思いきり遊べば、翌日には寝込む。体力がなかなかつかず、すぐに疲れてしまう。だからと言って、ずっと家の中で遊ばせるのも違う気がする。

私の退職に伴い、保育園も退園したので、空の様子を見ながら一日中寄り添う日々を送っていた。

「今日、会議で遅くなる。」

「そう。分かったわ。」

一方、剛とはどんどん関係が冷えていく。ほぼ毎日、残業やら飲み会やらと言っては深夜に帰宅し、さっさと寝室にこもっていた。空の顔すら見ようとせず、ただ寝に帰ってくるような状態だ。私も最近は剛の食事を作らず、夜中に放置された洗濯物を回収して洗うだけ。そんな環境だからか、空も剛には関心がない。

これって、家族である意味あるのかな。離婚した方が育児環境としてはいいだろう。しかし、今の私は専業主婦だ。あれだけ迷惑をかけた職場に戻るのも戸惑いがあるし、かと言って他に当てもなかった。下手に剛と別れて、空に貧乏な思いをさせてはいけない。私は何度も悩んだ。

状況が変わったのは、空が小学校に入った後。その頃にはすっかり体調も安定し、問題なく学校に通うようになっていた。そうなると、私は昼間に時間を持て余し始める。空の弁当作りの合間に家事をするため、効率のいいやり方を編み出していたので、午前中には大体終わってしまう。

「久しぶり。もしよければ、お茶でもしない?」

そんな矢先に、かつて慕っていたゆきから連絡が来た。彼女とは私の進学に伴い会わなくなったものの、定期的にSNSでやり取りしている。何でも、仕事の関係で近くに用があるらしい。嬉しい誘いに、私は二つ返事で頷き、会うことにした。

「お久しぶりです、ゆきさん。」

「相変わらず美人さんだね。」

「ありがとう。まみちゃんこそ。昔から可愛らしいわ。」

久々に再会したゆきは、年を重ねながらも昔と同じで、素敵な人だ。カフェでお互いの近況を話した際、最近の悩みについて相談したところ、提案された。

「なら、うちで働かない?」

彼女曰く、現在デザイン系の会社を経営しており、私をデザイナーとして雇いたいそうだ。

「今は平気でも、息子さんのことは心配でしょ?私の会社なら、リモートワークでも大丈夫だし。」

「それはありがたい話だけど、デザイナーの経験なんてないよ。」

「でも、ずっと勉強してきたじゃない。」

ゆきの言う通り、働きつつ勉強は欠かさなかったし、元々たくさんの服のデザインを見るためにアパレル業界に就職した。何より、時々自分ならこうすると書いている。

「物は試し。案ずるより産むが易し、っていうし。」

彼女の誘いは、私にとって本当に嬉しいものだ。

「ありがとう。ゆきさんのところで働かせてください。」

「ええ、これからよろしく。うちの社員になったからには、ビシバシ行くからね。」

冗談っぽく言うゆきに、笑いながら私は頷いた。

「ママ、お仕事するの?」

「そうだよ。お家にはいるけど、空の相手ができないこともあると思う。」

「大丈夫。僕、静かに遊べるよ。ママ、頑張ってね。」

簡単に事情を話すと、空はすぐに理解して応援してくれる。彼は普段から私の手伝いをしたり、率先して宿題をしたりと手がかからないので、さほど心配はしていない。

剛には何て説明しようかな。働く必要あるのか、と聞かれたらどうしよう、という不安が頭をよぎっていた。とはいえ、報告しないわけにもいかず、深夜に帰宅した剛に話すことにした。

「好きにすればいい。」

しかし、予想に反して剛は興味なさそうに返してくる。反対されなかったのは良かったが、内心、そこまで私に興味がないのかと感じた。

「それだけだったら、わざわざ俺に言わなくていい。家事さえやってくれるなら、お前は勝手にしてくれ。」

私の中で愛情がどんどん覚めていく中、剛はさっさと寝室に向かう。

まあ、いいわ。就職先が見つかったおかげで心に余裕ができ、彼の言動にもそこまで精神的に傷つかずに済んだ。私は自分と空のために、一生懸命働こうと決意した。

働き始めて半年が経った頃。最初は苦労したものの、今の生活にもなんとか慣れたところだ。

「あれ?お母さんからだ。どうしたんだろう。」

ある日、実家の母から電話がかかってくる。私が仕事をしていることは母も知っているので、基本的に日中は連絡を控えていた。そのため、緊急の用事かもしれないと考え、通話ボタンを押す。

「もしもし、何かあった?」

「忙しいのにごめんね。ちょっと、お姉ちゃんのことで……」

母の言葉に、思わず顔をしかめた。私にとって姉は疎ましい存在だが、一応血の繋がった実姉もいる。

「あの人、また何かやらかしたの?」

姉のエリは私より2歳年上で、自分勝手な性格だ。容姿に恵まれた彼女は親戚中から可愛がられていた。それにより調子に乗ったエリは、周りが自分に尽くすのは当然という考えを持つようになった。

「ねえ、また私のお人形取ったでしょ。」

「別にいいでしょ。この子だって可愛いし、私の方にいたいはずだし。」

私のおもちゃやお菓子を、エリは平然と奪っていた。両親はその度に彼女を叱っていたが、どこ吹く風で一切気にしない。それでも母がエリに注意すれば、父方の祖父に泣きついて甘やかしてもらう。私はそんな彼女が小さい頃から嫌いで、姉と呼びたくもなかった。そのことに関しては、両親もよく理解している。

「あの子、実家に戻ってきたの。」

「え?なんで?」

エリは私が剛と結婚した頃にお見合いして結婚した。相手側が結構なお金持ちらしく、大きなマンションで専業主婦をしていたはずだ。

「それが、離婚したのよ。」

「出戻りってこと?」

「ええ。私もお父さんも、いきなりの出来事でいまいち事情が分からないんだけどね。」

エリは自分の娘であるリリカを連れて突然実家に現れ、以降、何の説明もなく居座っているらしい。

「一応、あなたにも伝えておこうと思って。しばらく、うちに来ない方がいいかもしれないわ。」

私とエリの関係を考慮して、母は現状を教えてくれたらしい。

「ありがとう、お母さん。そうさせてもらうわ。」

電話を終え、思わずため息をつく。相変わらず自分勝手なエリに、呆れと困惑があった。

さすがに距離があるし、ここには来ないわよね。……多分。

しかし、どこかで嫌な予感がしていた。エリは昔から何でも奪ってきたが、その中には私の好きな人もいた。彼女は特殊な嗅覚でもあるのか、恋愛的に意識した男性がいると、こちらが言う前にその相手に接触する。

「誰があんたみたいな地味な女を選ぶと思うの?」

そう言って、片っ端から奪っていく。そんなエリだからこそ、結婚の挨拶の時も一騒動あった。

私が剛を連れて実家に行くと、家にいたのは両親だけだった。両親は彼女の性格を考えて、あえて同席しないように配慮していた。そのため、初めは特に問題なく挨拶が済んだ。

「あれ?まみじゃん。何しに来たの?」

「エリ、あなた今日は友達と遊ぶから、一日中出かけるって言ってたでしょ。」

「気分乗らなくて帰ってきた。それにしても、まみってば都会に出たのに、垢抜けなくて地味ね。」

しかし、エリが突然帰宅して空気が変わる。彼女は私を馬鹿にした後、剛を見て嫌な笑みを浮かべた。

「もしかして、まみの彼氏さん?私、姉のエリっていうの。よろしくね。」

「剛です。」

エリは体を寄せながら剛に迫る。その様子に、私は顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをした。きっと剛もドン引きしているはず、と視線を向ければ、彼はニコニコと微笑んでいる。

「ちょっと、失礼な真似をしないで。」

大人な対応をしてくれているのだと考え、私はエリを嗜めた。すると、彼女はこちらを侮蔑するような表情になる。

「へーっ、やきもち?」

「エリ、いい加減にしなさい。」

見かねた父がエリを叱り、ようやく彼女は口を閉じた。嫌な雰囲気になり、私は剛を連れて早々に実家を出た。

「姉がごめんなさい。正直、引いたよね。」

彼との別れ際、深々と頭を下げて謝罪した。

「え?謝られるようなこと、されてないけど。」

「でも、それにしてもお姉さん、美人だったな。いい目の保養になったよ。」

申し訳なく思う私に対し、にやけながら剛が告げる。

「剛、それってどういう……」

「あんな綺麗な女性が身内にいるなんて、羨ましい限りだよ。」

困惑するこちらに一切気づかず、彼は独り言のように語る。その様子に違和感を抱えつつも、私は剛の言葉の真意を尋ねることができなかった。

さらに、挨拶以降、エリは度々こちらに接触を図るように。

「あんたじゃ男を満足させられないでしょ。私が相手をしてあげるから、連絡先をよしなさいよ。」

そんなメッセージを何度も送ってくる。基本的に私は既読無視の状態だが、あまりにもしつこいので、剛に相談した。

「別に教えて構わないけど。もしかしたら、私みたいにしょっちゅう連絡してくるかもよ。」

「大丈夫。女性との付き合い方は、親に教育されてるから。」

そう言われ、私は渋々エリに教える。結果、彼女からの連絡はピタリと止まった。

「あの人から、メッセージとか来てる?」

「いや。最初に、こういうのはやめた方がいいって伝えたから、来てない。」

剛に確認したところ、どうやらエリは諦めたらしい。彼の誠実な態度に安心し、私は心穏やかに結婚式を迎えた。しかし、式の途中で、剛とエリが意味ありげにアイコンタクトをしているのを、私は見逃さなかった。とはいえ、すぐにエリが見合い結婚をしたので、気のせいだと思い込むことにした。

まあ、さすがにないわよね。いくらエリでも、新幹線で3時間もかけて私たちの元には来ないだろう。そう考えつつも、どこかで嫌な予感がしていた。そのため、あえて私はエリの情報を剛には伝えないことにした。

事態が変わったのは、それから1ヶ月ほどした頃だ。母から、エリが子供を連れて実家を出ていったという連絡を受ける。

「まみは、エリの行く先なんて知らないわよね。」

「知らないけど。」

「だよね。急に住む場所見つかったって言ってさ。」

問題ばかり起こしていたとはいえ、エリも母にとっては大事な子供なのだろう。心配そうな雰囲気が声に滲み出ている。

「どうして私に聞いたの?」

「あなたが住んでる町のマンションのパンフレットが置いてあってね。もしかしたら、そっちに引っ越したんじゃないかと思って。」

それで不安になり、念のため私に連絡したらしい。

「とりあえず、私には心当たりないわ。」

「だよね。ごめんね。時間を取らせて。」

「うん。気にしないで。あの人のことだから、新しい男のところに転がり込んだだけでしょう。」

明るい声で返すが、正直不安だった。帰宅が遅く家庭に関心のない剛と、私のものは何でも横取りしようとするエリ。どうしても二人の関係を疑ってしまう。ただ、気になるのはリリカの存在だ。リリカと会ったのは正月くらいだが、彼女はエリの娘とは思えないほどしっかりもののイメージがある。あんな母親の元で振り回されているだろうに、と心の中で深く同情していた。

誰か相談に乗ってくれないかな。頭に浮かぶのは、ゆきだ。とはいえ、彼女は社長をしているので忙しいだろう。それでもと悩んだ末、私は調査会社だけでも紹介してもらえないかと連絡することにした。

「エリちゃんか。あの昔から何か問題起こしてたし、不安だよね。」

「そうなんだよ。この話、弟にしてもいい?探偵をしてるし。確か、弁護士に知り合いがいるって聞いたことがあるの。」

「え?弟?」

ゆきに弟がいるとは知らず、驚く私に、彼女はどこか困ったように笑う。

「血の繋がりはないのよ。それで、色々と過去があってね。」

彼女の言葉を聞き、子供の頃を思い出す。両親が、ゆきは事情があって一時的に彼女の祖父母の元で預けられていると話していた。たまたまその内容を聞いた私が、どんな人だろうと訪れたのがきっかけで、姉妹のような関係になった。おそらく、その事情にゆきの弟の存在があるのだろう。

でも、頼りになる存在だから、彼に任せてもいいかな。

「そうね。お願いするわ。ゆきさんが信用してる人なら、腕は確かだと思うし。」

「信じてくれてありがとう。じゃあ、彼に連絡しておくね。」

そして紹介されたのが、松田颯斗という男性。彼は剛と同い年らしいが、童顔で見た目は私よりも年下に感じた。

「ゆきさんから大体の話は聞いています。早速、仲間に声をかけて、旦那さんとお姉さんの周辺を調べているところです。」

「もう動いてくれたんですね。ありがとうございます。」

「いやいや、姉の御恩人ですから。全力で取り組むのは当然です。」

初対面でやる気満々に告げられた言葉に、首をかしげる。助けられているのは私の方で、ゆきの御恩人になった覚えはなかった。

「お気になさらず。とりあえず、中間報告しましょうか。」

「え?もうですか?」

すでに調査を開始しているとはいえ、初対面で報告を受けるとは考えておらず、私は目を丸くする。そんな反応に対し、颯斗は苦笑した。あまりにも堂々としすぎていて、彼曰く、剛もエリも隠す気が一切ないらしい。

白日中、堂々とホテル前で落ち合い、夜には姉親子が暮らしているだろうマンションに入り、深夜に出て我が家に帰宅するというルーティンを繰り返していた。

「正直、一緒に調査していた仲間と呆れて笑ってしまうほど、簡単に証拠が集まりました。」

怪しいとは思っていたが、ここまで好き放題されるとは。完全に私を見下しているのがよくわかった。

「これ以上、調査しても変わらないと思います。」

「そうみたいですね。ここまでで大丈夫です。ありがとうございます。」

「いえ。あの、姉の件だけでなく、俺も相談に乗るので。愚痴でも何でも、聞かせてください。」

思わぬ気遣いのある発言に、一瞬涙が出そうになる。身内には頼れず、空のために必死に動いてきた。そのため、優しい言葉に心が解れたのだろう。

「あの、ごめんなさい。そう言ってもらえて、嬉しかったの。」

颯斗に微笑みながら返すと、数秒私を見つめた彼は、少しだけ安堵したように笑った。

「では、早速この証拠と一緒に、旦那さんに離婚を突きつけてきますね。」

「なら、知り合いの弁護士の名刺をどうぞ。離婚問題に強いので、役に立ちますよ。」

ありがたく名刺を受け取り、私は剛にメッセージを送る。

「今晩、あなたと姉との関係で話があるので、早く帰ってきてください。」

そうすぐに既読がついた。今は平日の午後2時で、本来なら勤務中。忙しい社長業をしているなら、すぐにメッセージを読むのは無理なはずだ。

ホテルかマンションか知らないけど、仕事サボって楽しんでるなんて、いいご身分ね。既読はないものの、今頃エリと一緒にいるだろうと想像し、怒りを通り越して呆れてしまう。

空はどうしよう。突発的に動いてしまったが、大事な空に大人のあれこれを聞かせたくない。難しいと思いながらも、私は母に連絡をした。

「え?そんなことに?すぐにそっちに行くわ。今からなら、剛さんの帰宅に間に合うかもしれないし。」

事情を説明すると、母は駆けつけてくれることに。母から連絡を受けた父も、多少遅れるが絶対に行くと宣言したらしい。

お父さんもお母さんも常識人なのに、エリだけどうしてあんな風になったんだろう。姑たちや親戚たちのせいだろう。空には悪影響だから、絶対に関わらせないと誓った。

そして、颯斗からの連絡から5時間後。

「おかえり。さすがに今日は、常識的な時間に帰ってきたわね。」

「仕方ないだろ、あんな風に呼び出されたら。」

「ま、バレてるなら、説明する手間がなくていいじゃない。」

帰宅した剛は、エリとリリカを連れていた。彼の腕に絡むエリと、少し離れたところで俯いているリリカ。

「エリ、あなたって子は……」

「お父さん、お母さん、リリカちゃんもいい?」

「ああ、任せなさい。」

彼らの帰宅より早く着いた両親は、二人を睨みながら子供たちを預かってくれた。話し合いが終わるまで、空とリリカと一緒に近くのファミレスで過ごしてもらう予定だ。

「子供たちに夜更かしさせられないから、さっさと終わらせましょう。」

「本当にお前は、子供ばっかりだな。」

「当然でしょう。私は母親なんだから。」

言いながら、浮気の証拠と記入済みの離婚届、そして弁護士に急遽用意してもらった慰謝料と養育費の請求書を差し出した。剛はそれらを読み、鼻で笑って離婚届に署名する。

「請求通りに払ってくれる?」

「ああ。エリの分も俺が払うから、用意してやるよ。」

「そうならよかった。これから大変ね。もう贅沢はできない。貧困生活になるんだから。」

簡単に話を進めると、エリが見下したように笑った。

「そうね。」

彼女と会話する気がない私は、適当に返す。それに少しだけむっとしたエリが、負け犬の遠吠えとでも考えたのか、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「ああ、この家はくれてやるよ。俺にはもう、アイツがいるからな。」

「それはありがとう。この家には、空との思い出がたくさん詰まっているもの。」

友達が多い彼を転校させるのも躊躇われたので、その申し出はありがたく受け入れることにした。

「それじゃあ、さようなら。絶対に、空の父親を名乗らないでね。」

「ああ。お前も俺に未練を作るなよ。」

そして私たちは離婚し、別々の人生を歩み始めた。

それから3年後。

「ねえ、今度お家に集まって勉強会するんだ。ここに呼んでもいい?」

「ええ、いいわよ。」

まだ小さかった空も4年生になり、低学年から頼られる人気者のお兄ちゃんになっている。リリカちゃんもその中にいるんだけど、エリはよほどあの顔が怖いのか、学区内だからと空と同じ小学校にリリカを通わせていた。そのため、親は絶縁していても、子供たちは交流がある状態だ。

「もちろん、彼女には夕飯食べて行くか聞いといてね。」

「うん。あ、夕ご飯はおうどんがいいな。」

「分かった。」

エリのことは大嫌いだが、リリカとは姪としての関係を続けている。何より、エリは育児放棄とまではいかないものの、リリカには「お金だけ用意しておけばいい」と、食事代だけ渡して放置気味だ。そんな彼女に同情し、時々我が家で食事をさせている。ちなみに、剛もエリも毎日遊び歩いているので、そのことは全く気づいていないらしい。

本当ならリリカを引き取りたいけれど、私一人の稼ぎだけで二人の子供を育てるのは心もとなかった。養育費や慰謝料は、将来空が大学に行きたいと言った時に備えて取っておきたい。それでも、私が彼女を自分の娘にしたいと言えば、ゆきを筆頭に周りは助けてくれるだろう。しかし、これ以上周囲に迷惑をかけたくないと、3年経った今でも私はエリたちのことで頭を悩ませていた。

「そうそう。今度の運動会、ママ来れる?」

「ちゃんと休みを取ったから、絶対行くわ。」

シングルだからこそ、学校の行事にはしっかり参加したいと考えている。そのため、多少無理をしてでも、必死で仕事の調整をしている最中だ。

「颯斗さんも来てくれるかな?」

「楽しみって言ってたから、来てくれるわよ。」

初対面以降、颯斗は何かと私たち親子を気にかけていた。初めはゆき経由で連絡を取り、休日に私個人に「空君と一緒に動物園行きませんか」というお誘いをするように。実の父親に相手にされなかった空が、自分と全力で遊ぶ彼にすぐに懐き、今では週末には颯斗さんと遊びたいと漏らしていた。

「僕、運動会の時予想で1番取ったら、お願い聞いてくれるって約束してるんだ。」

「あら、そうなの?なら練習も頑張らないとね。」

「うん。」

笑顔を浮かべる空に、私も微笑んだ。運動会は本当に楽しみだが、その反面、不安もある。エリたちが現れるかもしれないからだ。子供たちの邪魔をしなければいいけど。剛が来るとは思えないが、エリに関しては私へのマウントと、「自分は社長夫人」と周りに自慢するために現れる可能性は十分にあった。それどころか、子供たちを押しのけて「私が主役」と言わんばかりの行動を取りかねない。

かと言って、両親が来ないなんて、リリカちゃんがかわいそうだし。リリカのことを考えれば、親が参加した方がいいはずだ。しかし、彼女に絡まれるのは鬱陶しい。まあ、流れに任せるしかないか。

以前までは感染症の関係で運動会に参加できる人数は限られていた。しかし、今は緩和されたので、両親とゆき、颯斗も見に来る予定だ。つまり、運動会当日は私の味方が周りにたくさんいる。エリが何を言ってこようが、負ける気はしなかった。

その日の放課後。

「ただいま。」

「お邪魔します。」

複数の同級生とリリカを連れて帰宅した空は、真っ先に洗面台に向かう。そんな彼らが続く中、リリカだけは足を止めて、私に深々と頭を下げた。

「いらっしゃい、リリカちゃん。今日は空の希望でうどんになったの。たくさん食べてってね。」

「はい、ありがとうございます。」

リリカはアレルギーがあり、食べられるものに制限がある。それを理解した上で、彼女の好物をリクエストする空は、本当に優しくていい子だ。リリカもそのことは察しているらしく、彼に何度もお礼を言っていた。

やっぱり、子供たちには笑っててほしい。照れくさそうな空と、嬉しいとばかりに笑うリリカの姿を見て、彼女を引き取りたいという思いがより強くなる。そのためには、もっと稼がないと。決意を新たにした私は、わいわいと勉強する声を聞きながら、仕事に励んだ。

そして、運動会当日。

「楽しみだわ。」

「ああ。子供たちの頑張る姿は、俺たちも元気をもらえるからな。」

前日から私たちの家を訪れ、一緒に運動会を見に来た両親は、基本的に空に視線を向けている。ただ、時々リリカを見ているのに気づいていた。彼女も二人からしたら、可愛い孫の一人なのだ。だが、私に遠慮して態度に出さないようにしているのが伝わってくる。

「私たちまでお邪魔して、ごめんね。」

「いいのよ。応援してくれる人が多い方が、空も嬉しいだろうから。」

「なら、よかった。あ、空だ。」

颯斗が空を見つけると同時に、向こうも私たちに気づいたらしい。空が控えめに手を振ったところ、颯斗が大きく振り返すのを見て、私たちは微笑んだ。

「あの子、来てないね。」

「うん。」

たくさんの保護者がいる中、エリの姿はない。しかし、リリカは気にしていない様子で前を向いている。空には、お昼にリリカちゃんが一人だったら、私たちのところに連れてくるように行ってある。

「まみちゃんの方が、お母さんしてるわね。」

「あんな人に振り回されてる、あの子がかわいそうで。」

ゆきの言葉に苦笑した。それに笑顔を浮かべながら、優しい目を彼女はリリカに向ける。

実は、空が言っていたように、リリカはゆきを知っていた。私たち親子を気にかけるゆきは、何度か家に来ており、時には彼女の相手をすることもあった。すると、子供の頃の私のように、リリカは「ゆきおばさん」と自分から声をかけていた。

「きっと、ゆきさんが来てるって知ったら、リリカちゃんも喜ぶわ。」

「そうかな。」

そんなリリカをゆきが気にかけているのも知っている。もし私が引き取れば、大いに協力してくれるし、むしろ彼女も自分の娘にすることを考えているかもしれない。

運動会は順調に進み、やがて昼休憩に入る。

「颯斗さん、僕の活躍見てた?」

「もちろん。」

「あ、ゆきおばさん、こんにちは。」

「リリカちゃん。ダンス、上手に踊れてたね。」

リリカの手を引いて私たちのところに来た空は、笑顔で颯斗に駆け寄る。リリカも、ゆきが自分の活躍を見ていたと知り、嬉しそうに笑っていた。

和やかな雰囲気に、私が両親と微笑み合っていた時だ。

「なんで私が運動会に来ないといけないのよ。本当、こういう行事ってだるいわ。」

嫌な声が聞こえてくる。視線を向ければ、派手な服装にハイヒール姿のエリが、めんどくさそうに運動場に現れた。

「あ、あの人よ。例の略奪女。」

「よく堂々と顔出せるわね。」

彼女を見て、不快と言わんばかりにひそひそと話す母親たち。どうやらエリの所業は、保護者間で噂になっているらしい。居た堪れない様子で俯くリリカの背中を、ゆきが撫でていた。

「あれ?負け組のまみじゃん。お母さんたちもいるし。」

私に気づいたエリが、ニヤニヤと近づいてくる。

「安っぽい服ね。」

そして、私の格好を見て、見下した目を向けてきた。ちなみに今日は保護者参加の競技に備え、動きやすい服装を選んだ。周りの親も似たようなものなので、私だけ浮いているわけではない。

「どうせあの人に捨てられて、その日暮らしどころか借金でもしてるんでしょ。借金生活で苦しそうね。」

親戚のおかしいと言った様子で、エリは笑いながら言ってきた。

「お母さん、やめてよ。」

リリカが困ったように言うが、エリは全く気にしないらしい。

「本当に変わってないね。子供たちが主役なのに、ダントツで目立ってるわよ。」

呆れてため息が出る。

「当然よ。私はあんたみたいな悲惨な人生を歩んでないの。」

ドヤ顔を浮かべているエリに、何とか言い返そうと迷っていた時だ。

「借金あるのはパパだよ。」

空が声をあげた。途端に、エリの表情が歪み、鬱陶しそうに彼を見下す。

「ガキは嘘、言わないで。」

「その言い方はないんじゃない?いくら子供相手だからって、失礼よ。」

「失礼はそっちでしょ。それに、嘘をついてまで構ってほしいなんて。親子とも哀れね。」

クスクス笑う彼女に、私もいい加減言い返そうとした。その直後、先に空が口を開く。

「だってパパは無能なんだもん。借金ばっかりで仕事もまともにしないって。もう片方のおじいちゃんが嘆いてたよ。」

そして語られた真実に、エリの目が丸くなった。

「もう片方のおじいちゃんって……まさか、お父さん?」

「うん。うちの会社はもうおしまいだって言ってたよ。」

実は先月、剛の両親、つまり元義両親が我が家を訪問したのだ。

「この度は大変申し訳ない。あれを親として、あなたたちには心の底からお詫び申し上げます。」

義両親が玄関で剛の所業を詫び、私たちに現状を話してくれた。

「あいつは仕事をすっぽかして、女にうつつを抜かしている。元々、仕事をサボって浮気行為をしていた剛は、今も変わらず社長業を放り出し、エリとデートをしていた。結果、見る見るうちに取引先や株主から見放され、彼が気づかないうちに倒産寸前だ。」

「私が戻って会社を立て直そうかとも思ったが、それではあいつは反省しないだろう。これまで順風満帆な生活を送ってきた剛は、失敗を経験したことがない。そのため、義両親はあえてこのまま放置して、最後に責任を取らせるつもりらしい。」

「社員には極秘に伝達し、次の就職先も用意した。ただ、まみさんや空にまた迷惑をかけるかもしれない。そう思って、今回は説明を兼ねて、ちゃんと謝罪しに来たんです。」

正直、剛を放置してきた義両親には思うところもある。だが、「剛のことは絶対に助けない」という宣言を受けて、私は彼らを責めなかった。

空はその話を聞いて、色々調べたらしい。彼は義父の言葉に影響されたのか、独自にネットで調べ、株や経営について学んだ。

「パパ、このままだと借金抱えて倒産だね。」

彼から小学生らしからぬ報告を受けた時は、驚いたものだ。

「あ、は、そんなの信じられるわけないでしょ。」

「信じるかどうかは任せるわ。でも、不思議に感じることはなかったの?社長のはずなのに、こんなに遊んでて大丈夫なのかって。」

私が問いかけると、エリは理解できないという表情をした。彼女は全く疑問に思っていなかったらしい。

「それに気づかないなんて、あなたは表面しか見てないのね。だから、自分が周りにどんな目を向けられているかも、分からないんでしょうね。」

エリがハッと気づくと、周りの視線は私たちに集中している。

「もしかして、自分の身内も略奪したの?しかも、社長夫人って言ってたのに、会社のことは全然分かってないとか。」

ひそひそと囁く声。

エリは顔を真っ赤にさせた。

「うっさい!」

そう言って、彼女はドタドタと足音を立てながら去っていく。

実の母親の恥ずかしい行為を見ていたリリカは、彼女の姿が見えなくなると、ふーっと深くため息をついた。

「あんな人がママなのは、もう嫌だ。……リリカちゃん、ゆきおばさんか、まみおばさんのところに生まれたかった。」

これまでリリカがどれだけ苦労したのか、滲み出ている。思わずゆきと顔を見合わせると、彼女の瞳に決意が宿ったのが分かった。

「私も、リリカちゃんが娘になったら嬉しいな。」

「え?」

パッとゆきを見上げたリリカの表情には、今度は期待が込められている。それだけでも、エリが母親として失格なのがよく伝わってきた。

「そのために、リリカちゃんに協力してほしいことがあるの。できる?」

「うん。私、頑張るよ。」

「運動会が終わったら、弁護士の友達に連絡しておくよ。」

「ええ、お願い。」

ゆきたち姉妹の話の内容を察する。それには私も大賛成だ。

「彼女が家に来た日は、日記に残ってる。必要なら、後でまとめるわ。」

「ありがとう、まみちゃん。」

「ねえねえ、お腹空いた。」

空の言葉に、私たち大人は笑った。精一杯競技に打ち込んだのだから、空腹になって当然だ。

「そうね。お弁当食べましょう。リリカちゃん用のも用意してきたからね。」

「ありがとう。」

それから私たちはお昼ご飯を食べ、午後も運動会をしっかりと楽しんだ。

運動会の日の夜。早々に空は就寝し、私は今日撮った写真の整理をしていた。すると、スマホに久しぶりの人物から電話がかかってくる。

「はい。何でしょうか?」

「お前、エリに何言ったんだ?部屋の中、めちゃくちゃなんだけど。」

相手は剛だ。私と言い争ったエリは、帰宅後、物に当たったらしい。

「片付けもしないで、酒飲んで寝てるし。」

「別に、私たちは事実を教えただけです。」

「意味わかんねえ。そういえば、今日運動会だったんだって?空はどうだった?」

「あら、あなたから私の可愛い息子の名前が出るとは思いませんでした。あれだけ興味を示さなかったのに、今更何なのかしら。」

「いや、ちょっと父さんに連絡したら、名前が出たから。」

「そうですか。とはいえ、あなたには関係ありませんよね。」

「さっきから、その他人行儀な態度は何なんだ?俺たち、元夫婦だし。もっと砕けた話し方に。」

「今は赤の他人です。要件がないなら、切りますよ。」

私が態度を変える気がないのが分かったらしい。剛が軽く舌打ちをした。

「自分の子供の様子を聞いて、何が悪いんだよ。」

「気になるなら、エリの娘に尋ねたらどうですか?」

「は?ああ、そういえば、リリカはどこ行った?」

現在夜の9時だが、今の今まで彼女がいないことに気づかなかったのか。呆れてため息をつく。

「ま、リリカちゃんに直接尋ねるのは無理でしょうね。そちらの事情は把握してますから。こちらの知り合いが保護してますから。」

実は、一度自分の家に帰宅したリリカは、エリの行動に呆れて、私たちのところに来た。

「私の家に来る?」

「うん。」

その時、ちょうどゆきと颯斗が我が家で空の相手をしており、彼女を誘って連れ帰ったのだ。一応、誘拐扱いされないよう、私の両親も同行している。

「じゃあ、いいや。ガキがいるとゆっくりできないし。お前の知り合いとやらに、ずっと面倒見てくれって伝えといて。」

「ええ、喜んで。」

彼の発言は、こちらからしたらありがたいものだ。説得する手間が省けたのだから。

「まあいいや。また今度連絡するから。その時はもっとちゃんと反応しろよ。」

「承知しました。」

そう告げて、電話を切る。

早速、今の内容をゆきさんに送らなきゃ。実は、先ほどの電話は念のため録音していた。その内容をゆきにメッセージアプリで送信すると、すぐに「ありがとう」というスタンプが帰ってくる。

さて、頑張らないとね。これから剛たちに起こるだろうことを想定し、私は微笑を浮かべた。

事態が動いたのは、運動会から1週間後のことだ。自宅で仕事をしていると、何度もインターホンが鳴る。

「はい。どちら様ですか?」

「俺だよ。開けてくれ。」

モニターに映し出されたのは、やけに焦った表情の剛だった。その様子だけで、なんとなく状況を察する。

「嫌です。そこで話してください。」

「くそ。空は?あいつを出してくれれば、大人しく帰るから。」

必死すぎて、今日が平日なのを忘れているのだろう。空は学校に行っており、ここにはいない。

「どういったご用件で?」

「お前には関係ない。」

「親なので、無関係はありえません。」

「じゃあ、今すぐ俺に会わせろ。あいつが俺には必要なんだ。」

やはり、剛の目的は空を自分の手元に引き入れること。自分の保身のために子供を利用しようとする姿に、心の底から嫌悪した。

「残念ですが、空をあなたが引き取っても、ご両親の機嫌は取れませんよ。」

冷たく告げたところ、彼はハッとする。ようやく、私が色々と事情を知っているのが分かったようだ。

「お前、知ってるのか?」

「ええ。あなたがお父様から受け継いだ会社を、倒産させた件でしょ。」

そう、運動会の日から間もなく、剛の会社は多額の負債を抱えて破綻した。おそらく無能な剛は、義両親に助けを求めたのだろう。しかし、彼らはそれに応じなかった。

「父さんたちに、自業自得だって言われて、追い返された。」

義両親は剛を拒絶し、借金に関しては彼自身で払うように告げたそうだ。これまで社長として稼いだ給料は、エリが散財して残っていない。結果、彼は借金せざるを得ない状態になっている。

「で、お父さんたちが空を褒めてたのを思い出して、自分が引き取れば助けてもらえるとでも考えたんでしょう。」

「なんで、お前がそこまで知ってるんだよ。」

「教えてもらったの。あなたが現れる可能性もね。」

剛の会社が倒産した直後、弁護士から再び連絡があった。そこで正式に破産手続きがされたことや、「自分が空に目をかけているのは、あの子は将来大物になると分かっているからだ」と、義両親が言っていたことを聞かされたのだ。

「例え空を連れてきても、あなたは助けないと言っていました。せいぜい、あの子を私のところに返すだけだって。」

「そんな……」

「分かったら、帰ってください。警察呼びますよ。」

警察という言葉が聞こえたのか、剛は舌打ちをして立ち去った。

さすがに、ここにいたら危ないかもしれない。思い出の詰まった大事な家だが、剛に常に居場所を把握されていることになる。今は諦めたが、もしかするとまた空を狙う可能性も高い。接近禁止命令を出してもらっても、無視されるかもしれない。

まずは、剛が向かうことを考慮し、学校に連絡した。学校側は事態を重く見てくれ、私が迎えに行くまで、教師の誰かしらがそばにいてくれるそうだ。

あと、男性がいた方がいいかしら。頭をよぎる人物は一人。忙しいだろうとは考えつつも、私は彼に連絡をした。

「え?接触?すぐに行きます。」

電話したのは、颯斗だ。彼は事情を職場に話して早退し、駆けつけてくれた。

「弁護士の友人から、接近禁止命令を出せるように手続きを進めておくと連絡がありました。」

「何から何まで、本当にありがとうございます。」

「いいんです。俺がやりたいだけなんで。」

そう言って笑う彼は、頼もしい存在だ。剛に対しては言っても無駄としか感じなかったが、颯斗には、彼なら話を聞いてくれるという信頼があった。

「さ、空君を迎えに行きましょう。」

「ええ。」

そして、私たちは二人で学校へ向かった。

「あ、ママ。颯斗さん。」

彼は担任の先生と一緒に待っており、特に異変もない。まだ剛は現れていないようだ。

「事情は伺っております。今後、どうするかまた時間を取っていただけると。」

「ええ、近日中に必ず。」

担任と話している間、颯斗が空の相手をしてくれる。颯斗を慕っている空は、ニコニコと機嫌が良さそうだ。

「颯斗さん、僕の願い、聞いてくれる気になった?」

「あ、うん。えっと……」

それぞれが話していた時だ。

「見つけた。」

嫌な声が響き、とっさに私は空を抱き寄せた。視線を向ければ、そこには予想通り、剛が立っている。

「やっぱり現れましたね。」

「何の用よ。」

「もう一度、やり直さないか。俺と、空と、お前の三人で、また暮らそう。」

空を連れ去りに来たのかと思ったが、その予想を超えてきた光景に呆れてしまう。

「あなたには、エリがいるじゃない。」

「あいつはダメだ。あんなの……」

こんな状況になっても、自分の立場を理解していない。エリのことだ。話を聞こうとせず、できないことに対して彼を責めるだけだろう。

「お断りします。あなたと生活するなんて、二度とごめんです。」

「な、元とはいえ、夫が困ってるんだぞ。助けようと思わないのか。」

「あなたが私を助けてくれたなら、少しは考えたでしょうね。しかし、あなたは私が辛かった時、何もしていない。空の面倒も家事も手伝おうとせず、悩んでいる姿を見ても、一切耳を傾けなかった。エリと浮気しているからと、あっさり私たち親子を捨てたあなたを、誰が助けたいと思うでしょう。」

「お前も、社長じゃないのか。……俺は、興味ないってか。最低な女だな。」

「どの口が言っているんだ?」

冷たい声が聞こえ、全員の視線がそちらに向けられた。颯斗だ。彼は微笑んでいるが、目の奥が冷たく、明らかに怒っているのが伝わってくる。

「あ、なんだよ、お前。」

「探偵をしている、松田颯斗と申します。」

「探偵?」

「ええ。あなたのことは、よく知っていますよ。今までの所業とかね。」

思い当たることがあるのだろう。剛は焦ったように目を泳がせている。

「残念ながら、彼女はもうあなたと一緒になりません。」

「は?なんで、お前が決めるんだよ。」

「まみさんと空君は、俺が幸せにするので。あなたの出番なんて、ありませんから。」

颯斗の宣言に驚いたのは、剛だけでなく私もだ。思わず彼の顔を見つめる一方、空が輝くような笑顔を浮かべている。

「さて、これ以上引き止めるなら、誘拐の危険があると通報しますよ。」

「さん……」

動揺した剛は、颯斗を睨んだ後、駆け出した。そのまま車に乗り込んで去っていくのを見届け、私は深く息を吐く。

「颯斗さん、ついに決めたんだね。」

「うん。あの、詳しい話は、ご自宅でしても……」

「あ、はい。」

「あ、ちょっと待って。」

空が急に学校の中に入っていった。しばらくすると、リリカの手を引いて戻ってくる。

「リリカちゃんも、一緒でもいい?もしかしたら、追いかけられるかも。」

「え?そうね。一旦、私たちの家に行きましょう。」

大人しく空の後をついてきたリリカは、以前よりも元気がない。何より、暑くなってきたにも関わらず、彼女は長袖で起きている。

その姿に嫌な予感がし、私はリリカを保護することを選択した。

帰宅後、私はひとまずゆきに連絡する。彼女も颯斗と同様、すぐ家に駆けつけてくれた。

「えっと、それで運動会の日、空君に言われたんです。『僕のパパになって欲しい』って。」

そういえば、空は運動会の徒競走で1番を取ったら、お願いを聞いてもらうと言っていた気がする。空は有言実行で1番になったので、その日のうちに頼み事をしたのだろう。

「つまり、実は初めて会った時から好きでした。俺と、結婚を前提に付き合ってください。」

颯斗はパッと頭を下げ、私に手を差し出した。まるで学生のような告白に、思わず笑みがこぼれてしまう。

「はい。お願いします。」

そして、私は彼の手を握った。

「そっちは無事解決したみたいね。」

「あ、からかわないでくれよ。」

お風呂場でリリカの身体を確認していたゆきが、笑顔で声をかけてくる。彼女に顔を真っ赤にして答える颯斗が、可愛らしく愛しいという感情で胸がいっぱいになった。

「颯斗さん、本当に僕のパパになってくれる?」

「ああ。俺を、君の家族の一員にしてほしい。」

「うん。やった。ずっと、颯斗さんが僕のパパだったらいいのに、って思ってたんだ。」

空が大喜びするのを、嬉しそうに颯斗が相手をしている。すでに、彼らは十分親子に見えた。

「それで、リリカちゃんの体はどう?」

「やっぱり、手を出された後があったわ。」

ゆきはお風呂場でリリカから話を聞いたらしい。それによると、最近、エリと剛は喧嘩ばかりしており、そのイライラをそれぞれ彼女にぶつけていたそうだ。

「準備もできた。私も一歩動き出すわ。」

「頑張ってね。協力はいくらでもするから。」

前々から、ゆきがリリカを引き取るため、エリたちが保護者としての責務を放棄している証拠を集めていた。とはいえ、最低限の食事や服などの提供や、学校に問題なく通っていることから、親権を取るのは難しかった。しかし、今日、明らかな証拠が手に入ったのだ。

「リリカちゃん、一緒に暮らしましょう。」

「うん。」

それから、慌ただしく、しかし幸せな日々が始まった。私と空は、急遽、颯斗が住むマンションに引っ越し、ゆきもリリカの親権のため、弁護士を雇い、エリたちに親権を手放させるための手続きを進め始めた。

「ちょっと、あの女、何なの?」

エリが事態に気づいたのは、全ての準備が整ってからだった。弁護士が通報した警察と児童相談所の職員が彼女の元を訪れ、そこでようやく、リリカがあの日以降、家に帰っていないことに違和感を覚えたらしい。慌てた様子で電話をかけてきたエリに、呆れてため息が出る。

「これは誘拐よ。私の娘を返すように、あの女に伝えなさい。」

「だから、言わないで。そもそも、なんで今まで帰ってこないことが変だと感じなかったの?」

「そ、それは……」

「ま、普段から追い出したりしてたんだもの。どうせ、剛が外に放り出したとも考えたんでしょう。」

リリカの証言で判明したが、彼女は時々、剛に「邪魔だ」と、天候関係なくマンションから追い出されていたのだ。特にあの日、剛は私たちに反撃され、エリが声をかけるのを躊躇うほど怒っていた。そのため、エリはリリカがまた剛に追い出され、外で時間を潰していると思い込んだのだろう。

「ま、それでも警察が来るまで放置するなんてね。そもそも、子供を外に放り出す時点でアウトだけど。すでに保護してから、1週間ほど経ってる。親としての自覚がないと宣言しているようなものよ。」

「いいじゃない。これで、お金がかかる存在が一人減るわよ。どうせ、ちゃんと面倒見てないんだから。いない方が楽じゃない?」

心にもない言葉を投げかけると、エリは目を輝かせた。頭の軽いエリが、深く考えず私の提案に乗るのが目に見えて分かっていたからだ。

「それもそうね。」

予想通り、彼女はあっさりとリリカを手放す方向に思考を傾けた。

「あの人がね、自分にくれるなら、ある程度包んでくれてもいいって。」

「え、マジ?なら、喜んで差し上げるわ。」

実際、ゆきは後で文句を言われたくないと、いくばくかのお金を渡すことを検討している。それを聞いたエリは、即座に親権放棄を決めた。

「じゃあ、弁護士さんの指示通りに動いてね。」

やがて、弁護士とエリたちの間で交渉があり、リリカはゆきの養子となることが決まった。

「実は、ゆきさんの弁護士さんと婚約したの。」

直後、ゆきはこれまで一緒に頑張ってきた弁護士と結ばれた。相手は子供ができにくい体質らしく、リリカを娘として受け入れることに賛成している。入籍後は、特別養子縁組も視野に入れているそうだ。

「向こうは大丈夫そうね。」

「ああ。俺たちも、向こうに負けないくらい幸せにならないと。」

「うん。」

そして、私たちはそれぞれの道を歩み始めた。

例の運動会から10年後。

「空も、20歳か。なんだか、あっという間だったな。」

「本当ね。」

私と颯斗は、あれから1年後に結婚し、二人で空を育ててきた。元からしっかり者だった空は、成長しても変わらない。これといった反抗期もなく、優しいまま成人を迎えている。

「しかも、将来は俺みたいになりたいって。」

「あなたってば、感動して泣いてたものね。」

空は法律を学びたいと、法学部がある大学に進学し、一人暮らしを始めた。

「そういえば、受賞式って今週末だったよね。当日は、たくさんお祝いしないと。」

「もう、そんな年齢じゃないわよ。」

私の方は、相変わらずゆきの元でデザイナーとして働いている。そして先日、私のデザインがグッドデザイン賞を受賞した。受賞式にも参加する予定だ。颯斗は、私が表彰されるのを見るのが楽しみで仕方ないらしい。

「その日は、空も帰ってくるって。」

「二人とも、大げさなんだから。」

本当に、この10年間は幸せな日々だった。そのため、エリたちの存在は、私の頭からすっかり消えていたのだ。

そして、迎えた受賞式の日の夜。

「やっぱり、お母さんはすごいね。」

空は予定通り私たちの元に駆けつけ、久々に三人で穏やかな時間を過ごしていた。

「まみ……空。」

そんな中、一人の男性が声をかけてくる。ボロボロの作業服に、痩せて老け込んだ初老の男性だ。誰か分からず、私は首をかしげた。

「失礼ですが、どちら様ですか?」

「俺だよ。お前の夫の、剛だ。」

彼の言葉でやっと正体が分かり、目を丸くする。記憶にある剛と、目の前の彼はあまりにも違いすぎていた。

「え?嘘。剛?」

「テレビでお前が受賞したのを知って、それでわざわざ会いに来てやったんだ。」

上から目線の態度に、ようやく剛だと信じられた。それは颯斗と空も同じらしく、先ほどまで驚いた表情をしていたが、今は冷めた視線を向けていた。

「どうも、10年ぶりですね。何かご用でも?」

「やっと俺の有難みが分かったから、復縁しようと思ってな。それに、空だってもう手がかからないだろうし。」

「ふざけるのも、いい加減にしてください。」

ピシャリと言えば、剛が驚いたように固まる。

「いつまで、私の夫のつもりですか?」

「え?あ、まみ……」

「あなたは、夫として、父親として、私たちに何かしてくれました?」

私の問いかけに、剛は目をそらす。返す言葉が出てこないのは当然だ。彼は自分勝手な生活しか送ってこなかったのだから。

「自分の妻として……子供として。あなたは、夫としての資格があるのですか?」

「それは……だって、俺は社長で……」

「元でしょ。私にとって、あなたは空をこの世に誕生させてくれた。そのことしか価値はありません。」

そう宣言すると、剛は悔しそうな顔をする。

「そもそも、私と結婚している間、ほとんどの時間をエリに費やしていたくせに。」

「は?」

「あら、私が何も知らないとでも?あなたたちの関係が始まったのは、結婚の挨拶の後からでしょ。」

剛の体が震えた。そう、二人は私が剛の連絡先を教えた後から、浮気関係にあった。結婚式でのアイコンタクトは、何も知らずに結婚したと、二人して私を馬鹿にしていたものだ。

「なんで、そこまで知ってるんだ?」

「リリカちゃんの父親のところに行ったんですよ。」

特別養子縁組をする場合、一部の例外を除いて、両親の同意が必要だ。エリの元夫の居場所は分かっていたので、事情説明も兼ねて、私とゆき、そして彼女の夫の弁護士で彼を尋ねた。

「エリが離婚した理由、それはリリカの本当の父親が、あなただったから。」

元夫は、リリカがあまりにも自分に似ておらず、違和感を覚えてDNA検査を実施したらしい。結果、親子関係はなし。父親が誰かまでは分からないが、離婚を申し出たのだ。

「それで、あなたと目元が似てるなと思って、私たちもDNA検査したんです。剛が私に家をそのまま渡したおかげで、まだ彼のコップや歯ブラシなどが残っていた。それを用いて専門機関に依頼したところ、剛とリリカの二人には血縁関係があると発覚した。」

「本当、最低。」

「俺も、それを知った時、こんなのが親父かって、ある意味絶望したよ。」

「そ、空……空は……」

空は冷たく剛を見ながら言う。自分の息子から向けられた視線が信じられないのか、彼は動揺していた。

「小さい頃は、あんたみたいなクズでも、相手して欲しかった。体調崩すたびに、心配してくれるかなって考えてた。……でも、すぐにダメ男だと気づいて、期待しなくなりましたけどね。だって、俺は男だから。ずっと疑問だったんだけど、なんで家族を持ったんですか?あなたみたいな人は、一人で生きていくべきでしょう。」

剛は反論できないようで、黙ってしまう。そこへ、颯斗が空の肩を叩いた。

「それだと、お前が生まれないだろう。」

「よ、多分、この人に母さんが捕まらなくても、きっと父さんに出会えた。で、二人の元に、きっと俺は生まれてたよ。」

「空……」

堪えきれなかったらしい。颯斗が空の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。その手からなんとか逃げようとしている姿は、親子のじゃれ合いにしか見えない。剛も同じなのだろう。一瞬、羨ましそうな顔をし、やがて目を伏せると、とぼとぼと歩き出した。

「次は、警察を呼ぶので。」

彼の背中に言う。おそらく、あの様子ではもう二度と私たちの前に現れないだろう。

「先に手放したのは、あなたよ。」

そして、私たちは笑顔で彼の存在をなかったことにした。

「あの人のことなんて、忘れてご飯行こうよ。」

「だな。お祝いだから、いい店予約しといたぞ。」

「あ、そういえば、リリカちゃん、今度個展を開くって。」

「そうなの?見に行かなくちゃね。」

ゆきの養女になったリリカは、新しい母親に絵を教えてもらい、めきめきと腕を上げている。今では才能を発揮し、彼女は学生画家として有名になっていた。

「俺も、一緒に行こうかな。」

「彼女に、お父さんって呼ばれたいんじゃないの?」

「まだ、呼ばれてないよ。」

「もしかして、母さんとデートしたいとか?」

「そうだよ。悪いか?」

空と颯斗の様子を見つめる。初めは、いくら空が慕っていても血の繋がりがないから、家族になるのは難しいのではないかという不安もあったけれど、もはやそんな心配は無用だった。

「というわけで、俺と母さん二人で行くから。しょうがないから、友達も誘って行くか。」

「相変わらず、リリカちゃんと仲がいいのね。」

「大事な従姉妹で、妹みたいなものだから。」

空はにっこりと笑いながら言う。彼からすれば、リリカは異父兄弟であり、実の父親を奪った女性の子供でもある。それにも関わらず、空は彼女を大事に守ってきた。

「本当、あなたは自慢の息子よ。」

「急に何?」

私の言葉に、少し照れた様子を見せる空が、心の底から愛しく感じる。

「ほら、早くご飯行こうよ。」

待ちきれなくなったのか、大きめの声を出す彼に、私と颯斗は笑った。

そんな会話をしてから、約半月後。私と颯斗は、予定通りリリカの個展に赴いていた。

「まみさん、颯斗さんも来てくれたんだね。」

19歳になった彼女は、綺麗な大学生という印象だ。ゆきさんも元気そうね。リリカから少し離れたところにいるのは、それなりに年齢を重ねた養母のゆきである。彼女は他の来場者の相手をしていた。

「これからテレビの取材があるんだけど、おばさんたちは気にしないで、ゆっくり見てって。」

「ありがとうね。」

昔はしっかり者だったリリカだが、成長してからは、むしろ自由に生きている感じだ。きっと、ゆきにたくさんの愛情を注がれ、わがままを言える環境が、今の彼女を作ったのだろう。

「じゃあ、行きましょう。」

颯斗を促そうとした、その時だ。

「あの子の成功は、私のおかげなのよ。」

下品な声が、辺りに響く。嫌な予感に、私は颯斗と顔を見合わせた。

「だって、私が本当の母親なんだから。」

嫌な方に視線を向けると、スマホを自分に向けている女性の姿が。ケバケバしい化粧に、年齢に合わない露出の多い服。若作りとしか思えない服装で、明らかに場違いに目立っている。

「あー、いた、いた。久しぶりね。私の愛しい娘ちゃん。」

そして、彼女がこちらへと歩み寄ってきた。リリカは嫌そうな顔をしている。

「私の母は、ゆきお母さんただ一人です。またあなたですか?わざわざ個展にまで来るなんて、飛んだ恥知らずね。」

ゆきもリリカの隣に並び、うんざりしたように女性を睨んだ。

「まさか……エリ。」

二人がここまで激怒する人物には、一人しか心当たりがない。だが、彼女も剛と同様、悪い方向に変化しているらしく、身内なのに一目では誰だか分からなかった。

「うるさいわね。あんたは偽物なんだから、引っ込んでなさいよ。」

「お忘れのようですが、私とリリカは特別養子縁組をしています。法律的にも、私が母親なのよ。」

「違う。リリカの母は、私よ。今日こそ、みんなにもそれを教えてあげるの。」

私たちなど視界にすら入っていない様子のエリの手には、配信中のスマホが握られている。

「あんたの動画配信?」

「そうよ。真の意味であんたを愛しているのは、この私なんだから。」

歪んだ笑顔で告げるエリに対し、リリカの表情は氷のように冷たい。リリカは完全に拒絶しているが、エリは全く気づかない様子だ。相変わらず、鈍いらしい。

「あなたが、唯一私に用意してくれた料理。何か覚えてる?」

「え?えっと……」

「それすら、覚えてないのね。よく、自分が本当の母親など言えたものだわ。」

私も颯斗も、呆れてしまう。

「廃棄寸前のオムライス。それを、私が食べたと思う?」

「そりゃ、子供なんだからオムライス好きでしょ。だから食べたんじゃないの?」

「あんた、自分の子供のアレルギーも覚えてないわけ?」

つい口を出すと、エリが私を見た。

「ま、まさか……まみ?なんで、あんた見た目変わってないの?」

「私のことよりも、リリカの話を聞きなさい。」

「まみのくせに、生意気なのよ。」

「ええ、私は卵アレルギーよ。それも、今は良くなったけど、子供の頃は命に関わるレベルだった。当時、エリはお金だけ渡して、食事はほぼ作っていなかったとはいえ、普通は自分の子供のアレルギーは把握しているはずだ。だから、私はオムライスを食べてない。でも、あなたは『せっかく用意したのに』って、無理やり食べさせようとした。」

身の危険を感じたリリカは、家を飛び出した。その頃には、ゆきのマンションに引っ越していたので、私たちの家に逃げ込んだ。これがきっかけで、彼女は時々我が家でご飯を食べるようになったのだ。

「あなたが、まみおばさんの家の住所を漏らしてくれたので、助かりましたよ。」

かつて、エリはよくリリカにスマホで見せつけたらしい。

「あの人のおかげで、あの負け犬もこんないい場所で暮らせてる。私を見下しながら、そんなことを言ってたそうだ。しかし、それが仇になったわけである。」

「だ、だから何よ。別に、これまで生きてこれたんだから、問題ないじゃない。」

「少なくとも、あなたのところは安心して暮らせる場所じゃなかった。それだけでも、十分問題あると思うけど。」

「そ、それは……」

さすがに言い返せないのか。エリは目をそらし始めた。

「あなたと過ごしていた日々は、私にとって地獄だった。あなたは男遊びに夢中で、私はずっと置き去りにされた。最初のお父さんは相手してくれたけど、真実を知って私を拒絶したわ。父親に拒否され、祖父母には、触れるのも怖いような扱いを受けた。そして今度は、学校では同級生たちに嫌がらせを受けるようになった。エリは、既婚者と浮気し、略奪したことを隠すどころか自慢していた。その話を親から聞いた同級生たちは、『浮気女の娘』『男好き』『何でも奪う』と、リリカの噂を流し、嫌がらせの対象にしたのだ。」

「あなたに訴えても、『周りが嫉妬してるだけ』と取り合ってくれなかったよね。」

「そんなの、知らない。」

「興味なかっただけでしょ。私は毎日、辛くて仕方なかった。でも、空君が声をかけてくれた。クラスの雰囲気を気にしていた空は、リリカがクラスに馴染めていないと判断し、彼女の手を引いてそばにいるようにした。学校で人気者だった彼が近くにいたおかげもあってか、次第に嫌がらせは緩和していった。ゆきお母さんも、いつだって私の心に寄り添ってくれたわ。あなたに苦しめられた分、まみおばさんや空君、ゆきお母さんが幸せをくれた。さて、ここまで聞いて、どっちが本当の家族だと思います?」

リリカの視線は、エリが持っているスマホに向けられている。これまでのやり取りは配信されており、コメント欄が大荒れしているのが見えた。

「な、私がいなければ、あんた生まれてないのよ。」

「だから何?私はとっくに、あなたの娘をやめてるの。そもそも、これまで何の接触もしてこなかったのに、成功した途端に現れるなんて、恥ずかしくないの?」

「ふざけんな!」

完全に言い負かされたエリが、手を振り上げる。このままではリリカに当たると判断し、私が止めようと動いた、その時だ。

「いい加減にしろ。」

颯斗がエリの腕を掴んで止めた。

「何よ。関係ないやつが、入ってこないで。」

「関係はある。俺は、まみの夫で、リリカの叔父なんだから。」

彼がそう言うと、エリの目の色が変わる。明らかに、颯斗をターゲットにしているのが分かった。ありえない、という考えと、彼まで略奪されるのかという不安が頭をよぎる。

「へえ。あんた、まみの旦那なの?なかなかいい男じゃない。」

エリはいやらしい表情で、颯斗の腕に絡みつこうとした。しかし、颯斗はほぼ反射で避けた。

「触るな。というか、近寄らないでくれ。すごく臭い。」

エリはピシリと固まった。あまりにも衝撃的だったらしい。

「香水の匂いもあるけど、風呂入ってないのか。体臭、きついぞ。」

「あ、最低!」

颯斗に指摘されたエリは、顔を真っ赤にする。そのまま暴れ出したため、他の来場者が通報し、警察が駆けつける事態に。

「お前、これ以上、俺に恥をかかせるな。」

すると、もう会うつもりのなかった剛が現れた。彼としても想定外らしく、私たちに気づいて、苦虫を噛みつぶしたような表情をしている。どうやら、たまたま近くに用事があり、騒ぎを聞きつけてやってきたようだ。

「ただでさえ、お前のせいで俺の人生めちゃくちゃなのに。」

「はあ?私は何も悪くないわ。一目見て分かるでしょ?」

周りは、呆れた視線を二人に向けている。

「とにかく、二人とも署まで来てください。」

「ふざけないで!」

ヒートアップし、周囲の状況を忘れていたのだろう。エリが再び手を振り回し、それが警察官に当たる。彼女は一瞬、顔面蒼白になったが、すでに遅い。

「公務執行妨害だ!」

「ちょ、ちょっと、助けなさいよ!あんた、妹でしょ!」

よりによって、エリが私に助けを求めてきた。それに対し、私はニッと笑う。

「いや、子供の頃から、あなたのこと大嫌いだったの。」

「私の踏み台のくせに!」

「あなたが勝手にそう決めただけ。私はあなたと違って、誰かを犠牲にする必要もない。自力で幸せを勝ち取れるの。」

しっかりと言い返した直後、エリは警察官によって連行されていった。剛も同行を求められ、彼は大人しく従っている。

「あの……まみ、その……」

「私でも、あなたを真剣に好きだった。次期社長として、プレッシャーを跳ね返して頑張る、あなたを。」

そう告げると、剛の目が丸くなった。

「あんたは、本当に見る目がないな。こんなにも真っ直ぐに愛してくれる人が、いたのに。」

剛はそれ以上何も言わず、パトカーに乗り込んだ。

「邪魔が入ったけど、みんな楽しんでいって。」

空気を変えるように、リリカが明るい声で言う。直後、私は颯斗に肩を抱き寄せられた。

「さあ、行こう。」

「ええ、そうね。」

今の私には、大事な人たちがいる。今度こそ、剛たちに別れを告げ、大切な人と微笑み合いながら歩き出した。

その後、剛とエリは随分と追い込まれてるらしい。

まず剛だが、彼は10年前に負債を抱えて社長業を辞めた後、地元の工事現場で建設会社に就職した。10年ぶりに再会した時、彼が作業着を着ていたことを思い出す。社長だからとふんぞり返っていた剛が、今は相当苦労しているのが分かる哀れな姿だった。彼はその会社で働きながら、なんとか借金を返していた。しかし、妻であるエリが警察のお世話になったことで、もう面倒を見切れないと、解雇されたらしい。

偶然にも、個展に行ったあの日、剛たちはちょうど目の前のビルで仕事をしていたそうだ。そのため、複数の同僚に目撃され、言い逃れは不可能な状態に。義両親にすがりついたそうだが、彼らはそれを突っぱねた。結果、生活のためにさらに借金を重ね、もはや返しきれない額になってしまう。やがて、剛は黒服の怪しげな人たちに確保されたのを最後に、目撃情報なし。これらは、颯斗の仲間が再調査して判明したことだ。

エリはと言うと、公務執行妨害で逮捕された。さらに、彼女は剛の会社が倒産し、社長夫人でなくなった後も、生活水準を下げられず、知人宅で盗みを繰り返していたことが発覚する。被害者たちは「証拠もないから」と泣き寝入りしていたが、ゆきの配信を見て、ついにエリの所業に激怒した。その知人たちの多くが、かつてエリに何かを奪われた人たちだったことも大きな理由だろう。エリの窃盗について、次々と警察に被害届が出された。結果、証拠はなくても件数が多いということで、警察は改めて調査を開始したのだ。加えて、万引きもしていることも判明。しばらく刑務所から出られないらしい。仮に就職できたとしても、地獄だろう。エリは剛の借金の連帯保証人になっているそうだ。そのため、借金取りが彼女が出てくるのを待っている。もう、私たちのところには来られないだろう。

4年後、社会人になった空は、新人弁護士として忙しい毎日を送っているらしい。

「いつか、父さんの相棒になって見せる。」

それが彼の夢だと聞いて、颯斗は感激して泣きそうになっていたものだ。

リリカの方も、その腕が認められ、海外で活躍している。

そういえば、ゆきさんはどうして私を御恩人なんて言ったんだろう。ある日のお茶会で、私は長年の疑問をゆきに尋ねる。

「私ね、実の両親を失ってるの。」

「え?」

「それで、叔父夫婦に引き取られて、颯斗っていう弟ができた。でも、最初は受け入れられなかった。そのため、田舎の祖父の元に一時的に預けられた。彼女は景色を絵にして気を晴らすようにしていたけど、それでもなかなか暗い思いを払拭できずにいた。でも、私が訪問していくうちに、少しずつ孤独感が消えていったそうだ。だから、あなたには感謝してもしきれない。私と交流する中で、前を向き始め、やがて彼女は新しい家族とうまく付き合えるように。そして、自分もたくさんの人生を支えたいと、会社を立ち上げたそうだ。私は、あなたに救われたのよ。」

「優しく微笑むゆきに、救われたのは私の方だと思う。」

「で、颯斗とはどう?」

「毎日、幸せだよ。颯斗は、些細なことでも私を褒め、感謝してくれる。彼と過ごす日々は、確かに幸福を実感できた。」

「なら、よかった。」

辛くて仕方ないことも多かった。しかし、そんな過去も忘れてしまうくらい、今の私は幸せだ。少しでもその時間が長くなるように、これからも励もうと、心に誓った。

Thumbnail