昨日、実の息子が家の鍵を勝手に開けて中に入り、知らない男を連れて部屋の寸法を測らせた。「保険の定期点検だ」と息子は笑顔で言ったが、男の胸元のバッジには不動産会社の名前があった。そして昨夜、息子の鞄から見つけた書類。それは私が押した覚えのない印鑑が押された、この家の売買契約書だった。私は83歳で、年金だけで暮らしている。頼れる人も、行く場所もない。今夜、私は一つの決断をした。息子は私を「認知症…

昨日、実の息子が家の鍵を勝手に開けて中に入り、知らない男を連れて部屋の寸法を測らせた。「保険の定期点検だ」と息子は笑顔で言ったが、男の胸元のバッジには不動産会社の名前があった。そして昨夜、息子の鞄から見つけた書類。それは私が押した覚えのない印鑑が押された、この家の売買契約書だった。私は83歳で、年金だけで暮らしている。頼れる人も、行く場所もない。今夜、私は一つの決断をした。息子は私を「認知症...

午前十時を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。茂彦は慌てなかった。慌てる理由がなかった。扉を開けると、そこには二年ぶりに見る息子の洋介が立っていた。スーツを着て、額に汗をかいていた。何か要件がある顔だった。

上がり込むなり、洋介はテーブルに三冊のパンフレットを並べた。老人ホームのパンフレットだった。どれも明るい写真付きで、設備の充実を謳っていた。

「もう2026年だろう。一人暮らしの年寄りを狙った犯罪が増えてる。ここは俺が見てきたんだ。いい施設だから。金が余ったら俺が預かっておいてやるから」

茂彦は黙って茶を啜った。息子の目が落ち着かなかった。テーブルのパンフレットに落ちたり、壁の方を見たり、正面からは決して視線を合わせなかった。その意味を、茂彦は理解していた。だが、何も言わなかった。

「考えてみる」

そうだけ言って、背を向けて流しの前に行った。洋介は何か言いかけて、やがて帰っていった。玄関の扉が閉まる音を聞きながら、茂彦は窓の外を見た。あの落ち着きのない目だけが、頭の中に残った。

四日目の夜、茂彦は息子が置いていった古いタブレットを引っ張り出し、パンフレットに書いてあった施設の名前を検索した。最初に表示されたのは、公式ページではなかった。ニュースサイトの記事だった。

入居者への虐待。夜間の無人状態。無資格職員による医療行為。不審な死亡例が複数、内部告発で明らかになった。過剰請求。行政への虚偽報告。記事の日付は半年前から一年前のものだった。施設はまだ営業を続けていた。処分は業務改善命令だけだった。

茂彦は画面を見たまま動かなかった。息子がその施設を選んだ理由が、今なら分かった。行政に指摘されながら営業を続けるような場所は入居費用が安い。入居者が何人死のうと、書類の上では自然死として処理される。陽介は金に困っている。あの落ち着きのない目、突然の訪問、汗。ピースは全て揃っていた。この家を売れば金が入る。自分が施設に入ってしまえば、自由に動ける。それだけのことだった。

翌朝、茂彦は家の中を見回した。100円均一の店に出かけ、人感センサー付きのLEDライトを四個買った。廊下の壁、便所の入り口、曲がり角に貼り付けた。自分で決めて、自分でやった。それだけのことだったが、その朝の茂彦にはそれが重かった。

次に、茂彦は近所への挨拶を始めた。二週間のうちに六回試みて、返事が帰ってきたのは一度だけだった。しかも会釈だけ。誰も立ち止まらなかった。誰も名前を聞かなかった。誰も、ここに老人が一人で住んでいることを気にしていなかった。

区の高齢者支援センターにも電話した。三日後、二十代後半の女性職員が訪ねてきた。木田と名乗った。茂彦は息子が施設への入居を進めてきたこと、その施設に問題があること、息子が何かを企んでいるような気がすること、もし何かあった時に誰も気づかないのが困ることを話した。木田は黙って書き続け、最後に「認知機能に問題を感じることはありますか」と聞いた。問題はないと答えると、木田は頷いて帰っていった。何かを書いたが、何を書いたのかは教えてくれなかった。

その二日後、買い物から帰ると玄関の鍵が閉まっていなかった。出かける時に鍵をかけた記憶はあった。中に入ると、台所から声がした。洋介の声と、もう一人、知らない男の声だった。見知らぬ男はレーザー機器で壁から窓にかけて何かを測っていた。胸元の小さなバッジには、不動産会社の名前があった。買い取りや任意売却を専門に扱う業者の名前だった。

「保険会社の人間で、火災保険の定期点検に来てもらったんだ」

洋介の声は一瞬高くなった。茂彦は何も言わず、自分の部屋に入って引き戸を閉めた。向こうで小声で話す声が聞こえた。やがて業者が帰り、洋介が引き戸の前で言った。

「誤解しないでくれよ。家のことを考えてるだけだから。悪気はないんだ」

茂彦は答えなかった。

その夜、洋介はボストンバッグ一つを持って戻ってきた。「しばらく世話になる」と言って、勝手に冷蔵庫を開け、台所を見回した。その日から、家の中の空気が変わった。眠りが浅くなった。誰かがそこにいるという事実が、眠りの深さを変えた。

陽介が来て四日目の朝、茂彦は起き上がろうとして、右側の視野が暗いことに気づいた。緑内障の症状だった。医者からは、眠れていないと症状が出やすくなると言われていた。その通りになっていた。

ある夜、陽介がすっかり酔って眠り込んだ。茂彦は静かに起き上がり、台所に行った。陽介の鞄を見つけ、中を開けた。書類が出てきた。消費者金融三社からの通知。残高と返済期限が印刷されていた。金額は大きかった。次に、弁当屋のフランチャイズ契約書。解約日は昨年の春だった。違約金の条項もあった。

最後の一枚は、他の書類とは雰囲気が違った。不動産の売買に関する契約書だった。売主の欄に、茂彦の名前が印刷されていた。そして、印鑑を押す欄に、自分の印鑑の影があった。自分は押した覚えがなかった。この書類を今夜初めて見た。仏壇にしまってあったはずの印鑑が、息子に使われたということだ。印鑑さえ本物なら、書類として体裁が整う。

翌朝、茂彦は鞄から見た書類の束をテーブルに置いた。

「鞄の中身を見た」

陽介の手が止まった。長い沈黙があった。やがて、洋介は椅子を引いて床に膝をついた。土下座だった。額が床についた。

「助けてくれ。借金のことは分かってる。どうにもならなくなってる。取り立てが来てる。逃げ場がない。お前も悪いんだぞ。ちゃんとした親なら、ちゃんとした教育を受けさせてくれたはずだ。俺が失敗したのはお前のせいだ。でも今はそんなことどうでもいい。頼む。もう死にそうなんだ」

茂彦は床に額をつけている息子の後頭部を見ていた。髪が薄くなっていた。その言葉のどこかに本当のことがあるかもしれないと思った。だが、あの契約書の事実は変わらない。あの施設を選んだ事実も変わらない。

「出ていけ」

静かに短く、それだけ言った。

陽介がゆっくりと頭を上げた。泣いていなかった。目が赤かったが、涙はなかった。懇願が消えて、別のものが代わりに入っていた。それが何かを茂彦は言葉にできなかったが、見た瞬間に分かった。

次の瞬間、茂彦は椅子ごと後ろに押し倒された。天井が見えた。五十五歳の男の重さは、思っていたよりずっと重かった。茂彦は抵抗した。腕を振り、爪を立てた。陽介の手が、ジャンパーの内ポケットに向かっていた。そこには印鑑と通帳と鍵束を入れていた。茂彦は陽介の手首に噛みついた。皮膚の味がした。陽介が声を上げたが、手は離れなかった。ポケットの中のものを掴んだまま引き抜いた。鍵、印鑑、通帳。

陽介は立ち上がり、廊下を走り、玄関の扉が開いて、閉まった。

茂彦は床に横になったまま、しばらく動かなかった。肋骨の辺りが痛かった。右の手首に血が滲んでいた。テーブルの上に、書類はまだあった。陽介は持っていかなかった。茂彦は書類を畳んで、ジャンパーのポケットに入れた。次に何が来るかは分からなかった。だが、これまでより早くなることだけは分かった。

翌朝、茂彦は警察署に行った。息子に通帳と印鑑を奪われたと言った。暴力もあったと言った。別室で話を聞かれた。四十代の警官に、状況を話した。鞄からあった契約書も見せた。偽造だと言った。警官はそれを見て、少し待ってくれと言い、部屋を出た。

三十分ほどして、上司らしき年配の男が戻ってきた。

「確認させてください。息子さんから先週、福祉関係の書類が提出されていました。お父さんの認知機能について、医師の診断書と相談記録が添付されていました。成年後見の申し立てが、家庭裁判所に提出されています。現在、審査中です」

茂彦は言葉の意味を理解した。

「認知症ではない」

「それは、家庭裁判所の手続きの中で確認されることになります。暴力については確認しますが、通帳や印鑑については、成年後見の申し立てが継続中である以上、現時点で被害届を受理することは難しい状況です」

茂彦は立ち上がり、契約書を取り戻した。誰も止めなかった。外の雪が顔に当たった。

次に区役所へ行った。高齢者支援係で、先日来た木田の上司らしき女性に会った。

「息子の成年後見の申し立てに、私の相談記録が使われたのか」

「その可能性はあります。記録の開示請求は可能ですが、手続きが必要です。本日はお渡しできません」

茂彦は申請書を書き、控えをもらった。それで終わりだった。区役所を出ると、空が白くなっていた。雪が降るかもしれない色だった。陽介が一週間以上前から動いていた。自分が区に相談したことさえ、息子の計画に利用されていた。

その夜から、家の電気が変だった。台所の電灯が数秒で消えた。二日後、完全につかなくなった。電球を交換しても同じだった。固定電話の回線も切れていた。次の朝、水道の蛇口をひねると、水が出なかった。細い流れが出て、すぐに止まった。偶然が三つ重なることは、なかった。

茂彦は駅前の公衆電話から、法テラスに電話した。オペレーターは、弁護士相談は早くても来週以降になると言った。今夜どうするかについての答えは出なかった。

家に帰ると、玄関の前に黒い軽トラックが停まっていた。裏口に回って扉を開けると、台所から声がした。洋介の声と、知らない男の声が二つか三つ混じっていた。廊下に出ると、陽介が立っていた。その表情は、昨日とは違っていた。謝罪も懇願もなかった。ただ、要件を済ませに来た人間の顔だった。

「荷物をまとめてくれ。明け渡してもらわないといけない」

台所から三人の男たちが出てきた。作業着を着て、一人はバールのようなものを持ち、もう一人はダンボール箱を持っていた。引っ越し業者の体裁を整えていたが、腕に彫り物が見えた。

「成年後見の申し立ては通る。時間の問題だ。どうせ出ていくことになる。今出ていけば、施設の費用は出してやる」

茂彦は自分の部屋に入り、引き戸を閉めて内側から抑えた。押入れの下段から、古い出刃包丁を取り出した。握った。使うつもりはなかった。ただ、持っていた。

引き戸が外側から叩かれた。バールの音がした。木がきしむ音がした。

「そんなもの持ってどうするつもりだ。開けないと壊すぞ」

茂彦は答えなかった。部屋の隅に座り、膝を立て、出刃包丁を膝の上に置いた。引き戸の下の方をバールで叩く音が響いた。その時、茂彦は気づいた。廊下のセンサーライトが、男たちの動きに反応して点いたり消えたりしていた。100円均一で買ったあのライトが、自分を囲む男たちの動きを教えていた。何人いるか、どこにいるか、動いているか。引き戸一枚の向こうが、光によって見えた。

やがて、バールの音が止んだ。陽介の電話の声もしばらくして止んだ。廊下が静かになった。センサーライトが消えた。誰も動いていないらしかった。

夜が来た。拳で叩く音がした。何度も、間隔を開けずに同じ場所を叩いていた。

「開けろ。開けてくれ。頼む。俺もどうしようもないんだ。あいつらに首根っこ掴まれてる。お前が出てきて、施設に入る紙にサインしてくれれば、それで全部終わるんだ」

茂彦は引き戸を見ていた。少しして、陽介の声がまた変わった。

「いい加減にしろよ。お前が意地張ってるからこうなってるんだぞ。さっさと諦めればよかったんだ。なんでお前みたいな貧乏人が、最後まで意地だけは捨てないんだ」

茂彦は答えなかった。やがて足音が遠ざかり、廊下が静かになった。

茂彦は暗い部屋の中で、自分が何を恐れていたのかに向き合った。死ぬことではなかった。施設に入れられて、書類の上で処理されて、誰も気にしないまま終わることだった。だが、それより恐ろしいことがあった。自分の体が、自分の意思に関係なく、誰かの借金のために使われることだった。自分という人間が、最後まで自分のものでなくなる。それが一番恐ろしかった。

茂彦は静かに立ち上がり、出刃包丁を畳の上に置いた。使わないと決めた。そして、押入れの床板の一枚が外れることを思い出した。十年以上前、自分で直した時に気づいたのだ。妻が亡くなった後、家の権利関係の書類をそこに移した。鉄の金庫では、息子がいつでもアクセスできることに不安を覚えていたからだ。

茂彦は床板を持ち上げた。中からビニール袋に包まれた書類が出てきた。土地と建物の登記簿謄本の原本、権利書、それに数年前に書いた遺言書の控え。息子に家を相続させると書いたものだった。もう一つ、上着の内側の隠しポケットから、保険証と年金手帳を取り出した。本人を証明するもの、家の所有権を証明するもの、相続を約束したもの。茂彦はそれらを古いアルミの鍋の中に入れた。

マッチを取り出した。一本擦ると、火がついた。鍋の中に落とすと、青白い炎が立ち上がった。書類が縮れ、黒くなり、燃えていった。登記簿の文字が炎の中で消えていった。権利書が丸まり灰になっていった。遺言書に書いた息子の名前の文字が、最後まで読めるかどうかというところまで燃え、最後には何も読めなくなった。

茂彦はその様子を最後まで見ていた。涙は出なかった。怒りもなかった。あったのは、ただ何かが終わったという感覚だった。炎が小さくなり、灰だけになった頃、水をかけた。ジュッという音がした。煙が少し上がった。

茂彦は引き戸をゆっくりと開けた。廊下に煙の匂いが流れていった。男たちが驚いたように後ずさった。陽介が廊下の奥から走ってきた。鍋の中の灰を見て、畳に膝をつき、手を突っ込んだ。何かを探していた。文字の跡を探していたのかもしれない。だが、何も残っていなかった。

あの契約書はまだ陽介の鞄にあるはずだったが、それだけでは足りなかった。登記簿の原本や権利書が燃えてしまえば、今すぐに家を売ることはできない。手続きは長くかかる。金を返すための時間が、陽介には残っていなかった。

陽介は灰の中に座り込んだまま、言葉にならない声を上げた。畳に拳を叩きつけた。何度も。茂彦はその姿を見ていた。許すという言葉は出なかった。憎むという言葉も出なかった。ただ、もうこれ以上ここにいる理由がない、とそれだけが分かった。

茂彦は古いボストンバッグに着替えを三枚詰め、財布とテレホンカードを入れた。廊下に出ると、男たちが道を開けた。誰も茂彦を止めなかった。止める理由がなくなっていた。陽介はまだ畳の上に座り込んでいた。茂彦はその背中を見て、何かを言おうかと思ったが、言葉が出てこなかった。

そのまま玄関に向かい、靴を履いた。男の一人が何も言わずに扉を開けた。外に出ると、冷たい風が顔に当たった。十二月の夜だった。茂彦は振り返らなかった。四十年以上住んだ家だった。妻と暮らし、息子を育てた家だった。深夜の仕事から帰って疲れた体を休めた家だった。100円均一のセンサーライトを取り付けた家だった。

茂彦はゆっくりと歩き出した。視野の右側が暗かった。だが、正面は見えていた。それで十分だった。今夜どこで眠るかは決まっていなかった。年金が入るまであと何日あるか頭の中で数えた。財布の中の現金は多くなかった。それでも、足は止まらなかった。

彼は家さえなく、金もなく、証明書もない。それらを誰かに奪われたのではなく、自分の手で終わらせた。その違いが今は大きかった。

駅前の明かりが見えてきた。コンビニの看板が遠くに光っていた。茂彦はその光に向かって歩き続けた。これからどうなるかは分からなかった。今夜どこで休むか、明日どこに行くか、何も決まっていなかった。ただ、歩いていた。風が強くなった。茂彦はジャンパーの襟を立てた。それでも歩き続けた。暗い道の先に何があるのかは、まだ見えなかった。

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