式場のスタッフが慌ただしく行き交う中、私はブライズルームで一人、純白のドレスを身にまとって時を待っていた。挙式開始時刻が迫っても、新郎の彼も、彼の親族も、誰一人として姿を現さない。不安が胸をよぎったその時、スマホの画面に映し出されたのは、あまりにも残酷な絶縁宣言だった。
「今日の結婚式、俺も俺の両親も親族も全員不参加。お前らだけで披露宴でもやれば」
続けて送られてきた一枚の写真。そこには、タキシード姿の彼が、派手なドレスを着た職場の後輩と高級ホテルのスイートでシャンパングラスを掲げ、勝ち誇ったように笑っている姿があった。
「俺は社長令嬢の翔子と結婚して、将来はこの会社の社長を継ぐんだ。お前みたいな平凡な女との結婚ごっこはもう終わりだ」
悲しみが溢れる前に、私の心には冷ややかな怒りが沸き上がっていた。私は静かに画面をタップし、一言だけ返信を送った。
「OK、了解したわ。わざわざ連絡ありがとう」
私の名前は木下ひろみ。同じ会社の同期として入社した殿内明と、3年間の交際を経て婚約した。明は明るく社交的で、同僚からの人気も高い。しかし、私と二人きりになると、彼は時折子供っぽい一面を見せた。私が必死で探し回る姿を見て楽しむような、幼稚な行動が何度もあった。
「ねえ、ここに置いておいたはずの企画書、知らない?」
「え? 知らないなあ。ちゃんと管理しないほうが悪いんじゃないの?」
「なんてね。ほら、ここだよ」
楽しみにしていた休日デートも、彼は直前になって場所を変更することがしばしばだった。必死に新しい待ち合わせ場所へ走る私を見て、満足そうに笑う。呆れつつも、彼の無邪気な笑顔を見ると強く言い返せない自分がいた。このまま結婚して本当に大丈夫なのだろうかという不安を抱えながらも、彼も家庭を持てば責任感が芽生えるだろうと自分に言い聞かせていた。
結婚が決まり、最初に取りかかったのは両家の顔合わせだった。都内でも指折りの高級料亭を予約し、両親も心から楽しみにしてくれていた。しかし、予約した時刻を過ぎても、明と彼のご両親は現れない。30分が過ぎ、1時間が経過した頃、私は不安になって彼に電話をかけた。
「もしもし、ひろみ。どうしたんだ、急に」
「今日、両家の顔合わせの日でしょ? もう1時間以上も待ってるのよ」
「ああ、ごめん、ごめん。すっかり忘れてたよ。今、家族で温泉旅行に来てるんだ」
電話の向こうからは、楽しげな音楽と笑い声が聞こえてくる。あまりのことに言葉を失う私に、彼は「じゃあそういうことだから」と一方的に電話を切ってしまった。事情を両親に伝えると、温厚な父が初めて見るほど激怒した。
「なんだそれは! あまりにも非常識だ。こんな無責任な男に大事な娘をやるわけにはいかん」
母も涙を浮かべ、私の肩をさすった。両親の怒りは最もだったが、私はここで結婚を破談にできなかった。彼の幼稚な性格を誰よりも知っていたはずなのに、それを認めるのが怖かった。
「ごめんなさい。でも、明は悪気がある人じゃないの。ただちょっと子供っぽいだけで。私がしっかりするから、お願い。今回のことは許してあげてほしい」
涙ながらに両親を説得し、彼と彼の両親が後日改めて謝罪することで、なんとか納得してもらった。こうして結婚準備は仕切り直しとなったが、彼の不誠実な態度はその後も変わらなかった。式場との打ち合わせやドレス選びなど、大切な予定を彼はことごとくすっぽかした。私が電話をかけても「友達に急に呼び出されて」「男には男の付き合いがある」と同じような言い訳を繰り返し、最終的には私一人で全てを決めることになった。それでも私は、華やかな結婚式を迎えれば彼も変わってくれるはずだと、最後の望みを捨てきれずにいた。
結婚式の準備が大詰めを迎えたある日、出社するとオフィスは騒がしかった。後輩の東山翔子が、女性社員たちに囲まれて自慢話をしていた。彼女は社長令嬢という立場を傘に着て、他人の恋人や婚約者であろうと気に入れば手を出す、有名なトラブルメーカーだった。好奇心から私もスマホの画面を覗き込んだ瞬間、息を飲んだ。
「見てみて。この間の日曜日、彼氏と新しくできた遊園地に行ってきたんだ」
映っていたのは、満面の笑顔で翔子を後ろから抱きしめる、私の婚約者・明の姿だった。その日は、彼が「急な出張が入った」と言って、式場との最終打ち合わせをドタキャンした日だった。頭の芯が真っ白になり、全身の血の気が引いていくのが分かった。衝動で問い詰めたくなったが、ここで騒ぎを起こせば会社に居場所がなくなるのは私の方だ。奥歯を強く噛みしめ、何事もなかったかのようにその場を離れた。
そして、運命の結婚式当日がやってきた。プロの技術で完璧にヘアメイクを施された私は、ブライズルームで静かに時を待っていた。しかし、挙式開始時刻が迫っても、彼も、彼の親族も誰一人として現れない。胸騒ぎを覚えて確認のメッセージを送ると、返ってきたのは冒頭の残酷な返信だった。理解が追いつかない私に追い打ちをかけるように、彼と翔子の写真とメッセージが送られてきた。全てを悟った瞬間、私の心から悲しみは消え、代わりに冷徹な決意が沸き上がった。私はスーツの裾を手早く整え、ブライズルームを後にした。
向かった先は、私の両親と親族が待機している控え室だった。突然のウェディングドレス姿の私に、皆が驚いた表情を浮かべる。
「ひろみ、どうしたんだ? もうそんな時間か。明さんたちはまだいらっしゃらないの?」
私は集まった親族一同の顔をゆっくりと見渡し、深呼吸を一つした。
「みんな聞いてください。今日の結婚式は中止になりました」
控え室は水を打ったように静まり返った。私は彼から送られてきたメッセージの文面と、翔子と抱き合う写真を皆に見せ、経緯を冷静に説明した。最初に沈黙を破ったのは父だった。
「あの男、娘の晴れの日に何てことをしてくれたんだ」
「ひろみ、かわいそうに。辛かったでしょう」
親族たちが明への怒りを口にする中、叔父がパンと手を打った。
「もう待て、みんな。怒るのは当然だ。だが、このまま泣き寝入りでいいのか? ひろみ、お前は悪くない。悪いのは全部、お前を裏切ったあの男だ。せっかくこんなに素晴らしい会場と最高の料理を用意したんだ。このままお開きにするなんて、それこそ相手の思う壺じゃないか」
「そうですわ。これはあんな男との悪縁を断ち切る最高の機会よ。タイトルはこうしましょう。『木下ひろみの悪縁を断ち切り、新たな再出発を祝う会』」
その突飛な提案に一瞬皆が呆気に取られた。しかし、私の心には不思議と力が湧いてくるのを感じた。ここで悲劇のヒロインになっている場合ではない。私は顔を上げ、笑顔で宣言した。
「ありがとう、おじさん。おばさん。私、やるわ」
私の決意に両親も力強く頷いてくれた。私たちは会場スタッフに事情を説明し、パーティーの趣旨を変更してもらった。そして私はマイクを握りしめ、ゲストたちが待つ披露宴会場の扉を開けた。会場内は困惑と不安の空気に包まれていた。私はゆっくりとメインテーブルに進み、全てのゲストに頭を下げた。
「本日は私のためにご列席いただき、誠にありがとうございます。皆様にお伝えしなければならないことがあります。新郎の殿内明さんは本日ここには来ません。よって、この結婚は破談となりました」
会場がどよめきに包まれる。しかし私は構わずに続けた。
「ですが、せっかく皆様にお集まりいただいたこのご縁を、このまま終わりにはしたくありません。誠に勝手ながら、これよりこの会を、木下ひろみの新たな再出発を祝う会とさせていただきたく存じます」
その言葉を言い切った瞬間、静寂を破って大きな拍手が巻き起こった。声の主は、明の不誠実な態度を以前から知っていた私の会社の同僚や大学時代の友人たちだった。
「そうだ、ひろみ。よく言った! あんな男、こっちから願い下げだ」
「俺たちがついてるぞ。ひろさんの未来に乾杯!」
その声に応えるように、会場のあちこちから温かい声援と拍手が送られた。司会者が「それでは皆様、グラスのご用意を。木下ひろみさんの輝かしい未来に乾杯!」と叫ぶと、会場のボルテージは最高潮に達した。結婚行進曲は明るい祝福の曲に変わり、会場は本来の結婚式以上に不思議な一体感と熱気に包まれた。
パーティーが最高潮の盛り上がりを見せていた中、親族席の真ん中で静かに料理を味わっていた一人の老人が、ゆっくりと立ち上がった。彼は私の遠縁にあたる増田岩尾さんだ。幼い頃に数回会ったきりで、正直なところ顔もおぼろげだったが、今日の私のためにわざわざ遠方から駆けつけてくれたのだ。増田さんは携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。穏やかな表情とは裏腹に、その声は会場の喧騒の中でもはっきりと響く静かなものだった。
「山田社長かね。増田だ。君の会社への出資の件だが、今この瞬間を持って全て破談にさせてもらう」
会場の隅で交わされたその会話を聞き取れた者は誰もいなかった。しかし、その電話がこの後の大波乱の引き金となる。
電話から30分も経たないうちだった。披露宴会場の扉が勢いよく開かれ、一人の男が息を切らせて飛び込んできた。額に汗を滲ませ、肩で息をしているその男は、私と明が務める会社のトップ、東山平社長だった。東山社長は会場内を見回し、増田さんの姿を認めると、一直線に彼の元へ駆け寄り、周囲の目もはばからずその場に深々と土下座した。
「増田会長、一体どういうことでしょうか? 出資の件を破談になどと、そんなご冗談は!」
突然の社長の登場と土下座に、会場は再び騒然となった。増田さんは足元にひれ伏す東山社長を冷たく見下ろし、静かに言い放った。
「冗談なのではない。そして、君が謝罪すべき相手は私ではない」
増田さんはそう言うと、私の方へすっと視線を向けた。
「君は彼女に謝るべきだ」
東山社長は困惑した表情で私を見つめた。
「木下君、なぜ君がここに? いや、君の結婚式だったな。だが中止になったと聞いているが」
「中止になったのではない。君のところの大事な社員と、君の可愛いお嬢さんによって、めちゃくちゃにされたのだ」
東山社長はハッとした表情で顔を上げた。
「そもそも、自社の社員同士の結婚式だというのに、社長である君が出席すらしていないのはどういうわけかね」
「そ、それは、内田君からこう報告を受けておりました。結婚は中止になった。理由は、新郎である木下ひろみが浮気をしていたからだと」
そのあまりにも身勝手な嘘に、私は怒りで唇が震えるのを止められなかった。東山社長は顔面蒼白になりながら、必死に出資の継続を懇願し始めた。しかし、この茶番劇を引き起こした張本人である明と翔子の姿はどこにもない。増田さんが淡々とその点を指摘すると、東山社長は震える声で娘の翔子に電話をかけた。
「翔子か? 今どこにいる? すぐに殿内君と二人で結婚式場まで来なさい。これは業務命令だ」
数分後、会場の扉が再び開き、腕を組んだ明と翔子が面倒くさそうに顔をしかめながら現れた。
「ちょっと何なのよ、パパ。せっかくのいいところだったのに、デートの邪魔しないでよ」
二人は自分たちが引き起こした騒動の中心に立っていることなど、まるで理解していない様子だった。彼らは新郎側のテーブルが全て空席になっている異様な光景を見渡すと、まるで面白い見物でも見つけたかのように大声で笑い始めた。
「うわ、マジかよ。本当に俺たち抜きで披露宴やってるぜ」
「信じられない。見てよ、あのウェディングドレス。主役の男がいないのに一人で気取って、引くんだけど」
二人の悪意のかけらもない、あまりにも下劣な嘲笑が静まり返った会場に不快に響き渡った。怒りで今にも飛びかかっていきそうな友人たちを、私は目で制した。
その時だった。それまで土下座していた東山社長が、地獄の底から響くような唸り声をあげながら、鬼のような形相でゆっくりと立ち上がった。東山社長は震える指で増田さんを差し示し、絞り出すような声で言った。
「殿内君、君たちは自分が一体誰に対して、どれほど無礼で致命的な発言をしたのか、本当に分かっているのか」
翔子は悪びれもせず鼻で笑った。
「はあ、何言ってるのよ。さっきから大げさなんだって。ただの冴えない、みすぼらしいおじいさんじゃないの」
その言葉が引き金となった。東山社長の顔から完全に血の気が引き、この世の終わりのような表情を浮かべた。
「おじいさんだと? みすぼらしいだと? この方がどなたか、本当に本当に知らないと申すのか!」
東山社長は絶叫に近い声で増田さんの正体を説明し始めた。
「このお方は、世界中にその名を轟かせる多国籍企業グループ『増田ホールディングス』の創業者にして現会長でいらっしゃる増田岩尾様だぞ!」
経済に疎い私ですら、その名前をテレビや新聞で見ない日はない巨大コングロマリットだと知っていた。東山社長の絶望に満ちた説明はさらに続く。
「我が社が賭けていた新規事業への、数十億円規模の多額の出資。その最終決定権をただ一人で握っておられるのが、何を隠そう増田会長ご本人なのだ」
「え、じゃあ、パパがいつも言ってた、会社が潰れるかどうかがかかってる大事な出資って……」
「そうだ。増田会長からのお情けがなければ、我が社は来月にも倒産する。社員全員が路頭に迷うことになるんだぞ」
東山社長は涙ながらにそう告げると、今度は明に向き直った。
「そして、殿内君。君の父親が部長として務めている会社も、君の叔父が役員を務めている会社も、全ては増田会長の広大なグループ傘下にあるちっぽけな子会社だということを、君は知っていたのかね」
「そ、そんな、嘘だ……」
明の顔はみるみるうちに青ざめていった。これまで自分の味方だと思っていた世界が、一瞬にして音を立てて崩れ去っていく感覚だろう。全ての視線が主役となった増田会長へと集まった。増田会長は崩れ落ちそうになっている明を一瞥すると、慈しむような、それでいてどこか哀れむような目で私を見つめ、静かに口を開いた。
「ひろみのことは、亡くなった私の妻にどこか似ていてね。昔から実の孫のように、それはそれは可愛がっていたんだよ。彼女の晴れの日を汚した人間は、たとえ誰であろうと私が許さない」
その穏やかで、しかし絶対的な重みを持つ一言が、明の心を完全にへし折る最後の一撃となった。明は言葉にならない唸り声を漏らし、ガタガタと全身を震わせると、そのまま糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。その明を冷たく見下ろし、東山社長は宣告を下した。
「殿内明君を、本日付けで懲戒解雇とする。異論はないな」
明は生気のない目で何かをつぶやこうとしていたが、もはや言葉を発することすらできないようだった。次に東山社長は、憎しみのこもった目で実の娘である翔子を睨みつけた。
「翔子、お前のような身勝手で人の心を持たない女が、私が一代で築き上げた会社を滅ぼすんだ」
「ば、パパ、何を言って……」
「黙れ! お前は今日限りで勘当だ。親子の縁もこれまでだ。今後、私からの金銭的な援助は一切ないものと思え。クレジットカードも全て止めた。家からも出ていけ」
叩きつけられる絶縁宣言に、翔子は「嘘でしょ」と力なくつぶやき、その場にへたり込んだ。まさにその時だった。披露宴会場の扉が乱暴に開け放たれ、10数人の男女が流れ込んできた。明の両親と、顔合わせをすっぽかした親族一同だ。彼らはどこかでこの騒ぎを聞きつけ、自分たちの身に危険が迫っていることを察知したらしい。戦慄していた明の父親が増田会長の姿を認めるや、顔面蒼白になって叫んだ。
「あっ、増田会長! なぜ会長がこのような場所に?」
彼らは先ほどまでの強気な態度など微塵も感じさせず、我先にと私と増田会長の前に駆け寄り、明の父親を筆頭に全員が床に体を擦りつける勢いで土下座をした。
「こ、この度は、息子の明が大変なご無礼を。どうか、どうか我々の会社だけはお助けください」
「ひろみさん、ごめんなさい。出来の悪い息子の代わりに私が謝ります。だからどうか、会長にお口添えを……」
その見苦しいまでの手のひら返しに、会場の誰もが苦々しい視線を送っていた。あれほど私たち家族をないがしろにし、嘲っていた人間たちが、自分たちの立場が危うくなった途端にこれである。増田会長は足元で震える彼らを一瞥すると、心の底から軽蔑したような冷たい声で言い放った。
「顔を上げなさい。神聖な祝いの場を、これ以上あなた方の汚い土下座で穢していただきたくない」
その言葉は静かだったが、いかなる罵倒よりも彼らの心を抉ったに違いない。結婚の顔合わせを理由もなくすっぽかし、あげく被害者である私に全ての責任をなすりつける。そして今、自分たちの保身のためだけに謝罪の言葉を口にする。どこまでも身勝手で非常識な連中だった。増田会長は取りつく島もなく彼らを突き放した。明の親族たちは絶望の声を漏らし、土下座したまま動けなくなってしまった。
あの壮絶な一日が幕を閉じてから、数ヶ月の月日が流れた。私の耳にも、明と翔子が辿った悲惨な末路が風の噂となって聞こえてきている。会社を懲戒解雇された明は、当然ながら業界内でその不明誉な話が瞬く間に広まった。再就職先など見つかるはずもなく、最終的には父親が土下座して頼み込み、誰も行きたがらない地方の零細子会社でなんとか雇ってもらうことになったそうだ。彼が送られた先は、コンビニすらないような山奥の寂れた村。娯楽施設などあるはずもなく、夜は早くに全ての店が閉まってしまうという。そこで明を待っていたのは、日の出から日没まで泥にまみれて働き続ける過酷な肉体労働の日々であると聞いた。一方の翔子は、東山社長から全ての資産を没収され、文字通り無一文で放り出された。彼女は「明との真実の愛があれば、お金なんていらない」と豪語していたらしい。しかし、明が自分を華やかな世界へ連れて行ってくれる存在ではないと分かった途端、あっさりと彼を捨てたそうだ。その後、自力で贅沢な暮らしを続けようとしたが、まともな社会常識も協調性も身につけていない彼女を雇ってくれる会社はなく、あっという間に貯金は底をつき、家賃滞納で高級マンションを追い出されたと聞く。その後の彼女の行方を知る者は誰もいない。
増田会長は一旦、東山社長への出資を完全に撤回した。しかし、その後も動向を見守っていたらしい。そして、東山社長が明を即日解雇し、実の娘である翔子を勘当するという厳しい態度で責任を取ったことを考慮し、会長は「経営者としての判断は間違っていなかった」と評価し、出資については前向きに再検討を進めているそうだ。そして私は、あの後すぐに会社を退職した。増田会長が「君のような誠実な人材は、是非私の元で働きなさい」と強く勧めてくれたからだ。今は会長が経営するグループ企業の本社で、新しいキャリアをスタートさせている。毎日が勉強の連続で、忙しくも非常に張り合いのある日々だ。先日、会長室に呼ばれた際、増田会長は優しく微笑んでこう言った。
「ひろみ君、最近いい顔つきになったな。辛いことを乗り越えた人間は、強く、そして美しくなるものだ」
「会長、本当にありがとうございます」
新しい環境にも慣れてきた頃、私にささやかな出会いが訪れた。同じ部署で働く、一つ年下の後輩の男性だ。お昼休みに読んでいた漫画雑誌の話で、偶然にも彼と同じ作品のファンであることが判明したのだ。それから私たちは、休憩時間や仕事帰りに趣味の話で盛り上がるようになった。彼はいつも穏やかで、私の話を真摯な瞳で聞いてくれる、とても誠実な人だ。先日、彼の方から「もしよかったら、今度のお休み一緒に新刊を買いに行きませんか」と少し照れながら誘ってくれた。もちろん、私は笑顔で頷いた。明に未来を失ったあの日、私は全てを失ったと思っていた。しかし、本当の幸せは、すぐそこまでやってきていたのである。



