「お母さん、実は大切なお話があるんです」
新築の家のリビングで、息子のかずきと嫁のなおが顔を見合わせた。その表情に、私は何か不穏な空気を感じた。
「私たち、義両親と住むことになったので…なおは一呼吸置いてこう続けたのです。お母さんには出て行ってもらえますか?」
その瞬間、時が止まったように感じました。手に持っていたお茶のカップが、かすかに震えているのが分かりました。
「どういうことですか?」
震える声で尋ねると、かずきが困ったような表情を浮かべながら口を開きました。
「母さん、なおの両親も高齢になってきて一緒に住む必要が出てきたんだ」
私の脳裏に、1年前の光景が蘇ってきました。結婚を控えたかずきが、申し訳なさそうに相談してきた時のことです。
「お母さん、実は新居の頭金が足りなくて…2800万円あれば…でもそんな大金、無理ですよね」
私は迷わず答えました。
「大丈夫よ。お父さんが残してくれた貯金があるから、2800万円までなら援助できます」
かずきの顔が輝いたのを覚えています。
「本当にありがとう、母さん。もちろん新居では一緒に住んでもらいます。母さんがいないと困りますから」
あの時の約束は何だったのでしょうか。現実に引き戻された私は、なおの冷たい視線を感じました。
「でも私の両親の方が介護が必要なんです。お母さんはまだお元気ですし、1人でも大丈夫でしょう」
かずきも頷きました。
「そうだよ。母さんは1人でも大丈夫だろ」
私は信じられない思いで2人を見つめました。2800万円もの大金を援助し、同居を前提に建てた家から、今更出ていけというのです。
私は深呼吸をして冷静を保とうと務めました。
「でもこの家は同居前提に建てたはずです。私の部屋もバリアフリー設計も、全て3世代で暮らすために」
すると、なおが今まで見たことのない冷たい表情で口を挟んできました。
「お母さん、正直に言わせてもらいますね。お母さんって失礼ですが、古い考えの人ですよね。私たちの生活スタイルとは合わないんです。料理の味付けも濃いし、掃除の仕方も違う。私の実家とは家事のやり方が全然違うんです。一緒に暮らすのは正直ストレスなんですよ」
かずきも追い打ちをかけるように言いました。
「母さん、最近もの忘れも多いよね。この前も鍵をかけ忘れてたし、ガスの火を消し忘れてた。認知症の始まりかもしれないよ」
「私はまだ68歳です。物忘れは誰にでもあることでしょう」
私が反論すると、かずきは肩をすくめました。
「でも心配なんだよ。施設の方が安心じゃない。プロの人に見てもらえるし」
なおが畳みかけてきます。
「そうですよ。今は良い施設がたくさんありますから。お母さんも同年代の方々と過ごす方が楽しいと思いますよ」
私は怒りで震えそうになりましたが、なんとか抑えました。
「施設の話はともかく、2800万円も援助したのは一緒に暮らすという約束があったからです」
すると、なおが鼻で笑いました。
「お母さん、それって息子への当然の義務じゃないですか?親なら子供の幸せを願うのが普通でしょう。私の両親なんて、もし頼めば3000万円は出してくれたと思います。でもかずきさんのプライドを考えて、お母さんにお願いしたんです」
この言葉には、さすがにかずきも驚いたようでした。
「なお、それは言いすぎだよ」
しかしなおは止まりません。
「何が言いすぎなの?事実でしょう。お母さんだって息子のためなら喜んで出すべきお金だったはずよ」
私は深い悲しみと怒りを感じていました。長年教師として働き、夫と2人で必死に貯めたお金。それを息子の幸せのためにと思って差し出したのに、「当然の義務」だと言われるなんて。
なおはさらに続けました。
「お母さんの存在自体が私たちの新しい生活の邪魔になるんです。友達を呼ぶ時も気を使うし、夫婦の時間も持てない。はっきり言って、お荷物なんです」
お荷物。私は自分の耳を疑いました。息子を大切に育て、全てを捧げてきた私が、お荷物だというのです。
かずきもなおに同調するように言いました。
「母さん、言い方は悪いけどなおの言うことも一理あるんだ。僕たちだって自分たちの生活を大切にしたい。母さんには申し訳ないけど、これからは別々に暮らした方がお互いのためだと思う」
私は2人を見つめました。息子の目は私からそらされ、なおは勝ち誇ったような表情を浮かべています。
「つまり、私にはこの家から出ていけということですね」
「お母さん、そんな言い方しないでください。私たちだって苦渋の決断なんです」
なおの白々しい言葉が、私の心をさらに傷つけました。
「苦渋の決断?2800万円ももらっておいて、よくそんなことが言えますね」
なおの表情が一変しました。
「お母さん、お金の話ばかりしないでくださいよ。息子の幸せよりお金の方が大事なんですか?」
私は言葉を失いました。話をすり替えられ、まるで私が金に執着している人間のように言われてしまったのです。かずきも畳みかけます。
「母さん、僕たちだって母さんのことを考えてるんだ。1人暮らしの方が気楽でしょう。好きな時に好きなことができるし」
「それは私が決めることです」
私がそう言うと、なおは大きなため息をつきました。
「お母さん、分かってください。私たちは義両親を選んだんです。彼らの方が私たちの生活に必要なんです。私の両親は会社を経営していて、かずきさんの仕事にも役立ちます。それに比べてお母さんは…」
なおは言葉を濁しましたが、その意味は明白でした。私は何の役にも立たない、無価値な存在だということです。
「お荷物はもういらないんです」
なおが最後にそう言い放った時、私の中で何かが音を立てて崩れていきました。しかし同時に、別の何かが静かに目覚め始めていたのです。
私は無言で立ち上がりました。その静かな動作に、息子夫婦は一瞬戸惑ったようでした。
「母さん?」
かずきが不安そうに声をかけましたが、私は答えずに書斎へ向かいました。そして金庫から一通の書類を取り出してきたのです。
リビングに戻った私は、その書類を2人の前に広げました。
「この家の登記簿です。名義を確認したことはありますか?」
なおが沈黙しました。
「何を今更…」
「見てください」
私は登記簿の所有者欄を指差しました。そこにははっきりと、私の名前が記載されていました。
かずきの顔が青ざめていきます。
「え、母さんの名義?」
「そうです。この家は私の名義で購入しています。あなたたちは私に住ませてもらっている立場なのですよ」
なおが慌てたように書類を覗き込みました。
「でもローンはかずきさんが…」
「ローンの名義は確かにかずきです。でも所有者は私。法的にもこの家の持ち主は私なのです」
2人は顔を見合わせ、明らかに動揺していました。
「母さん、どういうつもりだよ」
かずきが震え声で尋ねます。
「どういうつもりも何も、事実を確認しただけです。それからもう1つ」
私は別の書類を取り出しました。
「これは援助した2800万円の振り込み記録です。私の口座から、この家の購入資金として振り込まれています。つまり、この家の実質的な所有者は私だということです」
なおが口を開きかけましたが、私は手で制しました。
「『お荷物はもういらない』。そう言いましたね。でしたら、お荷物の私がこの家を処分することに何の問題もないはずです」
「処分?」
かずきが息を飲みました。
「1週間以内に出て行ってください。売却の手続きを始めますから」
2人は凍りついたように私を見つめていました。
「母さん、冗談でしょう」
「お荷物の冗談なんて通じないわよ」
私は冷静に答えました。なおが青い顔で立ち上がりました。
「お母さん、そんな権利があるんですか?」
「権利?私の家を売るのに、誰の許可が必要なのでしょう。でも私たちが住んでいるのに…」
「あら、義両親と住むんでしょう。でしたら、この家は必要ないはずです」
かずきが必死に食い下がってきました。
「母さん、落ち着いて話し合おうよ」
「話し合い?さっきまで一方的に出ていけと言っていたのはどなたでしたか?」
私の声は静かでしたが、その中には抑えきれない怒りが込められていました。私は68年間生きてきて、多くのことを我慢してきました。でも、息子夫婦から「お荷物」と言われて黙って受け入れるほど、私は弱くありません。
なおが泣きそうな顔で言いました。
「お母さん、言いすぎました。謝ります」
「謝罪はいりません。あなたたちの本心がよくわかりましたから」
私は書類をまとめながら続けました。
「明日、不動産会社に連絡します。この辺りは人気のエリアですから、すぐに買い手は見つかるでしょう」
「母さん、本気なの?」
かずきの声が震えていました。
「本気も何も、もう決めたことです。お荷物にはもうこの家に用はありませんから」
私は立ち上がり、書斎へ向かいながら最後に言いました。
「1週間です。それまでに新しい住まいを見つけてください。義両親のところなら、喜んで迎えてくれるでしょう」
ドアを閉める直前、2人の呆然とした表情が視界に入りました。でも、もう後戻りはできません。いえ、する気もありませんでした。
翌朝、私は約束通り不動産会社に連絡を入れました。
「家を売却したいのですが、可能でしょうか?」
電話の向こうで担当者の明るい声が響きました。
「そちらのエリアでしたら、すぐに買い手は見つかりますよ。実はそのエリアで物件を探しているお客様がいらっしゃいまして。査定額ですが、現在の相場から考えると3500万円程度になるかと思います」
3500万円。私が援助した2800万円を上回る金額でした。
その日の午後、かずきとなおが形相を変えてやってきました。
「母さん、本当に不動産屋に連絡したの?」
私は淡々と答えました。
「ええ、査定の日程も決まりました。来週には契約できそうです」
なおが涙目で訴えてきました。
「お母さん、お願いです。もう一度考え直してください」
「考え直す?何をでしょう?」
「私たちが悪かったです。お荷物なんてひどいことを言って…」
「あれがあなたの本心でしょう。今更取り繕う必要はありません」
かずきも必死に食い下がります。
「母さん、話し合おうよ。家族じゃないか」
私はかずきを見つめました。
「家族。昨日私を家族扱いしなかったのは誰でしたか?それは外の人と話すことはありません」
私はなおが昨日言った言葉を、そのまま返しました。2人は言葉を失いました。
その時、なおの携帯が鳴りました。画面を見たなおの顔が曇ります。
「お母さんからだ」
なおは電話に出ました。
「もしもし。お母さん?え、同居できない?」
私には聞こえませんでしたが、電話の向こうでなおの母親が何か説明しているようでした。
「でも約束したじゃない。え?お父さんの会社が…」
電話を切ったなおは、呆然とした表情でかずきを見ました。
「実家の会社の経営が悪化してて、とても私たちを受け入れる余裕はないって」
かずきも愕然としていました。
「じゃあ、僕たちはどこに住めばいいんだ?」
2人はようやくことの重大さに気づいたようでした。家を失い、頼るはずだった義両親にも断られ、行場を失ったのです。
「アパートでも探せばいいでしょう」
私が言うと、かずきが震え声で言いました。
「でも急にそんなお金…」
「お金?息子への援助は親の当然の義務だと、昨日なおさんが言っていましたよね」
なおは顔を真っ赤にして俯きました。私は続けました。
「ところで、2800万円の援助を受けて貯金はないのですか?」
かずきが苦しそうに答えました。
「新居の家具や家電に使って…それに車も買い換えたし…」
「まあ、計画性がありませんね」
私の言葉に、2人は何も言い返せませんでした。
数日後、不動産会社の査定が終わり、すぐに購入希望者が現れました。
「良い条件の相手様が見つかりました。成約額は3500万円です」
「わかりました。すぐに契約を進めてください」
その頃、かずきとなおは必死に新居を探していました。しかし急な話だったため、なかなか良い物件は見つかりません。
「45万円は高すぎるよ」
「でもこれでも安い方よ。もっと郊外に行かないと…」
2人の会話が隣の部屋から聞こえてきました。
ついに1週間が経ち、2人は荷物をまとめ始めました。あれほど偉そうにしていたなおも、今ではすっかり小さくなっています。
荷物を運び出す時、なおが振り返りました。
「お母さん、本当にもう1度だけチャンスをいただけませんか?」
「チャンス?何のチャンスでしょう?」
「やり直すチャンスです。私が間違っていました」
私は首を横に振りました。
「なおさん、あなたは間違っていません。本心を言っただけです。ただ、その本心に対する責任は取ってもらいます」
かずきも最後の訴えをしてきました。
「母さん、本当にこれでいいの?僕たちは親子だよ」
「親子?」私は静かに微笑みました。「親子なら、なぜ私をお荷物扱いしたのですか?親子なら、なぜ2800万円もの大金をあてにして返さなかったのですか?」
2人は答えられませんでした。トラックに最後の荷物が詰まれ、2人は新居へと去っていきました。私は窓から遠ざかっていくトラックを見送りました。心に痛みがないと言えば嘘になります。でも、これが最善の選択だったと私は確信していました。
あれから1年が経ちました。都心から離れた古いアパートの一室。かずきとなおは、6畳一間の狭い部屋で向かい合って座っていました。テーブルの上には請求書の山が積まれています。
「家賃15万円。駐車場3万円。光熱費2万円…貯金も尽きちゃったし、どうすればいいの?」
なおは眉をひそめながら家計簿を見つめていました。かずきも疲れきった表情で答えました。
「ボーナスまで何とか持ちこたえるしかない」
「ボーナス?去年だって雀の涙だったじゃない」
2人の関係も明らかに悪化していました。お金の問題が、夫婦の間に深い溝を作っていたのです。
「そもそもお前が母さんにあんなことを言うから…」
かずきが責めると、なおは声を荒げました。
「私のせい?あなただって賛成したじゃない」
「でも、お荷物なんて言葉は…」
「今更何を言ってるの?」
喧嘩が始まりかけた時、かずきの携帯が鳴りました。
「もしもし。え?入院?」
電話を切ったかずきの顔は真っ青でした。
「なおの父さんが倒れたって。入院費用が…」
なおも愕然としました。
「うちの実家にはもうお金がないのに…」
追い打ちをかけるように、会社からも良くない知らせが届きました。業績悪化により、ボーナスは大幅カットされるというのです。
「もう限界だ」
かずきは頭を抱えました。
「母さんに頼むしかない」
なおも、もはや反対しませんでした。プライドを捨てて助けを求めるしかなくなったのです。
数日後、かずきは重い足取りで私の新居を訪ねました。高級マンションのエントランスで、かずきは一瞬立ちすくみました。オートロックの画面に映る自分の姿が、みすぼらしく見えたのです。
「母さん、かずきです。話があってきました」
インターフォン越しに、私の落ち着いた声が聞こえました。
「あら、どうしたの?」
「お願いがあって…会ってもらえませんか?」
しばらくの沈黙の後、オートロックが開きました。エレベーターで最上階へ。私の部屋は、眺望の素晴らしい角部屋でした。
「お邪魔します」
リビングに通されたかずきは、その豪華さに圧倒されました。大きな窓からは都心の景色が一望でき、室内は高級家具で統一されています。
「紅茶でも飲む?」
私は優雅にティーセットを用意しました。その姿は1年前よりもずっと若々しく見えました。
「母さん、実は…」
かずきは声を潜めて切り出しました。
「お金を貸してもらえないかな?」
私は静かにカップを置きました。
「お金?いくら必要なの?」
「300万円…いや、できれば500万円」
「随分な金額ね。何に使うの?」
かずきは事情を説明しました。生活費、なおの父親の入院費、そして蓄積した借金のこと。私は黙って聞いていましたが、やがて口を開きました。
「お荷物には、お金はありませんよ」
その言葉にかずきは凍りつきました。
「母さん…」
「あなたたちが私に言った言葉、覚えていますか?」
私の声は静かでしたが、その中には固い意志が感じられました。
「でも、親子だろ」
かずきが必死に訴えると、私は首を振りました。
「親子じゃないって言ったのは、あなたたちでしょう」
「あれはなおが勝手に…」
「なおさんに責任を押し付けるのですか?あなたも同意していたはずです」
かずきは何も言い返せませんでした。
「それに」私は続けました。「私はもう息子への援助は十分したはずです。2800万円という大金を。でも、あれは当然の義務だとなおさんは言いましたね。でしたら、もう義務は果たしました」
かずきは膝をついて懇願しました。
「母さん、お願いだ。本当に困ってるんだ」
「困っている?」私は立ち上がり、窓の外を眺めました。「私も1年前、とても困りました。息子夫婦からお荷物と言われ、追い出されそうになって。でも私は自分の力で立ち上がりました。この部屋も、家を売ったお金で購入しました。誰にも頼らず、自分の決断で」
かずきは絶望的な気持ちでもう1度訴えました。
「なおも反省してるんだ。もう1度チャンスを…」
その時、私の携帯が鳴りました。
「あら、ごめんなさい。今日は陶芸教室の日だったわ」
私はかずきに向き直りました。
「あなたも自分の力で立ち上がりなさい。それが本当の親孝行というものです。因明果応という言葉をご存じでしょう。自分の行いは、必ず自分に帰ってくるのです」
かずきは最後の望みを託して言いました。
「せめてなおに会ってやってくれないか。直接謝りたいって…」
私は少し考えてから答えました。
「会う必要はありません。私はもう前を向いて生きていますから」
かずきは力なく立ち上がりました。もはや何を言っても無駄だと悟ったのです。
マンションを出たかずきは、振り返って最上階を見上げました。そこには、かつてお荷物と呼んだ母親が、誰よりも豊かに暮らしているのです。
アパートに戻ると、なおが期待に満ちた目で迎えました。
「どうだった?」
かずきは首を横に振りました。
「だめだった」
なおは崩れ落ちました。
「私のせいね。私があんなことを言ったから…」
「今更後悔しても遅いよ」
2人は初めて、自分たちのしたことの重さを真に理解したのでした。
一方、私は陶芸教室で仲間たちと楽しく作品作りに励んでいました。
「しずさん、今日も素敵な作品ね」
「ありがとう。毎日が充実していて、本当に幸せよ」
その笑顔は、1年前とは比べ物にならないほど輝いていました。
私の新しい生活は、想像以上に充実したものでした。高級マンションの最上階にある自宅は、3LDKの広々とした間取り。売却した3500万円で購入したこの部屋は、老後を過ごすには十分すぎるほど快適でした。
朝は大きな窓から差し込む朝日で目覚めます。ベランダに出ると、眼下に広がる都会の景色が新しい1日の始まりを告げていました。
「今日は何をしようかしら」
私は微笑みながら1日の予定を考えます。月曜は陶芸教室、火曜は習字、水曜は友人とのランチ、木曜はヨガ、金曜は読書会。週末は美術館巡りや買い物を楽しむ。かつては息子夫婦の世話に追われていた時間が、今は全て自分のために使えるのです。
この日は水曜日。仲の良い友人たちとのランチの日でした。ホテルのレストランで、同年代の女性たちが集まっていました。
「しずさん、最近本当に若返ったわね」
友人の1人がそう言うと、他の人たちも口々に同意しました。
「本当よ。肌もつやつやだし、姿勢もシャキッとしてる。何か特別なことをしているの?」
私は穏やかに微笑みました。
「特別なことは何も。ただ、自分の人生を自分のために生きているだけよ」
すると、別の友人が心配そうに尋ねました。
「でも息子さんとは…」
「ええ、今は距離を置いています」
私は正直に答えました。
「実は1年前に色々ありまして…」
友人たちは私の話に耳を傾けました。2800万円の援助、同居の約束、そして「お荷物」発言と追い出し騒動。
「まあ、ひどい話ね。でもしずさん、よく決断したわ」
友人たちは口々に私を称賛しました。
「私も似たような経験があるの」
1人の友人が打ち明けました。
「息子夫婦に尽くしてきたのに、結局は邪魔者扱いされて。私も、娘に全財産を渡したら施設に入れられそうになって…」
話を聞いていると、多くの人が同じような悩みを抱えていることが分かりました。
「でも、しずさんみたいに毅然とした態度を取れる人は少ないわ。本当に勇気があると思う」
私は静かに語りました。
「勇気というより、必要に迫られただけです。でも今思えば、あの出来事があったからこそ本当の自由を手に入れられたのかもしれません」
午後は、新しく始めた社会貢献活動に参加しました。地域の小学校でボランティアとして、子供たちに読み聞かせをするのです。
「しず先生、今日も来てくれたの?」
子供たちが駆け寄ってきます。元教師だった私にとって、子供たちと触れ合う時間は何よりも楽しいひと時でした。
「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「今日はね、『因明果応』というお話よ」
私は優しく語り始めました。
「良いことをすれば良いことが返ってくる。悪いことをすれば悪いことが返ってくる。だから人には優しくしましょうね」
子供たちは真剣に耳を傾けていました。
夕方、マンションに戻った私はゆったりとお茶を楽しみました。1人暮らしは寂しいのではないかと心配する人もいますが、私にとってはこれが最高の生活でした。誰に気を使うこともなく、自分のペースで暮らせる。食事も好きなものを好きな時間に食べられる。お風呂も好きなだけ入れる。テレビも自分の見たい番組を見られる。
「これが本当の自由というものね」
私はしみじみと思いました。
その頃、かずきとなおは相変わらず苦しい生活を送っていました。狭いアパートで、2人は黙々と夕食を食べていました。会話らしい会話はなく、ただ義務的に食事を済ませるだけの日々。
「来月の家賃、どうする?」
なおが重い口を開きました。
「なんとかするしかないだろ」
かずきの返事も投げやりでした。
なおはふと1年前のことを思い出しました。あの新築の家で、私が作ってくれた温かい食事。文句を言いながらも、実は美味しかった手料理の数々。
「お母さんの料理、また食べたいな」
思わず呟いた言葉に、かずきも頷きました。
「そうだな。あの時は当たり前だと思ってたけど…」
2人は初めて、失ったものの大きさを実感したのでした。
一方、私の充実した生活は続いていました。ある日、陶芸教室の先生から提案がありました。
「しずさん、作品展に出品してみませんか?」
「まあ、私なんかの作品が…」
「とても素晴らしい出来ですよ。きっと評価されます」
こうして、私の新しい挑戦が始まりました。
作品展当日、私の作品の前には多くの人が集まりました。
「この深い青色が素晴らしい」
「形も優雅で、品がありますね」
高い評価を受けた私の作品は、なんと入選を果たしたのです。
「おめでとうございます。しずさん」
仲間たちが祝福してくれました。私の目には、嬉しさのあまり涙が浮かんでいました。
「まさか、この年で新しい才能が開花するなんて」
元教師として人に教えることばかりだった私が、今度は自分自身の可能性を発見したのです。
その夜、私は日記を書きました。
「理不尽に屈しないことの大切さを学びました。長年、我慢することが美徳だと思い込んでいましたが、それは違いました。自分の尊厳を守ることも、同じくらい大切なのです。息子夫婦から『お荷物』と言われた時は本当に辛かった。でも、あの経験があったからこそ、私は自立することができました。誰かに依存するのではなく、自分の力で生きていく。それが本当の強さだと、今なら分かります。2800万円という大金を失ったと思う人もいるかもしれません。でも私はそうは思いません。あのお金で、私は自由を買ったのです。誰にも縛られない、自分だけの人生を。因明果応は必ず実現されます。良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが返ってくる。息子夫婦もいつか、そのことを理解する日が来るでしょう。でも私はもう過去を振り返りません。これからは前を向いて生きていきます。まだまだやりたいことがたくさんあるのですから。今、私は心から言えます。私は幸せです、と」
日記を閉じた私は、窓の外を眺めました。夜景がキラキラと輝いています。
「明日は何をしようかしら」
新しい1日への期待に胸を膨らませながら、私は微笑みました。



