「白瀬さん、これ、解雇通知です。今日中に荷物をまとめてください」 入社6年、売上の4割を担う大口取引先を一人で守ってきた私に、新任の部長が突きつけたのは、捏造されたクレームだった。彼は私の父の形見の万年筆を「ガラクタ」と笑い、机の隅に放り投げた。私は静かに拾い上げ、こうだけ言った。 「明日になれば、分かりますよ」…

「白瀬さん、これ、解雇通知です。今日中に荷物をまとめてください」 入社6年、売上の4割を担う大口取引先を一人で守ってきた私に、新任の部長が突きつけたのは、捏造されたクレームだった。彼は私の父の形見の万年筆を「ガラクタ」と笑い、机の隅に放り投げた。私は静かに拾い上げ、こうだけ言った。 「明日になれば、分かりますよ」...

「君、何のプロジェクト担当だったっけ?」

首を告げられた当日、黒木部長は鼻で笑った。無能なお前に大口取引先は重すぎたんだよ、と。隣では黒木が連れてきた若い女が、私の席を見て笑っていた。フロア中の視線が私に突き刺さる。

入社6年。この3つの取引先を、私1人で守り抜いてきた。その年間予算は会社の売上の4割を超える。だが、3つの取引先が本当に信じているのは、私だけだった。

私は父の形見の万年筆を握りしめ、静かに答えた。

「明日になれば、分かりますよ」

翌朝、その大口取引先が会社から一斉に消えた。

その朝、私はいつも通り7時半に出社した。デスクには月道の新キャンペーンの企画書が広げてあった。午後には遠藤代表との定例会議も控えている。そんな段取りを頭の中で組み立てていた時だった。

「白瀬、ちょっと会議室まで来てくれ」

黒木部長が硬い表情で私を呼んだ。嫌な予感が胸をよぎる。

会議室に入ると、黒木は1枚の書類を机に滑らせた。

「担当者から君への苦情が相次いでいる。対応が遅い。信頼できないとな」

私は自分の耳を疑った。

「苦情ですか?先週も花村社長から直接お礼をいただきましたが」

黒木は私の言葉を遮り、冷たく言い放った。

「会社はもう君を必要としていない。これは解雇通知だ。今日中に荷物をまとめろ」

書類には身に覚えのないクレームの日付が並ぶ。全て黒木が作り上げた嘘だと、すぐに分かった。

反論し掛けた時、黒木の視線が私の手元で止まった。私が握っていた、父の形見の万年筆だった。

「なんだ、その見苦しい安物は」

黒木はそれを奪い取り、机の隅へ放り投げた。

「そんなガラクタを持ち歩くから、腕が甘いんだよ」

父を、父の教えを侮辱された気がした。それでも私は表情一つ変えなかった。床に転がった万年筆を静かに拾い上げる。胸の奥で何かが冷たく沈んでいくのを感じた。

「ほら、さっさとサインしろ」

私はペンを取り、迷わず署名した。争う気などなかった。3つの取引先が誰を信じているか、私だけが知っていたからだ。

会議室を出る際、黒木がせせら笑った。

「君、何のプロジェクト担当だったっけ?」

私は振り返り、静かに微笑んだ。

「明日になれば、分かりますよ」

自席に戻ると、同僚たちがチラチラと私を見ていた。誰も声をかけてはこない。私は黙ってダンボールに私物を詰め始めた。パソコンの中の企画書も、客の連絡先も、あえて残しておいた。長年担当してきた取引先に迷惑をかけたくなかったからだ。今思えば、それすら甘い考えだったのかもしれない。

荷物をまとめていると、後輩の相沢がそっと近づいてきた。彼は周囲を気にしながら、声を潜めた。

「白瀬さん、あのクレーム、全部でっち上げですよ」

私は手を止め、相沢を見つめた。

「昨日、黒木さんが誰かと電話してるのを聞いたんです。連れてきた水野を白瀬さんの席に座らせるって」

やはり、そういうことか。腑に落ちた。水野とは、先月黒木のコネで入社した26歳の女だ。広告の実務経験はほとんどないと聞いていた。

「黒木さん、前から白瀬さんのこと目障りに思ってたみたいで」

相沢はさらに声を落とした。

黒木は先月から部長として着任したばかりだった。着任早々、彼は部下に露骨なご機嫌取りを要求した。毎朝のコーヒー、休日のゴルフの付き添い。同僚たちは競うように機嫌を取っていた。だが、私はそういうやり方が大嫌いだった。仕事さえきちんとしていれば、こびる必要などない。そう信じて、黒木の誘いも贈り物も全て断ってきた。息子の塾の口利きを頼まれた時も、はっきり断った。それが彼のプライドを傷つけたのだろう。

「白瀬さん、このまま黙って辞めるんですか?」

相沢が悔しそうに尋ねた。私はダンボールを抱え、静かに立ち上がる。

「大丈夫。心配しないで」

そう答えながら、私の心はもう決まっていた。私がいなくなった会社で、彼らがどこまで持ちこたえられるか。じっくり見せてもらおうじゃないか。

ベンチに座り、私は6年間を振り返った。新卒の頃、私は右も左も分からないアシスタントだった。そんな私に亡き父が残したのが、1本の万年筆だった。

父もまた、広告の世界で生きた人だった。

「信頼は会社じゃない。人に宿るんだ」

それが父の口癖であり、教えでもあった。

「大事な契約には、必ずこの万年筆でサインしろ」

父はそう言い残し、私の入社年に亡くなった。以来、取引先との最初の契約は全てこの万年筆で結んできた。

月道の花村社長との出会いは4年前になる。老舗の和菓子屋は売上の落ち込みで倒産寸前だった。私は3ヶ月、毎週工房に通い、職人の話に耳を傾けた。そうして生まれた新商品が、若い世代に爆発的に売れた。あの時、花村社長は私の手を握り、こう言ってくれた。

「白瀬さんは、うちの御恩人だ」

化粧品のルミエール、遠藤代表とは3年前に出会った。ある夜、主力商品に成分表示のミスが発覚する。回収すれば数億円の損失。放置すれば信用の失墜。私は3日間泊まり込みで、回収と告知の計画を練り直した。発表の直前、遠藤代表は涙ぐんで私を見つめた。

「あなたがいなければ、うちは終わっていた」

スポーツ飲料ゼファーの桐社長は、資金難に苦しんでいた。私は足を頼りに、同業者を紹介して回った。

どれも会社に指示された仕事ではない。私が心から彼らを守りたいと願った結果だった。だからこそ、3者は私個人を信じてくれている。契約書に並ぶのは会社の名でも、彼らが見ているのは私だ。黒木にも水野にも、それだけは決して奪えない。

父の万年筆を撫でるたび、私はあの言葉を思い出す。信頼は人に宿る。その意味を、明日黒木は嫌というほど思い知る。

家に帰り、私は荷物を玄関に置いた。ソファーに沈み込むと、この1ヶ月のことが頭をよぎった。黒木が着任してから、嫌がらせは日に日に露骨になっていた。私が仕上げた企画書には、いつも必要なダメ出しがついた。私が担当するはずの新規案件は、次々と水野に回された。先月の社内表彰も、成績は明らかに私が上だった。それなのに黒木はその枠を自分の取り巻きに与えた。

相沢が言うには、黒木には強力な後ろ盾があるらしい。副社長と古い付き合いで、誰も逆らえないのだという。だからクレームの捏造も、社内では誰一人疑わなかった。数字だけを見て、その裏を確かめる者などいない。

私は深く息を吐き、スマートフォンを手に取った。そして3つの取引先の社長に、それぞれ短いメッセージを送った。

「本日をもちまして、会社を退職いたしました。これまで本当にありがとうございました」

伝えたのはそれだけだ。余計なことは一言も書かなかった。取引をやめてくれとも、助けてくれとも頼まない。私が多くを語らずとも、彼らなら分かってくれる。そう信じていたからだ。

送信して数分も経たないうちに、画面が震えた。花村社長からだった。

「どういうことだ?明日、朝一番で会おう」

続いて遠藤代表からも返信が届く。

「私はあなたを信頼していたの。会社ではなく、あなたを」

桐社長のメッセージは単刀直入だった。

「何か嫌がらせでも受けたのか。力になるぞ」

3人の言葉を見て、胸の奥が熱くなった。この6年間、私が注いだ心は無駄ではなかった。彼らはちゃんと、私という人間を見ていてくれた。

私は静かにスマートフォンを置いた。明日の朝、全てが動き出す。黒木が掘った落とし穴に、黒木自身が落ちる番だ。

翌朝、私はスマートフォンの通知音で目を覚ました。相沢から立て続けにメッセージが届いていた。

「白瀬さん、今すぐ会社の様子を見てほしいです。水野さんが朝一で月道に挨拶へ行ったんです」

どうやら黒木は早速、水野を動かしたらしい。私は布団の中で続きのメッセージを読んだ。

「でも、秘書さんに門前払いされたそうです。花村社長は白瀬さんしか信頼していないと」

思わず口元が緩んだ。花村社長らしい。胸が温かくなる。相沢のメッセージはさらに続いた。

「その場で取引停止の通知書まで渡されたそうで、水野さん、真っ青な顔で帰ってきました」

私はゆっくり起き上がり、顔を洗った。朝食にトーストを焼き、コーヒーを入れる。一口飲んだところで、また通知が鳴った。今度は短い動画が送られてきた。オフィスで黒木が怒鳴り散らしている映像だった。

「挨拶一つまともにできないのか。花村社長は一体どういうつもりなんだ」

水野は目を真っ赤にして、言い訳をしていた。

「私にも分かりません。白瀬さん以外は認めないと、門前払いで」

黒木の顔が怒りで醜く歪んでいく。

「あいつはもう辞めたんだぞ。なぜ客がまだあいつを信じるんだ?」

取り乱す黒木を見て、私は深く息を吐いた。水野なら簡単に引き継げると、舐めていたのだろう。今頃になって事の重大さに気づいたようだ。私はコーヒーをもう一口含んだ。私が残した「明日になれば分かる」の意味を。黒木が思い知るのは、まさにこれからだった。これはまだほんの序章に過ぎない。

その日の午前中、相沢の実況は止まらなかった。9時半、水野は化粧品のルミエールへ向かった。だが結果は月道と同じだった。遠藤代表の秘書から、冷たく告げられたという。

「契約の話は、白瀬さん本人としかしません。来月の更新はもうありません」

戻ってきた水野の目は、泣き腫らして真っ赤だった。

午前11時、水野は最後にゼファーの桐社長を訪ねた。桐社長は直接ロビーまで降りてきたそうだ。そして、たった一言だけ言い放った。

「私が契約したのは、白瀬さんの顔を立ててだ。彼女がいないなら、取引はここまでだ」

これで、大口取引先全てが取引停止を通告してきた。黒木は自ら3つの取引先に電話を掛けまくった。だが、誰一人電話に出ようとしない。運良く繋がっても、名を名乗った瞬間に切られる。部門の全員に手分けさせても、結果は同じだった。オフィスは蜂の巣をつついたような騒ぎになる。

昼過ぎ、相沢から新しいメッセージが届いた。

「人事の宮本さんが、黒木さんに詰め寄ってました」

宮本は先月配属されたばかりの若い人事担当だ。私の解雇手続きを事情も知らずに進めた張本人でもある。その宮本が、真剣な顔で黒木に食い下がったという。

「白瀬さんの担当先が、なぜ一斉に離れるんですか?昨日彼女は、明日になれば分かると言いました」

黒木は宮本を追い払った。

「余計なことに首を突っ込むな」

だが、宮本はその後私にメッセージを送ってきた。

「白瀬さん、本当にごめんなさい。何も知らずに手続きを進めてしまって」

私は静かにその謝罪を受け止めた。彼女もまた、黒木の嘘に踊らされた1人なのだ。会社の崩壊は、まだ始まったばかりだった。

その日の午後、見知らぬ番号から電話がかかってきた。少し迷ったが、私は通話ボタンを押した。

「もしもし」

電話の主は黒木だった。昨日の態度とは打って変わり、甘ったるい猫なで声だった。

「白瀬さん、私だ。黒木だよ」

私は心の中で嘲笑した。昨日まで、会社の恥さらしにしていたくせに。

「黒木部長、ご要件は?私は今、忙しいのですが」

私の冷たい態度に、黒木は一瞬言葉をつまらせた。

「いや、その、君のリストラの件だが、少し誤解があってね。どうか気を悪くしないで欲しいんだ」

「誤解?」

私は思わず乾いた笑いを漏らした。

「クレームが来ていると書類を捏造した時のことも、あれも誤解の一言で済むんですか?」

黒木は返す言葉を失い、押し黙った。しばらくして、苦し紛れの言葉を絞り出す。

「会社もプレッシャーが大きくて、仕方がなかったんだ。君ほどの人材なら、過去は水に流してくれるだろう。戻ってくれるなら、条件はいくらでも出す。給料は3割上げる。マネージャーの席も用意しよう」

昇進させれば、私が尻尾を振って戻るとでも?どこまで人を見下せば気が済むのだろう。私はきっぱりと断った。

「結構な条件ですね。でも、何の魅力も感じません。私はもう、次の仕事が決まっていますので」

「次の仕事だと?」

黒木の声が焦りで裏返った。

「ふざけるな。うちほど安定した会社はないぞ。客を戻してくれたら、特別ボーナスも出す。最低でも100万は出せるはずだ」

「100万円」

私はさらに冷ややかに笑った。

「その程度の小銭で、私が動くとでも?」

私は静かに電話を切った。念のため、この通話は録音しておいた。

電話を切ってすぐ、相沢からメッセージが届いた。

「白瀬さん、さっき黒木と電話しました。あの人、マグカップを壁に叩きつけてましたよ」

私は思わず苦笑した。自分の無能さを棚に上げて、逆恨みですか、と。相沢はさらに、社内の様子を教えてくれた。

昼過ぎ、黒木は副社長に副社長室へ呼び出されたという。

「どうにか顧客を引き止めろ。無理なら、お前を切る」

そう怒鳴られ、黒木の顔は土色だったそうだ。だが、3つの取引先を引き止める方法など、あるはずがない。彼らが認めているのは、私という人間だけなのだから。

夕方、今度は同僚たちから次々と連絡が来た。

「昔からの仲じゃないか。困った時はお互い様だろ」

どれも黒木に言わされているのが見え透いていた。その中に、以前は仲の良かった佐々木もいた。

「白瀬さん、お願いだから戻ってきてくれないかな。君が戻らないと、この部署は本当に潰れるんだ」

私は佐々木に静かに返信した。

「意地悪で断っているわけじゃないんです。黒木さんのやり方が、あまりに卑劣だからです。戻っても、彼はまた私を落とし入れるに決まっています」

佐々木からは、正直な返事が来た。

「君が怒るのも当然だ。黒木が悪いのは、皆分かってる。でも、僕は家族を養わなきゃいけないから」

その返信に、私も少しだけ胸が痛んだ。だが、情だけであの地獄へ戻るわけにはいかない。黒木の罪は、黒木自身が償うべきものだ。

そんな中、相沢と宮本だけは違った。

「白瀬さんは、絶対に戻らないでください」

2人は口を揃えてそう言ってくれた。その言葉が、冷えた心を温かく照らす。私の決意はもう揺るがなかった。

その夜、私は遠藤代表と食事を共にした。転職の相談に乗ってもらうつもりだった。

「実は、今次の職場を探していまして」

私がそう切り出すと、遠藤代表は身を乗り出した。

「白瀬さん、探す必要なんてないわ。うちに来なさい。あなたのための席を用意する」

思いがけない言葉に、私は目を見開いた。

「ルミエールに、ブランド戦略室を新しく作るの。その室長をあなたに任せたい。待遇は、前の会社の役員クラスを保証するわ」

あまりの好条件に、私は言葉を失った。

「代表、私にそこまでの価値が」

「あるに決まっているでしょう」

遠藤代表は静かに微笑んだ。

「3年前、あなたはたった3日でうちを救ってくれた。あの判断力と誠実さを、私は今も忘れていない」

胸の奥がじんと熱くなる。少し前まで、突然職を失い、不安に押しつぶされそうだった。それがどうだろう。こんなにも早く、温かい場所が見つかるなんて。私はテーブルの上で、そっと父の万年筆を握りしめた。

信頼は人に宿る。この言葉が耳の奥で蘇る。生前、父はいつも私にこう言っていた。「本当に困った時、助けてくれるのは人だ」と。

父さん、あなたの教えは間違っていなかった。私は深く頭を下げた。

「遠藤代表、是非お世話になりたいです。必ずご期待に応えて見せます」

「よかった。これからは同じ船に乗る仲間ね」

遠藤代表は我が子のように喜んでくれた。

帰り道、夜風が頬を撫でた。黒木は私のキャリアを終わらせようとした。だが結果的に、彼は私を高く飛ばす踏み台になったのだ。

翌朝、出社準備をしていると、宮本から電話が来た。その声は緊張で少し震えていた。

「白瀬さん、大変なことに気づいてしまって」

聞けば、宮本は人事の権限である資料を目にしたという。黒木が過去に承認したキャンペーンの発注だった。

「下請けへの発注額が、相場より異常に高いんです。しかも、同じ業者にばかり集中していて」

私の頭に一つの疑いが浮かんだ。

「キックバック?」

黒木は水増し発注で私服を肥やしていたのでは?

「宮本さん、その業者との契約書、確認できますか?」

「もう調べています。相沢さんも手伝ってくれていて」

2人はこっそり社内の記録を洗い直していた。宮本の調べでは、水増しの総額は1000万円を超えるという。そのほとんどが黒木の懐に入っていた。

昼過ぎ、相沢からも続報が届く。

「白瀬さん、これはもっと根が深いですよ」

彼が見つけたのは、一通の不審なメールだった。黒木が競合代理店の人間とやり取りした痕跡だ。

「うちの顧客データを外に流している疑いが」

背筋が冷たくなった。顧客を追い出すだけでなく、機密まで売っていたとは。これはもう、単なる社内の嫌がらせでは済まない。横領と情報漏洩。明確な犯罪だ。

「証拠は絶対に消されないよう、保管してください」

私は2人に指示を送った。

「はい。コピーを複数の場所に残してあります」

相沢の声には静かな怒りが滲んでいた。黒木は自分の足元がどれほど脆いか、気づいていない。私を落とし入れるための嘘が、今、彼自身に牙を向く。その瞬間は、もうすぐそこまで来ていた。

その日の午後、私は遠藤代表に呼ばれた。社長室に入ると、そこには意外な人物がいた。月道の花村社長だった。2人はソファーに並び、何やら話し込んでいる。

「白瀬さん、いいところに来た」

花村社長が穏やかに笑って手招きした。

「今、遠藤さんと相談していてね。これから君の元いた会社に乗り込もうと思うんだ」

私は驚いて問い返した。

「社長方が直接ですか?秘書の方に任せれば」

「いや、これは私たちが行かねば意味がない」

花村社長の目は、静かな怒りを宿していた。

「君を切ったことが、どれほどの間違いだったか。あの連中に、骨の髄まで思い知らせてやる」

遠藤代表も大きく頷いた。

「あの卑劣な男に、あなたがどれほど輝く場所にいるか、その目で見せつけてやりましょう」

少し遅れて、ゼファーの桐社長も駆けつけてくれた。大口取引先の社長が、揃って私のために動いてくれる。その温かい思いに、胸がいっぱいになった。

本当はもう、あの会社には関わりたくなかった。だが、私はここで引くわけにはいかない。黒木の罪を白日の下にさらす。そのために、私も同行することを決めた。

出発の前、私は相沢と宮本に連絡を入れた。

「例の証拠、今日必要になります。準備をお願いします」

「もう整えてあります。どうぞ」

2人の頼もしい返事に、私は深く頷いた。そして鞄の中の父の万年筆を握りしめる。父さん、見ていてください。私はあなたの教えを証明してきます。

午後2時過ぎ、私たちはかつての職場のビルへ足を踏み入れた。ロビーに入ると、受付の女性がすぐに私に気づいた。気まずそうな彼女に、花村社長が重く告げた。

「副社長に用がある。取引停止の最終通告に来た」

数分後、副社長が慌てて駆け下りてきた。必死に愛想笑いを浮かべ、3人の社長にすり寄る。

「これはこれは、わざわざお越しいただき」

私たちは副社長室へ通された。部屋の隅には、真っ青な顔の黒木が立っていた。私が社長たちと並ぶ姿を見て、彼の顔から血の気が引く。

副社長は揉み手をしながら話し始めた。

「取引停止だなんて、何かの誤解では」

花村社長は出された茶に口もつけず、言い放った。

「我々が信頼していたのは、白瀬さん一人だ。その御恩人を不意に切り、素人を後任に据えた。そんな無責任な会社に、大切な仕事は任せられん」

遠藤代表も厳しい声で続けた。

「担当が変わった途端、会話すら成り立たない。これがその答えです」

副社長は顔色を変え、黒木を睨みつけた。

「黒木、これは一体どういうことだ?引き継ぎに問題はないと報告していただろう」

黒木は額に汗を浮かべて、どもり始めた。

「わ、私はただ会社のために、人員を最適化しようと」

「最適化だと」

花村社長が氷のように冷たく言った。

「白瀬さんから聞いているぞ。彼女を追い出すため、クレームを捏造したそうだな」

その瞬間、私はスマートフォンを取り出した。

「では、これを聞かせましょう」

再生された音声に、黒木の焦った声が響き渡る。「仕方がなかったんだ」。彼自身が不正を認めていた。黒木の顔は、死人のように真っ青になっていった。

副社長は激昂し、デスクを強く叩いた。

「黒木、貴様、どこまでふざけた真似を」

だが、話はそれだけでは終わらなかった。私は静かに鞄から一つの封筒を取り出した。

「副社長、まだ続きがあります」

中には、相沢と宮本が集めた証拠のコピーがあった。

「黒木部長は、下請けへの水増し発注を繰り返していた。その総額は1000万円以上。差額は全て、彼自身の懐に入っています」

副社長の顔がみるみる蒼白になっていく。

「さらに、こちらを」

私はもう一枚の書類を差し出した。

「彼は我が社の顧客データを、競合に売っていました。相手とのメールも送金記録も、全て揃っています」

その場が水を打ったように静まり返り、黒木は床にへたり込んだ。

「ち、違う。それは何かの間違いで」

「間違い?」

私は彼を静かに見下ろした。

「私の父の万年筆をガラクタと笑ったあなたが、人の信頼を金で売り飛ばしていたんですね」

副社長は震える声で、黒木に言い渡した。

「懲戒解雇だ。横領と情報漏洩で、刑事告発する」

その夜、相沢から最後の報告が届いた。

「黒木、さっき警察に連行されましたよ。業務上横領の容疑です」

昨日までふんぞり返っていた男の、あまりに惨めな末路だった。

小物の水野は、黒木の逮捕を知るなり姿を消した。無断で退職し、逃げるように去っていったという。だが、彼女もただでは済まない。会社は水野を、業界のブラックリストに登録した。彼女を雇うまともな会社は、もう二度と現れないだろう。他人を落とし入れて得た地位など、砂上の楼閣に過ぎない。全ては彼ら自身が招いた結果だった。

それから2週間が過ぎた。私はルミエールのブランド戦略室室長として歩き始めた。初めて任された大型案件は、大成功を収めた。目標を大きく上回る、1億6000万円の契約を獲得したのだ。遠藤代表は全社員の前で、私を盛大に表彰してくれた。花村社長も桐社長も、変わらず私を気にかけてくれる。黒木に奪われかけたものが、何倍にもなって帰ってきた。

ある夜、私は自宅で父の万年筆を手に取った。黒木にガラクタと笑われた、あの一本だ。ふと、キャップの内側に小さな刻印があることに気づいた。6年間、一度も気に留めたことのない場所だった。目を凝らすと、そこには父の字で刻まれていた。

「まっすぐ生きろ」

その四文字に、涙がこぼれた。父もきっと、この一本でまっすぐ生きてきたのだろう。父さん、私はまっすぐ生きられたでしょうか?

数日後、宮本からメッセージが届いた。

「白瀬さんのおかげで、大切なことを学びました。いつかまた、あなたの元で働きたいです」

私は穏やかに微笑んで、返信した。

「過ちを認め、前を向く人には、きっと良い未来が待っている」

一方、私を切ったあの会社は、坂を転げ落ちていった。3つの取引先離反の噂は広まり、他の顧客も次々と去った。売上は半分以下に落ち込み、再建の目処も立たないという。黒木は職を失い、罪に問われ、業界から永久に追放された。人を落とし入れて成り上がろうとした者への、当然の結末だった。

私は窓の外の夜景を眺め、静かに万年筆を握りしめる。リストラされたあの日の絶望は、もう跡形もない。信頼は人に宿る。父が残したその言葉を胸に、私は次の一歩を踏み出した。

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