「翻訳はAIで十分だろ。お前ら全員首だ」
高橋専務がニヤついた笑みを浮かべてそう言い放った瞬間、翻訳課は凍りついた。
俺は太田。40歳。22歳で大学を卒業してから18年間、同じ医薬品関連企業で翻訳者として働いてきた。業界ナンバー3の会社だ。翻訳者の人数は俺を含めてわずか4人。海外の取引先から届く英語の書類や薬の配合基準書を正確に日本語へ翻訳しなければならない。翻訳ミスは患者の命に直結する。だから俺はどんな案件でも必ず3回見直す。その習慣を18年間、一度も崩したことがない。
課のトップは新井課長。翻訳の精度は俺たちよりはるかに高く、俺は彼の仕事ぶりを心から尊敬している。
問題は、1年前に我が社へやってきた高橋専務だ。
高橋は過去に中央省庁に勤めていた。我が社は省庁の天下り先の一つで、白石社長が官僚出身のため、官僚や公務員を受け入れるようになっていた。高橋もその一人で、医薬品に関する知識はないのに専務の椅子に座っている。
専務の着任が社内で公式発表された時、新井課長は誰よりも驚いていた。
「新しい専務、俺の大学時代のゼミ仲間なんだよ。同じゼミだったんだ」
しかし2人は仲が良かったわけではない。むしろ逆で、高橋が一方的に新井課長を敵視していた。大学時代、高橋は成績トップだったが、語学だけは課長に勝てなかった。ゼミの教授はよく英文学の翻訳を課題に出していて、新井の翻訳を高橋の前で褒めていた。意図はなかっただろうが、プライドの高い高橋は毎回負けた気持ちになっていた。必死に勉強しても勝てず、さらに穏やかで優しい性格の新井課長の周りにはいつも人が集まり、神経質でプライドが高く見えっ張りの高橋には友人がいなかった。
さらに高橋には妙な噂がつきまとっていた。中央省庁から天下りしてきたのは、勤務先で横領が発覚して失脚したからという噂だ。あくまで噂だが、やりかねないと思えるほど嫌な人物だった。
着任初日、高橋は新井課長に絡むためにわざわざ翻訳課に足を運んだ。
「俺は勉強ができたから中央省庁に勤めていたが、お前は業界の中では中途半端な会社で、社員数の少ない課のトップを務めていたんだな。お山の大将ってわけか。お前にお似合いだ」
喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。その中途半端な会社に天下りしてきたのはお前だろう。
課長は困ったように笑いながら受け流した。
「そうなんだよ。俺、英語しかできないからさ。高橋みたいに頭が良かったら別の人生もあったかもな」
すると専務は下打ちで返す。
「誰に向かって口を聞いてる?俺は専務だぞ。お前の上司だ。そんな口なんか聞ける立場じゃないだろ」
「そうでしたね。すみませんでした。これから一緒の職場で働く仲間としてよろしくお願いします」
専務の顔は怒りで真っ赤になっていた。同時に、課長に対して拭いきれない劣等感を抱いていると専務の目を見て気づく。嫌味を軽く受け流せる課長の大らかさに、専務は完全に負けていた。
「じじいになってもイライラするやつだな」
そう言い残し、専務は足音を立てて翻訳課から立ち去った。
課長がじじいならあんたもそうだろ。俺が呟くと、一泊置いて3人から笑い声が上がった。
高橋の劣等感は、権力を得て悪い方向に進んでしまったようだった。
着任して半年後、突如翻訳の予算が3割減ることが決まった。
「昨今の物価高で我が社も余裕がないんだよ。無駄なものはどんどん削減していくからな」
わざわざ翻訳課に来た高橋が、似ついた笑みを浮かべながら言い放った。さらに予算削減の一環で外部への翻訳業務の委託が禁止となり、4人だけで社内の全ての翻訳業務をこなすはめになった。
「ごめんみんな。俺のせいだ」
新井課長が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、課長のせいじゃありませんよ。それに、うちの会社って残業代が結構いいですよね。稼がせてもらいます」
笑いながら言うと、課長は少しだけ表情を柔らかくした。しかし本人は責任を感じていたらしい。課長は翻訳課の誰よりも仕事をこなして俺たちの負担を軽くしようとしたが、ある日無理がたたって過労で倒れてしまった。
課長の入院中、俺は我慢できず高橋専務に直訴した。
「専務、課長を目の敵にするのはやめてください。過労で倒れたのはご存知ですよね。もし課長に何かあったら責任取れるんですか?」
責任という言葉に専務は一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに表情が怒りへと変わった。
「何の権力も持たない社員のくせに生意気だぞ」
この日以降、高橋の敵意は俺にも向くようになった。専務が出席する会議に顔を出すと、俺を名指しで叱責するようになったのだ。専務は口がうまいから、普通に聞いただけでは叱られる俺に責任があるように感じる。しかし、俺と専務の確執を知っている翻訳課の社員が聞けば、いびりの一環だと思うものだった。
実際、過労から復帰した課長が何度か専務に苦言を呈した。
「俺の部下をいじめるのはやめてください」
しかし専務相手では逆効果だった。高橋のいびりは手に負えないものになっていく。
課長が肩を落としているのは、今進めている大型プロジェクトから外されたからだ。3年ほど前、アメリカの大手製薬会社との新薬共同開発プロジェクトが始まった。当初は翻訳課が全ての書類を担当していたが、専務の着任後、俺たちは外されたのだ。
「翻訳課は最近対応が遅れ気味だ。大型案件にリスクをかけたくない」
もっともらしいことを言って上層部を説得した。そして、専務は最近流行りのAIに仕事を任せようと提案したのだ。
「AIに任せれば一瞬で翻訳作業が完了する上に、人を使うよりコストがかからない」
無駄にうまい口でプレゼンテーションをした結果、AIの導入が決定した。白石社長は専務の提言をそのまま承認した。現場を大切にする人だという評判は以前から聞いていたから残念だった。
「課長、もしかしたら専務は他の業務もAIに任せるつもりでは?」
「そうだろうな。翻訳課を本気で潰そうとしてるのかも」
俺や他の社員が青ざめる。課長の考えは当たっていた。しかし、その後の専務の行動の速さは俺たちの想像を超えていた。
新薬共同開発プロジェクトへのAI導入決定後、専務の働きかけで社内にAI翻訳の使用が広がっていく。
「うちにAI翻訳の本格導入をするから、今のうちに使って慣れておいてくれ」
専務の通達に逆らえる人間はいない。そして、専務が翻訳課をいじめているという噂が徐々に社内に広まっていった。
廊下を歩いていると、別部署だが仲のいい同期を見つけて声をかけた。
「お、久しぶりだな。週末飲みに行かないか」
しかし同期は慌てた様子で俺を物陰に連れて行くと、申し訳なさそうに言った。
「高橋専務に睨まれたくないんだよ。もう俺に声をかけないでくれ」
他に関わりのあった別部署の人間も同じように、俺や翻訳課から距離を取り始めた。
「課長、もうこの会社に俺たちの居場所はないんでしょうか?」
他の翻訳課の社員たちも同じような目に遭っているらしい。課長は落ち込んだ様子で肩を落としていた。
そしてとうとう、その日がやってくる。以前よりだいぶ少なくなった仕事を4人で片付けていると、突然高橋専務が翻訳課にやってきたのだ。
「翻訳はAIで十分だろ。お前ら全員首だ」
ニタついた笑みを浮かべながら言い放つ専務に、翻訳課が凍りつく。
「どういうことですか?説明してください」
新井課長が怒りに満ちた表情で専務の前に立つ。専務は腕を組んだまま続けた。
「AI導入はすでに社内に広まっている。翻訳課の存在意義はもうないんだよ。上層部にこの課の解体を提言した。前向きに検討するとのことだったよ」
「だからと言って首に…」
課長の言葉を専務が片手を上げて遮る。
「別部署に移動したいのか?翻訳しか能のないお前らが、どうせお荷物になるに決まってる。お前らの居場所はもうどこにもないんだよ」
一方的な解雇はこちらが訴えれば違法になる可能性が高い。しかし専務はそれでも構わないという態度だ。
「慰謝料が欲しいなら訴えればいい。この会社で居心地の悪い思いをしながら働き続けるつもりか?訴える暇があるなら転職先を探す方がいいんじゃないか。身の振り方はよく考えることだな」
そう言い残し、専務は翻訳課から立ち去った。
最終的に俺たちが下した決断は、黙って会社を去ることだった。
せめて残った有給をフルで使おうと考えたが、俺と新井課長の有給は認められなかった。高橋専務の嫌がらせだ。
「すまない太田。俺がもう少しうまく立ち回っていれば…」
「課長のせいじゃありませんよ。最後の日まで課長と一緒に働けるなら、俺は文句ありませんよ」
笑顔でそう告げると、課長は力なく笑った。
解雇宣告の翌日、新井課長から呼び出された。
「以前から声をかけてくれていた会社がある。お前も一緒に来ないか?」
俺に迷う理由はなかった。
そして最後の出勤日。2人きりになった翻訳課で、俺たちは笑顔で会話を交わす。完全勝利を悟った専務は最近顔を出さなくなった。新薬共同開発プロジェクトも大詰めに差し掛かり、忙しいのだろう。
もう昼なのにまだ会議してるみたいですね。会社の外へ向かう途中、一番大きな会議室の前を通った。中から複数の声が聞こえてくる。耳を澄ませると、その声が切羽詰まっていることに気づいた。
「なぜ契約金額が10倍なんだ?」
高橋の声だ。すると突然、会議室の扉が開いたと思ったら、青ざめた高橋専務が飛び出してきた。驚いて立ち止まった俺たちと専務の目が合う。
「ちょうど良かった。お前らのところに行こうとしてたんだ」
専務が勢いよく迫ってきて、ある書類を突きつけてきた。
「AIが翻訳したこの書類。何も問題はないよな」
最初は驚いて目を丸くしていた新井課長だが、「AI」と聞いた瞬間に目が鋭くなる。
「見せてください」
俺も書類を受け取り、課長と共にページをめくった。課長が書類に目を走らせる。10秒ほどの沈黙の後、静かに口を開いた。
「ざっと確認しただけでも、誤訳が7箇所あるな」
俺は頷いて、専務に向き直った。
「これ、アメリカの大手製薬会社と進めていた新薬の共同開発の書類ですよね。5箇所はいずれも医薬品の配合量と投与基準に関わる重要な部分です」
次の瞬間、高橋専務の顔が歪んだ。冷や汗が一気に吹き出て、口からは短い呼吸が漏れている。
「もしかして、誤訳に気づかないまま新薬を作ったんですか?」
新井課長の問いかけに、専務は小さく頷いた。
「すでにアメリカの大手製薬会社に納品済みだ。でも今になって誤訳が発覚して、28億円も賠償請求されて…契約金額が10倍に跳ね上がったんだ」
専務は震える手で俺と新井課長のスーツの裾を掴んだ。
「頼む。お前らで翻訳し直してくれ」
しかし俺と新井課長は同時に専務の手を振り払った。
「1ヶ月前に自分が何を言ったか忘れたんですか?『翻訳はAIで十分』『お前らの居場所はもうどこにもない』。そんなことを言ってましたよね」
俺の問いかけに専務が言葉につまる。
「俺は大学卒業から18年間、誠実に働いて会社に尽くしてきました。翻訳してきた書類は数えきれない。そのうち重大な誤訳は一件もありませんでしたよ。新井課長は俺よりキャリアが長い。課長も誤訳をしたことは一度もありません」
「それがAIに任せた途端、1年もしないうちに誤訳が出てしまった。AI導入で削減できた金額はいくらですか?その金額と今回の賠償28億円。どちらが高くつきました?」
容赦ない俺の問いかけに、高橋は追い詰められていく。助けを求めるように新井課長に視線を向けるが、課長も冷めた目で専務を見ていた。
「薬品の翻訳は命に関わる判断なんですよ。AIにその責任の重さは理解できない。だからこんな誤訳が出てしまうんです」
そう言いながら、受け取った書類を専務に突き返した。
「俺たちは昨日で退職です。新規の翻訳業務は受け付けていません。専務がなんとかしてください」
俺の言葉を聞いた専務の体がブルブルと震えている。そして、信じられない発言をしてきた。
「首は撤回だ。お前らも転職先に困ってるだろう。戻ってこい。待遇は改善する」
この後に及んで何を言っているのだ。俺が呆れると、新井課長も呆気にとられた様子で口を開いた。
「俺たちの転職先はすでに決まっているので、ご心配なく」
気の抜けた声をあげる専務に、俺は続けて答えた。
「業界ナンバーワンの会社の社内翻訳担当部署です。新井課長が先方の会社と繋がりがあって、俺も紹介してもらえたんですよ」
課長の性格の良さは、ライバル企業にも好意的に受け入れられていた。業界の交流会で知り合った相手が、課長の人柄と仕事ぶりに惚れ、以前から転職を勧めていたらしい。
「そ、そんな…お前らが、業界ナンバーワンの会社に転職だと?」
今まで見下していた相手が自分より上の立場になると知り、専務は泣きそうな声でつぶやいた。
呆然とする専務の肩を、誰かがポンと叩いた。
「いきなり会議室から出ていったかと思ったら、こんなところで何をしているんだ?」
現れたのは、我が社のトップである白石社長だ。社長の背後には、会議室から出てきた役員たちが勢揃いしている。
「専務、翻訳課の廃止を提言したのは君だったね。俺は社長としてその提言を承諾した。しかし、まさか翻訳課の社員たちに解雇を迫っていたとは」
先ほどまでの俺たちの話を聞いていたらしい。専務は思わぬ形で悪事がバレて、顔面蒼白になる。
「財務部長、コスト削減効果として年間いくらの削減だ?」
「年間約3000万円です」
社長の横にいた財務部長が答える。
「今回の賠償額は28億。我が社は3000万円を節約するために、28億を失ったというわけだ」
社長が深いため息をつき、俺たちに向き直った。
「2人とも申し訳なかった。専務の提言を聞き入れて翻訳課の解体を決めたのは俺だ。口のうまい相手に騙されたとは言わない。全て俺の責任だ」
社長が頭を下げる。思わぬ形で会社からの謝罪をもらった俺と新井課長は、目を丸くしてお互いを見つめ合った。
「社長、そのことなんですけど、専務と翻訳課が確執していたという噂が社内で流れているようです」
そう言ったのは営業部の課長だ。
「当事者に聞けばいい。新井課長。本当かね?」
課長が頷いて答えた。
「社長、実はこんなことがありまして…」
専務から声が上がる前に、俺が手短に今までのことを役員たちの前で明かした。
「高橋専務とはじっくり話し合う必要があるようだ。今回の賠償の責任の所在についてもね」
怒りに満ちた社長の声に、専務が短い悲鳴をあげる。
「違います。こいつらが嘘をついているだけで…」
「他の社員にも聞き取り調査を行ってください。専務が翻訳課を迫害していたのは事実だとわかりますよ」
新井課長の言葉に、専務がキッとした顔になる。まさか心の優しい新井課長が自分を追い詰めるとは思わなかったのだろう。
「あなたは好き勝手やりすぎた。これ以上会社や他の社員に迷惑をかける前に、厳しい処分を受ける必要があるでしょう」
そんな専務の目から光が失われていく。
「優しい課長にここまで言わせたのは、専務が初めてですよ。そのくらいひどいことをしたって自覚してください。まあ、今更反省したところで何もかも遅いですけどね」
俺の言葉がとどめになったようだ。専務はフラフラとよろけたかと思うと、その場に力なく膝をついた。
俺たちが会社を去った後、社長から謝罪の連絡が来た。あの時は申し訳なかったと。悪いのは専務なので、俺は素直に謝罪を受け入れた。すると、専務のその後について教えてもらった。
28億の賠償の責任を取る形で、専務は退職を提出。しかし専務のやらかしは噂となって業界中に広まり、例の横領の件も再調査が入ったという話だ。借金を抱えながら就職もできず、妻は離婚届を提出。2人の子供も愚かな父親に背を向け、残されたのは孤独と借金だけだった。
一方、俺は新井課長と共に業界ナンバーワンの会社で伸び伸びと働いている。翻訳課の他の社員も転職に無事成功して、平和な毎日を送っていると連絡が来た。
「課長、今度元翻訳課メンバーで飲み会しましょうよ」
「俺はもう課長じゃないぞ。太田と呼べ」
「じゃあ新井さんで。それなら飲み会してもいいぞ」
冗談交じりに言う新井さんに、俺は笑って答えた。俺はこれからも、自分の仕事に一生懸命励んでいくつもりだ。



