雪の降る朝、村じゅうの目が屋根の上に釘付けになった。若い嫁が自らの手で、まだ新しいという茅を一枚また一枚と剥がしていく。誰もが「気が触れた」とささやいた。けれど、その剥がれた屋根の下に、この家を、そして村を危険にさらす恐ろしい秘密が隠されていることを、そのとき知っていた者は一人もいなかった。
雪野がこの家に嫁いでから、まだ半年しか経っていなかった。夫の八郎は徴用工として北の方へ駆り出され、春には戻ると言い残して出立した。すでに義父が亡くなり、家の采配は長男の嫁である千代が握っている。義父の徳右衛門は無口な人だった。優しい言葉をかけることはほとんどなかったが、去年の秋、雪野が初めてひどい熱を出した時、夜明け前にお粥を入れた椀をそっと部屋の前に置き、熱が収まる頃には黙って持ち帰っていた。雪野はその足音を覚えていた。不器用だが、決して冷たい人ではない。それがこの半年で、雪野が義父について知った数少ない確かなことだった。
嫁いでからの日々は、静かではあったが楽ではなかった。朝は誰よりも早く起きて、囲炉裏に火を入れ、水を汲み、義父の身の回りを整えた。義姉の千代の目は日ごとに厳しくなった。膳の並べ方が少しでも違えば説教され、掃除の後に埃が一筋でも残っていればやり直しを命じられた。雪野は黙って受け入れていた。実家で大工の娘として道具の手入れや力仕事を覚えてきた身には、水仕事や力仕事そのものは苦にならなかった。ただ、理不尽に責められることには、どうしても慣れることができなかった。
下働きのお松は、この家で最も立場の弱い者だった。両親を亡くしてこの家に来て二年目になる。割れた器や足りない焚き木のような、誰かの落ち度はいつもお松の身に降りかかった。雪野は何度かお松をかばったことがある。雪野が代わりに叱られることも、一度や二度ではなかった。その度に、お松は誰にも見せない小さな目で雪野を見た。二人の間には、言葉にせずとも通じるものが育っていった。
ある朝、雪野が運んだ膳の椀の位置がいつもより指一本分ずれていたというだけで、千代は箸を置き、「こんな些細なこともできぬのか」と長々と説教した。雪野は謝り、黙って椀を置き直した。夜、二人きりになった台所で、お松がそっと囁いた。
「雪野様、いつも大変でございますね。」
雪野は笑って答えた。
「お前ほどではないよ。」
お松は驚いた顔をした。この家で自分を気遣ってくれる者がいるとは思っていなかったのだろう。それからというもの、お松は水を汲みに行くついでに、雪野の部屋の前に焚き木を余分に置いていくようになった。誰に頼まれたわけでもない、ささやかな心遣いだった。
去年の秋、村を大きな嵐が通り過ぎた。数軒の屋根が傷み、村人たちは慌てて修繕を急いだ。その時、安くて早く仕上げると評判の若い職人が村に入り、何軒もの屋根を請け負っていった。徳右衛門の家もその一つだった。あの頃、徳右衛門は腰を痛めて伏せっており、屋根の手配は千代が任されていた。大工の甚兵衛はその若い職人のやり方に眉をひそめ、「きちんと確かめるべきだ」と一度は名乗り出たが、千代が「頼む」という理由で、結局は雇われなかった。
冬が近づいた頃から、雪野は屋根に何か妙な気配を感じていた。夜、寝床に横たわると、屋根のどこかから乾いた木のきしむ音が聞こえることがあった。雨上がりの朝には、床の隅にうっすらと湿った匂いが漂うことがあった。天井の隅に指の先ほどの染みを見つけたこともあった。ある晩など、風もないのに天井裏でパラパラと何かが落ちる音がして、雪野は思わず目を覚ましたこともあった。翌朝見ると、床の隅に細かな土埃が薄く積もっていた。
誰かに言うほどのことでもない。雪野はその度に思い直した。実家の父ならば、こうした小さな異変を見逃さなかっただろう。けれど、嫁いだばかりの身では、口にすることさえ憚られた。その小さな違和感は、しかし、確かに雪野の頭の隅に積もっていった。
全てが表に出たのは、ある雪の朝だった。氷のように冷たい茅が屋根の茅葺に降りていたが、雪野の手だけは止まらなかった。凍てついた黄色い茅を一掴み、また一掴みと剥がしていく。
「雪野様、屋根の上で何をなさっているのですか!」
庭から下女のお松の叫び声が上がった。手にした茅が滑り、雪がこぼれ落ちた。雪野の手の下から、新しい屋根には似つかわしくない、黒ずんだ中身が現れた。表面の茅は黄褐色に盛り上がっていたが、その下の土は黒く湿ってくぼんでいた。茅を支える細い垂木までもが、所々折れていた。指で押すと黒い水が滲み出た。鼻を近づけると、古い沼のような匂いがした。手の甲で叩くと、乾いた音を立てるはずの木が、ぼそりと音を吸い込んだ。黒い木屑が掌に落ちた。
雪野はその場で動きを止めた。剥がした隙間の下に、義父の寝ている天井がぼんやりと見えた。徳右衛門が伏せって休む場所の、まさに真上だった。家の中から乾いた咳が聞こえた。もしこの屋根が崩れたら、まず間違いなくあの人が下敷きになる。雪野は剥がした茅を元に戻さなかった。乾いた茅の切れ端で開いた場所を仮に覆い、軒下には小さな石を三つ並べておいた。最も傷んだ場所を下からでも見つけられるようにと残した印だった。
その時だった。
「これは一体何をする気だ。」
庭から鋭い声が上がった。義姉の千代が立っていた。
「まともな屋根を、こんな真冬に剥がすなんて。」
「まともではありません。表の茅だけが新しいのです。その下の土と、それを支える垂木までもが水を吸っています。」
千代が鼻で笑った。
「去年の秋に葺き換えたばかりの屋根だ。お前に何が分かって、古びたなどと言うのか。」
雪野はしばし言葉を失った。去年の秋に葺き換えたという話は、初めて聞いた。垂木を変えたのなら、半年も経たぬうちに指が入るほどもろくなるはずがない。
千代は軒下に落ちた茅を足で蹴った。
「この惜しい茅を無駄にして、この真冬に私たちを凍えさせる気か!」
千代の声は柵の向こうまで届くほどだった。家の外から人々が覗き始めた。
「皆さん、見てくださいまし。うちの嫁が気が触れたのです。この真冬に、まともな屋根を自分の手で壊しているのです。」
千代の声が村の路地へと広がっていった。雪野は屋根の上に立ったまま、何も言えなかった。中身の脆さは、屋根に登って指先で確かめた者にしか分からない。庭に立つ人々には、ただ表しか見えなかった。
千代の目が、庭に落ちた茅へと向いた。
「お松、この一粒、一粒が皆だとは分からぬのか。今日の咎は抜きだと思え。」
千代がお松の耳を捻り上げた。雪野は屋根の上からその様子を見ていた。
「姉上、茅をこぼしたのは私です。お松の咎を取り上げることではございません。」
「自分の始末をつけよ。」
千代がお松の耳を離した。お松は赤くなった耳を抑えながら雪野を見上げた。その目には、感謝と怯えが同時に宿っていた。
その時、開いた戸から徳右衛門が出てきた。庭に立ったまま屋根を見上げた。
「そこで何をしているのだ。」
低い声だった。
「父上、屋根が傷んでおります。中身がすっかり腐り、垂木がもろくなっております。指先で押すと、そのまま沈み込みます。雪が重く積もるか、大雨が降れば、屋根が崩れます。」
徳右衛門がしばらく雪野を見つめた。千代が割って入った。
「父上、あの者は戯れ言を申しております。近隣中に知れ渡ります。この恥を、どうなさるおつもりですか。」
「恥」という言葉に、徳右衛門の顔が曇った。徳右衛門が何よりも恐れるのは、それだった。柵の向こうでは、まだ人々が覗いていた。
徳右衛門が羅宇を取り出し、地面に打ち付けた。
「降りて来い。」
「父上、一度だけ登ってご覧になってください。」
「降りて来いと言っておる。」
徳右衛門の声が大きくなった。雪野は口をつぐんだ。ゆっくりと屋根から降りた。徳右衛門が雪野を見下ろした。
「実家で何を習ったのか知らぬが、この家の屋根は、この家の主人が決めることだ。すぐに元通り葺き直せ。剥がした茅を、一つも残さず戻せ。」
雪野の顔から血の気が引いた。
「父上、湿った茅を元に戻せば、痛みはさらに広がります。春が来る前に、村中が指を指すことになります。『嫁が気が触れて屋根を壊した』と。」
徳右衛門が声を荒げた。
「戻せ。強(あえて)と言えば、戻すのだ。」
徳右衛門は言い放つと、背を向けた。
雪野は梯子を再び立てかけた。傷んだ垂木の上に、腐った茅を再び被せた。一つ、また一つ、朝に剥がしたものを夕方に元通り戻した。傷んでいると知りながら、元通りを負う仕事だった。手よりも、心の方が凍えていた。
日が暮れた。最後の茅が一つ残った。雪野はその最後の一つを屋根に上げなかった。最も黒く腐った、腐った匂いのする茅だった。それを内側に隠した。この一掴みが必要になる日が来る。言葉には力がなかった。けれど、この一掴みなら、手に取らせることができる。その夜、雪野は自分の部屋で茅を二つに分けた。一つは広げて乾かし、もう一つは小さな瓶に押し込み、油紙で口を封じた。湿った茅の匂いを嗅ぐと、雪野は実家の庭を思い出した。十二歳の頃だった。大工だった父は、見た目の良い杉材と節のある檜材を二本、庭に置き、雪野にどちらか一本を選ばせた。太くて真っすぐに見える方を選ぶと、父は答えの代わりに二本の木を順に叩いて見せた。一方は澄んだ音を立てた。もう一方は、ぼそりと音を吸い込んだ。父は言った。「見た目だけで選べば、騙される。木は嘘をつかない。」あの日から、雪野の指先には、木が本当のことを語る感触が刻まれていた。
その夜、風が吹いた。雪庇が一つ、庭で砕けた。雪野は眠れなかった。その時だった。きしり、という音がした。木がきしむ音だった。重みに耐えかねた木が、内側から裂ける音だった。夜通し、その音は止まなかった。その音がする場所は、よりによって徳右衛門の眠る部屋の真裏だった。
夜明け、雪野は火鉢を運び入れようと部屋に入った。壁と柱を伝って降りてくる震えが、手のひらに触れた。天井と壁が接する隅に、髪の毛ほどの細い罅が入っており、昨日の朝、その罅が指節一本分ほど長くなっていた。雪野は隅の欠片で罅の端に印をつけた。前日に軒下へ並べておいた三つの石を、罅の増したのと正確に重なるように置き直した。父上に見ていただかねば。言葉で訴えるのではなかった。一度だけ、手で確かめさせようとするものだった。
雪野は大工の甚兵衛を訪ねた。甚兵衛は、大きな屋根の修繕を任される棟梁だった。この近隣一体で、垂木をきちんと変えられるのは彼を置いて他にいなかった。甚兵衛はしぶしぶやってきたが、戸を何度も振り返った。
「この家の千代様がどれほど恐ろしいか。下手に関われば、手間賃どころか、殴られずに済めば御の字です。」
「大工様、この手を見てください。これが働く手かどうか。」
雪野が再び手を差し出した。甚兵衛がしぶしぶ雪野の手を見た。指先の一つ一つにタコが刻まれ、親指の脇には鑿の古い傷があった。
「これは、仕事を知る手だ。」
甚兵衛の声が変わった。
「実家で大工の父の手伝いをしておりました。ですから存じております。この家の屋根が傷んでおります。大工様は木を知る人です。知りながら見て見ぬふりをして背を向ければ、その夜に人が下敷きになった時、大工様の心は穏やかでいられますか。」
甚兵衛はしばらく無言だった。
「まあいい、一箇所だけだ。ちょうど一箇所だけ剥がして、私は手間賃をもらってすぐに帰る。」
雪野と甚兵衛は、部屋の下の印の下から茅を剥がした。垂木を露わにすると、甚兵衛が指先で押した。指がそのまま、木の中へ沈んだ。甚兵衛の顔から表情が消えた。
「これは、深く傷んでおります。ですが、半年やそこらでこうはならぬ。何年もかけて、水を吸い続けた木だ。」
甚兵衛が低く言った。
「奥方様が壊されたのではない。これは、もう壊れていた屋根だ。」
徳右衛門が新所から出てきて、その言葉を聞いていた。しばらく無言で垂木を見つめていたが、やがて低く言った。
「支えを立てよう。とりあえずの支えで良い。甚兵衛、頼めるか。」
徳右衛門が初めて、屋根の痛みを大きく認めた瞬間だった。
その夜、徳右衛門は一人、囲炉裏の下で考え込んでいた。一昨年の凶作で籾を買う金がなく、黒田から金を借りた日のことが思い出された。長男は徴用工で受け取るはずの給金を前借りして父の手に握らせ、八郎は嫁いだばかりの妻を残して北の出稼ぎに出ると言った。「父上の借金はうちの借金でございます」と長男は笑って言ったものだった。その言葉を聞いた時は頼もしかった。しかし、息子たちが家を開け、若い嫁が一人で冬の屋根の危うさに気づいた今になって思えば、恥ずかしかった。息子たちは己の借金を減らそうと外で働いていたというのに、自分は人の指差しを恐れて、若い嫁に傷んだ屋根を元通り戻せと命じたのだ。徳右衛門は、それを誰にともなく心の中で詫びた。
甚兵衛が茅を戻しながら、独り言のように呟いた。
「それにしても、去年の秋に葺いたばかりでこれほど痛むのは、妙ですな。」
雪野はその言葉を聞き逃さなかった。
「大工様、去年の秋の修繕は、どなたが取り仕切られたのですか。」
甚兵衛は少し間を置いた。
「私は呼ばれておりませぬ。あの秋は、腰を痛められたご隠居様の代わりに家のことを取り仕切っておられた方が、別の若い職人に頼まれたと聞いております。」
雪野は黙って頷いた。義父が腰を痛めて伏せっていたあの秋、屋根の手配をしたのは千代だったはずだ。
支えを立てるための木を探しに、雪野は物置きの裏手へ回った。そこで足を止めた。見たことのない材木が数本、積まれていたのである。まだ新しく、この家のどの木材とも違っていた。木の切り口には、焼き印が押されていた。傍らにいた甚兵衛がその印に目を止めた瞬間、わずかに顔を背けた。雪野は以前、千代が黒田について語っていた一言を思い出した。「あの人は、うちの家のことを気にかけてくださる」と千代が誰にともなく言っていたことがあった。あの時は聞き流していたが、今思えば妙に親しげな口ぶりだった。
「大工様、これは何の印でございましょうか。」
甚兵衛は一瞬言い淀んだ。
「さあ、私には分かりかねます。」
その声は、落ち着かなかった。雪野はそれ以上問い詰めなかった。ただ薄い紙を懐から取り出し、印の上に当てて炭で軽くこすった。焼き印の形が紙に移し取られた。木の周りの土には車輪の跡がついたらしく、まだ新しく残っていた。誰かが、つい先頃ここまで木を運び込んだ後だった。雪野は輪の幅を、懐にあった紐で測って覚えておいた。この家で使う牛車よりもわずかに広い。よそから来た牛車であることは確かだった。
その夜、雪野は再び甚兵衛を呼び止めた。
「大工様、あの印について、本当に何もご存知ないのですか。」
甚兵衛はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「あれは、黒田様の在目の印でございます。」
「黒田様が、なぜこの家の裏に。」
甚兵衛は言葉を選びながら答えた。
「実は以前、黒田様に呼ばれまして。もしこの家の土地が手に入ったら、蔵を一つ建てたいので広さを測って欲しいと頼まれたことがございます。私は手間賃だと申して銭を先に渡そうとされましたが、まだ引き受けておらぬ仕事の銭を先に受け取るのは筋が違うと思い、村の年長者の立ち合いのもと、その銭には全てをお返し申し上げました。」
雪野はさらに尋ねた。
「大工様、去年の秋、この屋根を受けたという者が、どこの誰かご存知ですか。」
甚兵衛が頷いた。
「黒田様の在目問屋に出入りしている者たちでございます。あの秋は、近隣の何件かが同じ連中に屋根を頼んでおりました。安くて早いと評判で、村の者たちも懐が寂しい年でしたから、皆こぞって頼んだのです。」
雪野の背筋が冷えた。同じ連中が、この村の何軒もの屋根を手掛けていた。もしこの家の屋根がこれほど傷んでいるのなら、同じ連中に葺かれた他の家もまた、同じ危うさを抱えているかもしれない。雪野は結論を急がず、まず焼き印の写しを大切に保管することにした。
その日の帰り道、雪野は水を汲みに井戸端へ寄った。隣家の女房たちの立ち話が耳に入った。
「うちは表だけ葺き換えてもらって、中は見てもらう気はなかったよ。」
誰もそれを不安に思ってはいなかった。表さえ整っていればそれで良いと信じていたのである。雪野はその場では何も言わなかったが、心の中で数えていた。少なくとも三軒、同じ連中に屋根を直させた家がある。甚兵衛にもう一度訪ねてみると、彼は指を折りながら思い出した。
「あの秋、私が聞いた限りでも、四件か五件はあったはずです。皆、懐が寂しい年でしたからな。安く早いのは、ありがたい話に聞こえたのでしょう。」
翌朝、雪野はお松にも訪ねてみた。
「お松、この家の裏に、見慣れぬ車が来ているのを見たことはないか。」
お松はしばらく考えていたが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、少し前に千代様のお使いで黒田様の屋敷へ荷を届けに行ったことがございます。あの時、屋敷の裏に牛車が何台も並んでいるのを見ました。何を運んでいるのかまでは、分かりませんでしたが。」
雪野はその話を胸に止めた。まだ点と点が線にならぬまでも、確かに何かが繋がりつつあった。その様子を、千代が物影から見ていた。千代の顔から血の気が引いた。
千代には、千代の言い分があった。この家に嫁いでから十年。義母が亡くなった後は、一人で家計を切り盛りしてきた。凶作の年も、種籾を惜しみ、着物を繕って、なんとか家を保ってきたのは自分だという自負があった。去年の秋、屋根の痛みを指摘された時も、垂木を根本から変える金など、どこにもなかった。黒田から、表だけ直せば済む安い方法があると持ちかけられた時、千代はそれにすがった。あの時は、それが家のためだと信じていた。だが、月日が経つほどに、その選択は千代自身の胸のうちで重くなっていった。今更、誰かに打ち明けることもできず、千代はただそれが露見せぬことだけを願うようになっていた。雪野が焼き印を見つけたと知った時、千代の頭にあったのは家を守ることではなく、己の落ち度が誰の目にも明らかになることへの恐れだった。その日のうちに、千代は使いの者を黒田の屋敷へ走らせた。
数日後、雪野は嫁入りの端物を質に入れ、金に換えて、屋根に使う木材を買い足すため村を出た。市は隣村まで半日かかる道のりだった。品物を差し出すと、質屋の主人は少し驚いた顔をした。
「良い品でございますが、本当によろしいのですか。」
雪野は迷わず頷いた。
「これは、屋根のために使うのです。」
主人はそれ以上何も言わず、相応の金を渡してくれた。雪野はその金で、乾いた杉材を選び、垂木に使えそうな木材を吟味した。木を一本ずつ手に取り、指で叩き、音を確かめてから買った。値切ることよりも、中身が確かなことを何より大切にした。買い物を終え、日が傾く頃にようやく村への道を戻り始めた。
留守の間、黒田の手代の差し図を受けた下男の五助が、物置き裏の木材と、前に積んである古い茅を、雪野の目に触れぬうちにすべて片付けるよう命じられた。五助がその作業をしている様子を、水を汲みに出たお松が見てしまった。お松は声をかけられなかった。ただ、牛車に積まれていく材木を物陰から見つめているしかなかった。牛車を引く男の顔には、お松に見覚えがあった。千代の使いで黒田の屋敷へ荷を届けに行った際に見かけた顔だった。
夕暮れ、雪野が戻った。物置きの裏には、もう何も残っていなかった。土の上に、わずかな車輪の跡が残るのみだった。雪野は言葉を失ったが、すぐに思い出した。焼き印は、すでに紙に移し取ってある。証そのものは消えても、証の形は残っていた。
その夜、雪野は物置きで証の写しと乾した茅を確かめていた。ふと、焦げるような匂いに気づいた。お松が先に異変に気づき、裏口から駆け込んできた。
「雪野様、煙が!」
お松の叫び声で雪野は顔を上げた。物置きの戸口のわきから、赤い炎が静かに立ち上っていた。戸はすでに炎で塞がれていた。煙が瞬く間に部屋の中に満ち、目を開けているのもやっとだった。熱気が顔を炙り、木の裂ける音がパチパチと響いた。雪野はとっさに裏の小窓へお松を押し向かった。
「先に出て!」
お松が窓枠に手をかけたが、恐怖で足がすくんで動けなくなった。
「雪野様、一緒に!」
お松が泣きながら振り返った。
「今はいいから!」
雪野はお松の腰を抱え、力任せに窓の外へ押し出した。自分自身が抜け出そうとした時、積まれていた材木の一部が崩れ、行手を塞いだ。雪野はとっさに身を伏せ、煙の薄い床近くを這って窓へ向かった。煙が喉に絡み、視界が黒く滲んだ。懐にあった証の写しだけは、胸に抱え込んで離さなかった。指先が窓枠に触れた瞬間、外からお松の手が伸び、雪野の袖を強く引いた。外に転げ出た瞬間、後ろで材木の山が崩れ落ちる音がした。二人はしばらく地面に座り込んだまま、咳き込み、動けなかった。
騒ぎを聞きつけた徳右衛門が、真っ先に駆けつけた。雪野が煤にまみれながらも息をしている姿を見ると、徳右衛門はしばらく声も出せなかった。もしこの娘が逃げ遅れていたらと思うと、徳右衛門の手が震えた。それまでどこか及び腰であった徳右衛門の目つきが、その夜を境に変わった。
「この火が偶然かどうかは、私にはまだ分かりません。」
雪野は落ち着いて言った。誰かを名指しで攻めることはしなかった。ただ、焼け跡から一本の炭を見つけた。切れ端の先が白く、他の炭とは違う様子だった。お松がそれを見て、小さく声をあげた。
「これ、千代様のお部屋の炭火にありますものです。私、毎朝火鉢を片付けていますので、この炭の白い部分に見覚えがございます。」
雪野はその炭を布に包み、証の写しと共に大切にしまった。お松はしばらく震えが止まらず、徳右衛門が自ら薬湯を煎じさせて飲ませた。徳右衛門はお松の傍に付き添い、「大丈夫か。痛むところはないか」と繰り返し尋ねた。お松は涙ぐみながら、「雪野様が助けてくださらなければ、私は…」と言いかけて言葉に詰まった。雪野はただ、お松の手を握り返した。
翌朝、五助が徳右衛門の前に呼ばれた。五助は隠さず話した。
「千代様のご差し図で、雪野様が留守の間に物置き裏の木材と古い茅を全て運び去るよう、黒田様のお手代から命じられました。ただし、火をつけよという差し図は、私は一切受けておりません。」
木材を消すことと、火をつけたこととは、別の話であった。村の年長者たちがこの騒ぎを聞きつけ、徳右衛門の家に集まった。物置きの火事、隠されていた木材、その双方が、家の内輪で片付けられる話ではなくなっていた。年長者たちは、これ以上ことが明らかになるまで、千代を里の親戚の家に一時的に移し、一人で何かに触れさせぬようにと定めた。千代は抗うこともできず、その日のうちに家を出た。
村の者たちもこの騒ぎを聞きつけて集まってきていた。雪野が火の中でお松を助けたことは、瞬く間に村中に知れ渡った。以前、「気が触れた嫁」だと嘲り立てた者たちの中にも、決まりが悪そうに目を伏せる者が現れた。誰かが影で囁いた噂と、目の前で起きた本当の出来事とは、もはや別のものであった。
この一件を経て、徳右衛門は迷いを捨てた。
「雪野の屋根を直そう。入用なものはお前が買え。」
雪野は材木を運んだ。古い垂木を抜く作業が最も難しかった。甚兵衛が両端の釘を少しずつ緩め、雪野が縄で重みを支えた。「一、二の、三。」二人で呼吸を合わせると、腐って柔らかくなった垂木がゆっくりと抜けた。徳右衛門が下でそれを受け止めた。一本にも、三人の手が行った。垂木を変え終えると、甚兵衛が横木を組み直し、その上に茅を編んで下地とした。そこへ、乾いた茅を下から上へ重ねて葺き、縄でしっかりと括りつけていく。傷んでいない場所は手を触れず残し、痛んだ場所だけを土台から順に直していった。甚兵衛は茅を束ねるたびに、厚みが均一になるよう確かめた。
「厚すぎれば重みで垂れ下がり、薄すぎれば水を防げぬ。」
甚兵衛は雪野に教えながら作業を進めた。雪野はその一つ一つを、実家で見た父の手つきと重ねながら覚えていった。
作業を進めるうちに、傷みの歩いたが深いことが分かった。当初は部屋の真上だけを直せば済むと考えていたが、隣の垂木も指を当てると同じように沈んだ。甚兵衛が唸った。
「これは一箇所や二箇所の話ではございません。屋根全体が、長い間水を吸い続けていたようです。」
作業は大仕事となった。嫁入りの端物と引き換えた金だけでは足りず、甚兵衛が格安で受けてくれ、徳右衛門も種籾を残す範囲で穀物を出して賃に当てた。木材が足りず、隣村まで買い出しに走らねばならぬ日もあった。気が短くなる中、作業できる時間は限られていた。夜、茅葺屋根の上に火を灯して登るのは危ない。日が登れば登り、日が沈めば降りる。そのわずかな時の中で、三人は言葉少なに手を動かし続けた。
ある日、奥の間に近い場所の垂木を外した時だった。甚兵衛が思わず声を漏らした。
「これは…。」
垂木の真ん中だけが、黒く変わっていた。表からは全く分からぬ深さだった。
「もしこの垂木が真冬に折れていたら…。」
甚兵衛が呟いた。雪野は何も言わず、次の木を運び始めた。今更恐れても仕方のないことであった。前へ進むしかなかった。
風の強い日には、屋根の上で身を伏せねばならなかった。茅を運ぶ縄が凍りつき、指がかじかんで思うように動かぬこともあった。徳右衛門は若い頃に自分が屋根を直した記憶などなかったが、それでも毎日欠かさずに庭に立ち、木材を運ぶ手伝いをした。材木をかつぐ度、息が白く上がった。誰も愚痴を吐かなかった。数日が経つと、雪野の手の甲はひび割れた。爪の下には土が入り込んだ。甚兵衛の腰も、さらに曲がった。それでも、屋根は少しずつ息を返していった。
最後の茅を重ねる日、雪野は屋根の上で手を止めた。北の山際から、灰色の雪雲が近づいていた。
「急がねば。雪が積もる前に、最後の縄を結ばねば。」
甚兵衛が縄を引いた瞬間、家の内側から鈍い音がした。寸前に立てた支えの下の楔が、凍った床の上で滑ったのだ。屋根の一角が、指二本分ほど沈んだ。お松が悲鳴を飲み込んだ。徳右衛門が真っ先に部屋へ駆け込んだ。止める間もなく、傾いた支えを両肩で支えた。年配った体に、支えの重みがずしりとかかった。それでも徳右衛門は動かなかった。あの雪の朝、「降りて来い」と怒鳴った己の声が、頭の隅をよぎった。
「父上、そのままお動きにならぬように!」
雪野が屋根の上から叫んだ。雪野と甚兵衛が縄を引いて重みを分け、お松が新しい楔を持って新所へ走った。徳右衛門の膝は震えていたが、動かなかった。
「私が一日延ばした屋根だ。今度は、私が支える。」
お松が楔を差し込むと、徳右衛門が槌で力いっぱい打ち込んだ。沈みかけた屋根の縁が、再び持ち上がった。四人が一斉に息を吐いた。
「支えました。」
雪野が低く言った。初めて屋根の上でその言葉を口にした時は、一人だった。今は、四人だった。甚兵衛が縄を結んでいた。かつて雪野を「気が触れた嫁」と呼んだ人々が、今は自分の手で屋根を支えていた。
修繕を終えたその日の夕方から、大雪が降り始めた。夜が更けると、雪はますます強くなった。徳右衛門は幾度となく戸を開け、屋根を見上げた。新しく変えた垂木は、重い雪を受け止めていた。冬の最初の試練は、雪の重みだった。屋根はその重みに耐えた。しかし、雪野は安堵しながらも目を離さなかった。本当の試練は、温かくなって雪が溶け、春の雨が長く染み込む時に現れる。同じ秋に、同じ連中に屋根を任せた家のことを、雪野は忘れていなかった。
村の年長者たちが再び徳右衛門の家の庭に集まった。物置きの火事と、隠された木材の経緯を明らかにする日だった。年長者たちはこの一件が、単なる家の内輪の揉め事ではなく、人の命に関わることだと承知していた。誰かが軽率に口を差し挟めば、真実がまた隠されかねない。だからこそ、証人を一人ずつ順に呼び、それぞれの言葉を突き合わせることにしたのだった。千代も呼ばれてきていた。甚兵衛も、五助も、お松も来ていた。庭には、火事で焼け残った物置きの柱の一部が、まだそのまま置かれていた。
その時、門の外から声がした。
「誰かおらぬか。」
黒田だった。手には紙切れを持っていた。
「私は今でも、あの金をよくつける気はございます。家を譲ってくだされ。」
黒田が言った。庭に集まった人々の間に、ざわめきが広がった。去年の秋、同じ若い職人に屋根を頼んだ覚えのある者たちが、互いに顔を見合わせた。
「うちもだ。」
「うちも、同じ連中に頼んだ。」
いくつもの声が重なった。
徳右衛門が、湿った茅を掲げた。
「これが、去年の秋に葺いた茅だ。中の垂木は、何年も前から腐っていたと甚兵衛が申しておる。」
甚兵衛が進み出た。
「この垂木の痛みは、一冬やそこらでできたものではございませぬ。何年もかけてできたものです。それを去年の秋、上から新しい茅だけ被せて隠したのでございます。」
雪野が焼き印の写しを差し出した。甚兵衛がそれを確かめた。
「これは、黒田様の蔵元の印に間違いございません。」
雪野はさらに、車輪の幅を測った紐を取り出した。
「この家の牛車の幅とは合いません。黒田様の蔵元の牛車の幅と比べていただけましょうか。」
年長者の一人が、黒田の屋敷の牛車を見たことがあると言い、幅がほぼ同じであったと証言した。
黒田が笑った。
「それは何かの間違いであろう。私の蔵元がどこかに紛れ込んだだけのことだ。誰かが盗んでここに置いたのかもしれぬしな。」
黒田は動揺を見せなかった。徳右衛門が重ねて訊ねた。
「黒田様、盗まれた蔵元が見つかったのなら、なぜ届け出をなさらなかったのだ。」
黒田は一瞬言葉に詰まったが、すぐに取り成した。
「大した量ではなかったので、届け出るほどのことでもないと思っただけだ。」
その時、五助が進み出た。
「私は、黒田様のお屋敷から、雪野様の留守中に木材と茅を運び去るよう、差し図を受けました。」
はっきりと言った。黒田の顔色が変わった。
「それは、千代が頼んだことであろう。私はただ、蔵元を貸しただけだ。」
黒田が千代の方を見た。千代は青ざめた顔で口をつんでいた。
「私は、何も…。」
小さく呟いたきり、言葉が続かなかった。その時、お松が前に進み出た。
「私…。千代様が黒田様のお手代とお話になっているのを見たことがございます。台所の裏で、蔵元のことを内緒にして欲しいと、千代様が頭を下げていらしたのを見ました。」
お松は震えながらも、はっきりとそう言った。
雪野は懐から布に包んだ炭を取り出した。
「これは物置きの焼け跡から見つかったものです。お松が、千代様のお部屋のものだと申しております。」
千代の顔から表情が消えた。甚兵衛がさらに続けた。
「それに、黒田様は以前、この土地が手に入れば蔵を建てたいとおっしゃり、私に広さを測るよう頼まれたことがございます。」
「まだこの家の主人が手放すとも言っていない頃のことでございます。」
村の年長者の一人が言った。
「その折りの手間賃を、甚兵衛殿が私の前でお返しになったのも見ておる。あれは確かに、黒田殿からの申し出であった。」
黒田は、もう言葉が出なかった。
「千代が勝手にやったことだと言うなら、なぜ材木がこの家の裏にあったのか。なぜ、その土地の広さを測らせたのか。なぜ、証を消せという差し図が下ったその夜に、火が出たのか。」
徳右衛門が静かに問うた。黒田はなおも食い下がった。
「千代殿が一人で屋根の手配をし、一人で蔵元を隠し、一人で火まで放ったというなら、それは全て千代殿の仕業であろう。私には、関わりのないことだ。」
千代の顔が歪んだ。
「今この時に及んで、それを全て私一人のことになさるのですか。あなたが『この家が早晩、自分の手に渡る』とおっしゃったから、私は…。」
言いかけて、千代は言葉を飲み込んだ。黒田が慌てて口を挟んだ。
「私が何を、いつ言ったというのだ。証もない口約束を、さも私が持ちかけたかのように言うのは、よしていただきたい。」
年長者の一人が静かに言った。
「証がなくとも、この場に集まった者たちの耳がある。甚兵衛殿の証言、五助の証言、お松の証言、そして蔵元の刻印。一つ一つは小さくとも、これだけ重なれば、もはや偶然とは申しますまい。」
黒田は口をつぐんだ。庭に集まった人々の視線が、静かにしかし逃れようもなく、黒田へ注がれていた。
千代は、ついに崩れるように座り込んだ。
「去年の秋、この屋根を任せたのは私でございます。甚兵衛様ではない、他の者たちに頼みました。あの時、若い職人から『垂木を変えねば長くは保たぬ』と言われましたが、金がかかりすぎると思い、上から茅だけ重ねさせたのでございます。」
千代は声を震わせながら続けた。
「それを黒田様が知り、『この家がいずれ手放されることになれば、土地が売れた際の礼金の一部を渡す』と約束されました。私は、その話に乗ってしまいました。雪野が木材を見てしまったと知り、証を消すよう頼んだのも私です。ですが、火をつけよとまでは申しませんでした。あの夜、私は雪野が眠る前に証さえ消えればと思い、自分の手で火鉢の火を放ちました。人を殺めるつもりは、なかったのです。」
黒田は、それ以上言い返せなかった。村の年長者たちが顔を見合わせた。証を消そうと物置きに火を放ち、その結果、人の命まで奪いかねなかったことは、村の中で内々に済ませられる話ではなかった。
「この一件は、代官所に届け出るべきことだ。」
年長者の一人が言った。徳右衛門が縁側から下り、年長者たちの前に膝をついた。
「家の中の取り締まりをつけられなかった。私の罪も大きい。」
それから徳右衛門は雪野に向き直った。
「雪野よ、お前が守ってきた証を、私にも持たせてくれぬか。」
雪野が答えた。
「私も、ご一緒いたします。」
その夜、家の中は静まり返っていた。誰もが疲れ果てていたが、雪野だけは眠る前にもう一度、集めた証を一つずつ確かめた。湿った茅、傷んだ材片、刻印の写し、炭火の炭。それぞれに、それを見つけた時の記憶が刻まれていた。これで明日は、迷わず語れる。雪野は自分に言い聞かせた。
翌朝、徳右衛門と雪野は証人たちと共に代官所へ向かった。代官所では、千代と黒田、証人たちの言葉が別々に確かめられた。困窮から粗悪な材料を選んでしまったことは酌量の余地があっても、罪を隠すために火を放ち、人の命まで危険にさらしたことまで、貧しさで覆い隠すことはできなかった。咎は厳しく下され、千代と黒田はそれぞれ咎めを受けた。その後、二人が再びこの村へ戻ってくることはなかったという。
季節は止まらなかった。軒先の氷柱は日に日に短くなり、梅の枝先にも赤みが差し始めた。雪野は雪解けを待つ間も、手を休めなかった。甚兵衛と共に、あの秋に同じ連中に屋根を頼んだという家を一軒ずつ尋ねた。多くの主人は初め、「余計な世話だ」と顔を背けた。しかし、雪野が己の家で起きたことを淡々と語り、甚兵衛が「垂木の一本でも確かめさせて欲しい」と頭を下げると、しぶしぶながらも屋根に上がらせてくれる家が増えていった。案の上、どの家でも、表の茅の下から同じように黒ずんだ垂木が見つかった。中には雪野の言葉を鼻で笑い、「うちは大丈夫だ」と取り合わない主人もいた。雪野はそれ以上無理に言い張ることはせず、「せめて、これだけは」と部屋の位置だけでも変えるよう勧めて、次の家へと足を向けた。雪野と甚兵衛は、天井に支えを立てさせ、危ない部屋の寝床を移させて回った。全ての家を完全に直す金にも、時間にもならなかったが、せめて人が下敷きにならぬようにと、できる限りの手を尽くした。あの秋、同じ連中に屋根を任せた家は、こうして雪野と甚兵衛の言葉に従い、天井に支えを立てておいたが、完全な修繕まで終えた家は、徳右衛門の家だけだった。
そして、春が来た。南から黒雲が湧いてきたある日、村に春一番の大雨が降り始めた。三日にわたって雨が降り続いた。冬に直した屋根は、果たしてこの春の雨に耐えられるだろうか。村中が「気が触れた」と言った嫁の選択が正しかったかどうかは、もはや言葉ではなく、三日間降り続く水が答えを示すことになる。
初日は柔らかな雨だった。屋根や石垣に残った雪を、ゆっくりと溶かしていった。二日目には風が強まり、雨足も激しくなった。二日目の夜から、あの秋に連中が手を入れた家で、天井から水が滴り始めた。初めは一滴、二滴だったが、やがて盥でも受け切れぬほどの水筋になった。湿った茅がさらに雨水を吸い込み、重みに耐えかねた下地が、きしみ始めた。家の者は不安げに天井を見上げながらも、雪野の言葉を思い出し、すでに支えを立て、危うい部屋の寝床を移してあった。三日目の明け方、ついに外側の屋根の一角が、どすんという音を立てて音を立てて部屋に崩れ落ちた。だが、そこに人はいなかった。誰も傷つかずに済んだのは、冬のうちに雪野と甚兵衛が見て回り、支えを立てさせておいたおかげだった。もし何の備えもなかったなら、この家の者は皆、崩れる屋根の下にいたはずだった。
徳右衛門の家の屋根だけは、違っていた。雨水は新しい茅を伝って、真っ直ぐに雨垂れへと落ちていった。部屋の天井は、乾いたままであった。徳右衛門は真夜中に燭台を持って部屋に入り、以前、罅が入っていた天井の隅を手のひらで撫でてみた。手には、土の粉も水気もつかなかった。雨の中、軒先を見上げる雪野の傍らに、徳右衛門が立った。
「雪野よ、お前がこの家を救ってくれたのだな。」
雪野は首を横に振った。
「私一人でしたことではございません。父上が屋根に登ってくださり、甚兵衛様とお松も、共に手を貸してくれました。ただ、初めに腐った場所を見た時、目を背けなかったことが始まりでございました。」
雨が止んだ朝、崩れた家の主が徳右衛門の屋敷を訪れた。新しい茅を一束抱え、深く頭を下げた。
「うちの屋根も、今一度見てもらえぬだろうか。」
冬に雪野を最も厳しく指差した者の一人だった。あの日の言葉を詫びることもなく、ただ深く頭を下げるだけであった。雪野はそれを咎めることなく、甚兵衛と共に、その足で危ないと聞いていた家から順に、見て回った。
村を歩けば、以前とは違う目で見られることに雪野は気づいた。すれ違う女房たちが頭を下げ、子供たちが屋根を指差しながら、「あの雪野様の屋根だ」と囁き合った。雪野自身はそうした声に浮かれることはなかった。ただ、危ないと聞けばすぐに足を運び、垂木を確かめ、直せる家から直していった。それがあの冬の日に自分がしたことの続きだと思っていたからである。お松もまた、雪野の傍らでその様子を見て回るうちに、いつしか垂木の痛み具合を見分ける目を、少しずつ養っていった。「ここも危ないのでは」と、お松が自分から声を上げることも増えていった。甚兵衛がお松を褒めたこともあった。
「お前は、良い目を持っている。」
お松はその言葉を、長く覚えていた。
徳右衛門の心が、家を譲る方へ傾くことはなかった。むしろ、黒田の計略が露見し、奪おうとしていた家は、村で最も丈夫な屋根を持つ家となった。数日後、雪野の夫である八郎も、旅先から戻ってきた。門をくぐるなり屋根が新しく葺き換えられていることに気づき、何があったのかと父に尋ねた。徳右衛門は多くを語らず、ただ「雪野から聞くが良い」と言った。八郎は妻の部屋を訪ね、冬の間に起きたことを最後まで黙って聞いた。物置きが焼けた下りでは、思わず雪野の手を強く握った。話を聞き終えると、彼はしばらく言葉を失っていた。それから、荒れた雪野の手を、そっと包んだ。
「お前がどれほどのことを一人で背負っていたか、俺は知らずに旅から戻ってきたのだな。これからは、お前が正しいことをする時、真っ先に信じて傍らに立とう。」
それは、誰かが代わりに戦ってやるという約束ではなく、雪野の判断をまず信じるという約束だった。
近隣の危うい家を全て見て回り、直すべきところを直した後、徳右衛門が雪野に倉の鍵を差し出した。
「この鍵を、お前が預かってくれ。」
雪野はそれを、両手で受け取った。それは権力の証としてではなく、この家を預かるものとしての証だった。
毎年春の雨が降るたび、雪野はしばし軒下に立つのを常とした。雨水は真っ直ぐ、茅を伝って流れていった。以前は屋根のきしむ音にも胸が締めつけられたが、今ではその雨音が、土台からきちんと直した家が長く保つ音に聞こえた。
歳月が流れた。雪野と甚兵衛が屋根を見て回った話は、いつしか近隣の村に伝わるようになった。新しい屋根を葺く家があれば、まず垂木を叩いて確かめようと言われるようになり、茅の美しさだけで職人を選ぶ者は少なくなった。過ちは時に誰にでも起こりうる。だが、それを覆い隠すために積み重ねた嘘こそが、人を本当に滅ぼすのだ。雪野はその後も繰り返し語ることはなかったが、村の者たちはあの冬と春の出来事から、それぞれにその教えを汲み取っていった。その村では、屋根を葺く時、こんな言葉が語り継がれるようになったという。
「家は、目で選ぶな。手で選べ。表は誰にでも見える。真実は、触れた者だけが知る。」



