金曜日の午後、会議室の時計が三時を指したその時、俺の十年に及ぶ会社生活は呆気なく終わりを告げた。
目の前で、社長の娘が髪の先を指にくるくると巻きつけながら、甘ったるい声で言い放つ。
「木戸さん、このシステム、今すぐどうにかしてくれない?こんな地味な画面じゃ、やる気が出ないわ」
俺はシステムエンジニアとして十年、この会社のシステムを全て構築してきた。派手さはないが、無駄がなく、機能的に完璧だ。それを、入社して一ヶ月も経たないお嬢様に、見た目がダサいという理由だけで変更しろと言われている。
「このシステムに派手さは必要ないと思います。会社の利益を考えれば、現状を維持するのが一番のはずです」
淡々と反論する俺に、社長の娘は嘲笑うように鼻で笑った。
「はぁ?ちょっと、何度言わせるのよ。システムを変更しろって指示してるの。分かる?私に意見しろなんて言った覚えはないわよ。私は仕事ができる人としか一緒に働きたくないの。無能な人間は首よ」
上から目線で権限を振りかざす女。色仕掛けで全てを思い通りにしてきた、世間知らずのお嬢様。この瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。
「首ですか?分かりました。私も、あなたのような人と働く理由が見つかりません。辞めさせていただきます」
俺はそう言って、自分の席に戻ると、システムの全権限を彼女に移す手続きを完了させた。
「どうせ大したシステムじゃないんでしょ。全然問題ないわ」
彼女は中身も確認せず、俺の引き継ぎを承諾した。俺は心の中で呟いた。知らないからな、と。
数日後、携帯が鳴った。見ると、会社の社長からの着信だ。
「君、すまない。会社がまずいことになっているんだ。すぐに来てくれないか?」
社長の声は切羽詰まっていた。十年前からお世話になった恩人だ。無下にはできず、俺は会社へ向かうことにした。
会社に着くと、社員たちが慌ただしく走り回っていた。システムに重大なエラーが発生し、対応に追われているようだ。
「藤吉君!このエラー、いつになったら直るの!早く対処しなさいよ!」
社長の娘の甲高い声が響く。彼女は、普段サボってばかりの藤吉さんに怒鳴り散らしていた。彼女の色仕掛けに引っかかって、システムを誤って変更してしまったらしい。エラーは悪化の一途を辿っていた。
「ねぇ、まだなの?こんなの、アタシなら一瞬で直せるわよ」
彼女が横から指図するたびに、システムはさらに複雑な迷宮へと陥っていく。藤吉さんは額に大粒の汗を浮かべ、必死にマニュアルと睨めっこしていたが、到底無理な話だった。
それを見て、俺は溜め息をついた。そして、お世話になった社長に挨拶だけして帰ろうとした。
しかし、社長は俺の前に立ちはだかった。
「木戸君!この会社には君が必要だ。戻ってきてくれないか?お願いだ!」
頭を下げる社長。申し訳なさで胸が痛んだが、俺の答えは決まっていた。
「社長、すみません。もう次の働き口も決めています。戻ることはできません。十年間、本当にお世話になりました」
深く頭を下げる。すると、その様子を眺めていた社長の娘が、侮辱的な口調で横槍を入れてきた。
「父さん、なんでそんな人にお願いしてるの?この人は私の命令を一切聞かない、わがままな人だったのよ!」
「違う!木戸君はそんな人間じゃない!お前がこの会社のシステムを全て作ってきたんだぞ!この会社から彼がいなくなることがどれだけ重大なことか、分かっていないんだろう!」
社長が怒鳴る。娘は一瞬目を見開いたが、それでも理解しようとしない。
「そんなに有能なら、なんで私みたいな美しい人の言うことが聞けないのよ!おかしいでしょ!」
俺は呆れて何も言えなくなった。そして、自分に非があることを思い知らせてやるべきだと、静かに思った。俺はバッグから一つのUSBメモリを取り出し、彼女に差し出した。
「これ、見てもらえますか?」
彼女は不機嫌そうな顔でそれを受け取った。その中には、一つの動画ファイルが入っている。彼女が藤吉さんのデスクに腰掛け、ネクタイを弄りながら、甘い言葉で囁いている映像だ。
「藤吉さん、このシステム直してもらえたら、その後、一緒にご飯でもどうですか?」
その距離感は、誰がどう見ても普通ではない。オフィスには監視カメラ以外にも、バックアップシステムのログが残っている。その動画は、俺が以前、不正アクセス対策でテストしていた際の録画データだった。
「これ、どう見ても業務中の不適切行為ですよね。社内規定違反です」
俺の言葉に、社長は激昂した。
「何をやってるんだ、お前は!!恥ずかしいぞ!済まされない!」
娘は真っ青になり、必死に言い訳を始めた。
「な、何よこの動画!いつの間に!私が藤吉さんなんて相手にするわけないじゃない!これは陰謀よ!」
しかし、誰も彼女の言葉を信じなかった。唯一の目撃者である藤吉さんも、騙されていたことを知り、落胆してそのまま会社を出て行ってしまった。
これで、システムエラーに対応できる人間は誰もいなくなった。会社は窮地に陥った。
社長は深く反省し、娘に直接、厳しい処分を下した。
「お前に社長の立場を与えようとしたこと、親として深く後悔している。今回のシステム障害で出た損害五千万円は、お前自身が働いて返しなさい。そして、部署を変え、一から社会人としてやり直しなさい」
社長の娘は、今まで父親にこんな厳しく言われたことがなかったようで、その場に泣き崩れた。
俺はその後、この経験を機に、独立起業を決意した。前にから考えていたことでもあり、思い切って前へ進むことにした。初めての起業で失敗もあったが、全てを学びとして受け止め、地道に努力を重ねた。そして、奇しくも以前の会社からシステム再構築の依頼を受け、見事に解決させた。その実績が業界で認められ、今では多くの仕事を受注している。仲間もできた。これからも一歩ずつ、この会社を大きくしていきたい。あの傲慢なお嬢様には、今はもう感謝すら湧いてこない。あの日、首を宣告されていなければ、今の俺はなかったのだから。



