「てめえ、さっきからうるせえんだよ」
そう叫んだかと思うと、いきなりワイングラスが俺に向かって投げつけられた。真っ赤なワインが俺のスーツを濡らし、彼は「俺に逆らうからこうなるんだよ」と笑っていた。周りにいた新入社員たちもニヤニヤしながら、俺のことを上司と一緒になって馬鹿にし始めた。他の社員たちは心配そうな顔をしていたが、誰も彼に逆らうのが怖くて、俺を助けようとはしなかった。
俺は佐藤陸、46歳の会社員だ。浜崎食品という大手の食品会社の支部で働いている。昔は本社にいたが、数年前に支部ができて、そこに配属された。都会から離れて少し寂しかったが、支部の人間はいい人ばかりで、忙しくも充実した日々を送っていた。
そんなある日、本社の新人歓迎会に出席するように言われた。今年の新人には社長の息子がいるらしい。初めて会うから、きちんと挨拶しようと思っていた。しかし、そこでとんでもないことが起こってしまった。
歓迎会当日。本社の社員たちに挨拶を済ませた後、新人たちに話しかけようと近づくと、人だかりの中心に偉そうな態度の男がいた。どうやら彼が社長の息子らしい。俺は近づいて挨拶をした。自分の名前と支部で働いていることを伝えると、彼は俺を見下すような目で言った。
「底辺が俺に話しかけんなよ」
いきなりの言葉に驚いていると、彼は続けて怒鳴った。
「俺はこの会社の社長の息子の川島司だぞ。気安くお前みたいな無能が喋りかけていい相手じゃない」
さらに周りの新入社員たちも、彼に同調して「さっさとどこかに行けよ」「社長の命令だぞ」と俺を見下してきた。さすがに俺も腹が立った。
「君たちはどうして同じ会社の先輩に向かってそんな言葉を使うんだ? まだ学生の気分でここに立っているのか?」
そう厳しく言うと、司が眉間にしわを寄せてどなった。
「子会社でしか働けない無能が偉そうな口を聞くな。そもそもお前みたいな底辺は呼んでねえよ。帰れ」
「司さん、私はあなたの父親である川島社長に参加してくれと言われてきたんです。あなたに命令される筋合いはありません」
「俺の言葉は父さんの言葉でもあるんだ。だから俺が帰れと言ったら帰れよ」
「それはできません。司さんの親が誰であろうとも、あなたは今はただの新入社員です。私に命令できる立場ではありません」
「そんなこと言っていいと思ってるのか?」
司はさっきよりも強い目つきで俺を睨んできた。持っていたワイングラスの中身が揺れている。本当は自分が言うことではないかもしれないが、このまま社長の息子が好き勝手に暴れていたら、会社のためにもならない。俺は続けて注意をした。
「先ほど挨拶する前に本社の社員の方から、社長には手を焼いていると聞きました。周りも迷惑しています。あなたの態度は他の新入社員や先輩たちを攻撃しているだけですよ」
俺の言葉がよほど気に入らなかったのだろう。司はついに、持っていたワイングラスを俺に投げつけた。スーツは真っ赤に濡れ、彼は満足そうに笑った。
「俺に逆らうからこうなるんだよ。俺に逆らうやつなんて、てめえが初めてだ。すげえむかついたから、今すぐ首にしてもらうように父さんに言ってやるよ」
そう言って、テーブルにあったビールのボトルを掴み、俺に向かって中身をぶちまけた。今度は避けようと思ったが、取り巻きの新入社員が俺の腕を掴んで動けなくした。俺はまたずぶ濡れになった。
司はゲラゲラと笑いながらボトルを放り投げた。
「こんなことをしてお前たちはただで済むと思っているのか?」
「社長に盾ついたんだから当たり前だろ。逆にてめえがこれからどうなっても知らないぞ。首だけじゃ済まないかもな」
俺はワインとビールで汚れたスーツを見ながら言った。
「今の状況も十分ひどいと思うんですけどね。せっかくの一張羅だったのに」
こんなことになるなら、来るんじゃなかった。後悔しながらそう思っていると、司は俺を無視して取り巻きを連れて別の場所へ行こうとした。
その瞬間、会場の入口から一人の女性が現れた。美しいドレスに身を包んだその女性は、見る者すべてを惹きつける存在感があった。社員たちは一斉に彼女に見とれた。司も例外ではなかった。
「あの、あなたは……女優のまどかさんですよね。小さい頃からファンです」
司は興奮して話しかけようとしたが、彼は俺の姿を見て、驚いたように言った。
「なんでこんな状態になっているの?」
「まどかさん、あの男のことは放っておきましょう。身の程知らずの無能ですから。それよりもどうしてここに? 俺と話しましょうよ」
「ねえ、リク。こんな若造にこう言われているけど、あなたはそれでいいの? というか、そんなかっこ悪い姿になっていて。こんな状態にした人に怒っていいかしら?」
「君が来るって分かってたのに、恥ずかしいところを見せてしまったな」
「えっと、まどかさん、こいつとお知り合いですか? こんな俗物と話すなんてやめた方がいいですよ」
「君が陸をこんな状態にした犯人?」
まどかは司をじろじろと見ながら質問した。鋭い目つきに、司は怯えながらも頷いた。
すると彼女はさらに睨みを利かせて言った。
「あんた、私の夫に何てことをしてくれたの? 父に言って首にしてもらうわ」
まどかの言葉に、新入社員たちは驚きの声を上げた。他の社員数人も「信じられない」と叫んだ。司は憧れの女優の夫に手を上げてしまったと分かり、顔色を悪くしてガタガタと震え始めた。
実は俺は、10年ほど前に女優のまどかと結婚していた。彼女とは幼馴染みで、4歳の時からの付き合いだ。芸能活動からは疎遠になっていたが、俺がこの会社に入社したことで久しぶりに再会し、仲を深めていって今に至る。まどかが結婚しているのも、夫が一般人だというのも知られている事実だが、それが俺だということは限られた人しか知らない。だから周りが驚くのも無理はなかった。
まどかは浜崎食品の広告塔でもあるが、それだけではなく、会長の娘という肩書きを持っている。義父は一代でこの会社を大きくした人物で、誰も逆らうことができない。彼女がここに来たのは、病気で入院している会長の代わりだった。
「最近、父が『2代目社長が好き勝手してるんじゃないか』って言っていたの。病気で急遽社長を倒れたことを悔やんでいたから、思い過ごしかもしれないって私も思ってたけど、本当だったのかもしれないわね」
「何を言ってるんですか? 俺は優秀ですよ。一流大学を卒業してますし、仕事もできます」
「入社していないあなたに言われたくない」
「確かに一理あるわね。でも、こんな大勢の前で場もわきまえずに暴れる人が優秀だなんて思えないわ。しかも、会長の娘の夫であり、次期社長への暴挙なんて、どう考えても首にされるしかないわね」
「それ、どういう……?」
「そのままの意味よ。あなたの父親はもうすぐ解任されるってこと」
司は目を見開いて驚いた。実は、川島社長が就任してから好き勝手にしているという噂は前からあった。業績も会長が入院してからの1年近く停滞し、株価も下がっている。浜崎食品の評判が悪くなっていると世間でも言われていた。そのため、すぐに社長を解任して他の人間を社長にするというのが会長の指示だった。
そして、俺がその社長に任命された。
元々、まどかと結婚する前から社長になるよう言われていた。しかし義父が急に入院しなければならなくなり、俺は支部で勉強中だったため、川島社長が就任した。彼は優秀だと言われていたから、問題ないと思っていたのだろう。そのまま俺が就任することもないかもしれないと思っていたが、全く安心できなかった。
「俺も会長から話は聞いています。川島社長と司さんの悪事は、もうすでに調べがついていますからね」
そう伝えると、川島社長が焦った顔をしてやってきた。
「私が解任ってどういうことですか? 私は会長が入院してからもこの会社のために努力しています。それなのにどうしてですか? 確かにリクさんが社長にという話は聞いていましたけど、まだ先のはずでしょう」
「先ほど私から述べましたが、あなたのことはすでに調査されています」
「どういうことですか?」
「身に覚えはないと言うんですか? 横領や社員へのいびり、女性を社長室に連れ込んでよからぬことをしていますよね。司さんも他社員を侮辱する発言を繰り返していて迷惑がられていますよ」
俺の指摘に、親子揃って顔色を変えた。それを見ながら、俺は言った。
「本当はこの場で言うつもりではなかったのですが、こうなってしまっては仕方ありませんね」
周りは、いびりは知っていたようだが、まさか女性を連れ込み横領までしていたとは思わなかったらしく、驚きと騒ぎが広がった。
「何かの間違いです!」
川島社長は焦って否定した。大量の冷や汗が流れている。彼がやったことの証拠のようなものだったが、彼は必死に否定し続けた。
「こんなところで言うなんておかしいです。誤解されるじゃないですか」
俺もこんな大勢の前で断罪するつもりはなかった。もう少し後で話すつもりだった。しかし、司が俺にした行いをまどかが見てしまい、彼女の我慢の限界だったのだろう。会長も曲がったことが嫌いな人だから、元気に会社に来ていたら、おそらくすぐに2人とも首にしようと動いていたはずだ。
「予定が少し狂いましたが、これは会長の意思です。解任は免れません。司さんも、社長の息子だからといって、取り巻きと一緒に他社員をいびっていたことは絶対に許されません。相応の処分が下ることでしょう」
それを聞いて、川島社長は膝から崩れ落ち、真っ青な顔で絶望した。
しかし、それでも納得のいかない司は叫んだ。
「俺が処分だって? 別に悪いことなんて何一つしてないじゃねえか」
さっきまで黙っていたのに、何を言っているんだと驚いてしまう。まどかは冷たい目を向けて言った。
「自分がさっきしたことを忘れたの? リクをこんな目に合わせたのをみんなが見てるんでしょ。次期社長にこんなことをして許されるわけがない。そうじゃなかったとしても、社員にわざとお酒をかけるなんて頭がおかしいとしか思えないわ。これは立派な犯罪よ」
「何言ってるんですか? 犯罪って大げさな」
「知らないの? わざと水などを人にかけるのは暴行罪になるのよ」
司は目を見開いて驚いた。本当に知らなかったようで、焦り始めた。それを見ながら俺は言った。
「被害届はもちろん出させてもらいます。ワインだけならクリーニング代だけで許そうと思いましたが、ビールを大量にかけられたんですから、許せるわけがありません」
すると司は逆切れした。
「どうして20歳も離れた俺がしたことなんだから許してくれよ。心が狭いな」
許してほしいのか分からない言葉に、俺はイラつきながら言った。
「このスーツは、まどかが昔プレゼントしてくれたものなんだ」
結婚してからすぐの誕生日に、まどかが「いいものを着て仕事をしたら、もっとやる気が出るんじゃない?」と言って買ってくれたものだ。俺が憧れていたブランドのスーツで、とても嬉しくてほぼ毎日着て仕事をしていた。それをこんなにも汚されて、許せるわけがない。
「俺は絶対に許さない」
そう言って俺が睨みつけると、まどかも続けた。
「買った時は100万近くしたし、こんなにも汚くなったんだから、染み抜きだけで済まないかも。スーツ自体の弁償がありうるわね」
その言葉に司は真っ青な顔をして「マジか」と呟いた後、勢いよく土下座した。
「申し訳ございませんでした!」
それを見ても、俺は全く許す気にはなれなかった。
「絶対に弁償しろ。もちろん被害届を出すことも考え直さない」
司の様子に、周りの社員たちは「あの親子も終わりだな」とこそこそと話し始めた。司の取り巻きだった新入社員たちも、「いつも偉そうにしてるのに、ダサい」とニヤニヤと笑い出した。
それを見て、俺は彼らに言った。
「君たちも同類だからな」
彼らは司の命令ではなく、自分たちの意思で俺の腕を掴んだのだ。俺のことを馬鹿にしたことも、司の取り巻きになって他の社員をいびっていたことも、報告を受けている。彼らも同じように罰を受けるに値する。
それを伝えると、ニヤニヤしていた新入社員たちの表情は一瞬で固まり、だんだんと青ざめていった。そして司と同じようにその場に土下座して、何度も謝罪した。
しかし俺もまどかも許すことはなかった。
「すぐにこの歓迎会から出ていけ」
そう言って出入り口を指さすと、司たちはフラフラと立ち上がり、絶望した顔で会場を去っていった。その後ろ姿は哀愁が漂っていて、「これからどうしよう」とブツブツ呟いている者もいた。
川島社長はまだ状況が信じられないようで、魂が抜けたかのような白い顔で、床に膝をついて頭を抱えていた。何を言っても動こうとしなかったため、警備員を呼んで退場してもらうことになった。
それから俺はスーツを着替えるために服を買ってきてもらい、着替えて歓迎会に参加した。数人の新入社員はいなくなってしまったが、会社に不利益を出し、周りにも迷惑をかける人間がいなくなったことで、参加者たちはみんな少し表情が柔らかくなっていた。
その後、川島社長は解任され、横領したことで会社から被害届を出された。数年間は刑務所の中で過ごし、出所後は全額を働いて返すことになっている。
司や俺の腕を掴んだ新入社員も首になり、暴行罪で罰金が課せられ、俺からは慰謝料とスーツの弁償を請求した。他の取り巻きたちも、会社にいることが気まずすぎて退職した。みんな他の会社に入社することが難しいらしい。
特に司は、昔から世継ぎとして考えると全く勉強していなかったため、どこにも正社員として雇ってもらえず、アルバイト生活をしているらしい。今は惨めな生活を送っていると聞いている。
一方、俺は予定より少し早いが社長に就任した。会長の代わりに、しっかりと社員を導いていくつもりだ。


