雨が杉林を煙らせる細かな霧雨の中、俺はリュックを背負い直し、ぬかるんだ坂道を一歩ずつ登っていた。名前は片瀬深夜、四十五歳。かつては心臓外科医だったが、今は何の肩書きもない、ただの旅人だ。電車を三本乗り継ぎ、バスを降りてから二時間歩いた。人里離れた場所を選んだのは、誰にも会いたくなかったからだ。
坂を登り切ったところに、古い木造の宿があった。看板には「厳湯の宿・東山」と書かれている。引き戸を開けると、いろりの煙の匂いがした。奥から出てきたのは、目つきの鋭い初老の男だった。
「いらっしゃい。お一人さんかね」
「ええ、しばらく泊めていただきたいんです。開いていればそれで構いません」
男はしばらく俺の顔をじっと見つめた。何かを見定めるような目だった。俺は思わず視線をそらした。
「二階の三号室に案内するわ」
部屋は六畳ほどの古びた和室だった。窓を開けると、雨に濡れた山が広がっていた。ここなら誰にも見つからない。俺はリュックを下ろし、畳の上に座り込んだ。三年前、俺はある手術で患者を失った。医療事故とされた。本当の原因は別にあったが、俺は何も言わずに全ての責任をかぶって病院をやめた。それから放浪が始まった。誰とも深く関わらず、誰にも名乗らず。俺には人を救う資格も、人と暮らす資格もない。そう自分に言い聞かせて生きてきた。
雨が強くなってきた。俺は立ち上がり、風呂へ向かった。岩風呂は宿の裏手にあった。脱衣所で服を脱ぎ、湯に浸かる。熱いが、骨の奥まで染みるような熱さだった。目を閉じて天を仰ぐと、雨は止んだようで、雲の切れ間から夕方の光が差し込んでいた。
しばらくして、木戸が開く音がした。若い男が入ってきたらしい。
「あの、すみません。胸の傷、すごい大きいですね。失礼ですけど、何かのご病気だったんですか?」
俺は驚いて自分の胸を見た。鎖骨の下から胸骨の真ん中まで、長い手術痕がある。左肩には別の傷もあった。
「ああ、これは昔ちょっとした事故で」
「そうですか。すみません、いきなり変なこと聞いて」
俺は返事をしながら、その男の顔を初めて見た。二十代後半だろうか。細身で色白、どこか繊細な雰囲気の青年だった。そして、彼の胸にも傷があった。胸骨を縦に走る長い手術痕。心臓手術の痕だ。それもかなり古い。俺は思わず息を飲んだ。その傷の形に、見覚えがあった。
「ああ、僕のもびっくりしますよね。子供の頃、心臓の大きな手術をしたんです」
「そうですか」
「もう二十年も前のことなんですけどね。先生のおかげでこうして生きています」
二十年も前。その時期、俺はある大学病院で小児心臓外科の難しい手術を数多く担当していた。患者の顔を一人一人覚えているわけではない。それでも、この傷の方向の癖は、自分の手のものに似ていた。
「すみません、長居しちゃって。お先に上がります」
「ええ、お気をつけて」
偶然だ。似たような傷はいくらでもある。そう自分に言い聞かせたが、胸の奥がざわつくのを感じた。
夕方六時、広間へ向かうと、お膳の上には山の天ぷらや岩魚の塩焼きが並んでいた。その時、奥の襖が開いた。入ってきたのは、先ほどの青年と、もう一人の女だった。その女の顔を見て、俺は箸を取り落としそうになった。朝日なみお。テレビや映画で何度も見たことのある、あの女優だった。帽子もマスクもなく、素顔のままだ。
青年が俺を見て笑った。
「あ、さっきの湯のお客さんだ。姉さん、この方ですよ」
みおと呼ばれた女が俺の方を向いた。そして、視線が合った瞬間、彼女の表情がふっと止まった。何かを思い出すような、確かめるような目だった。俺はすぐに目を伏せた。
宿の主人が声をかけた。
「狭い宿でな、他のお客さんもおらんし、よかったら一緒に食べたらどうかね」
俺は断ろうとしたが、青年の方が先に答えた。
「是非ぜひ。一人で食べるより楽しいですよ」
「朝日ハルトと言います。こっちは姉のなみおです」
「朝日なみおです。よろしくお願いします」
「片瀬深夜です。旅の途中でたまたま」
名乗った瞬間、なみおの手元が一瞬止まったのが見えた。だが、彼女はすぐに何でもないような顔で笑った。
「片瀬さんですか? 素敵なお名前ですね」
俺はその笑顔の奥に、何か別のものを感じた。
「片瀬さんは何のお仕事を?」
「特に決まった仕事はしていません。あちこちを旅して回っているだけです」
「いいですね。そういう生き方、憧れます」
なみおは黙って酒を一口飲んだ。そして、いろりの火を見つめながら、ぽつりと言った。
「片瀬さんって、お医者様だったことはありませんか?」
俺は箸を止めた。なみおがちらりと俺の方を見たのが分かった。
「どうしてそんなことを?」
「いえ、なんとなく。手の感じがお医者様みたいだったので」
俺は答えなかった。答えられなかった。
翌朝、目を覚ますと山に朝霧が立ち込めていた。俺は浴衣のまま縁側に出て、湯飲みに茶を注いだ。昨日のことをぼんやりと思い返す。朝日なみお。あの女優がこんな山奥の宿にいる。それも弟と二人で。偶然だと自分に言い聞かせたが、彼女の視線を思い出すと、胸の奥がざわついた。
気にしすぎだ。今中にここを立って、また別の土地へ行けばいい。そう決めて立ち上がろうとした時、縁側の向こうから足音がした。振り返ると、なみおが立っていた。薄い色の着物に羽織りを重ねている。化粧はしていなかった。
「おはようございます。お邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「眠れましたか?」
「久しぶりにぐっすりと。空気が違いますね、ここは」
なみおは俺の隣に腰を下ろした。しばらく二人とも黙っていた。霧が少しずつ晴れていく。
「片瀬さん。昨日のこと、無礼でしたね。お医者様かなんて、初対面の方に聞くことではありませんでした」
「いえ、構いません。気にしていません」
「ただ、私、人を見る目だけはある方なんです。仕事柄、たくさんの方とお会いしますから」
「そうでしょうね」
「片瀬さんの手、指の動き、それから人の顔を見る時の目つき。あれはお医者様の目です。それも、長く現場にいらした方の」
俺は湯飲みを両手で包んだ。
「お会いぶりですよ。私はただの旅人です」
「そうですか」
俺はなみおの横顔を見た。
「朝日さんこそ、こんな山奥で何をしているんですか?」
「弟の療養です。ハルトは子供の頃に大きな手術を受けていて、今も時々体が辛くなるんです。年に一度、ここに連れてくるんです。空気がいいから。それと、私自身も少し休みたくて」
なみおはそう言って、小さく笑った。
「お仕事を続けていると、時々分からなくなるんです。自分が何をしたくて働いているのか」
「女優というお仕事も大変なんでしょうね」
「そうですね。でも、本当に苦しいのは」
彼女はそこで言葉を切った。何か言いかけて、飲み込んだようだった。俺は何も聞かなかった。
昼を過ぎた頃、空が晴れた。俺は宿の裏手で薪を割っている主人を手伝っていた。体を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
「あんた、力仕事も慣れとるな。指は細いのに」
「旅をしていると、色々覚えるものですよ」
その時だった。宿の中から女の悲鳴のような声が聞こえた。なみおの声だった。
「誰か、誰か来てください!」
俺は斧を投げ捨て、駆け出していた。広間に飛び込むと、ハルトが床に倒れていた。胸を押さえ、唇が青白くなっている。呼吸が浅く速い。なみおが彼の体を支えていた。
「ハルト、ハルト、しっかりして!」
俺は一瞬、その場で固まった。体が勝手に動こうとしていた。だが、頭の中で別の声がした。お前にその資格はない。お前はもう医者じゃない。
ハルトが苦しそうに息を吐いた。なみおが振り返って俺を見た。すがるような目だった。
「片瀬さん、お願いです。どうか」
俺はその目を見て、もう何も考えられなくなった。気づいた時には、ハルトの傍に膝をついていた。
「横にして、足を少し上げてください。それから、衣服を緩めて」
「はい」
ハルトの手首に指を当て、脈を取る。早い。不正だ。かつての心臓手術の後遺症だろう。発作性の頻拍だ。
「ハルト君、聞こえるか? 大丈夫だ。息を吐くことだけに集中しろ。長く、ゆっくり吐くんだ」
「はい」
「主人さん、温かい飲み物と毛布をお願いします」
「すぐ持ってくる」
俺はハルトの背中をさすりながら、呼吸を誘導した。吐いて、吐いて、ゆっくり吸う。医者だった頃、何百回となく繰り返してきた手順だった。体が覚えていた。
数分後、ハルトの呼吸が落ち着いてきた。唇に血の色が戻り、脈も少しずつ整ってくる。
「すいません、ご迷惑をかけました」
「もう大丈夫だ。無理せず、横になっていなさい」
毛布をかけてやると、ハルトは弱々しく微笑んだ。なみおは床に座り込んだまま、両手で顔を覆っていた。肩が小刻みに震えている。
「ありがとうございます。本当に、本当に」
俺は答えなかった。
その夜、ハルトは早めに部屋で休んだ。俺は広間のいろりに一人座り、主人が出してくれた酒を口にしていた。
「片瀬さん」
「はい」
「あんたの傷、見せてもらったわけじゃないが。ただの事故じゃないな」
「どうしてそう思うんですか?」
「ここに来る人間は、大抵何か抱えとる。長年やっとると、なんとなくわかる」
「主人さんは、ここに長くいるんですか?」
「四十年や。いろんな人を見てきた。逃げてきた人、終わりに来た人、始めに来た人」
「私はどれに見えますか?」
「逃げて、終わって。それでもまだ、始まれずにおる人や」
俺は思わず苦笑した。
「昼間のあんたの手つきな。あれは長年人を救ってきた人間の手や。ごまかせるもんじゃない」
「昔の話ですよ」
「昔も今も、手は変わらん」
俺はしばらく黙っていた。炭がまた、小さく音を立てた。
「三年前、患者を一人なくしました。私の責任とされましたが、本当は別の医者の処方ミスでした。それを被って、私が辞めたんです」
「ほうか」
「被ったというより、そうするしかなかった。相手は上司で、私には家庭もなかった。失うものが少ない方が責任を取ればいい。そう思ったんです」
「立派なことや」
「立派じゃありません。逃げただけです。あの後、私は誰の顔も見られなくなった。手術台に立つどころか、町を歩くことすらできなくなった」
「それで、今日まで」
「ええ、今日まで」
「それでも、あんたは昼間、あの子を助けた」
「手が勝手に動いただけです」
「手が勝手に動く。それは本物の証拠や」
酒を一口含んだ。喉がいつもより熱かった。その時、廊下の方で小さな足音がした。襖の向こうに、なみおが立っていた。
「片瀬さん、少しだけよろしいですか?」
主人が静かに立ち上がり、奥へ消えた。なみおは俺の向かいに座った。いろりの明かりが、彼女の頬を赤く染めている。
「ハルトを助けてくださって、本当にありがとうございました」
「いえ、当然のことをしただけです」
「片瀬さん、明日ここを立たれるおつもりですか?」
「ええ、そのつもりです」
「そうですか」
なみおは膝の上で両手を強く握りしめていた。
「片瀬さん、一つだけお願いがあるんです」
「何でしょう?」
「明日の朝、立たれる前にもう一度だけお話しさせてください。どうしても、お伝えしたいことがあるんです」
俺は彼女の目を見た。そこには、女優の朝日なみおではない、一人の女の目があった。
「わかりました。朝、ここで」
「ありがとうございます」
なみおは頭を下げて、静かに立ち上がった。
夜明け前、俺は目を覚ました。浴衣の上に羽織りをかけ、縁側に出た。しばらくすると、足音が聞こえた。振り返ると、なみおが立っていた。
「おはようございます」
「ええ、おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「あまり、眠れた気がしません」
なみおは俺の隣に腰を下ろした。
「片瀬さん、昨日お話しした、お伝えしたいことを聞いていただけますか?」
「ええ、伺います」
「驚かないでくださいね。私、片瀬さんとお会いするのは、初めてじゃないんです」
俺はなみおの方を見た。
「二十年前、私はまだ高校生でした。弟のハルトが心臓の病気で、命を落としてもおかしくない状態だった。母と私も、毎日泣いていました。そんな時、ある若い先生が、難しい手術を引き受けてくださったんです。先生は手術の前、家族の控室まで来て、私と母にこう言ってくださいました。『必ず助けます。信じてください』と」
俺の中で、何かが繋がり始めていた。
「手術は十時間以上かかりました。出てきた先生は汗まみれで、目の下に深い隈を作っていました。それでも、私たちに笑顔で言ってくれたんです。『ハルト君は大丈夫です。もう心配いりません』と。あれは——片瀬深夜先生。それがあの時の先生のお名前でした」
俺は長く深く息を吐いた。記憶の底から、ぼんやりとした少女の顔が浮かんできた。泣きはらした目で、何度も頭を下げていた女子高生。あれが、目の前のこの女優だったのか。
「あの日から、私はずっと片瀬先生のことを忘れたことがありません。私が女優になったのも、ある意味で先生のおかげなんです。新人時代、医療ドラマの撮影現場で、医療指導をしてくださった先生がいて。それも、あなた、片瀬先生でした」
「あの現場に、あなたが」
「ええ。私はずっと、先生を見ていました。だけど、先生は私のことなんて覚えていらっしゃらなかった。あの頃の私は、ただの新人女優でしたから」
なみおはそこで言葉を切り、湯飲みを置いた。そして、まっすぐに俺の方を向いた。
「三年前、先生が病院をやめられたと聞いて、私はずっと探していました。事故のこと、信じる気にはなれなかった。先生がそんなことをする方じゃないと、私には分かっていましたから」
「私はただ責任を取っただけです。立派なことじゃない」
なみおの目に、涙が滲んでいた。
「片瀬さん。私、ずっと先生のことが好きでした。十八の時から、ずっとです」
朝の光が、二人の間に差し込んでくる。俺は何と答えていいか分からなかった。
「私には、誰かを幸せにする資格なんてありません」
「資格なんて、誰が決めるんですか? 先生が決めるんですか? それとも、世間が決めるんですか? 私は——私はただ、先生のおそばにいたい。それだけです」
俺は黙って、彼女の手を見た。膝の上で強く握りしめられていた。震えていた。
その時、襖が小さく開いた。顔を出したのはハルトだった。昨日よりも顔色は良くなっていた。
「ああ、すいません。お邪魔でしたか?」
「ハルト、起きて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。それより姉さん、僕、聞こえてたよ」
ハルトは申し訳なさそうに笑い、縁側に出てきて俺の前に座した。そして、深く頭を下げた。
「片瀬先生。二十年前、僕の命を助けてくださったのは、先生だったんですね」
「いや、私は医者として当然のことをしただけです。気にしないでください」
「気にしないわけにはいきません。先生がいなかったら、僕は今ここにいません。姉も女優にはなっていなかったかもしれない。僕たち家族の今があるのは、全部先生のおかげなんです」
ハルトの声は震えていた。それを聞きながら、俺は廊下の奥に主人が立っているのに気づいた。彼は何も言わず、ただこちらを見ていた。その目に、光るものがあった。
「僕が倒れた時、先生の手は迷っていませんでした。あの手で、二十年前も僕は助けられたんですね。姉さんの気持ち、僕も昔から知っていました。先生のことを、本当にずっと思ってたんです。だからお願いします。姉さんを、一人にしないでください」
俺はなみおを見た。彼女は俯いて、ただ涙をこぼしていた。
主人がゆっくり廊下を歩いてきた。
「朝飯の前に、茶でも飲まんかね」
「いただきます」
「片瀬さん、あんた今日立つと言うとったな」
「ええ、そう言いました」
「もう一晩、考えてからにせえ。山の朝は、人を惑わせる」
俺は湯飲みを両手で包み、しばらく目を閉じた。三年間、誰の顔も見ずに歩いてきた。誰にも名乗らず、誰にも触れず。だが、この山奥で、俺は二十年前の自分と再会していた。助けた命に、もう一度出会った。それは、偶然ではなかったのかもしれない。
「主人さん、なんや。お世話になります。もう少し、ここにいさせてください」
「好きにせい」
主人はそれだけ言って、また奥へ消えた。縁側には、俺となみおだけが残された。朝の光が、山の杉林を金色に染めている。
俺は湯飲みを置き、なみおの方を向いた。
「なみおさん」
「はい」
「私は、あなたに釣り合うような男じゃありません。地位も肩書きも何もない。これからどう生きるかも、決まっていません」
「存じてます」
「それでも、もしあなたがこんな私でもいいというなら」
俺はそこで言葉を探した。うまい言葉は見つからなかった。だから、ただ正直に言った。
「もう一度、人の役に立てる人間になりたい。あなたの隣で、そう思えるようになりたい」
なみおが顔を上げた。目からまた涙がこぼれた。だが、今度は笑っていた。
「あれは、お返事だと受け取ってもよろしいですか?」
「ええ、そう受け取ってください」
なみおは両手で顔を覆い、肩を震わせた。俺はその肩に、そっと手を置いた。
「先生。私、待っていました。十八の時から、二十年ずっと」
「長く待たせて、申し訳なかった」
廊下の奥から、ハルトと主人の小さな笑い声が聞こえた。俺はなみおの肩から手を離し、もう一度、山の方を見た。
俺の名前は片瀬深夜。四十五歳。職業はまだ決まっていない。だが、これから少しずつ、決めていけばいい。なみおが隣で、小さく息を吐いた。その息が白く、朝の光に溶けていく。



