祝福の空気が漂う結婚式の会場で、私の周りだけに緊張感が立ち込めていた。親族たちが楽しそうに談笑するテーブルに、私の席はない。少し離れた場所に、コップ一杯の水だけが置かれている。椅子もなければ、食事の用意もない。こんな扱いを受けて、私は心の底から感謝した。
「ありがとうございます」
私は半田直子。どこにでもいる二十七歳の専業主婦だ。夫の大輔とは友人を通じて出会い、初めて会ったとは思えないほど話が合い、すぐに交際を始めて、その一年後に結婚した。
結婚当初は夫と二人で街中のマンションに住んでいたけれど、結婚して半年が経った頃、夫の転勤が決まった。職場の最寄りということで、義実家のそばに引っ越したのだ。それが地獄の始まりになるとは、この時の私は思いもしていなかった。
引っ越してしばらくすると、義母が頻繁に頼み事をしてくるようになった。最初は醤油を少し分けてほしいとか、テレビの録画予約のやり方を教えてほしいといった、ちょっとしたことだった。私も心よく引き受けていた。しかし、日々それを繰り返すうちに、頼み事はどんどんエスカレートしていった。今では家中をピカピカに掃除しろだの、朝昼晩の食事の準備をしろだの、義実家の家事を丸投げしてくることが日常茶飯事だった。
「明日人がうちに来るから掃除をしたいの。でも昨日からちょっと腰の調子が悪くて。申し訳ないんだけど、またお願いしていいかしら」
義母はそう言って、辛そうに腰を押さえてみせる。調子が悪いだなんて絶対に嘘だ。私は昨日、ご近所のおば様方と元気よく出かけていく義母を見かけていた。それでも私は「分かりました」と、渋々ながら要求を飲んだ。飲むしかないのだ。
頼み事がエスカレートし始めた頃、私はそれを何度か断ったことがある。私にもやらなければならないことがあるし、ずっと義母に振り回されているわけにはいかない。それから数日後、買い出しから帰ってくると、近所で親しくしている山田さんが駆け寄ってきた。
「ちょっと直子さん、ヤ子さんいじめてるって本当なの?」
え、ヤ子というのは義母の名前だ。私が義母をいじめている? 一体どこからそんな話が出たのだろう。山田さんによれば、近頃私が義母をいじめて楽しんでいるという噂が広まっているらしい。私が住んでいるこの場所は住宅街で、噂好きのおば様方がたくさんいる。だから話の種になるような話題は一瞬でご近所に広まってしまうのだ。
私はもちろん否定した。私の言葉に山田さんは安心したように胸を撫で下ろした。「そりゃそうよね。直子さんがそんなことするはずないわ」と。私のことをよく知ってくれている山田さんだからこそ信じてくれたが、事情を知らない人々はデマを信じてしまっても仕方がない。
後で分かったことだが、どうやら噂の根源は義母らしかった。私が言うことを聞かなかった腹いせに、あんなひどい噂を広めたのだろう。さすがに私も腹が立って、そのことを夫に相談した。
「まあ、母さんも家に一人だから寂しいんだろ。言うこと聞いてやれば、丸く収まると思うからな。頼むよ」
夫にそう言われては、何も言い返せない。それからはもう、私は義母の言いなりになるしかなかった。
ある日、リビングで掃除機をかけていると、義母が信じられないという顔で怒鳴りつけた。
「ちょっと直子さん、何その掃除機のかけ方は。部屋の隅の方はブラシにしてかけないと誇りが残っちゃうでしょ。これぐらい常識よ。もしかして今までこんな掃除の仕方してたの? いやね、最近の子はこんな基本的なことも知らないんだから」
ブツブツと文句を垂れ流しながら、義母は私から掃除機を取り上げると、ヘッドを外してブラシに取り替え、再び私の手に戻した。義母の頼み事を聞く時、一番辛いのはこれだ。義母は私のやることなすこと全てにケチをつけてくる。言いたいだけ文句を言うと、自分自身は何もすることなく、いつもさっさとソファーでくつろぎ始めるのだ。
どうしてここまで言われなければならないのだろう。そんなに私のやり方が気に入らないのなら、自分ですればいいのに。もしや彼女は私をこき使うことに快感を覚えて、嫌味を言いたいだけではないのだろうか。そんなことを考えていたのが顔に出ていたのか、義母は不機嫌そうな顔で私に詰め寄った。
「何? 何か言いたいことがあるの? 言ってご覧なさいよ」
ここで口答えしようものなら、さらに小言が倍になって帰ってくる。それに明日のご近所の井戸端会議で、新しい話題が一つ追加されることだろう。言い返したくなる気持ちをぐっと堪えて、私は声を絞り出した。
「いえ、何も」
「もう笑顔の一つぐらい浮かべられないの? そんな無愛想じゃ人に好かれないわよ。もうちょっと嬉しそうにしなさいよ。掃除の腕もなってなければ、人とのコミュニケーションすら上手にできないなんて。本当嫌ね、最近の子は」
義母はやれやれといった体で肩をすくめると、自分の部屋へと引き上げていった。私はその後ろ姿が消えて、ドアの閉まる音までしっかり確認した後、掃除機を投げ出して、ぐしゃぐしゃと自分の頭をかき乱した。
何よあれ? 腹が立つ。本当に腹が立つ。義母に聞こえないように小さな声で悪態をつく。「何が、もうちょっと嬉しそうにしなさいよ、だ」。こんな風に言われて嬉しいなんて思えるわけないじゃない。
物に当たるわけにもいかず、私はうずくまってどうにか平静を取り戻そうとする。落ち着きなさい。私がこんなことで苛立っていては、相手の思う壺よ。深く息を吸って大きく吐き出す。何度かそれを繰り返していると、少し冷静になってきた。
それから少し経った頃、携帯で誰かと話していたらしい夫が話を終えてリビングに戻ってきた。その表情はどことなく嬉しそうだ。
「何かいい知らせだったの?」
私の問いかけに夫は笑顔で頷いた。うちの姉ちゃん、結婚することになったんだって。夫には三歳上の姉がいる。家も離れている関係で、顔を合わせたことがあるのは自分と夫の結婚式ぐらいだった。結婚式。その言葉でフラッシュバックした光景に、少し体が縮こまる思いがした。
「で、来月結婚式らしいんだけど」
そんなことを考えていたばかりに、私は少し過剰に見構えてしまった。私の挙動を不思議に思ったのか、夫は首をかしげている。「どうかしたか」「なんでもない」。私はどうにか取り繕って笑って見せた。義姉の結婚はとても喜ばしい。けれど、かつて受けた仕打ちが頭にちらついてしまう。嫌な笑みを浮かべた義母の顔が脳裏をよぎった。あの時の悪夢がまた繰り返されなければいいけれど。
そして月日はあっという間に流れ、義姉の結婚式当日になった。花に囲まれた会場は喜ばしいムードに包まれている。私は少し緊張した面持ちで、席次を確認しに向かった。見知った親戚たちと二言三言会話をして、用意されているテーブルを見て回る。そこで異変に気がついた。私の席がない。椅子の背にはそれぞれ名前の書かれた札が貼り付けられている。私の名前は見つけられなかった。
やっぱり。やっぱりだ。激しく胸が脈打って、呼吸が荒くなる。トラウマが蘇ってきて、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちになった。
「お姉ちゃんが来たぞ」
そこへ義姉がやってくる。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ彼女を囲むように、親戚たちが駆け寄った。みんなに祝福されて笑顔を浮かべている義姉はとても綺麗だけれど、今の私にはそんなことを考えられる余裕がない。彼女は私に気がついたようで、こちらへと歩いてきた。
「何か探し物?」
美しくメイクを施した義姉は、真顔で私を見つめる。そんな風に訪ねるということは、きっと確信犯なのだろう。本当は怒るべき場面なのだろうけれど、取り乱している私にはそれも叶わない。
「あの、私の席は」
「ああ、安心して。そこにちゃんと用意してあるわ」
彼女が指し示す先、そこはテーブルの端で、椅子は見当たらない。コップ一杯の水だけが置かれたところに、私の名前が書かれた札が貼られていた。
「あなたにここで食事を取る権利なんてないわ。水を出してあげただけでも感謝して欲しいくらいね」
覚めた目で私を見つめた義姉はそう言い放った。祝福の空気が漂うこの空間で、私と義姉の周りだけが緊張感に包まれている。親族たちが何事かとこちらを見て、ひそひそと会話している。しかしそんなのは関係ない。義姉にそんなことを言われて、私は心の底からお礼を言った。
「ありがとうございます」
「え?」
戸惑う義姉に再度お礼を言って、私は用意されていた場所へ向かった。そんな私を義姉が追いかけてくる。
「ちょ、ちょっと待って。こんな扱いを受けて、どうして御礼なんて?」
戸惑っている様子の義姉に、私は冷静な気持ちで答えた。
「義妹さんの結婚式の時は、お母さんが私の席を用意してくれなかったので」
夫には姉の他に、二つ歳の離れた妹がいる。私のトラウマが生まれたのは、その義妹の結婚式の時だった。あの時は本当にひどかった。水はもちろん、私の居場所さえ用意してもらえなかったのだ。完全に私の存在がないものとされていた。みんなが楽しそうに食事や歓談を楽しむ中、私は所在なく会場の隅で立ち尽くしていることしかできなかった。招待客たちの「あの人はあんなところで何をしているのだろう」という目がどれほど辛かったことか。二十七年間生きてきて、あの時ほど居心地の悪かったことはない。それに比べれば、今日は居場所があるだけ天国だった。
後から分かったことだけれど、義妹の結婚式の件は義母の差し金だったらしい。私が彼女の頼み事を断っていた時期とかち合っており、その腹いせのためにやったのだろうことは明白だった。
「嘘よ。母さんがそんなことするわけない」
私の話を聞いた義姉は、疑いの目を私に向けている。そういえば義姉は確かあの時、披露宴に参加することができなかったはずだ。どうしても仕事を抜けることができなくて、二次会から参加していたのだ。だから私が受けた仕打ちを彼女は知らない。
「お母さんはいつもそんな感じですよ」
義母が私に何かやらせる時は、基本的に休むことが許されない。一度真夏の庭で草むしりをさせられた時も、日陰で座って休むことはおろか、水分補給さえもさせてもらえなかった。あの時は正直倒れそうになった。
そんなエピソードを話して聞かせても、彼女はまだ半信半疑の様子だった。
「じゃあ、これならどうです?」
私は携帯を取り出すと、音声ファイルを再生した。
「もう笑顔の一つぐらい浮かべられないの? そんな無愛想じゃ人に好かれないわよ。もうちょっと嬉しそうにしなさいよ。掃除の腕もなっていなければ、人とのコミュニケーションすら上手にできないなんて。本当嫌ね、最近の子は」
私は嫌な噂を流された頃から、義母とのやり取りを日々録音するようにしている。何かあった時のためにと始めたことだったけれど、こんなところで役に立つとは思わなかった。再生された義母の声に、義姉は衝撃を受けたように言葉を失っている。
「これだけじゃありませんよ。もっとお聞きになりますか?」
彼女の答えを聞く前に、私は次のファイルを再生する。三つ、四つと聞かせるたびに、義姉の表情が曇っていく。五つ目のファイルを聞かせ終わると、彼女は唇を震わせて、勢いよく頭を下げてきた。
「ごめんなさい。私、そんなこと全然知らなくて」
今にも泣きそうな義姉は、事に至った経緯を話してくれた。彼女は義母から私の悪い噂を散々聞かされていたのだという。嫁が私をいじめるだの、家事を押し付けてくるだの。ありもしないことを実の親に涙ながらに聞かされれば、信じてしまうのも仕方がないと思う。それを真に受けてしまった彼女は、この結婚式で私に仕返しをしてやろうと考えたらしい。
「きちんと事実も確認しないまま、こんなことをしてしまって本当にごめんなさい」
ひたすら謝る彼女に、なんだかこちらが申し訳ないような気分になってくる。
「いいんです。気にしないでください。こうして私の居場所を用意してもらえただけで、ありがたいです」
義姉は式場のスタッフに声をかけると、すぐに私の椅子と食事を用意してくれた。私がお礼を言うと、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。そして、唇を引き結んで、きっと親族控え室の方を見る。
「直子さん、ちょっとついてきてください」
私の手を取った彼女は、つかつかと親族控室の方へ歩いていく。ドアを開け、迷いなくその人の前まで歩み寄った。
「母さん、ひどいわ。どうして嘘なんかつくの?」
我が子に突然怒鳴りつけられて、義母が驚いた顔で目をパチクリさせている。慌てている様子の義姉の顔を見た後、その背後に私がいることに気がついたようだ。なんとなく状況を察したのか、義母は引きつった愛想笑いを浮かべている。
「な、何のこと?」
とぼける義母の手を、義姉が払いのけた。
「よくも私に嘘を吹き込んでくれたわね。全部聞いたのよ。いじめてたのは母さんの方だったんでしょ? 私、危うく直子さんにひどいことをしちゃうところだったじゃない」
大声で怒る義姉の声に、周りにいた親族たちが何事かとこちらに注目し出す。さすがにまずいと思ったのか、義母が少し慌て始めた。
「そんなの直子さんの言いがかりよ。母さんの言うことが信じられないの?」
必死に訴えかける義母を、義姉は冷めた目で見てため息をついた。そのまま私の方を振り返る。
「直子さん、さっきのファイル再生して。音量マックスで」
有無を言わせぬその声に、私は素直に従った。先ほど義姉に聞かせた音声が控室中に響き渡る。遠巻きに様子を見守っていた親族たちがざわついた。義母は真っ青になって言葉を失っている。
「立場を利用して、こんな風に人をいじめるなんて最低よ。こんな人が私の母親だなんて恥ずかしいわ」
彼女は懐に手を入れると、何かを取り出す。それを、すっかり沈黙している義母に見せるように差し出した。
「これ、母さんへの感謝の手紙」
そう言うと、彼女は次の瞬間、それを勢いよく破り捨てた。
「あ、そんな」
驚いた義母は慌ててやめさせようとするけれど、義姉はあっという間にそれを細かくすると、近くにあったゴミ箱にぶち込んだ。
「家族にひどいことする人に、感謝の言葉なんて言えないわ」
そう言い放った彼女に、義母はがっくりとその場に崩れ落ちた。突然義姉が私の方を向く。彼女はやり遂げたというような、晴れ晴れとした顔で笑っていて、私も思わず釣られて笑ってしまった。
アクシデントはあったけれど、披露宴は滞りなく行われた。せっかく娘の晴れ姿だというのに、義母は沈んだままだった。あの場面に居合わせてしまった親戚たちが少し気まずそうに見えたのは、気のせいではないだろう。
式が終わった後、義姉は他の親戚たちにも義母の所行を触れ回ってくれた。それを終えた彼女は、休む暇もなく夫にもたっぷりとお説教をしてくれる。
「あんたもあんたよ。なんで直子さんを助けてあげないの?」
「わ、悪い」
「謝る相手が違う」
ピシャリと言い放った義姉は、夫の背を私の方へ向けて押した。夫は気まずそうに私の方へ近寄ってくると、丁寧に謝ってくれた。
「本当に悪かった。ごめんな」
「いいのよ。これから気をつけてくれれば」
夫の背後で義姉は満足そうに微笑んでいる。本当に彼女には感謝してもしきれない。
それから少し経った頃、少し驚いたことがあった。ご近所たちがわざわざうちを訪れて謝罪してくれたのだ。どこから漏れたのか、義母の行っていた所行が噂として広まっているらしい。それに山田さんの助力も相まって、私に関する偽の噂は完全に立ち消えたようだ。このことで少し距離が近づいた私たちは、以前よりも円満な関係を築けている。夫も約束通り、しっかりと私の話を聞いてくれるようになった。こなかれ主義で義母の言いなりになりがちだったこれまでが嘘のようだ。
一方義母はと言うと、周囲からすっかり孤立してしまっている。あれから何度か「もうあんなことはしないから仲良くして欲しい」とすがってきたこともあったけれど、もちろん私はそれを断った。家族からもご近所からも見放されてしまった義母は、一人寂しく暮らしている。元はと言えば義母が自ら巻いた種だ。自業自得とはまさにこのことだろう。
「直子さん、準備できた?」
窓から外を覗けば、義姉がこちらに向かって手を振っている。あの件以来、彼女とはとても仲良くなることができた。今日は近所のショッピングモールまで二人でお出かけすることになっている。
「はい。今行きます」
私は鞄を肩にかけると、玄関の扉を開けた。空は晴れ渡り、穏やかな風が吹いている。あの苦しかった日々が嘘のように、今の私は幸せだ。
そう、あの時はそう思っていた。まさかまた、あんな形で人生が大きく揺れ動くなんて、この時の私は思いもしなかった。
ある日、夫の大輔から義母が病気を患って入院することになったと知らされた。普段から山登りを趣味にしていて体力自慢の人だったので、余計に心配をした。
「お見舞いに行かないとね」
私がそう言ったのだが、何でも昨今の感染症対策でお見舞いはできないようになっているらしかった。それに、義母は弱っている姿を見せたくないだろうから、とも大輔は言っていた。確かに一理あると思った。
「入院だなんて、お母さん大変だね」
「そうだな。父さんももういないしな。なあ、直子、ちょっと相談があるんだけど」
大輔が顔色を伺いながら言った。
「どうしたの?」
「お見舞いに行けない代わりに、傘に仕送りをしてやりたいんだよ。遠方だし、それくらいしかできることがないと思ってさ。だめかな」
義母には私もお世話になっている。ケトの誕生日にはいつもプレゼントをもらえるし、家事を手伝いに来てくれたこともあった。ケト自身も「次はいつおばあちゃんに会える?」と頻繁に聞いてくるくらい懐いていた。高校生の時に大輔のお父さんが亡くなってからは、母子二人で暮らしてきて苦労も多かったみたいなので、そう思う気持ちはよくわかる。
「分かった。私もお母さんにはお世話になってるし。困った時はお互い様だもんね」
私がそう言うと、大輔は安心した顔で「苦労をかけるけど、よろしくな」と言ったのだった。
義母への仕送りをすると決めてから、私は本業の他に休日の隙間時間にも内職を始めた。元々我が家の収入に余裕があるわけではなかったので、こうなるのもやむを得ない。大輔も「一円でも多く稼ぐぞ」と宣言してからは、残業が増え、休日に出勤することも多くなっていった。すなわち、必然的に家にいる時間が多い私が、家事やケトの世話を一人ですることになったのだった。
まだ幼いケトの様子を見ながら家事をしたり内職をしたりするのは、はっきり言って負担が大きい。睡眠時間も少なくなったし、いつも神経を尖らせている感覚があり、辛かった。
そんな生活が二ヶ月続いた辺りで、私は体に不調を感じ始めた。いつも頭がぼーっとしているような感じがあり、肩や腰の辺りが張っている状態だった。だからと言って体を休める時間はないし、大輔に相談しようにも、残業を終えて終電の時間に帰ってきたらすぐに入浴して寝室へ直行してしまうので、話をすることもできなかった。
ある日、保育園からケトを迎えに行って帰宅した私は、とうとう目の前が暗くなって倒れてしまった。気がついた時には病院にいて、それまでの記憶はない。後から聞いた話によると、ケトがご近所さんを連れてきて、救急車を呼んでくれたみたいだ。ご近所さんは私のスマホから大輔に何度か電話をかけてくれたようだが、留守で繋がらなかったという。そして折り返しの連絡もなかったのである。そういうこともあり、着信履歴にある「義母さん」と表記された電話番号に連絡をしてくれたようだった。
事情を聞いた義母は「すぐに向かえます」と言って、今は私たちの自宅でケトに待機している。なぜ入院しているはずの母が? と思ったが、体が動けない以上、今はケトのことをするしかない。
幸いにも大きな病気が見つかったわけでもなく、過労と貧血状態だった私は、一晩点滴を打ってもらうとそれなりに調子が戻ってきたのだった。そして次の日の朝方帰宅を許された私は、タクシーを利用して一人で帰ることにした。義母からメールで、感染症の影響で病院には行けないから一人で帰ってきてほしいと言われていたからだ。
家に着くと、おばあちゃんに会えてニコニコ笑顔のケトと、極めて健康そうな義母が出迎えてくれた。
「お帰りなさい。体はもう大丈夫なの?」
「はい。ご心配をおかけしました。ケトのことも見ていただいて、すみません」
「それはいいのよ。私もケト君と会えて嬉しいから。でも」
義母は言い淀んだが、話を続けた。
「ケト君から少しだけ聞いたんだけど、直子さん最近は全然休んでいないんですって。あなた仕事しすぎなんじゃないかしら。土日もなくほとんど毎日働いているなんて、おかしいわよ。もしかして家族には内緒で借金でも抱えているんじゃないでしょうね。子供もまだ小さいんだし、ちゃんと身の振り方を考えなきゃだめよ。こんなこと言いたくないけど、あなたがそんな風では大輔もケト君もかわいそうでしょ」
義母は眉間にしわを寄せている。私と義母の認識にずれがあるのは、火を見るよりも明らかだ。
「私は借金なんかしてません。大輔さんが言ったんですよ。お母さんが病気で入院することになって、お見舞いに行けないから仕送りをしたいって。だからそのお金を捻出するために仕事を増やしたんです」
私がそう言うと、義母はポカンと口を開けて驚いた様子だった。その様子から察するに、どうやら大輔が言っていたことは事実ではないようだ。となると、大輔が嘘をついていたということになるが、一体どういう意味があるんだろうか。
「実はね、直子さん。昨日の晩、大輔は深夜に帰ってきて、今朝も出張が入ったからって、六時前には出ていったのよ。自分の妻が倒れたっていうのに、心配もしないで。我が息子ながら、おかしいわよね。もしかしたら大輔の方こそ、家族には言えないようなことをしているのかも」
義母の意見には同感だった。嫌な予感がした私は、家中を引っかき回した。大輔が何を企んでいるのか、はっきりさせなくちゃ。ケトをお昼寝させてくれた義母も加わって、クローゼットや大輔のパソコンデスクの引き出し、ありとあらゆる収納部を探したのだった。その途中に、義母が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、直子さん。借金があるんじゃないかなんて疑って、ひどいことを言ってしまって。悪いのは自分の息子なのにね。本当にごめんなさい」
そうやって何度も何度も謝る義母が、かわいそうになってしまう。義母だって大輔に利用されていたのだから、被害者の一人なのだ。義母のためにも、本当のことを明らかにしなければいけない。
そしてしばらく探し回った結果、とんでもない事実が判明した。クローゼットからは見覚えのないネクタイやバッグが出てきた上、パソコンデスクの引き出しからは名前も聞いたことのないホテルの会員証が出てきたのである。義母への振り込みは大輔が自分でやると言っていたので任せっきりだったが、通帳を確認すると、やはり毎月二十万円が引き出されている。これらの証拠を元にして総合的に判断すると、大輔は不倫をしていて、「仕送りすると言っていたお金」はその費用にしているということなのだろう。
不倫していることもそうだし、私たちに嘘をついてお金を勝手に使うなんて、絶対に許せない。出張が入ったというのも、きっと嘘に違いない。そう思った私は、大輔のパソコンの電源を入れた。パスワードは知っているので、履歴を確認することは容易だった。私は大輔がどの宿泊施設に予約したかを突き止めた。
今はせいぜい楽しんでいるがいいわ。やられた分はしっかりとお返ししなきゃね。
その日の晩、ケトを私の実家で預かってもらってから、私はある場所へと向かった。それは大輔が不倫相手と泊まっている宿泊施設である。義母も一緒だ。私としてはこんな騒動に義母を巻き込みたくなくて一度断ったのだが、義母が「バカ息子に一言言ってやらなきゃ気が済まない」と言って聞かなかったのだ。義母の気持ちは痛いほど理解できたので、それ以上は何も言えなかった。
私と義母は、ベルスタッフのふりをして大輔と不倫相手が泊まっている部屋のドアをノックした。
「すみません。アメニティの追加をお持ちしました」
しばらくしてドアが開いた。そこには派手な化粧をした若い女性が立っていた。面倒くさそうに髪の毛をいじっている。
「アメニティの追加なんて頼んでないけど。あなたたち、本当にホテルの人なの?」
女性は私たちの格好をじろりと見て、かしげな表情を浮かべた。当然の反応だろう。
「サービスです。お部屋にセッティングしますので、入ってもよろしいですか?」
「は? 何言ってんの? 別にいらないから」
そう冷たい声で言って、女性はドアを閉めようとする。
「あやな。何かあったのか?」
女性と問答していると、部屋の奥から大輔が現れた。大輔は私と義母の顔を見た瞬間、「あっ」と声を漏らして固まったのだった。その隙に、私たちは部屋へ入り込んだ。センスのいい調度品が嫌味でない程度に配置されている。そしておしゃれなテーブルの上には、高級そうなワインが乗っていた。これら全てが私が身を削って働いたお金で利用しているものだと思うと、腹が煮えくり返りそうだった。
私と義母が部屋の中央あたりに立って周りを見回していると、大輔と不倫相手は我に返って追ってきた。
「ちょっと、何なのよあんたたち! 勝手に入ってくるなんて、おかしいんじゃないの? 警察を呼ぶわよ」
あやなと呼ばれた不倫相手の女性は何が何だかわからないといった様子で動揺しながらも、怒っている。一方で、なぜか大輔も顔を真っ赤にして怒っているようだった。怒りたいのはこっちの方だ。
「私はこの人の妻です。こちらは大輔のお母さんよ。あなたこそ誰なのよ。私たちに胸を張って言えるような関係なんでしょうね」
私がそう言うと、不倫相手はさすがに驚いたようで、両手で口を抑えていた。どうやらやましい関係みたいね。
「自分がやったことの責任は、これからきっちり取ってもらえますから。そのつもりでいてね」
私の言葉に、不倫相手は口から手を離し、不貞腐れたような表情になった。どうやら反省はしていなさそうだ。そして、私は大輔に視線を移す。
「くそ。なんでバレたんだよ」
と小さく毒づいてから、大声をあげた。
「直子! それに母さんまで。何なんだよ。俺たちを尾行してきたのか。勝手なことするな。出張だって言って出てきたのに。俺のことを信じられなかったのかよ」
大輔は動揺するあまりに、支離滅裂なことを言っている。その勢いは止まらなかった。
「大体、お前が悪いんだぞ。ケトが生まれてからはそっちに構ってばっかりだ。俺のことは二の次だっただろう。それにお前にはもう女としての魅力を感じないんだよ。昔は可愛かったのに、今ではすっかり家政婦みたいになってさ。ほら、直子のせいだろ」
呆れた光景だった。自分の間違いを全て私のせいにして言い逃れしようとするその姿は、とても罪深かった。とりあえず何か言い返さないと思っているところに、バチンと大きな音がした。なんと義母が大輔の頬を平手打ちしたのである。
「大輔、あんたってここに座りなさい」
大輔は「だって」「でも」と言ってとにかく喚いていた。そんな大輔を見て、義母は「座りなさい」と静かに言った。その迫力に押されたのか、大輔はその場に座り込んだ。続いて義母は不倫相手にも座るよう要求する。不倫相手はここは素直に従った方がいいと判断したのか、何も言わずに大輔の隣に座った。
「自分の悪いところは棚に上げて、直子さんを責めるなんて、何を考えているの? あなたの嘘はもう全部バレてるのよ。母親を勝手に病気扱いして、お金をかき集めて不倫の費用にするなんて、まともな人間のやることじゃないわ。あんたみたいな子は、もう私の息子じゃない。勘当だ」
義母の雷が落ちたところで、私も追撃をする。
「お母さんの言う通りよ。あなたみたいな嘘つき人間は、私の夫としてもケトの父としてもいらないわ。今すぐに離婚して。あ、もちろん勝手に使った分のお金は、慰謝料に上乗せしてしっかり返してもらいますからね」
私はそう言って、離婚届を大輔の目の前に突きつけた。当の本人は、不倫相手に助けを求めるような素振りを見せている。しかし、同じように窮地に立たされている不倫相手が大輔を助けるわけもなく。
「大輔が『絶対バレないよ。大丈夫だ』とか言うから信じたのに。慰謝料なんて私は知らないからね。お金は勝手にあんたが持ってきただけなんだから」
「お前だってノリノリで散々してたくせに、何を言ってるんだよ」
二人はひたすらに見苦しい言い争いを続けていたのだった。
それからしばらくして、無事に離婚が成立した。大輔は当初離婚したくないとごねていたのだが、弁護士を挟んだ途端に態度を一変させ、結果的に慰謝料と養育費を支払って離婚することに同意したのだった。もちろん、不倫相手にも慰謝料を請求した。人の幸せを壊した責任は、しっかり取ってもらえたと言えるだろう。
それから三人で住んでいた家は引き払い、私とケトは実家へ引っ越しをした。離婚をすることに関して、まだ幼いケトには詳しい話をしていないが、「お父さんとは離れて暮らすことになった」とだけ伝えてある。この先、ケトには父親がいないことで苦労をさせることもあるかもしれないが、嘘をついて周囲を欺くような人間と一緒に暮らすよりは、ましだろう。それにその分、私が愛情を込めてしっかり育てる覚悟だ。
大輔と縁を切った義母は、義父の残した財産で老人ホームへ入ることになった。私とケトは時々義母を訪ねては、楽しい時間を過ごしている。義母は「間違っても大輔を支援することはない」と宣言していた。当然の結果だ。
その後、どこからか離婚の原因が大輔の不倫であったと噂が広まったらしく、勤め先どころか取引先にまで後ろ指を刺された大輔は、居づらくなって自主退職したとか。その後は不倫相手の家に転がり込んだ時期もあったみたいだが、これまでのように遊興するためのお金がないことで二人の関係はぎくしゃくしていき、ついには破局したらしい。初恋はお金ありきの乾いた関係だったということだ。不倫相手と別れてからは、一人でアパートに暮らし、日雇いの仕事で食いついでいるようだ。
その寂しい姿を見ていると、偽りを行うと必ず自分に帰ってくるのだと、しみじみ感じさせられる。私は人に誠実でいたいし、ケトにもそう教育していこうと心に決めたのだった。



