定年退職を迎えたその日、妻と娘がリビングでニヤニヤしながら私を見て言った。「あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は、出ていけ」。長年、家族のために働いてきた中卒の私への、最後の言葉がこれだった。使い古したバッグを投げつけられ、離婚届を突きつけられた。だけど、彼女たちは知らなかった。私が退職後に、ある会社を立ち上げる計画を密かに進めていたことを。そして、その会社が今、順風満帆…

定年退職を迎えたその日、妻と娘がリビングでニヤニヤしながら私を見て言った。「あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は、出ていけ」。長年、家族のために働いてきた中卒の私への、最後の言葉がこれだった。使い古したバッグを投げつけられ、離婚届を突きつけられた。だけど、彼女たちは知らなかった。私が退職後に、ある会社を立ち上げる計画を密かに進めていたことを。そして、その会社が今、順風満帆...

真っ暗な玄関で、私の「ただいま」だけが虚しく響く。仕事でクタクタになって帰宅しても、妻の香りの姿も、娘のすみれの「お帰り」の一言もない。2人ともテレビに釘付けで、振り向きもしない。挨拶すら返してもらえない、透明人間のような扱いには、いつもがっかりさせられる。唯一、ペットの犬だけが尻尾を振って寄ってきた。娘がどうしても世話をするからと飼い始めた犬なのに、トイレの世話も散歩も、結局は全部私の役目だ。

私は誠。平日は建設会社の作業員として働き、休日は実家を継いだ兄の農業を手伝っている。もうすぐ定年を迎える、ごく普通の中年男性だ。ただ、昔実家が貧乏で進学が叶わず、最終学歴は中学校。つまり、中卒だ。

「夕飯、残ってるか?」

妻に声をかけると、妻はジロリと睨んで言った。

「今いいところなのに。冷蔵庫に何かあるでしょ? 勝手にチンして食べてちょうだい」

それだけ言うと、また韓流ドラマに熱中する。まだ返事をしてくれただけマシかもしれない。残業で遅くなった日は、家中の電気を消して寝ているし、朝は遅くまで起きてこないから、朝食を準備するのは私だ。

いつから、こうなってしまったんだろう。家族のためにずっとがむしゃらに働いてきたのに、その家族から見向きもされない。虚しさが込み上げてくる。

昔は、こんなではなかった。結婚当初、私が風邪で熱を出せば、妻は「大丈夫?」と心配して、優しく看病してくれて、お粥を作ってくれた。今では「私たちに移さないでね」と言うだけだ。妻にとっては、自分と娘が第一、次にペットの犬。私のことなど、二の次どころか、三の次で、犬の方が高級な餌を食べているかもしれない。それなのに、トイレの世話は「汚くて臭い」と私にやらせ、散歩も「日に焼けるのは嫌」と、妻も娘も行かないから、代わりに私が行っている。

冷蔵庫の残り物をそのまま食べた。レンジで温めても、味気なさは変わらない。

妻の香りとは、私の勤める建設会社の忘年会で知り合った。彼女は派遣コンパニオンの1人で、私は一目惚れだった。その場の勢いで告白し、結婚することになったが、香りにはバツイチで、まだ幼い娘のすみれがいた。相手の男が浮気をして、香りとすみれを残して出て行ってしまったらしい。私は香りに同情したし、連れ子のすみれのことも、大切にしようと決めた。

最初の何年かは、うまくいっていたと思う。すみれもよく懐いてくれて、本当の親子のようだったし、幸せだった。

ところが、結婚して3年目くらいだろうか。香りは徐々に隠していた本性を現してきた。

「私の給料じゃ足りない」

と言い出したのだ。中卒とはいえ肉体労働だから、収入はそれなりにある。重機の運転の資格も取ったし、真面目に働いているから、部下も何人もいる。それなのに、香りは言う。

「これっぽっちじゃ全然足りないわ。あんたみたいな中卒のおじさんの妻になってやったのよ。私をもっと贅沢させてくれなきゃダメ。あんたも、いつまでも妻が若くて綺麗な方がいいんでしょ。女は金がかかるんだから、しっかり稼いできなさいよ」

妻は自分が高卒だからと、中卒で年上の私を馬鹿にする。確かに私は5つも年上だ。だが、学生時代ならいざ知らず、いい大人になれば5つくらい誤差みたいなものだと思う。

「でも、土日は仕事を休んで、すみれと遊んでやりたいんだ」

と反論すると、香りは私を見下して言った。

「あのね、あんたみたいなおじさんと可愛いすみれが一緒にいたら、すぐ不審者として通報されるわよ」

そんなわけないだろう。親子なんだから。悔しさでいっぱいだった。私が言い返すと、今度は娘のすみれが、妻そっくりの顔で言い出した。

「おじさん、本当の父親じゃないし。日焼けして真っ黒で、ゴキブリみたいだから、一緒にいたくないの」

その言葉に、雷に打たれたようなショックを受けた。家族としてうまくいっていると思っていたのは、私だけだったのかもしれない。頭が真っ白になった。

後で分かったことだが、色黒で真っ黒な私が「貧乏臭い」と、妻がすみれに悪口を吹き込んでいたらしい。他にも「実の親じゃない」とか、色々と言っていたようだ。確かに、香りもすみれも色白の美人だ。私は外仕事で炎天下にいる。じりじりとした暑さに耐え、滝のような汗を流しながら、家族のために働いているのだ。真っ黒になるのは仕方がないのに。

「私たちのためにお金を稼いできてよ。それがあんたの仕事でしょ」

「『絶対に苦労はさせない。一生2人を養います』って言ったじゃない」

とどめのように、妻は私のプロポーズの言葉を持ち出した。私は唇を噛んだ。確かに、私は言った。そうやって約束して結婚したのは本当だ。でも、ちょっと話が違うだろう。

私はこの時、ようやく分かった。香りは、出会った当時、夫から逃げられ、いや、コンパニオンとして働いていたわけだ。私が一目惚れして告白したけれど、正直、香りのような美人が、私のような中卒の現場作業員と結婚してくれるはずがない。心のどこかで思っていた。でも、せっかく手に入れた生活が幸せすぎたから、気づかないふりをしていた。香りは一度も、私に「愛している」と言ってくれたことなどないのに。

香りが必要としていたのは、金づるとなる、都合のいい再婚相手。私を愛しているから結婚したわけではない。

あまりのショックで、この時私は離婚を考えた。何せ、まだ香りとの間に子供がいない。本当はすみれに妹か弟を作ってあげたかったが、今まで子宝に恵まれなかった。それもそのはず。香りからはあの手この手で夜の営みを断られ、気づけば夜の生活は全くなくなっていたし、私を見下す相手に頭を下げてまで関係を持ちたいとは思えなかった。

ある意味これはチャンスだ。結婚する時にすみれと養子縁組をしたが、実子ではない。自分が惚れて結婚した相手で一生責任を持つと誓ったものの、さすがに金づる扱いをされては辛いし、面白くない。ところが、弁護士に相談したら、「現状では難しい」と言われた。妻に浮気や不倫などの不貞行為があったわけじゃないし、この程度では重大な理由には当てはまらないという。

妻からのATM扱いは、重大な理由じゃないのか。私は弁護士事務所からの帰り道、珍しく居酒屋に寄り道し、焼酎の水割りを飲んで帰った。あまり記憶がないが、どうもこの時、私は妻から聞かれるまま、弁護士との話を喋ってしまったらしい。

「ふうん。そうなんだ」

という妻の声と、ニヤニヤとした嫌な笑顔だけが、記憶にこびりついた。

多分、それが決定的な出来事だったのかもしれない。私は離婚を諦め、ただ仕事に逃げた。仕事中は、仲間から人間扱いをしてもらえるし、がむしゃらに働けばそれなりに成果が出る。土日も家にいると妻と娘から文句を言われるので、実家の兄の農業を手伝うようになった。農家は人手と体力が勝負なところがあり、私は大歓迎されて、とても嬉しかった。

月日が経ち、すみれもすっかり大きくなって、ますます妻そっくりになっていく。見た目は色白で美人だけど、冷たい人間で、他人は自分に尽くして当然と思っている。私立の高校を卒業後は、ニートになった。妻と一緒に毎日が日曜日のような生活を送っていて、私とはほとんど口を利かず、目が合えば睨みつけてくる。誰のおかげで生活できると思っているのかと言ってやりたいけど、そんなことを言えば喧嘩になるから我慢だ。どうも婚活をしているようだが、理想が高すぎて誰も捕まえられないらしい。

定年退職が来月となったある日、妻から聞かれた。

「ねえ、あんた定年後も、もちろん再雇用してもらうのよね」

「いや、もう肉体労働は大変だからな。そろそろのんびり過ごしたいと思っているよ」

長年何もしない妻と娘を横目に、馬車馬のように休みもなく、何十年も仕事だけをしてきたのだ。少しは休みたい。

すると妻は、語気を変えて聞いてきた。

「はあ? 生活費はどうやって稼ぐつもり? あんた、まさかずっと家にいるつもりなの?」

実は定年後のある計画を立てていたのだが、私はとぼけて答えた。

「年金暮らしだっていいじゃないか。それなりに貯金はあるだろう。贅沢しなければ大丈夫さ」

「いやよ。ふざけないで。『一生贅沢させてあげる』って言ったじゃない。あんたなんて、金を稼ぐしか取り柄のない中卒男のくせに」

妻はヒステリーを起こして怒り出した。私は落ち着いてなだめる。

「なあ、香り。私ももう定年なんだ。仕事をやめてもいい年齢だぞ。そろそろ私にも休みをくれないか」

「冗談じゃないわ。あんたに休みなんて必要ないわよ。そんなことを言うんだったら、私にも考えがあるからね」

妻は私を睨みつけると、足音荒く出ていった。

それからまた数週間。先週、無事に定年退職した。リビングでくつろぐ私を、妻と娘が苦々しげに見ているのは知っていたが、自分の家だし、無視していたら、妻がご機嫌な様子で言った。

「すみれがね、婚活サイトで知り合った男の人と結婚できるかもしれないの。一流大学出身のイケメン社長よ」

私は特に何とも思わず、「それは良かったじゃないか。おめでとう」と返事をする。ずっとニートで寝かじりだった娘が、ようやく幸せを掴んだのだ。まあ、めでたいことだろう。

妻は私の反応に、言い放った。

「あんたも察しが悪いわね。だから中卒はダメなのよ」

驚いた私に向かって、妻はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべ、続けた。

「だからさ、あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は、出ていけ」

娘も一緒になって笑っている。

「あはは。ママも言うわね。ずっとおじさんが目障りだったのよ。すっきりした」

ATM扱いは分かっていたが、ショックだった。そうか。香りもすみれも、私のことをずっと金づるだと思っていたのか。少しも家族として愛していないのか。

「もちろん、初めからね」

私が聞くと、妻はあっさりと答え、離婚届を突きつけてきた。娘は「ほら、荷物まとめておいてやったから、中卒の不細工おじさんは出ていけ」と、私の使い古したバッグを投げつけてくる。

さすがに頭に来たが、私は冷静に答えた。

「お前たちの本性は分かった。離婚してやる」

これで養子縁組中の親子と縁が切れるのだ。良かったじゃないかと自分に言い聞かせる。

「ああ、これまであんたを支えてきたんだから、退職金は全部私たちがもらうわね」

妻が図々しく言ってきたが、いいだろう。

「弁護士を入れて、しっかり書面に残そう」

私は落ち着いて返事をする。

「もう二度と私たちの前に現れないでね。これからは赤の他人だから」

娘が言い、妻も同調する。

「本当、本当。これからセレブになるのに、あんたみたいな底辺とは関係を絶たなきゃ」

「じゃあ、あとは弁護士に任せるからな」

こうして私と妻は離婚。退職金を全額渡す代わりに、財産分与はなしという条件にした。離婚した以上、すみれとも養子縁組を解消。一緒に長年暮らして、小さい頃から我が子のように育ててきた。多少の情はあったが、本人から「赤の他人だ」と言われれば、もう無理だ。きっぱりと縁を切ろうと決めた。

それから数ヶ月後のことだ。香りから何件も電話がかかってきていた。嫌な予感がするが、折り返し電話をすると、香りが叫んでいた。

「あなた、私が悪かったわ。やり直しましょう」

聞いたこともない猫撫で声に、びっくりだ。

「あなたも本当に水臭いんだから。会社を起業したの? なんで教えてくれなかったのよ」

香りは、偶然町で兄嫁に会ったらしい。私は定年後のある計画のため、しばらく忙しく、兄のところへ手伝いに行けなかった。電話でわざわざ報告するのも嫌で、今度行った時にでも話をしようと、兄夫婦にはまだ離婚したことを伝えていなかった。町で兄嫁から声をかけられた香りは、私と離婚したと話したらしい。すると兄嫁が慌てて、「あ、あなた知らないの」と、私の近況を香りにばらしてしまったというわけだ。

「ねえ、なんで教えてくれなかったのよ。雑誌で取材されるくらい順調なんでしょ。会社の宣伝には、綺麗な社長夫人が必要でしょ」

実は、退職後に部下たちと会社を立ち上げたのだ。今、建設業界では農業参入に乗り出している。長引く不況と人口減少で大規模な公共事業もなく、建設業界は急激に規模を縮小中。そんな中、後継者不足に苦しむ農林水産業へ活路を見出す業者が増えた。2009年に農地法が改正され、農地を所有できる法人の要件が大幅に緩和されたこともある。私の務める建設会社もその1つだった。兄が専業農家なこともあって、私は会社の農業参入の手助けをしていた。会社の税理士や社長と相談して、定年後に少し休みをもらってリフレッシュしたら、農業法人として別会社を立ち上げ、その代表取締役として就任することが決まっていたのだ。

「すみれの婚約者はどうしたんだ? 新しいATMが見つかったから、離婚したはずだと思って」

それとなく聞いてみると、妻は怒りながら詳細を教えてくれた。

「あの男は、飛んだ詐欺師よ。結婚詐欺だったのよ」

なんと、一流大学卒業という経歴は全くの嘘。急遽事業資金が必要だとか、絶対に儲かる話があるんだとか、色々と言われて、結局私の退職金を全て騙し取られたそうだ。そして、すでに連絡がつかないらしい。自業自得すぎて、私は笑ってしまいそうだ。

「悪いが、再婚する気はない」

私が宣言すると、香りは言った。

「じゃあ、追加でお金をちょうだいよ。生活費が必要なのよ」

上戸の川が暑いとは、このことだろう。私は呆れながらも、穏やかに言った。

「ちゃんと書面を交わしたじゃないか。もう私たちは他人なんだ。なんで赤の他人にお金を恵まなきゃならないんだ」

香りは黙り込む。私は続けた。

「香り。お前もすみれも、健康で十分働けるじゃないか。自分の人生、しっかり稼いで責任を取りなさい」

とさとす。すると香りは逆切れした。

「ふざけんな。定年まで一緒にいてあげたんだから、もっとお金をよこしなさいよ。この中卒男」

そうか。その中卒男に今まで養ってもらったのにな。感謝の心すらないんだな。

「じゃあ、私の家から出て行ってもらおう。それから慰謝料請求するからな」

「はあ? 家って、私がもらったわよね。慰謝料って何よ」

妻が動揺して叫ぶが、実は弁護士さんから言われていたのだ。妻と娘の長年の言動は、間違いなくモラハラ。あの時はまだ3年目で初めて言われたから難しかったが、今ならもう立派な離婚の理由になるし、慰謝料も請求できる、と。だから私は、もしまた妻が何か言ってきたら、今度こそ完全に妻に復讐してやろうと考えていたのだ。

「あの家は、財産分与には入っていないし、私の名義だ。住む場所がないと困ると思っていたが、余計なお世話だったな」

「え、ちょっと待ってよ。困るわ」

妻は急に弱気になったが、結局一言も謝罪の言葉がない。香りは、その程度の人間なのだ。

「もう遅い。元々ボロかったし、どうせいらない家なんだ。私は別のアパートで暮らしているからな。売りに出すから、近日中に出て行ってくれ」

私は電話を切った。

その後、離婚の時に依頼した弁護士に頼んで、香りには慰謝料も請求。弁護士さんが熱心な人で、「慰謝料の逃げ得は許しませんから」と受けてくれて、安心している。家も無事に売れた。2人はしぶしぶ出ていき、ペットの犬は「いらない」と私に押し付けてきた。私がいないため長い間散歩にも行っていなかったようで、私を見ると大喜びですり寄ってくる。

「お前だけだよ。これからは私が一生、ちゃんと世話をしてやるからな」

この犬のように、普通に家族として楽しく暮らせたら良かったのにと思うと少し残念だが、2人の自業自得だ。香りはずっと専業主婦で、働いた経験もほぼない。すみれも高校卒業後は「家事手伝い」という名前のニートだ。これからの生活は大変だろうが、もう他人だし、私の知ったことではない。

今は社長として、責任のある身だ。私を慕ってついてきてくれた若い部下には、妻や子がいる者も多い。部下たちのためにも、第2の人生、頑張っていこう。

「私、お寿司屋さんになる」

それは、幼い頃の私の言葉だ。父は寿司職人で店を持っていて、母も一緒に手伝っていた。私は寿司職人に憧れていたけど、それを知らない父は「女は寿司職人になれない。娘もなりたくないだろう」と諦めていたらしい。だから「女の子がお寿司屋さんじゃ行けないの?」という私に、父は驚きながらも喜んだという。後に母から「父が、あの時本当に嬉しそうな顔をしていた」と聞いて、私は幼い頃の自分を褒めてあげたくなった。

私の名前は泉。36歳の寿司職人だ。職業のことを言うと、「女なのに寿司職人なんて」と言われることが多々ある。私の父も、私が寿司職人になりたいと言った時には心配したらしい。でも私は父に憧れていたし、一人っ子の私は、いずれ父の店を継ぎたいと昔から思っていた。父に包丁の技術を教えてもらい、料理学校にも通い、他の店でも修業もした。そして5年前から、私は父の店で寿司職人として働いている。

そんな私は、以前から付き合っていた人と結婚した。夫の浩は、私が修業をしていたお店で働いている。修業している頃から同い年で、話が合い、息が合って結婚した。浩とは仲良くやっているんだけど、近距離別居のお母さんが、ちょっと難物。

お母さんに過保護に育てられてきた浩は、お母さんの言うことは絶対という節があって、ほとんど言いなりだ。結婚式の時も、私は自分で探した結婚式場で挙げたかったのに、「そんな新しい式場じゃなくて、昔からある伝統的な式場で挙げなさい」とお母さんが口を出し、結局、私の反対も虚しく、そこで式を挙げることになってしまった。その恨みは、何年経っても忘れられない。その一件で、お母さんのことを嫌いになってしまったので、私は最低限の付き合いをしていたけど、住んでいるところが近いだけに、何かと口を出して浩に会いに来る。3年前にお父さんが亡くなってから、一人でいるのが寂しいのか、家に来る回数が増え、正直私は迷惑している。浩に言ったこともあるけど、「そのうち慣れるよ」なんて言って、軽くかわされてしまう。まあ、連れ添っていたお父さんが亡くなったんだから、一人息子の顔を見たくなるのも分かる気もするし、いずれ落ち着くかな、なんて思ったまま、3年が経ってしまった。

そして、事件は起こった。

ある日、買い出しに行った父の車が事故に巻き込まれ、父が突然、亡くなってしまったのだ。私も母も、悲しみが大きすぎて、しばらく立ち直れなかった。浩も心配して、「お店どうする? 俺が手伝おうか?」と言ってきてくれた。確かに、母が手伝ってくれているとはいえ、職人が私一人というのは負担が重い。母とも相談して、浩にも手伝ってもらうことになった。

几帳面な父は、自分に何かあった時のためにと遺言を残していたようで、お店の常連さんでもある弁護士さんが、父が亡くなってからしばらくして、それを持ってきた。弁護士さんが言うには、父は遺言書を毎年見直していたそうだ。何かあった時、母と私が困らないようにと気にしていたらしい。その遺言書には、「実家は母に、店は私に相続させる」と書いてある。それから私には、この店をどうしていきたいかを綴った手紙が渡された。心配性の父がやりそうなことだ。私と母は、そう言い合って、父が亡くなってからようやく笑うことができた。

父がいなくなって、浩に手伝ってもらうようになり、なんとか店を開けていたけど、ここで問題が起こる。店は私が相続したもので、浩はあくまで手伝いだけど、事情を知らない新規の客は、男が板前だと思うのが普通。そのせいか、浩はどんどん態度が大きくなった。浩の握った寿司を出すと、昔からの常連さんが「あれ?」という顔をしたのも、私は見ている。このままではお客さんにも申し訳ないし、浩のためにも良くない。私は思い切って、浩に話すことにした。

家に帰って、私は浩に「話がある」と言った。

「なんだよ、そんな深刻な顔して」

板前の浩は笑いながら、私の対面に座る。

「言いにくいんだけど、お店のことで話があるの」

そう言うと、さすがの浩も真面目な話だと思ったらしく、神妙な顔で話を聞き始めた。

「最近の浩、ちょっと仕事が雑になってきてるよね。あの店には、お父さんが大事にしてきた常連さんが今もたくさん来てくれているし、もう少しちゃんとして欲しいんだけど」

すると浩が、珍しく沈痛な顔になり、考え込んだ。その時、インターホンが鳴り、誰かと思ったら、お母さんだった。

「後で来てもらってよ。大事な話の最中なんだから」

私はそう言ったけど、玄関に行った浩は、お母さんを連れて中に入ってきた。私はため息をつく。するとお母さんが、私を睨みつけた。

「これからのお店のことを話してたんですって? だったら、私が同席しても構わないわよね」

「はあ?」

私はお母さんの言っている意味が分からず、聞き返した。

「だって、大事な息子のお店のことよ。母親の私も知っておいた方がいいでしょう」

そう言ってテーブルに座り、お茶を要求し始める。どんな神経してるんだろう。私は頭を抱えながら、放っておくと騒ぐお母さんに、しぶしぶお茶を入れて持っていく。すると、そのお茶を飲んだお母さんは、突然喋り出した。

「あのお店、古臭いのよね。あんなんじゃ、この先大変よ。もっと時代の波に乗らないと。泉さんのご両親は世代が古いから仕方ないけど、あんなお店、新しいお客さんがつかないでしょう。これからは、映えるお寿司で話題性を作らないとダメよ。カリフォルニアロールとか、絶対映えるわよ」

「え、カリフォルニアロールって?」

私は露骨に嫌な顔をしてしまったけど、お母さんはそんなことにも気づかない。私は両親の年の差でできた子で、私の両親と浩のお母さんの年齢は、一回り離れている。それに、若作りが好きで流行り物が好きなお母さんとは、圧倒的に感覚が合わない。私もどちらかと言うと伝統を大事にしたいので、今は父の店を守ることにしている。だから、お母さんの考えは、うちの店にはいらない。

それなのに、お母さんは一人でペラペラと喋り出す。

「この際、泉さんのお母さんには引退してもらって、私がお店に立とうかしら。お客さんからは『若女将』なんて呼ばれちゃうかもね」

若女神って、自分は若いって言いたいのかな? 私には、お母さんがもはや何を言っているのか分からなくなってきた。ふと浩を見ると、何やら考え込んでいるようだ。そして一通り自分の思いを語ったらしいお母さんは、浩に話しかける。

「ねえ、いい考えでしょ。浩が板前なんだから、あなたの好きにしたらいいのよ。今までの古臭い伝統を守っていくのか、新しいお店にして繁盛させていくのか。答えは簡単じゃない」

すると浩は、頷いてしまった。

「そうだな。今後、あの店は俺と母さんで仕切るよ。泉は従業員としてついてくればいいから」

「はあ?」

いきなり上から目線になった浩に怒りを感じたが、浩は止まらない。

「嫌なら、出ていけよ」

完全にお母さんに支配されてしまったようだ。板前と言われて、天狗になってしまったんだろう。浩が自分の店を持つのが夢だということは知っていた。父が亡くなった時、手伝ってくれると言ったのは浩の優しさだっただろうし、本心だったはず。でも、お母さんが「あの店は浩のもの」とよく言っていたのも知っている。お母さんは、浩が私の父から遺言で店を相続したと勘違いしているようだ。浩はきっと、そう言われていくうちに、その気になってしまったんだ。まさかこんなことを言うとは思っていなかったから、もっと早く浩と話をするべきだった。後悔だけが押し寄せる。

その間も、お母さんは私に圧をかけてくる。

「ほら、泉さん。浩がこう言ってるのよ。どうするの?」

そこで私は、一気に色々なものが吹っ切れて、笑顔になる。

「分かりました。喜んで。ただ、あの店の名義は私になっているので、買い取ってもらう形になりますよ」

そう言うと、浩は慌てて言った。

「買い取り? 俺、そんな大金なんて持ってないよ」

ここで浩が我に返ってくれるかと思ったけど、お母さんがまたしゃしゃり出てきた。

「大丈夫よ。お父さんの遺産がまだあるもの。あの店は立地もいいし、もっと売上が上がるんだから、1000万くらいでどうかしら」

お父さん、中小企業とはいえ役員だったしな。相当な資産があったんだな。なんて思いながら、私はお母さんに言った。

「一度、話を整理させてください。契約書を作って、きちんとさせましょう。私は一度実家に帰って、母に報告してきます。1週間時間をください。連絡しますから」

として、大急ぎで必要なものをバックに詰め込んで、実家に戻った。実家に戻って母に話をすると、母は驚いて悲しんだけど、私の計画を聞くと、少し嬉しそうな顔をする。そこから1週間、私は弁護士事務所に行ったり、不動産会社を訪ねたり、とにかく大忙しだった。

1週間後、私は契約書を持って、弁護士さんと一緒に浩の元へ戻ると、案の定、お母さんも同席している。そして、父から相続したあの店は、浩に譲渡する形になった。契約を交わすと、私は引っ越し業者を呼び、自分の荷物を運び出す。驚いている浩に向かって、私は離婚届を突きつけた。

「え、離婚?」

「『嫌なら出ていけ』って言ったよね。こういうことでしょ」

戸惑う浩に、またお母さんが言った。

「怖い嫁ね。浩には、もっと若くて可愛い子を結婚させるわ。さっさと離婚して、出ていきなさいよ」

このお母さんは、本当に私のことが嫌いだな。まあ、私も嫌いだし。これで縁が切れると思うと、清々する。浩のことは好きだったけど、お母さんと縁が切れることはないだろうし、こんな状態じゃ、この先やっていけない。店を乗っ取られると思った時に、私は離婚を決めた。

浩はまた、お母さんに言われる形で、離婚届にハンコを押す。こんなに情けない人だとは思わなかったな。私は悲しい気持ちで、その場を立ち去った。

それから1ヶ月。私は再び、寿司屋の店主として、店をオープンさせた。あの1週間で、私は父の遺言書を保管してくれていた弁護士さんに相談し、「1000万円ならあの店の相場以上だし、譲渡するなら契約書を作成します」と言ってくれて、それを頼んだ。そして、元々父から言われていたことを実行に移す。

遺言書と一緒にもらった手紙の中には、こう書かれていた。

「これからは、伝統だけでなく、新しい時代の流れも取り入れていかないと、この店はやっていけなくなるだろう。泉の思うようにやりなさい。そして、この店だとお客さんも限られるから、ここを売って、新しい土地で新規一転するのもいい。そこからは、泉の責任で頑張りなさい」

父が亡くなった直後は、あの店を守ることをまず第一に考えたけど、きっと今が、私の責任で頑張る時なんだと理解し、お店の常連さんで、父の親友が社長である不動産会社に足を運んだ。生前、父からその話を聞いていて、「その時は力になって欲しい」と言われていたと、社長自ら物件を探してくれた。内装は、そこから紹介してもらった工務店にお願いしたけど、そこの社長もお店の常連さんだった。私は修業に必死で、あまりお客さんの話を父から聞いたことがなかったけど、どうやら色々な人に慕われていて、広い人脈を持っていたようだ。皆が私に協力してくれて、私は新しい店をオープンさせることができた。

今までよりもテーブル席を増やし、お子様メニューも作り、家族連れを誘致。するとこれが大当たりで、「手頃な値段で本格的な寿司を家族で楽しめる」とインターネットの口コミでも話題になり、昼間や夕方はファミリー層、夜は昔からの常連さんや仕事帰りのサラリーマン、といった風に時間帯でターゲットが分けられて、なかなか評判になっていった。

すると、ある日、お店を開けようとしていると、店先で声をかけられた。顔を上げると、そこには浩の姿がある。

「泉、俺たち、やり直さないか?」

「はあ」

抜け抜けとそんなことを言う浩に、私はため息が出る。あれからずっと連絡もなかったのに、今更何なの?

「泉がいなくなって、初めてその大切さに気づいたって言うか。とにかく、俺が間違ってたから、戻ってきて欲しいんだ」

よく聞く当たり障りのないセリフを言う浩に、私は呆れてしまった。

「お母さんに、そうやって言えって言われたの?」

図星だったのか、浩は視線を泳がせる。

「お店、全然お客さん来ないんだって。常連さんが言ってたわよ。好奇心で覗いてみたら、メニューはガラっと変わっていて、伝統とはかけ離れた創作寿司が並んでたって。見た目は奇抜だけど、味は美味しくない。何もかも値段が高いし、もう行きたくないって言ってたわ。創作寿司って、難しいのよね」

言うと、浩は反論してきた。

「あれは、母さんの案なんだ。俺はやめようって言ったんだけど、母さんが作ろうって。それに、母さんは接客なんてしたことがないから、お客さんに敬語は使えないし、料理の出し方も雑。でも、買い取ったお金を出したのは母さんだから、何も言えなくて」

だんだん弱気になっていく浩を見て、私は笑えてきた。

「あのお母さんが接客なんて、無理でしょう。もてなされることしか考えてないんだし。誰かをもてなしているところ、見たことある? それに、お母さんの料理、申し訳ないけど、美味しいなんて思ったこと一度もないわ。そんな人の提案する料理が、まともなわけないでしょ。私はこうなること、分かってたけどね」

「分かってたなら、どうして止めてくれなかったんだよ」

「どうして止めなきゃいけないのよ。妻より母親を取るんだから、私が助ける義理なんてないわよ。板前って言われて天狗になって、私を追い出したのは浩でしょ。自業自得よ」

私と浩が言い争っていると、どこからともなくお母さんが出てきた。神出鬼没とはこのことだ。一体どこまで邪魔をすれば気が済むんだろう。

「泉さん、この店、繁盛してるらしいじゃない。私たちがここを手伝ってあげるわ。一人じゃ大変でしょう」

今までは義理の母だったから、言いたいことは我慢していたけど、今では他人。我慢することはない。私は今までの鬱憤を晴らすかのように言ってやった。

「あら、あれだけ大きな口を叩いたんだから、あの店、繁盛してるんですよね? 『若女将』としておもてなししてるんですよね?」

そう言うと、お母さんは黙って私を睨みつけてきたので、私も睨み返した。

「あなたの手伝いなんて要りません。料理の出し方も雑だし、お客様に敬語を使えないなんて問題です。自分の店が潰れそうだから、今度はまた私の店を乗っ取りに来たんですか? でも、もう買い取れる資金もないですものね。1000万なんてすぐに回収できるって言ってたそうですけど、実際には赤字だらけじゃないんですか? 早くなんとかしないと、生活できなくなりますよ」

そこまで言うと、ようやく言い返さなくなったお母さんに、私は笑いが込み上げてきた。

「せいぜい、仲良く親子で頑張ってください。あの店の常連さんたちは、今では私の店の常連さんなんです。もう、あなたたちの店に行くことはないと思いますよ。ほら、帰って」

反論する気力を失ったのか、浩とお母さんは、うなだれて帰って行った。

ほどなくして、浩の店は閉店。借金だけが残り、実家も売りに出した。古いアパートに引っ越し、お母さんは文句を言っているらしいけど、そこで初めて浩に怒られ、しぶしぶパートに出ているという。浩は別の店で働き始めたけど、この狭い業界だから悪評が広がっていて、かなり辛く当たられているらしい。

私はと言うと、料理学校時代の女の後輩を弟子にして、数少ない女性寿司職人の店として、メディアの取材にも応じている。伝統を大事にしながら、男社会のこの業界に新しい風を吹かせるべく、日々奮闘している。忙しいけど、充実していて楽しい毎日だ。

私の名前は早希子。31歳の会社員だ。夫の祐介とは、高校時代の同級生で、同窓会をきっかけに付き合うようになった。当時は知らなかったけど、実は彼の父親は地元企業の社長で、結婚の挨拶に行く時は、人生で一番と言っていいほど緊張した。

大きな家の玄関を上がると、お母さんが迎えてくれたが、お母さんはとても厳しそうな人で、私の前では一切笑わない。昔は経理の仕事をしていたそうだ。お父さんもそうなのかと思ったけど、リビングに通されて挨拶をすると、とても穏やかな人だった。祐介がお父さんと話をしていると、時々「大学は?」「ご両親はきちんとしたお嬢さんなのよね」と、お母さんの鋭い突っ込みが飛んできたけど、祐介やお父さんがフォローしてくれて、なんとか結婚の挨拶も無事に終わった。

新居は、義実家の近くにマンションを借りる。ゆくゆくは一軒家を買いたいけど、両親には頼りたくないという祐介の意向で、私もそのつもりで働いている。結婚生活は、うまくいっていた。

だけど、ある日、私が一人で義実家に行く用事ができてから、思い描いていた生活とはかけ離れていった。

「早希子、ごめん。父さんに渡す書類が、俺の部屋にあるんだ。必要になったらしいんだけど、実家に届けてもらえないか?」

祐介はお父さんの会社で働いている。休日出勤していた彼から電話があり、私はそれをお父さんのところへ届けることになった。日はもう夕方。中に届けないといけないらしく、私は書類を持って、すぐに実家に向かう。

義実家のインターホンを鳴らすと、出かける準備をしているお父さんがいて、言った。

「おお、早希子さん。助かったよ。私はこれから出るけど、夕飯でも食べてから帰りなさい」

そう言って私を家の中に招き入れると、お父さんは書類を持って出ていった。中には、お母さんがいる。私はこのお母さんがやっぱり苦手で、できれば二人きりにはなりたくない。挨拶だけ済ませて、夕飯は遠慮して帰ろうとしたが、お母さんが言った。

「ふうん。夕飯ね。お寿司でも取ろうかしら。祐介は、もう仕事終わりそうなの?」

確か、祐介の帰りはもう少し遅くなると言っていた。これを伝えると、お母さんはどこかに電話をかける。

「お寿司を頼んだから、祐介に持って帰ってちょうだい」

そう言われ、私は頷いた。

「いつまで、そんなところにいるの? あなたは、礼儀がなってないわね」

どうしていいか分からずに玄関にいた私に、いきなりお母さんが怒り始める。

「ああ、すみません」

思わず頭を下げて靴を脱ぎ、慌てて玄関を上がり、「あ、何かお手伝いすることありますか?」と聞いた。お母さんは、明らかに見下した表情でため息をつく。

「ふう。指示がないと何もできないのね。私が働いている時なんて、そんなんじゃ仕事にならなかったわよ」

お母さんは仕事に厳しい人だったようだから、こう言われるのも仕方ないかもしれない。でも、義実家に来ることもあまりなかったから、何をどうしていいのか見当もつかない。そう思いながら部屋を見回すと、洗っていない食器が少しだけあった。

「あ、私、食器、洗えますね」

そう言って流し台に向かうと、お母さんに止められた。

「あなた、エプロンはどうしてそれくらい持ってこないの? それに、その食器、いくらすると思ってるの? あんたなんかに、扱えるものじゃないのよ」

書類を届けに来ただけなのに。どうしてエプロンを持ってこないといけないのか。腑に落ちない気持ちが、顔に出てしまう。

「なんなの、その顔は。私の言うことに、文句があるの?」

「あ、すみません。そういうつもりじゃ」

そこまで言うと、インターホンが鳴った。頼んだお寿司が届いたようだ。お茶が2つと、寿司が1つ。お父さんの分はいいのかな、と私はその数に思わず首をかしげる。お母さんとの会話を聞くと、どうやらお寿司屋さんの大将が、わざわざ配達役をしてくれたらしい。優しそうな大将は、私に気づくと会釈をする。私もそれに合わせて頭を下げたが、お母さんとしては会釈だけでは足りなかったようだ。

「はあ、すみません。常識のない嫁で」

お母さんが私を睨みつけてくる。私が挨拶をすると、「あ、またよろしくお願いします」と大将は帰って行った。お重を受け取って、テーブルに運ぶ。するとお母さんは、寿司桶を渡してきた。

「祐介に、食べさせてちょうだい」

「ありがとうございます」

地元では有名なお寿司屋さんだけど、値段が張るので、私は食べたことがない。こんなチャンス、滅多にないと喜んだのも束の間。お母さんは、私を見下したような顔で見てくる。

「もちろん、祐介だけよ。あなたは、嫁には来たけど、家族だなんて認めてないわ。でも、この子に言ったら、承知しないからね。あなたは、うちで食べてから帰ったことになさい」

言っていることがあまりにも理解できなくて、何も言えなかった。でも、お母さんは寿司を渡してきて、「いいわね」と言って、私を家から追い出した。

祐介に言うべきか、私は悩んだ。でも、祐介とお母さんの関係性を私が悪くしてしまっては申し訳ないし、お父さんの会社で祐介が働いている以上、義実家との関係を壊すわけにもいかない。私はコンビニでおにぎりを買って、家に帰った。

仕事を終えて帰ってきた祐介に、書類を届けたことへのお礼を言われる。

「これ、お母さんから」

そう言って私が寿司を差し出すと、祐介は目を輝かせた。

「お寿司! ありがとう!」

子供のように喜ぶ祐介。でも、次の瞬間に顔が曇る。

「あ、あれ? でも、一つ、早希子の分は?」

その問いに、私は反射的に言った。

「あ、私は、お母さんと一緒に頂いたから、大丈夫」

「あ、そっか。後で、母さんにも連絡しとくわ」

祐介は安心した顔で、寿司を開ける。いいな。美味しそうだな。これ以上見ていると、思わずさっきのことを言ってしまいそうなので、私は家事をするふりをして別の場所へ行った。

それから1ヶ月後、私は急にお母さんから呼び出される。なぜか車で来るように言われ、嫌な予感がしながらも、車で向かった。

「もう、遅いわよ。ちょっとデパートまで行きたいの。乗せていってちょうだい」

呼び出されてから15分ほどで着いたのに、遅いと言われてしまった。デパートって、車でも片道30分くらいかかるんだけどな。その間、お母さんと車内で二人きりなんて、ちょっと憂鬱。でも、来てしまったから仕方ない。私が助手席のドアを開けると、お母さんは首を振った。

「私を、後ろに座らせる気?」

後ろ、って、この状況で言う? 呼び出しているのはそっちなのに。私はふつふつと不満が込み上げたけど、助手席のドアを閉めて、お母さんを後部座席に案内した。送迎と荷物持ちをさせられて、帰りには「あのお寿司屋さんによるように」と指示される。車で待っていると、当然のように寿司を3つ持って戻ってきた。義実家について荷物を下ろすと、お母さんは寿司を1つ持ってくる。

「これ、祐介に」

こんなに人を働かせておいて、ありがとうの一言もないどころか、私へのお駄賃もないのか。私は寿司を受け取って、ため息をつきながら家に帰った。すると、祐介がすでに帰っていて、「遅かったね。どうしたの?」と心配してくる。私はなんとか笑顔を作った。

「あ、お母さんがデパートに行きたいって言うから、車を出して、一緒に行ってきたの。あ、これ、お母さんから」

「あ、そうなんだ。ありがとう。早希子が母さんと仲良くやってくれて、よかったよ」

その言葉に、私は引きつった笑顔しかできなかった。

それから数ヶ月、同じようなことが続く。呼び出されては、家事を押し付けられたり、荷物運びをさせられたり、その日の帰りは決まって、祐介だけに寿司を渡される。これは、立派な嫁いびりだと思う。だけど、口が避けても、そんなことは言えない。

ある日、私はまた、義実家に呼び出された。お昼時に電話が来たので、ご飯も食べずに、慌てて家を出る。すると、義実家には珍しく、お父さんもいて、お寿司を食べながら仕事をしていた。今日、祐介は休日出勤をしている。お母さんが私を呼びつける時は、決まって祐介のいない時だ。私の訪問に驚いたお父さんが声をかけてくれるけど、それをお母さんが遮った。

「ああ、早希子さんとは、これからお買い物に行くのよ」

え、そんなことを聞いてませんけど。とは言えず、お父さんの背中越しから飛んでくるお母さんの鋭い視線から目をそらし、頷いた。

「ああ、そうだったのか。私はこれから仕事に出てしまうから、よろしく頼んだよ」

そう言って、お父さんはお寿司を食べ終えると、仕事に出てしまった。そこに残ったのは、空になったお寿司のお重が2つ。私が何をしたらいいのか、立ち尽くしていると、お母さんが怒鳴ってくる。

「何してるの? その寿司、返してきなさい。ついでに、この買い物もしてきてちょうだい」

そう言って、メモを渡してくる。そこには、「お米5kg」や「牛乳」「味噌」など、明らかに重いものばかりだ。

「え、こ、これを、一人で?」

「そうよ。何か文句ある?」

ギロリと睨まれて、私はしぶしぶ首を横に振り、寿司桶を持って義実家を出た。お寿司屋さんについて、中に入ると大将がいたので、寿司を返しに来たことを伝える。

「ああ、お嫁さんが来てくれたのか。今日は人手不足で取りに行けなくて、申し訳ない。寿司は美味しかったか?」

そう言われ、私は言葉に詰まってしまう。それを見た大将は、心配そうな顔をした。

「ああ、もしかして、寿司が苦手なのか? そういう人もいるからな。気にすることないよ」

優しそうな目を見て、私は涙腺が緩んでしまう。慌てる大将。

「あ、すみません。お母さんが、『嫁は家族じゃない』というので、いつも見るだけです。ここのお寿司は、一貫も食べたことがありません」

私は、ついにそれを言ってしまった。

「おい、なんだって?」

大将は、先ほどまでとは態度が変わり、大きな声を出す。それを聞いて、私はこの人がお母さんと親しく話していたところを思い出し、「この人はお母さんの味方だった。まずいことを言ってしまった」と思った。大将は、矢継ぎ早に私に問う。

「いつも『旦那が好きだって』言うんで、寿司桶を頼んでただろう。『旦那は下戸だから、今日は嫁と食べて。息子には寿司を持たせる』って、よく言ってたぞ。今日だって、『嫁と買い物に出かけるから、先に腹ごしらえするんだ』って」

これ以上余計なことは言わずに帰ろうと思ったけど、こう質問されてはごまかしきれない。

「それは、多分、お父さんとお母さんの分です。私の主人への寿司は本当ですけど、『嫁の分際で、こんな高級寿司を食べようとしているのか』って、私はお母さんと一緒に食べたことにさせられていました」

「じゃあ、あそこの旦那も、祐介君も、そのことは知らないっていうのか」

私は、こくんと頷いた。

「どうして、何も言わないんだ」

「主人は、お父さんの会社で働いていますし、それを言って、実家との関係がこじれてしまったら困ります」

色々な思いが溢れて、私の目からは涙がこぼれた。すると大将は、優しく笑う。

「ああ、そうか、そうか。でも、大丈夫だ。あそこらの旦那も、祐介君も、そんなことでどうにかなる男じゃない。もしかして、お嫁さんは、お昼食べてないのか? だったら、今握ってやるから、食べていきな」

「あ、だ、でも、お母さんに買い物を頼まれていて」

そう言うと、大将は買い物の内容を聞いて驚き、呆れたようにため息をついた。

「ああ、そんなの、断ればいいんだよ」

「あ、まあ、そういうわけにもいかないか」

私はまた頷いて、大将に頭を下げて、お寿司屋さんを後にした。なんとか重い荷物を持って、義実家に戻ると、お母さんが仏頂面で待っていた。

「遅かったじゃない。何してたのよ」

「すみません。ちょっと時間がかかっちゃって」

「本当に使えない嫁ね。あなたっていつもそう。さっさと祐介と離婚して、出ていけばいいのに」

まだまだ文句が続きそうな雰囲気だったけど、突然、お母さんの言葉が途切れた。ちょうどその時、玄関のドアが開いて、祐介が入ってきたのだ。その後ろには、お父さんの姿もある。

「母さん、どういうことだ?」

祐介がお母さんに詰め寄ると、お母さんはごまかし始めた。

「あ、何のことよ。私は何もしてないわよ」

でも、今の言葉が聞こえてしまっているのに、ごまかせるはずがない。それよりも、どうして二人がここへ? そう思っていると、お父さんが口を開いた。

「寿司屋の大将から、全部聞いたぞ。だから、祐介と一緒に帰ってきたんだ。部下には厳しいお前だったが、仕事の上では筋が通っていた。でも、これはただの嫁いびりだろ」

普段のお父さんからは想像ができない、厳しい口調だ。お母さんは私を睨みつけるが、私はもう隠す必要がなくなった。

「今だって、私は一口も食べていない寿司を置きに行かされて、これ、買ってこいって言われたんです」

そう言って、買ってきた荷物とメモを見せた。しかもメモには、ご丁寧に「無能な嫁でも、買い物くらいはきちんとしてくるように」と、お母さんの字で書かれている。これを見た時には驚いたけど、まさかこれが嫁いびりの証拠になるとは思っていなかった。

「それに、いつもお寿司はこちらで頂いたことにして、祐介の分だけ寿司を持たされていました。お父さんには、寿司を2人分持たせたと言っていたそうですが、私はお寿司を一口も食べたことはありません。でも、それを祐介に言うなと、口止めされていました。私は、祐介とお父さんやお母さんとの関係が悪くなるのが嫌で、黙っているしかなかったんです」

すると、お母さんは笑いながら反論した。

「あらやだ。そんなの、冗談じゃない。寿司は、2人で食べると思って持たせたわよ。当然じゃない」

そこに、祐介が口を挟んだ。

「でも、お礼の電話をした時、早希子は『実家で食べたから』って言ってたよな」

「あ、それは…」

お母さんは、しどろもどろになる。私はそれを見て、笑顔で言った。

「仕方ありませんよね、私。嫁の分際ですし、家族ではないんですものね。お母さんに言われた通り、祐介とは離婚しないといけないかもしれませんね」

祐介とは離婚なんてしたくありませんでしたけど、お母さんの急な呼び出しや嫁いびりに耐えるのも、重い荷物を持たされるのも、そろそろやめにしたいです。今までのお母さんの行いを暴露してやると、お母さんの顔色は、青く変わっていく。

そのタイミングで、インターホンが鳴った。そこには、お寿司屋さんの大将が立っている。

「ああ、これ、お嫁さんが食べてくれよ。俺からのサービスだ」

そう言って、とても一人前とは思えない量が入った寿司桶を置いて、去っていった。次の瞬間、お父さんが口を開く。

「ああ、祐介。お茶だ。早希子さんに、お茶を入れてやれ」

それに頷いた祐介は、私の手を引いてテーブルに座らせ、お茶の用意をしてくれた。お父さんは、私の前に寿司桶を置いてくれる。お母さんは玄関で立ち尽くしていたけど、誰も相手にせず、そのうち2階に消えてしまった。

初めてのお寿司に大興奮の私。とても食べきれないと思っていた量の、ほとんどを食べてしまった。お母さんは、誰も自分の機嫌を取りに2階へやってこないので、怒ってまた私たちのところへやってくる。そして、お父さんに向かって、単価を切った。

「あなたは、どっちの味方をするのよ。あの子の味方をするなら、離婚よ」

しかし、お父さんは、あっさりそれに了承した。でも、お父さんの母親は昔、ひどい嫁いびりに会っていたので、お母さんと結婚する時に、「もし息子ができて、お嫁さんが来た時、嫁いびりをするようなら、即離婚だ」と念押しをしたらしい。お母さんは当てが外れたのか、絶望したような顔をしたけど、お父さんはさっさと離婚の準備を始める。私は、お母さんの財産分与の中から、嫁いびりの慰謝料としてお金をもらった。

お母さんは、本当に離婚され、家を追い出された。お金に困って、経理の経験を生かして就職活動をしているけど、「今はパソコンもできないと仕事にならない」と言われ、就職できないそうだ。

私はこの度、めでたく妊娠し、それを機に退職。祐介は「男の子か、女の子か」と言いながら、日々名前を考えているし、お父さんも初孫が楽しみだそうで、デレデレになりながらベビーグッズを買ってきてくれる。これからの生活が楽しみだ。

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