ある秋の日のこと、江戸は深川に「権門が二人の息子を呼び寄せ、兄の安五郎には蔵番をどっさり渡したが、弟の九蔵には年老いた父親一人を引き取らせるだけだ」という噂が、たった一日で町中に広まりました。
「長年連れ添った女房を亡くし、店も潰した年寄りの考えることなど誰にも分からないさ。」
「それにしたってあんまりじゃないか。蔵番も何もかも本家にあって、可哀想に弟嫁は年寄り一人の世話を押し付けられるんだからね。」
町の者は誰もがお杉に同情し、中には涙を浮かべる者もおりました。しかし、その取り決めが二人の嫁の運命をすっかり変えてしまうことを、果たして誰が知っていたのでしょうか。
時は少しばかり遡ります。深川という町は、堀割に船の影が映り、朝夕に木の音が響く賑やかな町でございました。その片隅に、権門の古びた住まいがありました。江戸は深川の裏通りにある、屋根板が所々剥がれた古い平屋で、権門はそこで一人暮らしをしておりました。
妻のおは十二年前に流行病で亡くなり、権門が長年営んでいた店は、十年前の大きな商いの取り違いで大きく傾き、今では見る影もございません。かつては深川でも名の知れた問屋で、店先には諸国の絹が積み上げられ、奉公人も抱えておりました。それが同業の仲間に騙され、預けた品を一夜にして失うという難に遭い、店を畳んで十年。今では継ぎだらけの着物をまとい、一人で日を送る身の上でございました。
二人の息子はそれぞれ嫁を迎え、別に世帯を構えておりました。長男の安五郎は、父の店が傾く前から手代として商いを手伝っておりましたが、いざ店が潰れてみると、その厳しさに嫌気が差し、今では小さな損料の帳付けをして細々と暮らしておりました。末の九蔵は幼い頃から手先が器用で、大工の見習いをしながらこまごまと暮らしておりました。二人とも、父が昔のように贅沢な暮らしをさせてくれるとは初めから思っておりませんでした。ただ、店が潰れた本当の理由を、権門は誰にも語ったことがなかったのでございます。
ある朝のこと、長男の安五郎とその嫁のお種が訪ねてまいりました。
「お父様、お変わりございませんか?」
お種はうやうやしく頭を下げましたが、その目は権門の継ぎだらけの着物を上から下まで舐めるように見ておりました。すり切れた袖口を何度も当てたその頃、お種はそっと台所を覗き込みました。水瓶がいくつかと糸巻きが一つあるばかり。米を見ればそこが透けて見えそうでございます。その唇に微かな笑みが浮かびました。
「お父様、お暮らしが大変なようですけれど。」
「構わぬよ。年寄りの一人暮らしなどこんなものじゃ。」
権門は短く答えました。安五郎が尋ねます。
「母上が亡くなられてからもう何年になりますか?」
「十二年じゃ。早いものよ。」
お種は沈んだ顔で目を伏せましたが、その目は相変わらず座敷のあちこちを探るように動いておりました。押入れの隅、箪笥の引き出し、との間の隙間、まるで何かを探し当てているようでございました。
「安五郎さん、あの掛け軸は随分と古いものでございますね。」
「ああ、母上が好んでおられたものだ。」
それだけのことでございましたが、お種の目にはその一言すら値踏みの材料になっておりました。やがて安五郎とお種は帰って行きました。門を出るなり、お種が声を潜めて申します。
「本当に何もないのでしょうか?あの家には。まさか、あんな傾いた店をやっていたお方が、何もかも使い果たしたなどということが。あなた、今度は台所の床下も見てまいりましょう。」
その日の昼過ぎ、末の息子の九蔵とその嫁のお杉が訪ねてまいりました。お杉の手には風呂敷包みがございます。
「お父様、私が漬けましたぬか漬けでございます。」
「良いのにお前たちが食べれば良いものを。」
「私たちはまた漬ければ良いのです。お父様に召し上がっていただきたくて持ってまいりました。」
「お前たちの分は残っておるのかい?」
「心配なさらずとも、私どもは元気にやっております。それよりお父様がしっかり召し上がることが一番でございます。」
お杉はぬか漬けを皿に移して台所に置きますと、庭に出て箒を手に取り、井戸の水を汲んで畑の隅の青物に水をやり、それから権門の元へ、水をいっぱい汲んで持ってまいりました。権門はその姿をじっと見ておりました。何も言わずにお杉は、それから縁側の埃を払い、破れた障子の穴に紙を張りました。
「お父様、寒くなってまいります前に、綿入れを一枚お仕立てしましょうね。」
「良いのに、無理をせずとも。」
「無理などしておりません。夫の分と一緒に縫えば良いのですから。ついでに、そちらの糸巻きも直しておきましょうか。糸が絡んでおりますよ。」
お杉は古びた糸巻きを手に取り、絡んだ糸を丁寧に解きほぐしながら、手慣れた様子でくるくると巻き直しました。権門はその指の動きを黙って見つめておりました。日が暮れて息子たちが帰った後、権門は一人縁側に腰を下ろして空を見上げておりました。星が一つ、また一つと瞬き始めます。その夜、権門は古い長持ちから帳面を一冊取り出しました。最後のページまでめくり、筆を手に取りかけて、そっと置いたのでございます。
「まだ早い。」
ランプの火がゆらりと揺れました。権門の影が壁の上で伸びたり縮んだりしておりました。町の者たちは誰も知らなかったのでございます。この老人が何を胸に隠しておるのか、二人の嫁のうちどちらが誠の証を受けることになるのかを。
それから幾日か過ぎた頃、家主の手代を務める五兵衛がやってまいりました。
「権門さん、屋根板がまた落ちておりましたよ。大雨でも来たら大事になりますぞ。早く手を打たれた方がよろしいかと。この長屋はもう随分と古うございますから。」
五兵衛が帰った後、権門は縁側から屋根を見上げました。板が三枚、四枚と剥がれ落ちて、そこだけぽっかりと空が見えておりました。雨が降れば、そのまま座敷に落ちてくることでございましょう。その日の夕方、お杉が訪ねてまいりまして、屋根を見上げるなり言葉を失いました。
「まあ、こんなになるまで。お父様、なぜ早くおっしゃってくださらなかったのですか?お父様、私が明日にでも板を手に入れてまいります。」
「お前たちの暮らしも楽ではなかろうに。」
「お父様のお住まいが先でございます。何を置いても雨を凌げませんでは。九蔵の稼ぎだけではとても間に合いません。私は何とかいたします。」
それからお杉は、近所の機織りの手伝いや内職の仕事を受け負いました。日中は自分の家事を片付け、夜鍋に絹を織り、朝は誰よりも早く起きて糸を紡ぎました。指先に何度もまめをこしらえながら、その賃を少しずつ貯めて板を買い、町の大工の与吉を呼びました。朝から夕暮れまで板を手渡し、水を汲んで運び、大工の合間には自ら木槌を握って手伝い、日が傾く頃にはすっかり屋根が治ったのでございます。
「お父様、これでもう雨が降っても大丈夫ですよ。」
お杉が汗を拭いながら笑いました。手のひらにいくつも豆が潰れ、血が滲んでおりましたが、その顔は晴れやかでございました。権門は静かに頷くばかりでございました。何も申しませんでしたが、その目はお杉の手をじっと見つめておりました。
「手当てはしたのか。」
「かすり傷でございますよ。」
大工の与吉もその働きぶりに舌を巻いておりました。
「お宅の旦那さんは幸せ者だ。こんな嫁さんはそういるもんじゃない。よその大仕事まで手伝って賃を稼いで、自分の実の親でもない年寄りのためにこれほど尽くすとはね。」
「いえ、そのようなことは。」
お杉は顔を赤らめて申しました。
「お父様は九蔵の父上でございますもの。私の父上でもございます。それが道理と申しましょう。」
権門はその言葉に深く感じ入ったのでございました。そういう嫁さんだからこそ、権門さんも安心して身を寄せられるんでしょうな。与吉はそう言って、屋根の仕上げに一段と精を出したのでございます。
それから二日ほど経った頃、お種が町の女房を二人連れてやってまいりました。新しくなった屋根を見上げながら申したのでございます。
「立派な屋根になりましたこと。私が大金を工面して、大工を頼んだのですよ。」
「おや、お種さんは孝行な嫁ですね。」
「当たり前のことでございますわ。お父様がお困りなのを放ってはおけません。」
権門は何も言わず座ったままでございました。女房たちはお種を褒めちぎりながら帰って行きました。幾日かして、町の地で大工の与吉に出くわしました。
「お宅の嫁さんは本当に孝行ものですな。夜鍋に稼いで板を買ったんですから。まめだらけの手で板を担いでおりましたよ。本家の嫁がやったと間違った噂になっておるようですが、まあ、権門さんも訂正なさらないところを見ると、深いお考えがおありなのでしょうな。」
権門はただ頷きました。帰り道、辻で女の一人が声をかけてまいります。
「権門さん、お種さんは立派なお嫁さんですね。屋根まで直してくださったそうで。」
権門は一言だけ返して通り過ぎました。その夜、帳面を広げ、二人の息子の名の間に一行を書きつけたのでございます。
「誠を知る者と偽りを申す者。」
町の者たちは相変わらずお種を孝行嫁と呼んでおりましたが、権門はその噂を一言も訂正はしなかったのでございます。時が来れば、全てが明るみに出る。そう心に決めておったのでございましょう。
半月ほど経った頃でございましょうか。町にこんな噂が立ち始めました。
「権門のところに、まだ財産が残っているらしいよ。あの大きな商いを傾けたのも、実は潰れたんじゃなくて隠したんだとさ。蔵番やら古番やら、みんなしまい込んであるんだって。」
誰が言い出したものか。噂はたった一日で町中に広まりました。安五郎が家に帰ってそのことを伝えると、お種の目の色がさっと変わったのでございます。
「明日、お父様のところへ参りましょう。」
「今日のうちに参りましょう。日が暮れる前に。」
次の日、お種は権門の元を尋ねました。
「お父様、もしやどこかにお残しになったものがございませんか?私どもにも知らせてくださっても構いませんよ。」
「ない。」
権門の声はきっぱりとしたものでございました。
「真実でございますか?まあ、じゃ、何度問うても同じことじゃ。」
お種はそれ以上問うことができず、すぐに帰って行きました。しかし、その足取りはまだ何かを疑うように重うございました。幾日かして、九蔵の耳にもその噂が届きました。
「あなた、聞きましたか?父上のところにまだ財産があるらしいという噂を。」
お杉は静かに首を振ったのでございます。
「噂は噂ですよ。お父様がお暮らしに困っていらっしゃることを、私たちが一番よく知っているじゃありませんか。屋根一つ直すのにあれほどのご苦労をされたのですから。もし本当に財産がおありなら、あんな屋根を放って置かれるはずがございません。私たちがすべきことは、お父様に安心して暮らしていただくこと。それだけですよ。銭のことなど考えずとも良いのです。」
九蔵は妻の言葉にただ深く頷くばかりでございました。その夜、権門は帳面に書き付けました。安五郎の名の横に「財を問う者」。九蔵の名の横に「財を問わぬ者」。
それから間もなく、権門は二人の息子を呼び寄せました。座敷に二人を並べ、しばらく黙って二人の顔を見つめておりましたが、やがて口を開いたのでございます。
「お前たちの父が、最後に残したものがある。商いが傾いても、これだけは守り通した。」
風呂敷を解くと、中から蔵番と小判がいくつか出てまいりました。安五郎が息を飲みました。
「これを安五郎に渡す。奉公人として家を継いで行きなさい。蔵番の始末はお前の役目でございます。」
安五郎の目に隠しきれぬ喜びの色が浮かびました。それから権門は九蔵の方を見ました。
「九蔵、お前は私を引き取っておくれ。何も持たせられず、すまぬな。」
「何をおっしゃいます。お父様。はい。喜んでお引き受けいたします。」
お杉はその知らせを聞くと、夫の手をそっと握りました。
「それがどうしたというのです。お父様をお世話するのが私たちの勤めですよ。明日からお部屋の支度をいたしますね。」
町は持ち切りでございました。
「本家は蔵番を手に入れて、弟の方は老人一人だけ引き受けるんだとさ。全く気の毒な話じゃないか。せめていくらかの銭にも分けてやれば良いものを。」
けれども、誰も知らなかったのでございます。誠の証がどちらに向かうのかを。九蔵の住まいは裏長屋の、土間に少しばかりの板間があるばかりでございました。お杉は広い方の部屋を権門に差し上げ、自分たちは土間の脇の狭い板間で、ほつれのある布団一枚を分け合って寝たのでございます。夜更けに権門の咳が聞こえれば、湯を沸かして持っていき、夜が明ける前に起き出して飯を炊きました。白い飯は権門の元へ。お釜の底にこびりついた焦げ飯に水を注いだものが、夫婦の食事でございます。
「俺たちの飯はこれか?これだけかい?」
「お父様に先にお出しせねばなりませんもの。」
九蔵は黙って俯きました。お杉は笑って申します。
「大丈夫ですよ。私たちは若いんですから。焦げ飯だって味噌を添えれば美味しゅうございます。それにお父様が元気でいてくださることが、何より大事でございましょう。」
冬が近づき、深川の掘割りにも薄氷が張るようになりました。九蔵は大工仕事の合間に、隙間風の入る壁に古い布を詰め、権門の部屋だけは日当りを絶やさぬようにいたしました。脇息を重ねて寒さを凌ぎ、夜鍋の手を休めることはございませんでした。ある晩、権門が咳込む声で目を覚ましたお杉は、慌てて隣の部屋に飛んで行きました。
「お父様、大丈夫でございますか?」
「案じるでない。ただの年寄りの風邪じゃ。」
お杉は湯を沸かし、生姜を刻んで湯飲みに浮かべ、権門に差し出しました。
「これをお飲みくださいませ。少しは楽になりましょう。」
権門はゆっくりとそれを飲み干し、ため息をつきました。
「お前は、私を厄介者だと思わぬのか?」
「何をおっしゃいます?お父様は私どもの大切な父上でございます。厄介などと思うことなど、一度もございません。」
権門はその夜、久しく忘れていた温もりを胸の奥に感じておりました。その晩遅く、権門は目を覚ましました。隣の板間から微かな衣擦れの音がいたします。そっと襖の隙間から覗いてみますと、燈の淡い明りの下、お杉が一人、権門の着物の繕いをしておりました。薄い夜着だけを羽織ったその肩は、寒さに小さく震えております。何か言おうとして、権門は言葉を飲み込みました。お杉の指先にはいくつもひび割れが浮かび、針を持つ度に顔を顰めておりました。それでも手を止めることなく、一針一針、丁寧に糸を通しておりました。権門は音を立てぬようそっと襖を締め、しばらく闇の中で目を閉じておりました。
翌朝、権門はお杉の手を取り、ひび割れた指先をじっと見つめて申しました。
「これは、いつからじゃ。」
お杉は慌てて手を引っ込め、笑って申しました。
「何でもございません。ただの水仕事の荒れでございますよ。」
権門はそれ以上何も申しませんでしたが、その夜のことを深く胸に刻んだのでございます。
ある日のこと、権門がお杉を呼びました。
「糸を買いに行きなさい。絹を買えるだけ買うておいで。」
「そんなにたくさんですか?手元の銭には決して多くございませんが。」
「今年は当たり年だ。買うた絹から糸に引いて蓄えておきなさい。」
お杉は訳を問わず、言われた通りにいたしました。朝から晩まで絹問屋に通い、少しの銭で帰るだけの絹を求め、家に帰っては夜鍋に糸を引きました。近所の者たちはお杉の姿を見るたびに、また北の馬鹿と苦笑いをしたものでございます。
「今日はいくら買うつもりだね。」
「ありったけ買わせてくださいませ。」
「そんなに買い込んでどうするんだい。」
お杉は笑って誤魔化すばかりで、事情を語ることはございませんでした。手伝いに雇っていた近所の娘、お梅という娘と二人、糸車を回し続ける日々でございます。しばらくするうちに、町から絹が消えたのでございます。さらし絹を求める者が増え、糸の相場がみるみる跳ね上がりました。
「さあ、引いた糸を持っていって売りなさい。相場より下では決して売ってはならぬよ。」
お杉は半信半疑ながら、糸を並べました。初めは高いと渋る者もおりましたが、やがて他に糸を持つ者がいないと知れると、次々に買い求めていったのでございます。戻って銭を権門に見せますと、権門は申しました。
「品物はあり余る時に買い、足りなくなった時に売る。これが商いの道じゃ。」
お杉はその言葉を胸の奥深くに刻みました。権門の教えは続いたのでございます。
「春は絹が出回る。引いて蓄えておけば秋に高く売れる。夏は薄物が求められる。冬になれば厚手の織物が値上がりする。人の入り用は季節ごとに決まっておる。時を読めばそれが銭になるのだよ。」
「それだけではないぞ。品を見合ってはならぬ。糸一筋、布一寸にも良し悪しがある。粗悪なものを混ぜて売れば、その場は儲かっても、いずれ客が離れる。真を売ることを忘れてはならぬよ。」
「お父様は、どうして商いをお畳みになったのですか?」
お杉がある夜、思い切って尋ねました。権門はしばらく黙っておりましたが、やがてぽつりぽつりと語り始めたのでございます。
「若い頃の私は、銭を稼ぐことばかりに気を取られておった。真に付き合える仲間かどうかも見極めず、大きな儲け話に飛びついた。それで一夜にして、店も蓄えも何もかも失ったのじゃ。人を見る目を養わずして銭ばかりを追えば、いずれこうなる。お前には同じ轍を踏ませたくない。」
お杉はその言葉を深く胸に刻んだのでございます。お杉は季節ごとに糸と反物を売り買いいたしました。少しずつ銭が溜まっていきます。古い機を一つ手に入れ、機織りの手伝いをもう一人雇いました。暖簾を「川村屋」とつけた店に、客が次第に集まり始めたのでございます。
手伝いに雇ったお梅という娘は、初めは扱いも覚束ありませんでしたが、お杉は根気よく教えました。
「糸はな、強く張りすぎても緩めすぎてもいけないよ。手に馴染むまで幾度も繰り返すのだよ。」
お梅は夜鍋に付き合い、いつしか一人前の織り手に育っていったのでございます。ある夏の日、近所の女房が店先で申しました。
「杉さん、この薄物非常に手触りがよございますね。うちの子の浴衣にどうかしら。」
「お安くしておきますよ。その代わり、また糸を買ってくださいましね。」
女房は喜んで買い求め、後日また戻ってまいりました。
「あの浴衣、子供がすごく気に入りましてね。もう一枚お願いできますかしら。」
お杉は丁寧に絹を選び、寸法を確かめながら申しました。
「この子なら、この柄が映えましょう。裾を少し長めに仕立てておきますね。」
女房は満足に頷き、また来ますよと笑顔で帰っていったのでございます。品も良ければ心も良い店だと、川村屋の評判は少しずつ広まっていったのでございます。
ある秋の日、上方から来た小間物屋の主人が店を尋ねてまいりました。
「噂に聞く川村屋とはここでございますか?良い糸を扱う店だとあちこちで耳にいたしましてな。」
お杉は丁寧に糸の束を広げて見せました。
「この糸は今年の春に仕入れました上等の絹から引いたものでございます。艶と強さ、両方お確かめくださいませ。」
主人は糸をひねり、光にかざしてしげしげと眺め、感心したように申しました。
「なるほど。これは良い仕事をしておられる。今後もお付き合いを願いたい。」
こうして川村屋の名は深川の外にまで届くようになっていったのでございます。権門はその話を聞く度、目を細めて申しました。
「良い商いというものは、遠くの誰かにまで届くものじゃ。目先の銭だけを追っては、そうはいかぬ。」
お杉は深く頷き、その言葉を心に刻んだのでございました。夏には薄物の反物が飛ぶように売れ、冬には厚手の織物を求める客が列をなすようになりました。権門は店から戻るお杉の姿をじっと見ておりました。
「この嫁は、学ぶ力を持っておる。」
その夜、帳面に一言書き付けました。「誠を知る者」。小さな商いが、やがて大きな店になろうとは、まだ誰も知らなかったのでございます。
一方、お種の方は我慢ができなくなっておりました。
「あなた、蔵を一つだけ売りましょうよ。私だって少しは良いものを身につけたいのです。皆が私を本家の嫁と持ち上げるのに、この身なりでは恥ずかしゅうございます。」
安五郎は妻に押し切られ、一番小さな蔵を手放しました。呉服屋へ走り、上等の縮緬を買い求めたのでございます。町の女房たちが目を丸くいたしました。
「まあ、本家のお種さんが昨日、新しい着物を。さすが本家は違うね。」
お種はその噂を聞いて満足に笑みを浮かべましたが、残った銭は長くは持ちませんでした。縮緬の着物は幾度も袖を通すうちに色褪せ、質屋に持っていっても僅かな金にしかなりませんでした。
「あなた、また蔵を売りましょうよ。」
「今度は何を買われるおつもりか。」
安五郎が尋ねますと、お種は少し口ごもりながら申しました。
「それは、その、これから考えます。」
安五郎は妻の顔色を伺いながら、また蔵の一枚に手をかけたのでございます。その頃、入れ屋の千吉という男が安五郎を訪ねてまいりました。声を潜めて耳打ちします。
「大橋のそばに、質の良い土地が出ております。あそこに新しい市が立つという話でして、今のうちに抑えておけば三倍にはなりますよ。決して他言はなりません。安五郎さんだけに教えて差し上げるのです。」
安五郎は心を動かされ、家に帰ってお種に相談いたしました。お種は目を輝かせて申します。
「それは良い話ではありませんか?すぐに買いなさいませ。ぐずぐずしていて、他の者に取られてしまいますよ。」
安五郎は蔵をもう一枚売り払い、その金で川向こうの土地を買ったのでございます。お種はにんまりと笑いました。
「三倍になったら、弟たちより先に大尽ですよ。」
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎました。地面はぴくりとも動きません。安五郎が千吉を尋ねると、困った顔で耳打ちしたのでございます。
「市の都合が変わりまして、市は別の場所に作ることになったそうで。誠に申し訳ないことでございますが。」
安五郎はのめりながら、家へ帰りました。
「全部、使い道のない空地を掴まされただけだ。」
お種はへたりと座り込んで泣いたのでございます。
「あの千吉という男、どこへ行ったのです?」
探しに行ったところ、入れ屋はとうに店を畳んで姿を消しておりました。近所の者に聞けば、あの手の入れ屋はあちこちで同じ手口を使っているという噂でございました。
「安五郎さん、あんたも人が良いね。うまい話には裏があるものですよ。」
町の者にそう言われる度、お種は唇を噛みしめておりました。残った蔵はもう二枚しか残っておりませんでした。
その頃、川村屋は店が二つに増えておりました。川向こうの外れに新しく立てた小さな店には、お梅を分けて任せ、お杉自身は本店で機織りと客足に追われる日々でございます。町にこんな噂が広がります。
「権門の権門さんは、商いの秘訣を全部弟嫁に授けたんだそうだよ。」
その言葉がお種の耳に突き刺さりました。
「私たちには蔵だけを売り渡して、儲かることは全部あの子にやらせたのよ。」
「弟の嫁がよくやっているから、そうなったのではないか。」
安五郎が申しますと、お種が声を荒げました。
「違いますよ。あの老人は何もかも弟の方に回したのですよ。私たちは騙されたのです。あの子が可愛くて、私たちは他所に追い払われただけなのです。」
その夜から、お種は川村屋の様子を窺い始めたのでございます。店を開けるのか、誰と商いをしているのか、一つ一つ書き留めていきました。
「隙を探すのですよ。あの者たちが必死に隠しているところが、きっとあるはずです。」
お種の目に底光りする光が宿っておりました。ある日、お種は川村屋の前を通りかかりました。ちょうど客が店先で深々と頭を下げているところでございます。
「お杉さんのおかげで、良い品に巡り合えました。ありがとうございました。」
それを見ていた昔馴染みの女房が、お種に気づかず申しました。
「あら、お種さんじゃないの?近頃、杉さんの店は繁盛でようございますこと。あなたも見習わなくちゃね。」
かつては自分に向けられていたはずのその言葉が、今では当たり前のようにお杉へ流れていく。お種は何も言えず、その場を足早に立ち去りました。家に帰り、色褪せた縮緬の袖を見つめ、箪笥の底に残った二枚の蔵を取り出し、そのうち一枚を長いこと見つめては、また仕舞い直しました。
「あの女さえいなければ、私たちだって。」
お種はそう呟くと、残った蔵のうちの一枚を手放したのでございます。手元には、使い道のない川向こうの土地の証文が一枚残るばかりでございました。
「これもダメなら、私たちはお終いですよ。」
お種は古着で、穴の開いた継ぎだらけの野良着を買いました。一目を忍ぶためでございます。その夜、お種は川村屋の裏手に回り、破れた窓から手を差し入れて上等の反物を抜き取り、代わりに古い布切れをねじ込んだのでございます。絹も何枚か破り取りました。手が震えておりましたが、もう後戻りはできぬと、お種は己れに言い聞かせておったのでございましょう。
次の日、客が怒鳴り込んでまいりました。
「この反物、昨日買ったばかりなのに穴が開いているじゃないか。金を返してくれ。」
お杉は驚いて反物を確かめましたが、覚えのないことでございます。
「申し訳ございません。すぐにお返しいたします。」
たちまち噂が広がりました。取引先の商人が帳面を確かめに来て、破れた頁を見るなり顔を真っ赤にしたのでございます。
「こんないい加減な商いをされては困りますな。」
お杉は幾度も頭を下げましたが、疑いは晴れませんでした。お種はそれだけでは止めませんでした。安五郎の名で、町役所に訴えたのでございます。
「訴えたいことがございます。手前、川村屋は粗悪な品を売りさばき、店が二つあるのに、女将に収める運上金を一つ分しか納めておりません。」
同心が川村屋を調べに参りました。いかめしい顔つきで、店の中を見回します。
「運上金を納めた証はあるか?」
お杉が走り回って証を探しましたが、見当たりません。確かに納めいたしましたけれど、帳面が、帳面が、どうしたと申すか、誰かに破られたのでございます。それを証し立てるものは。
「それは、その、それは。」
お杉は言葉に詰まりました。町役所の帳面にも、店は一つしか記されておりませんでした。
「証もない、記録もない。証人もおらぬな。これでは申し開きの立たぬこと。神を欺く商いと皆さざるを得ぬ。」
同心はそう言い残して去って行きました。取引先が次々と手を引きました。客の足が絶えました。雇っていたお梅も去っていきます。
「申し訳ございません。私も暮らしがございますので。ここに居続けたら潰れます。」
暖簾は変わらず掛かっておりましたが、一日中、誰一人として足を止める者はございませんでした。糸車は隅に置かれたまま、くるりとも回りません。棚に並んだ絹は埃を被ることもなく、ただ静かに売れる日を待ち続けておりました。お杉はそれでも朝には店を開け、夕方には戸を閉めしめる。その繰り返しを幾日も続けたのでございます。ある夕暮れ、お杉は店の暖簾に手をかけました。しばらくその布地を見つめてから、静かに外し、丁寧に畳んで胸に抱えたのでございます。お杉はガランとした店の土間に崩れ込んで、泣いたのでございます。
「お父様、私は本当にそんなことはしておりません。誰かが私を落とし入れようとしているのです。信じてくださいませ。」
権門がお杉の手をそっと握りました。
「案じるな。私はお前を信じておる。長年、お前の働きぶりを見てきたのじゃ。お前が粗悪な品を売るような人間でないことは、誰よりも私が知っておる。お前のせいではない。誰かがお前を落とし入れようとしたのだよ。心当たりがある。しばらく、私に任せておくれ。」
お杉は涙を拭い、権門の言葉にすがるように頷いたのでございます。九蔵もまた妻の肩をそっと抱き、「大丈夫だ。父上がついておられる」と、静かに励ましておりました。
安五郎とお種の暮らし向きは、日に日に貧しくなっていきました。かつて呉服屋で縮緬を買い求めた頃の面影はどこにもございません。お種は古びた絹の着物をまとい、安五郎は損料の仕事も減り、内職の機織りで食いついでおりました。かつては本家の嫁と持て囃されたお種も、今では井戸端で肩身の狭い思いをすることが増えました。
「あら、お種さん、今日はどちらへ?」
「いえ、その、ちょっとそこまで。」
お種はうつむきがちに答え、足早に立ち去るのが常となっておりました。近所の子供たちが「あの家は本家のくせに、弟の家より貧しいんだって」と囃し立てることもございました。お種はその度に、悔しさで唇を噛みしめておりました。
その頃、本家ではお種が画策をしておりました。
「あと少し攻めれば、あの店は潰れますよ。そうなれば、お父様もこちらへいらっしゃるでしょう。」
「そこまでせずとも良いのではないか。」
安五郎が少し不安げに申しますと、お種が言い放ちました。
「何をおっしゃるのです。あなたは黙っていらしてください。」
町の女房たちの間でも、川村屋の噂で持ち切りでございました。井戸端に集まった女たちが、洗い物の手を止めて囁き合います。
「聞きましたか?川村屋の話。金をごまかしていたんですって。」
「まあ、あんなに評判の良い店だったのに。人は見かけによりませんね。」
中にはお杉に同情する声もございました。
「お杉さんはあれほど働き者でしたよ。何かの間違いではありませんか?」
噂に噂が重なり、真偽の定かならぬまま、町中を駆け巡っていったのでございます。町の者たちは知らなかったのでございます。弟の家が崩れているのではなく、真実が明るみに出るその瀬戸際であったということを。
三日の後、権門は九蔵を伴い、風呂敷みを一つ抱えて町役所へ出向きました。同心の前に、帳面を三冊並べたのでございます。
「嫁の一件について、申し上げたいことがございます。」
一冊目を開きました。日付、金額、店の名がびっしりと記されております。
「弟の嫁が、二つの店の運上金をどちらもきちんと納めた記録でございます。この手で私が書き記しました。」
同心が帳面を手に取り、目を通します。二冊目を開きました。商いのやり取りが、一つ残らず書き込んでございます。
「粗悪な品を売った記録はただの一度もございません。仕入れた絹の量、引いた糸の目方、売った反物の値まで、細かく記されております。」
同心の目が大きく見開かれました。
「これほど詳しい帳面は、見たことがない。」
権門は三冊目を取り出したのでございます。
「そして、これは誰が品物をすり替え、帳面を盗んだかを記したものでございます。」
「どうしてそれがお分かりになったのですか?」
「店の近くに、大工の与吉に頼みまして、夜な夜な誰が出入りするか見張ってもらいました。それから、その隙間に灰を巻いておいたのです。中に忍び込めば、足跡が残りますのでね。」
与吉が見たもの、黒い野良着の色柄、それから灰に残った足跡の形まで、権門は克明に書き記しておりました。
「それだけでは動かぬ証にはなりません。」
同心が声を潜めて申しますと、権門は静かに続けました。
「いかにも、それだけならば単なる憶測に過ぎませぬ。しかし、あの夜のことでございます。与吉が裏木戸の影から見張っておりましたところ、物音に驚いた何者かが慌てて逃げ出し、その際に片方の草鞋の鼻緒を切らせ、灰の上に置き去りにしていったのでございます。与吉はとっさに追いかけましたが、暗がりの中、見失ってしまいました。ただ、月明りに浮かんだその後ろ姿と、残された草鞋だけは確と見届けたと申すのです。」
権門は懐から小さな布包みを取り出し、灰にまみれた草鞋の片方を差し出したのでございます。
「これは。」
同心が息を飲みました。
「鼻緒の切れ具合、布の色柄。それに、この右足だけが擦り減った歩き癖。同じ草鞋をお履きになる方が、この町にただ一人おられます。」
「それにしても、ここまでのことをなさるとは、並々ならぬご覚悟でございましたな。」
権門は静かに頭を下げました。
「嫁の潔白を明かすためならば、これ式のこと、当然のことでございます。」
同心はしばらく帳面を見比べ、やがて筆を取って裁許の書き付け始めたのでございます。権門は最後のページを開きました。そこには、兄の嫁、お種の名が記されておりました。粗悪な反物を忍ばせ、帳面を破り、運上金の証を盗み出し、町役所に偽りの訴えを起こしたのです。
幾日かして、お種が役所に呼び出されました。
「そなたが川村屋を訴えたな。川村の権門殿から証拠が差し出された。そなたが品物をすり替え、帳面を盗んだというが、そうではないか。」
お種は膝が震え、その場に崩れ折れたのでございます。
「申し訳ございません。私が、私がいたしました。」
「何かようなことを、なぜした。」
同心が厳しく問います。
「妬ましくて、悔しくて。我が家が褒められて、私どもは何もかも失って。それで、人を落とし入れようと。」
お種はそれ以上答えることができず、ただ震えるばかりでございました。安五郎も呼び出され、その次第を初めて知り、失意のどん底に突き落とされたのでございます。
「お前が、これほどのことをしていたとは存じませんでした。」
安五郎の声は絞り出すように震えておりました。町の噂はひっくり返りました。
「兄嫁が弟嫁を落とし入れたんだとさ。品物をすり替えて、帳面を盗んで。権門さんが全部記録していたんだよ。」
「全く、恐ろしいことをするものだね。」
井戸端の女房たちも顔を見合わせ、罰が悪そうに申しました。
「私たちもお種さんを孝行嫁だと持ち上げておりましたね。人というものは、上辺だけでは分からぬものでございますよ。」
取引先の商人たちがお杉の元を尋ねてまいりました。
「飛んだ思い違いをいたしました。またお取引を願いたいのですが。」
お杉は涙をこぼしながら、深く頭を下げたのでございます。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
お梅も戻ってまいりまして、両手を合わせて詫びました。
「お杉さん、私、恐ろしくて店を離れてしまって。本当に申し訳ございませんでした。」
お杉はお梅の手を取り、優しく申しました。
「良いのですよ。お前も暮らしがあるのですから。また一緒に働いておくれ。」
お梅は涙をこぼしながら、幾度も頷いたのでございます。
その日の夕方、九蔵が権門に尋ねました。
「お父様、どうして全てお分かりだったのですか?与吉さんに見張りを頼まれたのも、灰を巻かれたのも、いつのことでございますか?」
権門がふっと笑いました。
「お杉が店を大きくし始めた頃からじゃ。人というものは、他人が幸せになるのを見て心を乱すこともあれば、共に喜ぶこともある。お種の目を見て、俺は、いずれ何かをしでかすと分かっておった。それ故、用心しておったのだよ。」
「お種に頼んで見張りを立てたのも、店の商いが軌道に乗り、人の目を引くようになった頃からじゃ。人の心というものは、豊かになった隣人を見て素直に喜べる者もあれば、嫉みに飲まれてしまうものもある。お前の兄嫁がどちらであるか、私には見えておった。それでも、まさかここまでするとは思わなんだ。人の心の底というものは、豊かさや貧しさによって初めて姿を表すものなのかもしれぬな。」
「屋根を直した時の、あの噂の立ち方を見た時から、私は薄々気づいておったのだよ。お種が自らの手柄でないものを己れのものと語り、それを正そうとしなかった。この小さな嘘の積み重ねが、いずれ大きな災いを招くであろうとな。」
権門はしばらく間を置いて、静かに続けました。
「人を疑うて用心するのは辛いことじゃ。しかし、お前たちを守るためには、そうせねばならなかったのだよ。」
九蔵は父の言葉に深く頭を下げました。
「お父様のお心遣い、身に沁みてありがとうございます。」
「初めから見ておったよ。お前の嫁が真っ直ぐに生きてきたからこそ、誠がそのまま証となったのだ。」
それから日を経て、権門は再び二人の息子を呼び寄せました。縁側に並んで座らせた後、奥の間から長持ちを開けて、古い風呂敷包みを一つ取り出したのでございます。中に、蔵番と小判がございました。前に渡したものより、むしろ多くございます。
「お前たちの母が、最後に残したものだよ。私がずっと隠しておいた。」
安五郎の顔から血の気が引きました。
「では、初めから。」
「そうだよ。安五郎に渡したものが、全てではなかった。」
権門は風呂敷包みをお杉の前にそっと押しやりました。そして、安五郎の方を向いたのでございます。
「お前に蔵を渡したのは、試しだった。銭をどう使うか、欲をどう収めるか、それを見ておきたかったのだよ。」
安五郎がきつく唇を噛みました。
「申し訳ございません。お父様、私は、私は。」
「良いのです。人は誰しも過ちを犯す。大切なのは、そこからどう生きるかじゃ。」
権門は今度はお杉を見ました。
「九蔵のところへ私が行ったのも、試しだった。何も持たぬ暮らしの中でどう生きるか、人をどうもてなすか、それを見ておきたかったのだ。焦げ飯を分け合いながら、お前は一度も不満を申さなかった。狭い部屋で布団一枚を分け合いながらも、お前は夫を責めることも、私を疎むこともなかった。それがどれほど難しいことか、私は知っておる。」
お杉の頬を、涙がすっと伝いました。
「私はただ、当たり前のことをしただけでございます。」
「それが当たり前でないことが、この世には多いのだよ。」
権門はゆっくりと口を開きます。
「安五郎は銭を受け取った。九蔵は道を受け取った。銭は使えばなくなるけれど、道は一生消えせぬ。」
権門はお杉の手を取りました。
「今日から、この嫁が川村の家の跡を預かる。お杉、お前にこの家を継がせるよ。」
そして、背を向けながらこう付け加えたのでございます。
「お杉よ、兄の家を助けてやりなさい。家族は捨てるものではないよ。」
「はい。お父様。」
お杉は本家を訪ねました。握り飯と漬け物を風呂敷に包んで差し出したのでございます。
「お姉様、これを召し上がってください。」
呆然としたお種の目から、涙がこぼれ落ちました。
「許しておくれ。私は取り返しのつかないことをした。お前を落とし入れようとまでした。合わせる顔がございません。」
「もう過ぎたことでございます。詫びを言いたいと思われましたら、いつでもいらしてくださいな。お父様がおっしゃったのです。家族は捨てるものではないと。人は誰しも道を踏み外すことがございます。大切なのは、そこからどう歩き直すかだと、お父様はいつも仰せでございました。」
お種は声をあげて泣きました。安五郎もまた、深く頭を下げておりました。
「お前たち、私どもは本当に浅ましいことをいたしました。」
安五郎が絞り出すように申しますと、お杉は静かに首を振りました。
「お兄様、もう終わったことでございます。これより、これからのことを考えましょう。お兄様は損料の帳付けがお得意でございましょう。よろしければ、川村屋の帳面をお手伝いいただけませんか?」
安五郎は驚いて顔を上げました。
「私に、そのようなことをさせてもらえるのですか?あんなことをした私どもに。」
お杉は微笑んで申しました。
「お父様がおっしゃったではありませんか。家族は捨てるものではないと。それに、お兄様の帳付けの腕前は、町でも評判でございますよ。」
安五郎の目に、再び光が戻ったのでございます。
「ありがとう。お杉。この恩は忘れぬ。今度こそ、しっかりとお前たちの役に立って見せる。」
それから、安五郎は川村屋の帳面を預かるようになり、几帳面な性分を生かして、店の商いを裏から支えるようになったのでございました。
その夜、権門は帳面を全て庭に持ち出し、火をつけたのでございます。炎が夜空に立ち上り、灰が舞い上がりました。九蔵とお杉も縁側に並び、燃える炎を静かに見つめておりました。
「お父様、どうして燃やされるのですか?あれほど大切にお書きになっていたものを。」
「もういらぬよ。全て明るみに出たのだから。あの帳面は誠を明かすためのものであった。今はもう、誰の胸にも誠が宿っておる。証をいつまでも握りしめておっては、人の過ちをいつまでも許せぬままになってしまう。お種にも安五郎にも、やり直す道を歩ませてやりたいのじゃ。」
お杉が静かに頭を下げますと、権門は笑って申しました。
「私が渡したのは銭ではないよ。真心を残したのだ。それは、決して燃えて消えるものではない。」
炎はやがて小さくなり、灰だけが夜風にさらされて、闇の中に消えていったのでございます。
それから幾星霜が過ぎました。川村屋は深川でも指折りの問屋となり、九蔵とお杉の間には子が生まれ、権門は縁側で日向ぼっこしながら、孫の遊ぶ姿を眺めるのが何よりの楽しみとなったのでございます。孫がよちよちと権門の膝によじ登ると、権門は目を細めて、「お前もいつか、誰かに真心を渡すのだよ」と語りかけておりました。
お種の方も、身の丈にあった小さな商いを一から始め、時折、お杉の元へ染めの修繕を頼みに来ては「お杉さん、いつもすみません」と頭を下げるようになりました。お種は今では井戸端で自らの過ちを隠さずに語るようになり、「私は昔、愚かなことをしました」と若い嫁たちに諭すこともあったと言います。かつての遺恨を知る者も、今では誰も口にしないほどでございます。
町の者たちは、長いことこの話を語り継いだのでございます。川村の権門が残した誠の証は、財ではなく道であった。蔵番ではなく、人であった。帳面には記されないが、胸に刻まれるものがございます。かつて自らも財に目が眩み、一夜にして全てを失った権門だからこそ、懐かしさと儚さを誰よりもよく知っておりました。
財は使えばなくなるが、人に残した道は決して消えぬということ。取り上げられても、真っ直ぐに生きた心は奪えぬということ。そして、誠の証とは、財を残す者の手から生まれるのではなく、人を残す者の手から生まれるということを。
深川の堀割は今日も静かに流れ、木の音は昔と変わらず響いております。川村屋の暖簾をくぐる客は、品物と共に、そこに込められた真心をも持ち帰るのでございましょう。



