「そいつを今すぐ追い出せ。会社の金を横領したのはこの女だ。」
黒木部長が私を指差して怒鳴った。フロア中の視線が私一人に突き刺さる。横領なんてしていない。その金を抜いたのは、叫んでいるこの部長自身だ。
それでも私は言い返さなかった。胸ポケットの父の古い電卓を、そっと握っただけだ。
本当は誰が数字を偽ったのか、もうすぐ全員が知る。けれど、その数分後、現れた社長が罪を着せられた私に深々と頭を下げる。全員が凍りつく、その瞬間が来ることを、まだ誰も知らない。
私は日向、二十六歳。ただの契約社員。少なくとも、この日までは。
話は半年前に遡る。当時の私は小さな部品メーカーで経理として働いていた。給料は決して多くない。それでも数字に向き合う毎日が、私は好きだった。
毎朝の通勤電車はいつも同じ時間、同じ車両に乗る。あれはある雨の朝のことだ。ドアの近くに一人の老人が立っていた。白髪で少し背の曲がった、質素な身なりの人だ。その手には小さな花束が、大事そうに抱えられている。
電車が揺れる度、老人の体は不安定に傾いた。けれど周りの乗客は誰も顔を上げない。皆、それぞれ手元の画面に目を落としている。
私は思わず立ち上がり、そっと席を譲った。
「よかったら、こちらにどうぞ。」
老人は驚いた顔をして、それから深く腰を折る。
「いや、若いあなたが座りなさい。」
「いえ、そのお花、大切なものでしょう。落としたら大変です。」
私がそう言うと、老人は少しだけ目を細めて笑った。その笑い方が、亡くなった父にどこか似ている。父も口数の少ない、優しい人だった。
私が幼い頃に母をなくしてから、父は男手一つで私を育ててくれた。町で小さな会計事務所を営み、私に数字の面白さを教えてくれた人だ。
「数字はな、日向、決して人を裏切らないんだよ。」
それが父の口癖で、私は今でもその言葉が好きだった。父が残したのは、少し古びた電卓がたった一つだけ。私は今もそれを鞄に入れて持ち歩いている。
気づけば老人は私の顔をじっと見つめていた。
「ありがとう。あなたのような人に会えて、今日はいい日だ。」
やがて電車のドアが開き、老人はゆっくりと降りていく。花束の白い花びらが、雨のホームで小さく揺れていった。
それから私と老人は朝の電車でよく顔を合わせるようになった。老人はいつも同じ時間、同じ場所に立っている。手には変わらず小さな花束があった。
ある朝、私は思い切って尋ねてみた。
「そのお花、どなたかに会いに行かれるんですか?」
老人は花束に目を落とし、静かに笑った。
「妻だよ。もう十年も前に、先に行ってしまったんだ。」
私は言葉に詰まった。
「今でもつい話しかけてしまうんだよ。長い付き合いだったからね。」
その横顔は少しだけ寂しそうで、それでいて穏やかだった。
それからも私たちは他愛のない話を交わした。天気のこと、季節の花のこと、時には私の仕事のこと。老人はいつも私の話を「うんうん」と頷きながら聞いてくれる。まるで本当の祖父のようだった。その短い数分間が、いつしか私のささやかな支えになっていた。
ところが、その穏やかな日々はある朝突然終わりを告げる。月曜の朝、出社した私を待っていたのは、扉に貼られた一枚の紙だった。
「当社は本日をもって、全ての事業を停止します。」
務めていた部品メーカーが倒産したのだ。大口の取引先の連鎖倒産に巻き込まれた形だった。社長は姿を消し、給料も二ヶ月分が未払いのまま残された。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
デスクの私物をダンボールに詰め、鞄には父の電卓だけをそっと入れる。明日からどうやって生きていけばいいのだろう。貯金はほとんどない。頼れる家族も、もうこの世にはいない。
外に出ると、空は意地悪なほどよく晴れていた。その青さが帰って胸に深く染みた。
退職してからの数日はあっという間に過ぎていった。求人に応募しても、帰ってくるのは断りの連絡ばかり。気づけば私は当てもなく町を彷徨っていた。
ある昼下がり、いつもは通り過ぎるだけの小さな公園で、私はふと足を止めた。ベンチに見覚えのある背中がある。あの電車の老人だった。膝の上には、いつもの花束が置かれている。
「おや。」と老人が先に気づいて顔を上げた。「こんな時間に珍しいね。今日はお仕事は?」
私は少し迷ってから、正直に打ち明けた。
「実は、勤めていた会社が倒産してしまったんです。」
老人は驚いたように目を見開いた。
「それは大変だったね。」
「はい。でも、なんとかします。」
私は無理に笑ってみせる。けれど老人はそんな私を静かに見つめていた。そしてぽつりと言った。
「もしよかったら、私の知り合いの会社を紹介しようか。」
私は思わず顔を上げた。
「経理の仕事なら、あなたはきっと役に立てるはずだ。」
「そんな、ご迷惑では…」
「迷惑なものか。あなたのように真面目な人は、どこへ行っても宝だよ。」
老人の言葉は不思議なほど力強かった。その一言に、張り詰めていた私の肩からすっと力が抜けた。
それから三日後、私の携帯に一本の電話がかかってくる。
「迷和物産の人事部のものです。是非、うちで働いていただけませんか?」
中堅の食品商社だという。私は受話器を握りしめ、何度も頭を下げた。思わず鞄の中の父の電卓にそっと手を触れる。
お父さん、私、もう少しだけ頑張ってみるね。
窓の外の空は、あの日と同じように青く澄んでいた。
入社の朝、迷和物産の本社ビルは想像よりもずっと大きかった。ガラス張りの高い建物を、私は少し緊張しながら見上げた。ここでまた、一から頑張ろう。そう思いながら、私は経理部のフロアに足を踏み入れた。
出迎えたのは経理部長の黒木という男だった。五十代の肥満体のいい体つき、上等のスーツに金色の腕時計が光っている。黒木部長は私を上から下までじろりと眺めた。
「君が例の紹介で入った契約社員か。」
その声には嫌な棘があった。
「言っておくが、うちは大きな会社だ。コネで入ったからと、甘えは許さんぞ。」
「はい。精一杯頑張ります。」
私は深く頭を下げたけれど、黒木部長はふんと鼻で笑うだけ。周りの社員たちも部長の顔色を窺って、私と目を合わせようとしない。
その日から私に回されるのは雑用ばかりだった。コピー、お茶出し、他の社員が嫌がる古い伝票の入力作業。残業を強いられても、契約社員だからと手当はつかない。それでも私は一つ一つ丁寧にこなしていった。どんなに雑に扱われても、伝票の中の数字だけは私を差別しない。数字を扱う仕事に身分なんてない。父からそう教わってきたからだ。
ある日、私は古い伝票を入力していて、ふと手を止めた。ある取引先への支払いが、どうにも相場より高い気がしたのだ。一枚だけなら気のせいで済ませていただろう。けれど、同じ取引先の伝票が不自然に何枚も続いている。東洋デリカという、聞き慣れない会社だった。
帳簿の上では何の問題もない。それなのに胸の奥が、なぜかざわついた。私はその取引先の名前をそっと頭の隅に書き留める。窓の外では灰色の雲がゆっくりと流れていた。
そんな私に、たった一人だけ声をかけてくれる人がいた。入社二年目の田村亮太さんだった。私より少し年下の、人懐っこい笑顔の青年だ。
「藤野さん、また残業ですか?あんまり無理しないでくださいね。」
田村さんは自分の分のコーヒーを、私にも差し出してくれた。
「ありがとう。でも私は大丈夫だから。」
「大丈夫じゃないですよ。正直、見てられないんです。」
田村さんは周りをそっと気にしてから、声を落とした。
「黒木部長、藤野さんにだけ当たりがきつすぎます。契約社員だからって、あんなのひどい。」
その言葉に私は少しだけ胸が温かくなった。この会社に来て、私の側に立ってくれた人は田村さんが初めてだった。
「気にかけてくれてありがとう。仕事があるだけで、私はありがたいから。」
私がそう言うと、田村さんは困ったように眉を下げた。
「藤野さんは優しすぎますよ。」
田村さんはそう言って、少しだけ笑った。孤立していた私の胸に、その笑顔は思いのほか深く染みる。
それから彼はふと、声をさらに潜めた。
「ここだけの話、経理部ってちょっと変なんです。」
「変?」
「部長に近い一部の人しか触れない伝票があるんですよ。東洋デリカとかいう取引先の。」
私はコーヒーカップを持つ手を思わず止めた。
「みんな見て見ぬふりしてます。逆らったら、この会社にいられなくなるから。」
田村さんの言葉が、頭の隅に引っかかっていた名前と静かに重なっていく。
その夜、私は帰り道でずっとそのことを考えていた。駅のホームに立つと、冷たい風が頬を撫でていった。
その夜から、私はなかなか眠れなくなった。気になって仕方がないのだ。帳簿の上では何もかもが綺麗に整っている。けれど、整いすぎている数字ほど、帰って怪しい。父がよく言っていた。
「嘘の数字は、必ずどこかで辻褄が合わなくなる。焦らず、初めから終わりまで丁寧に追え。」
翌日から私は自分の仕事をこなしながら、そっと東洋デリカの伝票を追い始めた。表向きはただの入力作業のふりをして、誰にも気づかれないように。けれど確実に、過去三年分の支払いを一枚ずつ、父の電卓で計算し直していく。
みんなが最新のパソコンを使う中、私だけが古い電卓を弾く。その乾いた音が、静かなフロアに小さく響いた。
「藤野さん、まだそんな古いもの使ってるの?」
先輩社員に笑われても、私は気にしなかった。この電卓は父が残してくれた、たった一つの宝物だ。指が動きを覚えていて、どんな計算機よりも私には速い。
計算した結果は家に帰ってから、一冊のノートに書き移していく。本来の相場と実際に支払われた金額、その差額を日付ごとに丁寧に並べていった。数字が積み上がるたび、胸の奥が少しずつ重くなっていく。
これはただの記入ミスなんかじゃない。私はそう確信し始めていた。それでもまだ動くわけにはいかない。証拠が圧倒的に足りなかった。下手に騒げば、私のような契約社員はあっさり切られてしまう。
それでも、見なかったことにするのはどうしてもできなかった。
「数字は人を裏切らない。」
父の言葉を小さく口の中で唱える。そしてそっとノートを閉じ、深く息を吐いた。
それから二週間、私は静かに証拠を集め続けた。東洋デリカについて調べれば調べるほど、おかしなことばかりだった。まず登記された住所を調べると、そこにあったのは古い雑居ビルの一室。社員も事業の実態も、どこにも見当たらない。それなのに迷和物産からは毎月きっちりと、多額の委託費が振り込まれている。納品書も、まともな契約書も一切残っていない。あるのは、相場より膨らまされた支払い伝票だけだった。
私はその決済の記録を一つずつ辿った。全ての伝票に判を押しているのは経理部長の黒木。そして東洋デリカに渡った金は別の口座を経由して、最後は個人へと流れ着く。その名は黒木の遠い親戚のものだった。
架空の取引先をでっち上げ、会社の金を自分の懐に入れていたのだ。私の背筋がすっと冷たくなった。抜き取られた額は、三年間で軽く一億円を超えている。
私はノートに書き留めた数字をじっと見つめた。これを表に出せば黒木部長は確実に終わる。けれど相手はこの会社で長く権力を握ってきた部長だ。ペーペーの契約社員の言葉に、一体誰が耳を貸すだろう。
ちょうどその頃、嫌な予感がした。最近、黒木部長が深夜に私の手元を窺っている。
「藤野さん、随分熱心に古い伝票を見ているそうじゃないか。」
ある日、背後から低い声がした。振り返ると黒木部長が氷のような目で私を見下ろしていた。心臓が大きく鳴る。気づかれた。しかも来週には期末の役員会が控えている。黒木部長にとって、私は決して無視できない邪魔者のはずだ。
その夜、私は震える手で集めた資料をそっと家に持ち帰った。
翌日から経理部の空気が明らかに変わった。黒木部長は私に一切、大事な仕事を回さなくなった。その代わり、彼はずっと私を監視するような目で見ている。
そしてある日、私は偶然耳にしてしまった。休憩室の隣、部長室から漏れてくる二人の話し声。一人は黒木部長。もう一人は、聞き覚えのある威圧的な声だった。財務担当の門脇常務。経理部を実質的に束ねている人物だ。
「例の契約社員が、東洋デリカを嗅ぎ回っています。始末してください。」
「お前が引き込んだ女だろうが。」
「ですが、下手に切ると労働問題に…」
「理由を作れ。全部、あの女がやったことにすればいい。」
私はその場で凍りついた。門脇。つまり、この横領は黒木一人の仕業ではなかったのだ。会社の上層部を巻き込んだ、組織ぐるみの不正。私が見ていたのは、氷山の一角に過ぎなかった。東洋デリカへ流れた金の本当の行き先は、もっと上にあった。
その夜から、黒木部長の動きが露骨になっていく。私のパソコンの操作履歴が誰かに調べられた形跡があった。机の引き出しの資料の並びも、微妙に変わっている。証拠消しにかかっているのだ。そして私に罪を被せる、その準備も。
田村さんにも迂闊には相談できない。巻き込めば、彼までこの会社にいられなくなってしまう。私はたった一人で、あまりにも巨大な壁と向き合っていた。家に持ち帰ったノートと資料だけが、今の私の唯一の頼りだった。それだけが、この不正を暴くたった一つの光だった。
私は鞄の底のノートをぎゅっと握りしめる。窓の外はいつの間にか、冷たい雨が降り始めていた。
そして、運命の期末役員会の朝が来た。私は控え室でじっと息を潜める。議題が財務報告に移ると、黒木部長が立ち上がった。
「役員の皆様に、大変残念なご報告がございます。」
彼は一枚の書類を高々と掲げた。
「経理の帳簿から、多額の不正不明金が見つかりました。」
ざわりと会議室がどよめく。
「調査の結果、東洋デリカという取引先への不正な水増し支払いが判明したのです。」
黒木部長はゆっくりと私を指差した。
「そして、その伝票を全て処理していたのが、この契約社員、藤野です。」
全員の視線が一斉に私へ突き刺さった。頭が真っ白になる。会議室の隅で田村さんが思わず立ち上がりかけたのが見えたけれど、隣の社員に袖を引かれ、彼は悔しそうに座り直す。
私が必死に集めていた証拠。それがそっくりそのまま、私自身の罪としてでっち上げられていた。
「違います。私はただ調べていただけで…」
「言い訳はいい。」
黒木部長は私の言葉を冷たく切った。
「全く、どういう育ち方をすれば、こんな盗みみたいな真似ができるんだ。親の顔が見てみたいものだな。どうせ、碌な親じゃなかったんだろう。」
その瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。私の父は、一縷のごまかしも許さない、誰よりも誠実な人だった。その父を、この男はたった今踏みにじったのだ。握りしめた拳が小さく震える。
それでも私は奥歯を噛みしめ、必死にこらえた。ここで泣いて取り乱せば、相手の思う壺だ。私は俯いたまま、胸ポケットの父の電卓を強く握りしめた。
役員会が終わっても、黒木部長の攻撃は止まらなかった。彼は私を経理部のフロアへ引き立て、見せしめのように声を張り上げた。
「こいつを今すぐ追い出せ。会社の金を横領したのはこの女だ。」
フロア中の社員が息を殺してこちらを見ている。私を指差す黒木部長の顔は勝ち誇って、見苦しかった。それでも私は言い返さなかった。言い返す言葉がなかったわけではない。今ここで叫んでも、何ひとつ証明できないからだ。
私は静かに顔を上げ、黒木部長をまっすぐに見つめた。そのぶれない視線が気に入らなかったのだろう。
「なんだ、その目は。盗人の分際で生意気な。」
黒木部長がさらに声を荒げた、その時だった。経理部の入り口に、一人の老人が静かに立っていた。白髪の、質素な身なりの老人。その手には、見慣れた小さな花束がある。毎朝電車で会う、あの人だった。
「藤野さん。これは一体、どうしたんだね?」
老人が心配そうに私の名を呼んだ。その顔を見た瞬間、張り詰めていた私の目に涙がにじむ。こんな惨めな姿を、この優しい人にだけは見られたくなかった。
けれど黒木部長はその老人を一瞥するなり、露骨に顔をしかめた。
「なんだ、この汚らしい爺は?関係者以外は立ち入り禁止だ。おい、誰かこの物乞いみたいな爺も一緒につまみ出せ。」
腰巾着の沢田主任がヘラヘラと追従して笑う。
「そうですよ。こんなじいさん、警備を呼んでさっさと追い出しましょう。」
フロアがしんと静まり返った。老人はただ静かに黒木部長を見つめている。その花束から、白い花びらが一枚、床に落ちた。
その時、フロアの奥の扉が勢いよく開いた。駆け込んできたのは、この会社の社長、大峰健二だった。その姿を見て社員たちが一斉に背筋を伸ばす。黒木部長も慌てて下手な愛想笑いを浮かべた。
「これは社長。お見苦しいところを。今、処分していたところで…」
けれど社長は黒木の言葉などまるで聞いていなかった。その目は入り口に立つあの老人に釘付けになっている。そして社長はさっと青ざめ、老人の元へ駆け寄った。
「会長!して、こんなところにいらっしゃるんですか?」
「会長」の一言に、フロア中の空気が一瞬で凍りついた。この質素な身なりの老人こそ、迷和物産を一代で築いた創業者、現会長の大峰その人だったのだ。
黒木部長の顔からみるみる血の気が引いていく。
「会長…?そんな、まさか…」
けれど私が本当に驚いたのは、その次の瞬間だった。会長が静かに私を掌で示しす。
「健二、こちらの藤野さんは、わしの大切な恩人だ。毎朝の電車で、誰にも見向きされない老いぼれに、この人だけが手を差し伸べてくれた。」
会長の声は静かだったが、フロアの隅々まではっきりと響く。社長は私の方へまっすぐ向き直った。そしてフロア中の全員が見つめる前で、腰を折り、深く頭を下げた。
「藤野さん。あなたに、当社はとんでもないご無礼をいたしました。」
社長が、契約社員の私に頭を下げている。その信じられない光景に、誰もが言葉を失う。黒木部長は口をパクパクさせるだけで、もう何も言えなかった。私はただ呆然と、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
社長に頭を下げられ、私の胸に熱いものが込み上げた。けれどここで泣いている場合ではない。私は涙を拭い、まっすぐに顔を上げた。
「社長、会長。私は横領なんてしていません。そして…」
私はずっと握りしめていた一冊のノートを差し出した。
「この会社の金を抜いていたのは、黒木部長です。証拠は全て、ここにあります。」
私は震える声を必死に抑えて続けた。
「東洋デリカは実態のない架空の取引先。三年間で一億円以上が、部長の親戚の口座へ流れています。」
黒木部長が顔色を変えて怒鳴った。
「証拠?そんなもの、契約社員が捏造したに決まっている。」
「いいえ。私は全ての伝票を、この電卓で計算し直しました。」
私は父の形見の電卓をそっと掲げた。
「本来の相場と水増しされた金額、その差額を一円単位で、日付ごとに記録してあります。」
社長がノートを受け取り、ページをめくる。その顔がみるみる曇っていった。
「これは間違いない。裏取りの数字まで、完全に一致している。」
その時、田村さんが意を決したように前に進み出た。
「僕も証言します。部長が、藤野さんに罪を着せろというのを、確かに聞きました。」
その声を皮切りに、俯いていた社員たちも次々と口を開き始める。もう、黒木部長を庇う者は、この場に一人もいなかった。
黒木部長は後ずさりしながら、なおも叫んだ。
「わ、私はただ、門脇常務の指示に従っただけだ。」
口が滑った。その瞬間、黒木は自分で墓穴を掘った。
「そうか。門脇常務も絡んでいるんだな。」
社長の声が、氷のように冷たくなった。私はそっと電卓を胸に抱いた。
お父さん、数字は本当に人を裏切らなかったよ。
それからの調査は、社長の主導のもと徹底的に行われた。私が残したノートと電卓で洗い直した記録が、動かぬ証拠になる。黒木部長が抜き取っていた金は、三年間で一億二千万円に上った。そしてその半分以上が、門脇常務へと渡っていたのだ。横領の共謀を描いていた本当の黒幕は、この門脇常務だった。会社を私物化し、長年甘い汁を吸い続けてきたのだ。
二人は役員会の場で、全社員の前で処分を言い渡された。黒木は懲戒解雇。長年の功績も退職金も、全て吹き飛んだ。だがそれだけでは済まない。迷和物産は二人を業務上横領の罪で刑事告発した。警察の捜査が入り、黒木と門脇は揃って逮捕される。取締役だった門脇は、その日のうちに解任された。築き上げてきた地位も財産も、家族の信頼も、何もかもを失う。抜き取った金の全額返済を求める民事訴訟も起こされた。
かつて黒木にへつらっていた主任の沢田は、真っ先に縁を切った。
「私は部長に脅されて、仕方なく従っただけです。」
けれど、その言い訳が通るほど社長は甘くなかった。沢田もまた、不正の隠蔽に加担した罪で解雇となる。腰巾着にすら見捨てられ、黒木はその場で泣き崩れた。
「頼む、社長。もう一度だけチャンスを。」
縋る黒木を、社長はただ冷たく見下ろした。食品業界は狭い。横領で会社を追われた二人を雇う会社など、どこにもない。
かつて私を盗人呼ばわりし、亡き父まで侮辱した男。その男が今、全てを失い、自分の罪の重さに震えている。私はその情けない背中を、ただ静かに見つめていた。
あの騒動から、季節が一つ巡った。私は今、迷和物産の正社員として監査室で働いている。契約社員だった私にその席を用意してくれたのは、社長だった。
「あなたのような人にこそ、この会社の数字を守ってほしい。」
社長はそう言って、もう一度深く腰を折った。田村さんも私の隣の席で、毎日忙しそうにしている。そして、会長の徳さんとは今も時々、あの朝の電車で顔を合わせる。手には、変わらず小さな花束がある。
「あの時、あなたを紹介して本当に良かった。妻にもね、自慢したんだよ。優しい孫みたいな子に会えたってね。」
私は思わずにじむ涙をこらえた。あの日、電車で席を譲っただけのほんの小さな親切。それが巡り巡って、こんな形で私を救ってくれるなんて。人に親切にすることは、決して無駄にはならない。父がいつも言っていた通りだった。
あんなに苦しかった日々も、今では遠い夢のようだ。気づけば私はこの会社で、胸を張って笑えるようになっていた。私の机の上には、今もあの古い電卓が置いてある。
少し前、その裏に小さな文字が掘られているのに初めて気づいた。
「感情は人の心を映す鏡。」
紛れもない、父の筆跡だった。きっと父は、私がいつか気づく日を信じていたのだろう。遅れて届いたその言葉が、胸の奥にとろりと染みた。数字は嘘をつかない。そして、まっすぐに生きた人のことも、決して裏切らない。
私は今日も父の電卓をそっと弾く。その乾いた音は、まるで遠くから届く父の声援のように、優しく響いた。



