警備員との結婚が決まった夜、母は「あんたもう31でしょ。選べる年じゃないのよ」と言った。父は「お前には堅実な人の方が合ってる」と新聞も見ずに言った。姉は「千夏にはお似合いじゃない?」と笑った。私は何も言い返せなかった。31年間、ずっとそうだったから。この家では姉が上で、私はいつも「下」。そんな私の人生を変えたのは、たった一度の「身代わり」の見合いだった。その席で、初めて会った警備員の男が言っ…

警備員との結婚が決まった夜、母は「あんたもう31でしょ。選べる年じゃないのよ」と言った。父は「お前には堅実な人の方が合ってる」と新聞も見ずに言った。姉は「千夏にはお似合いじゃない?」と笑った。私は何も言い返せなかった。31年間、ずっとそうだったから。この家では姉が上で、私はいつも「下」。そんな私の人生を変えたのは、たった一度の「身代わり」の見合いだった。その席で、初めて会った警備員の男が言っ...

姉が釣り書を指先で弾いた。テーブルを滑っていく紙切れ。母は姉の湯呑みに茶を注ぎ、こちらを見なかった。

「じゃあ血でいいじゃない」

箸を持つ手が止まった。父が新聞から目を上げた。

「お前には堅実な人の方が合ってる」

姉が声を上げて笑った。私は何も返さなかった。31年間、ずっとそうしてきた。

私は瀬川千夏、31歳。桜井台の外れにあるスーパー「フレッシュマート桜井台店」でパートをして8年になる。時給は1100円。一日5時間、月に20日ほど働いて、手元に残るのは10万円ちょっと。実家に月3万円を入れている。

高校を出てすぐ入った小さな会社が潰れて、それからずっとレジの前にいる。

姉の瀬川霞は34歳。県立の進学校を出て有名な私立大学を卒業し、丸級食品の法人営業部で主任をしている。うちの家族を紙に書くなら、それで足りる。姉のことは三行あっても足りないのに、私のことは一行で余ってしまう。

今の壁には賞状が7枚掛かっている。全部、姉のものだ。母は近所の人を呼んでは、その壁の前でお茶を出す。

「うちの霞はね、偏差値70なのよ」

何度その言葉を聞いたか分からない。私が小学4年の時、図工のコンクールで佳作をもらったことがある。母は封筒の中身をちらりと見て、こう言った。

「あら、佳作って入賞みたいなものでしょ」

それ切り。その賞状がどこへ行ったのか知らない。あの壁に私のものが並ぶことは、その後も一度もなかった。

高校3年の秋。担任に勧められて、県内の短大の指定推薦を受けたいと思った。学費のことは分かっていたから、奨学金の書類まで自分で取り寄せた。夕飯の後、父に切り出した。

「お父さん、私、進学したいんだけど」

父は湯を置いて、一呼吸だけ黙った。

「うちは上の娘からだ。霞が大学に行ってる。同じ時に2人は無理だ」

「でも奨学金なら」

「借金だぞ。返せるのか」

母が台所から顔を出した。

「千夏は勉強向いてないでしょ。無理させても可哀相よ」

母は本気でそう思っていた。私を守っているつもりで言っていた。だからこそ、その言い方はどんな叱り方よりも深く刺さった。父が新聞を畳んで立ち上がった。

「働け。手に職をつけろ。その方がお前には向いてる」

その日、書類は台所のゴミ箱に捨てられていた。父が捨てたのか、母が捨てたのかは、今も知らない。

夕飯後の皿洗いは、私の役目だと決まっていた。誰が決めたわけでもない。ただ、いつからか私が立つようになって、誰も変わらなかった。

「千夏、お茶」「千夏、そこの灰皿」

呼ばれるのはいつも台所にいる私で、その台所から居間の笑い声だけがよく聞こえた。

三年前の年末、風邪で熱を出した時、一度だけ姉に頼んだことがある。

「お姉ちゃん、今日だけお皿お願いできる?」

姉は画面から目を離さずに答えた。

「私、明日プレゼンなんだよね。千夏は明日レジでしょ。座ってられるじゃん」

私はその夜も皿を洗って、洗い終わってから熱を測った。

前の年の暮れ、父の会社の人が家に来たことがあった。父は姉のことを長々と話した後、私を指してこう言った。

「下はそのスーパーで働いています」

「えっと、駅前の」

「駅前ではない。桜井台の坂の上だ」

8年通っている店の名前を、父は一度も正しく言ったことがない。

その年の1月のことだった。夕方、玄関のチャイムが鳴った。出て行くと、父の高校の2年先輩だという脇坂さんが立っていた。「赤月ビルサービス」という警備と清掃の会社で40年、総務の書類仕事をして定年まで勤めた人だ。薄い茶封筒を両手で持っていた。

「千夏さんだね」

「はい」

脇坂さんは私の顔をしばらく見てから、封筒を胸の高さに上げた。

「お父さん、いらっしゃるかな?」

その封筒には釣り書が入っていた。姉への見合いの話だ。

父は「これは霞のだ。お前は関係ない」と言って、封筒を新聞に挟んで自分の部屋へ持っていった。母は電話の受話器を握って廊下に出ていた。

「そうなの? 霞にね、お見合いの話が。ええ、先方も真面目な方だそうで」

声が弾んでいた。上の娘にいい話が来た。それだけで嬉しいのだ。

話が動いたのはその週の終わりだった。姉が仕事から帰ってきて、テーブルの隅に広げられた紙を覗き込んだ。先方の釣り書だ。名前と生年月日と学歴と職業を書いて、相手の家に渡す紙のことだ。

「へえ。36歳。高野直樹さん。真面目な青年らしいぞ」

父の声には珍しく張りがあった。姉がめくった。二枚目に職業欄がある。そこで姉の指が止まった。

「警備員?」

居間の空気が一度止まった。姉が紙の職業欄を指の背で叩いた。

「警備員って、あの道路で棒振ってる?」

「大きな商業施設の警備だそうだ。交通誘導もやってると」

「同じことじゃない」

姉が背もたれに体を預けた。

「警備員? 私、偏差値70の高校出て有名大学まで行ったのよ。なんで私がそんな人と結婚しなきゃいけないの?」

母が困ったように笑った。

「まあ、堅い仕事ではあるけどね」

「堅いって言い方やめてよ。要するにお金がないってことでしょ」

姉が携帯を取り出して指を動かした。

「友達に送っとか。見合いで警備員だって」

「霞」

「冗談だってば」

冗談だと言いながら、姉は本当に送っていた。翌日、返信を読み上げて母と二人で笑っていた。

私がその時、会ったこともない人の職業だけが、笑い声の中に放り出されていた。なぜか自分が笑われているように聞こえた。

姉は職業の三文字で紙を置いて、それきり戻ってこなかった。私は伏せられた紙を裏返して、二枚目を元の向きに直した。

「赤月ビルサービス株式会社 桜井台事業所」

あの夕方、封筒を持っていた脇坂さんが定年まで勤めた会社と同じ名前だった。

姉が父の方を向いた。

「お父さん、脇坂さんに悪いとかそういうので話持ってきたんでしょ? 私の一生の話だよ」

父は何も言い返さなかった。それでも父は、その日だけは一度だけ食い下がった。

「脇坂は悪い話は持ってこん男だ。一度会うだけでも」

「会ったら断りにくくなるじゃない」

「先方は“そのうちに”と言ってきてるんだ」

「じゃあお父さんが会えば」

姉が背もたれに体を投げ出した。父は口を開きかけてやめた。今思えば、父はこの時、言葉の途中で止まっていた。

母が茶を足しながら、こちらを見もせずに言った。

「じゃあ血でいいじゃない」

私は洗い終わった皿を布巾で拭いていた。手が止まった。父が新聞から目を上げた。

「お前には堅実な人の方が合ってる」

姉が声を上げて笑った。

「さあさあ、千夏にはお似合いじゃない?」

翌朝、母が台所で言った。

「千夏、あなたもう31でしょ。選べる年じゃないのよ。霞はね、これから条件のいい話がいくらでも来るの。あの子にはその順番があるんだから」

順番。母はその言葉を悪気なく使った。悪気がないから、直しようがなかった。

その週から、姉の帰りが遅くなった。夜の11時過ぎに玄関で長い間電話をしている。声はほとんど聞こえない。ただ、切った後の姉の顔だけは、居間の明かりの下でよく見えた。あれは仕事の顔ではなかった。

3月2日、駅前のホテルの1階にある天井の高いラウンジ。私は母に借りた紺のスーツで10時20分にそこへ着いた。出がけに母が言った言葉がまだ耳に残っていた。

「先方に霞のことは言わなくていいからね。断られた話だなんて恥ずかしいでしょ」

11時ちょうどに、その人は来た。濃紺のジャケットに白いシャツ。背は高いけれど、姿勢は前に出ていない。テーブルの前で足を止めて、まっすぐこちらを見た。

「瀬川千夏さんですか?」

「はい」

「高野直樹です。今日はありがとうございます」

座る前に深く頭を下げた。頭を下げるのに慣れている人の下げ方だった。

最初の30秒はどちらも黙っていた。先に口を開いたのは直樹さんの方だった。

「すみません。本当に申し訳ないと思っています」

「あの、どうして高野さんが謝るんですか?」

直樹さんは一言置いてから、まっすぐ答えた。

「身代わりでここに来させられたんですよね」

心臓が音を立てた。誰も言っていないはずだ。なのに、この人は最初からそれを知っている顔をしていた。

「どうしてそう思うんですか?」

直樹さんは内ポケットに手をやった。何かをつまみかけて、そのまま指を戻した。

「今日はその話はやめておきましょう。今日はあなたの話を聞きに来たので」

私は何も返せなかった。その人はそれ以上話をしないで、代わりにこう言った。

「嫌なら断ってください」

「断っていいんですか?」

「もちろんです。僕は誰かの代わりと結婚したいわけじゃありません」

言葉が体の内側に落ちた。31年生きてきて、私はいつも誰かの代わりだった。姉の代わりに笑い、姉の代わりに親戚の相手をし、姉がいらないと言った縁談の行き先になった。その役目を、初めて他人が否定した。

「高野さんは、私のこと、姉の妹だと思って会いに来たわけじゃないんですか?」

「一度も思ってません。今日ここに座っているのはあなたです。僕が話したいのもあなたです」

それから1時間、私たちは大した話をしなかった。直樹さんは桜井台ショッピングセンターで警備の仕事をしていること。朝は7時から立つ日があること。雨の日は視界が悪くなるので、車も人も動きが読みにくいこと。

「危なくないんですか?」

「危ないですよ。だから立ってます」

真面目な顔でそう言うので、私は思わず笑ってしまった。笑ったのが久しぶりで、自分で驚いた。

「瀬川さんはどんなお仕事を?」

「スーパーです。レジと品出し。フレッシュマートの桜井台の店ですか?」

「はい」

私は水のグラスを持ったまま止まった。店の名前を言われたのは初めてだった。父にも母にも姉にも、一度も正しく言われたことのない名前だった。

その時、鞄の中で携帯が鳴った。母からだ。三度目で席を立って廊下に出た。

「どうなの? まだいるの?」

「まだ話してる」

「長いわね。断られたなら早く帰ってきなさいよ。あまり自分から喋らないでね。喋ると余計に」

席に戻ると、直樹さんは何も聞かなかった。ただ、私の前に新しいカップが置かれていた。

「頼んでおきました。冷めていたので」

別れ際、直樹さんはまた深く頭を下げた。

「今日のことは僕から脇坂さんに話しておきます。断られてもご迷惑がかからないようにします」

「はい」

「もう一度だけ会っていただけますか?」

自分の声だった。自分でも驚いた。直樹さんは目を丸くしてから、ゆっくり頷いた。

「はい。是非」

その夜、帰る前に店によって、休憩室でいごさんに話した。

「その人なんて言ったの?」

「誰かの代わりと結婚したいわけじゃないって」

いごさんはしばらく黙ってから湯呑みを置いた。

「千夏ちゃん。それね、多分この町で一番贅沢な言葉よ」

見合いを入れて5月までの間に、私たちは4度あった。二度目は川沿いの河川敷を歩いた。直樹さんは中古の軽自動車で迎えに来た。現場の話をする時、その人は声が明るくなった。

「どうして警備のお仕事を選んだんですか?」

「祖父に言われました。人を使う前に、一番下の現場を知れって」

「おじい様、厳しい方なんですね」

「厳しいです。でも、僕は自分でやると決めました」

「大変じゃないですか?」

「夏は倒れそうになります。冬は足の指の感覚がなくなります」

「じゃあ、嫌ですよね」

「いえ。一日終わって事故が一件も起きなかった日は、ちゃんと嬉しいんです。誰も僕がいたことを覚えていませんけど、それでいいんです」

「私も似てるかもしれません。レジって、間違えなかった日は誰も何も言わないんです。間違えた日だけ言われます」

直樹さんが振り返った。

「同じですね」

その時、初めてこの人とは同じ側に立っていると思った。

三度目は、定食屋に入った。会計の時、直樹さんは下げに来た店員さんに顔を上げて言った。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

店員さんが驚いた顔をした。驚かれるくらい、それは珍しいことなのだ。

四度目は、ショッピングセンターの中の喫茶店。駐車場が見下ろせる席で、直樹さんは下を指した。

「あそこの出口が一番危ないんです。歩いてくる人が車から見えないので」

「じゃあ、高野さんはいつもあそこに立ってます」

「雨の日は特に」

「どうして私だったんですか?」

直樹さんはカップを置いた。答えるまでに、いつもより長い間があった。

「話したいんですが、今はやめておきます」

「隠し事ですか?」

「隠すというより、順番があると思っていて」

順番。その言葉をこの人の口から聞きたくなかった。うちで毎日聞かされている言葉だったからだ。

「言い方が悪かったです。今言ったら、あなたが誰かに何かを証明しなきゃいけなくなる。それが嫌なんです」

意味が取れなかった。この人は自分より下の人を作らない。誰かを踏み台にして自分の位置を図ることをしない。私の家に一番足りないものが、この人にはあった。

5月の半ば、店が一番混む夕方のことだった。私は三番のレジに立っていた。列が7人ほど並んでいて、私の手はほとんど機械のように動いていた。その列の後ろから、聞き慣れた声がした。

「ああ、いた」

姉だった。会社の名札を首から下げたままだ。カゴに入っているのは炭酸水と菓子だけ。列を無視してレジの脇まで来た。

「千夏」

「ちょっとお姉ちゃん、今仕事中だから」

「一分でいいって」

後ろの人が動いた。私は手を止めずに次の商品を通した。

「あのさ、お母さんが言ってたんだけど、あの警備員の人と会ってるの?」

声を潜める気配が全くない。列の全員に聞こえていた。

「今は仕事中だから。別にいいじゃん。レジなんて誰でもできるんだし」

カゴの中の炭酸水を、姉が台に置いた。置き方が乱暴で、瓶がぶつかる音がした。

「ねえ、千夏」

「うん」

「一生ここでレジ打ってるの?」

時間が止まった。音は止まらなかった。バーコードを通す電子音も、後ろの人の咳払いも、空調の音も鳴っていた。それなのに、耳の中だけが静かになった。その言葉を、私は前にも聞いたことがあった。三年前だ。同じ場所で、姉は同じことを言った。言い返さなかった日のことばかり、人は覚えている。

「お会計680円です」

「無視しないでよ」

「680円です」

姉は財布から千円札を出して、台に投げるように置いた。私は釣りを数えて、レシートと一緒に姉の手のひらに乗せた。

「お待たせしました」

「あっそ」

姉はレジ袋を待たずに歩き出した。二歩進んで、振り返った。

「ああ、それいらない。持って帰るの重いし」

炭酸水と菓子の入った袋が、私の側の台に置き去りにされた。姉はもう出口を出ていた。誰も何も言わなかった。

その後、いごさんが袋を持ち上げた。

「これ、休憩に置いとくよ」

「はい」

「あんた、手震えてる」

「大丈夫です」

「大丈夫って。あんた、その言葉しか持ってないの?」

いごさんは怒っていた。私にではなく、多分姉に。誰かが私の代わりに怒るのを見たのは、それが初めてだった。

その日の閉店後、浜口店長がレジの前まで来て、こちらを見ながら言った。

「セ川さん」

「はい」

「お客さんの前であれだけ我慢できる人は、なかなかいない」

「すみません」

「謝ることじゃない。褒めてるんだ」

店を出ると外はもう暗かった。坂を下りながら、私は自分の手のひらを見た。まだ震えていた。腹が立ったのは私自身にだ。三年前もその日も、私は同じ場所に同じ顔で立って、同じように黙っていた。三年経って、何も変わっていなかった。

家に帰らずに、途中の公園のベンチに座った。街灯の下で携帯を取り出して、三月から一度もこちらからかけたことのない番号を押した。呼び出し音が3回鳴って、その人が出た。

「もしもし」

「あの、瀬川です。夜遅くにすみません」

「いえ、どうしました?」

「どうしました」と聞かれた瞬間に、堪えていたものが全部出た。公園の灯りの下で、私は自分でも驚くほど泣いた。何を言っているのか自分でも分からなかった。姉のこと、レジのこと、三年前も同じだったこと。直樹さんは途中で一度も相槌を打たなかった。ただ、電話の向こうで確かに聞いていた。

泣き止んでから、私は謝った。

「すみません。こんな話」

「今どこにいますか?」

「桜井台の坂の途中の公園です」

「15分で行きます。動かないでください」

本当に15分で、白い軽自動車が来た。直樹さんは制服のままだった。仕事上がりで、着替えもせずに来たのだと分かった。

車から降りて、ベンチの前に座って直樹さんは言った。

「送ります。家じゃなくていいなら、どこでも」

「ここでいいです」

しばらく二人とも黙っていた。街灯に虫が集まっていた。

「一つだけ言っていいですか?」

「はい」

「今日のことは、セ川さんが悪いんじゃありません」

「でも、言い返せなかったのは私です」

「言い返せなかったんじゃなくて、言い返せない場所に立たされてたんだと思います」

「同じことです」

「違います。三番のレジはあなたの持ち場です。持ち場に立っている人は、そこで言い返しません。客の前だからです。それを分かってて来たなら、来た方が悪いです」

その言い方は、警備の人の言い方だった。

「私、あそこを持ち場だと思ったことなかったです」

「じゃあ、今日から思ってください」

その沈黙を破ったのも、直樹さんの方だった。

「セ川さん、前に言いましたけど。ご家族に言われたからという理由で結婚する必要はありません。今からでも断って構いません。僕は脇坂さんにきちんと説明します」

この人は最後まで私に逃げ道を用意しようとしている。逃げ道を用意する人は、私の人生でこの人だけだった。

「違います」

「え?」

「最初はそうでした。家に言われたから来ました。でも、今は違います。今は私が直樹さんと結婚したいです」

虫の音が聞こえた。それくらい長い間があった。直樹さんは膝の上で手を組んだまま、まっすぐ前を見たまま言った。

「僕でいいんですか?」

「直樹さんがいいんです」

その人は一つ息を吸って、頭を下げた。

「ありがとうございます。大事にします」

それだけだった。それなのに、私はその夜のことを一生覚えていると思った。

両親に報告したのは6月の頭だった。夕飯の後、皿を下げる前に、私は立ったまま言った。

「お父さん、お母さん、高野さんと結婚しようと思います」

父が新聞を下ろした。母が口を開いた。

「あっそ」

母の言葉はそこで終わった。「おめでとう」は最後まで出てこなかった。

「向こうのご両親は、いつ挨拶に来られるの?」

「お仕事で海外にいらっしゃるそうです。秋になったら戻られると聞いてます」

「まあ、海外に単身赴任。大変ね」

父は腕を組んでしばらく考えてから言った。

「式はどうする?」

「まだ何も派手にはできんぞ」

「はい」

「霞の時のためにこっちは取っておかないといかん」

「取っておくって」

「支度金だ。二百万用意してある。霞はうちの顔だ。相手のご家庭もそれなりのところになるだろう。恥をかかせるわけにはいかん」

「お姉ちゃん、まだ結婚してないよね」

「これからだ」

「私の式は今年だよ」

「だから身内だけでやると言ってる」

台所から母が続けた。

「そうよ。千夏のところは気楽でいいじゃない。帰って羨ましいわ」

気楽。その言葉を母は私が生まれてからずっと使ってきた。

翌日、母は近所の人に電話をしていた。

「ええ、下の子がね。ええ、そう。堅い勤務先なんですって。ええ、まあ霞とは違いますけどね」

「違いますけどね」。その一言を母は電話の度に必ずつける。つけないと話が終わらないのだ。

「あと千夏」

「うん」

「結婚しても月3万は入れてちょうだいね」

手が止まった。

「うちだって家計があるのよ。お父さんもこの秋で定年でしょ。あなた、8年入れてくれてたじゃない」

「でも結婚したら家を出るのに」

「育ててもらった分でしょ。おかしなこと言わないで」

そこへ姉が風呂から出てきた。髪にタオルを巻いたまま冷蔵庫を開けて、こちらを見た。

「何揉めてるの?」

「千夏が結婚するって」

姉が冷蔵庫を閉めた。そして笑った。

「へえ。本当に警備員と結婚するんだ」

「うん」

「すごいね。私だったら無理だな」

「もう」

「悪い意味じゃなくて。千夏ちゃんはそういうの気にしないでしょ。偉いと思う」

褒めているつもりの言葉が、一番深く刺さる。姉は多分一生、それに気づかない。

その週末、直樹さんに全部話した。定食屋の隅の席で、父と母の言葉をそのまま伝えた。伝えながら恥ずかしくてたまらなかった。直樹さんは箸を置いて、少し考えてから言った。

「式は二人でやりませんか? 二人で写真だけ撮って、あとは千夏さんの好きなものを食べに行く。それでもいいですか?」

「いいんですか?」

「僕は豪華な式より、千夏さんが笑ってくれればいいです。ご両親には後で写真を見せます。それでちゃんと伝わります」

翌日、休憩室でいごさんに報告した。

「結婚するんです」

「あの“代わり”って言われた人?」

「はい」

「あんた、それでいいの?」

「良くないです。始まりは最悪です。でも、決めたのは私です」

いごさんは黙って、それから急に立ち上がって、休憩室の棚から缶詰を出してきた。

「お祝い。これしかないけど」

「ありがとうございます」

「千夏ちゃん。あんた、ちょっと顔が違うよ」

その日、店を出る時、浜口店長が事務所から顔を出した。

「セ川さん、おめでとう」

「なんで?」

「中西さんが売り場中に行って回ってる」

家では誰も言わなかった言葉が、店では半日で全員に届いていた。

月3万円のことも話した。直樹さんは表情を一つ動かさずに聞いてから、こう言った。

「それは千夏さんが決めることです。僕は口を出しません。出したら、僕が決めたことになります。それだと、また誰かに決められた人生になります」

言われて息が詰まった。この人はずっとそこだけを見ている。私が自分で決めたかどうか、それだけを見ている。

7月に入ると、母は急に張り切り出した。結納の儀だ。母にとってそれは相手の家を採点する場だった。

「向こうのご両親、どんな方なのか知らんね。お仕事は何をされてるの?」

「詳しくは聞いてません」

「聞きなさいよ。そういうのは先に聞いておくものよ」

結納の段になって、直樹さんから連絡が来た。両親はやはり秋まで戻れないという。父に伝えると、箸を持つ手が止まった。

「秋までというのは聞いておったが、一日もか」

「はい。頼むだけは頼んでくれたそうです」

「仕事だろ。娘の顔に一日も都合がつかんのか」

結局その席は、7月の半ばに駅前の料理屋の小さな座敷で開かれた。瀬川側は父と母と私。姉は仕事と言ってこなかった。向こうは直樹さん一人。そして間に脇坂さんが座った。乾杯の後、父が直樹さんに言った。

「高野君。うちはね、食品でね。偏差値70の高校出てるんだ。あの県立のな」

脇坂さんは頷いた。

「立派ですね」

「まあ、下でな。手のかからん子ではある」

私は膝の上でお絞りを畳んだ。畳んで広げて、また畳んだ。

父が箸を置いた。

「高野君、失礼だが、その仕事はいつまで続けるつもりかね?」

「決まっていません。今の現場がまだ終わっていないので」

「終わるも何も、警備だろ」

父は笑った。母も笑った。笑いながら、二人は自分たちが何を言ったのか分かっていない。

「うちの千夏を食わせてはいけるのかね」

「はい。二人で働けば二人でやっていけます。千夏さんは仕事を続けたいと言ってます。僕もその方がいいと思います」

「奴隷のように働かせるのか?」

「働かせるんじゃありません。続けるんです」

そこだけ直樹さんの声が強くなった。

座敷を出る時、父が私の耳元で言った。

「いい人じゃないか。お前には上等だ」

その言葉の意味を、私はもう考えないことにしていた。ただ、その後一度だけ、脇坂さんはこちらを見た。父ではなく、私を見た。何か言いたそうな目だった。言いたそうなまま、その人は最後まで何も言わずに帰っていった。

帰り道、直樹さんに聞いた。

「脇坂さん、何を言いかけたんでしょう?」

「僕からは言えません」

「知ってるんですか?」

「知ってます。でも、今言うと、あの家の中で千夏さんの立場が悪くなるからです」

この人はいつも私の側に立つために黙る。それが分かるから、それ以上は聞けなかった。

その話が動いたのは7月の終わりだった。店に丸級食品の営業担当が来た。小島さんという27歳の人で、月に二度売り場の棚を見に来る。

「ああ、セ川さん。もしかして法人営業のセ川主任のご家族ですか?」

「妹です」

「やっぱり苗字、珍しいから。主任、今どうされてます?」

「どうって?」

「ああ、いえ、春先にちょっと大変そうだったので」

私は缶詰の列を揃える手を止めた。

「大変って?」

小島さんは言ってから、失敗したという顔をした。それでも、もう半分は出ていた。

「その、社内の方と長いみたいで。2年くらい。社内の方、うちの営業のもう移動されましたけど」

「初耳です」

「ああ、私、余計なことは言わない方が。お願いします、誰にも言わないで」

小島さんは棚の前で頭を下げて、それから小さな声で付け足した。

「主任、いい人ですよ。仕事はすごくできるし。ただ、ご家族の話をされる時、いつも妹さんのことを」

「私のこと、何か言ってましたか?」

「ああ、いえ、すみません。余計なことを」

小島さんはそれきり口をつぐんで、伝票を書いて帰っていった。

1月のことを思い出した。姉が釣り書の職業欄を見て、三文字で紙を離した日。その週から夜遅くまで玄関で電話をしていた日々。姉が断ったのは警備員だったからじゃない。断る理由が他にあったのだ。ただ、それを親に言えなかったから、一番言いやすい理由を選んだ。職業、学歴、年収。この家で一番通りのいい言い訳を、姉は選んだのだ。

私はあれの代わりにされたと思っていた。でも本当は、あれの“嘘”の代わりにされたのだ。

式は8月の終わりにした。市内の写真館の2階に、小さな式場が併設されている。衣装と写真と簡単な誓いの言葉だけで18万円。全部で2時間もかからない。

「本当にここでいいんですか?」

「私が選びました。なら、いいです」

直樹さんは費用を全部払った。私が半分出すと言うと、首を横に振った。

「ここは僕に出させてください。一つくらい格好をつけたいので」

当日、両親は来た。姉は来なかった。「霞は出張だって」。母はそう言ったけれど、その日の夕方、姉が友達と食事をしている写真を後で母の携帯で見せられた。見せながら、母は何も言わなかった。

控え室で母は私の白い衣装を上から下まで見て、こう言った。

「レンタルね」

写真を撮る段になって、カメラマンさんが声をかけた。ご家族もご一緒にいかがですか、と。

父が手を振った。

「いや、いいよ。そういうのは霞の時にな」

母も笑って断った。

「そうよ。今日は二人の記念でしょ」

私は白い衣装のままその場に立っていた。何か言いたかったけれど、口を開くと涙が出そうだったからやめた。その時、直樹さんが前に出た。

「では、僕たち二人で撮ります。カメラマンさん、よろしくお願いします」

そして、私にだけ聞こえる声で言った。

「千夏さん、今日の写真は後で何度も見ることになります。だから、今だけは笑ってください」

私は笑った。ちゃんと笑えたかどうかは分からない。

誓いの言葉は短いものだった。司式の人が読み上げて、私たちが順番に答える。

「病める時も健やかなる時も、支え合うことを誓いますか?」

「誓います」

直樹さんの声は大きくなかった。それでも、部屋の隅まではっきり届いた。

私の番になって、声が出るか心配になった。

「誓います」

出た。自分の声だと分かる声が出た。

撮影が終わった後、写真館の年配の女性が私の裾を直しながら言った。

「お客さん、今日一番いい顔してましたよ。神父さんが旦那さんを見る顔がね、こんなに優しいのは久しぶり」

その言葉を、私は家族の誰からももらえなかった祝いの言葉として受け取った。

両親は写真を一枚も撮らずに40分で帰った。その日の夕方、私たちは駅前の定食屋に行った。三度目に会った店だ。直樹さんはいつもの唐揚げ定食を頼んで、私も迷ってから同じものを頼んだ。

「結婚式の日に唐揚げですね」

「贅沢な日です」

同じ唐揚げが二人分並んでいます。その一言で、私は泣いた。

9月から、桜井台の駅の反対側にある二部屋に台所のついたマンションで暮らし始めた。家賃は7万8000円。エレベーターがなくて、三階まで階段を登る。直樹さんは朝の6時に出ていく。制服に着替えて、名札を胸につけて、玄関で靴のかかとを合わせる。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

最初の給料日、私は困った。八年間、給料日は封筒から三万を抜いて実家に置くところから始まっていた。残りをどう使うかを自分で決めていいと言われると、その金額が急に大きく見えた。

「これ、どうしましょう?」

「千夏さんのお金です」

「でも、家のお金にしないと」

「家のお金は僕が入れます。千夏さんの分は千夏さんが決めてください」

「決め方が分かりません」

本気でそう言った。直樹さんはしばらく考えて、台所の引き出しからノートを一冊出してきた。

「じゃあ、書きましょう。使ったものと、残った額を」

その夜から、私たちは一冊のノートを台所に置くようになった。私は青いペン、直樹さんは黒いペン。ページの右上に、その日の天気を書く。それが直樹さんの癖だった。

「なんで天気を書くんですか?」

「現場の時の癖です。雨の日は事故が増えるので」

そのノートに、私は初めて自分の欲しいものを書いた。3200円の靴下と1800円の本。書いてから顔が熱くなった。

「これ、無駄遣いですよね」

「ノートに残ってるだけで、立派です」

その暮らしの中に、小さな引っかかりが増えていった。一つは、週に二度、直樹さんがスーツで出かけることだ。

「今日はお仕事じゃないんですか?」

「本社の方に少し用があって」

「本社って、直樹さんを雇うところなんですか?」

「向こうから頼まれることがあるんです」

それ以上は聞かなかった。二つ目は本棚だ。直樹さんの本棚には、経営の本、会計の本、人の使い方の本が並んでいた。分厚くて、付箋がたくさん張ってある。

「難しそうな本ですね」

「勉強しないと、上の人と話が通じないので」

三つ目は電話だ。夜に直樹さんの携帯が鳴ると、その人はベランダに出る。話し方が変わる。低くて短くて、確認するような話し方に変わる。

10月の初め、私は休みの日にショッピングセンターへ買い物に行った。一階の出入り口の脇に、濃紺の制服の人が立っていた。年配の男性だ。直樹さんが話していた班長の元橋さんだと、名札で分かった。

「あの、すみません。高野の妻です」

元橋さんは背筋を伸ばして帽子に手をやった。

「これはこれは、奥さん。いつもお世話になってます」

「こちらこそ」

「あいつは真面目です。警備に入って4年。途中の2年はよその現場に出ておりましたが、こっちへ戻ってからはこの現場を離れません。近頃は本社に呼ばれる日があるようです。休みもあまり取りません。若いのに珍しいです」

「あの、うちの人はどんな感じですか? 仕事の時」

元橋さんは白い髭を動かして笑った。

「叱られてばかりです。叱っとるのは、自分です」

「そうなんですか」

「声が小さい、立ち方が浅い、無線が長い。毎日言うてます。よく続きますね」

「続きますよ。あいつは、言われたことを次の日にちゃんと直してきません。あれができる若いのは、滅多にいません」

元橋さんは駐車場の方へ目をやった。

「あそこの出口はね、危ないんです。持ち場は自分が決めるんですが、あそこだけは本人が譲りません」

持ち場。その言葉をまた聞いた。

おかしいと思った。本社というのは、現場の警備員を週に二度も呼びつけるところなのだろうか。夜、洗濯物を畳んでいる時、そのスーツを手に取った。シワの寄り方が、休日に着るものの寄り方ではなかった。座って立って、また座る人のシワだった。この人の給料の額は、一度も見たことがなかった。聞けばいい。聞けば済む話だ。それなのに私は聞かなかった。31年、私は自分から確かめようとしたことが一度もなかった。確かめないことが、私の身の守り方になっていた。

10月の半ば、母から電話が来た。

「千夏、ちょっと相談があるんだけど」

「相談」という言葉を、母は要求の意味で使う。八年、その使い方しか見たことがない。

「霞の式の積み立てをね、始めようと思って」

「お姉ちゃん、まだ結婚してないよね」

「これからよ。用意しておかないと、いざという時に困るでしょ。それでね、今まで入れてくれてた三万。これからも続けてちょうだい。半分はその積み立てに回すから」

私は台所に立ったまま、上の時計を見ていた。湯が湧く音がしていた。

「それ、お姉ちゃんの式の積み立てに回すってこと?」

「回すも何も、家のお金でしょ。急にゼロになったら、こっちの家が回らないのよ。お父さんも来月で定年だし」

「じゃあ、それは生活費ってこと?」

「まあ、そうね。半分は積み立てますけど」

私は電話を耳から離し、台所の家計簿ノートを開いた。青いペンと黒いペンで埋まったページの、一番後ろの余白に数字を書いた。

三万 × 12ヶ月 × 8年。

書き並べてみると、288万円になった。その計算をしたのは、その時が初めてだった。母が言っていた姉の支度金は200万円。私が入れた金は288万円。その数字を並べた瞬間に、腹の底が冷たくなった。

「お母さん」

「なあに」

「出しません」

電話の向こうが黙った。

「今、なんて?」

「三万は出しません」

「千夏、あなた、そういう子じゃなかったでしょ」

「そういう子でした。でも、もうやめます」

「結婚したら急に強気になるのね。旦那さんに何か吹き込まれたの?」

「直樹さんは何も言ってません。この話も、まだしてません」

「じゃあ、どうして?」

理由を言うのに、私は時間がかかった。声が震えないようにするのに、時間がかかった。

「お姉ちゃんの支度金は200万円で、私が8年で入れたのは288万です。私の方が多いです」

「何を言ってるの? 計算なんかして」

「計算しました。初めてです」

「気持ち悪い」

そう言って、母は電話を切った。30分後、今度は姉からかかってきた。

「千夏、ちょっと。お母さん泣いてるんだけど」

「うん」

「何なの? 急に金の計算とか、みっともないよ」

「お姉ちゃんは、いくら入れてたの?」

姉が黙った。

「入れてないよね。私は、私の学費でお金がかかってるから、その分ちゃんと働いて返してるようなもんじゃん」

「お姉ちゃんは返してないよ。一円も返してないよね。私が8年で入れたのは288万」

「何その数字? 気持ち悪い」

母と同じ言葉だった。この家では、数えることは下品なことになっている。数えないから、いつまでも私の側だけが減っていく。

その後、父からもかかってきた。

「千夏、母さんを困らせるな」

「困らせてないよ」

「入れられないなら入れられないでいい。ただ、言い方というものがある。計算持ち出すな。家族なんだから」

三人とも、私が並べた二つの数字について、多い少ないを言おうとはしなかった。比べてしまえば、どちらが多く出しているかがはっきりしてしまうからだ。

その夜、直樹さんが帰ってきて私の顔を見るなり言った。

「何かありましたか?」

「実家にお金を出さないって言いました」

「そうですか」

「怒らないんですか?」

「僕が怒る話じゃありません。千夏さんが決めたことです」

それだけ言って、その人は台所に立って味噌汁を温め直した。しばらくして、背中を向けたまま付け足した。

「よく言えましたね」

その一言で、私はまた泣いた。

10月の終わり。休憩室でいごさんが茶を入れながら言った。

「千夏ちゃん、あんた5月のあの日のこと覚えてる?」

「お姉ちゃんが来た日ですか?」

「そう。あの日ね、私、店長に言いに行ったの。三番のレジで家族が来て、あんな言い方をした。あれは客じゃない。次に来たら私が出るって」

「あの時、店長を呼んだの、いごさんだったんですね」

「そう。中身までは言わなかったけどね。あんたが気に病むから。千夏ちゃん、私はね、あんたが我慢するのを見るのが嫌なの。我慢が上手な人ほど、周りは平気で甘えるんだから」

「私、あの日、名前呼ばれても何も言えませんでした」

「言えなくていいのよ、あの場はね。言うのはレジの外でやればいい。あんたはレジの中の人だから。中では黙るのが正しいの。私は外の人だから、外で言った」

「いごさんは外の人じゃないですよ。同じ店の人よ」

「だから、守るの」

守る。その言葉を自分に向けて言われたことはなかった。

その時、休憩室の扉が開いて、浜口店長が入ってきた。手にシフト表を持っていた。

「セ川さん、ちょうど良かった。ちょっと相談が。来年から、夕方の時間帯責任者を置こうと思ってる」

「時間帯責任者」

「店全体のレジシフトとパートさんの割り振りと、クレームの一次対応。時給も上がる」

「私にできますか?」

「できるかどうかを聞いてるんじゃない。やってみるかを聞いてる」

浜口店長はシフト表を机に置いた。

「セ川さんは8年。自分のレジのお金を一度も合わせ損ねてない。うちで一番正確だ。だから、店の締めもあなたに任せたい」

「考えさせてください」

「もちろん」

「あの、店長。私、うちでは何もできない子だと言われて育ちました」

浜口店長はシフト表を丸めながら答えた。

「うちの店の話をしてるんだ。よその家の評価は関係ない」

家に帰って、直樹さんに時間帯責任者の話をした。

「受けますって言っていいですか?」

「もちろんです。時間が長くなるので、夕飯が遅くなる日が出ます。僕が作ります」

「毎日は無理ですよ」

「作れる日に作ります。それでいいでしょ」

「直樹さん」

「はい」

「私、今まで“やってみるか”って聞かれたことがなかったんです」

直樹さんは箸を止めて、そのまま少しの間黙っていた。

「聞かれてこなかっただけです。できないと決まったわけではありません」

その言い方が好きだった。この人は慰める代わりに、事実を言い直してくれる。

11月の初め、父の完暦祝いが実家で開かれた。座敷に折りたたみの座卓を三つ並べて、出前の寿司を取った。集まったのは10人ほど。父の妹の臼井国江さんとその息子、母の従妹、近所の元同僚が二人。それに私と直樹さんは一番端の座卓についた。

座敷に入ってすぐ、母は客を奥へ案内した。壁の前だ。賞状が7枚。姉のものだ。

「これ、全部霞なの。ほら、この高校ね。偏差値70なのよ」

直樹さんはその壁をしばらく見ていた。それから、小さな声で私に聞いた。

「千夏さんのは、どれですか?」

「ないです」

「ないんですか?」

「一枚もらったことあります。壁には出ませんでした」

直樹さんは何も言わずに、壁からゆっくり目を離した。その目の動きに見えた。何かを覚えておく人の目の動きだった。

台所では私が皿を出して、母が出前の寿司を並べていた。姉は座敷でお茶を飲んでいた。国江さんが台所を覗いた。

「霞ちゃんは手伝わないの?」

母が笑った。

「あの子は器用だから。帰って邪魔なのよ」

乾杯の後、国江さんが私たちの方を向いた。

「千夏ちゃん、ご結婚おめでとう。式はあげたの?」

「はい。二人だけで」

「あら、そうなの。写真だけ撮りました」

「今時はそういうのも多いわね」

国江さんは悪気なくそう言って、それから姉の方を向いた。

「霞ちゃんはまだ?」

「まだですよ。仕事が忙しくて」

「あら、もったいない。霞ちゃん、ならいくらでも」

母がすかさず割り込んだ。

「そうなのよ。横の子はね、条件のいい話が多すぎて選べないの」

その「多すぎて」の中に、1月の縁談が入っているのかどうか。私はその日、そればかりを考えていた。

姉が寿司をつまみながら、こちらを見た。

「ねえ、直樹さん、まだ警備員やってんの?」

座敷の周りの音が、一段だけ小さくなった。直樹さんは箸を置いて、まっすぐ答えた。

「はい。やってます」

「はあ、そうなんだ。てっきり結婚したら転職するのかと思ってた」

「今の現場がまだ終わっていないので」

「現場ってさ、終わりとかあるんだ。ずっと立ってるだけじゃないの?」

父は何も言わなかった。国江さんが箸を置いて、困ったように笑った。

「霞ちゃん、そういう言い方は」

「言い方って、私、褒めてるんですよ。あれ大変じゃないですか? 夏とか」

「はい。夏は大変です」

直樹さんはそれだけ言った。皮肉でも当てこすりでもなく、事実として。

姉はそれを、買われたと受け取ったらしい。次に狙いを私に変えた。

「千夏はまだレジ?」

「うん」

「パートと警備員の夫婦って、大変そうだよね。家賃いくら?」

「7万8000円」

「うわ、リアル」

父が笑った。母も笑った。

直樹さんは何も言わなかった。私の手を、座卓の下で一度だけ軽く抑えた。それだけだった。

父の挨拶が始まった。60年を振り返る話だ。会社のこと、家族のこと。姉の高校の合格発表の日に泣いた話を、父は3分かけて話した。私の名前は最後に一度だけ出た。

「下の千夏も、この度片付きました」

片付きました。荷物の話をする時に使う言葉だ。

話題が変わったのは、姉が自分から仕事の話を始めたからだ。

「そういえばさ、うち今、大きい話が動いてるんだよね」

父が身を乗り出した。

「そうか。何の話だ?」

「まだ言えないんだけど。共同の事業でね。来年から始まるんだけど、相手はどこの会社だと思う?」

「どこだ?」

「赤月サービスグループ」

その名前が座敷に出た瞬間、私の隣の空気がわずかに動いた。直樹さんが箸を持つ手を止めていた。ほんの1、2秒だ。

姉が私の方へ向いた。

「赤月って知ってる? 知らないでしょ。超大企業だから。全国のビルとか商業施設とか、あと物流も。うちの会社が組めるってすごいことなんだよ」

「へえ」

赤月。私は夫の胸の名札を思い浮かべた。赤月ビルサービス。でも姉が言っているのは、テレビでニュースになるような会社の話だ。同じ字が入っているだけで、別のものだと思った。

「さすが霞だ」

父が声を張った。国江さんが手を叩いた。その時、直樹さんが口を開いた。

「知ってますよ」

座敷の音が、そこで途切れた。姉がまたたきをした。それから笑った。

「はあ。まあ、ニュースぐらい見るか」

「はい」

それで終わりだった。姉はもう別の話を始めていた。誰もその短いやり取りを気に留めていないように見えた。気に留めたのは二人だけだ。一人は私、もう一人は父だった。父は持ったまま、直樹さんの顔をじっと見ていた。目の動きがおかしかった。思い出そうとしてる目ではない。思い出したくないものを、押し戻してる目だった。

そして、急に立ち上がってこう言った。

「おい、母さん、ビールが足りんぞ」

「まだあるわよ」

「足りん。買ってこい」

不自然なほど大きな声だった。話題はそれで完全に流れた。

帰り際、玄関で靴を履いていると、姉が見送りに出てきた。

「上機嫌だったねえ、直樹さん」

「はい」

「今度さ、どこか警備の募集とかあったら教えてよ。うちの後輩で仕事探してる子いるから」

「分かりました」

「ああ、でも力仕事なのかな。ずっと外だし」

姉は笑いながら、直樹さんの手元を見た。その視線に、私は気づいてしまった。直樹さんの右手だ。手の甲から肘まで、袖から出ている部分が丸ごと黒く焼けていた。夏の間、半袖で外に立っていた人の腕だ。手首には腕時計の跡だけが白く残っていた。指の関節は、あかぎれの上からガサガサになっていた。

姉はそれを見て、笑うのをやめた。ほんの一瞬だけだ。その一瞬の顔は、それまでの31年で一度も見たことのない顔だった。

帰りの車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。信号で止まった時、直樹さんが前を向いたまま言った。

「ごめん。今日、何も言わなかったので」

「言わなくていいですよ。あれはうちの問題です」

「そうじゃなくて。言わないと決めていたことがあって、今日それを続けました。それが正しかったのかどうか、自信がありません」

「言わないと決めてること。私に関係あることですか?」

「あります」

「じゃあ、教えてください」

直樹さんはハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。

「もう少しだけ待ってください。順番があるので」

また「順番」だ。うちの家の順番と、この人の言う順番は多分意味が違う。それは分かっていた。分かっていても、その夜の私には同じ音に聞こえた。

マンションの下について、エンジンを切った後、直樹さんが小さく言った。

「今月中には、必ず話します」

その言葉を、私は覚えておくことにした。

その約束が果たされたのは、11月の終わりだった。その日は遅番で、店を出たのは6時を過ぎていた。11月の6時はもう真っ暗で、駐車場の白線がぼんやり浮かんで見える。従業員用の裏口を出てバス停へ向かおうとした時だった。店の敷地の隅に、黒い車が止まっていた。大きい。この町では見ない大きさだ。自分には関係ないと思って横を通り過ぎようとした。その時、運転席の扉が開いた。降りてきたのは白い手袋をした年配の男性だった。帽子を取って、私の前で足を止めた。そして深く頭を下げた。

「高野様の奥様でいらっしゃいますね」

「奥様?」

「奥様、お乗りください」

「あの、何かの間違いだと思います」

「いえ、高野様の奥様。瀬川千夏様。桜井台のフレッシュマートにお務めでいらっしゃいます」

名前も店の名前も合っている。それがかえって怖かった。

「どちら様ですか?」

「鶴田と申します。会長の所用の車でございます。会社の車を私用で使うわけにはいきませんので。今日は会長ご本人が、自分の車を使えとおっしゃいました」

「会長?」

「旦那様からのお迎えです」

「旦那様って?」

「直樹様でございます」

「いや、あの、私、バスで帰りますから」

「直樹様からこう申し付かっております。乗るか乗らないかは奥様が決めてくださいと。お断りでしたら、今夜必ず家で話しますと」

「必ず?」

「はい。必ずと申しておりました。奥様、夜になりますと冷えますので」

私は動けなかった。エコバッグの持ち手を両手で握ったまま、その扉の前に立っていた。鶴田さんは答えなかった。ただ扉を持ったまま、待っていた。「決めてください」と言われた。この人は、こんな時にも私に決めさせる。

私は乗った。座席に腰を下ろすと、扉が閉まった。外の音が消えた。1時間半かかった。その間、私は自分からは一言も話さなかった。聞きたいことは山ほどあった。それなのに、口が動かなかった。聞いてしまえば、この数ヶ月で積み上げたものが終わってしまう気がした。

一度だけ、直樹さんに電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けて、留守番電話に切り替わった。切ってすぐ、短いメッセージが届いた。「着いたら全部話します」と。それだけだった。

車が速度を落とした。そこで私は目の前の建物を見上げた。ガラスと石の大きなビルだった。正面の低いところに、金属の文字が横に並んでいる。

「赤月サービスグループ」

金属の文字を見上げて、私は自分の間違いに気づいた。夫の胸の名札は「赤月ビルサービス」。この看板は「赤月サービスグループ」。どちらも頭に「赤月」がつくのは、偶然ではなかった。ビルの掃除と警備をする会社は、この看板の下にぶら下がる一社だったのだ。

車が正面ではなく脇の入口に止まった。降りると、ガラスの自動扉の内側に人が立っていた。制服だった。濃紺の上着に胸の名札。この3ヶ月、普段の朝に玄関で見送ってきたのと同じ格好だ。帽子だけ脱いで、脇に抱えている。

「直樹さん、すみません。急に呼び出して」

その人はいつもの顔で、いつもの姿勢で立っていた。ガラスの向こうの受付には、同じような制服の人が二人いて、直樹さんに向かって軽く頭を下げた。

「その格好でいいんですか?」

「良くないです。本当はこの格好で本社の玄関に立つのは、規則違反です。祖父が“現場のままで上がって来い”というので」

「あの、これどういうことですか?」

「先に、紹介したい人がいます」

受付で直樹さんは私の名前を来客の名簿に書いた。エレベーターは途中の階に一度も止まらなかった。私は半額の鶏肉が入ったエコバッグを両手で抱えたまま、上がっていった。

扉が開いた先は廊下だった。絨毯が敷いてあって、足音がしなかった。突き当たりの部屋の扉を、直樹さんが二度叩いた。

「入りなさい」

低い声だった。部屋の奥、窓を背にして、小さな老人が座っていた。その人はゆっくり立ち上がって、机の前まで出てきた。そして私の顔をまっすぐ見た。

「あなたが千夏さんか」

「はい。高野千夏と言います」

「高野源蔵と言います。源に三と書きます。83歳になります。直樹の祖父です。そして、この会社を作った人間です」

源蔵さんは一膝進めて、自分も戻って座った。それから机の上で手を組んだ。

「うちの孫は、あなたに何も言ってないそうですな。会社のことも。直樹は私の孫です。父親は今の社長で、直樹はいずれこの会社の経営に入ります。4月から、本社の経営企画本部長という役につきます」

「4月から、本部長」

言葉としては聞こえた。意味が体に入ってこなかった。でも、私は声を出した。

「直樹さんは、警備員です」

「そうです。今も警備員ですよね」

「そうです。それは嘘ではありません」

源蔵さんは湯呑みを持ち上げて、一口飲んだ。

「一番下の現場を知らん人間は、人を使う立場に立たせません。孫にはそれをやらせました。大学を出て7年はよその会社で働かせました。入れたのは29の時です。そこから清掃2年、設備の管理2年。それから警備で4年目になりました」

「4年」

私はその数字をもう一度聞いた。元橋さんの言葉がそのまま重なった。

「警備に入って4年。戻ってからはこの現場を離れません」

「本物です。9月までは給料も現場のものしか出しておりません。年に320万円ほどでした」

「そんな」

「うちの息子も、同じことをやりました。あれは物流の倉庫で3年です。今、社長しておりますが、まだ海外の現場から戻れんでおります」

「直樹さんのお父様もですか?」

「そうです。だから挨拶にも出られませんでした。あれは失礼をしました。私が代わりに詫びます」

源蔵さんはそう言って、頭を下げた。83歳の人が、私に向かって頭を下げた。袋の中で、半額の鶏肉が傾いていた。

源蔵さんは私の方へ体を向けた。

「千夏さん、お仕事は何をされていますか?」

「スーパーのレジです」

「何年?」

「8年です」

「8年。立ちですな。膝は大丈夫ですか?」

誰にも聞かれたことのない質問だった。

「大丈夫です」

「うちの現場も立ち仕事です。同じですな」

「同じ」と言われた。会社を作った83歳の人が、レジ打ちの私に向かって「同じですな」と言った。

私は直樹さんの方を向いた。直樹さんは部屋に入ってから初めて口を開いた。

「9月に本社の業務の辞令が出ました。現場のシフトを週に2日減らして、その分こちらに来ています」

「なんで言ってくれなかったんですか?」

その問いに、直樹さんは答えなかった。代わりに、源蔵さんが孫の方を見た。

「直樹は、お前はいつから千夏さんを知っていた?」

直樹さんはそこでも答えなかった。沈黙が長かった。先に耐えられなくなったのは、私の方だった。

「直樹さん」

「はい」

「それって、大事なことじゃないですか? 私、出会ってからずっと、あなたのこと全部知ってるつもりでした。何時に起きて、どこに立って、誰に叱られてるかも。一番大きいことだけ、教えてもらえていませんでした」

「そうです」

「“そうです”じゃないです。私は膝の上の袋を握った。中の鶏肉のことが、なぜかその時急に恥ずかしくなった。半額のお肉を買って帰る暮らしです。私はそれはいいんです。楽しかったから。でも、あなたはその横で、4月から本部長になる人だったんですよね」

「そうです」

「言ってくれてたら、私は何か違ったことをしましたか?」

「しなかったと思います」

「じゃあ、なんで?」

直樹さんはそこで初めて、私の方を向いた。

「言わなかった理由は2つあります。一つは、今の仕事が僕の仕事だからです。4月からのことは、4月から始まります。今の僕は、桜井の出入り口に立つ警備員です。それ以外の名乗り方を、現場ではしません。家でも、したくありませんでした」

「もう一つは?」

「言えば、千夏さんがあの家で説明する側に回るからです。5月にも同じ言い方をしました。言えば、あなたが誰かに何かを証明しなきゃいけなくなる。あの時伏せたのは別の話ですが、伏せた理由は同じです」

「じゃあ、いつ言うつもりだったんですか?」

「落ち着いてからと思っていました。今月中には話すと、車の中で言いました。それが遅かった。今日こうなったのは、僕が悪いからです」

筋は通っていた。通っているのが、なおさら腹立たしかった。

「私がお金持ちかどうかで結婚を決める人だと思われてたわけじゃないんですね」

「思っていません。一度も」

「じゃあ、なんで試すみたいなことになるんですか?」

「試していません。試したなら、僕は最低の人間です。ただ、僕が黙っていたせいで、千夏さんに試されたような思いをさせました。それは僕の落ち度です」

直樹さんは制服のまま、私の方へ体を向けた。

「ごめん」

私は何も言えなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。頭の中がまだ動いていなかった。私は立ち上がって、部屋の外に出た。廊下の絨毯が音を吸って、自分が歩いている感じがしなかった。突き当たりの窓まで行って、そこで止まった。下に街が広がっていた。知らない町だ。ここから桜井台までは、車で1時間半かかる。

扉が開く音がした。直樹さんが出てきた。制服のままだ。

「怒っていいですよ」

「怒ってます」

「はい」

「でも、どう怒ればいいのか分からないんです。私、怒鳴ったことがないんです。31年、一度も。うちでは怒鳴るのは父と姉の役で、私の役じゃなかったので」

「じゃあ、今日は言葉でいいです」

「言葉でも出ません」

しばらく、二人で窓の前に立っていた。

「一つだけ聞いていいですか?」

「どうぞ」

「私、一緒に暮らし始めてから、あなたに何かを我慢させてましたか?」

直樹さんは即座に首を振った。

「一度もありません」

「本当に?」

「本当です。僕は千夏さんと暮らしたこの3ヶ月が、一番“普通”に暮らした時間でした」

その答えで、私の中の何かが落ち着いた。部屋に戻ると、源蔵さんは湯呑みに茶を足していた。その静けさを破ったのは、源蔵さんだった。

「千夏さん。悪いのは直樹です。結婚する相手には、最初に話すべきでした。順番が逆です。うちの家の事情など、後から話していい話ではない。ただ、これは伝えておきたい。この男は、次も同じことをします」

「はい」

直樹さんは頭を下げた。源蔵さんは机の上で手を組んだまま、しばらく私を見ていた。それから静かな声で言った。

「一つだけ、教えていただきたい。警備員だった直樹の、何を見て結婚してくださったんですか?」

その質問は、多分この部屋で一番大事な質問だった。私はしばらく考えた。考えたというより、答えはもうそこにあって、口に出していいのかを迷った。

「この人だけが、私を誰とも比べませんでした」

源蔵さんの眉が動いた。

「比べなかった」

「はい。私には3つ上の姉がいます。偏差値70の高校を出て、有名な大学を出て、大きな会社で主任をしています。私は勉強ができませんでした。進学もさせてもらえませんでした。実家の壁には賞状が7枚かかってますけど、全部姉のものです。家では、私は姉と比べるための人でした。今回の縁談も、姉に来た話でした。姉が警備員は嫌だと言って、それで私に回ってきました。両親は、私にはお似合いだと言いました」

「ひどい話ですな」

「慣れていました。31年、そうだったので」

源蔵さんは机の上の老眼鏡を指で押した。

「私はね、掃除から始めました。60年以上前です。ビルの床を拭いて、便所を洗って、それだけの会社でした。従業員は4人。夜中に働きました。その頃、私たちは人と見なされませんでした。挨拶をしても、帰ってこん。ビルの人が通る時は、こちらが壁によるって待つ決まりでした。だからね、私は人を数字で並べる人間が嫌いです。偏差値も年収も肩書きも、全部後からついた札です。札を見て人を選ぶものは、札が変わったら手のひらを返します。必ずです」

「でも、結納の席でこの人は最初に謝ったんです。“身代わりで来させられたんですよね”って。その後で“嫌なら断ってください”と言われました。“僕は誰かの代わりと結婚したいわけじゃありません”って。それまで、私を誰かの代わりではなく、一人の人間として扱ってくれた人は、一人もいませんでした。だから、私はこの人が警備員でも何でも、関係なかったんです」

言い終わって、私は下を向いた。知らない間に涙が落ちて、エコバッグの上に染みを作っていた。部屋が静かだった。やがて、源蔵さんが小さく笑った。笑うというより、息を吐くような笑い方だった。

「直樹。お前の方が、いい嫁さんもらったな」

「はい」

「そこで即答するな。お前の方が釣り合ってると、一度ぐらい言い張ってみせろ」

「言い張る必要がありません。悔しくもありません。事実なので」

源蔵さんは声を出して笑った。

その夜、家に帰ったのは11時を過ぎていた。半額の鶏肉は、翌日に回した。それから数日、私たちは普段通りに暮らした。普段通りに暮らせてしまうことが、私には不思議だった。

12月に入って、予定より遅れて直樹さんの両親が帰国した。直樹さんのお父さんは高野 幹雄さん。お母さんのさち子さんは、会うなり深く頭を下げた。

「うちは代々、遅れて謝る家なんです。本当に申し訳ありません。写真もお見せいただきました。とてもいいお顔でした」

幹雄さんはテーブルの上で手を組んで言った。

「うちの家は変わっとると言われます。私も倉庫で3年、伝票を数えて。あの3年がなければ、今の仕事はできません」

「直樹さんもそう言ってました」

「直樹は私より長い。もう4年になります」

4年。私はその数字をもう三度聞いていた。本人から、元橋さんから、おじい様から。聞くたびに意味が増えていく数字だった。

「本人が伸ばしました。3年で上げるつもりだったんですがね」

私は直樹さんを見た。直樹さんは味噌汁の椀を見ていた。

「直樹さん、なんで伸ばしたんですか?」

「言いません」

「言ってください」

「言いません」

その日は、それ以上聞けなかった。

年が開けて、1月の半ばだった。その日、私はその場にいなかった。後から姉の口と直樹さんの口から聞いた話を、継ぎ合わせたものだ。丸級食品と赤月サービスグループの共同事業の発表会が、都心のホールであった。姉は担当者の一人として出席したという。受付で配られた資料の最後に、登壇者の一覧が載っていた。姉はそこで指を止めたそうだ。

「赤月ビルサービス株式会社 高野直樹」

その名前の後に括弧がついていて、4月1日付で赤月サービスグループの経営企画本部長に就任予定、とあった。最初は同じ名前の別人だと思ったらしい。妹の夫は、桜井台の駐車場で誘導灯を振っている人で、この一覧に載る人ではない。姉は課長に聞いたという。

「この高野さんって、どういう方ですか?」

「創業家の方だよ。会長さんのお孫さん。若いけど、現場を長くやってた人らしい」

それでも姉はまだ別人だと思っていた。思っていられたのは、その人が壇上に上がってくるまでだったという。濃紺の背広を着た男が壇の前に立った。顔を見た瞬間に分かった、と姉は言った。その人はマイクの高さを自分で直し、深く頭を下げた。

その日の夜、私の携帯が鳴った。姉からだった。

「千夏、今から実家に来て」

「今からもう8時だよ」

「来て。今すぐ」

「何かあったの?」

「何かあったのじゃない。あんた、知ってたんでしょ?」

私は台所に立っていた。直樹さんは風呂に入っていた。

「一人では行かない。直樹さんと二人で行く」

姉が何か言う前に、私は電話を切った。この家の呼び出しに条件をつけたのは、初めてだった。事情を話すと、直樹さんはタオルを首にかけたまま言った。

「怒られますよ」

「多分、怒られに行くんじゃありません」

桜井台の坂を登る途中で、直樹さんが車を路肩に止めた。

「千夏さん」

「はい」

「先にこれを見て欲しいんです」

そう言って、上着の内ポケットから紙を出した。薄い紙だった。四つに折られて、折り目が白く擦れている。何度も開いて、畳み直した紙だ。洗濯を畳んだ夜の紙だ。

「これ、千夏さんの釣り書です」

車内灯をつけて、紙を開いた。罫線で区切られた欄が並んでいる。父の字だ。癖のある右上がりの字。

氏名 瀬川千夏。生年月日。年齢31歳。学歴 県立川西高等学校卒業。職業。その欄は空いていた。線が引いてあるだけの、白い欄だった。八年通っている店の名前が、そこにはなかった。

「これを見て、会いに来たんですか?」

「はい。僕だったら来ません。僕は来ました」

直樹さんが紙の右端を指した。そこに日付が入っていた。

「この釣り書が届いたのは、見合いの前の日でした。脇坂さんに頼んでから2ヶ月近くです。“急いで”とお願いしたのに、それだけかかるのは変です。しかも、余白の三行のうち二行は、お姉さんのことでした。僕が指名したのは、千夏さんです。その紙に、なぜお姉さんの経歴が要るのか。この家はまずお姉さんへ話を通した。そう読むしかありません」

「指名って」

「はい。僕が脇坂さんに頼んだのは、初めから千夏さんです。お姉さんの名前は、一度も出していません」

紙を持つ手が震えた。姉がいらないと言ったから、私に回ってきた。その一年、そう思ってきた。順番は、初めから逆だった。

「じゃあ、あの日、私が身代わりだって分かってたのは?」

「その紙と、返事がなかったことです。一年前、僕の釣り書と一緒に、あなた宛ての手紙を入れました。返事は来ませんでした」

「手紙? 私、受け取ってない」

「はい」

「なんで、この紙を今まで見せてくれなかったんですか?」

「見せたら、千夏さんが証明しなきゃいけなくなるからです。自分がなぜ選ばれたのかを、あの家の人たちに説明する側に回るから。僕は、あなたにその役をさせたくなかった」

車が動き出した。実家の玄関に明かりがついていた。障子の向こうに、人の影が四つ見えた。一つ多い。靴を脱いで座敷に入ると、父と母と姉。床の間に、脇坂さんが座っていた。

「脇坂さん、どうして?」

「僕がお呼びしました。今日のうちに、話をつけておきたかったので」

姉が立ち上がった。会社の名札を首から下げたままだ。

「千夏、どういうこと?」

「何が?」

「とぼけないで。直樹さん、赤月の一員なんでしょ? 会長さんのお孫さんだって、課長が言ってた。母が姉の後ろから割り込んだ。声が裏返った。待って。警備員だったんじゃないの? 後継ぎが警備員?」

私は答えた。

「今も働いてる。4月からは本社に戻るけど、今週も桜井台の出口に立ってた。私が知ったのは、11月の終わり。会社に連れて行かれて、じい様から聞いた。それまでは、お父さんたちと同じ“警備員の奥さん”になった、それだけの話だと思ってた」

姉が目を見開いた。

「嘘」

「本当。その日、私も怒ったよ。なんで言わないのって。知らされていなかったのは、私も同じだった。私も姉も、同じ側に立たされていた。それだけは、はっきりさせておきたかった」

直樹さんが座敷に入って、私の隣に座った。

「本物です。入社して8年目。清掃2年、設備2年、警備が4年目です。9月に本社の業務がつくまで、給料も現場のものだけでした。年320万円ほどです」

「そんな」

姉はそこで堪えきれなくなったように叫んだ。

「じゃあ、なんで私に言わなかったのよ?」

「言う必要がなかったからです」

「あるでしょ。だって、あの縁談は」

そこで、姉の言葉が一度切れた。切れて、それから出た。

「また私に来た縁談になったんだから」

座敷が静かになった。私は膝の上で四つ折りの紙を握っていた。それを開いて、座卓の上に置いた。父の手が止まった。

「お父さん、これ、お父さんが書いたよね」

父は口を閉じたままだった。母が横から覗き込んで、すぐに顔を背けた。

「何これ? 昔の紙?」

「去年、私の見合いの前に書かれた紙だよ。私は紙の“職業”の欄を指で抑えた。ここ、空いてるよね。私、8年働いてるよ。フレッシュマート桜井台店で。名札もあるし、制服もある。8年で一度も、自分のレジのお金を合わせ損ねてない」

母が横から口を挟んだ。

「そんなの、書くことじゃないでしょ」

「書くことじゃない? じゃあ、お母さん、この余白は何? 縁談の余白、2行の話だよ」

座敷の空気が変わった。姉が座卓に手をつき、紙を見た。上から下まで目が動いて、止まった。

「何これ? 私の釣り書だよ。なんで私のことが書いてあるの?」

「お父さんに聞いて」

父は湯呑みを持ったまま、動かなかった。その時、床の間の前から声がした。

「もういいだろ」

脇坂さんだった。

「わしは1年、黙っとった。黙っとったのはわしの弱さだ。今日は言わせてもらう」

父が初めて顔を上げた。

「脇坂」

「去年の1月に、この話を持ってきたの、わしだ。わしは今も赤月の事業所に置いてもらっとる。去年の1月、高野君から頼まれた。『桜井台のフレッシュマートのセ川さんに取り持ってほしい』と。それが、会長の孫だとは知らんかった。さっき霞さんから聞いて、一番驚いとるのがわしだ」

「え」

「わしはお前の家を知っとる。だから尋ねた。その時、はっきり言うた」

脇坂さんは私の方を見た。

「この縁談は、初めから千夏さんへのお話です。わしは玄関で『下のお嬢さんに』とはっきり言いました」

誰も口を開かなかった。息を継ぐ音まで聞こえた。姉が口を半分開けたまま、こちらを見ていた。母は湯呑みを取り落として、畳に茶がこぼれた。誰も拭かなかった。

姉が父を見た。

「嘘でしょ? だって、お父さん、私に持ってきて『私の話だ』って言った」

父がようやく口を開いた。

「私が言った。『うちは上の娘からだ』。その一言だった。31年、この家を動かしてきた一言が、そこにあった。父は続けた。先方は『下の娘に』と言ってきた。だがな、上が決まらないうちに下から先に嫁いだら、外聞が悪い。世間はそういう見方をする」

姉がその言葉を口の中で繰り返した。

「外聞。順番。だから、まずお前に見せた。お前が断ったから、千夏に回した。それだけの話だ」

「それだけの話」。父はそう言った。父にとっては、本当にそれだけの話だったのだ。

私は脇坂さんに聞いた。

「脇坂さんは、それを止めなかったんですか?」

脇坂さんは頭を下げた。

「止めきれんかった。義彦とは高校からで、頼まれると弱い。紙を受け取った時、私は言うた。『職業の欄が空いとる。勤め先があるのに、なぜ書かんのか』と。義彦は言うた。『そこは要らんだろう』と。座敷がしんとした。わしはそこで引いた。そのまま先方へ紙を持っていった。本人に一度も見せんでな。40年、書類で飯を食ってきた人間のやることじゃない。高野君には、『ご家庭で話してもらっていい』と伝えた。嘘は言っとらん。本当も言っとらん」

父は何も言わなかった。脇坂さんは私を見た。

「千夏さん、去年の夏、料理屋で言いかけてやめました。あの夜も、あんたの顔が浮かんだ。すまん」

「脇坂さんは、あの後悔を1年、抱えてきた。父はどうだったか? 「そこは要らんだろう」の一言で片付けて、今もすぐそこに座っている。抱えた方の人を、私は責められなかった。

脇坂さんが父の方へ向き直った。

「義彦、もう一つある。去年の1月にわしが渡した封筒には、釣り書の他に手紙が一通入っとった。『瀬川千夏様』と。あれは、どうした?」

父は答えなかった。一年前の夜が像を結んだ。父が手のひらで抑えて、裏返した封筒。私の名前は、あの中にあったのだ。

「義彦、手紙はまだあるんだろうな」

父は黙って自分の部屋へ立ち、薄い封筒を持って戻った。座卓の上を滑らせて、私の前に置いた。封は切られていない。一年、あの部屋にあったのだ。

表に「瀬川千夏様」。父の字ではない。真っすぐな字だった。直樹さんがその封筒を見て言った。

「僕が去年の1月に、釣り書と一緒に預けたものです」

中を読んだのは、その夜ではなかった。姉は座り込んでいた。両手を畳につけて、紙を見ていた。

「じゃあ、私が断ったのって」

直樹さんが答えた。

「元々、あなたに来た話ではありません。僕は瀬川千夏さんにお願いしました。それだけです。あなたが知らなかったとしても、無理はありません。伝わっていなかったので。ただ、それなら『私が断った』という話は、何だったの?」

父はまだ座卓の上の紙を見ていた。一行目の姉の高校の名前を、指でなぞっていた。二行目の会社の名前をなぞって、三行目まで来て、そこで止まった。「事女千夏は健康で、家事は一通りできます」。父の指は、その行の上で止まったまま、動かなくなった。

先に口を開いたのは母だった。

「霞。あなたが『警備員は嫌だ』って言うたからでしょ」

「違う」

姉が母を正面から見た。

「違うのよ、お母さん」

母が次の言葉を探して、見つけられずにいた。姉は母を見ずに、自分の手元だけを見て言った。

「あの時、私、付き合ってる人がいたの。会社の人。2年合ってた。離婚してる人だったから、言えなかった。言ったら、お母さんが絶対に反対するでしょ。だから、断る理由が要ったのよ。職業の話なら、この家では通ると思ったの」

姉は自分の手を見ていた。

「通ったでしょ? 一発で」

私は驚かなかった。7月に店で小島さんから聞いていた。ただ、姉の口から出るのを聞くのは、初めてだった。

しばらくして、姉がこちらではなく直樹さんの方を向いた。

「ねえ、直樹さん」

「はい」

「なんで千夏だったの?」

その質問は、多分その座敷にいた全員が聞きたかったことだった。私も聞きたかった。3月からずっと、答えをもらえないままだった。直樹さんは座卓の上の紙を一度見てから、話し始めた。

「3年半ほど前の話です。桜井台のフレッシュマートが、店の中を直す工事をしました。4月から9月までの半年です。僕はその現場に入っていました。搬入車両の誘導です。朝の7時から夕方まで、あの店の前に立っていました」

あの、その半年。朝の早番の日は、私もそこにいた。

「はい。ただ、当時は名前を知りませんでした。名札の『セ川』という姓だけ。早番の朝は、必ず一番に来る人がいました。始業は8時半なのに、いつも15分前に坂を登ってきます。その人は、店の前に止めてある自転車を、一台ずつ動かしていました。搬入の車が入る動線に、前の晩から置きっぱなしの自転車が並ぶんです。動かさないと、車が入れません。でも、客の持ち物です。『壊した』と言われたらそれで終わりですから、僕らは触れないんです」

私は自分の手を見た。覚えている。早番の朝は、毎回やっていた。誰かに頼まれたわけではない。工事の人が困っているのを見たから、ついでに動かしていただけだ。

「朝はこちらに声をかけることもありませんでした。当たり前の顔で動かして、裏口に入っていきました」

「そんなの、大したことじゃないです」

「大したことです。僕らは現場で人に頼めません。頼めば『うるさい』と言われます。だから黙って待ちます。待っているところを見て、黙って先に動かした人は、あの半年であなた一人でした」

「もう一つあります。7月です。暑い日でした。うちの隊員が3人、日陰のない場所に立っていました。仮設の詰所は中が40度を超えていました」

私はその話を覚えていた。気がついたら、自分から口が動いていた。

「店の裏に、屋根のついた自転車置き場があったんです。使っていない区画でした。それで店長に言いに行きました。休憩の間だけ、あの屋根の下を使わせてやってほしい、と」

直樹さんが頷いた。

「そうです。浜口という店長さんが、その日のうちに許可を出してくれました。翌日から、うちの隊員は日陰で休めるようになりました。その話をしてくれたのは、うちの元橋です。元橋は、あの店の髪を後ろで束ねている人だと。3年半経っても、まだその話をします」

私は下を見た。顔が熱かった。10月に会った元橋さんを思い返した。あの人は、4年前のことも直樹さんの叱られ方も話した。それなのに、この話だけは一言も出さなかった。知っていて、黙っていたのだ。

直樹さんがそこで言葉をついだ。

「でも、決めたのはそこじゃありません。その年の8月です。工事が終わる一週間前でした。あなたの店の三番のレジに、女の人が来ました。会社の名札を下げた人でした。その人はレジの脇に立って、こう言いました。『一生ここでレジ打ってるの?』と。僕は入り口の柵の内側にいました。搬入の車を通すので、自動扉を一枚だけ開けて抑えていた日です。三番のレジは、そこから一番近いレジでした」

姉の顔から色が引いた。白くなったというより、色という色が抜けたように見えた。

「お姉ちゃん、同じことを去年の5月にもう一度言ったよね。同じ三番のレジで、同じ言い方で」

姉は答えなかった。答えられないのだと分かった。

直樹さんが話を元に戻した。

「その後、千夏さんは何も言い返しませんでした。会計を済ませて、次の人の商品を通しました。それから30分後、休憩だったのでしょう。あなたが裏口から出てきました。あなたは裏口の脇の柵の前で足を止めました。そして、こう言いました」

直樹さんはそこで一度だけ間を置いた。

「『今日、暑いですね。裏の屋根、遠慮しないで使ってください。詰所よりあっちの方がマシだと思うので』」

私は口を抑えた。言った覚えがない。毎日のように言っていたからだ。特別なことだと思っていなかった。

「あの日のあなたは、たった今、身内に人前で見下されたところでした。それでも、他人の日陰の心配をしていた。僕はその日に決めました。3年半前に」

直樹さんは、姉の方を見なかった。私だけを見ていた。

「でも、その秋に現場が変わりました。別の物流施設に2年。桜井に戻れたのは、昨年の秋です。戻って最初の週に、店の前を通りました。工事の柵はとっくにない。それなのに、同じ時間に同じ人が、倒れた自転車を一台ずつ起こして、白い線の内側へ戻していました。2年経っても、変わっていませんでした。それから年が明けるまで、同じ朝を何度も見ました。見間違いでないと分かってから、脇坂さんに頼みました。『こちらの家の下のお嬢さんに』と。下の名前も、そこで初めて知りました」

私は何も言えなかった。3年で現場を上がるはずだった人が、4年目に伸ばした理由が、そこでようやく分かった。この人は、桜井台にもう一年いるために、伸ばしたのだ。

自分の8年の中で、一番何も起きていないと思っていた時間が、ずっと誰かに見られていた。

父が湯呑みを置いた。

「待て。私は、そんな話は聞いてない」

「お話ししていません」

「脇坂、お前は聞いたのか?」

脇坂さんが頷いた。

「聞いた。『桜井台の店のセ川さんに』と言われた。だから、あの日の夕方、玄関で言うたんだ。『下のお嬢さんに』と。それを、お前が『上の娘からだ』と言うて、塗り替えたんだ」

父が黙った。完暦の夜、父が急に母をビールの買い出しに行かせようとしたのを思い出した。あの時、父が押し戻していたのは、「赤月」という会社そのものではなかったのだと思う。その名前から芋づる式に出てくるものの方だ。

母がそこで小さな声を出した。

「あなた、あの時」

「何だ」

「あの時、千夏の紙を書くのに、随分時間がかかってたわね。あなた、電話の受話器を持って、番号を押しかけて、途中でやめたでしょ」

父は答えなかった。母はそのまま続けた。

「あれ? お店に電話して、名前を確かめようとしてたんでしょ? かけて、やめたのよ。あなた、何年も間違えてたじゃない。『駅前』だって」

「うるさい」

「私が悪いの? 私は書いてないわよ。書いたのはあなたでしょ」

「『書け』と言ったのはお前だ。出せる紙がないと恥をかく、と」

「じゃあ、ちゃんと書けばよかったじゃないの」

二人が言い合いを始めた。言い合いの内容は、どちらが書いたか、どちらが言ったか、それだけだった。母は「ちゃんと書けばよかった」と、そう言った。それでも、その空欄が私に何をしたのかは、父も母も一度も口にしなかった。

私は座卓の上の紙をもう一度見た。職業欄は空欄。父はあの欄を埋められなかったのではない。電話を一本かければ埋まる欄だった。かけるほどのことだと思わなかったから、途中でやめたのだ。「そこは要らんだろう」と思ったのだ。それが、この家だった。悪意ではない。悪意なら、まだ戦える。31年、私を削っていたのは、「そこは要らんだろう」という判断の方だった。

「ちなみさん」

直樹さんが言った。

「僕が見合いの席で謝った理由は、それです。僕が指名でお願いしたせいで、あなたはこの家の中で押し付けられた側になりました。本来、あなた自身が選ばれた話です。それを、私は『お姉さんの代わり』という形にしてしまった。だから謝りました。あの日、それを言ってくれれば、言えば、あなたはこの紙を見ることになりました。3月のあなたに、これを見せたくなかった」

私は紙を見た。確かに、3月にこれを見せられていたら、私は多分壊れていた。この1年で、私は覚えた。「断ること」「金額を計算すること」「一人では行かないということ」。だから、その夜はこの紙を見ても、座っていられた。

「直樹さん。今日は、見せてくれてありがとうございます」

その人は何も答えずに、ただ小さく頭を下げた。

姉がゆっくり顔を上げた。そして、私の名前を呼んだ。31年、姉が私を呼ぶ時にはいつも、上から下へ落ちてくるような響きがあった。その日は違った。足場をなくした人の声だった。

「千夏」

姉はしばらく私の名前を呼んだきり、黙っていた。それから、抑えていたものを一度に吐き出すように言った。

「そんなの知ってたら、私が断るわけないでしょ」

その一言で、座敷の空気が戻った。母が慌てて口を挟んだ。

「そうよね。だって、そんな大事なことを黙ってる方が」

「お母さん」

姉が母を止めた。そして直樹さんの方へ向き直った。

「私、何も聞いてなかったんです。もし聞いてたら、はい、私がお受けしてました」

直樹さんはその言葉を最後まで聞いた。それから低い声で答えた。

「だから、断っていただけて、よかったです」

姉がまたたきをした。

「は? 今おっしゃったのは、知っていれば受けたということですよね。そうだけど、知らなければ受けなかったわけですね。僕はどちらの答えも責めるつもりはありません。人には好みがあります。警備員と結婚したくないという考え方も、あっていいと思います。ただ、それは僕の望んだ結婚ではありません。僕が警備員だった時、千夏さんは僕を馬鹿にしませんでした」

声は大きくなかった。それなのに、座敷のどこにいても聞こえた。

「馬鹿にしなかったというのは、性格じゃないですね。この人はそもそも、人を並べません。清掃の人にも、警備の人にも、会社の人にも、同じ話し方をします。相手の名札を見てから態度を決める人ではないんです」

私は膝の上を見ていた。顔が上げられなかった。

「僕は現場で4年、いろんな人に会いました。制服を着ていると、こちらを人として扱わない人が、一定数います。悪意はありません。ただ、見えていないんです。千夏さんは、僕らが見えている人でした」

直樹さんはそこで一度だけ、姉を見た。

「僕が結婚したかったのは、そういう人です」

姉は何も言い返さなかった。言い返せる言葉が、多分一つもなかったのだと思う。姉が34年かけて集めてきた道具は、学歴と勤め先と肩書きだけだった。そのどれも、この場では使えなかった。

姉が震える声で聞いた。

「あの、直樹さん」

「はい」

「私、来月から、そちらの窓口をやります」

直樹さんが顔を上げた。

「お姉さんが丸級食品の法人営業部だということは、去年の3月にその釣り書の余白で読みました。11月に車内で共同事業の話を聞いた時から、もしかしたらとは思っていました。確かめられたのは今日です。会場で配られた資料に、新しいご担当としてお名前がありました。会場では、お声はかけていません。これ、仕事に影響しますか?」

それは、姉がその夜に出した唯一のまともな質問だった。直樹さんは即座に答えた。

「しません。11月にこの案件の担当が丸級食品の法人営業だと聞いた時点で、身内が先方にいるという届けを会社に出してあります。今日、お姉さんが担当だと分かりましたから、明日、もう一度出し直します。この仕事を決める場からは、僕が外れます。有利にしないというだけでは足りないんです。有利にできる場所に、僕がいないようにします。本社へはうちから書面でお知らせします。お姉さんが『隠していた』ことになると、困りますから。じゃあ、私は今まで通り、仕事の話だけしてください。それが一番、困りません」

姉は頷いた。頷いてから、両手で顔を覆った。

「私、あの日、直樹さんの手を見たんです。完暦の時。指の関節が、あかぎれだらけで。それ見て、初めて、なんか、こういう手をしてる人を、私は数に入れてこなかったんだなって思ったんです。それだけ思って、忘れました。忘れたのを、今日、思い出しました」

直樹さんは何も言わなかった。責めもしないし、許しもしなかった。

沈黙を破ったのは母で、最初に出てきたのはこういう言葉だった。

「千夏、あなた、昔から見る目があったのね」

私は顔を上げた。

「違うよ」

「え?」

「見る目があったわけじゃないよ。私は、選べる立場にいなかっただけ。お母さんたちが回してきたものを受け取っただけだよ。でも、結果的には、私は結果の話をしてるんじゃないよ。お母さんは、この人が警備員だと聞いた時、何て言ったか覚えてる? そんな昔のこと。1年前だよ。『千夏でいいじゃない』って言ったよ。それは、千夏でいいじゃない。『いらないものを回す時の言い方』だよ」

母の顔が固まった。

「言葉のあやでしょ」

「うん。あやだと思う。だから、直さなかったんだと思う」

言いながら、私は自分でも意外なほど怒っていなかった。母を憎むには、母はあまりに正直だった。思ったことを、そのまま口にしただけだ。その中身が、31年変わらなかったというだけのことだ。

今度は父が咳払いをして言った。

「まあ、何だ。今後、高野君とのご家族とも、改めて席は設けんとな」

「お父さん」

「うん」

「警備員だって聞いた時、私にはその方が合ってるって言ったよね。その、1月の夜に、そこの居間で。『お前には堅実な人の方が合ってる』って」

「それは、悪い意味じゃない」

「うん。悪い意味じゃないと思う。知ってる。だから、31年、誰も直さなかったんだよ。悪い意味じゃないから」

父は黙った。母も黙った。座敷が、本当に静かになった。障子の外で、風が何かに当たる音だけがしていた。

私は膝を揃えて、背筋を伸ばした。

「言うことは、実家へ向かう車の中で決めていました。お父さん、お母さん。私はこの家に、何かを請求するつもりはありません。お金も、返してもらいません。8年で288万入れました。それは私が入れると決めて入れたので、返してとは言いません。ただ、3万円も、もう入れません。9月に持っていったのが最後です。それはこの前も聞いたけど、今日で終わりにします」

「理由も言います。私はこの家の家計を助けるために、8年働きました。もう、いいと思いました」

母が何かを言おうとした。私は続けた。

「それから、もう一つだけお願いがあります」

「何だ」

「これからは、姉と比べるのだけは、やめてください」

声が震えなかった。自分でも不思議だった。

「絶縁するとは言いません。お正月にも来ません。お父さんが入院したら、私は来ます。それはするつもりです。ただ、比べるのだけはやめてください。お姉ちゃんが上で、私が下だという話は、この家ではもう終わりにしてください」

父が口を開いた。

「そんなつもりはない」

「あります。私は壁の方を指した。座敷からは見えないが、居間の壁のことだった。あそこの賞状は7枚あります。全部、お姉ちゃんのです。物心ついた時から、ずっとあの壁を見て育ちました」

「壁の話をしてるんじゃありません。賞状が欲しいと言ってるんでもありません。私の職業欄が、空いていたことです」

座卓の上の紙を、私はもう一度指した。

「ここが埋まらない家では、私はずっと下なんです。埋めてくださいとは言いません。ただ、比べるのはやめてください」

父は、その紙を見ていた。長い時間になった。誰も何も言わなかった。やがて父は、紙の方へ手を伸ばした。指が触れる直前で止まって、その手を膝に戻した。

「さっき、お前が言ったな。もう一度言ってくれ。その店の名前は」

私は父の顔を見た。父は私を見ていなかった。畳を見ていた。

「フレッシュマート桜井台店です」

「フレッシュマート桜井台店。桜井台の坂の上か」

「はい」

「そうか」

それだけだった。謝罪ではない。認めた言葉でもない。それでも父が、私の勤め先の名前を口にしたのは、物心ついて初めてだった。

帰り際、玄関で靴を履いていると、脇坂さんが後ろから声をかけてきた。

「千夏さん」

「はい」

「高野君は、あんたの代わりに喋ってやらなかったな。高野君は今日、一度も義彦を攻めとらん。代わりに攻めてやることもせんかった。全部、あんたが自分の口で言えるように、場を作っただけだ」

言われて、その日の座敷を思い返した。確かにそうだった。直樹さんが口にしたのは、3年半前の店のことと自分の仕事だった。姉の問いには答えたが、父の名も母の名も、責める言い方では一度も出さなかった。脇坂さんは父に事実を突きつけた。それでも、この家の順番そのものがおかしいと言ったのは、全部、私だった。

「そういう人と一緒になった。それだけは、わしが持ってきた話で、よかったと思っとる」

脇坂さんは頭を下げて、先に帰って行った。

車に乗ると、直樹さんがエンジンをかけながら言った。

「疲れましたね」

「はい」

「今日の千夏さん、強かったです」

「震えてました」

「震えてても、言えるのが強いんです」

「一つだけ、私、言い忘れました」

「何ですか?」

「賞状の話です。あの壁、いつか自分の分が一枚掛かると思って見てた時期があるんです。小学生の頃。でも今日見て思いました。掛からなくて、よかったです」

「どうしてですか?」

「掛かってたら、私、あの壁の並びの中で自分が何番目かを数えていたと思います。2番目だとか、3番目だとか」

直樹さんは前を向いたまま頷いた。私は続けた。

「順番のない場所に立ちたいんです」

「立ってますよ」

「そうでしょうか」

「三番のレジは、順番のない場所です。並んでいるのはお客さんで、あなたじゃありません」

その言い方がおかしくて、私は笑った。その日、初めて笑った。

帰る途中、橋の上から街の明かりが見えた。私はその時、一つだけ気づいた。あの「偏差値70」という数字を、その日は誰も口にしなかった。31年間、あの家で一番鳴り響いていた音が、その夜だけは一度もならなかった。

姉から電話が来たのは、2月の終わりだった。出張の帰りに終電を逃して、駅で困ったという。駅の警備員が始発の乗り場とホテルを教え、地図まで書いてくれたらしい。姉はその人の手のことばかり話した。

「その人ね、地図を書く時、手袋を外したの。直樹さんと同じ手だった」

姉がそこで言葉を切った。

「千夏、あの時のことは、悪かった」

私は台所に立ったまま、何も言えなかった。

「私、付き合ってた人のことも、親に言えないまま終わらせた。私、自分の順番を待ってたんだと思う。誰かが決めてくれる順番を。それで、下に血を置いてた」

私は湯呑みを握り直した。

「すぐには許せないけど」

姉が息を止めたのが分かった。私は続けた。

「でも、ちゃんと聞いたよ」

それだけ言うと、姉は息を吐いて、電話を切った。それから、姉とは月に一度ぐらい連絡を取る。仲がいいとは言えない。ただ、レジの話を笑いに使わなくなった。それだけのことが、32年目にして初めて起きた。

両親はあれから、3万円の話をしない。その年の暮れ、実家に来た父の元同僚に、父はこう言った。

「下は、坂の上のフレッシュマート桜井台店におります。今は締めを任されてます」

私は台所で蛇口を止めた。聞こえなかったふりは、もうしなかった。

居間の壁は、入賞の3枚が外された。誰が外したかは、聞いていない。開いた場所には、何もない。

あの封筒を開けたのは、座敷から帰った次の朝だ。便箋は一枚。あの夏、自転車を動かした日のことが、直樹さんの字で書いてあった。見合いの話も、結婚の話も、一行もなかった。

脇坂さんとは、年に一度会う。父が店の名前を言うようになった後、夫婦でお詫びを持って訪ねた。玄関先で、脇坂さんは深く頭を下げた。

「わしは間違えたな」

「そんなことないです」

「間違えたが、行きついた先だけは間違えんかった。あの話は初めからあんたに来た話で、ちゃんと戻った」

脇坂さんはそう言って、笑った。

4月1日の朝。直樹さんは濃紺の制服ではなく、濃紺の背広を着ていた。鏡の前でネクタイを二度、やり直していた。私が前に立って、曲がった結び目を直した。

「もう、警備員じゃなくなるんだね」

「そうですね」

「寂しい」

「寂しいんですか? 少し」

「どうしてですか?」

「私は、警備員の直樹さんを好きになったから」

その人はしばらく黙ってから、真面目な顔で言った。

「じゃあ、たまに現場に行きます」

「そういう意味じゃないって」

二人で笑った。玄関で靴のかかとを合わせるのは、前と同じだ。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

それから、1年半が過ぎた。私は今も、フレッシュマート桜井台店の三番のレジにいる。もう10年だ。名札の下に、「時間帯責任者」の札が一枚、増えた。本部長の妻になっても、レジはやめなかった。名札は「セガワ」のままにしてある。結婚するまでの8年間、この店で私を呼んでいたのが、その名前だったからだ。

先週、休憩室でいごさんが茶を入れながら言った。

「あんた、去年の冬、実家でよく言い返したんだってね」

「昨年の5月に、いごさんが私の代わりに怒ってくれたからです。おかげで、今は私もレジの外でなら言えます」

いごさんは笑って、羊羹を半分に切ってくれた。

元橋さんは今年70歳で、現場を退いた。前の日に直樹さんが会いに行った。何を話したかは、教えてくれない。ただ、その日は目が赤かった。

私は、締めを任されてから一度も間違えていない。初日だけ、浜口店長が事務所から出てきて、遠くで見ていた。お金が合ったのを確かめると、何も言わずに戻った。先週、新しい子に締め方を教えた。

「セガワさん、教えるの、上手ですね」

「10年やってますから」

「すごいですね」と言われた。その言葉も、もう受け取れる。

夜、家に帰ると、台所に家計簿のノートが置いてある。右上に、その日の天気が黒いペンで書いてある。本社に移ってからも、その癖はやめない。

姉は偏差値70だった。私は姉より勉強ができず、進学もさせてもらえず、ずっと出来の悪い娘だった。でも、夫は一度も、私を姉と比べなかった。私が欲しかったのは、お金でも肩書きでもなく、私自身を選んでくれる人だった。

明日も、私は坂を登って、三番のレジに立つ。その持ち場に、これからも自分の足で立ち続けたいと思っている。

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