「何してるんですか?」
真夜中、自分の部屋で寝たふりをしながら、義母が私の貯金箱を抱えて部屋を出ようとするのを、私は大きな声で止めた。義母は驚いてスマホを床に落とし、慌てて拾おうとして、今度は貯金箱を落とした。
「う、私は泥棒なんかじゃ…」
「貯金箱を盗もうとしていたじゃないですか。」
義母は口ごもり、すぐに開き直って私を睨みつけた。
「あ、あなたが悪いのよ。お金を持っているくせに、私とお父さんが頭を下げても貸してくれないんだもの。」
私は坂子、50歳。図書館で働いている。昔から本が大好きで、この仕事は天職だと思っている。夫の健太は私より4歳年下で、中小企業に務めている。3年ほど前に部長に昇進し、給料も上がった。夫婦喧嘩をすることもなく、義両親との仲もそれなりに良好だった。
ところが、健太が義両親との同居話を持ちかけてきた。二世帯住宅を建てようというのだ。
「父さんも母さんも年齢が年齢だし、2人きりは心配らしい。俺もそばにいてやりたいんだ。父さんたちとは頭金もローンも折半するし、問題ないよな。」
質問口調だが、いつもと同じで私の意見を聞く気はあまりなさそうだ。夫婦で何かを決める時は、ほとんど健太の希望通りになっていた。
家のローンや頭金を折半するとなれば、さすがの私も不安になった。ケチで金に慎重な私は、反論した。
「お金が絡んで関係が悪化する心配はないわよね。」
「何だよ。うちの両親が約束を破る最低な奴らとでも言いたいのか。」
「そういう風には思ってないけど…」
「だったら同居の話は決まりだ。いいな。」
そんなある日、なんと私の父が亡くなった。旧世不全だった。あまりに突然で、言い表せないほどのショックを受けた。父は昔、同じ大学で教授をしていた。引退して田舎で一人暮らしをしていたのだ。
健太の親と同居したいという気持ちを理解できた私は、義両親と一緒に暮らす決意を固めた。約束通り、それぞれの夫婦でちょうど半分ずつ頭金を支払い、約1年後に二世帯住宅が完成した。最初の5ヶ月間は何の問題もなく過ごせた。
ところが、同居6ヶ月目に入ったある夜、突然2階にやってきた義両親がおかしな提案をし始めた。
「子さん、お父さんの遺産を結構もらえたんじゃないのか。金に余裕があるなら、家のローンはしばらく子さんが全額支払ってくれ。」
義父が言っていることが理解不能で、私は一瞬固まってしまった。
「子さんのお父さんは元大学教授だったのよね。契約家でもあったみたいだし。月30万くらい小額でしょ。」
月30万が小額なものか。私は耳を疑ってしまった。私はそばにいた健太を横目で見た。義両親に抗議するに違いないと思っていたからだ。ところが健太の口から出たセリフは意外なものだった。
「俺も賛成だ。お前が払え。」
「それはできません。約束が違います。」
「は?いい加減にしろ。お前が払えよ。」
義両親も私に汚いものでも見るような目を向けた。
「子さん、あなたはうちの嫁なんだぞ。夫の家族の言うことが聞けないのか。昔ならありえないぞ。」
「そうよ。しばらく月々30万円支払うだけなのよ。義理の親のためなんだから、それくらい別にいいじゃない。」
「できた嫁さんだと思っていたが、飛んだ主鮮度だな。健太をあなたなんかと結婚させなければよかった。」
私は義両親にも健太にも遺産をいくらもらったか話していなかった。遺産は息子の悠人のために使ってやりたい。亡き父もそう望んでいるはずだ。
そんな私に追い打ちをかけるように健太がまくし立てる。
「父さんと母さんの言う通りだぞ。金ならあるんだからいいじゃないか。」
「遺産は悠人のために使いたいの。前にちゃんと話したわよね。それにローンを折半するのはお父さんたちとの約束でしょ。」
「状況が変わったんだから、臨機応変にやればいいだろう。」
「そんなこと言ってたら約束の意味がないじゃない。」
「ヘリ屈を言うな。お前は俺の両親を何だと思ってるんだ?夫の両親のために一肌脱ごうとは思わないのか?」
「じゃあ、私の父をあなたは何だと思ってるのよ。私は父が望むであろうことに遺産を使いたいの。」
「この世にいない奴のことを考えたってしょうがないだろう。はあ。」
健太の言い方があまりにひどく、呆気に取られて言葉が出なかった。健太は私から父の訃報を聞いた瞬間も「ふん」と言っただけだった。他でもない私たち夫婦の結婚式の資金を半分出してくれたのは父だ。悠人が生まれた時も父から多額の出産祝いをもらった。毎年、健太の誕生日にもプレゼントをくれる。とても高価なものだ。健太は父の前でいつも笑顔だった。父に心から感謝し、慕ってくれていると私は思っていた。だが、もしかすると媚びるために愛想を良くしていただけかもしれない。義母の遺伝子を受け継いでいる人だ。私は健太に不審感を抱いてしまった。
「もう結構です。よくわかりました。」
そう言って自分の部屋へ行こうとする私の背に、健太が冷たい言葉を投げかける。
「分からず屋め。」
しかし私は振り返らなかった。健太との離婚を考えたのである。父が住んでいた家に行こうと思ったけれど、今から電車に乗っても今夜中に到着できない。それに仕事を急にやめるのは職場の人たちに迷惑をかけてしまう。ひとまず家を出てビジネスホテルに泊まろうと思いつく。1ヶ月後に職場をやめて家を出よう。それまでにこっそり離婚の準備を進めることにした。
翌朝、私が健太に「おはよう」と言っても無反応だった。私を完全に無視するつもりらしい。「いただきます」も言わずにご飯を食べ、「行ってきます」の言葉もなく玄関を出ていった。だが、健太が無視をしたとしても別に構わない。どうせ何ヶ月かしたら離婚する。そう思うと比較的ドライな気持ちでいられた。
数日後の朝、資源ゴミを出す日だった。義両親が使う1階の玄関の外にも資源ゴミが置かれていた。瓶が入った袋を見て気づく。義父はここのところ、1本数万円する高価な酒を飲んでいるようだ。15万円が浮いたからと言って、早くも浮かれすぎではないか。
そして、次のローンの支払い日が迫ったある夜、義両親がまた1階から2階のリビングにやってきた。
「子さん、今月もローンの30万円を支払ってくれるわよね。」
「ダメとは言わせんぞ。」
私は少しの間を置いてから、3人に前回と同じことを言った。
「後でちゃんと返してもらえるんですよね。」
「もちろん約束するわ。」
「返すに決まってるだろうが。いちいち聞くな。立て替えるだけだ。できるだろ。」
結果、その月も私が30万円のローンを全額支払った。翌月も翌々月も同様の流れで健太の口座に30万円を振り込む。いつ返すのか、3人に真面目に聞いてみた。しかし、歯ぐらかすばかりで具体的な期日を答えなかったため、こちらから3ヶ月後の月末にと提案した。彼らは口を揃えて「後で必ずまとめて返す」とは言うが、返済する気がなさそうに見えた。
そして私が家のローンを全額支払うようになって5ヶ月が経った頃のこと。再び2階にやってきた義両親が、さらに図々しいことを言い始める。
「子さん、お父さんが温泉旅行に行きたがってるのよ。50万円貸してくれない?」
ローンとは別に金の無心をした。私が提案した返済日はとっくに過ぎているのに、まだお金は1円も戻ってきていない。それなのに当然のようにもっと貸せという。
「温泉旅行に50万円も必要でしょうか?」
「せっかくだからいい旅館に泊まりたいの。私もお父さんもあと少しで70歳でしょ。先が短いから、今のうちにいい思いをしてもバチは当たらないわよ。」
「それと新しい服を買いたいの。最近洋服を買っていなかったから。と合わせて60万。55万円でいいから貸してくれる?」
「無理です。55万円なんて貸せません。月々30万円のローンは私が全額支払っているんですよ。追加でなんて、よく言えますね。」
「生意気な言い方をするな。お前は嫁なんだぞ。」
「加減にしてください。これ以上は出せないって言ってるでしょ。」
「どうして夫の両親を思いやれないんだ?あんたは鬼だ。」
そばで私たちを見ていた健太も義父に加勢する。
「意地悪しないで貸してやればいいだろう。お前がそんなやつだなんて思ってなかった。」
「これ以上生意気な態度を取るなら、出て行ってもらう。この家の名義は俺だ。」
まさか私が離婚を考えているとは想像すらしていないのだろう。本当に出て行かれたら困るくせに。私はステゼリフを吐いて自分の部屋へ行った。
次の日は幸い仕事が休みだった。今後のことを考えていると、私の部屋の外で健太と義両親の声が聞こえる。
「あの鬼嫁、ここに住ませてもらっている身で、なんであんなに上から目線でいられるんだ。」
「子さんって性格が悪いのね。今まで騙されていたわ。」
「しかし、出ていかれるのはまずいんじゃないか。」
「いなくなっても、俺と父さんの稼ぎでなんとかなるだろう。それにあいつは家を飛び出していけるような度胸はないよ。」
「そうよね。あの人にはもう他に家族がいないし、50になって1人ぼっちは嫌でしょ。」
そんなことはない。義両親と健太とこの先も暮らしていくより、1人でいた方がマシだ。3人の声に耳を済ますのをやめて、私はキャリーバッグに荷物を詰め始めた。
その夜、ベッドに横になり、目を閉じ続けても寝付けなかった。羊でも数えてみようかと思っていた時だ。突然、私の部屋のドアが小さな音を立てて開く。驚いて目を見開いたら、義母が立っていた。右手に持っているスマホのライトで私の足元を照らしている。しばらく様子を見ようと思った私は、薄目を開けて寝たふりをする。
義母は時よりチラチラと私の方を見ながら、椅子の上に置かれた鞄を漁った。次に机の引き出しをそっと開ける。中に手を入れ、1段目が終わったら2段目、3段目もチェックした。財布か金目のものを探しているのだと私はすぐに察した。机の引き出しの中を一通り見た義母は、今度ライトで部屋のあちこちを照らす。数秒後、ある一点で止まった。そこには貯金箱が置かれた本棚がある。義母は足音を忍ばせて本棚の方へ歩く。貯金箱を脇に抱え、部屋を出ようとした。
そこで私は勢いよく上半身を起こし、義母の背中に叫んだ。
「何してるんですか?」
短い叫び声をあげる義母。驚いた拍子に彼女はスマホを床に落としてしまった。慌てて拾い上げようとして、今度は貯金箱を落とす。義母があたふたしている隙に、私は枕元にあったリモコンで部屋の電気をつけ、ベッドから出た。しゃがんでいる義母の前に立ち、見下ろす。
「泥棒するなんて、最低ですよ。」
「う、私は泥棒なんかじゃ…」
「貯金箱を盗もうとしていたじゃないですか。」
義母は口ごもり、目を泳がせていた。しかしすぐに私を睨みつけて開き直る。
「あ、あなたが悪いのよ。お金を持っているくせに、私とお父さんが頭を下げても貸してくれないんだもの。」
「だから盗んでもいいと言いたいんですか?そんなわけがないでしょう。」
「怒らなくてもいいじゃない。あなたが相続した遺産に比べれば、貯金箱の中のお金なんて高が知れてるでしょう。」
私と義母が言い合っていると、隣の部屋のドアが開いた。健太が起きたのだ。
「こんな夜中に何やってるんだよ。」
さらに1階から2階に上がってくる足音も聞こえる。間もなくして義父が姿を表した。
「うるさいぞ。何の騒ぎだ?」
「お母さんが私のお金を盗もうとしたんです。」
私は健太と義父にこの経緯を説明する。話を聞き終えると、2人はとんでもないことを言い出した。
「証拠があるのか?」
「なんで?」
「言われないと分からないのか。あんたが大人しく金を貸していれば、こんなことにはならなかっただろうが。」
「そうよ。子さんのせいよ。」
健太と義父が自分の味方になったことで気が大きくなったらしい。義母が縦板に水のごとく私を攻め始めた。
「毎月ローンの30万円を支払ってるからって偉そうにしすぎよ。もっとたくさんの金を独占してるくせに。」
「小額で何様のつもり?」
「俺は明日も仕事なんだぞ。こんな騒動を起こして寝不足になるじゃないか。どう責任を取ってくれるんだ。」
義父が私を睨みながら、近くの壁を拳で一度思いきり叩いた。大きな音がして少し体が怖ばってしまったが、どうしても納得がいかなかったので、私はなんとか言い返す。
「騒動を起こしたのは私ではなく、お母さんです。あなたたちおかしいですよ。」
次の瞬間、健太の怒号が聞こえてきた。
「おかしいのはお前だ。」
健太は玄関の方を指差し、さらに怒鳴る。
「うちが嫌なら出てけ。」
「言われなくてもそのつもりだ。ただ、最後にちゃんと話してから家を出ようと思っていた。しかし、これでは話す気も失せた。」
私は黙って部屋の隅に置いてあったキャリーバッグの方へ歩いた。取って思った瞬間、義父が「はっ」と短い声を出す。
「もしかして、元々出て行こうとしていたのか?」
「え、そうですよ。」
正直に答えてキャリーバッグを転がす。パジャマのままだが、もうそんなことはどうでもいい。さっさとこの家から出ていきたかった。24時間やっているファミレスにでも行き、トイレで着替えよう。義両親と健太の横をすり抜ける。3人の視線を感じたが、見ないようにした。そこで健太が私に冷たく言い放つ。
「お前なんかと結婚しなければよかった。」
私は思わず足を止めてしまった。約20年間、私なりに健太のために頑張ってきたつもりだ。家事が苦手な彼のために、体調が悪くても毎日家族にご飯を作り、洗濯と掃除もした。夫婦仲に亀裂が入らないよう、自分の意見より健太の意見を優先してきた。外で家族の生活費を稼いでくれている彼に感謝していたからである。健太も口には出さないが、私と同じような感情を抱いてくれていると思っていた。でも、そうではなかったらしい。あまりのショックで血の気が引き、数秒の間視界が暗くなる。軽い目まいがした。しかし同時に、私の中で全てが吹っ切れることができた。もうどうなっても私は構わない。腹は決まった。
「家を出て行けと言うなら、離婚しても構わないわよ。とりあえず家を出て、離婚届は後で用意しようと思っていたけど、めんどくさい。さっさと他人になってしまった方が賢明ね。」
「ああ、離婚してくれ。なんなら今すぐに。」
「いいの?あえてそう聞いてみた。」
私の口元が自然と持ち上がる。私の推測が正しければ、健太と義両親は近い将来、とんでもない目に遭うに違いない。その時、せいぜい後悔してもらおうか。
私が笑っているのにも気づかずに、義母が検討違いなことを言い出す。
「まさか自分から離婚を言い渡せば、健太が泣いて謝罪するとでも思ったの?そんなわけないでしょう。」
「別に謝罪なんて求めていません。今更謝られても遅い。ただ不快なだけだ。それに、あなたたちに心のこもった謝罪ができるとも思えない。」
「お前は最後まで上から目線で態度が悪いな。」
「何を言われようが構いません。離婚届、用意してもらえる?パソコンとプリンターを使えばできるでしょ。」
健太は眉間にしわを寄せて私を睨みつけた後、自分の部屋へ行った。その直後、しばらく黙っていた義父が口を開く。
「子さん、本当に出ていくのか?」
義父の顔は青ざめていた。先ほど私をまくし立てて壁を殴った時の威勢はどこにもない。やっぱりなと思った。私の推測はおそらく当たっている。
「お父さん、あなた、子さんを引き止める気?」
「いや、だって…」
義父の額に汗が滲んだ。
「こんな最低な奴が出ていった方がいいでしょう。」
「あなただって子さんには怒っていたのに。」
義母が義父の話に夢中になっている。貯金箱を取り返すなら今がチャンスだ。私は義母の方に手を伸ばした。ところが、あいにくと勘づかれてしまう。
「何するのよ。」
とっさに身をよじり、私から貯金箱を隠す義母。
「私のですよ。返してください。」
「これは今まで私があなたの面倒を見てやった世話代です。」
「離婚の際に、嫁が義母に世話代を支払うなんて聞いたことがない。確かに以前は義母にもよくしてもらっていた。でも、その都度お礼をしていた。義両親の結婚祝いやそれぞれの誕生日にプレゼントを送ったし、義母の体調が悪い日に私が家事を手伝ったこともある。なぜ世話代を徴収されないといけないのか。しかも、ここしばらくはローンも全額支払っている。貯金箱は何としてでも返してもらわねばならない。」
無理やりにでも義母から引き剥がそうと思ったところで、健太が戻ってきた。プリントしたばかりの離婚届を持っている健太の機嫌は、もう最悪だった。
「お前もさっさと書け。」
私は健太から離婚届を受け取ると、自分の部屋に向かう。そして机の上のペン立てから抜き取ったボールペンで、自分の欄に必要事項を書き込んでいく。そんな私に、義父が先ほどよりもさらに顔を青くしながら歩み寄ってきた。
「な、なあ、子さん、もう少し考えてからでもいいだろう。」
「謝らなくていい。何を言ってるんだ、父さん。」
健太が軽蔑した表情を浮かべる。
「お父さんがさっきから変なのよ。」
「健太。まるで子さんに出ていって欲しくないみたい。」
「はあ?父さんはこいつの味方をするのか。」
「そういうわけではないんだが…」
もごもごと話す義父。
「じゃあ、どういうわけなのよ。」
「別に何でもない。ただ、昔はバツがつくと周りの人間からの評価が落ちるし、一時の感情で離婚なんてするものではないと思ってだな。」
「今は昔ではありません。それに、実は私、もう何ヶ月も前から離婚を考えていたんです。」
「な、なんだと?」
健太が目尻を吊り上げる。私の方が先に離婚を考えていたことが気に食わないようだ。
「どこまでも人をちょくりやがって。もたもたしてないで、早く離婚届を書け。」
「今書き終わったわよ。」
私は机の上にボールペンを叩きつけ、立ち上がった。
「私が役所に出しておきます。さようなら。」
離婚届を片手に廊下に出る。そこで義父が慌てた様子で、義母から私の貯金箱を奪い取った。
「あ、何してるのよ。」
「子さん、考え直せ。これは返すから。」
義父の顔は血の気が引きすぎていて、いよいよ真っ白だった。私は義父から貯金箱を受け取る。しかし、考え直す気はない。そのまま玄関へ進んだ。
「待ちなさい。それは私のものよ。」
「母さん、やめなさい。」
義父は私に掴みかかろうとしている義母を止めながら、叫び続けている。
「子さん、待ってくれ。行くな。」
「父さん、どうしたんだよ。あんなの引き止める必要ないだろう。」
私は振り返らずに玄関へ行き、ドアを開け、すがすがしい気分で外に出た。まだ夜中で外は真っ暗だが、いつもより星が綺麗に見えた。新しい世界が私を待っている。軽やかな足取りで1歩、また1歩と歩みを進めた。
到着したのは近所にある24時間営業のファミレスだ。店員に席に案内され、ドリンクバーとパフェを注文した。お腹は空いていなかったが、ドリンクバーだけで長居するのは申し訳ない。それにスイーツで祝おうと思った。今日は晴れて1人身に戻れる記念すべき日だ。朝一番で役所へ行き、離婚届を提出しよう。ただ、その前に悠人に連絡することと、今後どうするかを話さなくてはならない。
店員が持ってきてくれたパフェを味わいながら、今後についてあれこれ考える。頂上のイチゴを食べたところでスマホがバイブした。健太か義両親が連絡してきたのだろうと思い、すぐには画面を見なかった。しかしバイブはなり続ける。画面を確認するだけなら構わないと思い直し、見てみると悠人と書かれていた。予想が外れ、少しのため息をつく。全員に一声かけてから店の外へ行き、電話に出た。
「もしもし。」
「もしもし、母さん。じいちゃんが倒れたんだって。」
玄関のドアを閉める直前に義母の叫び声と物音が聞こえたのは、義父が倒れたからなのかもしれない。先ほど真っ青を通り越して真っ白な顔をしていた義父の顔が頭に蘇る。
「さっき父さんから電話がかかってきて聞いたんだよ。みんなで今病院にいるみたいだ。」
「そう。」
「父さんが、母さんを家から追い出したとも言ってたよ。」
健太は私が悪者だと悠人に思われるような話しぶりだったらしい。例えば、義母から貯金箱を奪い取ったと言ったが、それが誰のものかは説明しなかった。盗まれたのは義母だと勘違いさせたかったようだ。健太と義両親は何も言っていないのに、私だけが唐突に夜中に騒ぎ、暴れていたことにもなっている。自分たちに都合のいいことを言っていた。
「父さんの言うことは話半分に聞いていたけどさ。」
悠人は私と健太の性格を熟知している。大体、お金の話になると人一倍慎重になる私が、理由もなく誰かの貯金箱を奪うなんて、悠人からしたら違和感でしかないと思う。
「それで、おじいちゃんはなんで倒れたの?どこか悪いの?」
悠人が黙り込んだ。重たい病気なのかもしれない。そう思っていると悠人の声が聞こえてきた。
「癌だって。」
なんと半年ほど前に、義父は医者から余命宣告をされていたそうだ。ちょうど私にローンの30万円を全額払うよう、義母と一緒になって言い出した時期と重なる。余命を聞かされた時、義父は「出任せを言うな」と医者を怒鳴りつけたという。自分がこの世からいなくなる現実を受け入れられなかったのだと思う。体が癌に蝕まれているにも関わらず、酒もタバコも続けていた。
「それにしても、嫌だわ。」
「何が?」
「あまり可哀想だと思えないの。私はこんなに冷たい人間だったのね。」
深いため息が口から漏れる。対する悠人は小さく笑った。
「母さんは自分の気持ちに正直になれただけじゃない。今まで母さんは、楽するために父さんの言いなりになってきただろう。」
悠人に指摘されてドキッとする。確かに私は健太の言うことに反論するのが面倒だと思っていた。喧嘩になるくらいなら、自分の意見を言わない方がいい。そうやって向き合うことから逃げていた気がする。
「でも、おじいさんが亡くなってから、母さんは少しずつ変わったよね。じいちゃんたちとの同居も、父さんに言われて決めたというより、最終的には自分で決めたじゃん。」
父が亡くなった時、私は悔いのないように生きたいと強く思った。家族にもそうあってほしい。健太が望むなら、私にはできなかった親との同居を承諾しなくては、と使命感のようなものを抱いた。
「母さんは、人のためなら頑張れる人だ。昔からそこが母さんのいいところだよね。」
実の息子に褒められて素直に嬉しい。スマホを当てている耳が少しくすぐったくなった。
「自分の気持ちを大事にしないと、じいちゃんを許せないっていう怒りもね。ただ、21年しか生きていない俺が言っても説得力がないかもしれないけど。」
「そんなことはないわ。あなたは私にないものをたくさん持っている。心から信頼し、尊敬しているわ。」
「それに、悪いことをしたらバツを受けるべきだ。亡くなる前にとことん反省する機会を与えるのも優しさだよ。…て、なんだか説教みてえだな。」
気恥ずかしくなったのか、悠人が話を変えた。
「今どこにいるの?一番はそれを聞きたくて母さんに電話したんだ。」
私はファミレスにいることを告げ、これからどうするのかを説明した。悠人のあくびが聞こえてきたので、話を切り上げる。明日も大学の授業があるだろうから、早めに電話を終えた。
私に健太からの着信が来たのは、それから数時間後、役所で離婚届を提出した直後のことだ。義父が癌だと知った健太と義母は、悠人にはすぐに電話をしたのに、私には何の報告もしなかった。もうあの家の嫁ではないからだ。ならばどうして今、わざわざ電話をかけてきたのか。理由は想像できるが出る必要はないので、無視することにした。
しかし、あまりにしつこい。鳴りやんだと思ったら着信拒否をしていないスマホがまたかかってくる。ものすごい勢いで私にまくし立ててきた健太と義両親の姿を思い出し、腹が立ってきた。一言文句を言ってやりたくなる。私は電話に出ることにした。
「何度もかけてきてしつこいわよ。」
「お前のせいだ。」
開口一番に放った私の文句は、健太の罵声によってかき消された。
「父さんが危ないんだよ。」
義父の末路を私のせいにする健太。さらに彼はおかしな要求をしてきた。
「俺たちの離婚はお前のせいだ。責任を取って、家のローンを全額支払いやがれ。」
「離婚はあなたも承知の上でしたんでしょう。なんで私が他人の家のローンを支払わなきゃいけないのよ。」
「お前が生意気な態度でいなければ、こんなことにはならなかったんだ。責任を取って金を払うのは当然だろうが。」
義父は先が長くなく、義母は専業主婦ということは、月30万円の支払いは健太に全てのしかかってくる。健太は高級腕時計を分割払いで購入していた。その返済もある。
「お父さんの退職金でもあるんでしょ。遣い切ってしまったのかしら。」
「金になるわけないだろう。さっき父さんが泣きながら白状してきたが、退職金は父さんの借金返済で消えたんだよ。」
私は「やっぱりな」と心の中でつぶやいた。以前に思った通り、義父の工場の経営はうまくいっていなかったのだ。義父だけは、私があの家からいなくなるとまずいと分かっていた。だから、出ていく私を引き止めたのだ。そんな立場でいながら、なぜ義父は私に暴言を浴びせ続けたのか。理解しがたいが、中途半端に義父としての威厳を保ちたかったに違いない。息子の嫁にすがるなんて、プライドが許せなかったのだ。要は、私を見くびっていたのだ。少し強引な物言いをすれば、簡単に大金を貸してくれるお手軽な嫁に見られていたらしい。
「俺の工場にある機械やトラックも借りたもので、レンタル代も支払わないといけないんだよ。」
義父の工場の経営が悪化し始めたのは、主要取引先の社長が30代の若い人に変わってからだそうだ。若者に「面倒くさい年配者」と思われないよう義父なりに気をつけていたが、隠しても表情や態度に出てしまうもの。その社長には本音を見抜かれてしまった。義父は不器用な人なのだ。
「お前が離婚しなければ、支払いなんてなんとかなったんだ。今すぐに金をよこせ。」
むちゃくちゃなことを言う。離婚しなかったとしても、私はお金を出さなかっただろう。
「健太、いい加減にしなさい。私にお金を支払うのは、あなたたちの方よ。」
「は?支払う?何をだ?」
「月々のローンの30万円を返してもらっていないわ。」
「はあ。あれはお前が勝手に支払ってくれていたんだろ。」
「あなたたちが『貸してくれ』と言ったんでしょ。」
「そんなこと言ってないだろ。」
「証拠もないのにざれ言を抜かすな。」
私に返済を迫られた時に、証拠の提示を求めようと義両親と決めていたのかもしれない。だが、ざれ言を抜かしているのは健太の方だ。私ははっきりとした口調で教えてやった。
「証拠なら、6ヶ月前から残し続けてるわ。」
「あ…」
短い声を上げて沈黙する健太。
「音声データや他の記録もあるのよ。」
私はローンを立て替えておけと最初に言われた日から、義両親と健太に金の話をされるたびに、スマホで会話を録音していたのだ。あの義両親が2階に上がってくる足音が聞こえて、エプロンで手を拭いていた時も、前ポケットの中のスマホを操作した。私が具体的な返済日を提案した時の会話も録音済みだ。健太と義父と義母が「後で必ずまとめて返す」と言っている声が入ったデータもある。
「いつ、どの口座から、いくらの金を私が健太に振り込んだか、かなり細かくノートに記録しているわ。悠人からのアドバイスに従って準備した証拠なの。悠人は法学部の大学生だからね。」
「なんだって…勝手に録音していたのか。」
「あなたたちに後でまとめて返済させて、大打撃を与えてやろうと思ったの。どう?かなりの板ばさみじゃない?」
「ふざけるな。こっちの状況を聞いていなかったのか。金がないのに、どうやって支払えと言うんだ?」
「知らないわよ。返すと約束したんだから、何が何でも支払いなさい。」
「くっ…」
健太が悔しそうに唸る。
「そういえば、父のお葬式に、弁護士がたくさん来ていたわね。父の教え子には、有名な辣腕弁護士もいるみたいよ。」
「なんだと?」
「その人の連絡先を調べて、依頼してみようかしら。」
「い、いや、やめろ。やめてくれ。」
彼の声は震えていた。かなり慌てているようだ。
「いいえ、やめません。約束は守るためにあるのよ。この言葉をずっと言ってやりたかった。月30万円のローンは、義両親と折半だと最初に約束したはず。約束を破るとどうなるか、身をもって分からせたかった。私はあなたを許さないわ。ここまで一言も謝罪がないしね。」
しぶしぶでも謝罪してくるかと思ったが、健太は黙っていた。代わりに、正体不明の「ギリギリ」という音がする。健太が電話の向こうで上下の歯を擦り合わせているのだと察した。怒りをどこにぶつけたらいいのか分からず、そうするしかないのだろう。不愉快な音だ。
「素直に謝れないのは、お父さん譲りね。」
「黙れ。お前は許さないくせに。」
「確かに、許す気は一切ないけれど。」
「もういい。こっちも訴えてやる。」
「訴えるって、何を?」
「お前が出たらめを言っている件についてだ。」
「私は事実のみを述べているし、訴えられるようなことはしていないわ。」
「どうぞ、ご勝手に。話はそれだけかしら?もう電話を切るわよ。」
その直後、電話が切れた。私から切られたら負けだと思っているのだろう。彼はいじっ張りで負けず嫌いな人だ。どちらが先に切ろうが、勝ち負けなんてないのに。
数分後、今度は義母から電話がかかってきた。健太から話を聞いたのだと思う。私に文句を言うか、口先だけの謝罪をして金を引っ張り出そうとしているかのどちらかだろう。こちらが話すことは何もないので、スマホの電源を落とした。
それから電車に乗って、ウィークリーマンションの近くの喫茶店へ行く。店内に入り、コーヒーを頼んだ後にスマホの電源を入れると、義母からのメッセージと着信が何件も入っていた。私はそれらを読まずに全て削除し、義両親と健太の連絡先をブロックした。
翌日、私は仕事へ行った。これからは日々働きながら、あの3人を訴える準備を進める。葬儀に来てくれていた父の教え子である弁護士にはもうメールを送って、返事も来た。「是非力にならせてほしい」とのこと。父が亡くなった時、家を見ながら大号泣していたその人は、専門家の間で有名らしく敏腕でもある。心強い人が味方についてくれてよかった。父がつないでくれた縁だ。今でも私を助けてくれているのだと思うと、目頭が熱くなる。
その時である。
「子さんを出してちょうだい。」
静かな館内に、聞き覚えのある大きな声が響き渡った。職場に押しかけてくるかもしれないとは思っていたが、非常識にも程がある。義母は受付の女性職員に怒っていた。
「私はあいつの義母だ。さっさと出してこい。」
私を見つけるなり、大股歩きでこちらに近づいてくる。彼女の目は釣り上がっていた。
「あなた、私たちの連絡先をブロックしたのね。最初は許してやろうと思っていたのに。許せない。侮辱するのも大概にしろ。」
「静かにしてください。迷惑です。」
周囲にいた人たちの視線がこちらに集中している。
「黙れ。金をよこせ。」
義母が私に掴みかかろうとしたので、近くにいた男性職員が私たちの間に入ってくれた。もう1人、騒ぎを聞きつけた男性職員もやってくる。それでもなお、義母は暴れて叫び続けた。
「世話代と慰謝料と迷惑料、とにかく金を支払え。支払わない場合、どうなっても知らないわよ。」
今度は警備員がやってくる。しかし、それでもやはり大人しくならない。最終的に警察まで姿を表した。先ほど受付で怒鳴られていた女性職員が呼んだらしい。義母は警察に「悪いのは全て私」だと訴え続けていた。
「私は悪くないんです。この人が私をブロックするからいけないのよ。」
義母は精神的に追い詰められ、正常な判断ができなくなっているように見えた。義父が末期だと分かった上に、工場は倒産寸前。ローンはまだまだ残っているのに、金銭的に切迫している。そんな中、私から返済を迫られる。全て誰かのせいにし、最悪な状況から逃れたいのだろう。警察官は義母を外へと連れて行った。
義母がいなくなった後、上司と館長と話をした。2人は彼女が「理性のない恐ろしい人物」に見えたらしい。私の身を案じ、翌日から仕事を休むように言ってくれた。そこで私は仕事をやめるつもりだと話す。
「本当は今日の仕事が全て終わってから言おうと考えていました。他の職員に迷惑がかかるので、すぐにやめるのは申し訳ないと思っていたんですが。」
「いやいや、危害を加えられてからでは遅いです。他の職員のことは気にせず、ご自身の身を最優先に守ってください。」
「子さんは気遣い屋ですからね。いい職員だったので、やめてしまわれるのは惜しいですが、そういうことでしたら仕方ありません。」
しばらく近くで暮らさなければと思っていたが、予定より早く父が住んでいた家に引っ越せる。私は親戚の家でしばらく世話になることにした。健太がまた来るかもしれないからと、気を使って止めてくれたのだ。
私の引っ越し先は、比較的早く見つかった。悠人の大学がある町での暮らしが始まった。とても住みやすいところだ。大きな図書館や24時間営業のスーパーも近所にある。
引っ越しを終えて1週間も経たないうちに、依頼していた弁護士との連絡が徐々に増えていく。間もなくして、私は無事あの3人に貸していた金を全額返済させることができた。健太が金融会社で借金し、義両親の分もまとめて支払ったそうだ。弁護士の話によると、義父はまだ生存しているらしいが、工場は倒産した。体調が悪いのに病院を嫌がり、入院もせず家に引きこもり、昼間から酒を飲み続けているようだ。工場は負債を抱えているはずで、義父が亡くなった後は健太が返済することになる。義両親はどちらもあの二世帯住宅に引きこもっているそうだ。義母は近所の人に笑われるので、外出は不可能。健太が1人で働き、心身ともに疲弊している義両親を支えている。
私の方は、あの3人を思い出す頻度がかなり減ってきた。ただ、健太に謝ってもらえていないのが心残りである。そう思う一方で、諦めてもいた。あのいじっ張りな彼が、今まで散々見下し続けてきた嫁に謝罪するなんて、絶対にありえない。仕返しは無事に済んだので、これでよしとしよう。
そんなことを考えていた頃だった。新居に引っ越して半年も経っていない日、私のスマホに公衆電話から着信が入る。最初は無視していた。しかし、数時間後に再びかかってくる。また出ずにやり過ごしたが、さらに数時間後、同じようにバイブするスマホを見たら、やはり公衆電話と画面に表示されていた。誰がかけてきているのか気になり、電話に出てみる。
「もしもし。」
「もしもし。俺だけど…」
知らない人だと思った。覇気が感じられず、掠れている小さな声だ。
「どちら様でしょうか?」
「俺だよ。健太です。」
「はあ。まさか健太からかけてくるとは思わなかったわ。彼なら、こちらが着信を無視した場合、着信拒否をしていない番号から連続で電話を入れてくるはず。それに、この声は何?覇気がなくて、まるで別人みたい。」
「そうですか。ご用件は何でしょう?」
「悠人も交えて、話がしたいんだ。」
「話すことなんてありませんよ。」
「そんなことを言わずに、頼むよ。」
「頼まれても困ります。もう私に電話しないでください。さようなら。」
私は務めて他人行儀なトーンで、いい電話を切ろうとする。
「ま、待ってくれ。直接会って、謝りたいんだ。お願いだ。」
最後の方の声は震えていた。泣いているようだ。呼吸も激しく乱れている。だが、情けをかけるつもりはないし、私は会いたくなんてない。謝罪なら電話で受けられる。聞いてもらえるだけありがたいと思ってほしい。
「仕方ないわね。悠人に連絡してみるから、ちょっと待ってて。どうするか決めた後、こちらからあなたのスマホに連絡します。」
電話を切り、スマホのメッセージで悠人に健太から着信があったことを告げる。すると、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし。あの人、何だって?」
「会って謝罪したいらしいわよ。」
「は?なんであの人のために時間を作らなきゃいけないんだ?電話で謝れよ。」
「私もそう思った。」
悠人がため息をつく。
「まあ、実の父親だったわけだし、母さんが大丈夫なら、俺も謝罪くらいは聞くよ。」
そして、SNSのグループ通話をしようと決める。健太にも連絡を入れ、アカウントのIDを教えてもらった。ブロックしただけでなく、完全に削除していたからだ。やがて悠人が3人のグループを作って、電話をかけてきた。私は通知を見て電話に出る。すると、なぜか画面に健太の顔が映っていた。まだ外にいるようだ。
「け、元気か。」
健太が引きつった笑みを浮かべる。元妻と息子にどんな顔を向けたらいいのか分からなかったのだと思う。
「なんでビデオ通話にしてるの?」
「そ、その方が、会ってる気分を味わえるだろう。お前たちも顔を見せてくれないか?」
先ほど健太の声に覇気がないと思っていたが、見た目もそうだった。げっそりと痩せて、頬がこけている。あれからずっと毎日、本当に大変だったのだと、何も聞かなくても分かった。全て自業自得なので、同情の余地はない。
「なんで顔を見せなくちゃいけないの?必要ないでしょ。」
「いや、でも…」
「謝罪したかったんじゃないの?そうじゃないなら、もう切るよ。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
健太が大声を出した。そして、慌てて姿勢を正し、頭を下げる。
「す、すまなかった。」
しばらく沈黙が流れる。健太の口からようやく謝罪の言葉が聞けた。これで、もう全て終わったのだ。そう思い、私が電話を切ろうとした瞬間、健太が勢いよく顔を上げた。
「お願いだ。許してくれ。助けて。」
「は?」
健太の目の色が変わった。目がカッと開き、走っている。
「遺産、まだあるんだろ?お前の性格からして、絶対に使っていないだろうし。」
突然早口で喋り始めた健太に驚き、私は固まってしまった。まるで何日も食事にあり付けていない猛獣のように鼻息が荒い。健太のこんな姿を見たのは初めてだ。
「父さんも母さんも働ける状態じゃないんだよ。代わりに俺が深夜のバイトまでして、寝ずに働いてるんだが、そのせいで昼間に居眠りすることが増えてしまったんだ。」
「それで?」
驚いて無言になってしまった私の代わりに、悠人が口を開く。
「広告なんだよ。給料も下がっちまったし。この通り、働きすぎてガリガリだ。10キロ以上痩せたんだぞ。」
そこで私は察した。私たちに「可哀想な自分の姿」を見せるために、健太はこうしてビデオ機能を使っているのだと。一応謝罪する意思はあるようだが、それよりも「助けて欲しい」という気持ちの方が強いらしい。もっと心から反省していると信じていたのに、この仕打ちだ。彼を許してはいけないと、改めて強く思う。
「なあ、縁を切るなんて言っていたけど、家族だったじゃないか。心から反省しているんだ。だから、助けてくれ。」
「心からの反省をしているなら、許してもらえるなんて思わないはずだよ。」
「あ…」
「これは謝罪の電話じゃないね。父さんは、やっぱり自分のことしか考えていないんだ。」
悠人の声は、今まで聞いたことがないくらい冷たかった。実親がここまで落ちぶれてしまったことは、ショックに決まっている。これ以上、息子の心を傷つけないで欲しい。
「ち、違う。俺は2人に本当に申し訳ないと思っている。」
健太はスマホを置き、コンクリートの地面に額を擦りつけながら、土下座を始めた。しかし、反省しているふりは誰にでもできる。悠人も私と同じように思ったらしい。先ほどよりも少し冷ややかな口調で言い放った。
「なら、具体的に何が申し訳なかったのか、言ってみろよ。」
健太は沈黙する。
「嘘だろ。」
悠人も呆れていたが、私もあいた口が塞がらなかった。すぐに出る答えは、1つもないらしい。とりあえず口先だけだ。
「よくわかった。土下座も、ただのポーズだ。あなたには失望しました。もう電話を切りますね。」
「おい、なんだよ。こっちがせっかく謝ってやってるのによ。」
急に声を荒げたかと思うと、健太が逆切れをし始めた。
「あ、本音が出たね。」
「うるさい。黙れ。」
思い通りにことが運ばないと癇癪を起こす。健太は以前と何も変わっていない。どこまでもわがままな人だ。
「お前は本当に何様なんだ。金を持ってるくせに、なんで出さないんだよ。夫になってやった俺に、感謝の気持ちはないのか。」
新婚の頃までは、健太はこんなにひどいことを言う人ではなかった。元々自分から意見を言うのが苦手な私を気遣い、デートで行きたいところやご飯をどこで食べたいか、必ず聞いてくれたのだ。意志が強く、それでいて優しい。健太のそういうところに引かれた。そして、彼となら結婚してもうまくやっていけると信じていた。でも、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、健太は私のことを「自分に都合よく動いてくれる操り人形」のように扱い始めた。それでも、「お前なんかと結婚しなければよかった」と言われた瞬間、自分が彼のことを信じられないくらい好きだったのだと気づいた。しかし、今は彼が大嫌いだ。父を「いない奴」呼ばわりした時から、愛情は急激に覚めていった。そして今、私の心の温度はさらに下がっている。
「『謝ってやってる』って何?そんな気持ちで謝罪されても、心に響くわけないじゃない。」
「これは、お前の心が腐っているせいだ。」
「心が腐っているのは、あなたでしょ。」
「はあ。お前はなんて失礼なやつなんだ。」
スマホからまたあの歯ぎしりの音が聞こえた。
「お前のせいで、俺や父さんや母さんは苦しんでるんだぞ。責任を取りやがれ。金を出せ。」
「そうやって勝手に一生私のせいにしていればいいわ。私はあなたを忘れて、生きていきます。」
「なんだと?」
健太が怒鳴るが、寝不足で声に迫力がない。もう彼とは何を話しても無駄だろう。勝手に不幸のどん底に落ちていけばいい。
「じゃあね、悠人。また連絡するわ。」
「あ、またね。」
悠人の声は、心なしか弾んでいるように感じた。
「おい、勝手に切るな。金をよこせ。」
そこで電話を切った。すぐにグループ通話を退出し、健太の連絡先をブロックしたので、もう連絡が来ることはなかった。数分後、悠人から着信が入る。電話に出ると、笑い声が聞こえてきた。
「母さんの最後のセリフ、しびれたわ。」
「最後のセリフって、『私はあなたを忘れて生きていきます』ってやつだよ。」
自分で言ったものの、思い返してみればまるで昭和のトレンディドラマのようなセリフだ。少し恥ずかしくなった。
「そ、そんなに笑わないでよ。」
「いや、バカにしているわけではないんだ。父さんからしたら、かなり効くだろうなと思ってさ。」
健太は私の方が自分に惚れていると思って長年余裕ぶっていたが、立場が逆転した。ただでさえプライドが高い人なので、彼にとってはかなり腹立たしい言葉だったかもしれない。
「これからは、公衆電話から着信があっても出ないこと。俺もそうする。知らない番号も、なるべく出ない方がいいね。」
「分かったわ。これで、全部終わったのよね。」
「ああ、そうだよ。祝杯でもあげようか。」
「それはいいわね。キャリーバッグを転がしながら、あの二世帯住宅の玄関を出た夜、ファミレスで離婚祝いとして食べたパフェは、信じられないほど美味しかった。あの時は1人だったが、お祝いするなら2人の方が楽しい。」
「ねえ、悠人。私、焼肉が食べたい。パフェがあるところがいいわ。」
年齢を重ねた今、肉より断然魚派だ。しかし、今はスタミナのつくものを食べたいと思った。これから先は、空の上で見守ってくれているであろう父が驚くくらい強い自分になれるように頑張りたい。
「母さんから食べたいものを言ってくるなんて珍しいね。やっぱり母さんは変わった。」
「それって、いい意味?悪い意味?」
「いい意味だよ。」
明るい声で言った後、悠人は「うん」と唸る。そして、パンと手を叩いた。
「よし、焼肉屋なら、大学の友達がバイトしてる店に行こう。」
「あら、そういうお店は大歓迎だわ。でも、あまり美味しくないみたいだけど、いいの?」
「悠も初めて行く店らしい。美味しくないと言われて、逆に気になったわ。今は新しい挑戦や経験をたくさんしたい。失敗してもいいのだ。」
翌日の夜、私と悠人は2人で一緒に焼肉を食べた。デザートには、もちろんパフェを注文する。大学生が集う店で、自分と同世代の客はいない。肉は固く、パフェも小さくて、申し訳程度にイチゴがちょこんと乗っているだけのものだった。だけど、とても楽しい。悠人とたくさん笑ったこの日の食事を、私は一生忘れない。
その後、健太は深夜のバイトで寝不足だったために、会社で凡ミスどころでは済まない大きなミスを犯してしまった。上司に圧をかけられ、責任を取るために自主退職するはめに。義母は相変わらず家に引きこもり状態。義父もギリギリ生きてはいるが、体調はかなり悪い。そもそも病院嫌いの義父は「医者にかかっても無意味だ」と判断したようで、悲鳴をあげ苦しむだけの日々を送っている。義両親は働けないため、健太は「どこでもいいから」とすぐに雇ってくれるところに務め始めた。だが、給料が安いので、深夜のバイトをもう1つ増やし、以前より睡眠時間を削って働く。しかし、間もなくして過労でダウン。めちゃくちゃな働き方をしていたので、当然だ。
家族は無職になった。せっかく建てたあの二世帯住宅を手放す。健太は、工場の倒産によって義父に発生した支払いの分の金を金融会社で借金していたが、返済が不可能になったため、自己破産。それでも生きているだけでお金がかかるので、体調がまだ悪いにも関わらず、また働き始めた。1人で身一つで稼いでいるのに、義母は自宅で毎日ゴロゴロしている。引きこもり生活に馴れすぎて、働く気が起きないのだ。経済的に困窮している3人の心には余裕がない。アパートにはいつも健太と義母の罵声と、義父の悲鳴が響き渡っている。3人がそこから追い出されるのも、時間の問題だろう。
私は悠人と焼肉を食べに行った数ヶ月後、近くの図書館で働き始めた。父が住んでいた家は解体中で、駐車場はもうすぐできる。倹約家な私なら、その駐車場の収入があれば働かずとも何とかやっていけると思う。しかし、先のことが心配だし、1人で家にいるだけでは暇だ。運動不足になるのも避けたい。体を動かして、お給料が入るなら一石二鳥だ。それに、本が好きなので司書の仕事が楽しい。やはり、私にとってこの仕事は天職だ。悠人ともよく連絡を取っている。無事に大学院に進学できた時に、美味しいものをご馳走するつもりだ。ただ、たまに悠人が家にご飯を食べに来ることがある。
「母さんの作る味噌汁、本当にうまいわ。何杯でも飲める。やっぱり、母親の手料理が一番だよな。」
「褒めてもらえるのは嬉しいけど、悠人は年頃なんだから、彼女に作ってもらわないと。勉強に手がつかなくなってるんじゃないの?」
「彼女はいいからさ。母さんこそ、いい人を見つければ?今は50歳を過ぎて結婚する人も多いしさ。」
「私の心配はいいから、悠人は自分の幸せをちゃんと見つけるのよ。」
今の私は、再婚について考えるのは早すぎる。でも、もしいい人に巡り合えたら、その時は前向きに考えたい。お互いの意見を尊重できる関係を築けるのが理想だ。そしていつか、悠人が将来結婚する相手は、きっと私の父のような優しい人だろう。父は悠人を空で見守っている。この子を幸せな未来へと導いてくれるに違いない。



