「お前は首だ。」
信頼していた直属の上司に突然そう言われたとき、俺は頭が真っ白になった。え、どうしてですか? 「私の胸を触ったでしょう。あの時のこと、ずっと我慢していたけど、もう耐えられなかった。だから社長に報告したわ」
海野さんは自分の左腕をギュッと握りしめた。まるで思い出したくない記憶に耐えるかのように。
あれはわざとじゃなかった。子供たちがぶつかってきたのを支えた時に、偶然手が当たってしまっただけだ。しかし、もう取り消しは効かない。
俺は何も言い返せず、深く頭を下げて会社を去った。
あれから数日、心に大きな穴が開いたまま、俺は家でぼんやりと過ごしていた。そんな時、突然スマホに着信が入った。画面に表示された名前は「海野」。驚いて通話ボタンを押すと、向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。
「……助けて。あなたが必要なの」
その言葉を聞いた瞬間、俺たちの逆転劇が始まった。
俺が務めていた会社、海線山線は音響機器や楽器を取り扱う会社だ。海外から取り寄せた機材を映像制作会社やライブハウスに売り込むのが仕事だった。
昔から俺は説明が下手だった。どれだけ言葉を尽くしても、誰も最後まで聞いてくれない。営業先からも「君のようなこちらのことを考えていない人と取引する気はない」と追い出されてばかりいた。副社長の望月さんには「無能ならさっさと辞めたらどうだ」と毎日のように罵倒されていた。
そんな中、海野さんが直属の上司になってくれた。彼女は俺の話を最後まで聞いてくれた最初の人だった。
「あなたの意見はとても参考になるわ」
そう言ってくれた彼女のために、俺は必死に働いた。彼女のプロジェクトである無料の音楽教室の案に意見を出し、それが採用されて教室は大成功を収めた。売上も伸び、順調な日々が続いていた。
音楽教室を訪れた日、教室の隅でミニギターを抱えて困っている少年がいた。俊宗君という名前のその子に、俺はギターの弾き方を教えようとしたが、またしても説明が下手で、彼は首をかしげるばかりだった。
そんな俺を見て、海野さんが言った。
「あなた、どうして自分が説明下手なのか分かってる? 」
「努力の方向が違うのよ。あなたが『これぐらいは言わなくても分かるだろう』と思っていることも、相手は分かっていないかもしれない。ちゃんと相手が理解しているかを確認しなさい。それで初めて、相手のことを考えた説明になるの」
言われてみれば、俺は一度も相手の顔を見て確認したことがなかった。その日から、俺は意識を変えた。相手の目を見て、分からなそうな顔をしていたら言い方を変える。そうすると、俊宗君はあっという間にギターを弾けるようになった。
「ありがとう、お兄ちゃん。説明すっごく分かりやすかった! 」
その言葉は俺の胸に深く染みた。救われた気持ちだった。
それから数週間後、海野さんが社長室から険しい顔で戻ってきた。
「新規の取引先を任されたの。ユリスタジオって知ってる?

都内随一のライブハウスよ」
「もちろんです。すごいじゃないですか! 」
俺は張り切って資料室に向かった。必要な資料を探していると、突然ドアが閉まる音がした。驚いて入口に走ると、鍵がかかっている。誰かが外から閉めたのだ。
スマホを取り出すと、地下だからか圏外。誰かを呼ぼうにも声は届かない。だが、幸運にも資料室には空調の操作パネルがあった。資料保護のため、状況に応じて室内から調整できるようになっているのだ。俺は全空調を切った。こうすれば、会社の警備員が異常に気づくはずだ。
案の定、30分もしないうちに警備員が来てくれた。助かった。
事務部に鍵を返しに行き、「俺の後に鍵を借りたのは誰か」と聞くと、答えは副社長の望月さんだった。彼なら、俺を閉じ込めることくらい平気でやりかねない。営業部に直行して問い詰めると、彼は「閉め忘れだと思っただけだ」としらを切った。
その日の海野さんは、一日中険しい顔をしていた。
そして翌朝。出社すると、海野さんが冷たい視線で俺を見た。
「種お君、あなたは首よ」
「え……どうしてですか? 」
「私の胸を触ったでしょう。あの時のこと、ずっと我慢していたけど、もう我慢できなかった。昨日、社長に報告したわ」
昨日の音楽教室で、子供たちとぶつかった彼女を支えた時に手が当たってしまった。あれはわざとじゃなかった。でも、海野さんがそこまで傷ついていたとは思わなかった。ショックだった。
「分かりました。辞めます」
俺は最後に礼を言った。
「海野さんのおかげで、俺は大きく成長できました。あなたが俺の話を真剣に聞いてくれたから、俺は変われました。本当にありがとうございました」
深く頭を下げ、二度と振り返らずに会社を去った。
何もかもを忘れたくて、その夜は家で焼酎をあおった。どれだけ飲んでも、喪失感は消えなかった。
仕事を探さなければと思いながらも、体が動かない日々が続いた。
そんなある日、海野さんから電話がかかってきた。
「助けて……あなたが必要なの」
彼女が俺のマンションの下にいると聞いて、俺は慌てて飛び出した。
彼女は階段の淵に座っていて、泣きはらした顔で俺を見上げた。
「ごめんなさい。嘘をついたの。あなたを首にしたのは、あなたを守るためだったの」
海野さんが話してくれたのは、想像をはるかに超える内容だった。
「父が社長を引きずり落とそうとしている勢力があるって知らされたの。娘の私にも何かしてくるだろうって。そして、あなたが望月さんに資料室に閉じ込められたって知った時、私はショックだった。私のせいで、あなたが傷つくなんて……。だから、あなたにだけは危険が及ばないように、首にしたの」
胸を触った件は、ちょうどいい口実だったらしい。
「でも、結局状況は悪くなる一方で、望月さんが新しい会社を作って、みんなそっちに行ってしまったの。今、うちの会社には私と父しかいない。悪い噂を流されて、新しい人も採用できない。もう乗っ取られたも同然よ」
彼女は泣きながら謝った。「巻き込まないようにしたのに、結局頼ってしまってごめんなさい」と。
俺は彼女に言った。
「どうせ俺を巻き込むなら、最後まで巻き込んでください」
そして、自分の過去を話した。俺がどれだけ周りから理解されず、孤独だったか。それでも、海野さんだけが最後まで俺の話を聞いてくれたことを。
「あなたがいたから、俺は変われました。だから、その恩を返させてください。俺を、もう一度あなたの直属の部下にしてください」
「だけど、私といると不幸になるわよ」
「なりません。俺にとっての不幸は、あなたと離れることです。あなたを守らせてください。好きです。海野さん」
彼女は顔を赤く染め、少しの間の後、小さく「私も……」と呟いた。そして、俺に抱きついてきた。
その体を抱きしめた時、喪失感は消えて、代わりに幸福が満ちていた。俺たちはそのまま静かにキスを交わした。
翌日、俺は海線山線に復帰した。職場には、社長と海野さんしかいなかった。社長は俺の手を握り、「本当に君を雇ってよかった。面接の時、他の役員は君を落とそうとしていたんだ。だが、君の熱意を感じて、私は採用を決めた」と話してくれた。
俺と海野さんは、ユリスタジオへの再アプローチを決めた。オーナーに商品の良さを説明し終えると、彼は拍手をくれたが、「実は、別の会社からも取引の依頼が来ていてね」と言った。
そして、そこに現れたのは、元副社長の望月さんだった。彼は設立したばかりの新会社の売上グラフをオーナーに見せて、得意げに説明していた。
俺はそのグラフを見て、すぐに違和感に気づいた。
「望月さん、このグラフ、おかしいですよ。縦軸の金額、500万以降、メモリの幅がだんだん狭くなっています。これでは売上が毎月大きく上がっているように見えますね」
「何だと……それは部下のミスだ! 」
資料を回収しようとする望月さんを制して、俺は他のページも確認する。
「この2軸グラフは、棒グラフと線グラフで横軸の単位が全然違います。あと、ここに載っている商品は、先日リコール対象になっているものですよ」
「うるさい!
そんな資料をちょっと見ただけで何が分かる! 返せ! 」
「いや、それは私用に作ったものでしょう。ならば、私も見させていただきますよ」
オーナーが資料を手に取り、望月さんもそれ以上強く言えなくなった。
「羽おさんの言う通りだ。さっと見ただけでこれだけの間違いを見つけられるなんて、君は頭がいいんだね」
「そんなことはありません! この男は地方のFラン大学出身ですから!
」
「お言葉ですが、望月さん。彼は高校の時にご両親が務めていた会社が倒産してしまったため、やむを得ず家から近い大学を選んだんです。本当ならトップランクの大学を受験する予定でした。実際、4年間全ての授業で秀を取っています。それに、在学中に営業士やMBAなど複数の資格を取得し、TOEICでは950点を取っています。これでも彼を無能だとおっしゃるのですか? 」
海野さんの言葉に、望月さんは言葉を失った。
「だ、だけど、海線山線は廃業寸前だ! それにブラック企業だ! 社員を守るために、私は新しい会社を立ち上げたんだ!
」
「そんな噂は私も聞いているよ」
オーナーは難しい顔をした。海野さんが必死に弁解するが、オーナーの疑いは晴れない。俺たちはどうすることもできず、顔を見合わせた。
その時、突然オフィスに子供が一人入ってきた。彼は勢いよく走ってきて、そのまま望月さんにぶつかってしまった。
「なんだ、お前は! 」
望月さんが鋭い声を上げると、子供はびっくりして肩を震わせた。
「ちょっと待ってください、望月さん。そんな言い方したら、怖がってちゃんと話せませんよ」
俺は地面に膝をつき、その子を守るように自分の後ろに隠した。
すると、その子が俺の顔を見て、目を輝かせた。
「あ! ギターを教えてくれたお兄ちゃんだ! 」
「え……俊宗君?
」
驚いていると、オーナーが立ち上がった。「お父さん! このお兄ちゃんが、音楽教室でギターを教えてくれたお兄ちゃんなんだよ! 」
「え……お父さん? 」
「はい。この子は私の息子です」
オーナーは言った。「実はこの子は、以前小学校でいじめられていて、別の学校に移ったんですが、トラウマになって不登校になったんです。そんな時、無料の音楽教室ができたと聞いて、通わせてみました。そうしたら、親切な人がギターを丁寧に教えてくれたおかげで、音楽をきっかけに友達もできて、また学校に通えるようになったんです。本当に感謝していました」
オーナーは涙を浮かべて、俺と海野さんに頭を下げた。そして、望月さんに向き直り、強い眼差しで言った。
「決めました。私はあなたたちと取引をします。私と息子が受けた恩を返さないことの方が、絶対に後悔しますからね」
この言葉に、ついさっきまで勝ち誇っていた望月さんの顔色が一瞬で真っ青になった。彼は何も言い返せず、どうにかみっともなくその場を後にした。
その後、ユリスタジオとの取引を機に、他の会社からも続々と取引の申し出が来るようになった。海線山線は見事に業績を回復し、立て直しに成功した。反対に、望月さんの会社には悪い噂が広まり、倒産してしまった。彼に脅されてついていった社員たちは、社長の計らいでうちの会社で引き取ることにした。
売上も右肩上がりで、会社は絶好調。ある日、社長に呼ばれて部屋に入ると、彼はこう言った。
「羽お君、我が社の次期社長になってくれないか?
」
「え? 」
驚いて海野さんを見ると、彼女は微笑んでいた。
「私もそう考えていたのだけれど、愛に断られたんだ。君がふさわしいとね」
「俺なんて……」
「そんなことないよ。あなたにはリーダーの才能がある。どんな時だって、私がついてるから」
そう言って、海野さんはまっすぐに俺を見つめた。その目を見て、俺は腹を括った。
「分かりました。次期社長、引き受けます」
その帰り道、俺は海野さんを屋上に誘った。爽やかな風が吹く中、ポケットからリングケースを取り出した。
「愛さん。俺と結婚してほしい」
彼女は目を丸くして、すぐに嬉しそうに笑った。
「それ、持ち歩いてたの? 」
「いつでもプロポーズできるようにね」
「もう……準備万端だったんだね。嬉しい。私も結婚したい」
彼女の薬指に指輪を通すと、その笑顔が青い空の下で輝いていた。
相手のことを考えること。それは、仕事だけじゃなく、人と関わる上で何よりも大切なことだ。それを教えてくれたのは、俺の話を最後まで真剣に聞いてくれた、大切な人だった。


