「おっかさん、あのお金はもう蜂の巣になりました」
その一言で、この家に残された最後の蓄えは跡形もなく消えた。
夫は山へ入ったきり、二か月経っても戻らない。家じゅうが死を覚悟したその時、嫁はなぜ正気を疑われてまで、庭を埋め尽くすほどの蜂の巣に変えたのか。
借金取りは頭を並べ、金が返せなければ家を奪うと迫る。絶望の淵で、この嫁は一体何を賭けたのか。
答えはこの物語の中にある。ことの発端は、その一言だった。
「てめえはとことんこの家を蜂の巣にして、皆殺しにする気か」
お梅ばあさんの声が、山あいの村の朝の空気をビリビリと震わせた。片手で腫れ上がったまぶたを押さえ、もう片方の手で首の後ろを掴んだままだった。
その老婆の目の前には、なんと庭に木の箱がずらりと並んでいた。庭が狭く感じられるほど、数十個もの巣箱が並んでいた。そこから溢れ出た蜂たちが朝日を受けて空を黒く染め上げ、その唸るような羽音はまるで雷が地の底から轟いているかのようだった。
お梅ばあさんは嫁を睨みつけた。
「お清よ、お前、気でも狂ったのか」
二十歳を過ぎたばかりのこの嫁が、なんと袖をまくり上げて蜂の巣の間を平然と歩き回っているではないか。顔には蜂に刺された跡が一つなく、頬にはむしろ元気な笑みが浮かんでいた。
ばあさんは呆れ果てて言葉も出なかった。
「これがわしの言うことがおかしいというのかい。この年寄りが目が腫れ上がるほど刺されたというのに、お前はどうしてそんなに落ち着いていられるんだい」
お清はそこでようやく振り向いた。とっさに前掛けで手を拭いながらばあさんのそばに歩み寄った。口を開いた言葉がまた呆れたものだった。
「おっかさん、蜂というのは驚かせたものしか刺さぬものです。静かに歩けば、この子らの方から避けてくれます」
「この子ら」とは。ばあさんはあまりの呆れように、首を押さえていた手をぶるぶると震わせた。蜂の巣を「子」と呼ぶ嫁がいるとは。この嫁は気が触れたのだと、そう思うより他になかった。
その時だった。木戸の外から誰かの声が聞こえてきた。
「あらまあ、この家に何事です。あの蜂の群れをご覧なさいな」
隣に住むお梅だった。水瓶を頭に乗せて井戸へ向かう途中、この光景を目にしてその場に立ち尽くしたのだった。お梅の口はぽかんと開き、瓶が傾いていることにも気づかずに立ち尽くした。
それから一人、また一人と村の女たちが集まり始めた。
「ああ、あの家の嫁が庭を埋め尽くすほど巣箱を並べたんだってさ。一体何を考えているんだろうね」
「あの家の暮らし向きは知れたものだろうに」
「全くだよ。あの嫁はどうも気が触れたんじゃないかね」
囁き声が垣根を越えて庭にまで流れ込んできた。お梅ばあさんはその声を全て聞いていた。顔がかっと熱くなった。腫れ上がったまぶたよりも、その恥ずかしさの方がよほど辛かった。嫁一人を迎え損なって、村中の笑い物になったのだから。
これをどうしろというのか。
「お清、最後に一つだけ聞く」
ようの声が低く沈んだ。その低い声の方が却って恐ろしいものである。
「あの巣箱、今日の日暮れまでに全部片付けておくれ。片付けられないなら、お前と私、どちらかがこの家を出ることになるよ」
庭にしんと静けさが流れた。ぶんぶんという蜂の羽音だけがその沈黙を埋めていた。
お清は俯いた。しばらくそのまま立っていた。ばあさんは嫁がようやく己の過ちに気づき、謝りを入れるのだと思っていた。
ところが、この嫁が顔を上げたその表情には、笑みが浮かんでいるではないか。
「おっかさん、どうか一夏だけ辛抱をしてください。この蜂がこの家を救います」
「なんですって。救うだと。この家を食いつぶしかねないものが救うだと」
「そのうちお分かりになります」
お清の口から出たその一言が、ばあさんの胸をますます苦しくさせた。一体何が分かるというのか。どういう巣箱で何をしようというのか。まるで底の知れぬ嫁であった。
お梅ばあさんは結局部屋に引っ込んで、どしりと障子を閉めてしまった。腫れのために濡れた手拭いを当てて横になったが、腹が立って眠れるはずもなかった。天井を睨みながら、この嫁をどう追い出そうかとそればかり考えていた。
しかし、そもそもこのお清という嫁は、本当に何も考えずに巣箱を並べたのであろうか。
とんでもないことである。この嫁はその夜、家じゅうの者が寝静まった後、一人で庭に出て巣箱を一つ一つ撫でて回った。月明かりの下、羽音も静まった静かな夜であった。お清はその木箱に手を置き、静かに呟いた。
「もう少しだけ辛抱をしておれ。うちの人が帰ってきたら、この家はまた笑顔でいっぱいになる」
お清がこの山里の家に嫁いできたのは三年前のことである。貧しい家に生まれ、十七の年にこの家の長男の嫁として迎え入れられた。嫁いで来てみれば暮らし向きはひどいものであった。茅葺きの粗末な家に、田畑といえば手の平ほどの傾斜地がいくつかあるばかりで、姑は嫁入り前にすでに舅を亡くしていた。一人残った夫の満作は気性が激しく、幼い妹を一人抱えており、その妹を目に入れても痛くないほど可愛がる一方で、嫁には常に厳しかった。
それでもお清は一言の文句も言わず、夜明けから夜ふけまで水を汲み、畑を耕し、薪を割った。大らかな笑顔で姑と妹の全てを受け流しながらである。
そんなお清にただ一つの楽しみがあった。夫の満作である。満作は体こそ山のように大きく力も強かったが、心根はこの上なく穏やかであった。人の良さそうな笑みを浮かべるその顔を見るたび、お清は一日の疲れがすっかり洗い流されるように感じたものだった。
この夫婦には誰も知らぬ夢があった。満作が口癖のように言うことがあった。
「なあ、お前、うちの裏山には日本蜜蜂が随分いるらしいぞ。あの山の蜂をきちんと飼えば、極上の蜜が取れる。江戸へ持って出れば、わずかな量でも相当な値がつくという話じゃないか。俺たちも蜂さえ飼えば、この貧しさから抜け出せるんだ」
満作はその話をするたびに目を輝かせた。お清もその夢に染まっていった。二人は夜となく朝となく額を寄せ合い、いつか蜂を飼って稼いだ金で田も買おう。牛も買おう。妹の嫁入り支度もきちんとしてやろうと、睦まじく語り合ったものであった。
しかしその夢を叶えるには元手がいる。巣箱を組み、良い蜂を入れるには相応の金がいる。そこで満作は決心した。裏山の奥深くに、傷や熱に効く貴重な薬草が生えるという噂を聞き、その薬草を取って元手にするというのである。
「お前、俺はその薬草を取ってくる。良い薬草が一つあれば、巣箱ぐらいなんなく揃えられる。それで俺たちの夢が叶うんだ」
そうして満作は荷縄を背負い、裏山へと入っていった。お清は木戸の前で夫の背中を見送った。その時はまだ知らなかった。それが夫の見納めの後ろ姿になるとは。
一か月経っても満作は帰らなかった。二か月経っても音沙汰はなかった。山へ入ったものが消息を絶ったとなれば、村の者たちは誰もが首を振った。
「あの深い山には熊も出れば猪も出るという」
「二か月も出てこないとなりゃ、もう駄目だろう」
「あの穏やかな人が惜しいことになったな」
村ではすでに満作は死んだという話が広まり始めていた。お梅ばあさんは息子を失ったという思いに、床に伏した。幼い妹は兄を探して泣きじゃくった。家の中はまるで喪中のようであった。
しかし、お清だけは違っていた。この嫁は夫が死んだとは信じなかった。いや、信じることができなかった。なぜなら、夫が旅立つ二人の間である約束が交わされていたからである。
その約束がどのようなものであったか。そしてお清がなぜ、かねての全てを数十の巣箱を買い入れることになったのか。これからその仔細を語ろう。
満作が山へ出る前の晩であった。夫婦は行灯を挟んで向かい合った。満作はお清の手をしっかりと握り、こう言った。
「なあ、お前、もし万一が遅くなっても心配するな。あの薬草は貴重なもので、生えている場所を突き止めて取り出すのに時がかかることもある。だが、俺は必ず帰ってくる。だからお前は、俺が帰るまでに蜂の巣を置く場所でも見つくろっておいてくれ。隣の里に蜂を扱う年寄りがいると聞いた。もし困ったことがあれば、頼ってみるといい」
そう言いながら満作は懐から何かを取り出し、お清に手渡した。古びた麻の巾着であった。その中には、二人が何年もかけてこつこつと貯めた蓄えが入っていた。
「これは俺たちの夢の元手だ。あの薬草が手に入ったら、この金にそれを合わせてきちんと蜂を買おう。それまでお前がしっかり守っていてくれ」
お清はその巾着を受け取り、胸深くに抱いた。それが夫との最後の約束であった。
だからお清が、どうして夫が死んだと信じられよう。必ず帰ると約束した人であるのに。
二か月が過ぎ、姑は床に伏し、幼い妹は腹を空かせ、借金取りが障子を震らすほどに出入りするようになった。家の暮らし向きは日に日に崖っぷちへと追い詰められていった。
お清は夜も眠れぬまま思案を重ねた。このまま手を拱いていては家じゅうが滅びてしまう。夫は帰ると言ったが、いつになるかは分からない。それならば、夫が帰ってきたらすぐに夢を叶えられるよう、自分が先に支度を整えておくべきではないか。
お清は決心した。夫の残した蓄えを元手にして、夫の夢であった養蜂を始めようと。旅立つ夜に夫が口にしていた、隣の里の養蜂家の言葉を思い出したのである。夫が帰ってくる頃には蜂の巣がすでに落ち着いているはずで、そうすればあのみじめな貧しさから一気に抜け出せるであろう。
しかし、その決意を家のものに打ち明けるわけにはいかなかった。姑が知れば立ちどころに反対されるに決まっている。夫もいない家で、嫁が一人で家の全てを蜂の巣を買い入れるなど、どこの姑が黙ってみていようか。
それ故にお清は誰にも告げず、一人でこのことを進めたのであった。たまたま隣の里の養蜂家が土地を離れることになり、蜂の群れが住みついたままの巣箱をまとめて手放そうとしていた。お清は夫の蓄えを取り出し、そこに自分が機織りで貯めた金までそっくり足して、その巣箱を数十箱まとめて譲り受けたのである。
そうして今朝、その巣箱が庭に運び込まれたのであった。
姑はまぶたが腫れ上がるほど蜂に刺され、村じゅうがひっくり返るほどの騒ぎとなった。
ままに、お清は月明かりの下で巣箱を撫でながら静かに微笑んだ。
「うちの人、見ていてくださいますか。私が先にあなたの夢を始めました。ですから、早くお帰りください」
ところが、その瞬間であった。闇の中、木戸の辺りで衣擦れの音がした。お清はぎくりとして振り向いた。誰かが垣根の向こうからこの家を覗いている。影が揺らめいていた。
その影は、お清が巣箱を撫でながら口にした言葉、そしてこの家に夫がいないという事実を、実に念入りに見届けていたのである。
一体この影は何者であったのか。そして何を企んで、こんな夜ふけにこの家を覗いていたのであろうか。
垣根の向こうに潜んでいた影は、他でもないこの里の豪農の徳兵衛であった。この山里の田畑と借金を握りつぶす男である。脂ぎった顔に、目つきの鋭いこの男は、この家に食い込んだ借金を取り立てようと、日ごろからこの家に目を光らせていたのだった。
徳兵衛は垣根に張り付いて、お清の言葉をすっかり聞き取った。それから口の端に薄気味悪い笑みを浮かべ、こう漏らした。
「ふっ、この家の男はどうやら本当に消えたようだな。嫁が一人で蜂の巣にしがみついているとは。こいつは話がとんとん運びそうだ」
徳兵衛は足音を殺し、闇の中へと消えていった。お清はその影が消えたのを見て、しばし胸が騒いだ。だが、野盗の類だろうと大して気に留めなかった。
この嫁はその時にはまだ知らなかった。あの影がこの先、この家にどれほどの騒動を巻き起こすことになるかを。
翌朝のことである。庭でまた一騒動が持ち上がった。今度は蜂のせいではなかった。お梅ばあさんが部屋中をひっくり返し、嫁を庭に呼びつけたのである。
「お清、こっちへおいで。あの金、あの蓄えのことだよ。あれをどこにやったんだい」
お清の胸がどきりと沈んだ。とうとう来るものが来たと思った。ばあさんの目が鋭く細くなった。
「満作が山へ入る前にお前に巾着を一つ預けたはずだろう。あの中にこの家最後の元手が入っていたんだよ。蓄えは底をつき、借金取りはしい立をまたごうとしている。あの金でも出して急場をしのがなければならないんだ。さあ、出しておくれ」
お清は唇を噛んだが、言葉が出てこなかった。あの蓄えはすでに蜂の巣となって庭に座をはめいているのだから、ばあさんに何と言えば良いのか。
「おっかさん……」
「それは、それはなんだ。早く言いなさい」
お清はとうとうがっくりと項垂れた。それからか細い声で言った。
「あのお金でしたら、もう蜂の巣箱に変わっております」
部屋の中の空気が一瞬にして凍りついた。お梅ばあさんは自分の耳を疑った。腫れた目をかっきり見開くと、立ちまち顔が真っ赤に染まっていった。
「なんですって。あの金で、あの巣箱を買ったというのかい。この家最後の元手を、私に何の相談もなく」
ばあさんはその場にどすんと座り込んだ。幼い妹が驚いてより母親にすがりついた。ばあさんは胸を搔きむしって泣き崩れた。
「ああ、これをどうすればいいんだ。息子は山で死んだか生きているかも分からず、嫁は気が触れて元手を蜂に全て使い込んで。この年寄りはこれからどうすればいいんだ。ああ、ああ」
その鳴き声のあまりの悲しさに、庭の蜂たちさえ一瞬静まりかえった。
お清は姑の前に膝をついた。この嫁として胸が張り裂けそうであった。しかし、すでにこぼれた水である。蜂を元の金に戻すことなどできようはずもない。
「おっかさん、どうか私の話を聞いてください。この巣箱はうちの人の夢でした。うちの人はいつも言っていたではありませんか。裏山の蜜蜂を飼えば、この家は立ち直ると。私はその夢を先に始めたのです。秋になって蜜が取れれば……」
「黙りなさい」
ばあさんが雷のように叫んだ。
「秋、秋になれば蜜が取れるだと。それまで私たちは何を食べていくんだい。今日の夕飯もないというのに、秋の話が何だというのか。借金取りが明日にでもこの家をそっくり持っていこうというのに」
ばあさんの言葉には一つも間違いがなかった。事情はまさにその通りであった。お清には返す言葉がなかった。ただ項垂れているばかりであった。
ちょうどその時、木戸ががらりと開いた。姿を表したのは徳兵衛であった。手には証文の束を持ち、後ろにはいかつい手下を二人従えていた。
「お梅さん、もういい加減にしましょうや。舅の時代からの借金、二度の不作で膨れ上がったこの家の借金、仕込みで五十両になります。息子さんは山から降りてこず、もういないも同然。近いうちに返す目度が立たなければ、この家も田もそっくりいただきますぞ」
五十両。その言葉にお梅ばあさんの顔の血の気が引いた。徳兵衛が言いがかりをつけ、駆け寄ってきた幼い妹を乱暴に突き飛ばすと、お清の中で何かが切れた。
お清は蜂の巣に静かに手を置き、涼しい顔で言った。
「徳兵衛さん、この子らは驚かせたものを刺す将ですのでね。あなたの後ろに立っておられる方々、随分蜂にお近いようですが、大丈夫でしょうか」
その言葉が終わるが早いか、巣箱から蜂が数匹飛び出した。徳兵衛は顔を青くして後ずさりし、次の取り立てでは容赦しないと言い残し、逃げるように去っていった。
お梅ばあさんはその一部始終を呆然と眺めていたが、何も言えなかった。次の取り立てまでに金を用意せねばならぬ。事情は何一つ変わっていなかったのだから。
その晩、家族は薄い粥を一杯ずつすすってうつむいた。蓄えに残っているものといえば、米の一握りが精一杯であった。幼い妹は椀をきれいに空にしてもまだ腹が空くのか、お清の顔色を伺った。お清は自分の椀の粥を半分ほど嫁いだ、妹の椀に注いでやった。
「私はお腹が空かないから、お前がもっと食べなさい」
妹は粥をすするのをやめて、お清を見上げた。
「姉さん、兄さんは本当に死んでないよね」
お清は妹の頭を撫でた。
「ああ、死んでなんかいるものか。お前の兄さんは必ず帰ってくる。姉さんが約束する」
そうは言ったものの、お清の胸のうちにも不安がじわりじわりと広がっていた。二か月を過ぎても一言の便りもない夫。本当に無事なのだろうか。もしや村の者たちの言うように、山で災難に会っているのではないか。そう思うたび、お清は首を大きく振った。
そしてその夜であった。家じゅうが寝静まった深夜、お清は再び庭に出た。巣箱の様子を見るためであった。
ところが庭の片隅、垣根の影にぼんやりとした影がうずくまっているではないか。お清はぎくりとした。また徳兵衛かと思った。
しかし、よく見ればその影は徳兵衛よりもずっと小さく、みすぼらしかった。埃だらけの麻の衣をまとった老人であった。白い髭が胸元まで垂れ、肩には古びた荷を背負った旅の老人であった。
老人は垣根の影に座り、庭の巣箱をじっと見つめていた。それからお清が近づく気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。闇の中、その老人の両の目が、なぜか不思議な光を放っていた。老人はお清を見ると、口元にどこか含みのある笑みを浮かべ、こう言った。
「ほう、お嬢さん。蜂を飼うなら、きちんと飼わねばならん。このままにしておけば、この蜂どもを三日と立たずに全部死なせてしまうぞ」
お清はその場で凍りついた。この老人が一体何者で、真夜中に人の家の庭に座り込み、蜂の巣について物言いをつけるというのか。それに蜂が三日で死ぬとは、一体どういうことなのか。
「このままにしておけば、この蜂どもを三日と立たずに全部死なせてしまうぞ」
老人のその言葉に、お清は我に返った。家財を全てはいて買い入れた蜂の巣が三日で死ぬというなら、これほどの一大事があるだろうか。お清は慌てて老人の前に歩み寄った。
「おじい様、それはどういうことでしょうか。蜂が死ぬなど。それに、あなたは一体どなたでしょう」
老人はお清をしばらく見つめた後、静かに言った。
「お前の亭主からもしもの時にはこの家を頼むと言われておってな」
お清の顔色が変わった。
「あなたは、うちの人に会ったのですか。あの人は生きているのですか」
老人はすぐには答えず、蜂の巣へ目を向けた。
「詳しい話は蜂を助けてからじゃ。今は一刻を争う」
老人はゆっくりと立ち上がった。鳩の伸びたその様子は、ただの老人ではないようであった。老人は蜂の巣の一つに歩み寄り、手を置くと、軽く叩いた。
「これを見なさい。蜂の巣をみんな日当たりの良すぎる場所に置いておるだろう。水もない。蜂は無理に従わせようとすれば、逃げるか死ぬかのどちらかじゃ。まずはこの子らの性分を知らねばならぬ」
お清はそこで初めて、自分が蜂について何も知らないことを悟った。ただ、夫の夢だという一念で蜂の巣を買い集めただけであった。
「おじい様、どうか教えてください」
お清は貧しい台所からできる限りのもてなしを約束し、老人を離れに迎え入れた。翌朝それを知ったお梅ばあさんは口をへの字に曲げて文句を呟いたが、藁にもすがる思いではどうすることもできなかった。
その日から老人は、お清に三つのことだけを教えた。蜂を無理に従わせてはならぬということ。この頃らの性分をよく知らねばならぬということ。そして蜜が欲しければ、まず世話を尽くすことじゃということ。
「蜂は心で飼うものじゃ。脅せば刺す、撫でれば抱く。人も蜂も変わらぬものよ」
お清はその言葉を胸に刻み、老人のそばに来たりついて、ひたすら蜂の世話を続けた。眠る間も惜しんで学ぶこの嫁に、老人も次第に目を細めるようになった。蜂たちは日に日に落ち着きを取り戻し、巣の中には少しずつ蜜が満ちてきた。お清の顔にも、久方ぶりに希望の光が差した。
しかし、そんな折りであった。思いもよらぬ出来事が起きたのは。それを引き起こしたのは、他でもない幼い妹であった。
妹はここ数日、蜂の巣がどうにも気になって仕方がなかった。姉が蜂にばかりつきっきりでいるので、あの中に何が入っているからそんなに大事にするのだろうと思っていたのである。大人たちが巣箱に近づかせてくれないので、その好奇心はますます膨らんでいった。
その日は、お清が老人と共に山へ薬草を取りに出た日であった。蜂に刺された後に塗る薬を求めに行ったのである。庭には姑の老梅と幼い妹だけが残された。
妹は母が眠り込んだ隙に、こっそりと庭に出た。
「一つだけ開けてみよう。中に何が入っているんだろう。一度だけ」
妹は蜂の巣の一つにそろそろと近づいた。それから小さな手で巣の蓋をそっと持ち上げた。
その瞬間であった。妹が蓋を持ち上げた瞬間、黒い蜂の群れが一斉に吹き出した。驚いた妹が泣きながら逃げ回り、その声を聞いて飛び出したお梅まで蜂に追われた。二人は縁の下へ逃げ込み、身を寄せ合って震えていた。
そこへ山から戻ったお清と老人が駆け込んできた。庭に蜂が黒くたかり飛びかい、縁の下から鳴き声が聞こえてくる。お清は慌てて老人を振り返った。
「おじい様、どうすれば良いでしょう」
老人はまず家族を屋内へ避難させ、それから風向きに回ってよもぎの煙をそっと送り込んだ。しばらくすると荒れ狂っていた蜂たちは次第に落ち着きを取り戻し、一匹また一匹と自分の巣箱へと戻っていった。老人は開いていた巣箱の蓋を元通りに閉じ、お清はひっくり返った巣を丁寧に元の場所へ戻した。やがて庭は静けさを取り戻した。
お清は縁の下に手を差し伸べた。
「おっかさん、妹や、もう出てきても大丈夫です。すっかり終わりました」
縁の下からばあさんと妹がよろよろと這い出てきた。二人の様子はひどいものであった。ばあさんは頬も額も蜂に刺されて赤く腫れ上がり、妹は涙と鼻水にまみれた顔で、手の甲がぱんぱんに腫れていた。
お梅ばあさんは腫れた顔でお清を睨みつけた。また一言雷が落ちる寸前であった。
「この蜂め……こうなると思っていたんだ。危うく妹が……」
ところがその時、幼い妹がばあさんの着物の裾を引っ張りながら泣きじゃくった。
「お母さん、姉さんを叱らないで。巣箱を開けたのは私なの。私が気になって勝手に開けたの。姉さんは悪くないの」
その言葉に、ばあさんはぐっと言葉を詰まらせた。巣箱を開けたのは嫁ではなく自分の娘であったのだから、嫁を責めることもできなくなったのである。ばあさんは腫れた顔でうんうんと唸り声をあげるばかりであった。
お清は急いで妹を抱き寄せた。
「姉や、怪我はないかい。手を見せてごらん。ああ、随分腫れているね。すぐに薬を塗ってあげよう」
お清は裏山で取ってきた薬草をすりつぶし、妹の手とばあさんの顔に塗ってやった。その薬を塗ってしばらくすると、焼けるようだった痛みが柔らぎ、腫れも少しずつ引いていった。老人が教えてくれたその薬草は、蜂に刺された痛みを和らげるものだったのである。
ばあさんは、嫁が真心を込めて薬を塗ってくれる手つきをじっと見つめていた。気が触れているとばかり思っていた嫁が、蜂の扱いも心得ていれば薬草にも通じている。ばあさんの心のうちにも、何かが少しずつ揺らぎ始めていた。しかし、まだそこまでではなかった。ばあさんの口はまだ尖がったままであったから。
その晩、老人はお清をそっと呼んだ。老人の顔つきはいつもと違って、ひどく真剣であった。
「お嬢さん、蜂たちもだいぶ落ち着いてきた。そろそろ初めての蜜を取る頃じゃ。ただし、初めての蜜はよほど気をつけねばならぬ。下手をすれば今日の昼の騒ぎなど何でもないほどの大事になりかねんからの」
お清は頷いた。とうとう蜜を取るのだと思うと、胸が高なった。この蜜を上手に取って売り出せば、借金も返せて家族も養えるはずだから。
しかしお清は知らなかった。老人が言うその「大事」が、翌日本当に起きることになろうとは。それも村じゅうをひっくり返すほどの騒動になろうとは。
翌朝、お清は初めての蜜穫りに取りかかった。老人に教えられた通り、顔には麻布で作った覆いを被り、手にはよもぎの木の煙の芯を持った。胸がどきどきと高なった。家財を全てはいて買い入れた蜂の巣から、とうとう蜜を取るのだから。この嫁が胸騒がないはずがなかった。
「おじい様、これからどうすれば良いのでしょう」
「ゆっくりと、実にゆっくりとやるのじゃ。まずは煙を巣の入り口にそっと送って、蜂どもを落ち着かせるのじゃ。蜂が大人しくなったら、その時蓋を開けて、蜜の詰まった巣をそっと取り出すのじゃ。決して急いてはならぬぞ」
お清は老人の言う通り、よもぎの煙を巣の入り口に送った。白い煙が染み渡ると、羽を立てていた蜂たちが次第に静まっていった。お清はそろそろと最初の巣箱の蓋を開けた。
なんと、その中にはこんがりとした蜜がぎっしりと詰まった巣が幾重にも積み重なっていた。日の光を受けて金色に輝くその巣を見て、お清の目に涙が滲んだ。夫があれほど夢見た、まさにあの日本蜜蜂の蜜であったのだから。
「おじい様、これをご覧ください。蜜が、蜜がこんなにたくさん詰まっています」
老人も満足げに笑った。
「ふっ。蜂たちがお嬢さんの真心を分かっておるのじゃな。さあ、この蜜の巣をそっと取り出しなさい」
「これが全部蜜だっていうのかい」
「はい、おっかさん。これは始まりに過ぎません。この蜜を売り出せば、借金を返す足がかりにもなりますし、米も買えます。妹に新しい着物を仕立ててやれる日も近いです」
妹が指先で蜜をちょんと掬い、口に含んだ。それから目を丸くした。
「わあ、姉さん、これ本当にこの世で一番甘い」
家族は久方ぶりに声をあげて笑った。何か月ぶりかに、この家に笑い声が咲いたのである。お清はその光景を見ながら胸がいっぱいになった。夫さえそばにいてくれたら、どれほど良いだろう。そう思うと、鼻の奥がつんとした。
「取りすぎてはならぬぞ。蜂の食い扶持は残しておかねばならぬ。人も蜂も、蜜をそっくり空にしてはダメなものじゃ」
お清は老人の言葉を胸に刻みながら、蜜の詰まった巣を一つまた一つと丁寧に取り出していった。そうして巣箱十個ばかりを回ると、大きな甕がこんがりとした蜜でいっぱいになった。その香りが庭に広がった。部屋にいたお梅ばあさんと妹も、その香りに引き寄せられて庭に出てきた。ばあさんは甕の中の蜜を見て、腫れの引いた目を大きく見開いた。
ところが、その時であった。ことが起きたのは。
老人があれほど気をつけようと言った、あの「大事」が。
お清は蜜に夢中になって、蜂の巣の蓋を開けたままにしていた。蜜の香りを嗅いだ蜂たちが、すっかり興奮していたのである。
よりによってその日、垣根一つ隔てた隣では、お梅の息子の祝言が開かれていた。
甘い蜜の香りに誘われた蜂の群れが、真っ黒な塊となって垣根を越え、祝いの膳へと飛んでいったのである。
「蜂だ。蜂の群れが来たぞ」
祝いの席は立ちまち大混乱となり、膳はひっくり返った。お梅は顔を真っ赤にして、お清の家へ駆け込んできた。
「お清さん、うちの息子の祝言を、このようにして壊すつもりだ」
お清は急いで頭を下げ、取れたばかりの蜜の甕を丸ごと差し出した。
「お梅さん、本当に申し訳ございません。この蜜でもう一度祝いの膳をお整えください」
甕の中のこんがりとした蜜を見たお梅は、その値打ちをよく知っていた。それがこの家で初めて取れた蜜の全てだと知ると、お梅はしばらく言葉を失った。怒りは立ちまち驚きに変わった。
「まあ、あんたがそこまで誠意を見せるんなら、今日のことは水に流してやるよ」
その夜、隣ではお清の蜜で祝いの膳をもう一度整え、貴重な蜜を振る舞った。逃げ出した客たちも、こんな貴重なものを振る舞うとはと舌を巻いた。蜂に刺された祝いが、却って村じゅうの評判になる宴へと変わったのである。
お清の蜜の評判は、またたく間に近隣にまで広まっていった。気が触れていると指を刺されていた嫁が、今や貴重な蜜を作る嫁として、少しずつ語られ方を変えていったのである。
しかし、良いことには必ず影がついて回るものである。蜜の評判が広まり始めると、その噂は思いもよらぬ者の耳にまで届いた。
山向こうの大きな家に住む、義兄の万兵衛であった。弟の満作が山で消息を絶ったという話をとっくに聞いて知っていたこの男は、家から貴重な蜜まで出るという噂を聞き、目に欲の光を輝かせ始めた。
「ふん。弟が死んだのなら、あの家の田も畑も、兄であるわしが引き受けるのが筋というものだ。ましてや貴重な蜜まで出ると言うなら、これは見過ごせぬ話だ」
万兵衛は薄気味悪い笑みを漏らしながら、髪に油を塗った。それから、徐々に弟の家へと足を運ぶ支度を始めたのであった。
この鬼のような義兄が一体何を企んで弟の家を訪れるのか。そして、何も知らぬお清にどんな災いが振りかかろうとしているのか。これからその話を始めよう。
数日後のことであった。今日の木戸の前に、見知らぬ男が現れた。腹がでっぷりと出て、首の短い、山里の暮らしには不釣り合いな上等な羽織に、黒い頭巾をかぶった男であった。髪には油をつやつやと塗り込め、日の光に光っていた。
他でもない、山向こうの万兵衛であった。
万兵衛は木戸をくぐる前に、ちらりと横目で庭を見渡した。かの木の影に並んだ数十の巣箱が目に入った。万兵衛の口元が、欲深く歪んだ。しかし、すぐにその表情を消し去り、顔に無理やり悲しげな表情を作った。
「ああ、これはなんたる不幸。わしのたった一人の弟が……」
万兵衛はわざと声を震わせながら木戸をくぐった。それから庭に向かって泣きまねをした。
「満作よ。ああ、わしの弟の満作よ。わしを置いて、どうして先に行ってしまったんだ。ああ、ああ」
その鳴き声に、部屋にいたお梅ばあさんが驚いて飛び出してきた。万兵衛を見ると、ばあさんの顔が曇った。この義兄という男が日頃どういう人物であるか、ばあさんが知らぬはずもなかった。
万兵衛は長男でありながら、幼い頃から自分の懐を肥やす人柄であった。父が亡くなると、来た畑を分けるにも、良い土地はそっくり自分が取り、痩せた傾斜地ばかりを弟の満作に押し付けたのである。それ以来、弟が何をしていても、一度として助けたことはなかった。
そんな男が今になって泣きながら現れたのだから、ばあさんの胸に不吉な予感がよぎった。
「あんたが、ここへ何の用だね」
ばあさんは険しい表情で尋ねた。万兵衛は涙を拭う真似をしながら近寄った。
「おばさん、弟が山で災難にあったという話をとっくに耳にしまして。この不肖の兄がもっと早く駆けつけるべきでしたのに、誠に面目次第もございません。しかし、今からでもこの家の万事を、この兄が引き受けねばならぬと……」
「家の万事を引き受ける」
その言葉に、ばあさんの目が細くなった。万兵衛の根胆が透けて見えたのである。
ちょうどその時、お清が庭に出てきた。蜜を拭いて、手を吹きながら出てきたところであった。お清は見慣れぬ男を見て一瞬だが、すぐに笑顔を作って頭を下げた。
「お兄様でいらっしゃいますね。初めてお目にかかります。満作の妻でございます」
万兵衛はお清を上から下まで舐めるように見た。その視線があまりに粘っこく、お清は思わず身を強ばらせた。万兵衛は粘ばついた口ぶりで言った。
「お、お前が弟の嫁か。誠に気の毒なことだ。若くして一人身になってしまったとは。だが、心配するな。この義兄が全て取り計らってやる」
「取り計らうとおっしゃいますと」
「ああ、他でもない。弟がいないとなれば、この家の田も畑も、今や持ち主がいないも同然だろう。こういうものは当然、本家であるこのわしが管理するのが筋というものだ。そうしてこそ家が散らばらずに済む。そうだろう」
本性を表したのである。万兵衛は弟が死んだものと決めつけ、その財産をそっくり飲み込みに来たのであった。お清はその根胆を即座に見抜いたが、表には出さなかった。むしろ大らかに笑いながら言い返した。
「お兄様、そのお言葉は少々早うございます。私の夫はまだ亡くなっておりません」
「なんだと。死んでいないだと」
「はい。山へ入ったまま消息が絶えたと言うだけのこと。死んだという証拠はどこにもございません。ですから、この家の財産の持ち主は今も私の夫のままでございます」
万兵衛の顔がわずかに歪んだ。しかし、すぐにまた薄気味悪く笑いながら話をそらした。
「ふん。まあいい。二か月も音沙汰がなければ、死んだも同然じゃ。生きてどうなる。お前もまだ気が抜けていないようだな。それはさておき」
万兵衛の視線が庭の巣箱へと向いた。
「あの巣箱は一体何だ。噂に聞くに、お前が貴重な蜜を作っているそうじゃないか。あの蜜は江戸ではわずかな量でも高値で取引されるそうじゃないか。ほう、これは我が家に最格のある嫁が入ったものよ」
万兵衛の小さな目が巣箱を舐め回すように欲に光った。財産も財産だが、今度はその貴重な蜜にまで目をつけ始めたのである。お清はその視線を見逃さなかった。
万兵衛はその日のうちに離れに泊まり、まるで主人のように振る舞い始めた。乏しい食事に文句をつけ、妹が言い返すと手をあげようとした。お清が制すると、万兵衛はこの家が自分のものになれば、嫁も娘も追い出してやると言い放った。
万兵衛のその言葉に、お清の両の目に怒りの火がともった。しかし、この嫁はやたらに腹を立てはしなかった。代わりに心のうちで固く誓った。
この鬼のような義兄から、必ずこの家を守り抜いて見せようと。
その夜、万兵衛が寝静まった隙に、お清は老人を訪ねた。胸の苦しくてたまらなかったのである。
「おじい様、あの兄様がこの家の財産をそっくり飲み込もうとしています。私一人で、あの人にどうすれば良いのでしょう」
老人はしばらく黙ってお清を見つめていた。それからぽつりと口を開いた。
「お嬢さん、世の中というのは力だけで勝つものではない。ああいう手は、己の欲に目がくらんで、必ず自らの足を救うものよ。お嬢さんは、ただ今まで通り、蜂を大切に飼い、人としての道を守っておればよい」
老は言葉を濁してにやりと笑った。
「あの蜂たちが、全て片付けてくれるじゃろう」
お清はその言葉の意味を全て組み取れたわけではなかった。しかし、老人のその不思議なまなざしを見ると、なぜか心が落ち着いた。何か頼もしいものが背後に控えているような気がしたのである。
翌朝から万兵衛は本格的に動き始めた。この家の財産がどれほどあるか、証文がどこにあるかを探り回ったのである。万兵衛はお清に粘ばついた口調で近づき、それとなく探りを入れた。
「おい、証文をどこに隠したか知っているか。この兄がしっかり預かっておいてやろう。お前のような女子が持っていても、しまうのが落ちだからな」
お清は内心で鼻で笑った。証文を横取りしようという根胆が丸見えだったのである。表向きは知らぬ顔で答えた。
「まあ、兄様。証文がどこにあるかは、私もよく存じません。夫がどこに隠したのか、帰ってこなければ分からないでしょうね」
「ふん。じれったいことだ」
万兵衛は証文が見つからず苛立った。しかし、お清が素直に差し出すはずもなかった。そもそもお清は証文のありかを知っていた。夫が山へ入る前、誰にも知られぬ場所に隠しておいたのである。お清はそれを命に変えても守り抜く覚悟であった。
その後も万兵衛はあの手この手で証文や蜜を狙ったが、その度にお清にかわされ、狙いはことごとく外れた。恥をかかされ続けた万兵衛は腹を決めた。もはや小賢しい手では埒があかぬ。力づくで押し通すより他にないと。
果たしてお清の予感は外れていなかった。
山向こうの大きな家に戻った万兵衛は、腫れた顔にぬれ手ぬぐいを当てながら唸っていた。それから傍らの下男を呼び、命じた。
「このままでは済まさぬぞ。蜂に一度やられたくらいで引き下がるわではない。今度は力づくで押し通す。町へ行って、腕っぷしの立つ荒くれ者どもを何人か集めてこい」
万兵衛の目が恨みに光った。今度は荒くれ者どもを引き連れて、力づくで奪い取る積もりであった。
それから三日ほど経った朝である。木戸ががらりと開き、棍棒を持った荒くれ者の一団が、万兵衛を先頭に庭へなだれ込んできた。
「さあ、あの巣箱をそっくり叩き壊せ。この家の財産は、今日わしが全て取り上げてやる」
お梅ばあさんと妹は怯えて部屋に逃げ込んだ。お清は巣の前に立ちはだかったが、棍棒を持った男たちの前では、力づくで叶うはずもなかった。
だが、その時お清の脳裏に、老人の言葉が蘇った。
「蜂は心を見抜く生き物じゃ」
お清はとっさに機転を利かせた。怯えたふりをして後ずさりしながら、庭の真ん中、実は最も蜂の多い一帯を指さした。
「どうか、あちらの奥の巣箱だけはお許しください。手前のこちらは空でございますから。壊すなら、どうかこちらから」
欲に目のくらんだ万兵衛は、その言葉をそっくり逆手に取った。
「ふん。それなら、手前の蜜の詰まっていそうな方から叩き壊せ」
荒くれ者たちは棍棒を振りかざし、庭の真ん中、蜂の巣のちょうど中心へとどっと寄せた。お清の思惑通り、男たちがぎっしりと蜂の巣に囲まれたのである。お清は素早く巣箱の外へと避難した。
その瞬間だった。荒くれ者の一人が棍棒を振り下ろし、最も蜂の多い巣箱をまともに叩いた。激しい衝撃に隣の巣箱まで傾き、怒り狂った蜂の群れが黒い雲となって一斉に舞い上がった。
荒くれ者たちは棍棒を投げ捨てて悲鳴を上げ、顔を腫らして我先にと木戸へ殺到した。万兵衛もまた鼻先を刺されながら垣根を乗り越えようとして、体を引っかけ悲鳴をあげて逃げていった。
老人は風向きを見てよもぎの煙を送り、家族を屋内へ避難させた。しばらくすると興奮していた蜂たちは次第に巣の周りへ戻り、庭にはようやく静けさが戻った。
お清は荒れ果てた庭を見回した。数十の巣箱のうちいくつかが傾き、蓋が外れていた。夫との夢を託した大切な蜂の巣が傷ついたことに、お清の胸は締めつけられた。
「ああ、これをどうしよう。大事な巣箱が、こんなありさまになってしまった」
お清は倒れた巣箱を見つめながら、その場に立ち尽くしていた。悪漢どもは追い払いはしたが、家族の暮らしを支える大切な蜂の巣が傷ついたことに、お清は胸を痛めた。
ところが、老人がお清のそばに歩みより、からからと笑いながら肩を叩いた。
「ふっ、お嬢さん、心配するな。巣箱が倒れたからと言って、蜂が死ぬわけではない。もう一度立て直してやれば、どもは自分の家に戻ってくるものよ。むしろ今日は、この蜂たちがお嬢さんを助けてくれたのじゃ。これほどありがたいことがあろうか」
老人のその言葉に、お清はようやく安堵した。老人とお清は倒れた巣箱を一つ一つ立て直し始めた。不思議なことに、散らばっていた蜂たちが老人の手つきに従って、一匹また一匹と自分の巣箱へと戻っていった。まるで老人の言葉を分かっているかのようであった。
部屋に隠れていたお梅ばあさんと妹も、恐る恐る庭に出てきた。荒れ果てた庭を見て、ばあさんは口をあんぐりと開けた。それから嫁が無事なのを見ると、思わずわっと涙をこぼした。
「お清、無事かい。ああ、こんな恐ろしい目にあって。無事だなんて。よかった、よかったよ」
ばあさんは嫁の手を強く握った。嫁いで依頼、初めて姑が嫁を案じて涙を流したのであった。お清も鼻の奥がつんとした。
「おっかさん、私は大丈夫です。この蜂たちが私を守ってくれました」
妹は庭に転がった棍棒を見つめ、たった今起きたことがまだ信じられぬというように目を丸くしていた。それからやがて、姉の機知に関心して飛び跳ねた。
「姉さん、すごい。あの怖い人たちを、蜂だけでみんな追い払っちゃった。姉さんはうちの大将だね」
家族はそこでようやく張り詰めていた気が緩み、笑い声をあげた。引きつりがえるのように腫れて逃げていった荒くれ者たちと万兵衛の様子を思い出すと、あまりにも滑稽であったのである。この数日、この家を押しつぶしていた恐怖が、その笑い声と共に雪のように溶けて消えていった。
その夜、ばあさんは黙って庭に出て、薪割りを始めた。今まで嫁一人に任せきりであった仕事である。妹が不思議そうに尋ねると、ばあさんはぽつりと言った。
「たまには私にもさせておくれ。お前に任せてきたことが、多すぎたようだから」
ところが、その笑いがまだ収まらぬうちのことであった。木戸の外から、とぼとぼとした足音が聞こえてきた。
お清ははっとして顔を上げた。もしや万兵衛がまた別の一味を連れて戻ってきたのではと、お清は身を固くした。足音は次第に近づいてきた。ところが、その歩みはどこかおかしなものであった。片方の足を引きずるような、とぼとぼとした足音であった。
木戸の影から、一人の男の姿が浮かび上がった。杖をつき、片足を引きずりながら歩いてくる。荷縄を背負った、山からたった今降りてきたかのような、全身が土埃りにまみれたその男が、木戸の前でぴたりと足を止めた。
お清は両の目を皿のように見開いた。全身がその場に凍りついたように、身動きできなかった。お清の唇がわななと震えた。
庭に立ったその男が、土まみれの顔でにっと笑った。人の良さそうな、あの懐かしい笑みであった。お清があれほど恋しく思っていた、まさにあの笑みであった。
「お前、ただいま帰ったぞ」
その一言に、お清はとうとうわっと泣き崩れた。二か月余りも胸や恋焦がれ続けた夫が、死ぬことなく生きて、自らの足で歩いて帰ってきたのである。
お清はそのまま庭を駆け抜け、夫の胸に飛び込んだ。
「あなた。生きていらしたのですね。私、私は、きっと帰ってくださると信じておりました」
満作は土埃りだらけの顔で人の良さそうな笑みを浮かべ、妻の背中をぽんぽんと撫でた。その大きな手の、なんと温かかったことか。
「ああ、帰らずにおられるものか。お前に必ず帰ると約束したではないか。あの約束を、どうして違えられよう」
部屋から飛び出してきたお梅ばあさんも、息子の姿を見て最初は言葉を失うばかりに驚いた。
「ま、満作。私の息子の満作。生きていたのかい。ああ、これは夢か。それとも幻か」
ばあさんは息子の顔を両手で包み込み、涙をこぼした。幼い妹も兄の足にしがみついては泣いた。死んだとばかり思っていた者が生きて帰ってきたのだから、家じゅうが泣きながら笑う大騒動となったのである。
涙の海が過ぎ去ると、家族は縁側に車座になって座った。お清は夫の傷んだ足に薬草を塗りながら、尋ねた。
満作は語った。薬草を求めて山を彷徨ううち、崖から足を踏み外し動けなくなっていたところ、あの旅の老人に助けられたのだと。その老人こそ、兼ねてから隣の里で蜂に通じたものとして噂を聞いていた人物だった。意識を失う前、満作は老人にもし自分が戻れなければ、家に残した妻と蜂の夢を見守って欲しいと頼んだのだという。傷が癒えるまでの間、老人はこっそり山と里を行き来しては、この家の様子を見守っていたのだという。
老人はその話を静かに聞いていたが、やがて立ち上がり、こう言い残した。
「貧しい暮らしにひもじさ、身内と核を絶えぬために元手をそっくり差し出し、幼い義妹をわが子のように可愛がり、それでいて夫が帰るという信念を一度とも捨てなかった。その心値を気に入って、この翁は蜂を飼う術を授けたまでのこと。蜂は心で飼うものじゃ。その心を忘れずにいれば、この蜂たちが末永くこの家に福を運んでくれよう」
老人はそう言い残すと、白髭を光らせながら三和道へと入っていった。そしていつの間にか山へ戻り、その後二度と姿を見せることはなかった。村人たちは後になって、あの老人は山の守り神に選ばれた人だったのではないかと語り合ったという。
一方、荒くれ者ごと蜂に追われて里中の笑い者となった万兵衛は、その屈辱に耐えかね、夜逃げ同然にその里を去っていった。財産を奪おうとした者が、己の欲のせいで里中の笑い物となって追われていったのだと、人々はいつまでも語り継いだ。
その晩、家では久方ぶりに家族全員が膳を囲み、温かい食事を共にした。死んだと思っていた息子が帰り、鬼のような義兄は追い払われ、庭には福を運ぶ巣箱がぎっしりと並んでいた。
お梅ばあさんは嫁の手をしっかりと握り、涙を浮かべていった。
「お清、この年寄りがお前をどれほど邪険に扱ったことか。気が触れた嫁だと指をさしたこともあった。だが、お前がいなかったら、この家はとうに散り散りになっていたはずだよ。私がどれほど責めても、お前は一度も家族を見捨てなかった。満作を信じ、妹を守り、この年寄りまで支えてくれた。これも、みんなお前のおかげだ。本当にありがとう」
お清は姑のその言葉に、目頭が熱くなった。嫁いで以来、これほど聞きたかった言葉はなかったのである。お清は姑の手を握り返し、にっこりと笑った。
「おっかさん、何をおっしゃいますか。皆、家族ではありませんか。夫も帰ってまいりましたし、これからみんなで蜂を飼って、このみすぼらしい貧しさをすっかり追い払いましょう」
家族一同はその言葉に声を上げて笑った。窓の外には月明かりが巣箱の上に美しく降り注ぎ、庭では蜂たちが静かに羽を立てながら、この家を守っていた。
やがて夏が過ぎ、いつしか山里にも秋が訪れた。裏山の紅葉が赤く色づき、庭の柿の木にはたわわな実がぷっくりと実った。そして庭の一角、木陰に並んだ数十の巣箱には、いよいよ本格的な蜜の時が満としていた。
お清は夫の満作と共に、二度目の蜜穫りに取りかかった。満作の足はすっかり治り、今では杖なしにしっかりと歩けるようになっていた。夫婦が並んで巣箱の前に立つ姿は、何とも睦まじいものであった。
「お前、本当にありがとう。わしがいない間に、この蜂たちをこれほど立派に育て上げてくれたのだから。これは、みんなお前のおかげだ」
「何をおっしゃいますか。これは、あなたの夢だったではありませんか。私はただ、あなたが帰るまで守っていただけです」
夫婦は互いを見つめ合い、声をあげて笑った。これから、老人に教わった通り、丁寧に巣箱の蓋を開け始めた。
ところが、今度の蜜穫りは夏のそれとは比べ物にならなかった。巣箱を一つ開けるたびに、その中にはこんがりとした蜜がこぼれんばかりに詰まった巣が幾重にも積み重なっていた。数十の巣箱から集められた蜜は、大きな甕を一つ、また一つと満たしていった。やがて、こんがりとした蜜を満たした甕が、庭に幾つも並んだ。
「これが、全部蜜だっていうのかい」
お梅ばあさんは庭に並んだ甕を見て、口を開けたまま言葉を失った。生涯貧しさの中で生きてきたばあさんの目に、そのこんがりとした蜜はまさに山積の宝ものであった。
幼い妹は甕の間を飛び跳ねて喜んだ。
「わあ、うちに蜜がこんなにいっぱい。もうお金持ちだね」
この貴重な日本蜜蜂の蜜は、江戸へ運べばわずかな量でも相当な高値で売れた。蜜の味が飛び抜けて良いという噂が江戸の旦那衆にまで広まると、我先にと買い求める者が列をなした。その蜜を売って、お清はこれまでの借金をすっかり返した。家を奪うと迫った徳兵衛への借金も、ついに全て返すことができた。借金を返してもなお金が余り、お清は兼ねてから望んでいた田を買い入れた。痩せた傾斜地ではなく、水はけの良い良田であった。牛も一頭買い入れ、幼い妹には色鮮やかな新しい着物も仕立ててやった。
あれほど辛かった貧しさが、今や昔語りとなったのである。この全てが、気が触れていると指を刺されながらも数十の巣箱を並べたあの嫁の、狂気にも見えた座から始まったことであった。
ある朝、お清が庭から戻ると、お梅ばあさんが台所で一番の甘酒を作っていた。ばあさんはそれを両手に持ち、お清の前へ差し出した。
「お清、こっちへ来て座りなさい。用事で疲れたろう。これを一口」
お清は驚いた。嫁いで依頼、姑が嫁に自ら何かを差し出したことなど、一度としてなかったのだから。むしろ、いつも嫁をこき使い、邪険にしてきたばあさんである。その姑が、自ら甘酒を用意して嫁に差し出すとは。
「おっかさん、そんな、行けません。私がどうして……」
お清が恐縮していると、ばあさんは嫁の手にその碗をしっかりと握らせた。ばあさんの目の周りに、温かい笑みが柔らかく広がった。
「これはな、この年寄りが当にお前にしてやるべきもてなしだったんだよ。私はこれまで目が曇っていて、こんなに大事な嫁を見って、どれほど邪険にしてきたことか。だが、あの狂気と見えた振る舞いが、この家を救った知恵だったんだね。私が悪かったよ。この甘酒いっぱいで、その詫びの気持ちに変えさせておくれ」
お清はとうとう目頭が熱くなった。姑のその心のこもった言葉に、これまでの寂しさが雪のように溶けていくようであった。お清は湯呑みの碗を両手で捧げ持ち、一口啜った。その甘く温かい甘酒が喉を通っていく味わいの、なんと純白であったことか。この世で一番甘い甘酒であった。
「おっかさん、本当においしゅうございます。こんなに美味しい甘酒は、初めていただきました」
お清のその言葉に、ばあさんは満面の笑みを浮かべた。そばで見ていた満作と妹も、一緒になって笑った。家中に、まさに笑いの花が咲いたのである。
その後、この家は少しずつ豊かになっていった。庭の巣箱では、蜂たちが今日も静かに羽を立てている。縁側では満作とお梅ばあさんと妹が笑い合い、お清はその輪の中で甘酒の碗を手に微笑んでいた。
辛かった過去も、鈴を鳴らすように笑い飛ばして逃げていった義兄のことも、もはや遠い話のようであった。
この家に、とうとう本物の春が訪れたのである。



