姉が義両親に面と向かって「弟の学歴を馬鹿にされた」瞬間、すべてが変わった。母が倒れ、弟の高志は中学を出てすぐ工場で働き始めた。私を大学に行かせるために。それなのに義母は、チラリと高志を見て言った。
「高さんでしたっけ? 高校にも行っていないんでしょう? きちんとした教育を受けてこなかった人が、うちの親族になるなんて、ちょっとね。うち、社長の家ですから」
義父もジュラルミンケースを持ち出してきた。
「お金が欲しいんだろう。いくら欲しいか言いなさい。これを持って、さっさと出て行きなさい。二度と私たちの前に現れないように」
「そうよ。うちの子に近づいたのは、お金目当てでしょ。早く出て行ってちょうだい。顔を見るのも嫌だわ。この貧乏人」
私は言葉を失った。高志は黙っていた。そして、静かな低い声で言った。
「そうですか。わかりました」
その顔は、鬼のような怒りをたたえていた。私たちは、その日の夜、人生で最大の屈辱を味わい、そして同時に、何よりも大きな勝利を手にすることになる。
私は伊藤彩佳。母子家庭で育った。父の顔を知らず、祖父母とも疎遠で、私たちは二人だけで生きてきた。母が働きづめで倒れたのは、私が高校生の時。弟の高志は中学を卒業する直前だった。入院にはお金がかかる。
「私、学校をやめて働く」
そう言った私に、高志は首を横に振った。
「ダメだよ、姉ちゃん。姉ちゃん、成績トップなんだろ? やめちゃダメだ。俺が働くよ」
「でも、あなたまだ中学卒業したばかりでしょ? 中卒を雇ってくれるところなんて、あるの?」
「大丈夫だって。なんとかなるよ」
高志は笑った。こうして私は高校に残り、高志は工場で働き始めた。慣れない仕事に毎日フラフラになりながら帰ってくる弟を見て、何度も心が痛んだ。それでも高志は口癖のように言った。
「俺は誰よりも頑張らないと、追いつかないから」
そうして彼は、仕事を覚えるために夜遅くまで会社に残り、技術を磨き続けた。私も負けじと勉強とアルバイトを両立させ、第一志望の大学に合格した。高志は心から喜んでくれた。そして、もう一つ嬉しい出来事があった。母の一時退院が許されたのだ。
「お母さん、お帰り」
「やっぱり自宅はいいわね」
久しぶりの我が家に、母の顔がほころんだ。その日は、母の退院祝いで、私の作ったチクワと大根のカレーを囲んだ。
「二人ともおいしい」
母は一口一口噛みしめるように味わってくれた。高志は得意げに言った。
「いつかさ、カレーだけじゃなくて、いろんな本格的なカレーを食べられるように、頑張って稼ぐからな」
「それって、私の作るカレーじゃ物足りないってこと?」
「あら、私は好きよ。彩佳の作るカレーはとっても美味しい」
こうして笑い合える時間が、少しでも長く続きますように。私は心から願った。
時は流れ、私は大学を卒業し、社会人になった。母の体調も穏やかになり、高志はすっかり仕事人としての貫禄がついた。そんな中、私にも人生最大の転機が訪れた。大学時代から付き合っていた健太郎からプロポーズされ、結婚が決まったのだ。健太郎の実家は会社を経営しており、彼はいつか跡を継ぐことが決まっているお坊っちゃんだった。
結婚の挨拶に行く日、私は人生で一番緊張していた。病院の母の代わりに、高志も一緒に行ってくれる。
「大丈夫だよ。そんなに硬くならなくて」
健太郎が笑ってほぐしてくれたが、高志もスーツ姿が珍しく、さらに緊張しているようだった。
「ああ、よく来たね」
健太郎の父、義父に迎えられ、大きな豪邸に圧倒された。リビングには、白い大型犬を撫でながら、不気味なほどの笑みを浮かべた義母が座っていた。
「ようこそ。お待ちしておりましたよ」
「初めまして、伊藤彩佳と申します。こちら、弟の高志です」
「初めまして。弟の高志です。よろしくお願いいたします」
挨拶を済ませると、義母が鋭い目つきで言い放った。
「健太郎は我が家の大切な一人息子ですからね。うちに来てもらう以上は、うちの方針に従ってもらえますよ。結婚式は代々決まっている我が家のしきたりがあるの。もちろん、それに従ってもらうつもりよ。お金はこちらで出しますから、文句を言う筋合いはないわよね」
「招待客は、我が家の重要な取引先の予定だ。君の知り合いはごく限られた人にしてくれ」
二人の口から次々と結婚式の要望が並べられる。横を見ると、健太郎は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。そして、二人が満足した頃、義母が高志を向いて言った。
「そうそう。さっきから思っていたんだけど、なんで今日は弟さんなのかしら? こういう時は、ご両親が揃って挨拶に来るのがしきたりじゃない?」
「父は私たちが小さい頃に出て行ったきりで、母は入院中なんです。弟の高志は、こんな私を働きながら支えてくれた、一番の理解者であり、大切な家族なので」
すると、義両親の顔色が一変した。
「え、高校も大学も行ってないってこと?」
「あ、はい」
義母は高志の格好をじろじろ見ながら続けた。
「まあ、お家がどれだけ大変だったかは同情するけど、さすがに中卒はないんじゃないかしら。きちんと学びをしてこなかった人が、小川家の親族になるなんて、ちょっとね。失礼ですけど、仕事は何をされているの?」
「工場です」
「工場? はっ。工場勤務の弟が家族にいるなんてね。どれだけ貧乏なのかしら」
健太郎はあまりのことに立ち上がった。
「母さん、なんて失礼なこと言うんだ! 今日は結婚の挨拶に来たんだよ。彩佳と高志君に失礼じゃないか」
「失礼も何も、正直に申し上げたまでよ。あなたも小川家の人間なんだから分かるでしょ」
義母は全く気にする様子がない。義父も続けた。
「なあ、健太郎。お前の人生はまだまだ長い。母さんの言うことを聞いておいた方がいいぞ」
「そうよ。付き合う相手をよく考えなさい。あなたはまだ若いんだから」
「何勝手なこと言ってんだよ!」
健太郎が激しく反論するが、義母は義父に耳打ちし、義父がどこかへ行ってしまった。そして義母は私を見て言った。
「ねえ、彩佳さん。見たところ、うちとそちらとでは釣り合わないわ。申し訳ないけど、ご縁がなかったということで諦めてもらえないかしら。もちろん、ただとは言わないわ。ご希望があれば、いくらでもお支払いするわよ」
そこへ義父がジュラルミンケースを持って戻ってきた。
「さあ、どうする? お金が欲しいんだろう。ほら、いくら欲しいか言ってごらん。これをもらったら、さっさと出て行くんだ。二度と私たちの前に姿を現さないように」
にやにや顔の二人に、私は怒りで震えた。
「二人とも、いい加減にしろよ! 俺は別れる気はないからな!」
「健ちゃん、これはあなただけの問題じゃないのよ。会社のイメージに関わってくることなの。分からない?」
その時、横からゾッとするような低音が聞こえた。
「あなた方が、そういう価値観を持ちだとは思いませんでした。是非、考え直させてください」
見ると、高志の顔が、まるで鬼のように静かな怒りをたたえていた。
「あら、中卒のわからず屋だと思っていたけど、意外と物分かりがいいのね」
「では、先日契約させていただいた、例の30億の件は、白紙にさせていただきます」
「え? 30億?」
義父が目を丸くした。
「ま、まさか、あなた……」
「先日は、うちの社員が、大変お世話になったそうですね」
高志は笑っていたが、目は釣り上がっていた。あの時、高志は中学卒業後、部品製造工場で技術を磨き続けた。そして、ある日、ここでしか作れない特殊な部品の製造に成功したのだ。その功績が認められ、なんと高志は、二十五歳の若さで社長に抜擢されていた。義父の会社は、その部品を使った製品を開発しており、契約が白紙になれば、会社は一気に傾くことは明白だった。
「これも何かご縁があるということですかな?」
「ええ、そうよ。でも、こちらに入ってこられた時、なんかオーラが違うとは思っていたのよね」
義母は今更ながら高志を持ち上げようとするが、もう手遅れだ。
「私は、入社から社長をはじめ、工場や先輩方の背中を見てきました。自分たちの作るものが社会の一つとなり、そのおかげで飯が食えているんだぞと、何度も聞かされてきたものです。今、社長としてその責任の重さを痛感しています。私は、命に変えてでも、従業員の生活を守らなければならないんです。それを、こんな金に物を言わせ、学歴や家庭環境だけで人を判断するような方がいらっしゃる会社とは、とても一緒にお仕事ができません」
私は、知らない弟の姿を見ていた。横で健太郎も、思わず涙を浮かべていた。義父の顔は真っ青になり、義母は逆上して健太郎の腕を掴んだ。
「どうぞ。仕事のことはよく分からないけど、それとこれとは別よ。私の気持ちは変わりませんからね。お金がいらないのなら結構よ。さっさと家から出て行ってちょうだい! 健ちゃんのお相手は、ママが責任を持って探してあげますからね!」
「もううんざりなんだ!」
健太郎は掴まれていた腕を振りほどき、私たちの元へ駆け寄った。
「悪いけど、二人とは縁を切らせてもらうよ」
「健太郎、勝手なことを言うな! 会社を継ぐのは決まっていることだろう!」
「俺は継ぎたくない。俺が会社で何て呼ばれてるか知ってる? 『無能な七光』だよ。社員の人たちはみんな、父さんが来るたびに怯えた顔をしているんだ。俺は、高志君の会社で働くことに決めた。俺は父さんの会社しか知らない世間知らずのお坊ちゃんなんだ。もっと、そこの世界を見たい」
健太郎の決意は固かった。二人はすっかり唖然としている。高志が健太郎の肩に手を置いた。
「よく決意してくれたね。私は、彩佳さんを家族のように思っています。もちろん、健太郎さんのことも、大切な家族の一員だと思っていますから」
そう言って微笑む高志に、健太郎の目から一筋の涙がこぼれた。こうして、高志の会社との契約は正式に決まり、義父の会社は一気に赤字へと転落した。元々、義父の会社はかつての同僚たちと立ち上げた会社だったが、義母が経営に口出しを始めてから、徐々に雰囲気が悪くなっていたらしい。そして今は、会社の維持費や従業員の給料の支払いに奔走する毎日を送っている。
私たちはと言うと、あの挨拶の後、無事結婚することができた。健太郎は高志の会社に転職し、営業担当として忙しい日々を送っている。母も治療の甲斐あって、無事退院することができた。そして今日は、健太郎も含めての退院祝いの日。もちろん、母の好きなカレーパーティーだ。
「ご飯、炊けたよ」
「あ、この炊飯器、うちの会社の部品使われてるやつだよ」
高志が声をあげた。
「へえ、すごいじゃん。テレビでいいって取り上げられていたから買ってみたんだ」
そう言って、高志は得意げにご飯をよそった。母は相変わらずのお茶目な様子で、私たちを急かす。
「ちょっと、みんな何してるのよ。早くリビングに来てちょうだい。病人を置いておくつもり?」
思わず吹き出してしまった。そして、みんなで食卓を囲んでいると、健太郎が突然、大粒の涙を流した。
「どうしたの? スパイス入れすぎた?」
「……なんか、家族っていいですね」
健太郎はぽつりと呟いた。
「僕は、家族というものを、経験したことがなかったんです。父はいつも仕事ばかりだったし、母は他人の目だけを気にして生きていました。そんな両親を恨んでいた時期もありました。でも、自分を育ててくれた親であることに変わりはありません。今、父さんの会社の立て直しに、自分も力になれたらと思っています。あんな親でも、育ててくれた親に変わりはないですから」
そう言って健太郎は遠い方を見つめた。その目から、彼の強い信念が伝わってきた。私は思った。あの結婚挨拶で、あれだけひどいことを言われたけれど、健太郎の家族への向き合い方に、私も寄り添える自分でいたい、と。
「家族の前では、取り繕う必要なんてないのよ。辛い時は辛い。悲しい時は悲しい。だけど、楽しい時は思いっきり笑い合う。だから、家族っていいのよね」
健太郎が嬉しそうに頷き、隣に座る私の手をそっと握りしめた。これまでどんなに辛くても頑張れてきたのは、太陽のように明るい母が、私たちを照らし続けてくれたからだ。たとえそばにいなくても、私たちは家族なんだと強く思うことができた。家族は、理屈抜きで思い合えることが家族なんだと思う。困っている時は助けてあげたり、悲しんでいる時は、ただそばに寄り添ってあげる。今まで私は、高志に支えられていると思っていたけれど、高志は「支えていきたい」という家族愛が根底にあったからこそ、ここまで頑張れてきたのかもしれない。新しい家族と支え合いながら、これからも楽しく暮らしていけたらなと思う。



