深夜2時、私は夫が苦しんでいるとの緊急連絡を受けて病院に急行した。同僚と夜勤を交代し、処置室へ向かうと、呼吸困難を訴える30代の男性が運び込まれてきた。
「お願いです。私の旦那を助けてください」
必死に叫ぶ女性の声。救急隊員が患者の顔にかかった布を外したとき、私はその場に凍りついた。
そこにいたのは、先週から「急な出張だ」と言って家を空けていたはずの夫・匠だった。
「私の旦那」ーーその言葉が頭の中で反芻する。一体どういうことだ。混乱する頭のまま、私は処置室へ向かった。
「もう少し我慢してくださいね」
意識があいまいな匠に声をかけながら、彼を診察する。すると後ろから、さっきの女性が付いてこようとした。
「匠さん。しっかりして。私がついているから」
「奥様、ここから先は患者様本人しか入れません。ロビーでお待ちください」
看護師が静止すると、女性はしぶしぶ立ち止まった。私は少し離れた場所から、彼女の様子をうかがった。
「今朝、パンケーキを作ってあげたんです。喜んで食べてくれたんですが、急に苦しみ出したんですよ……」
パンケーキ? 私の脳裏に、ある記憶がよぎる。匠は甘いものは好きだが、卵とナッツにアレルギーがある。同じ空間で食べているだけで喘息のような症状が出るほどだ。
まさか、あのパンケーキに何かが入っていたのか。
午前3時半、処置と診察が終わり、匠の容体は落ち着いた。原因は、卵とナッツによる食物アレルギー反応だった。一晩の入院が必要だという。
私は、夫婦であることを伏せたまま、状況を確かめるため、あの女性が待つ面談室へ向かった。
「木村彩佳さん、匠さんの奥様でいらっしゃるんですね」
彩佳と名乗る女性は、涙の跡が残る顔を上げ、意外にも満足げな表情で話し始めた。
「今朝、パンケーキを焼いてあげたんです。私の夢だったんです。大事な人にご飯を作ってあげて喜ばせるの。ハワイアンパンケーキが美味しくて、彼にも食べてもらいたくて。卵を多めに入れて、ナッツのソースも手作りしました」
卵とナッツ。よりにもよって、匠が最も避けてきたものを、彼女は愛情を込めて食べさせたというのか。しかも、匠はそれに気づきながら、彼女が作ったものだからと無理に食べたのだろう。
「もうすぐ結婚もする予定なんですよ」
彩佳の言葉に、私は心の中で冷たいものを感じた。この半年間、匠は急な出張や残業が増えた。会社での昇進のためだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
「今回は、いつから一緒にいらっしゃったんですか?」
「先週末からずっとです。本当はもっと一緒にいたいんですけど」
その瞬間、私がメモを取る手が止まった。先週末から。それは、匠が家を不在にしていた期間と完全に一致していた。
出張だと言っていたのに。嘘をついていたのか。私は半年間ずっと、匠の嘘に気づかなかったのか。
休みを挟んで2日後、私は再び病院に出ていた。朝の回診で各病室を回っていると、匠の病室の前で足が止まった。中から、彩佳のよく通る声が聞こえてくる。
「大丈夫よ、匠さん。私がそばにいるから」
「ありがとう。彩佳を選んでよかったよ。落ち着いたら入籍しよう」
「匠さんの会社に行っておいたからね、入院したこと。そしたら、私が奥さんって名乗ったら、ぽかんとしてたよ」
「え? なんでそんな勝手なことしたの?」
「だって、匠さん、今は話せる状態じゃないでしょ。だから妻である私が代わりに電話しただけよ」
沈黙の後、匠の慌てた声が聞こえた。私は、そのタイミングでゆっくりとドアを開けた。
「ああ、昨日の看護師さんですね。大事な話をしていたところです」
彩佳はそう言って笑顔を見せるが、匠は顔面蒼白で、明らかに私から目をそらしている。
私はベッドサイドに立ち、静かに告げた。
「私が、匠の妻です」
「……は?」
彩佳の顔が硬直した。匠は下を向いたまま、何も言わない。
私は2人を交互に見つめた。さっきまでの夫婦ごっこは何だったのか。匠はずっと、彩佳に独身だと嘘をついていたのだろう。
彩佳は無言で病室を出ていった。匠も、それを引き止めることはしなかった。
数日後、匠はまだ入院していた。今日は退院予定だったが、血圧も高く、もう少し様子を見ることになったという。
私はある人と待ち合わせをし、匠の病室を訪れた。
「お疲れ様。朝ごはん、ちゃんと食べられた?」
「あ、みな、来てくれたのか。て、親父。なぜ一緒にいるんだ? 仕事はどうしたんだよ」
私が連れてきた人は、義父だった。岐阜は制約会社の社長で、匠もそこで働いている。義父は何も言わずに席につくと、鞄から書類の入ったクリアファイルを取り出した。
「今日は会社の創立記念日で休みだ。今日が何日か、分からないとはな」
そう言って義父は、書類をベッドの上に広げた。匠は目を泳がせながら、書類を眺める。
「なんだよ、これ。退職の通知? 俺、首になるの? 俺は被害者だよ。卵とナッツが入ったパンケーキ食わされて、この状態なんだけど」
「黙れ」
義父の静かだが重い声が響いた。
「お前がやったことは、家庭を壊しただけじゃない。お前は、誰の信頼があって仕事をしていたのか、忘れたのか」
匠は言葉を失った。
「匠が今まで私や会社に隠れて何をしていたか、分かったわ。彩佳さんが自分から話してくれたの。それに、先日病室でしていた会話も、丸聞こえだったからね」
私はそう言い、義父にうなずいた。
義父はさらに、浮気の探偵調査報告書と証拠写真をベッドに置いた。
「彩佳さんや義理の娘の話を聞いて、おかしいと思ったんだ。お前に出張を頼んだことなど、数えるほどしかない。それも日帰りの内容ばかりだ。なのに、ここ半年で有給の回数が急に増えたらしいな」
匠は言葉を失い、写真を見つめる。そこには、営業に行くふりをして彩佳と高級料亭やホテルに行く姿が写っていた。
「冗談だろ。俺は確かに彩佳とは会ってたけど、それはただの友達だ。全部、捏造だ」
「残念だけど、その写真は探偵が撮影したものばかりじゃないのよ。匠の同僚や部下が、偶然見つけて撮ったものもあるの」
「井上君が、私のところに相談に来ていたんだ。田中さんが勤務時間中に女性といるのを何度か見かけたが、どうしたらいいか、と」
「会社として正式に調査することにしたんだ。井上君だけでなく、他の部署からも報告が複数上がっていた」
匠は絶望の表情を浮かべた。
「これで分かったか? 今日付けで、お前は解雇だ。社宅の滞在は今月末までだ。それまでに、次の仕事と家を探しておけ」
「ちょっと待って、親父。俺は親父の息子だろ。そんなあっさり息子を捨てるのか。亡くなった母さんが悲しむだろ。それなら、実家に帰らせてくれ。何でもするからさ」
「悪いが、俺の家も今月中に売りに出すことに決めた。今後は、義理の娘に実家で世話してもらうことにした。ちなみに、お前の悪事は親戚中に知れ渡っているから、頼っても無駄だ」
義父は立ち上がり、最後にこう告げた。
「寂しかったとか、余裕がなかったとか、そういう言い訳は社会では通用しない。家族も同じだ。信頼を失えば、戻る場所はない。しっかり反省しろ」
義父が病室を出ていくと、部屋には静寂が訪れた。
私は匠を見つめた。匠は、抜け殻のような姿で封筒を手にしている。
「……全く、あそこまでされるなんてな。でもさ、これって全部、俺だけが悪いのか? 俺だって一生懸命頑張っていたし、気を使ってきたのに。何にも伝わってないんだよ。親父も会社のみんなも、彩佳も、そしてみなも、みんな裏切り者だ」
裏切り者? 私の我慢の限界が超えた。
「今まで、義父の言葉をどんな気持ちで聞いていたの? よくもそんなことが言えるわね」
「そうやって、俺だけを悪者扱いするんだ。じゃあさ、みなはどうなの? 患者さんに向き合うとか綺麗事言ってるけど、本当に目を向けなきゃいけないのは家族に対してもじゃないの? 俺のことなんて、全然見てくれなかったじゃないか」
「ふざけないで。あなたは浮気をした。私は浮気はしていないわ。寂しいからって、他の男にフラフラ行ったりしない」
「そうかもな。あと誤解のないように言っておくけど、誘ったのは俺じゃなくて、彩佳の方だから。俺は何も悪くない」
「自分のしてきたことを、一度でいいから思い出してみたら? 結婚して1年が経った頃、あなたは私に冷たい態度を取るようになった。話しかけても、うるさいと一蹴したでしょ。たまに私が早く帰っても、あなたは飲んで帰るから遅くなって。そんなんで、どうやってあなたのことを見ろって言うの?」
匠はうつむいた。
「それは……俺だって、家にいる時間が少なかったから」
「それでも、いつもバタバタしていて悪いと思ってた。だから、少しの時間でもあなたと過ごしたかった。疲れていても、毎日ご飯を準備して、家でゆっくり過ごすように努めていたの。命に関わる現場だからこそ、家では普通の妻でいたかった。あなたの心も大切にしたかった」
「……もういい、めんどくせえな。はい、はい、俺が悪かったって。これでいいんだろ。俺も明日には退院するから、それからまた話し合おうぜ。だから今日は帰って、ゆっくりしろよ。あ、できれば荷物をちょっと整理しておいてくれ。俺も帰って手伝うから」
「話し合い? それは無理よ。だってもう、離婚するから」
「は? 離婚? なんだよ、いきなり」
「あなたは私のことも、彩佳さんのことも愛してなんかいない。あなたは私に妻の役割を求めていたんじゃなくて、都合のいい家政婦でいて欲しかったんでしょ。彩佳さんは、あなたの欲を満たすための道具。私は仕事でいない時間は自由。バレなければ何をしてもいい時間。寂しいなら、私を突き離すんじゃなくて、向き合ってくれる。それが家族としてのあり方じゃないの?」
「だからって離婚は……」
「もう遅い。あなたが嘘をついていたという事実は、死ぬまで消えないわ。だからもう、一緒にいることはできない」
私はそう言い、病室を出ていった。
その後、私は正式に匠との離婚が成立した。匠は予定通り会社を解雇され、社宅も追い出された。貯金もなく、義父に頭を下げ続けたそうだ。義父や親戚たちに監視されながら、必死に就職活動をしているとのことだった。SNSも削除され、元職場の人間にも見放され、友人もほぼゼロになった。真の意味で、孤独になった。
彩佳はあの日病室を出ていったきり、行方は分からない。匠に騙されたと友人に泣きついたが、誰も聞く耳を持たず、自ら孤立していったらしい。
一方、私はというと、最近は久しぶりに家に帰るのが嬉しく、新しい生活を始めていた。
ある日、私は職場の男性、たけしと親しくなっていた。彼は同い年で、私と同じく離婚歴があった。相手の浮気がきっかけで離婚したことも、同じだった。
会社の飲み会で似たような境遇だと知ってから、話が弾んだ。たけしは穏やかで包容力があり、申し分ない男性だと思った。異性として、惹かれる気持ちも抱くようになった。
しかし、一度結婚に失敗しているせいで、友人関係から先に進むことには迷いがあった。
「あずささんはまだ若い。まだまだ人生をやり直すことはできる。迷っているくらいなら、その思いを相手にぶつけたらいいだろう」
ある日、義父に相談すると、彼は笑顔で背中を押してくれた。その笑顔は、亡き父が蘇ったように思えて、温かい気持ちになれた。
その後、たけしと食事をした際、私は素直な気持ちを伝えた。すると、たけしも同じことを思っていたらしい。
「あずささんは素晴らしい女性だ。もっと親しくなりたいと思っているよ。でも、付き合い出して、また浮気をされたらどうしよう。また裏切られたら、2度と立ち直れないかもしれない。不安が頭から離れず、踏み込む勇気が持てなかった」
裏切られた経験を持つ者同士、臆病になっていたようだが、お互いの気持ちを確かめられたのは大きかった。私たちは、じっくりと距離を縮めていくことにした。
それから私たちは、段階を踏んで親しくなっていった。たけしに義父にも会ってもらったし、私は地方に住むたけしの両親に会いに行った。たけしの両親は大らかで心の良い人たちだった。
出会ってから1年と半年が過ぎた頃、たけしからプロポーズを受けた。もちろん、受け入れた。
再婚同士なので、結婚式は質素に済ませようと決めていた。両親のいない私は、義父に父親として出席してほしいとお願いした。義父は照れながらも、喜んで父親役を買って出てくれた。
身内とごく親しい友人だけを招待し、ささやかながらも温かい結婚式だった。これで私は、たけしと晴れて夫婦になった。
お互い子供が欲しいと思っていたが、私は名古屋との結婚生活で子に恵まれなかった。本当に不妊だったらどうしよう。そんな不安は、1年で解消した。あっけなく、子供を授かったのだ。
名古屋との結婚生活はストレスが溜まる毎日だったが、今の結婚生活は穏やかで、それが良かったのかもしれない。生まれたのは女の子で、2人して考えて「あいり」と名付けた。
たけしの両親も、義父も初孫だ。抱っこの取り合いになるほど可愛がってくれる。生まれたばかりのあいりを中心に、夫と夫の両親、そして義父に囲まれた今の私は、幸せを噛みしめている。
道は険しかったけれど、ようやく私は本当の家族を手に入れることができた。これからは、家族を大切にして生きていきたい。



