嘘をつく時、人は何かを守ろうとしている。愛する人のためかもしれない。長年積み上げてきたものへの執着かもしれない。あるいは、自分でも気づかないうちに手放せなくなってしまった誇りかもしれない。森山安子は、自分がもうどのくらいそうやって生きてきたのか、正確に思い出すことができなくなっていた。
26年前の春のことだった。埼玉県の外れにある古い団地で、安子は夫の秀夫と二人で暮らしていた。建物は昭和40年代に建てられたもので、廊下の手すりは錆びつき、エレベーターは一基しかない。雨の日には壁のシミがじわりと濃くなった。
安子は63歳だった。背中が少し丸くなっていた。長年の習慣で、荷物を下げて歩くとき、気づくと肩が前に入ってしまう。着ているのはベージュのカーディガンで、袖口は毛羽立ち、右の肘のあたりはうっすら白くなっていた。何度も洗ったからだ。捨てようと思いながらも捨てられない。新しいものを買う理由が見つからないというより、買うという行為そのものが、なんとなく後ろめたかった。
髪は後ろで固く結んでいた。根元の白い部分が目立たないよう、市販の染め粉で丁寧に黒く染めていた。美容院には行かなかった。行くお金があれば、スーパーで二週間分の食材が買える。
歩くとき、安子はいつも視線を少し下に落としていた。道ですれ違う人の目を正面から見ることが苦手になっていた。いつからそうなったのかは、自分でもよくわからない。ただ、気づいたときにはそうなっていた。
仕事は近くの総合病院での清掃パートだった。朝7時に出て、昼過ぎには終わる。一日の大半を廊下の雑巾がけやトイレの清掃に使い、ほとんど誰とも話さずに帰ってくる。それでも、その仕事は大切だった。毎月決まった額の収入があるという事実は、どんなに小さくても、薄い紙一枚分ほどの安心感を彼女に与えてくれた。
夫の秀夫は66歳で、今年の1月に会社を辞めていた。正確に言えば、辞めさせられた。「部署の統合」という名目で、役職付きの中高年を順番に追い出す、いわゆる早期退職の勧告だった。秀夫は課長補佐だった。30年以上勤め、若い頃には営業でそれなりの成績も残した。しかし、会社は過去の実績よりも今の使い勝手で人を図る。50代半ばを過ぎると仕事の内容は変わり、やがて重要な会議から声がかからなくなり、気づけば「部の指導係」という名の窓際に回されていた。
退職を促す面談は3回あった。最初の2回は断った。3回目に提示された早期退職パッケージは、通常の退職金にいくらかの上乗せがあった。秀夫はその日の夜、安子に一言も言わずに書類にサインした。
翌朝、食卓でコーヒーを飲みながら、「ところで、会社を辞めることにした」と秀夫は言った。安子はその時、何も言えなかった。ただコーヒーカップを持ったまま窓の外を見た。曇り空だった。
秀夫が辞めた後も、毎日スーツを着て出かけるようになった。どこへ行くのか、最初は聞けなかった。少し経ってから聞くと、図書館でビジネス書を読んでいると言った。顧問の仕事を探しているとも言った。知人には、「退職後は別の会社で経験を生かしたい」と話しているらしく、夕食の時、同じ話を何度も繰り返した。
しかし、3月になり、4月になり、5月が近づいても、顧問の仕事は決まらなかった。安子は秀夫にそれについて何も言わなかった。言えなかったという方が正確かもしれない。秀夫はプライドの高い人だった。かつては家族を養うための強さでもあったが、定年後のプライドは少し違う形を取った。自分が何者であるかということに、人よりも強く執着する。安子は長年の経験から、それを知っていた。
6月の第1週、梅雨に入ってから3日目の夜のことだった。安子はスーパーの前に立っていた。店の名前は「ライフマート清寄せ店」といい、団地から徒歩で十分ほどの場所にある。建物は古く、床のタイルは一部欠けていた。
安子は夕方の6時頃から店内を歩き、値段を一つ一つ確認しながら、必要最小限のものだけを買い物かごに入れていた。豆腐一丁、もやし一袋、切り干し大根の小さなパック。醤油がなくなりそうだったが、今日はやめた。
店の奥の壁に掛け時計がある。安子は時々その時計を正面から確認した。まだ7時50分だった。あと10分。スーパーの閉店間際、午後8時になると、担当の店員がバックヤードから台車を押して現れ、値引きシールを張って回る。半額のシールだ。宝食に赤い文字で「半額」と書かれた弁当、総菜、刺身、パック寿司。その時間に合わせて店内に残っている客の多くは、安子と同じ目的で動いていた。
安子はその列に並ぶことができなかった。正確に言えば、並ぶことへの恥ずかしさが消えなかった。同じ団地に住む顔見知りと鉢合わせしたらと思うと、足が少し遅くなる。だから安子は値引きシールが貼られた商品を直接手に取ることをしなかった。他の棚を眺めるふりをしながら、目の端で状況を確認した。
午後8時ちょうど、店員が弁当売り場に近づいた。台車の上には黄色いシールの束があった。店員の手が動き始めた。安子は商品棚の影に入りながら、しかし確実に弁当売り場の方向へと体を向けた。他の客が群がるのを待つ。それが安子のやり方だった。大きな動きの中に紛れてしまえば、少し楽になれる。
幕の内弁当のパックを手に取った。490円が半額の245円になっていた。もう一つ、鮭のおにぎりが2個入ったパックを取った。それから、小松菜の煮浸しが入ったプラスチック容器。周りを確認した。知っている顔はなかった。
レジに向かいながら、安子の目は自然と入口の方へ流れた。いつもそうだった。もし知り合いと目があった時、何を言えばいいかを頭の中で考えながら歩く。こんな時間にこんなものを買っているという事実を、何かで説明しなければならないような気がする。でも、その説明が思いつかないから、なるべく目を合わせないようにした。
レジ袋は断った。エコバッグに詰めながら、合計金額を自分でも暗算していた。723円。それだけ使った。
団地への帰り道は緩やかな坂を下る。雨上がりの道が街灯に光って、水溜まりがいくつかあった。安子はそれを一つ一つ避けながら歩いた。エコバッグが腕に食い込んだ。中身は大したことがないのに、なぜか重く感じた。
部屋に戻ると、秀夫はリビングのソファに座ってテレビを見ていた。音量が少し大きかった。ニュースか何かのトーク番組で、スタジオに集まった人たちが笑っていた。秀夫はその笑い声に反応することなく、うとうとしているようだった。
安子は台所に回り、エコバッグの中身を取り出した。幕の内弁当のパックを開けた。プラスチックの容器の中に、白米と唐揚げ1個と肉じゃがの小さな一区画とほうれん草のおひたしが入っていた。安子は家にあった白い皿に、その中身を一つ一つ移した。唐揚げを箸で掴んで皿の端に置いた。プラスチックの容器は洗ってから、燃えるゴミの袋に押し込んだ。
秀夫の皿には少し多めに盛った。リビングに持っていくと、秀夫はテレビを消さずに食卓へ移った。椅子を引く音が狭い部屋に響いた。秀夫は箸を手に取り、皿の上を一瞥した。ため息ともつかない短い息を吐いて、「最近は総菜だな」と言った。
安子は自分の皿の肉じゃがを少し崩しながら、「そうですね」と答えた。
「何か、手間のかかったものが食べたいな」と秀夫が続けた。「肉じゃがとか煮物とか、ちゃんとした夕飯というのは、何というか、家の中に落ち着きが出る気がするんだよ」
安子はその言葉を聞いて、少しの間箸を止めた。でも、すぐに動かした。「はい、今度作ってみます」
食事が終わると、秀夫はソファに戻った。テレビはつけたまま。安子は一人で食器を洗った。お湯を出しながら、流しの窓の外を見た。雨がまた降り出していた。細い雨だった。お湯の音とテレビの声と雨の音が混ざって、台所に満ちた。
安子はスポンジで皿を一枚ずつ洗いながら、頭の中に数字を並べていた。今月の収入。パートの給与が7万2000円。秀夫の年金が14万円。合わせて21万2000円。そこから家賃が4万8000円。電気代と水道代とガス代を合わせると、梅雨の時期は少し上がって3万円弱。食費は何とか月3万円に抑えようとしているが、今月はすでに2万6000円使っていて、残り1週間をどう乗り切るかが問題だった。国民健康保険が月に1万5000円、秀夫の携帯電話が6000円、自分のは格安SIMにして1800円。日用品、医療費、秀夫が何かを買う時の出費、急な出費への備え。残りの8万円で生活の残り全てを賄わなければならない。
安子は最後の皿を棚に戻して、タオルで手を拭いた。冷蔵庫を開けた。卵が4個、豆腐が1丁。昨日の味噌汁の残りがタッパーに入っている。もやしはまだある。あと3日はなんとかなる、と安子は思った。
翌朝、雨はまだ続いていた。安子はゴミ出しの日だったことを思い出し、袋を1つ持って1階のゴミ捨て場へ降りた。団地のゴミ捨て場は外にある。屋根はついているが小さく、雨の日には袋が濡れてしまう。安子は足早に袋を入れて戻ろうとした。そこへ二階の吉田さんの奥さんが来た。エプロンをつけたまま、傘を持ってきた人だ。50代の後半で、夫は出張所に務めている。子供が2人いて、上の子はもう大学生だと聞いていた。団地の住人の中では顔が広く、ゴミ捨て場での立ち話が長い人として知られていた。
「おはようございます」安子は頭を下げた。
「あー、森山さん」と奥さんの方も言った。それからしばらくの間、梅雨の話をした。今年は雨量が多いとか、洗濯物が乾かないとか。その後で、吉田さんの奥さんが「ところで、旦那様は、その後どうされてるんですか」と言った。
安子の胸の奥で、何かが一瞬収縮した。
「ええと」と安子はすぐに答えた。「おかげ様で、いくつかお話をいただいてまして」
「ある企業から顧問のお声がけをいただいていて、近いうちにお返事をする予定なんです。主人の方でも、もう少し条件を確認してから決めようと言っておりまして」
吉田さんの奥さんは「ああ、そうですか。良かったですね」と笑顔で言った。安子も笑った。傘の下で微笑みながら、安子の胃が静かにきつく締まっていく感覚があった。痛みというほどではなかった。ただ収縮するような感覚。あの感覚はもう何年も続いていた。緊張する時や嘘をついた時、誰かに何かを隠している時に出てくる。
部屋に戻ると、秀夫はまだ寝ていた。安子は台所で自分の分だけお茶を入れて、一人で飲んだ。お茶を飲みながら、また数字を頭の中に並べていた。
仕事に出かける前に郵便受けを確認するのが安子の習慣だった。団地の郵便受けは1階の共有部分にある。細長い金属の扉が縦に並んでいて、鍵がなくても開けられるものと鍵が必要なものが混在している。森山の郵便受けは303号室の欄に番号が貼ってある。
その日の朝、仕事へ出かける前に安子は1階に降りた。郵便受けの扉を開けた。中に入っていたのは、チラシが2枚と小さな封筒だった。チラシはピザの宅配と近所の眼科のものだった。封筒の方は薄茶色で横長の形をしていた。左上に区の名前と「税務課」という文字が印刷されていた。
安子は封筒を手に取った。重さはほとんどなかった。折りたたまれた1枚か2枚の紙が入っているだけだ。それなのに、なぜか妙に重く感じた。仕事に行く前に開けようとしてやめた。封筒をエプロンのポケットに入れて、一度部屋に戻り、仕事の鞄を取った。秀夫はまだ起きていなかった。
仕事中も、ずっとポケットの中の封筒のことが気になっていた。廊下を雑巾で拭きながら、手を動かしながら、頭の中でその封筒のことを考えていた。税務課から来る手紙というのは、種類が限られている。支払い証明書か、納税の案内か、それとも何か。昼になって休憩室で一人になった時、安子は封筒を取り出した。丁寧に開いた。
中に入っていたのは2枚の紙だった。1枚は短い文章が書かれた本文で、もう1枚は数字が縦に並んだ表だった。安子はまず本文を読んだ。
「令和8年度分の住民税及び国民健康保険料の算定につきまして、下記の通り通知申し上げます。なお、昨年度より年金収入の算定基準が改正されたことに伴い、ご家庭の課税標準額が変更となっております」
安子は一行ずつ慎重に読んだ。文章は丁寧な役所の言葉で書かれていたが、意味は一つだった。秀夫の年金額が変更になった。そして、昨年度まで適用されていた計算方式が変わり、今年度から課税標準額が上がる。結果として、住民税と国民健康保険料の追加徴収が発生している。
もう1枚の紙を見た。追加額の合計は、22万7000円だった。
安子はその数字を3回確認した。1度目は早く読みすぎて正確に把握できなかった。2度目でようやく桁を確認した。3度目で、その数字が現実のものであることをようやく受け入れた。
22万7000円。2ヶ月分のパート給与にほぼ相当する金額だった。納付期限は8月末。一括か、3回に分けての分割払いが可能と書かれていた。
安子は紙を2つに折り、封筒に戻した。封筒を鞄の中に入れた。休憩室の窓の外には病院の駐車場が見えた。白い車が何台か並んでいた。雨が降っていた。安子はしばらくそこに座ったまま動けなかった。手が少し震えているのに気づいた。指先に力を入れようとすると、うまく力が入らない。胃の奥がじりじりと焼けるような感覚になっていた。
午後の仕事が始まるまでの10分間、安子は一人でその感覚と向き合っていた。誰にも何も言わなかった。言う相手がいなかった。夫には言えなかった。言えば、秀夫は傷つき、その傷が怒りに変わることを、安子は長年の経験から知っていた。息子を頼るという選択肢は、最初から除外していた。息子は今年で34歳になり、大阪で会社員をしている。去年結婚したばかりで、子供も近々生まれると聞いていた。そこへ母親が22万円の話を持ち込むことを、安子はどうしてもできなかった。
午後の仕事を終えて帰る時、安子は駅前の小さな本屋の前を通った。窓に週刊誌の見出しが貼ってあった。「定年後の落とし穴」という文字が目に入った。安子は立ち止まらなかった。
家への道を歩きながら、安子は頭の中で計算を続けていた。何回に分けて払うとして、1回あたり7万6000円弱。毎月の収入から何を削れるか。食費をさらに切り詰める。光熱費は季節的に、すでに節約できるところまで節約している。秀夫に内緒にしたまま自分だけで対応するには、パートの時間を増やすか、別の収入源を見つけるかしかない。
病院で、夜間の清掃スタッフが不足していると言っていた主任の顔が浮かんだ。夜の仕事。安子はその言葉を頭の中で何度か繰り返した。
団地の入り口にある集合郵便受けを通りすぎる時、また足が止まった。封筒を思い出したのではない。それはもう鞄の中にある。止まったのは、なんとなくだった。ただその場所に立って、上を見上げた。団地の外壁は灰色のコンクリートで、雨で湿っていた。三階の自分の部屋の窓に、薄いカーテンがかかっているのが見えた。中に光はなかった。秀夫がまだ帰っていないか、電気をつけていないかのどちらかだった。
安子は鞄を持ち直し、階段へ向かった。手の中に封筒の感触があった。2枚の紙と、そこに書かれた22万7000円という数字の重さが、鞄を通じて腕に伝わってくるような気がした。それはただの紙だけれど、安子にとっては、砂漠の真ん中に置かれた、どこへも繋がっていない地図のようなものだった。
人が本当のことを言えない時、その沈黙には必ず形がある。笑顔かもしれない。頷きかもしれない。あるいは、台所に立ち、水を出し続けることかもしれない。森山安子にとって、その形はずっと変わらなかった。流しの前に立って音を立ててそうすることで、言葉を使わなくて済む状況を作り出す。30年以上かけて身につけた技術だった。
あの茶封筒を受け取ってから7日が経っていた。安子はその封筒を、押入れの奥の箱の中に入れていた。秀夫が使わなくなったゴルフ道具の袋の後ろ、奥まったところにあるダンボール箱の底に、他の書類に紛れ込ませるようにして入れた。見えないところに置くと、少しだけ楽になった。
しかし、目に見えなくても、22万7000円という数字は消えなかった。朝目が覚めた時、仕事中に廊下を拭いている時、秀夫の食事を皿に盛る時、その数字はいつも安子の頭のどこかにあった。水の底に沈んでいる石のように、ずっとそこにあった。
安子が病院の主任に声をかけたのは、封筒を受け取った翌週の月曜日のことだった。主任は50代の女性で、田中さんという名前だった。ショートカットで、いつも動き回っているせいか、少し赤みが勝った顔をしていた。物言いが直接的で、それを嫌がる人もいたが、安子はむしろその人の言葉が信用できると思っていた。飾らないからだ。田中主任が夜間のシフトが足りないと言っていたのは、先月の終わり頃だった。安子はそれをさりげなく覚えていた。
休憩室で田中主任と2人になった時、安子は静かに言った。
「先月おっしゃっていた、夜間の清掃のことなんですが、もしまだ人手が必要でしたら、私でよければ入っていただけますか?」
田中主任は少し驚いた顔をして、「でも、本当に大丈夫ですか。夜は遅いですよ。終わりが午前1時を過ぎますし、体がきつい人もいますから」と言った。
安子はすぐに「大丈夫です」と答えた。田中主任はしばらく安子の顔を見た。それから「分かりました。来週からお願いできますか」と言った。
そうして安子の夜間シフトが始まった。週に3回、夜の9時から翌朝の1時まで。日中のパートに加えて夜の仕事が入ると、帰宅するのが1時半を過ぎる。それから少し食べてシャワーを浴びて横になるのが3時近くになる。眠れるのが4時前後。朝は6時半に起きる。
以前から眠りは浅かった。元々夜中の3時頃に目が覚める習慣があり、そこから朝まで眠れないことも多かった。夜間シフトを入れてからは、その浅い睡眠の時間がさらに短くなった。それでも安子は続けた。
夜の病院の廊下は、昼間とは違う静けさがあった。消毒液の匂いが廊下に漂う。習慣がいつの間にか身についた。病室のドアは閉まっていても、中から時々音が聞こえた。うめき声、点滴の機械が鳴る音、誰かが低く話すような声。安子が担当するのは主に内科病棟の廊下と共有トイレの清掃だった。夜間は入院患者のほとんどが眠っていたが、眠れない人もいた。ナースステーションの前のベンチに、眠れないまま廊下に出てきた老人が座っていることがあった。
ある80代と思しき男性が、廊下の端に立っていた。パジャマ姿で、点滴のスタンドを引きながら窓の外を見ていた。外には駐車場があるだけで、夜中はほぼ真っ暗だった。安子はモップを持ったまま、その人の少し手前で止まった。邪魔をしてはいけないと思った。しかしその人の背中から、何か言いようのない孤独さが漂っていた。家族がいないのかどうかは分からない。ただ、この時間に一人で暗い窓を見ているという事実だけがあった。
安子は静かにモップを動かしながら、その人の後ろを通りすぎた。通りすぎながら、自分のことを考えていた。数年後、自分がああなっていないとは言い切れない。息子は遠くにいる。秀夫は今はまだここにいるが、このまま2人でいることがどういう意味を持つのか、安子にはよくわからなかった。置いていかれた人が、互いの存在をどう支えるのか。いや、支えるという言葉自体が、今の2人には似合わないかもしれなかった。
廊下の一番端まで来た時、安子は一度立ち止まった。胃の奥が閉まるような感覚があった。深呼吸をした。モップを持ち直して、折り返した。
その夜、帰り際に田中主任が声をかけてきた。「森山さん、少し痩せましたか」安子は「いいえ、そんなことはありません」と笑って答えた。
6月の終わり頃、息子から電話があった。夜の9時半過ぎのことだった。安子はちょうど日中のシフトを終えて、夕食の片付けをしていた。夜間のシフトに出る前に少し横になるつもりでいたところへ、スマートフォンが震えた。画面に「息子」という文字が出た。安子はすぐに画面を見つめた。1秒か2秒、そのままにした。それから指で取った。
「もしもし」と言う声は、自然に少し高くなった。息子は少し前置きの挨拶をしてから、「最近どう?」と聞いた。安子は台所の蛍光灯の下に立ちながら、「ええ、おかげ様で」と答えた。声の中に、意識しなくても柔らかさが出た。息子に対してだけ持っている声だと、自分でも分かっていた。
息子は近況を話した。仕事が忙しいこと、部署が変わって残業が増えたこと。それから、「このお盆は帰省が難しそう」ということ。妻の奈緒さんも体調があまり良くないらしく、「長距離の移動は今年は控えたい」と奈緒さんが言っているということ。安子はその度に「そうか、それは大変ね」と言った。
息子はそれから少し間を置いて、「今年のお盆の仕送りなんだけど… 」と切り出した。安子は手に持っていたタオルを少しきつく握った。
「ちょっと難しいかもしれない。今年は家の頭金も動かしたし、来年子供も生まれるし。親父たちは年金もあるし、大丈夫だと思うけど… ごめん」
安子は息子の言葉を遮るように答えた。「大丈夫よ。気にしないで。お父さんもお母さんも、本当に困っていないから。年金がちゃんと入っているし、生活は落ち着いているの。あなたは奈緒さんのこと、ちゃんとしてあげて。それが一番大切なんだから」
息子はしばらく黙っていた。それから「本当に大丈夫?」と一度だけ聞いた。
「大丈夫よ」と安子はもう一度言った。今度は少し笑いを混ぜた。息子は「分かった。ありがとう」と言って、電話を切った。画面が暗くなった。
安子は携帯を台所のカウンターの上に置いた。それからすぐには動けなかった。足がなんとなく重かった。リビングから、秀夫がテレビを見る音が聞こえた。安子はタオルを引き出しに戻して、台所の床にそっと座り込んだ。冷蔵庫の横の隙間に背中を預けるようにして、膝を抱えた。泣きたいわけではなかった。ただ、立っているより座っている方が楽だった。
胃の感覚がまたじわじわと来ていた。息子の声が耳の中に残っていた。「本当に大丈夫?」と聞いた時、少し安心したような息をしていた。安子はそれを聞き取っていた。息子が安心するのが、子供の頃から安子の仕事だった。息子が小学生の時、中学生の時、受験の時、就職の時、いつも安子は「問題ない」という方向に事実を整えてきた。今もそれと同じことをしていた。違うのは、今のこれが、自分の力だけではどうにもならない気がしているということだった。
翌日は夜間シフトがある日だった。昼間のパートを終えて家に帰り、少し横になってからまた病院に向かう。家を出るのが夜の8時半。帰りは翌朝の1時半を過ぎる。
秀夫は、その生活の変化に気づいていなかった。気づいていないというよりも、気にしなかったというのが正確かもしれない。安子が仕事から帰ってくる時間が遅くなっていることについて、秀夫は何も言わなかった。安子もあえて説明しなかった。「病院の仕事が増えました」とだけ言った。秀夫は「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。
6月の最終木曜日のことだった。その日は夜間シフトのない日で、安子は昼間の仕事を終えてから、夕方の5時に帰宅した。扉を開けると、玄関に秀夫の革靴があった。きれいに揃えてあった。秀夫は外出の習慣がある時でも、靴だけはいつも揃えた。それは彼の数少ない几帳面な部分だった。
リビングに入ると、秀夫は珍しく台所の方にいた。冷蔵庫を開けて中を見ていた。安子が声をかけると、秀夫はゆっくり振り返って「今日は自分で何か作ろうと思って」と言った。安子が少し意外に思いながら「何を作るんですか?」と聞くと、秀夫は「目玉焼きでも」と言った。それだけだった。
秀夫は冷蔵庫から卵を2つ取り出して、フライパンを棚の上から探した。フライパンはガスコンロの下の引き出しにある。秀夫はそれを知らなかった。安子が場所を教えた。秀夫はフライパンをコンロに置いて、油を入れた。サラダ油のボトルを探すのに少し時間がかかった。
安子は台所の端に立って、それを見ていた。手出しをするべきかどうかを考えながら、しなかった。秀夫がやろうとしていることを途中で奪うのは良くないと思った。
秀夫は卵を割った。1個目はうまく割れた。2個目は殻が少し混ざった。秀夫は指でそれを取り除こうとして、うまくいかなかった。フライパンの温度が上がりすぎていたので、白身の端がすぐに茶色くなった。完成したものは、白身の一部が焦げた目玉焼きだった。秀夫はそれを皿に乗せて、醤油をかけた。テーブルに持って行って、一口食べた。安子もご飯を温めて、隣に座った。2人でしばらく食べた。テレビはついていなかった。
「少し焦がした」と秀夫が言った。安子は「いいえ、美味しいですよ」と言った。秀夫はそれ以上何も言わなかった。
食事が終わって秀夫がリビングに移った後、安子は一人で皿を洗いながら、今日の秀夫が何を考えて台所に立ったのかを考えた。何かを変えようとしていたのかもしれない。それとも、ただ手持ち無沙汰だっただけかもしれない。どちらかは分からなかった。
7月に入った。梅雨が開けきらないまま、蒸し暑い日が続いた。団地の廊下に夜の風が入ってくるようになったが、それでも湿気が取れず、壁のコンクリートがほんのり暖かいような日もあった。
その日の午後3時頃、玄関のインターホンが鳴った。安子は夜間シフトに向けて少し横になっていたところで、音に気づいて起き上がった。秀夫は出かけていた。インターホンの画面を見ると、スーツを着た50代の男性が立っていた。
「はい」と安子が言うと、「失礼します。町内会長の野村と申しますが」と言った。野村という名前の人が町内会長なのは知っていた。ただし、直接話したことはほとんどなかった。2回か3回、ゴミ捨て場や廊下で顔を合わせて軽く頭を下げたことがある程度だった。
安子は顔を洗って、玄関に出た。野村会長は60代の入り口ぐらいに見えた。髪は白くなりかけていて、背筋が伸びていた。以前は区役所か何かに務めていたと聞いたことがある。退職後に団地の町内会長を引き受けたのだと、吉田さんの奥さんが言っていた。
野村会長は丁寧に挨拶してから、「来月の夏祭りの件でお伺いしました」と言った。毎年、団地の近くにある神社で夏祭りが行われる。それに合わせて、町内会で協賛金を集めるのが慣例になっていた。
「協賛金の目安額は、3万円です」と野村会長は言った。「任意ですが」と付け加えた。しかし、任意という言葉は形式に過ぎず、実際には払わないという選択が難しい空気がある。安子もそれを知っていた。
安子は少し考えて、「申し訳ありませんが、今月は少し家計が厳しくて」と切り出した。「3000円でも大丈夫でしょうか」と続けようとした時、後ろで廊下を歩く音がした。秀夫が帰ってきた。革靴を履き、スーツ姿で廊下から玄関に入ってきた秀夫は、野村会長の顔を見てすぐに笑顔を作った。
「ああ、野村さん、お久しぶりです」と手を差し出した。野村会長は握手に応じながら、「夏祭りの件で」と説明した。秀夫は「ああ、それは毎年大変なご苦労様で。うちはもちろんですよ」と言いながら、上着の内側に手を入れた。
安子は、秀夫の手が内ポケットへ向かうのを見た。胸の奥で何かが縮んだ。秀夫は茶封筒を取り出した。それは、安子が光熱費の引き落とし口座に入れるために先週引き出してきた現金が入っている封筒だった。秀夫が持ち歩いていることを、安子は知らなかった。秀夫はその中から1万円札を3枚取り出して、野村会長に差し出した。
「どうぞ、よろしくお願いします」と言いながら、頭を下げた。野村会長は「ありがとうございます」と言って丁寧に受け取った。「領収書を書きます」と言い、書類を取り出した。安子は玄関の端に立ったまま、動けなかった。
領収書を受け取って野村会長が帰った後、秀夫は靴を脱いで廊下に上がり、鞄を置いた。安子はその封筒のことを聞こうとした。声が出なかった。秀夫は台所に向かいながら、「今日は暑かったな」と言った。「お茶があるか?」と言った。
安子はお茶を出した。秀夫が椅子に座ってお茶を飲む間、安子は立ったまま封筒を見ていた。秀夫が内ポケットに戻した封筒。あの中に、今いくら残っているのか。安子は計算しようとしたが、うまくできなかった。1万円が3枚出ていった。3万円。電気代の引き落とし口座に入れようとしていた3万円だった。
秀夫はお茶を飲みながら、「野村さんはいい人だよ」と言った。「地域のことをよく考えている。ああいう人がいてくれると助かる」と言った。安子は何も言わなかった。
お茶が空になった時、秀夫はカップを台所の端に置いた。安子は手にタオルを持って、そのカップを受け取った。受け取りながら、封筒のことを言おうとした。今度こそ声が出ようとした。でも、秀夫がそのまま立ち上がって「少し横になる」と言って、リビングへ行ってしまった。
夜間シフトに向かう準備をしながら、安子は電気代の引き落とし口座の残高を確認した。残高は不足していた。来月の引き落とし日まで、何とかする必要があった。安子は小さなメモ帳に数字を書いた。夜間シフトの収入がいくら入るか。追加徴収税の第1回分はいつまでに用意するか。電気代の不足分。食費の残り。数字を並べると、どうやっても足りなかった。1万円足りない。安子は目を閉じて、メモ帳を引き出しにしまった。
玄関で靴を履く時、リビングから秀夫のいびきが聞こえた。もう寝ていた。安子は静かに扉を閉めて、外に出た。夜の団地の廊下は薄暗かった。廊下灯が一つ切れていて、その区画だけが少し暗くなっていた。
安子は階段を降りながら、財布の中を頭の中で確認した。現金が4200円。それだけだった。駅へ向かう夜の道を歩きながら、安子は空を見上げた。雲が多くて、星はほとんど見えなかった。遠くで電車の音がした。終電よりは早い時間の電車だった。どこかへ向かっていく音だった。
安子は歩き続けた。病院に向かいながら、あの夜、廊下の窓の前に立っていた老人のことをまた思い出していた。点滴のスタンドを引きながら、真っ暗な窓の外を見ていた老人。あの人が誰かを待っていたのか、何かを見ていたのか、それとも何も見ていなかったのか、安子には分からなかった。ただ、あの背中の形だけが妙に忘れられなかった。自分が数年後にそうなるかどうかは、まだ分からない。でも、今この瞬間、夜中の道を一人で歩いている自分の背中が、あの老人とどこか似ているような気がした。似ていないかもしれなかった。ただ、それが気になった。
夜間シフトの最後の仕事は、非常階段の清掃だった。踊り場の隅に埃が溜まりやすく、週に一度は丁寧に掃く必要があった。安子はほうきを持って、上から順番に降りていった。一段一段、隅に溜まった埃を掃き出しながら下へ向かった。2階の踊り場まで来た時、手を止めた。理由はなかった。ただ止まった。手の中のほうきを少し強く持ち直した。そして、また動き出した。
帰宅したのは午前1時40分だった。玄関を開けると、廊下に秀夫の革靴があった。きれいに揃えてあった。中は暗かった。安子は台所で水を飲んで手を洗った。冷蔵庫を開けると、昨日の残りが入っていた。食べようかと思ってやめた。電気を消して、布団に入った。目を閉じた。眠れなかった。
また数字が頭に並んだ。税の追加徴収。電気代の不足。封筒から消えた3万円。夜間シフトで入ってくる予定の額。数字を並べているうちに、いつの間にか外が白んでいた。安子は横になったまま天井を見た。天井のシミが一つ、前からあった。雨漏りの跡だと思っていたが、管理組合に行っても対応が遅く、そのまま放置している。秀夫の寝息が横から聞こえた。
安子はゆっくり目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。でも、目を閉じているだけで少しは楽だった。少なくとも、数字が見えなくなる。閉じた目の裏に、夜の廊下の薄い光が残っていた。
役所の窓口というのは、世の中の仕組みから少しはみ出してしまった人間が最後にたどり着く場所の一つだと、安子はそう思っていた。困っているから来る。でも、来たからと言って、必ずしも助けてもらえるわけではない。そこにいる人たちは皆、書類を持ってきて、番号札を引いて、呼ばれるまで待つ。その間、自分がなぜここにいるのかをなるべく考えないようにしている。考えてしまうと、何かが崩れてきそうだから。
安子には、その感覚が今日初めて分かった気がした。7月の最初の木曜日、午前9時20分。安子は清瀬市の市役所の前に立っていた。建物はガラス張りの入り口を持つ4階建てで、入り口の自動ドアが開くたびに冷気が漏れ出てきた。外はすでに蒸し暑かった。安子は薄いグレーのカーディガンを羽織っていた。昼間のパートは、今日だけ休みをもらった。田中主任には「所用がある」と伝えた。詳しくは言わなかった。
自動ドアをくぐった。中は広かった。床はリノリウムで、足音が少し反響した。右手に番号札の機械が並んでいた。安子はその前で立ち止まり、案内板を読んだ。税務課は2番窓口。番号札を引いた。412番だった。
待合いの椅子は黄色いプラスチック製で、壁に沿って並んでいた。すでに十数人が座っていた。年齢層は幅広かったが、60代以上が多かった。皆、静かだった。誰も話さなかった。自分の番号札を握りながら、正面の電光掲示板を見ていた。今の番号は398だった。
安子は椅子に座った。膝の上に小さなバッグを置き、両手をその上に重ねた。鞄の中に封筒が入っていた。通知書の他、今月のパートの給与明細と、秀夫の年金振り込み通知書のコピーを持ってきていた。何が必要になるか分からなかったので、思いつくものを全て入れた。
電光掲示板の数字がゆっくりと変わっていった。399、400。隣に座っていた70代と思しき女性が、時々ため息をついた。小さなため息で、本人は気づいていないようだった。手元に何枚もの書類を持ち、何度も読み返しているが、内容を理解しているのかどうか分からない様子だった。401、402。
時間が経つにつれて、安子の手のひらが少し湿ってきた。鞄を握る指に力が入っていた。窓口の方を時々見た。三つある窓口のうち、2番には若い男性の職員が座っていた。30代の前半に見えた。眼鏡をかけていて、表情は穏やかだった。今も向かい側に座った中年の男性に何かを説明していた。説明しながらパソコンの画面を見て、それからまた書類に目を落とし、また説明した。感情のない声だった。業務として説明している声だった。それが悪いということではないと、安子は思った。ただ、自分が今日そこに座ることを想像すると、胃の奥がじわりと締まってきた。
410、411。安子は一度深呼吸をした。412。2番窓口へどうぞ、という電子音声が流れた。立ち上がった時、膝が少し震えた。震えているとは思いたくなかったが、確かにそういう感覚があった。安子は鞄を持ち直して、2番窓口へ歩いた。
窓口の前のパーテーションには、薄いアクリル板が立っていた。感染症対策のために設置されたものが、数年経った今もそのままになっていた。その向こうに、眼鏡の男性職員が座っていた。名札には「村田」と書いてあった。
「お待たせしました。どのようなご要件でしょうか」と村田は言った。安子はバッグから封筒を取り出して、「こちらを受け取りまして。先日届いた、住民税と保険料の追加通知の件で、少しご相談がしたくて」と続けた。村田は封筒を受け取り、中の書類を取り出した。広げて少し読んだ。それからパソコンを操作して、何かを確認した。
「こちらは、今年度の再計算に基づく追加分のご通知です」と村田は言った。声は平坦だった。「ご主人様の公的年金の金額が変更になったことで、課税標準額が変わりまして」と説明した。
安子は「はい、それは分かっているのですが」と言った。「実は、今すぐにこの金額を用意するのが難しい状況でして。分割でお支払いすることはできるとは思うのですが、もし何か軽減の制度があれば教えていただけますか? それか、もう少し期間を伸ばしていただける方法があれば」といった。
村田はパソコンの画面を見ながら、「世帯の収入状況をお伺いしても良いでしょうか」と言った。安子は給与明細と年金通知書を取り出した。村田はそれを受け取り、数字を確認した。パソコンに何かを入力した。
「現時点では、ご主人様が就業中ということにはなっておりませんね」と村田は言った。安子は「ええ」と言った。「ハローワークへのご登録はされていますか?」と村田は聞いた。安子は「それが、まだで」と答えた。
村田は少し間を置いて、「軽減制度の適用については、失業の認定を受けていることが条件になる場合が多いんです。ご主人様が正式に求職活動を登録されていれば、収入状況によっては保険料の減免申請ができる可能性があります。ただ、現状の書類だけでは、世帯収入の合算が基準を超えてしまいまして」と続けた。
安子はしばらく黙っていた。ハローワークへ行くことを、秀夫はずっと拒んでいた。登録する気がないというより、登録という行為そのものを認めたくないのだと、安子は感じていた。ハローワークに行くということは、自分が仕事を持っていないことを、書類の上で正式に認めることだ。秀夫はそれができなかった。その事情を、安子は今ここで村田に説明することができなかった。
「あの」と安子は言った。「夫に登録を促してみます。ただ、それまでの間、支払いについては猶予のようなものはいただけますでしょうか?」
村田はパソコンを見ながら、「分割払いは通知書にも記載の通り、3回まで対応しています。猶予の申請については、別の書類が必要になりますので、本日はお持ちでしょうか?」と聞いた。安子は「いいえ」と言った。村田は「それでは、必要書類のご案内をお渡ししますので、揃えてから改めてお越しいただく形になります」と言った。
それだけだった。村田は引き出しから一枚の紙を取り出して、安子に渡した。必要書類の一覧が書いてあった。安子は受け取った。「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。村田はすでに画面に目を戻していた。安子は椅子から立ち上がって、窓口を離れた。
出口の自動ドアに向かいながら、頭の中が静かになっていた。静かというよりも、空白になっていた。ここへ来る前は、何か糸口が見つかるかもしれないと思っていた。制度のことが詳しく分かるか、あるいは職員が少し融通を聞かせてくれるか、それとも自分が知らない別の方法があるかもしれないと。でも、そういうことは何もなかった。ただ、書類が足りず、夫が登録をしていないという事実があり、次に来る時も同じ手順を踏まなければならないということが分かっただけだった。
自動ドアを出ると、外の熱気が顔に当たった。安子は建物の影で少し立ち止まった。後ろから次の人が自動ドアから出てきた。安子は少し端に寄った。空が白く霞んでいた。夏の曇り空で、太陽は見えないのに蒸し暑かった。安子はバッグから水筒を出して、少し飲んだ。麦茶だった。朝に作ってきた。水筒を戻す時、必要書類のリストがバッグの口から少し出ているのが見えた。安子はそれを奥に押し込んだ。帰り道は遠く感じた。
帰宅すると、秀夫は出かけていた。いつものようにスーツを着て、図書館か喫茶店か、どちらかへ行ったのだと思った。安子は台所で昼食の準備をした。冷蔵庫にあったキャベツと卵で、お好み焼きを作った。粉を水で溶いて、薄く焼いた。一人分だけ食べながら、窓の外を見た。団地の中庭に、子供が一人いた。小学生ぐらいの男の子で、一人でボールを蹴っていた。壁に向かって蹴って、跳ね返ってきたのをまた蹴る。それを繰り返していた。誰かを待っているのか、一人でいたいのか、安子には分からなかった。
夕方、秀夫が帰ってきた。いつもより少し早い時間だった。5時を少し過ぎた頃だった。安子は夕食の準備を始めていた。秀夫は鞄を置いて手を洗い、椅子に座った。
「今日は少し早いですね」と安子は言った。秀夫は「ああ」と短く言った。それから「今日は図書館が早めに閉まった」と言った。安子は鍋の中の味噌汁をかき混ぜながら、「そうですか」と言った。少し間があった。秀夫が「少し疲れたな」と言った。安子は振り返らなかった。鍋をかき混ぜながら、「体のどこかが疲れたのですか?」と聞いた。秀夫は「そういうことじゃない」と言った。「なんとなく、疲れた気がする」と言った。
安子はそのまま鍋をかき混ぜ続けた。秀夫が続けた。「先日、昔の同僚に偶然会った。川島だ。覚えているか? 営業部にいたやつで、俺より3つ下だ。あいつはもう、次の仕事を始めているらしい。取引先の中小企業に顧問で入ったらしくてな」
安子は「そうですか」と言った。秀夫はしばらく黙った。「俺が探しているものとは、ちょっと違うが」と秀夫は言った。「あいつが言ったような会社は、俺の経験からすると、少し規模が小さすぎる。もう少し規模のある、きちんとした会社の方がいい」
安子は味噌汁の火を落とした。秀夫の言葉を聞きながら、安子の頭の中では別のことが動いていた。今朝の市役所のことだ。村田という職員の声。412番の番号札。必要書類のリスト。そして、ハローワークへの登録が条件だという言葉。
夕食を並べながら、安子は秀夫に言った。「あのう」と切り出した。秀夫は顔を上げた。「少し、話したいことがあるのですが」安子は言った。秀夫は箸を持ちながら、「なんだ?」と言った。安子は椅子に座って、テーブルに両手を置いた。「先日、区から通知が来まして」と安子は言った。「住民税と保険料の、追加の請求なんですが」と続けた。
秀夫の表情が少し変わった。「いくらだ?」と秀夫は言った。「22万7000円です」と安子は答えた。秀夫はしばらく黙った。それから「なんでそんなことになるんだ」と言った。声のトーンが少し上がった。
「年金の計算方式が変わったみたいで」と安子は言った。「今年から、課税の基準が変わって」と続けた。秀夫は「それは、役所のミスじゃないのか?」と言った。安子は「違うと思います。制度が変わったということで」と答えた。秀夫はしばらく黙っていた。箸を一度テーブルに置いた。それから「対応策はあるのか?」と言った。
安子は言った。「ハローワークに登録すれば、保険料の減免を申請できる可能性があるそうです」と。秀夫の顔が変わった。「何を言っているんだ」と秀夫は言った。声が低くなっていた。
「私が区役所に行って確認してきたのですが」と安子は続けた。「正式に求職活動を登録することで、減免の資格が生まれるらしくて」と。秀夫は「区役所だと?」と安子は言った、途中で秀夫が言葉を遮った。「俺に、公共の職業安定所へ行けと言っているのか」と秀夫は言った。
安子は「制度を使うためだけで、恥ずかしいことでは」と言いかけた。秀夫は箸をテーブルに叩きつけた。音が台所まで響いた。大きな音ではなかった。でも、その静けさの中では十分に響いた。秀夫は立ち上がった。「俺はまだ、仕事を探している最中だ。それを役所に行って、失業者として登録するなんて、ことができるか」と言った。声が震えていた。怒りの震えだった。
安子は座ったまま、秀夫を見ていた。40年近く、安子は秀夫が怒るたびに「すみません」と言ってきた。今もそう言いそうになった。その言葉が喉の手前まで来ていた。でも、今日は違った。安子は立ち上がった。ゆっくりと立ち上がって、秀夫の目を見た。こういう機会はほとんどなかった。安子が秀夫を正面から見ることは、普段はほとんどなかった。
「あの」と安子は言った。声は低かった。震えてもいなかった。「私が役所へ行ったのも、夜の仕事を入れているのも、全部、この問題をどうにかしようとしてのことです」と言った。
秀夫は少し黙った。「夜の仕事」という言葉に引っかかった様子だった。「夜の仕事とは、何だ?」と言った。「病院の清掃の、夜間シフトです」と安子は答えた。「週に3回、夜の9時から入っています」と言った。
秀夫はしばらく何も言わなかった。知らなかったのだと、安子は思った。知ろうとしていなかったという方が正確かもしれなかった。安子はもう一度、ゆっくりと言った。「私たちには、今、お米を買う分のお金しかありません」その言葉が部屋に落ちた。
秀夫はしばらく安子を見ていた。それから顔が赤くなった。赤くなってから、耳のあたりが赤くなった。秀夫が怒る時の色だった。「言い訳をするな」と秀夫は言った。「家の金のことをちゃんと管理しているのは、お前だろう。やりくりするのが下手なんじゃないか」
安子は「そうではありません」と言った。秀夫は何か言おうとして、でも言葉を出す前に、リビングの端にあった傘立てから傘を取った。玄関へ向かいながら、「少し冷静になって考える必要がある」と言った。「靴を履きながら、竹内に連絡して相談してみる。あいつは経営の知識があるから、何か手があるかもしれない」と言った。
扉が開いた。そして、閉まった。玄関から、足音が廊下を遠ざかっていく音がした。安子はテーブルの前に立ったまま、しばらく動かなかった。秀夫の椅子の前に、箸が転がっていた。夕食がそのまま冷めていた。安子は箸を拾った。拾って、テーブルの上に置いた。それからしゃがんだ。秀夫が箸を叩きつけた時、箸置きの上の塩が少しこぼれていた。床の上に、白い粒がいくつか落ちていた。安子はそれを指先でそっと集めた。一粒ずつ、指の腹で抑えながら集めて、手のひらに乗せた。立ち上がって、台所のシンクに流した。流しながら、水道の水が手のひらを冷たく流れていった。安子はしばらく水を出し続けた。特に理由はなかった。ただ水を出していた。冷たい水が指の間を流れていく感触だけが、今この瞬間に確かに存在しているものだった。
水を止めた。タオルで手を拭いて、食卓に戻った。秀夫の分の食器を下げた。自分の皿だけ残して、一人で食べた。味噌汁はぬるくなっていた。でも、飲んだ。食べながら、窓の外を見た。もう暗かった。廊下の電灯が一つ切れたままで、その区画だけが闇に沈んでいた。
食器を洗っている間、秀夫はまだ帰ってこなかった。安子は洗い終わった皿を棚に伏せて、台所の電気を消した。リビングに戻って、ソファの端に座った。電気はつけなかった。薄暗い部屋の中で、団地の外からかの車の音が聞こえた。遠くで、子供の声がした。もうこんな時間に外にいる子供がいるのかと、安子は思った。
秀夫が帰ってきたのは、10時を過ぎてからだった。玄関の音で気づいた。安子はソファからゆっくり立ち上がり、台所に向かった。電気をつけて、お茶を出した。秀夫は黙って椅子に座り、お茶を受け取った。一口飲んだ。安子は台所の端に立っていた。しばらく2人とも、何も言わなかった。
秀夫が、お茶のカップをテーブルに置いて、「ハローワークのことは」と言い始めた。安子は振り返った。秀夫は言った。「少し考える」。少し考えるというのが、何を意味するのか安子には分からなかった。行くという意味なのか、まだ迷っているという意味なのか。でも今夜は、それ以上聞かなかった。秀夫はお茶を飲み終えて、「先に寝る」と言って立ち上がった。安子はカップを受け取った。洗いながら、また数字が頭に並んだ。今月の残りの日数。残っている現金。夜間シフトの次の給与。追加徴収の第1回分の期限まであと何週間あるか。数字を並べながら、安子はカップを丁寧に洗った。スポンジで内側を一周、外側を一周。すすいで、タオルで拭いて、棚に戻した。台所の電気を消した。廊下を歩いて、寝室へ向かった。扉を開けると、秀夫がもうすでに横になっていた。電気は消えていた。安子は暗い中でそっと布団に入った。目を閉じた。眠れなかった。
体は疲れていた。昼間の市役所で消耗し、夕方の秀夫の言葉でさらに疲れていた。でも頭だけが静かにならなかった。市役所の待合室の椅子の感触。村田という職員の平坦な声。412番という番号。秀夫の箸がテーブルを叩いた音。床に落ちた塩の粒を、指先で一粒ずつ集めていたこと。安子はその感触を、暗闇の中でもう一度だけ思い出した。指の腹で粒を抑えていた。小さな粒を逃さないように。それだけが、今夜確かに自分がやったことだと思えた。やがて秀夫の寝息が聞こえ始めた。安子はまだ目を閉じたまま、天井を向いていた。夜中の2時頃、また目が覚めた。いつものことだった。安子は布団の中でしばらくそのままでいた。隣で秀夫が寝ていた。寝息は規則正しかった。
安子はゆっくりと起き上がり、台所へ行った。水を一杯飲んだ。窓の外を見ると、団地の中庭が薄明の中に浮かんでいた。街灯が一本、オレンジ色の光を落としていた。昼間にボールを蹴っていた男の子はもういない。中庭には誰もいなかった。安子は水のコップを持ったまま、しばらく窓の外を見ていた。明日も、来週も、今月も、同じことが続く。数字は変わらず、秀夫はまだハローワークへ行くかどうか決めていない。追加徴収の期限は近づいている。それでも、今夜はもう何もできない。安子はコップをシンクに置いた。布団に戻った。目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。でも、横になっていれば、朝は来る。それだけは確かだった。
結婚指輪というのは、重さのないものだと、安子はずっと思っていた。細い金のリングで、つけている時の感触はほとんどない。慣れてしまえば、そこにあることすら意識しなくなる。38年間、安子はその指輪を外したことがなかった。夏に手が少し膨らんでも、冬に乾燥で皮膚が荒れても、ずっとそこにあった。外すという発想がなかった。
それを外したのは、7月の第2週の朝のことだった。前の夜、秀夫と小さな言い合いになった。大きな言い合いではなかった。むしろ静かな方だった。でも、その静かさの中に、安子には何か形容しがたいものがあった。秀夫は、ハローワークへの登録について、まだ決めかねていると言った。「もう少し自分で動いてみる」と言った。「竹内から紹介してもらえる会社の話があるかもしれない」と言った。安子は黙って聞いた。それが事実かどうか確かめる方法を、安子は持っていなかった。
翌朝、秀夫が出かけた後、安子は一人で台所に立っていた。朝食の片付けが終わり、次に何をするかを考えていた。今日は昼間のパートが休みで、夜間シフトは入っている。その間の時間をどう使うか。ふと、左手の薬指を見た。指輪があった。細くて、少し黄ばんでいる部分がある。金は年数と共に少し曇る。それでも、ずっとそこにあった。安子はしばらく指輪を見ていた。それから、静かに外した。するりと抜けた。38年分の習慣が、その動作にあった。外した指輪を、手のひらに置いてみた。小さかった。こんなに小さかったのかと思った。
引き出しを開けて、奥にしまってあった小さな袋を取り出した。その中には、ほとんど使わなくなったイヤリングが一組と、母から譲り受けた細いブレスレットが一本入っていた。安子は指輪をその袋に入れた。ブレスレットも一緒に持った。鞄にしまって、玄関へ向かった。
駅の近くに、小さな質屋がある。シャッターに「買い取り」と書いた緑色の看板が出ている店で、以前から存在は知っていたが、入ったことはなかった。入るという理由が、今まではなかった。店の前で少し立ち止まった。ガラスの扉越しに中が見えた。ガラスケースが並んでいて、時計や指輪が並んでいた。店員らしき年の男性が、奥でパソコンを見ていた。安子は扉を押した。ベルが鳴った。店員が顔を上げた。「いらっしゃいませ」と言った。
安子は少し頭を下げて、カウンターに近づいた。「買い取りをお願いしたいのですが」と言って、袋を取り出した。店員は袋を受け取り、中身を取り出した。指輪とブレスレットとイヤリングを一つずつ、小さなルーペで確認した。はかりに乗せた。何かを書き込んだ。
「指輪の方は、K18ですね」と店員は言った。「重量から計算して、本日の買い取り価格はこちらになります」と言って、紙を差し出した。安子は数字を見た。指輪が9800円、ブレスレットが6200円、イヤリングが1500円。合計1万7500円。思ったより少なかった。でも、文句を言う立場ではなかった。
「お願いします」と安子は言った。身分証を提示して、書類にサインして、現金を受け取った。1万7500円。封筒に入れてもらったお金を鞄にしまい、店を出た。外に出ると、夏の日差しが強かった。安子は日陰を選んで歩いた。薬指に何もなかった。その感触が、歩きながらずっとあった。軽かった。軽いのに、何かが消えたような感触だった。
スーパーに寄って帰った。今夜の夕食の材料を買った。豚肉の切り落とし、豆腐、ネギ、玉ねぎ。全部で1200円。レジで支払いをする時、財布を開けた。さっきもらった1万7500円から崩した。釣りをもらって、財布に入れた。家への道を歩きながら、安子は数字を頭の中に並べた。追加徴収の1回目が来月順。必要な金額までまだ足りない。夜間シフトの給与が月末に入る。その額と、今手元にある現金と、今日受け取った額を合わせると、なんとかギリギリになるかもしれない。なるかもしれない、という程度だった。それでも、今日は何かが少しだけ動いた気がした。どこへ向かっているのかは分からなかった。でも、立っているだけではないということが、何かしら安子に細い力を与えた。
夕方になって、スーパーへ夜間シフトの前にもう一度買い物に行こうとした時、出かける支度をしていた安子は、台所の棚の上に置いてある秀夫のスマートフォンの充電器の隣に、見慣れない封筒があることに気づいた。薄い封筒で、通販会社の名前が印刷されていた。安子はその封筒に近づいた。開封されていた。中を確認してみると、それはクレジットカードの明細書だった。安子は明細書を広げた。利用明細の一番上に、7月4日の日付で、腕時計のブランド名と思われる英語の文字列と金額が書かれていた。9万8000円だった。安子はその数字を見た。もう一度見た。9万8000円。
明細の下の方には、今月の請求合計額と現在の利用残高が書かれていた。カードの利用限度額に対して、残りの利用可能額がほぼ0になっていた。安子は明細書を元の封筒に戻した。棚の上の元の位置に置いた。台所の窓の外を見た。夕方の空が、少しオレンジ色になっていた。胃の奥がまた締まった。今度は、いつもより深いところだった。秀夫は昨日の夜遅く、安子が夜間シフトから帰る前に寝ていた。その前の日も、秀夫が夜に何をしているのかを、安子は細かく把握していなかった。把握しようとすることが、どこかで怖かった。
9万8000円の腕時計。安子はその事実を、台所の窓の前に立ったまま、頭の中に置き続けた。今朝指輪を売って受け取った1万7500円。そして今、クレジットカードで使われた9万8000円。数字が頭の中で並んで、重なって、消えなかった。安子は深呼吸をした。それから、夜間シフトの準備をした。靴下を履き、動きやすい格好に着替え、水筒に麦茶を入れた。玄関に向かいながらリビングを通った。ソファの上に、ダンボール箱の切れ端のようなものがあった。箱を開けた後のもので、高級腕時計のロゴが印刷されていた。安子はそれを見た。一瞥した。それから視線をそらして、玄関を出た。
翌朝、夜間シフトを終えて帰宅したのは、午前1時50分だった。体が重かった。夜の清掃は昼間より体力を使う。気温が上がっている夏場は、特にそうだった。廊下を一往復するたびに、足の裏から疲労が上ってくる感じがした。玄関を開けると、秀夫はリビングのソファで寝ていた。電気がついたままになっていた。テレビも、消し忘れたのか、そのまま眠ってしまったのか。テレビのリモコンが床に落ちていた。安子はテレビを消した。電気を少し絞った。ソファで眠っている秀夫の横顔を、安子は一瞬だけ見た。口が少し開いていた。眉間にうっすらとシワが寄っていた。眠っていても、どこか張り詰めたような顔だった。
安子は台所に回って、水を飲んだ。それからふと、テーブルの上を見た。テーブルの中央に、腕時計の箱が置いてあった。昨日、ソファの上に見かけたダンボールの切れ端ではなく、正式な化粧箱だった。紺色の箱で、金色の文字でブランド名が書かれていた。蓋が半開きになっていて、中から時計のクッションと本体が見えた。シルバーのケースに白い文字盤。安子はテーブルの前に立って、その箱を見た。手は出さなかった。台所の流しに戻り、コップを洗った。シャワーを浴びた。着替えをして、寝室に向かった。横になったが、眠れなかった。目を閉じていても、頭の中に9万8000円という数字があった。それと、1万7500円という数字。それと、追加徴収の残額。それと、来月の電気代の残り。数字が並んで、暗い天井に浮かぶようだった。
朝5時頃に少しうつらうつらして、6時半に目が覚めた。リビングに出ると、秀夫はまだソファにいなかった。寝室に移って寝ているようだった。テーブルの上に、腕時計の箱がまだあった。安子はしばらくその箱を見ていた。それから鞄を持って、玄関に向かった。
仕事の前に郵便受けを確認する習慣があった。1階に降りて、郵便受けを開けた。中にチラシが2枚と、白い封筒が一通入っていた。白い封筒は、クレジットカード会社からのものだった。差出人の名称ではなかった。安子は封筒を持って、部屋に戻った。台所に立って、封を開けた。中に入っていたのは、利用限度額超過のお知らせだった。今月の利用額が限度額を超えたため、一時的にカードの利用が停止されているという内容だった。超過分については、速やかにお支払いいただくよう、という文言が続いていた。
安子は紙を折り、封筒に戻した。封筒をテーブルの上に置いた。腕時計の箱の隣に。2つが並んだ。安子は椅子に座った。座って、しばらく何もしなかった。台所の窓から朝の光が入ってきていた。団地の中庭を横切って、光が床の上に細長く伸びていた。その光の中で、安子はただ座っていた。怒りという感情が来るかと思ったが、来なかった。悲しみも来なかった。泣きたいという気持ちも、特になかった。ただ疲れていた。夜間シフトで体が疲れていたということだけでなく、それよりもっと長い時間をかけて積み重なってきた何かが、今朝のこの瞬間に、一つの形になったという感覚があった。
寝室のドアが開く音がした。秀夫が廊下を歩いてくる音がした。台所に入ってきた秀夫は、安子が椅子に座っているのを見て、少し足を止めた。「どうした?」と秀夫は言った。安子は秀夫を見た。それから、テーブルの上の2つのものを見た。秀夫もそれを見た。腕時計の箱と、クレジットカード会社からの封筒。少し間があった。秀夫は椅子を引いて座った。腕時計の箱を手に取った。蓋を閉めた。
「これは」と秀夫は言いかけた。安子は言った。「カードが、止まっています」。秀夫は黙った。安子は続けた。「超過分のお支払いが必要です」と言った。秀夫はしばらく机の上を見ていた。
「あれは」と秀夫は言った。「安くはないが、ちゃんとしたものを一つ持っていれば、仕事の場でも信頼感が出る。顧問として人と会う時、身につけるものは重要だ」と言った。安子は秀夫の顔を見た。秀夫は続けた。「竹内から紹介の話が来た時、きちんとした印象を与えられなければ意味がない」と言った。
安子はそれを聞いていた。全部聞いてから、静かに言った。「竹内さんからの話は、まだ来ていないんですよね」と言った。秀夫は黙った。安子は続けた。「昨日、私は指輪を売りました」と言った。秀夫が顔を上げた。「結婚指輪です」と安子は言った。「質屋で、1万7500円でした」と言った。
部屋が静かになった。秀夫は安子の左手を見た。薬指に、何もなかった。秀夫は何か言おうとして、でも言葉が出てこなかった。口が少し開いたまま、閉じた。また開いた。
安子は立ち上がった。鞄を持った。「仕事に行ってきます」と言って、玄関に向かった。靴を履きながら、秀夫が台所の椅子からこちらを見ているのが、背中で感じられた。扉を開けた。外は朝の光がすでに強かった。廊下の手すりに露がついていて、光を反射していた。安子は扉を閉めた。廊下を歩きながら、足元の光を見た。階段を降りた。
その日の昼間のパートを終えて帰る途中、安子はスーパーに寄った。夕食の材料を買うためだった。今日は夜間シフトがない日だったので、ゆっくり作れる。野菜コーナーを回り、特売のキャベツを手に取った。それから魚のコーナーへ向かった。冷蔵ケースの前に立った時、声が聞こえた。知っている声だった。安子は顔を上げなかった。二階の吉田さんの奥さんの声だった。もう一人、安子が顔は知っているが名前をはっきり覚えていない女性の声も聞こえた。2人は鮮魚コーナーの少し先の、惣菜の方のコーナーにいた。安子は冷蔵ケースに視線を戻した。今日の魚の切り身はどれにしようかと考えながら、ケースの中を見ていた。2人の声が近づいてきた。安子は体を少しケースの方に向けて、なるべく気配を小さくした。気づかれなければそれでいい。通りすぎてくれれば。
でも、そうはならなかった。「あら、森山さん」と、吉田さんの奥さんが言った。安子は振り返った。「こんにちは」と言って、頭を下げた。吉田さんの奥さんは、もう一人の女性と一緒に、少し立ち止まっていた。どちらも大きな買い物袋を持っていた。中に、国産牛のパックといくつかの野菜が入っていた。「お買い物ですか」と吉田さんの奥さんは言った。「ええ」と安子は言った。それから、少しの間があって、吉田さんの奥さんが目線を動かした。安子の持っている鞄を見た。キャベツと、これから選ぼうとしていた魚のコーナー。その目線の動きを、安子は感じ取った。そしてその隣でもう一人の女性が、「あのケースの前の、値引きシール」と、こっそり声を潜めた。安子には聞こえていた。
安子は一瞬、視線を動かした。冷蔵ケースの端の方に、黄色い半額シールの貼られたパックが並んでいた。イワシの開き、魚のアラ。プレートに「本日限り」と書いてあった。安子はそのシールをさっき見ていた。正確には、見ながら迷っていた。魚の切り身は少し高い。でも、魚のアラなら半額になっている。味は大差ない。アラの方で十分だと思いながら、手を伸ばしかけたところで、吉田さんの奥さんの声が聞こえたのだった。
吉田さんの奥さんは何も言わなかった。でも、安子はその沈黙の意味を知っていた。吉田さんの奥さんとその隣の女性が、2人とも、今この瞬間に同じものを見ていた。値引きシールのコーナーに伸びかけた、安子の手と、鞄の中のキャベツと。安子は手を引っ込めた。それから、冷蔵ケースから少し離れて、「ちょっと他のものも見てきます」と言った。「ではまた」と頭を下げた。吉田さんの奥さんは「はーい、またね」と言って、通りすぎた。2人の足音が遠ざかった。
安子はその場で、しばらく動かなかった。冷蔵ケースのガラス越しに、値引きシールの貼られた魚のアラが見えていた。胃の奥が締まっていた。今日のこの感覚は、以前に感じたものとは少し違った。恥ずかしさというよりも、もっと乾いた何かだった。安子はもう一度、ケースの前に立った。魚のアラのパックを手に取った。鞄に入れた。そのまま野菜コーナーへ戻り、ネギを一本追加した。レジへ向かった。レジに並びながら、安子は前を向いていた。もう、周りを確認しなかった。
帰り道、安子は駅前の道を歩いた。いつもより少しゆっくり歩いた。足がなんとなく重かった。体ではなく、足の裏の方が重かった。家に帰ると、秀夫がいた。リビングのソファに座って、テレビを見ていた。テレビの音は小さかった。安子は台所に入って、買い物袋を置いた。秀夫は何も言わなかった。安子も何も言わなかった。
魚のアラを水で洗いながら、今日のスーパーでのことを思い返していた。吉田さんの奥さんの目線。もう一人の女性がこっそり言った言葉。思い返しながら、安子は手を動かした。アラを湯通しした。ネギを切った。出汁を取った。料理をすることは、頭の中を静かにする効果があった。手を動かしていると、考えることが少し遠くなる。それだけのことだったが、今はありがたかった。
夕食の準備ができた頃、秀夫が台所に入ってきた。テーブルの前に立って、「今日は魚か」と言った。安子は「アラですが」と言った。秀夫は「そうか」と言って、椅子に座った。2人で食べた。会話はなかった。
食事が終わって、秀夫が一度だけ言った。「今日、ハローワークのサイトを少し見た」と言った。安子は洗い物をしながら、「そうですか」とだけ言った。秀夫は「登録の手順を確認した」と言った。安子は手を止めなかった。「来週、行ってみようと思う」と秀夫は言った。安子はしばらく返事をしなかった。スポンジで皿を洗い続けた。それから、ゆっくりと「そうですか」と言った。
今日のことがどこかへ繋がるのかどうか、安子にはまだ分からなかった。ハローワークに行くといったことが、本当に来週実行されるのかどうかも分からなかった。でも今夜は、その言葉だけがあった。洗い物を終えて、タオルで手を拭いた。薬指に何もなかった。その感触がまた来た。軽いのに、重い感覚。安子は台所の電気を消した。廊下を歩いて、寝室に向かった。布団に入って、目を閉じた。今日のことが順番に浮かんだ。質屋のカウンター。冷蔵ケースの前。吉田さんの奥さんの目線。値引きシールのコーナーに伸ばした手。それから、クレジットカードの封筒と腕時計の箱が並んだテーブル。それから、「来週行く」と言った秀夫の声。どれが本当で、どれがこれから変わるのか、安子には判断できなかった。ただ、今夜も同じ屋根の下にいた。それだけが確かなことだった。
外でまた、電車の音がした。遠くを走りすぎる音だった。安子はその音が消えるまで聞いていた。消えてから、目を閉じたまま、もう少し横になっていた。
人は、限界に来た時、大きな声を上げるとは限らない。むしろ、静かになる場合の方が多いかもしれない。怒ることも、泣き崩れることもなく、ただ、ある瞬間に、自分がずっとそこにいた場所から、静かに足を踏み出す。踏み出した先に何があるかは分からない。でも、そこにいることが、もうできなくなっている。
森山安子にとって、その瞬間は7月の終わりの、蒸し暑い昼下がりに来た。あの朝から3日が経っていた。秀夫が「来週、ハローワークへ行く」と言った夜から、3日が経っていた。その間、秀夫はその話を一度も自分から出すことはなかった。朝に起きて、スーツを着て、出かけて、夜に帰ってくる。その繰り返しだった。安子も何も言わなかった。言わなかったのは我慢していたからではなかった。ただ、言うだけの力が、今の安子にはなかった。
3日間、夜間シフトが続いていた。昼間のパートを終えて帰り、少し横になって、また夜の病院へ向かう。帰宅が深夜の2時近く。眠れるのが3時過ぎ、起きるのが6時半。その繰り返しで、体の底の方から何かが抜けていく感じがしていた。
7月の最終木曜日の朝のことだった。夜間シフトから帰ってきた安子が玄関の扉を開けると、廊下に光が差し込んでいた。秀夫がもう起きていた。台所から物音がした。台所に入ると、秀夫がコーヒーを入れていた。「安子の分も」と秀夫は言った。安子は靴を脱いで上がりながら、「ありがとうございます」と言った。2人で台所のテーブルに座って、コーヒーを飲んだ。窓から朝の光が入ってきていた。
「今日、行ってくる」と秀夫は言った。安子はコーヒーカップを持ったまま、秀夫を見た。「ハローワーク」と秀夫は言った。「朝一番に行く」と言った。安子は何も言わなかった。秀夫は続けた。「登録だけだ」と言った。「仕事を探すというより、書類上の手続きとして。それで保険料の申請ができるなら、やっておいた方がいい」と言った。
安子はコーヒーを一口飲んだ。「そうですね」と言った。秀夫は窓の外を見ていた。中庭に朝の光が当たっていた。しばらく2人とも黙っていた。コーヒーの湯気が朝の光の中に、細く上がっていた。
「指輪のことだが」と秀夫が言った。安子は少し待った。秀夫は続けた。「時計を返品するつもりだ。まだ箱がある。レシートも、購入から2週間以内なら返品できると書いてあった。返品して、カードの超過分に当てる」と言った。安子はその言葉を聞いた。本当にそうなるかどうか、今の時点では分からなかった。でも、その言葉が今朝ここで出たということは、秀夫が昨日、家を出る前かどこかで、一人でその箱と向き合っていた時間があったということだった。
安子は「分かりました」と言った。それだけ言った。
コーヒーを飲み終えて、安子は少し横になった。3時間ほど眠った。起きると、秀夫はもう出かけていた。テーブルの上に、腕時計の箱がなかった。安子はそれを確認して、台所で昼食の準備を始めた。冷蔵庫を開けて、残っているものを確認した。豆腐が半丁と卵が3個。昨日買ったネギがまだある。冷凍庫にご飯が1パック。卵とネギと豆腐で味噌汁を作って、冷凍ご飯を温めた。一人で食べた。
食べながら、この1ヶ月のことを順番に思い返した。封筒を受け取った日。夜間シフトを申し出た日。息子の電話。市役所の番号。秀夫が3万円を差し出した瞬間。スーパーでの、吉田さんの奥さんの目線。指輪を外した朝。一つ一つが、遠い出来事のように感じられた。でも、全部、この1ヶ月の中にあった。
秀夫が帰ってきたのは、昼の2時を少し過ぎた頃だった。鞄を持って、玄関に入ってきた。革靴ではなく、少し古いウォーキングシューズを履いていた。スーツではなく、薄い色のシャツとズボンだった。安子は台所から声をかけた。
「行ってきた」と秀夫は言った。「どうでしたか?」と安子は聞いた。秀夫は台所に入ってきて、椅子に座った。「混んでいた」と言った。「年寄りばかりだった」と言った。それから、「手続きは終わった」と言った。安子はお茶を出した。秀夫はお茶を受け取り、一口飲んで、「時計の返品も済ませた」と言った。「駅前の郵便局から送った。着いたら、返金の手続きに入るらしい」と言った。安子は「そうですか」と言った。
秀夫はお茶を持ったまま、窓の外を見た。「思ったより時間がかかった」と秀夫は言った。ハローワークの話だった。「番号を引いて待って。また別の窓口に行って、また待って。半日仕事だった」と言った。安子は「そうですか。お疲れ様でした」と言った。秀夫はそれ以上は言わなかった。2人でしばらく黙って、お茶を飲んだ。外で、セミの声がした。まだ梅雨が開けきらない日が多かったのに、その日だけ、セミが鳴いていた。1匹か2匹。どこかの木で鳴いていた。
その日の夕方から、安子は体の異変を感じ始めた。胃の奥が閉まる感覚は以前からあったが、今日のそれは少し違った。閉まるというより、重くなる感じだった。夕食の準備をしながら、包丁を持つ手が少し重かった。食欲もなかった。
夜間シフトがある日だった。病院へ向かう途中、駅のホームで電車を待ちながら、安子は手すりに軽く手をかけた。車内のアナウンスが流れた。次の電車の時刻を告げる。感情のない声だった。電車が来た。乗り込んだ。席が一つ空いていたが、座らなかった。扉の横に立って、窓の外を見た。夜の町が流れていった。
病院に着いてから、安子は田中主任に「少し体が重い気がする」と伝えた。田中主任は安子の顔を見て、「熱はないですか?」と言いながら、額に手を当てた。熱はないようだった。「無理しないでください」と田中主任は言った。「今夜は、廊下の簡単なところだけにしておきましょう」と言った。安子は「ありがとうございます」と頭を下げた。
その夜の清掃は、いつもより短い範囲だった。廊下の一部と、共有トイレだけ。それでも、終わった時には、体がいつもより重かった。帰り際、田中主任がまた声をかけてきた。「明日は、休んでもいいですよ」と言った。安子は「いいえ、大丈夫です」と言った。田中主任はしばらく安子の顔を見てから、「でも、無理だと思ったら、言ってください」と言った。安子はもう一度、頭を下げた。
夜の帰り道は、いつもより時間がかかった。駅から団地まで、いつもは10分ほどの道が、今夜は少し長く感じた。足が重いというより、前に進む理由を体が探しているような感覚だった。家に着いたのは、午前2時を少し回った頃だった。玄関を開けると、廊下が暗かった。秀夫はもう寝ていた。台所に入って、水を飲んだ。冷蔵庫の横に、今日のハローワークの書類が置いてあった。秀夫が帰ってきた時に、鞄から出しておいたのだろう。安子はその書類を手に取った。求職者登録証というものだった。秀夫の名前が印字されていた。小さな紙だった。安子はそれを元の場所に戻した。
布団に入った。体が重かった。でも、頭は今夜はいつもより静かだった。数字が浮かんでこなかった。封筒のことも、カードのことも、追加徴収のことも、今夜はそれほど大きく浮かんでこなかった。ただ、疲れていた。眠れるかどうか分からないまま目を閉じると、思ったより早く意識が遠くなった。
翌朝、秀夫が早く起きていた。安子が目を覚ますと、台所から音がしていた。出ていくと、秀夫がご飯を炊いていた。安子は少し驚いた。秀夫は「顔色が悪い。横になっていろ」と言った。安子は「いいえ。大丈夫です」と言いかけた。秀夫は振り返らずに、「炊き上がったら声をかける」と言った。
安子はしばらくその背中を見ていた。それから「分かりました」と言って、廊下に戻った。ソファに座って、窓の外を見た。朝の光が団地の中庭を照らしていた。雀が一羽、中庭の端の低い生け垣の上に止まっていた。少しだけそこにいて、飛んでいった。台所から、ご飯が炊き上がったことを知らせる電子音が鳴った。続いて、秀夫が「できたぞ」と言った。
安子は立ち上がって、台所に向かった。テーブルの上に、ご飯と味噌汁と、昨日の残りの煮物が並んでいた。秀夫が作ったとは言っても、ご飯を炊いて、冷蔵庫に残っていた味噌汁を温め直しただけだった。煮物も、昨日安子が作ったものを、皿に出しただけだった。でも、並んでいた。
安子は椅子に座った。「いただきます」と言った。秀夫も向かいに座った。2人で食べた。最初はまた、黙って食べていた。セミの声が、今日もどこかから聞こえた。昨日より少し多い気がした。
秀夫が「追加徴収の分は」と言い出した。安子は箸を止めた。秀夫は続けた。「時計の返金が、来週中に入るはずだ。それで足りない分は、俺の定期を崩す」と言った。「少し残っているはずだ」と言った。安子は「そうですか」と言った。
秀夫は「お前に、全部任せきりだったな」と言った。安子は秀夫の方を見た。秀夫は味噌汁の碗を持ったまま、窓の方を見ていた。安子の方を、見ていなかった。38年間、秀夫がそういうことを言ったことは、ほとんどなかった。安子はしばらく何も言わなかった。それから、「食べましょう」と言った。秀夫は「ああ」と言った。2人でまた食べた。味噌汁が少しぬるくなっていたが、安子は飲んだ。
食器を洗いながら、安子は今朝の秀夫の言葉を頭の中に置いていた。「お前に、全部任せきりだったな」という言葉。それが謝罪なのか、独り言なのか、あるいは別の何かなのか、安子には分からなかった。でも、言葉というのは、出てきた瞬間に、その人の中で何かが動いたということだ。どんな形であっても。洗い終えた皿を棚に戻しながら、安子はそう思った。
その日の午後、安子は一人で押入れを整理した。特に理由があったわけではなかった。体が少し楽になっていて、何かしようという気持ちが久しぶりに出てきた。それだけだった。押入れの奥のダンボール箱を引き出した。秀夫の古いゴルフ道具の袋の後ろにある箱だった。安子があの茶封筒を隠した箱だった。箱を開けると、書類の束の中に茶封筒があった。取り出して、中を確認した。追加徴収の通知書。数字がそこにあった。
安子はその紙をもう一度、丁寧に読んだ。以前に読んだ時とは、少し違う目で読んでいた。以前は、この数字が全部自分にのしかかってくるものとして読んでいた。でも今日は、少し違った。まだ解決したわけではない。でも、秀夫のハローワークの登録証が台所の棚にある。時計の返金の話がある。定期を崩すという言葉がある。まだ何も終わっていないが、1ヶ月前とは、少し違う場所に立っている。
安子は通知書を折り直して、茶封筒に戻した。今度は押入れの奥ではなく、台所の引き出しに入れた。見えるところに置いた。
夕方になって、秀夫が外から帰ってきた。どこへ行っていたのか、聞かなかった。聞く気もなかった。でも、帰ってきた時、手に紙袋を持っていた。コンビニの袋だった。中に、プリンが2個入っていた。「安子の分も買ってきた」と秀夫は言った。「体の具合が悪そうだったから」と言った。
安子はしばらくその袋を見た。「ありがとうございます」と言った。夕食の後、2人でプリンを食べた。テレビをつけずに食べた。プリンは普通のものだった。コンビニで売っているごく普通のプリンで、特別に美味しいわけでも、高いわけでもなかった。でも、安子は一口食べて、少しだけ目が暑くなった。泣いたわけではなかった。ただ、少し暑くなった。それだけだった。秀夫はそれに気づかなかったか、気づいても何も言わなかった。自分のプリンを黙って食べていた。
窓の外で、夜の風が団地の廊下を通り抜けていく音がした。カーテンが少し揺れた。安子はカーテンを見た。揺れて、止まった。プリンを最後まで食べた。スプーンを皿に置いた。それからしばらく、テーブルの上を見ていた。
秀夫が「来月からは、もう少しきちんとしよう」と言った。食費のことか、家計のことか、それとも別の何かのことか、はっきりとは分からなかった。安子も「そうですね」と言った。どちらも、それ以上は言わなかった。
皿を台所に運んで、洗った。秀夫が台所に来て、「拭こうか」と言った。安子は少し驚いたが、「お願いします」と言った。タオルを渡した。秀夫はぎこちなくタオルを受け取り、洗い終わった皿を拭き始めた。拭き方が、少し雑だった。でも、安子は何も言わなかった。
2人で台所に立って、洗い物をした。それが何かを解決したわけではなかった。追加徴収の金額は変わっていない。クレジットカードの超過分も、まだ口座に戻っていない。昨日のハローワークの登録が、実際に何かに繋がるかどうかも、まだ分からない。来月も、来週も、同じように数字を数えながら生きていく日が続くことは、変わらなかった。でも、今夜だけは、2人で台所に立っていた。それだけが、今夜の確かなことだった。
洗い物が終わって、2人でリビングに戻った。テレビをつけた。音量は小さくした。画面の中で誰かが話していた。内容は、耳に入らなかった。秀夫がソファに座って、少しうとうとし始めた。安子は窓の近くの椅子に座って、外を見た。団地の夜の中庭に、街灯が一本、オレンジ色の光を落としていた。その光の中に、虫が集まって飛んでいた。小さな虫が、光の周りをぐるぐると飛んでいた。安子はしばらく、その光を見ていた。遠くで、電車の音がした。最終電車に近い時間の電車だと思った。乗っている人たちは、今日もそれぞれの重さを持って、どこかへ向かっているのだろうと思った。音が遠ざかった。静かになった。
安子は椅子の背に体を預けた。これからどうなるかは、まだ分からない。来月も、再来月も、解決していないことは残っている。でも、今夜は、2人で味噌汁を飲んで、プリンを食べて、皿を洗った。その事実だけが、暗い中庭の街灯のように、今夜の安子の手元を照らしていた。
ソファで、秀夫の寝息が聞こえ始めた。安子は立ち上がって、毛布を一枚持ってきて、秀夫の肩にかけた。それから電気を少し暗くして、自分も椅子に戻った。窓の外の街灯の光が、変わらずそこにあった。虫がまだ飛んでいた。安子は目を閉じなかった。ただそこに座って、夜の中庭を見ていた。何かが終わったわけではない。何かが始まったとも言い切れない。ただ、今夜だけは、ここにいることが、それほど苦しくなかった。それだけで、今夜は十分だった。



