就任式の直後、会議室の空気が凍りついた。全社員が見守る壇上で、新代表の川端がマイクを握ったまま、一人の少女を指さした。
「顔だけ採用の底辺は首だ。鍛原のじいさんの気まぐれで入れた小娘は不要だ。高卒の子が何を作ったって、所詮お遊びプログラムで満足してんじゃないか。さっさと荷物まとめて強に出ていけ」
柴田凪は十八歳。青南テクノロジー開発部の技術者だった。抜けるような白い肌に、整った目鼻立ち。ブラウスに黒いスラックス姿の少女は、静かに川端を見上げた。その外見はどこから見ても技術者には見えなかった。それがすべての誤解の始まりだった。
「わかりました。すぐに退出します」
凪は短く静かにそう答えた。幹部社員が川端に合わせて薄く笑った。
「本当ですね。仕事の内容も正直怪しかったでしたよ、あの子は」
会議室の後方で若手社員たちは俯いていた。誰一人として声をあげるものはいなかった。開発部の西沢だけが唇を噛みしめて、凪の背中を見送った。
しかしこの時、誰も知らなかった。翌朝、この会社に何が起こるのかを。川端の名前が業界全体に広まることになるのを。
青南テクノロジーが業界で一躍名をあげたのは三年前のことだった。当時七十歳の創業社長、鍛原博道の元に一通のメールが届いた。差出人は十五歳の少女だった。添付された動画には、AIが人の混雑をリアルタイムで制御するシステムが映っていた。
「これは本物だ。明日うちへ来てくれないか」
翌日、受付に現れたのは中学の制服を着た女の子だった。鍛原会長は一目でこの少女が普通ではないと直感した。
「AIは人の役に立てると思いました。行列をなくせると」
静かな声で凪はそう言った。鍛原会長はしばらし無言で凪を見つめ、深く頷いた。それが柴田凪との出会いだった。
凪が開発したシステムには「フローコア」という名前がついていた。人の流れをリアルタイムで予測し分散させる自立型AI制御システムだ。駅、病院、スーパー、空港、役所、大型イベントの入退場管理まで対応できた。
「万博でも使われたんですよ、凪さんのシステムは」
後に開発部員の西沢はそう語ることになる。人が集まるあらゆる場所の待ち時間をゼロに変えてきた技術だった。百以上の主要駅、十二の大学病院、三つの国際空港、大手コンビにも採用されていた。
「十万人が来た万博の会場で、行列が一本も起らなかったんです」
西沢は興奮気味にそう言い添えた。フローコアを採用する企業・施設の年間総売上は四兆円を超えていた。そのシステムを十五歳から独力で作り上げたのが凪だった。凪が使っていたのは、自分で買った古いノートパソコン一台だけだった。
「会社支給の端末も使えたが、凪はいつも自分のパソコンで書いていた。商売気がない分、純粋な行動がかけるというのが会長の口癖でした」
鍛原会長は凪に開発費として毎月十万円を個人的に支払っていた。投資だと会長は言い、凪は毎月それを機材の購入に使い続けた。
「行列って仕組みで解決できるんですよ。データがあれば」
凪は以前そんなことを西沢に話したことがあった。初めてデモを見せた日、鍛原会長は三十分間画面から目を離さなかった。
「会長が泣いていたんですよ。本物の涙というやつでしたよ」
牧の専務は後にそう振り返っている。
凪の両親は幼い頃に離婚し、それぞれ新しい家庭を築いていた。誰にも頼れない環境の中で、凪はプログラムだけを友達にして育った。鍛原会長はそんな凪を我が子のように大切にした。
「二人でよくランチをしましたよ。技術の話ばっかりして」
西沢は目を赤くしながら後にそう語っている。鍛原会長は凪のために最新の開発環境を整え、特許申請を全力で支援した。フローコアの特許は凪個人と青南テクノロジーの共同登録だった。もし凪が会社を去れば特許の半分は彼女のものになる。その事実を川端は知らなかった。
「鍛原会長が言ってくれたんです。世の中を変える技術だって」
凪が西沢にそう話したのは、鍛原会長が倒れる一ヶ月前のことだった。鍛原会長は七十二歳で心筋梗塞により突然この世を去った。
知らが凪に届いたのは夜の十時を過ぎた頃だった。凪が受け取ったのは牧の専務からの短いメッセージだった。
「鍛原会長が倒れられました。今夜病院で」
凪はメッセージを読んで画面を閉じた。それ以上何もできなかった。翌日、凪は会社を休んだ。誰にも何も言わず、ただ一人で画面に向向かってコードを書き続けたという。
「凪さんが泣いているのを見たのはあの時だけです」
凪は一行一行に、会長に見せるつもりで書してきたコードを思い出した。もう見てもらえない。その事実が胸に重くのしかかった。それでもコードを書くことだけが、凪が会長に返せる唯一の答えだった。
悲しみが少し和らいだ頃、凪はフローコアの改良版開発を黙々と再開した。
「凪のことを頼む。あの子がこの会社の未来だ」
鍛原会長が救急搬送される三日前、牧の専務にそう言い残したと伝えられている。しかし三ヶ月後に就任した川端吉孝には、その言葉は届いていなかった。
川端は営業畑を二十年歩んだ男で、IT技術への理解はほぼゼロだった。取締役の多数で就任が決まった当日、川端はこうぶち上げた。
「これからの青南は、外見のいい社員でブランドを作る。見た目が実力だ」
その言葉を聞いた時、牧の専務は強い不安を覚えたという。
就任式の日、川端は社員名簿を開き、凪の顔写真を眺めて呟いた。
「これ容姿だろ。会長の趣味で入れたんじゃないか」
誰も訂正しなかった。訂正すれば自分が飛ばされると全員が直感していた。
会社を出た凪は、渋谷の交差点でしばらく空を見上げた。人並が流れ、信号が変わり、また人が動く。フローコアが動いている。いつもの風景だった。凪はスマートフォンを取り出し、一件の連絡先を開いた。鍛原会長が「いざという時に頼れ」と教えてくれた番号だった。
「富山社長、今日解雇されました。ご相談があります」
電話はすぐに繋がった。
凪が会社を去った翌朝、青南テクノロジーの電話が鳴りやまなかった。最初に着信があったのは午前八時十分のことだった。
「フローコアの挙動がおかしいという連絡が入っています。大阪の病院から」
受話器を持った西沢の声がわずかに震えていた。続いて九時には新宿駅を管理するJR系列会社から連絡が入った。改札エリアの人流制御が停止し、朝のラッシュ時にホームへ上り客が集中した。さらに十時を過ぎると全国の大手スーパーチェーンから報告が相次いだ。出待ち制御が機能せず、各店舗で百メートルを超える行列が発生していた。
フローコアは各施設の入退場管理だけでなく電子カルテとも連携していた。大阪の大学病院三施設では外来管理と電子カルテの連携が失われた。医師が手書きで処方を書き始め、患者への対応が大幅に遅れた。病院の廊下には患者が溢れ、看護師が一人一人の名前を呼び始めた。
「社長、状況はサーバーの問題では収まっていません」
西沢は震える声で川端に報告した。
「これ全部、たった一人の女の子のシステムが原因なのか」
川端の声に初めて動揺の色が滲んだ。
「はい。凪さんのシステムは全施設の基盤インフラです」
牧の言葉に、川端はようやくことの深刻さを理解し始めた顔をした。しかし理解しても、対処できる術が何一つないことは同じだった。
「西沢さん、凪さんの連絡先を知っているか?」
牧の専務は困った顔で西沢に小声でそう聞いた。
「持っています。でも昨日のことがあって、今すぐは……」
一方、川端は対策会議の冒頭で涼しい顔をしてこう言った。
「サーバーの問題だろう。IT部門に対処させろ。一日で治るよ」
「社長、フローコアは凪さんが独自開発したシステムです。ソースコードの構造を理解しているのは凪さん一人だけです」
「なんだそれ?そんな危険な体制で今まで動いてたのか?」
牧野は川端を見据えて静かに続けた。
「我々が凪さんのシステムに全面依存していたからです」
「じゃあ優秀なエンジニアを新たに雇えばいいだろう。明日から採用しろ」
「社長、フローコアの完全な理解には最低でも一年かかります」
「じゃあ一年で育てろ。それが人事の仕事だろう」
牧野は言葉を失った。一年後この会社が存在しているかどうか。それが牧野の頭を支配していた。
その日の夕方、各地の混乱がニュースに流れ始めた。関西の主要病院で外来待ち時間が八時間を超え、スタッフが混乱した。新宿駅ホームに五千人が滞留し、運転見合わせも発生した。全国三十八のスーパー店舗でレジ列が百メートルを超え、怒りの声が上がった。ある大型スーパーでは長時間待たされた客が店員に詰め寄る事態も起きた。テレビの速報は「全国で同時多発的なシステム障害」と伝えた。川端の下した一つの解雇が、日本全国の日常をこれほど揺るがすとは誰も想像していなかったことだった。
「凪さん、こういう状況になっています。助けて欲しいんです」
西沢はその夜、凪にメッセージを送った。しかし凪からの返信はなかった。
二日目の朝、各地の病院の患者家族からSNS上の投稿が相次いだ。病院のシステムが止まって処置が遅れたという書き込みが次々と拡散した。マスコミ各社がこのシステム障害の原因究明に動き始めた。三日目には複数のテレビ局が「ITインフラの脆弱性」として特集を組んだ。取材が進むうちに、障害の発端が青南テクノロジーにあることが明らかになった。川端の名前が業界に初めて登場したのもこの日のことだった。記事には「原因はシステム担当者の急な退職と判明」とあった。読んだ社員たちはその一文を見て顔を見合わせた。
「社長、取材の問い合わせが来ています。どう対応しますか?」
川端は「全部断れ」と一言だけ言い、席を立った。
翌日の朝礼で川端はまだ余裕の表情を崩さなかった。
「昨日はトラブったが、強に優秀なエンジニアを三人採用する。問題ない」
その言葉に開発部員たちは黙って目を伏せた。フローコアのコードを読める人材が業界に何人いるか。それを知っているのは開発部員だけだった。
「凪さんの代わりなんていないんです。本当に」
西沢は机の下で拳を握りしめていた。
その午後、フローコアの設計書を手にした牧の専務の顔色が変わった。数百ページに及ぶ設計書は、ほぼ凪独自の記法で書かれていた。コメントも補足もない、純粋なロジックの塊だった。
「これは市販の技術書には載っていないレベルの実装だ」
牧の専務はページをめくるたびに眩暈のような感覚を覚えた。設計書の最後のページには、凪の手書きのメモが貼られていた。
「このシステムは鍛原会長に見てもらう前提で設計しました」
牧野はそのメモを見つめ、しばらく動けなかった。
業界内で凪の名を知る者は多かった。大東デジタルの富山社長が鍛原会長にかつて言い切ったと伝えられている。
「あの子を手放したら後悔するぞ。業界で一番の頭だ」
鍛原会長は苦笑しながらも「それは無理だ」と返したという。しかし川端はその話を一切知らなかった。川端が「あの子はフロロントで使える顔だ」と車内で言っていたことも記録に残っていた。
四日目になると、クライアント各社からの問い合わせは苦情に変わっていった。
「いつ復旧するんですか」「契約違反ではないか」
損害賠償だという声が相次いだ。
「笑わせるな。エンジニアの問題だろう」
川端は吐き捨てるように言ったが、その言葉は会議室で録音されていた。川端が採用した新人エンジニア三人は、設計書を見て翌日に全員辞退した。「理解が不可能なレベルです」というメールが三人全員から牧野に届いた。
五日目になると、損害賠償を求める文書が法律事務所から届き始めた。病院一施設からの請求額だけで数千万円に及んだ。川端は「うちのシステムのせいじゃない」と主張し続けたが、証拠が残っていた。フローコアのライセンス契約書には障害時の対応義務が明記されていた。青南テクノロジーが義務を果たせなかったことは、誰の目にも明らかだった。
「もう限界です。凪さんを取り戻さなければなりません」
牧の専務は覚悟を決め、凪の番号をスマートフォンで呼び出した。しかし電話の向から聞こえてきた言葉は、牧野の予想を超えていた。
「牧野さんですね。昨日付けで大東デジタル株式会社に転職しました」
牧野は絶句した。受話器を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
「凪さん、それはいつ決まったんだ?」
「解雇通告を受けた後、富山社長に直接電話しました。即日採用でした」
富山社長は「待ってたよ」と言い、その日のうちに正式な雇用契約が結ばれたという。牧野は電話を切った後、しばらく天井を見上げていた。
「間に合わなかった」
それが牧野の口から漏れた言葉だった。
その頃、西沢は会社のロビーで一人うずくまっていた。凪が転職したという事実が頭の中でぐるぐると回っていた。
「そうか。凪さんはもう戻ってこないんだ」
西沢はスマートフォンを取り出し、凪にメッセージを送った。
「凪さん、新しいところで頑張ってください。応援しています」
返信は一分もかからずに届いた。
「ありがとう。まゆちゃんも自分を守ることを優先してね」
西沢は画面を見つめたまま涙をこらえた。
牧の専務は席に戻り、証拠として川端の発言を全てメモに残した。牧野は沈痛な表情で川端の室に向かった。ドアを開けると、川端はコーヒーを飲みながらタブレットを眺めていた。
「社長、凪さんは昨日付けで大東デジタルに転職しました」
川端は一瞬手が止まった。
「は?大東デジタル?あの業界最大手のか?」
「はい。富山社長が直接ヘッドハントしたそうです」
「冗談だろ。すぐ連れ戻せ。給料を倍出すといえ」
川端の顔が真っ赤に染まった。
「なぜ俺に相談せず勝手に連絡しようとした?許可は取ったか?」
「社長、今はそういうことを議論している場合ではありません」
「俺の許可なく動くな。会社のことは俺が決める」
牧野は奥歯を噠みしめた。この人物が経営トップであることの恐ろしさが、今ほど明らかになった瞬間はなかった。
「社長、フローコアの特許は凪さん個人と当社の共同登録です。凪さんが離れた時点で特許の半分は彼女のものになります」
「それはどういう意味だ?」
「彼女が大東デジタルで改良版を開発すれば、我々は何もできません」
川端は唇を引き結んだまま、長い沈黙の後に立ち上がった。
「俺が直接話す。電話番号を出せ」
川端は牧野から番号を受け取り、自らダイヤルした。数回のコールの後、凪が電話に出た。
「頼む。戻ってきてくれないか?給料は何倍でも出す」
「申し訳ありませんが、私はすでに新しい職場に転職しています」
「頼む。会社が潰れそうなんだ。一ヶ月だけでもいいから」
「私がいなければそうなりますよ」
電話は静かに切れた。川端は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。
その頃、大東デジタル社内では富山社長が部下たちに語りかけていた。
「柴田さんを全力でサポートしろ。何が必要でも出す」
富山社長は確信していた。凪が本格的に動き始めた時、業界の地図が変わると。
凪はデスクに着いた初日からフローコアV2の設計書を書き始めた。前の会社で経験した制約も忖度もない。指がキーボードの上を静かに滑り続けた。
大東デジタルに転職した凪は、入社から二週間でフローコアV2を完成させた。前バージョンよりも応答速度が七倍向上し、同時に処理できる施設数も一桁増えた。前の会社では使えなかった最新のクラウドインフラを存分に活用した設計だった。
「二週間で完成するとは思ってなかったよ」
富山社長はそう言って凪の肩を軽く叩いた。
「前の会社で直したかった部分が山ほどあったので」
凪は短くそう答え、またキーボードに視線を戻した。
発表会の前夜、凪は一人でプレゼンの最終確認をしていた。画面にはフローコアV2の設計図が広がっていた。凪はデスクの横に飾った鍛原会長の写真をふと見つめた。
「会長、これが私の答えです」
凪は一人そう呟き、画面を閉じた。
翌日、凪は誰よりも早く会場に入った。大東デジタルはフローコアV2の発表会を開き、業界関係者を五百人集めた。プレゼンテーションの場に上がったのは凪だった。清楚な白いシャツ姿の十八歳の少女がマイクの前に立った。その場にいた多くの人が、後に「あの発表会は忘れられない」と語ることになる。
「フローコアV2は、日本中の待ち時間をゼロにするシステムです」
会場は静まり返った。そしてデモ映像が流れた瞬間、会場から歓声が上がった。混雑した会場で人が流れる映像が、わずか三十秒でゼロ渋滞に変わっていく。青南テクノロジーの元クライアントの担当者が、隣に座る同僚に漏らした。
「これは今すぐ移行手続きをしたい」
「駅でも病院でも空港でも、データがあれば行列はなくせます」
その言葉に会場の拍手が止まらなかった。
翌日、業界専門誌の見出しはこうだった。
「フローコアV2、業界に衝撃。開発者はわずか十八歳」
記事には凪が万博の行列ゼロを実現した開発者だという事実も掲載された。青南テクノロジーを解雇された経緯まで詳しく書かれ、SNSで一気に拡散した。「実力を見抜けない経営者の末路」というタグが業界中に広まった。青南テクノロジーへの不信感は取引先だけでなく採用候補者にまで波及した。その年の新卒内定者十二名のうち九名が内定を辞退した。「あの会社には入れない」という投稿が何百件も拡散していた。
「読みました。本当のことが全部書いてありました」
西沢は牧野専務にそう告げた。牧野は黙って頷いた。
発表会から三日後、青南テクノロジーの主要クライアント十七社から連絡が届いた。全社がフローコアV2への移行を希望しているという内容だった。青南テクノロジーとの契約解除を申し出る企業も現れた。
「妨害だ。凪を訴えろ。大東デジタルも訴えろ」
川端は執務室で怒鳴り続けた。
「社長、特許は共同登録です。簡単に訴えることはできません」
「じゃあ何か方法はあるだろう。弁護士を呼べ」
「呼びました。社長が凪さんを解雇した翌日、三つの事務所に相談しました。全社が同じ回答でした。凪さんには何の法的問題もありませんと」
川端は拳を机に叩きつけた。しかし事態は止まらなかった。
その夜、牧の専務は一人で会社の廊下を歩いた。鍛原会長の写真が飾られた棚の前で、牧野は足を止めた。
「会長、私の力では守りきれませんでした」
牧野は静かにそう告げ、深く頭を下げた。
一ヶ月後、青南テクノロジーの月次報告が届いた。売上は前月比で六十三パーセント減少していた。メインクライアント三十一社中二十六社が契約解除または移行を表明した。残った五社も更新は見送ると次々に通告してきた。川端が頼れる取引先は一社も残っていなかった。
社員たちも次々と退職を申し出始めた。西沢もまた転職活動を密かに始めていた。
「凪さんを見送った時に、この会社の先は見えていました」
西沢は後にそう語っている。
川端は毎日のように部下に怒鳴り散らした。しかし部下たちは黙って資料をまとめ、退職を申し出た。朝出社すると十五名いた開発部員が三名だけになっていた。川端は空になったデスクを眺めた。
「資金繰りは三ヶ月以内に限界を迎えます」
牧野は冷静な声でそう報告した。
「どうすれば……どうしたらいいんだ?」
川端は頭を抱えた。その姿を牧野はただ静かに見ていた。牧野の手元には、この一ヶ月で川端が発した言葉の全ての記録があった。「顔だけ採用の底辺ガキ」「損害賠償笑わせるな」「一年で育てろ」。何一つ技術の本質を理解しようとしなかった言葉の数々だった。
翌月、青南テクノロジーの臨時取締役会が開かれた。議題は一つだった。
「川端吉孝の代表取締役解任」
取締役会の当日、川端は役員室に一人で座っていた。廊下の向こうから取締役たちの声が漏れ聞こえてきた。
「一ヶ月で主要クライアントを全て失った代表など前例がない」
「十八歳の子を解雇したことが発端とは信じられない」
川端は唇を引き結んだ。
「社長、取締役会が始まります」
川端は重い足取りで会議室へ向かった。着席した川端を、七名の取締役が沈黙して見ていた。
「今回の事態の全責任は代表取締役にある。解任を同意する」
賛成多数で川端は解任された。川端の顔からついに全ての余裕が消えた。
しかし取締役会は川端一人で終わらなかった。就任式で凪を公然と嘲笑した幹部社員、田所も議題に上がった。
「田所営業本部長の発言も企業倫理違反にあたる。降格を提案する」
田所は「命令に従っただけです」と言い訳をしたが、一蹴された。その発言もまた録音されており、後日そのままネットに公開された。凪を笑い飛ばした幹部社員たちは、川端と共に会社を去ることになった。
会議室を後にする川端に、誰も声をかけなかった。ただ牧野だけが、川端の背中に向けて深々と頭を下げた。
「会長が築いた会社を、こんな形で終わらせてしまい申し訳ありません」
その言葉は川端のためではなく、鍛原会長への謝罪だった。
取締役会の後、牧野が残した記録が業界メディアに流れた。「顔だけ採用の底辺ガキは首」という川端の発言が文字として掲載された。翌日には業界内の主要企業から連盟で倫理委員会への申告が提出された。審査の結果、川端吉孝は業界団体から除名処分を受けた。実質的な業界追放だった。
事実上の破産申請は、取締役会の決議から二週間後に行われた。青南テクノロジー株式会社。鍛原博道が三十年かけて育てた会社が幕を閉じた。破産の報を聞いた業界の人々はこう口にした。
「鍛原会長が生きていればこうはならなかった」
「あの子を切った時点でもう終わっていた」
いずれもすでに起きてしまった後の言葉だった。
川端はその後も凪に電話をかけ続けた。最後の一本は破産申請の当日だった。
「頼む。一度だけ会ってくれ。俺が全部悪かった」
凪は電話に出た。
「川端さんのお気持ちは分かります。でも私が戻る理由はありません」
「なんでだ?お前が戻れば会社は助かったのに」
「私がいなければそうなりますよ。最初から言っていたことです」
凪の声は静かだった。感情もなく、怒りもなく、ただ穏やかだった。
「笑ってるのか?お前は笑ってるのか?」
「いいえ、川端さんが最初に言った言葉を返しただけです」
電話が切れた。川端はしばらく画面をただ見つめていた。凪が笑ったのはただ一つの意味だった。解任日に聞いた「底辺ガキは首」の静かな答えだった。
凪が大東デジタルのビルを出た時、春の空気が頬を撫でた。十八歳の少女の背中に、もう迷いの色はなかった。青南テクノロジーの破産申請から一ヶ月後のことだった。
大東デジタル株式会社は、柴田凪をCTO(最高技術責任者)に任命した。十八歳のCTOは業界史上最年少の記録だった。
「凪さんに好きにやってもらう。それだけです」
富山社長はそう言って笑顔で凪に辞令を手渡した。凪はその辞令を受け取りながら、鍛原会長のことを思った。
「会長、見てますか?まだまだ先があります」
その言葉を凪は心の中で静かに告げた。
牧野はその後、青南テクノロジーの清算の立て直しを受け負った。鍛原会長の残したものを最後まで守り抜くと、そう決めていた。
「会長が築いたものを無駄にするわけにはいかない」
牧野はそう言い、机に向かい続けた。
川端吉孝は業界団体の除名後、関連会社でも職を失った。かつての同僚たちは誰も川端に連絡をしなかった。「顔だけ採用の底辺ガキ」と言い放った言葉が自分に帰ってきた結果だった。
失職から半年後、川端はハローワークで順番待ちの行列に並んでいた。番号札を手に長い椅子に座りながら、川端はあの日の自分を思った。
「行列がこんなにストレスになるとは知らなかった」
川端はぽつりとそう呟いた。
その後、川端は小さなIT企業の営業職に採用された。以前のような傲慢さはなく、若いエンジニアの話を黙って聞くようになった。ある日、入社して間もない若い技術者が車内デモで自作ツールを説明した。川端にはその内容がよくわからなかった。それでも川端は黙って最後まで聞いた。
説明が終わると、川端は静かに立ち上がり言った。
「すごいな。どういう仕組みなんだ。もう少し教えてくれるか?」
若者は少し驚いた顔をしたが、丁寧に説明を続けた。川端が誰かの技術に素直に頭を下げたのは、おそらく生まれて初めてのことだった。
ある業界誌の短いコラムで、川端はこう語った。
「本物の技術者とは何かを、解雇された後にやっと知りました」
その言葉が正直なものかどうか、業界の誰も答えを持っていなかった。ただ、人は痛みを経て変わることもある。それもまた人生の一つの真実だった。
大東デジタルの開発室には若い技術者たちが集まっていた。凪の元で働きたいと応募した学生が千人を超えたという。凪はCTOに就任した初日から、全国の採用企業を訪ねることを決めた。
「システム障害でご迷惑をおかけしました」
一施設ずつ丁寧に謝罪した。ある病院の院長が凪の手を握ってこう言ったと伝えられている。
「あなたが戻ってきてくれるなら、それだけでいい」
CTO就任の報は業界中を駆け巡った。「あの子の時代がここから始まる」と誰もが言った。
その日以来、凪は一度も行列を「仕方ない」と思ったことがない。凪は今日もデスクに向かってコードを書いている。次のフローコアが、日本の誰かの待ち時間をゼロにするために。どんな場所にいても誰でも平等に、行列のない世界を作るために。
鍛原博道が十五歳の少女に言った一言が、今も業界を動かし続けている。
「これは本物だ」
その確信はあの日から一度も揺らいでいない。凪はいつも仕事の始まりに、あの日の鍛原会長の一言を思い出す。どんな理不尽も、本物の力は隠しきれない。十八歳の少女が証明した、ただ一つの真実だった。
鍛原会長が植えた種は、たった一人の少女の手で大きく芽を吹いた。今日もどこかの病院で、スーパーで、駅で、行列がゼロになっている。それが凪のこの世界への贈り物だった。



