診察室の窓から塩の匂いを含んだ風が入ってきた。俺は目の前に座る漁師の田端さんの腕を丁寧に触診していた。
「先生、ただの腰痛なんだから、いつもそんなに時間かけなくていいよ」
「いえ、田端さん。先月より少し背中の張りが強いですね。船での体の使い方、何か変わりました?」
「ああ……そういや、新しい網に変えたんだ。重さが違うかもしれん」
俺はカルテにその一言を書き留めた。
診察に30分以上かけるのは、この診療所ではいつものことだ。住民たちはそんな俺を半ば呆れながら「ノロ先生」と呼んでいる。
俺の名前は大沢浩司。42歳。この港町の診療所に勤める医者だ。ここに来てからもう5年が経つ。町には信号機が2つしかなく、夜になればほとんどの家の明かりが消える。
診療所には俺と院長の浜野先生、そして看護師のひさ子さんがいたが、ひさ子さんが去年定年で辞めてからずっと人手が足りずにいた。その公募として今朝、新しい看護師がやってきた。
待合室から低めの靴音が近づいてくる。ノックの音がひとつ。返事をする前に扉が開いた。
「水希さです。本日からお世話になります」
俺は思わず手を止めた。白いブラウスに水色のスカート、長い黒髪。整った顔はこの町にはどこか不釣り合いに見えた。モデルかと見間違うほどの容姿だが、それ以上に印象に残ったのは視線の鋭さだった。
「ああ、大沢です。よろしく。今診察中だから、少し待ってもらえますか?」
「いえ、見学させてください。仕事の流れを把握したいので」
田端さんが目を丸くして俺を見た。俺は小さく頷き、診察を続けた。田端さんの腰にシップを貼り、漢方の処方を説明する。食事のこと、孫の運動会のこと、奥さんの膝の調子。話は脇道にそれたが、その脇道の中に症状の手がかりが転がっていることを俺は知っている。
田端さんが帰った後、水希はカルテをじっと見つめていた。
「大沢先生、ひとりの患者さんにどれくらいかけるんですか?」
「ええ……まあ、話の中に結構大事なものが混ざっていますから」
「そうですか」
短い返事だったけれど、その口調には明らかに困惑の色があった。俺はその視線を受け止めながらも、何も弁解しなかった。弁解したところで伝わるものではない。ただ胸の奥が少しだけ傷んだ。
水希の仕事は見事だった。備品の管理、患者の対応、都会の高度救急病院で鍛えられたという経歴は嘘ではないとすぐに分かった。ただ、彼女は迷うことを嫌った。
ある午後、軽い火傷を負った主婦が駆け込んできた時、俺が処置の手順をどうするか少し考えていると、水希はすでに冷却用の生理食塩水と皮膚保護剤を準備して差し出していた。
「先生、迷っている時間があるなら、次の手を打つべきだと思います」
「ええ……そうですね。助かりました」
その日の夕方、最後の患者が帰った後、俺は処置室の片付けをしていた。水希が窓の外を見たまま、ぽつりと呟いた。
「迷ったせいで救えなかったことがあるんです」
俺は雑巾を持つ手を止めた。振り向くと、彼女はまだ窓の外を見ていた。横顔に夕日が当たっている。
「あと数分早く動いていれば助かったかもしれない患者さんがいました。それからは、迷わないと決めたんです」
俺はその言葉に何も返さなかった。背中に抱えた荷物の重さは本人にしかわからない。踏み込めば傷を広げるだけだ。
「片付け、ありがとう。今日はもう上がってください」
「先生はまだ残るんですか?」
「ええ、少しだけ」
水希が帰った後、俺は奥のカルテ室に向かった。古いファイルが年代別に並んでいる。俺がこの町に来てから5年分、それ以前の浜野先生が残した30年分。俺は引き出しを開け、何枚かのファイルを抜き出し、机に広げた。
似た症状の患者を見比べ、経過をたどる。これは俺が毎晩のように続けている作業だった。町の患者ひとりひとりの体質を、過去の記録から立体的に組み上げていく。
ふと視線を感じた。顔を上げると、診療所の入り口に水希が立っていた。帰ったと思っていたが、忘れ物でも取りに戻ったのだろう。
「失礼しました。お邪魔してすみません」
彼女は小さく頭を下げ、すぐに踵を返した。扉が閉まる音。彼女は何かを感じたのかもしれない。
その朝、町にサイレンが鳴った。無線で連絡が入ったのは午前だった。港の入り口で2隻の漁船が衝突したという。怪我人は数名。うち1人が重体。
俺は水希と2人で診療所のシャッターを開け、処置室に酸素ボンベを運び込んだ。水希の動きは目を見張るほど速かった。点滴、モニター、救急セット。彼女は何も指示されないうちに必要なものを全て並べていた。
最初に運び込まれてきたのは若い漁師の亮太だった。神谷亮太、28歳。町の人気者で、よく診察に来てくれていた若者だ。父親の大造さんが青ざめた顔でストレッチャーに付き添っていた。
「先生、頼む。亮太を助けてくれ」
「大造さん、ここは任せてください。外で待っていてもらえますか?」
亮太は意識がもうろうとしており、腹部に強い打撲の跡があった。血圧は低下しつつある。水希が即座にルートを確保し、輸液を開始した。
「先生、腹腔内出血の可能性が高いです。エコーお願いします」
「ええ、見ます」
俺はプローブを当て、画面を見つめた。出血の所見はある。だが、それだけではない。何か引っかかるものが画面の隅にあった。俺はもう一度別の角度から当て直した。
その時、玄関の入り口が勢いよく開いた。
「大沢、久しぶりだな」
聞き覚えのある声だった。振り向くと、白衣の上から救急用のジャケットを羽織った男が立っていた。高木。県の救命救急センターからドクターヘリで応援に来たのだろう。かつて俺と同じ大学病院の研究チームにいた男だ。
「町の診療所では手に負えないだろう。俺が代わろう」
「高木、来てくれて助かる。だが、まだ診断の途中だ」
「のんびり見てる時間はない。見れば分かる。腹腔内出血だ。すぐに開腹だ」
高木はてきぱきと指示を出し始めた。水希の表情が明らかに変わった。迷いのない判断、明確な指示。それは彼女が信じてきた医療の姿そのものだった。
「水希さん、輸血の準備を進めてくれ」
「はい、先生」
「さすが都会で揉まれた看護師は違うな」
水希がわずかに俯いた。俺は黙ってもう一度エコーの画面を見直した。亮太の腹部の奥、肝臓の裏側に一筋の妙な影が見える。通常の出血像とは違う、滑らかな線。俺は心の中でその違和感をそっと拾い上げた。
外では大造さんが両手を握りしめて立っていた。町の人々が集まり始めている。診療所の窓の外、塩風がいつものようにゆっくりと流れていた。
高木は手袋を装着しながら麻酔の手配を水希に指示していた。処置室の空気は一気に張り詰めていた。
「血圧80切ったぞ。急げ。腹腔内出血で間違いない。開腹で出血点を抑える。大沢、お前は補助に回れ」
俺は画面の隅にもう一度目を凝らした。肝臓の裏に走る滑らかな影。これはただの出血像ではない。
「高木、待ってくれ。開腹の前にもう少し確認したい所見があるんだ」
「待つ? 何を言ってるんだ、お前。現場の感覚を失ったのか? この血圧で待てるわけがないだろう」
「ただの出血だけじゃない可能性がある。別の原因が裏に潜んでいる」
高木はメスを置いた手をこちらに向けた。呆れたような、悲しむような目だった。
「大沢、お前は昔からそうだった。慎重すぎる。今は患者を救う時間だ。研究室じゃないんだぞ」
俺は何も言い返さなかった。水希は輸血パックを抱えたまま立ち尽くしていた。視線が俺と高木の間を何度も往復している。
「先生……どちらの指示に従えばいいんですか?」
迷うことを嫌うはずの彼女が迷っていた。
「水希さん、判断は俺がする。少しだけ時間が欲しい」
「大沢、お前に責任が取れるのか? お前ひとりの判断で、この若者が死んだら」
「取る。全部、俺が取る」
処置室の空気がわずかに止まった。大造さんが廊下のガラス越しにこちらを見つめていた。町の人たちの声が遠くから聞こえてくる。
俺はもう一度エコーの画面に向き直った。そして壁際のキャビネットにかけ寄り、古いファイルを抜き取った。表紙には年代と症例番号が並んでいる。
「水希さん、これを見てくれ。高木も頼む」
「カルテだと? 今それを見ろと?」
「3分でいい。3分で説明する」
俺はファイルを開き、机に並べた。7年前、5年前、3年前、そして去年。似た年齢、似た体型、似た既往の患者たちの記録だった。
「この町には、稀な血管異常を持つ家系がいくつかある。神谷家もそのひとつだ。父親の大造さんを、俺は5年見てきた。血管の走行に軽い分岐がある」
「だから何だって言うんだ?」
「亮太のエコーに、肝臓の裏側に通常とは違う影が出ている。これは出血じゃない。動脈の異常な走行だ。ここを切れば止血どころか、致命伤的な出血を引き起こす」
俺はファイルのひとつを指さした。7年前、浜野先生が残した症例の記録。似た所見の患者を開腹せずに処置した記録だった。
「理論じゃない。この町で実際にあった話だ」
高木はしばらく黙ってファイルを見つめていた。水希は俺の手元と亮太の顔を交互に見ていた。
「水希さん、俺は迷っている。確かに迷ってる。でも、迷うのは本気で救いたいからだ」
水希の目がわずかに揺れた。彼女は何も言わず、深く息を吸った。
「先生、その処置、どのくらいの時間で準備できますか?」
「カテーテルの機材は奥の倉庫にある。浜野先生が残してくれたものだ。10分で組める」
「わかりました」
彼女の声は震えていた。迷わないことが正解ではないと、彼女は今初めて知ったのかもしれない。
高木はファイルを閉じた。そして俺を見た。
「大沢、お前の責任でやるんだな」
「ああ、俺の責任でやる。補助は俺がやる。それでいいか?」
俺は頷いた。高木の口調はさっきまでとは少し違っていた。かつての研究仲間の声に近かった。
俺は処置室の扉を開け、廊下に出た。大造さんが青ざめた顔で立ち上がった。町の人たちが息を飲んで俺を見ている。
「大造さん、説明します。亮太くんの体には、血管の走り方に、お父さんと同じ特徴があります。普通の手術をすれば、かえって危ない。だから、別の方法で出血を止めます」
「先生、それはどういうことなんですか?」
「助かる可能性が高い方法です。責任は、俺が全部負います」
大造さんは口を開きかけて、結局何も言わなかった。ただ両手で俺の手を握った。
「ノロ先生……頼む。あんたを信じる」
俺は黙って頷き、処置室に戻った。
水希はすでにカテーテル用の機材を並べ終えていた。信じられないほどの速さだった。
「先生、準備整いました」
「ありがとう。隣で頼む」
「はい、わかりました」
俺はメスではなく、細いカテーテルを手に取った。モニターの音、酸素の音、水希の呼吸の音。全てがひとつのリズムの中に収まっていく。
高木が補助の位置についていた。俺は亮太の鼠径部に針を入れ、カテーテルを進めた。画面の中で細い管が血管を辿っていく。
「血圧、75……安定方向です」
「ありがとう。もう少しだ」
造影剤を注入する。画面の中で出血源がゆっくりと閉じていく。血圧の数字がわずかに上がり始めた。モニターの音の間隔が、少しずつ落ち着いていく。
「止まったな」
「ああ、止まった」
処置室の中に、長い息が漏れた。水希が片手で口元を抑えていた。泣いているのか、安堵しているのか、表情からは読み取れなかった。
俺は手袋を外し、亮太の額にそっと手を当てた。脈は引き始めていた。若い体には、まだ十分な力が残っている。
窓の外で、町の人たちのざわめきが小さくなっていく。塩の匂いを含んだ風が処置室にゆっくりと流れ込んできた。水希はずっと俺の隣に立っていた。一言も話さず、ただ立っていた。
2時間が経った。亮太は処置室の奥のベッドで、酸素マスクをつけたまま眠っている。廊下では大造さんが妻と肩を寄せ合って座っていた。町の人たちはひとりまたひとりと帰り始めている。誰もがほっとした顔をしていた。
高木は診療所の玄関に立っていた。俺は彼の前に立ち、軽く頭を下げた。
「高木、助かった。お前が補助に入ってくれたから、最後まで集中できた」
「礼を言うのはこっちだ。大沢、お前の判断は正しかった。俺には見えていなかった」
高木はしばらく俺の顔を見ていた。
「……まだ、あの理論を続けているんだな。ひとりひとりの体質をデータとして積み上げていく、あれだ」
「続けているというより、ここでしかできなくなったというだけだ」
「そうか。俺は、お前が消えた後、何度もあの論文を読み返した。お前がやろうとしていたことが、本当の意味で分かるまで随分時間がかかったよ」
高木は小さく息を吐き、片手を差し出した。俺はその手を握り返した。塩風が2人の間を静かに通り抜けていった。
高木が去った後、診療所にはいつもの空気が戻ってきた。浜野先生が奥の院長室から出てきた。事故の知らせを聞いて、家から駆けつけてくれていたのだ。
浜野先生は待合室に集まっていた数人の町民の前で立ち止まった。
「皆さん、少しだけ聞いてください」
俺は処置室の入り口でその背中を見ていた。水希もまた、少し離れた場所で浜野先生を見つめていた。
「大沢先生は、元々大学病院で医療統計の研究をしていた人です。彼が組み上げた理論は、今でも多くの病院で使われています。本人が言わないから、誰も知らなかったでしょうが」
大造さんが目を見開いた。町の人たちのざわめきが小さく広がった。
「それでも、彼はここを選んでくれました。私が頼んだ時、二つ返事で来てくれた。本当は、私の方がずっと頼っているんですよ」
俺は視線を落とした。誇らしくも、恥ずかしくもなかった。ただ、浜野先生にそう言われたことが、胸の奥にじんわりと残った。
夕方、俺は処置室の後片付けを終え、屋上に上がった。診療所の屋上からは港とその向こうの水平線が見える。夕日が海を赤く染めていた。
音がして振り返ると、水希が立っていた。長い黒髪が塩風に揺れていた。
「先生、ここにいらしたんですね」
「ええ、少し風に当たりたくて」
水希は隣に来て、手すりに両手を添えた。しばらく2人とも黙って海を見ていた。波の音だけがゆっくりと続いていた。
「先生、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「どうして都会を捨てたんですか? 浜野先生の話を聞いて、ずっとそれが気になっていて」
俺は少し笑った。
「捨てたというほど立派なものでもないんです。ただ、ある時から自分のやっていることが分からなくなってしまって」
「分からなく、ですか?」
「ええ。論文に書く数字のひとつひとつが、本当は誰かの命だったはずなのに、いつの間にかただの数字に見えるようになっていた。会議で治療の優先順位を効率で決める話ばかりしていて、患者の顔を思い出せなくなった日があったんです」
夕日が彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
「そんな時、浜野先生から手紙が来ました。この町に医者がいないと。来てみたら、住民の顔がちゃんと見える距離だった。それだけです」
「それだけ、ですか?」
「ええ、それだけです。立派な理由なんてなかったんです」
水希はカーディガンの袖を両手で握りしめている。
「私、あの患者さんのこと、今でも夢に見るんです」
声が震えていた。
「迷ったから死なせてしまったって、ずっと思っていました。だから、迷わない医療を信じようとしてきた。でも、本当は……迷わなかったから救えたわけじゃなかったのかもしれない。今日、先生の隣にいて、初めてそう思えたんです」
水希の頬を涙がひと筋伝った。俺は彼女の方に少しだけ体を向けた。何か気の利いた言葉を探したが、何も浮かばなかった。ただ、これだけは伝えたかった。
「水希さん、次は俺が隣にいる」
水希の肩がわずかに揺れた。顔を上げた彼女の目にはまだ涙が残っていたが、表情はもう初めて会った日の鋭さとは違っていた。何かがゆっくりと溶けていくような、そんな顔だった。
「はい、先生」
夕日が2人の影を屋上に長く落としていた。
数週間が過ぎた。亮太は無事に退院し、再び船に乗れる日も近い。町はいつもの穏やかな空気を取り戻していた。診療所にはまた田端さんが腰痛の話をしに来て、孫の運動会の写真を見せてくれた。
水希は相変わらず手際よく仕事をこなしていた。ただ、以前と少しだけ違うことがあった。判断に迷った時、彼女は俺の顔を1度ちらりと見るようになった。俺は黙って頷き返す。それだけの合図が、2人の間に生まれていた。
ある夕方、待合室で水希が小さな封筒を俺に差し出した。
「先生、これ、お返ししたくて」
「これは?」
「県の救命センターから戻ってこないかというお話をいただいたんです。高木先生のご紹介で。でも、お断りしました」
彼女は照れたように笑った。そんな笑い方を、俺は初めて見た。
「散歩、行きますか? 浜まで」
「ええ、行きましょう」
2人で診療所を出て、坂道を下った。夕暮れの港には、漁を終えた船が並んでいた。大造さんが船の手入れをしながらこちらに気づいて、手を振ってくれた。俺たちも手を振り返した。
浜辺の先まで歩き、2人で並んで腰を下ろした。
「大沢先生の隣で、もう一度ちゃんと看護したいんです」
迷うことを恐れていた頃の彼女ではなく、迷った上で選んでくれた声だった。俺は海の方を見たまま、こう言った。
「隣にいてくれ。これからもずっと」
水希は小さく頷いた。遠くから漁師たちの笑い声が風に乗って届いてくる。頼りない医者と呼ばれた俺の隣には、もう迷わない彼女が立っている。



