台風の朝、事務所の窓の外では風が唸りを上げ、雨が窓ガラスを叩きつけていた。社員たちはすでにバスで出発し、俺は無人のオフィスで書類の山に埋もれていた。高島金属という小さな町工場の社長、高島け太。今年35歳になったばかりだ。父から受け継いだこの会社は、従業員約30名のアットホームな雰囲気が自慢だ。今日は1泊2日の社員旅行。台風が接近しているのが心配だったが、それ以上に朝から楽しみで仕方がなかった。
。
「社長、ちょっといいですか?」
専属ドライバーの金田が、事務所の入り口で声を張り上げる。外の暴風雨の音で、互いに怒鳴り合うような会話になる。
「何だ?金田さん」
「いや、表にね……女の子がいるんですよ」
「は?女の子?」
こんな田舎の工場に、台風の最中に女の子がいるというのか。俺は傘を手に取り、川靴を履いて外へ飛び出した。外に出た途端、風に傘を取られ、慌てて畳む。
シャッターの前に、ずぶ濡れになった女性が立っていた。小ぶりのスーツケースを傍らに置き、ショルダーバッグを斜めにかけている。足元には、無惨に壊れた折りたたみ傘が転がっていた。
今年入社したばかりの半沢近子さんだ」と俺は目を見開いた。
だが、なぜ彼女がここにいるんだ? 彼女は茫然としていて、俺が近づいても気づかない。顔の前で手を振って、ようやくこちらを向いた。
「半沢さん、こんなところで何してるんだ? びしょ濡れじゃないか。中に入って着替えよう」
俺は彼女を事務所へと促した。まさか、集合時間に遅刻してバスに置いて行かれたのかと、この時は呑気に考えていた。
彼女がロッカールームで着替えている間、俺は溜まった仕事を片付け始めた。
1時間後、近子がシックなワンピースに着替えて戻ってきた。
「社長、すみませんでした」
「うん、台風の中は危険だぞ。からは気をつけなさい」
「あ、そういうことではなくてですね……」
彼女は何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。
「私、中卒なんです」
「うん、知ってる。それがどうかしたのか? 」
「この会社は学歴じゃなくて実力主義だって聞いてました」
「そうだけど……なんで過去形なんだ?

」
彼女の話がシリアスになってきて、俺は仕事をする手を止めた。
「部長が……中卒は留守番しとけって、私をバスに乗せてくれなかったんです」
俺は驚きのあまり、両目を見開いた。
「部長って……どこの部の部長のことだ? 」
「牧田営業部長です」
そんな馬鹿な」と俺は焦った。牧田は、父の代からこの会社に勤め、父からの信頼も厚かった男だ。もちろん俺も牧田の手腕を評価し、信頼している。それに牧田自身も中卒のはずだ。なぜ学歴で人を傷つけるような真似をするんだ? 俺は今一度、近子に確認した。
「本当に牧田部長に言われて、バスに乗れなかったんだな? 」
近子は小さく頷いた。
俺はすぐに牧田に電話をかけた。
「牧田さん、俺だよ。今すぐ会社に戻ってきてくれ」
「もうすぐ旅館に着くんですよ。正気で言ってるんですか?
」
「なら旅館に着く前に、最寄りのドライブインで待機してくれ」
牧田はバスの運転手に確認し、最寄りのドライブインの名を告げた。
「じゃあ全員そのドライブインで待機してくれ。1時間ほどで追いつける」
俺は事情が分かっていない牧田の相手をすることなく、一方的に電話を切った。
「さて、じゃあ俺たちも行こうか、半沢さん」
「え、私が行ってもいいんですか? また部長を怒らせてしまいそうで怖いです」
「そうさせないために行くんだよ。学歴で人を評価するような会社になってからじゃ遅い」
俺たちは金田に車を運転してもらい、皆の待つドライブインへと向かった。
車内では、近子と普段の仕事や趣味など、取り留めのない雑談を交わした。
「社長は大学を出ておられるんですか? 」
「一応な。まあ、学んだことも多かったけど、どちらかといえば遊んだ記憶の方が鮮明だな」
「勉強しながら遊べるんですね、大学は」
「うん。勉強ばっかりの人もいれば、遊んでばかりの人もいた。いろんな人と出会えて楽しかったかな」
ふと雲の切れ間から青空が覗いていた。俺は腕時計に目を落とし、もうすぐ着くよと近子に伝えた。
「ちょっと怖い気がします」
今朝の牧田の態度を思い出したのか、近子は憂鬱そうな表情を浮かべる。無理もないよなと俺は思った。近子はまだ16歳なのだ。自分の親より年上かもしれない牧田に邪険にされたのだから、怯えてしまうのも仕方ない。
ドライブインに到着すると、大型バスが一台、大型車エリアに停まっていた。
バスの中から若い男が一人、走ってこちらにやってくる。営業部の織原だ」と俺は思い出す。二十歳という若さで、なかなかの営業手腕を見せている。
「牧田部長を今すぐ呼びなさい」
「え、部長をですか? 」
「そうだよ。君たちにここで待機してもらっていたのは、俺が牧田部長と話したいことがあるからなんだ」
織原はキビスを返して走っていき、バスに乗り込んだ。しばらくすると、牧田がのっそりと降りてきて、こちらへ向かって歩いてくる。
牧田は車内で酒を飲んでいたようで、体からアルコールの匂いが漂っていた。
「牧田さん、なぜあなた方がここで足止めされたか分かりますか?
」
「え、知りませんよ、そんなこと」
牧田は心底めんどくさそうに言う。
「あなたは今朝、半沢近子さんがバスへ乗るのを止めましたね。何でも中卒は留守番をしているようにと言ったとか」
「誰がそんなことを言っているのか知りませんが、俺は言っていませんよ」
素直に認めるようなら苦労はしないよな。であれば、他の社員に聞くまでだ。牧田が口止めをしている可能性もあるが、勇気を出して真実を語ってくれる社員もいるかもしれない。正直なところ、ちょっと怖い。
俺はバスに乗り込み、社員たちの顔を一通り見渡すと、声を張り上げた。
「今朝、牧田部長が半沢さんの乗車を拒んだ場面を目撃した者はいるか? 」
車内は静まり返り、張りつめた空気の中、誰も声を上げようとしない。
「本当のことを言ったからと言って、処罰されることはない。言ったことが原因で牧田部長に何かされれば、必ず俺が対処する。言ってほしい」
なおも沈黙が続く中、一人の若者が手を挙げた。
先ほど連絡係として俺のところへ来てくれた営業部の織原だ。
「自分は見ました。半沢さんに『中卒は留守番だ』と牧田部長が言っていました」
それを皮切りに、あちこちから手が上がる。皆の声に耳を傾ければ、織原と同じことを口にしていた。中には、出発間際に近子の折りたたみ傘が壊れ、ずぶ濡れになっているのを見たという目撃証言まで飛び出してきた。
この旅行の会社出発は午前8時。俺が近子を見つけたのが午前9時頃のことだ。ということは、近子は雨風の激しい台風の中、1時間前後、一人で呆然としていたことになる。しかも、俺の呼びかけに応じるのにもかなり時間がかかっている。それほどの仕打ちをしておいて、自分は車内で酒を飲んで楽しんでいたのかと思えば、とても感心できる話ではないという結論に達した。
「牧田さんの席はどこですか? 」
気づけば、俺は大声でそう尋ねていた。織原が牧田の荷物をまとめ、俺の目の前まで持ってきた。
「織原君、すまないが、その荷物をバスの外に置いてくれないか? 」
「はい」
俺は牧田と向き合うと、「降りてくれ」と言ってバスから下ろした。続いて俺もバスから降り、織原が牧田の荷物を外へ置いてくれた。
「おいおい、これはどういうことなんだ?
俺はな、仙代の頃から会社に使えてんだぞ。分かってんのか? 」
牧田は顔を真っ赤にして、俺に怒りをぶつけてくる。
「牧田さん、まず半沢さんをバスに乗せなかったのは本当ですか? 」
「だから何だってんだよ。そうだよ、俺がバスに乗せなかったんだよ。んな中学を卒業したばっかりの未成年なんかがいたら、うっかり酒も飲めねえだろう」
「それがあなたの本質ということですか? 牧田部長。俺も中卒で散々馬鹿にされまくった。だから1回ぐらいバカにする側に回ったって、バチは当たらねえだろう」
なんて言い草だ」と俺は呆れた。完全に理論が破綻してしまっていることに、本人は気づかないというのか。
自分がされて嫌だったことを他人にすることで満たされるなんて、性格が歪んでいるとしか考えられない。
父は本当にこんな男を信頼していたのだろうか。
「全く、仙代には容易に取り入ることができたが、2代目は簡単にはいかねえか。お前の父ちゃんバカだったよな」
牧田はゲラゲラと笑い出す。
「ここから先は自力で帰れ」
「は?
」
「俺はお前を部長とは呼ばない。みんなにも部長とは呼ばせない。これがどういう意味か分かるか? 」
俺がそう言うと、牧田は途端に涙を見せた。この男、酔っているのか、正気なのか、とても分かりにくい。
「ま、待ってくださいよ、社長。俺はこの会社の創立メンバーですよ。その俺を部長から降格させようって言うんですか? 」
「この会社に長く貢献してくれたことには感謝する。だが今日の一件で、あなたは部長の器ではないということを露呈してしまった。あなたは自分で自分の身を滅ぼしたんですよ」
そう言ってやれば、牧田は膝から崩れ落ち、地面に額を擦りつけんばかりに泣き叫ぶ。そして俺は車の中にいた近子を連れ、牧田の前に並んで立った。
「己れ半座、俺が部長で亡くなるのは全部お前のせいだ。なんで社長にちくったんだよ」
近子は自分の存在が牧田の激怒に触れていると知り、すぐさま俺の背後に身を隠す。
「大丈夫だからね、半沢さん」
俺は安心させるように近子に声をかけ、車に戻るように言った。そして地に伏した牧田を見つめる。
「社員旅行は、牧田さんは不参加ということで、一刻も早くお帰りください」
俺は何の感情もこもらない口調でそう言った。
「ま、待ってくれ。こんな辺鄙な所でどうやって帰れって言うんだ」
「タクシーを呼んで、最寄り駅まで送ってもらい、電車で帰るのが一番早いかと思いますよ」
俺は牧田に背を向け、車に乗り込むと金田に車を出してくれと言い、ドライブインに泣き崩れる牧田だけを置いて、宿へと向かった。
車内で近子がぽつりと言う。
「なんだか、ご迷惑をおかけしてすみません」
「遅かれ早かれ、こうなっていたような気がするよ。海は早いうちに出しておくに限るんだ」
俺は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
宿に到着し、夜の宴会まで自由時間を楽しむことになった。近くの自然探索に出かけるもよし、温泉で日々の疲れを癒すもよし、部屋でくつろぐのもまたよしといった具合だ。
俺は牧田のことがショックで、しばし自分の部屋でぼんやりしていた。
ふと、あることに気づいた。
そういえば、このホテルの部屋の予約も、出張の時のホテルの手配や新幹線や飛行機のチケットの確保も、ここのところ近子ばかりがやってくれていることに気づいたのだ。
彼女に秘書をやってもらうことはできないだろうか? うん。やれるな」と俺は確信した。ちゃんと教えさえすれば、できるはずだ。もちろん最初から完璧にこなしてもらおうとは思っていない。慣れるまでは、総務の仕事の傍らで俺のスケジュール管理などをしてくれれば、それでいい。あとは本人がうんと言ってくれるかどうかだ。
社員旅行は、始まりこそ波乱だったが、その後は収支お祭りムードで大盛況のうちに終わった。
旅行後、牧田には正式に降格処分を言い渡し、一介の営業課員となった。
牧田の後任の営業部長については、まだ車内で人選中だ。
そして俺は、旅行が終わってから近子を社長室に呼び、社長秘書をやってみないかと打診してみた。
「最初は出張の手配なんかをお願いできると助かる。もちろん総務の仕事をやりながらで構わないんだ。最初は宿や交通機関などの手配を中心にやってもらい、慣れてきたらスケジュール管理なども頼みたい」
「私なんかに、秘書が勤まるのでしょうか?
」
「勤まるかどうか、試してみたらいいじゃないか。もしどうしても無理ということであれば、君が総務の仕事に専念できるようにする。まずはトライアンドエラーを繰り返し、進んでみること」
「自分の能力はこうなのだ、ここまでなのだと決めつけてしまわないこと」
俺はそう言ってから、心の中で続けた。そうして進んでいこう、と。


