理事たちの顔が一様に冷たかった。窓の外では雨が降っていた。理事長の鈴木裕が書類を一枚、ゆっくりと机に置いた。「山本先生、あなたの実績は確かに素晴らしい。しかし今回の件は、組織としては看過できないものでしてね。」俺は黙ったまま、その書類を見ていた。地方総合病院への移動命令。俺の名前は山本誠、49歳、心臓外科医だ。かつて週刊誌が「神の手」などと書き立てたこともあった。だが今、その肩書きは何の役にも立たない。「理事長、あの医療機器の不具合は患者の命に関わります。私は事実を報告したまでです。」「ええ、分かっていますとも。ただね、山本先生、事実とは伝え方次第で毒にも薬にもなる。あなたは少し強く言いすぎた。」鈴木は微かに笑った。笑顔のまま人を切る男だった。
隣に座っていた坂口が視線を落としたまま動かなかった。かつて同じ手術台に立った男だ。何度も命を救い合った仲間だった。その坂口が、今は一言も発しない。俺と目を合わせようともしない。「坂口、お前はどう思う?」俺の声に、坂口の肩がわずかに揺れた。「……俺は何も言える立場じゃない。」それだけだった。俺は書類を手に取り、立ち上がった。「山本先生、地方には地方の良さがある。少し頭を冷やしてきなさい。」「患者を守るために行ったことが、頭を冷やす理由になるとは思いませんでした。ですが、辞令は受けます。どこに行こうと、俺の仕事は変わらない。」そう言って俺は部屋を出た。振り返らなかった。振り返れば、何かが崩れそうだった。
3時間電車に揺られ、さらに1時間バスに乗った。山の向こうに小さな町があり、その外れに地方総合病院はあった。4階建ての古い建物だった。院長室に通されると、桐リ院長が立ち上がって出迎えた。「山本先生、遠いところをようこそ。」いや、こんな田舎に、あなたのような方が来てくださるとは。「お世話になります。」「よろしくお願いします。まあ、座って、座って。お茶でも飲みながらね。」桐リはもみ手をしながら何度も頭を下げた。茶を一口飲んでから、桐リは声を落とした。「あの、山本先生。お願いがございましてね。ここではどうか波風を立てないように。うちは小さい病院ですから、理事会とも、上とも、ねえ、色々繋がりがあるわけです。」「波風を立てる気はありません。患者を見るだけです。」「いやいや、それが一番ですよ。それが一番。」そう言って桐リは笑った。だが笑顔の裏に怯えがあった。組織に逆らう勇気を、とうに失った男の顔だった。
院長室を出ると、廊下で一人の看護師が待っていた。「山本先生ですね。安井マナと申します。本日からご一緒させていただきます。」「お部屋までご案内します。」「ありがとう。よろしく頼む。」歩きながら、安井は静かに言った。「先生のお名前は、医療雑誌で何度も拝見しておりました。」「こんな病院に来てくださって、本当に感謝しています。」「いや、噂は当てになりませんよ。俺はただの医者だ。」「いいえ、先生の論文は私の教科書でした。」安井の声には、お世辞ではない真っすぐな響きがあった。宿舎は病院の裏手にあるアパートだった。6畳一間、窓を開けると雑木林の匂いがした。ダンボール箱を一つ床に置いて、俺は座り込んだ。俺は荷物の中から、古い写真を一枚取り出した。「小学生の頃の写真だった。」痩せた女の子が、俺の隣で笑っている。名前は真山ひ。病弱だった幼馴染みだ。「絶対に守るから。」そう約束した夏があった。だが、その夏の終わり、ひは遠い都会の病院に運ばれ、それきり連絡が途絶えた」。俺が医者を志した原点は、あの約束だった。そして俺が一番果たせなかったと思っているのも、あの約束だった」。写真を箱に戻し、俺は深く息を吐いた」赴任から3日が経った朝だった」外来の準備をしていると、看護師たちが廊下でひそひそ話していた。「市長さんがいらっしゃるらしいわね。」「うちの病院に珍しいわね。」安井が小走りに俺のところに来た。「先生、今日市長が視察にいらっしゃいます。」「院長からご挨拶をお願いしたいと。」「市長が、こんな病院に何の用だ?」「地域医療の現場を、ご自身の目で見たいと。」「そういう方なんです。」午前10時、玄関に黒い車が止まった」降りてきたのは、若い女性だった」今のスーツに、品のある立ち姿」桐リ院長が出迎えた」。「視察、わざわざありがとうございます。」「こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます。」「真山ひと申します。」その名を聞いた瞬間、俺の心臓が一度、強く跳ねた」。真山ひ」。聞き間違いではなかった」桐リに促され、俺は前に出た」。「こちら、今月から赴任しました、三外科の山本誠です。」「よろしくお願いします。」そう言って顔を上げた」目が合った」彼女の瞳がほんの一瞬、揺れたように見えたけれど、すぐに落ち着いた微笑みに戻った」。「山本先生、お噂はかねがね伺っております。」「この町に来てくださって、心強く思います。」「こちらこそ、お役に立てるよう務めます。」声が、少しかれた「彼女は気づいているのか、いないのか」。あの写真の中の少女と、目の前の女性が頭の中で重なっては離れた」。彼女は何も言わなかった」。ただ真っすぐに俺を見て、丁寧に頭を下げただけだった」視察が終わり、車に乗り込む直前、真山は振り返った」。「先生、この町にも、心臓を見ていただきたい患者さんがたくさんおります。」「どうかよろしくお願いいたします。」「全力を尽くします。」「それだけは、お約束します。」車が走り去った」俺はしばらく、玄関の前に立ち尽くしていた」。横に立っていた安井が静かに言った」。「先生、何か、お知り合いでしたか?」「いや。」雨上がりの空に、薄い日が差していた」左遷されたはずのこの町で、俺は思いがけないものに再び出会おうとしていた」赴任から2週間が過ぎた頃だった」夜の10時を回り、、当直でカルテに目を通していた」。窓の外では虫の声が低く響いていた」その静けさを破ったのは、救急隊からの一本の電話だった」。「先生、救急搬送です。」「男性、胸痛と呼吸苦。」「あと10分で到着します。」「了解。」「心電図とエコーの準備を。」「オペ室の確保も頼む。」処置室へ向かった」担架で運ばれてきた男性は、青ざめた顔をしていた」。痩せた体が、シーツの上で小刻みに震えていた」付き添ってきたのは、彼の妻だった」。「お父さん、お父さん。」「先生、お願いします。」「お願いします。」「奥さん、落ち着いてください。」「今見ますから。」俺は胸に超音波プローブを当てた」僧帽弁の閉鎖不全による心不全」。それも、かなり進んでいた」エコーの画像を見て、俺は息を飲んだ」総肺静脈の損傷が、想像以上に大きかった」このままでは、夜明けまで持たない」。「桐リ院長を呼んでくれ。」「緊急手術が必要だ。」「はい、すぐに。」院長室から駆けつけた桐リは、画像を見るなり顔色を変えた」。「山本先生、これは、うちでは無理ですよ。」「大学病院に転院しましょう。」「転送する時間はありません。」「救急車で1時間揺られたら、確実に心停止します。」「しかし、うちには十分な機材も、応援のスタッフも。」「機材はあります。」「私が確認しました。」「スタッフは、安井さんと麻酔の先生と私で足りる。」「先生、万が一のことがあったら、責任問題に。」「責任は私が取ります。」「患者を死なせるわけにはいかない。」俺の声に、桐リは黙り込んだ」。桐リは額の汗を拭い、ようやく頷いた」。「分かりました。」「先生にお任せします。」手術室に入る前、安井が小さな声で言った」。「先生、私、ついていきます。」「何があっても。」「ありがとう。」「頼りにしてる。」俺は手袋をはめながら軽く頷いた」。メスを握った瞬間、雑念は消えた」あの大学病院の理事会も、左遷の屈辱も、全てが遠くへ消えていった」。「血圧どうなってる?」「92の58、保ってます。」「いい、このまま行こう。」4時間に及ぶ手術だった」最後の縫合を終えた時、窓の外はもう白み始めていた」男性の心臓は、また規則正しく動き出していた」手術室を出ると、廊下の長椅子に妻が座っていた」俺の顔を見るなり、彼女は立ち上がり、深く頭を下げた」。「先生、ありがとうございます。」「ありがとうございます。」「ご主人は、もう大丈夫です。」「あとはゆっくり休ませてあげてください。」彼女の涙を見ながら、俺はふと、何かが胸の奥で動くのを感じた」ずっと凍っていたものが、わずかに溶けたような気がした」それから3日後の夕方だった」俺が病院の屋上で空を見上げていると、背後でドアの開く音がした」振り返ると、コートを着たまま真山が立っていた」。「失礼します。」「看護師さんに、こちらだと伺いまして。」「市長、こんなところに何の御用です。」「先日の男性のことで、お礼を申し上げに参りました。」「あの方、私の支援者でもあったんです。」風が彼女の髪を揺らした」。夕日がその横顔を赤く染めていた」真山は手すりに手を置き、町を見下ろした」。「先生、あの夜、院長を説得して手術に踏み切ってくださったと、安井さんから伺いました。」「医者として当たり前のことをしただけです。」「その当たり前をできる方は、多くありません。」しばらく二人とも黙っていた」。遠くで夕方のチャイムが鳴っていた」。「先生、一つお伺いしてもよろしいですか?」「どうぞ。」「先生は、なぜお医者様になられたのですか?」俺はすぐには答えられなかった」あの古い写真と、夏の約束が頭をよぎった」。「……守りたい人がいたんです。」「子供の頃に。」「けれど、結局守れなかった。」「せめて、他の誰かを守れる人間になりたいと。」「そう思って。」真山の横顔は動かなかった」。ただ長い睫毛が一度、ゆっくりと伏せられた」。「その方は、きっと先生に守られていたと思いますよ。」「そうでしょうか。」「ええ、私にはそう思います。」彼女の声に、何か特別な響きがあった気がした」俺は思わず、彼女の横顔を見つめた」彼女は夕日の方を向いたまま、こちらを見ようとはしなかった」。「先生、実は、お耳に入れておきたいことがあります。」「何でしょう?」「先生がこの町に来られた経緯について、私なりに少し調べさせていただきました。」「市長が、なんでそんなことを。」「この町の医療を預かるものとして、当然のことです。」「あの医療機器の件、理事長の鈴木さんとメーカーとの関係。」「表に出ていないことが、いくつかあるようです。」俺は驚いて彼女の顔を見た」真山はようやくこちらを向いた」。その目には、市長としての責任と、それ以上の何か、強い意思が宿っていた」。「先生、あなたを左遷した人たちが、ずっと正しいわけではありません。」「真実は、必ず出てきます。」「市長、なぜそこまで?」「この町の医師を守るためです。」「それ以上の理由は、今はまだ申し上げられません。」そう言って真山は静かに頭を下げた」彼女が去った後、屋上には風だけが残った」その夜、当直室で書類を整理していると、安井がコーヒーを持って入ってきた」。「先生、お疲れ様です。」「ありがとう。」「すまない、こんな時間まで。」「いえ、先生こそ。」「最近、お顔の色が良くなりましたね。」「そうかな?」「ええ、来られたばかりの頃は、もっと遠くを見ていらっしゃるようでした。」安井はコーヒーを机に置き、向かいの椅子に腰を下ろした」。「先生、市長さんのこと、伺ってもよろしいですか?」「何をだ?」「お二人、本当に初対面でいらっしゃったんですか?」俺は手を止めた」。「正直に言うと、分からない。」「昔、似た名前の子を知っていた。」「でも、確かめる勇気がない。」「確かめないままで、よろしいんですか?」「もし違ってたら、バカな話だ。」「もし会っていたら、私はその子に顔向けできない過去がある。」安井はしばらく黙っていた」。それからゆっくりと首を振った」。「先生、私は看護師として、たくさんの患者さんとご家族を見てきました。」「一番後悔するのは、いつも、言わなかった言葉なんです。」「言いすぎた言葉ではなく。」俺は黙って聞いた」。「市長さんも、きっと何かを抱えていらっしゃると思います。」「先生がご自分の足でもう一度立たれた時。」「その時が来るのかもしれませんね。」俺はコーヒーを一口飲んだ」。「ありがとう。」「少し考えてみる。」「はい。」「おやすみなさいませ。」安井が出ていった後、俺は机の引き出しから、古い写真を取り出した」痩せた女の子が、こちらを見て笑っていた」。その笑顔に、屋上で見た真山の横顔が、静かに重なった」それは雨の夜だった」受付から内線が入った」。「先生、お客様がいらしています。」「坂口様とおっしゃっていますが。」俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった」坂口」。あの理事会の日、一言も俺を庇わなかった男だった」。ロビーに降りていくと、傘の雫を床に落としながら、坂口が立っていた」。「山本、突然まらない。」「こんな夜に、東京からか。」「ああ、最終の特急に飛び乗った。」俺は彼を当直室に通し、安井に頼んで熱い茶を出してもらった」膝の上で、彼の指が微かに震えていた」。「山本、俺はお前に詫びに来た。」「あの日、俺は知っていたんだ。」「鈴木理事長があの医療機器メーカーから、多額の金を受け取っていたこと。」「お前の報告書が、その関係を壊しかねないことも。」「お前、知っていて、あの場にいたのか?」「ああ、知っていて黙っていた。」「次の教授ポストを約束されていたからだ。」坂口は湯飲みを置き、深く頭を下げた」。額が机にぶつかるほど、深かった」。「……お前を売った。」「一番売ってはいけない人間を、俺は売った。」窓を打つ雨の音だけが、二人の間にあった」。「顔を上げてくれ、坂口。」「山本。」「お前を恨んでいないとは言わない。」「だが、今更詫びに来たということは、何かを決めたんだろう。」坂口はゆっくりと顔を上げた」。「内部告発する。」「理事長にも、監督官庁にも。」「必要なら、週刊誌にもだ。」「証拠は揃えてある。」「お前、潰されるぞ。」「潰されてもいい。」「あの夜、お前が一人で部屋を出ていく後ろ姿を、俺はずっと忘れられなかった。」「あの背中を見送った夜から、俺は医者じゃなくなった気がしていた。」俺は黙って、坂口の湯飲みに茶を注いだ」。「坂口、一人でやらせる気はない。」「俺も、自分の名前で証言する。」「いいのか?せっかくこの町で落ち着き始めたんだろう。」「落ち着くために逃げてきたんじゃない。」坂口の目から、一筋の涙がこぼれた」それから一ヶ月後のことだった」。全国紙の朝刊に、大学病院理事長鈴木裕と医療機器メーカーとの癒着を報じる記事が載った」。署名記事の冒頭には、坂口の名前と俺の名前が並んで記されていた」地方総合病院の食堂は、その朝、いつになく騒がしかった」。新聞を広げた医師が、何度も俺の方を振り返った」桐リ院長が、トレイを持ったまま俺の前に立った」。「山本先生。」「委員長、ご迷惑をおかけします。」「いえ、そうじゃないんです。」桐リはトレイを置き、深く息を吸った」。「先生、私はね、ずっと組織が怖かった。」「理事会に睨まれることが、何より怖かった。」「ですが、先生があの夜、救急の男性を救ってくださった時、私は医者になった日のことを思い出したんです。」「……委員長。」「うちの病院、これからは先生のやり方でやってください。」「私も、もう逃げません。」桐リは不器用に頭を下げた」。俺は深く頭を下げ返した」午後、市役所から一台の車が病院に着いた」。真山が、自ら運転してきていた」。彼女は応接室に通されると、桐リと俺の前に一通の封筒を置いた」。「鈴木理事長の辞任が、本日付けで正式に発表されました。」「理事会は、山本先生への移動命令を謝罪であったと認めるそうです。」「では、山本先生は、大学病院への復帰を要請されています。」部屋の空気が一瞬止まった」桐リが口を半開きにしたまま、俺の顔を見た」。真山は、真っすぐに俺を見ていた」。「お話はありがたく伺います。」「ただ、返事は少し考えさせてください。」「ええ、お急ぎになる必要はありません。」桐リが席を外した後、応接室には俺と真山だけが残った」俺はずっと胸の奥にしまっていた言葉を、ようやく口にした」。「市長、一つ伺ってもいいでしょうか?」「はい。」「あなたは、真山ひさんですね。」「ええ、真山ひです。」「子供の頃、東京の病院で心臓の手術を受けた、真山ひさんですか?」真山の目が、ゆっくりと潤んだ」彼女は深く頷いた」。「気づいてくださって、ありがとうございます。」「先生がご自分の足でもう一度立たれるまで、待っていました。」「なぜ、すぐに名乗ってくれなかった?」「名乗れば、先生はきっとご自分を責められたと思います。」「守れなかったと。」「けれど、まこちゃん、私は守られていたんですよ。」「あの夏、あなたが約束してくれた言葉を、私はずっとお守りのように持っていました。」まひちゃんと、30年ぶりにその名で呼ばれた」。俺は応接室のソファに座ったまま、しばらく顔を上げられなかった」。翌朝、俺は院長室を尋ねた」。「院長、大学病院の話、お断りしようと思います。」「先生、本当によろしいんですか?」「ええ、この町に、まだ診たい患者がたくさんいます。」「それに、守りたいと思った人が、この町にいます。」桐リは目を真っ赤にして、何度も頷いた」。廊下に出ると、安井が薬剤のカートを押して歩いていた」。俺の顔を見て、彼女はカートを止めた」。「先生、今、院長から伺いました。」「すまない、勝手に決めて。」「いえ、先生らしいご決断だと思います。」安井は目尻にうっすら涙を浮かべて笑った」。「先生、言わなかった言葉より、言った言葉ですね。」「ああ、あなたのおかげだ。」「ありがとう。」その日の夕方、俺は屋上に上がった」。背後でドアが開く音がした」。振り返ると、今のコートの真山が静かに立っていた」。「先生、残ってくださると伺いました。」「ああ、ひ。」「今度こそ、ちゃんと守らせてくれ。」「ええ、よろしくお願いします、まこちゃん。」二人で並んで、手すりに手を置いた」。夕日が町を赤く染めていた」。俺たちは何も話さなかった」。長い、長い時間を隔てて、もう一度同じ夕日を見ていた。
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